1 名前のない少女
廃病院は、地図の上では存在していなかった。
正確には、建物そのものは存在している。
正面玄関は崩れ、窓ガラスは割れ、外壁には雨水が流れた跡が黒い筋となって残っている。敷地を囲むフェンスは錆び、入口には立入禁止の看板が傾いていた。
かつては地域の人々を受け入れていた医療施設だったらしい。
小児科。
内科。
外科。
産婦人科。
建物の外壁に残る古い案内板には、消えかけた文字が並んでいた。
しかし、奇妙なことに、病院の名前だけがなかった。
看板の中央には、名前を記すための空白がある。
文字が剥がれ落ちた跡すらない。
最初から、そこだけ何も書かれていなかったかのようだった。
「ここ、本当に病院だったんだよね?」
麗日お茶子が、崩れた入口を見上げた。
「記録上はね」
緑谷出久は手元の端末を確認しながら答えた。
「ただ、妙なんだ。建築許可も、医療法人の登録も、当時の職員名簿も残っている。なのに、病院名だけが全部の記録から抜け落ちている」
「病院名だけ?」
「うん。患者の診療記録にも、建物の所有権の記録にも、地図にも、全部同じ空白があるんだ」
「そんなこと、ある?」
「普通はないよ」
出久は端末を閉じた。
「でも、今まで僕たちが見てきた異常は、普通じゃなかった」
その言葉に、お茶子は反論しなかった。
安寧システム。
第一管理者。
観測者。
世界の外側から問いかける、名もない存在。
そして、死者たち。
これまで出久たちが遭遇した異常は、どれも単純な怪現象ではなかった。
誰かの願いがあった。
誰かの恐怖があった。
誰かが、自分の選択に耐えられなかった。
その結果、世界のほうが歪んでしまった。
ならば、この病院も同じなのだろうか。
「ねえ、出久くん」
お茶子は、入口の脇にある郵便受けを見た。
錆びついた金属板には、白い紙が一枚、挟まっていた。
紙は雨に濡れていない。
風にも揺れていない。
まるで、誰かがつい先ほど置いたばかりのようだった。
「これ……」
出久が手を伸ばす。
紙には、短い文章が書かれていた。
『三人で来てください』
その下に、もう一行。
『四人目を連れてきてはいけません』
「……三人?」
お茶子は出久を見た。
出久は紙を裏返した。
何もない。
「僕と麗日さんと、死神さん……かな」
「死神さんは、もう中にいるの?」
「え?」
出久が顔を上げた。
その瞬間、背後から声がした。
「いるよ」
二人が振り返る。
いつからそこにいたのか。
黒い衣服をまとった死神が、壊れたフェンスの向こう側に立っていた。
その姿は、いつもと変わらない。
だが、その視線だけが、病院の奥へ向けられていた。
「……何かいるんですか?」
出久が尋ねる。
死神は答えなかった。
代わりに、紙を見た。
『四人目を連れてきてはいけません』
そして、ほんのわずかに目を細める。
「なるほど」
「なるほど、って……何が?」
お茶子が尋ねると、死神はようやく二人を見た。
「これは招待状じゃない」
「じゃあ、何なんですか?」
「確認だ」
「確認?」
「ここに来た者が、何人いるのか。それを確かめるためのものだ」
出久は、紙に視線を落とした。
三人で来てください。
四人目を連れてきてはいけません。
一見すれば、人数を制限する警告だ。
だが、死神の言葉を聞くと、意味が変わる。
「……僕たちが、三人で来たかどうかを確認している?」
「違う」
死神は、病院の入口を見た。
「お前たちが、三人だと思っているかどうかを確認している」
その瞬間。
病院の奥から、子供の笑い声が聞こえた。
「こっちだよ」
少女の声だった。
「ねえ、早く来て」
「お母さんが、待ってるから」
出久の表情が変わった。
その声には、聞き覚えがあった。
いや。
正確には、聞き覚えがあるはずのない声だった。
以前、安寧システムの深層記録で聞いた声。
第一管理者が消去した娘の声に、よく似ていた。
お茶子も気づいたらしい。
彼女の手が、出久の袖を掴む。
「出久くん……」
「うん」
出久は息を整えた。
「行こう」
死神が二人の前に立つ。
「一つだけ、覚えておけ」
「何をですか?」
「ここで名前を呼ばれても、すぐに返事をするな」
「……どうして?」
死神は、静かに答えた。
「お前が自分の名前を覚えていることと、誰かがお前の名前を覚えていることは、同じではないからだ」
病院の入口が、ゆっくりと開いた。
誰も触れていないのに。
その向こうは、暗闇だった。
そして暗闇の中から、また少女の声が聞こえた。
「お兄ちゃん」
出久の足が、止まった。
「……今、何て?」
「お兄ちゃん」
声は、はっきりと繰り返した。
「ねえ。どうして、私の名前を忘れちゃったの?」
出久は答えられなかった。
なぜなら。
彼には、妹はいない。
少なくとも、彼が知る限りでは。
それなのに、その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
知らないはずの記憶が、扉の向こうから手を伸ばしてくる。
誰かが泣いている。
誰かが、出久を呼んでいる。
そして、出久は――その名前を思い出せないことに、耐えがたいほどの罪悪感を覚えた。
「緑谷」
死神が呼んだ。
「お前は、まだ何も失っていない」
出久は唇を噛んだ。
「……はい」
「だから、失ったことにされるな」
その言葉を最後に、三人は病院の中へ足を踏み入れた。
その瞬間、入口の看板に、文字が浮かび上がった。
病院の名前ではない。
そこに記されたのは、たった一つの文章だった。
『忘却管理施設』
そして、その文字の下に、小さな文字が続いていた。
『第零病棟――存在を失った者のための施設』
2 患者番号、零
病院の内部は、外観から想像できるほど荒れてはいなかった。
床に埃は積もっている。
壁紙は剥がれている。
天井には雨漏りの染みが広がり、廊下の蛍光灯は点滅していた。
だが、壁に掛けられた時計は、すべて同じ時刻を指していた。
午前零時。
止まっているのではない。
秒針だけが、動いていた。
十二時を指すたび、秒針は一周して、また同じ場所へ戻る。
そのたびに、廊下のどこかで、誰かが小さく息を吐いた。
「……気持ち悪いね」
お茶子が呟く。
「うん」
出久は壁に触れた。
冷たい。
ただの廃墟の温度ではない。
触れている指先から、何かが抜け落ちていくような感覚があった。
「出久くん、何してるの?」
「壁の材質を確かめようと思って」
「何かわかった?」
「わからない」
出久は手を離した。
「ただ……触った瞬間、母さんの声を思い出せなくなりかけた」
お茶子の顔から、表情が消えた。
「え?」
「一瞬だけだよ。今は思い出せる。でも、ほんの一瞬、母さんが僕をどう呼んでいたのか、わからなくなった」
出久は自分の手を見つめた。
母。
母親。
引子。
どの言葉も、意味としては理解できる。
しかし、彼が求めていたのは、意味ではなかった。
声だ。
自分を呼ぶときの声。
心配して、叱って、笑って。
何度も何度も、自分の名前を呼んでくれた声。
その声を思い出せなくなる。
それは、母親が死ぬこととは違う。
母親が生きていても、母親の存在を自分の中から失ってしまうということだ。
「ここでは、記憶が消されるの?」
お茶子が尋ねた。
死神は首を横に振った。
「少し違う」
「違う?」
「記憶を消すのではない。記憶に結びついた名前を切り離す」
出久は顔を上げた。
「名前を?」
「名前は、他人を呼ぶためだけのものではない。記憶を一つの存在へ結びつけるための、目印でもある」
死神は廊下を歩きながら続けた。
「母親の声を覚えている。手の温度を覚えている。食卓の匂いを覚えている。だが、そのすべてが誰のものだったのかを結びつける名前が失われたら?」
「……記憶は残るのに、誰の記憶なのかわからなくなる」
「そうだ」
「それって……」
お茶子は言葉を詰まらせた。
想像したくなかった。
大切な人の顔は覚えている。
声も覚えている。
一緒に過ごした日々も覚えている。
なのに、その人が誰だったのかだけがわからない。
自分が誰を愛していたのか。
誰を失ったのか。
誰のために泣いていたのか。
それらが、ばらばらになってしまう。
悲しみは残る。
しかし、悲しみを向ける相手がいなくなる。
「……それじゃあ、悲しみだけが残っちゃう」
お茶子の声が震えた。
死神は答えた。
「悲しみだけが残るなら、まだいい」
二人が死神を見る。
「悲しみさえ、誰のものかわからなくなる」
廊下の奥で、扉が開いた。
その向こうには、受付があった。
古びたカウンター。
倒れた椅子。
埃を被った書類。
そして、受付の中央に置かれた一台の端末。
画面は点灯していた。
『患者番号を入力してください』
その下には、三つの欄があった。
『氏名』
『生年月日』
『本人との関係』
お茶子が眉をひそめる。
「患者番号って……私たちのこと?」
「違う」
出久は画面を見つめた。
「たぶん、僕たちが探している人のことだ」
その瞬間、端末が勝手に操作された。
氏名欄に、文字が入力される。
最初の一文字。
次の一文字。
そして最後の一文字。
出久は息を呑んだ。
そこに表示された名前は、彼の知る人物の名前だった。
いや。
正確には、知っているはずの名前だった。
名前を見た瞬間、出久の頭の中で、誰かの姿が浮かびかける。
小さな背中。
白い病室。
握りしめた指。
そして、何かを伝えようとする唇。
だが、顔だけが見えない。
名前は読める。
それなのに、誰の名前なのかがわからない。
「……誰だ?」
出久は呟いた。
「僕は、この人を知っているのか?」
お茶子が画面を覗き込む。
そして、彼女も固まった。
「……私も」
「麗日さん?」
「この名前、知っている気がする。でも……」
お茶子は自分の胸元を押さえた。
「誰の名前なのか、わからない」
端末が、無機質な音を立てた。
『本人との関係を入力してください』
選択肢が表示される。
家族。
友人。
恋人。
恩人。
敵。
その他。
出久は指を伸ばした。
しかし、どれを選べばいいのかわからなかった。
家族なのか。
友人なのか。
それとも、自分が守れなかった誰かなのか。
そもそも、自分はその人物を守ろうとしたことがあったのだろうか。
「緑谷」
死神が呼んだ。
「触るな」
出久は手を止めた。
「でも、この人を調べないと……」
「名前を知ることと、名前を取り戻すことは違う」
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
死神は端末を見た。
その画面には、いつの間にか別の文字が表示されていた。
『本人との関係を選択してください』
『選択されない場合、本人との関係を永久に失います』
お茶子が息を呑む。
「そんなの……選べるわけないよ」
「選ばなければ、関係を失う?」
出久は画面を睨んだ。
「そんなの、選択じゃない。脅迫だ」
端末が、再び音を立てた。
『正しい選択をしてください』
出久は笑った。
笑うしかなかった。
「……まだ、そんなことを言うのか」
安寧システムと同じだった。
正しい選択をしろ。
間違えるな。
誰かを失わない選択をしろ。
誰も傷つかない選択をしろ。
そして、その選択ができなかった者に、責任を押しつける。
「誰が決めたんだよ」
出久は端末に向かって言った。
「誰が、この人との関係を選べって決めたんだ!」
画面が明滅する。
「家族か、友人か、恋人か。そんな分類を選ばなければ、その人との関係がなくなる? そんなの、違うだろ!」
端末が警告音を鳴らした。
『不適切な発言を検出しました』
「不適切で結構だ!」
出久は叫んだ。
「僕は、この人のことを知らないかもしれない! 誰なのか思い出せないかもしれない! でも、だからって、この人との関係を勝手に消されていい理由にはならない!」
その瞬間。
画面が真っ黒になった。
数秒後。
新しい文字が表示された。
『警告』
『患者番号零が、覚醒しています』
そして、受付の奥にある扉が開いた。
扉の向こうから、少女が現れた。
白い病衣。
裸足。
長い髪。
年齢は、十歳にも満たないように見えた。
少女は、出久とお茶子を交互に見た。
それから、死神を見た。
「……ああ」
少女は、小さく笑った。
「やっと、来てくれたんだ」
出久は、少女を見つめた。
どこかで会ったことがある。
そう思った。
だが、思い出せない。
名前も。
顔も。
声も。
ただ、胸の奥が痛かった。
少女は、出久の前まで歩いてきた。
そして、彼の顔を見上げた。
「お兄ちゃん」
その言葉に、出久の心臓が跳ねた。
少女は、泣きそうな笑顔で言った。
「今度は、私を忘れないでね」
3 忘れられた者たちの病室
少女は、自分の名前を言わなかった。
出久も、尋ねることができなかった。
尋ねた瞬間、何かを壊してしまう気がしたからだ。
少女は三人を病棟の奥へ案内した。
廊下の左右には、病室が並んでいた。
どの病室にも、患者がいる。
ベッドの上に横たわる老人。
窓辺で本を読む青年。
壁に向かって歌を歌う女性。
玩具を握りしめた幼い子供。
彼らは皆、生きているように見えた。
しかし、誰一人として、名前がなかった。
ベッド脇の名札は空白。
カルテの氏名欄も空白。
患者の腕に巻かれた識別バンドには、数字だけが記されていた。
零。
零。
零。
零。
どの患者にも、同じ番号がついていた。
「ここにいる人たちは……」
お茶子が、声を潜めた。
「全員、名前を失った人なの?」
少女は頷いた。
「うん」
「どうして?」
「忘れられたから」
あまりにも簡単な答えだった。
だからこそ、重かった。
「誰に?」
少女は首を傾げた。
「誰に、って?」
「家族とか、友達とか……誰かに忘れられたんでしょ?」
「ううん」
少女は、廊下の向こうを見た。
「みんなに」
お茶子は言葉を失った。
「最初は、一人だったの」
少女は語り始めた。
「お母さんが、私の名前を忘れた。次に、お父さんが忘れた。先生も、友達も、近所のおばさんも、みんな忘れた」
「……」
「でもね、みんな、私のことを嫌いになったわけじゃないんだよ」
少女は笑った。
「お母さんは、毎日泣いてた。どうして悲しいのかわからないのに、ずっと泣いてた。お父さんは、誰もいない部屋にお花を飾ってた。先生は、空っぽの机を見て、何度も出席を取ろうとしてた」
少女の声が、少しだけ震えた。
「みんな、私がいなくなったことを悲しんでいたの」
出久は、拳を握った。
「でも、誰も私を思い出せなかった」
少女は立ち止まった。
病室の扉に、手を触れる。
「それが、最初の患者さん」
扉の向こうには、老人がいた。
ベッドの上で目を閉じている。
老人の手には、一枚の写真が握られていた。
写真には、家族が写っている。
老夫婦と、若い男女。
その中央に、小さな女の子が立っていた。
老人は、写真を見つめながら呟いていた。
「……誰だったかな」
その声は、ひどく寂しかった。
「この子は、誰だったかな」
少女は答えた。
「お孫さん」
「そうか」
老人は頷いた。
「孫か」
そして、再び写真を見た。
「……でも、どうして私は、この子を見ると泣きたくなるんだろう」
少女は病室の扉を閉じた。
「この人は、お孫さんを忘れたの」
「……忘れたくて、忘れたわけじゃないんだね」
お茶子が呟いた。
「うん」
少女は答えた。
「誰かが、この人から、お孫さんの名前を奪ったの」
「誰かって……」
「わからない」
少女は首を横に振った。
「最初は、安寧システムがやったんだと思った。世界を安定させるために、矛盾を消しているんだって」
出久の表情が変わった。
「安寧システムを知っているの?」
「うん。でも、途中から違うってわかった」
「何が違ったの?」
少女は、病棟の天井を見上げた。
「安寧システムは、忘れさせるの」
「……」
「でも、あの人は違う」
少女は、誰もいない廊下の奥を指差した。
「忘れた人の名前を、どこかへ持っていくの」
その言葉に、死神が反応した。
「どこへ?」
少女は答えなかった。
代わりに、出久の手を取った。
「見せてあげる」
少女の手は冷たかった。
生きている人間の温度ではない。
だが、死体のような冷たさとも違う。
まるで、何年も誰にも触れられなかった記憶のような温度だった。
少女は三人を、病棟の最奥へ導いた。
そこには、地下へ続く階段があった。
階段の入口には、金属製の扉が設置されていた。
扉には、赤い文字が記されている。
『記憶保管庫』
『許可なき者の立入を禁ず』
そして、その下に。
誰かが、爪で引っ掻いたような文字があった。
『ここには、誰のものでもない名前が保管されている』
お茶子が呟いた。
「……誰のものでもない名前?」
「そう」
少女は頷いた。
「名前を忘れられた人たちは、ここへ来るの」
「ここへ来る?」
「ううん」
少女は、首を横に振った。
「連れてこられるの」
その瞬間、扉の向こうから音がした。
何かが、金属を叩いている。
一度。
二度。
三度。
そして、声。
「――開けて」
女性の声だった。
「お願い、開けて」
次に、男性の声。
「僕は、ここにいる」
子供の声。
「ママ、どこ?」
老人の声。
「誰か、名前を呼んでくれ」
何十人もの声が、扉の向こうから聞こえてきた。
お茶子は耳を塞ぎかけた。
しかし、塞げなかった。
声の一つ一つが、誰かの人生を背負っていたからだ。
「ここにいる人たちは……」
出久が呟く。
「全員、名前を奪われた人たちなのか」
少女は、静かに頷いた。
「うん」
「誰が奪ったんだ?」
少女は答えた。
「……私にも、わからない」
その声は、嘘ではなかった。
少女は本当に知らないのだ。
誰が自分の名前を奪ったのか。
誰が自分をここへ連れてきたのか。
誰が、自分を忘れさせたのか。
ただ一つだけ、知っていることがある。
少女は、扉を見つめたまま言った。
「名前を食べるものがいるの」
死神が、目を細めた。
「……名前を食べる?」
「うん」
少女は、胸に手を当てた。
「悲しみを食べるものとは、違うんだよ」
出久は息を呑んだ。
悲しみを食べる者。
それは、悲嘆に結びつく存在。
デス。
だが、名前を食べるものは、それとは別の何かだという。
「悲しみを食べるものは、悲しみをなくそうとする」
少女は言った。
「でも、名前を食べるものは、悲しみをなくそうとはしない」
「……じゃあ、何をするんだ?」
出久が尋ねる。
少女は、悲しそうに笑った。
「悲しんでいる人が、誰のために悲しんでいるのか、わからなくするの」
4 悲しみを奪わず、名前を奪う
「……デスとは、違う存在だな」
死神が言った。
その声音には、警戒があった。
少女は頷いた。
「うん」
「悲嘆は、失ったものに結びつく感情だ。だが、名前を奪うものは、その結びつきを断ち切る」
「どう違うんですか?」
出久が尋ねた。
死神は、扉に刻まれた文字を見つめた。
「悲しみを食べることは、悲しみを抱く者から、苦痛を引き受けることにもなり得る」
「……」
「だが、名前を奪うことは、苦痛の理由を消すことだ」
お茶子が顔を上げる。
「理由を?」
「大切な人を失ったから悲しい。その人を愛していたから、忘れられない。その人と過ごした時間があったから、喪失に意味が生まれる」
死神は、淡々と語った。
「名前を奪えば、その人の存在を思い出せなくなる。だが、悲しみが必ず消えるわけではない」
「……悲しい理由だけが、わからなくなる」
「そうだ」
出久は、病院の奥を見た。
「それって、安寧システムがやっていたことに似ている」
「似ているだけだ」
死神は即座に答えた。
「同じものだと決めつけるな」
出久は頷いた。
確かに、まだ何もわかっていない。
安寧システムは、矛盾を消すために記憶や選択を制限する。
だが、ここで起きていることは、それとは違う可能性がある。
システムの残滓かもしれない。
誰かがシステムの仕組みを利用しているのかもしれない。
あるいは、システムよりも前から存在する、別の何かなのかもしれない。
「……アザトースの痕跡は?」
出久が尋ねる。
死神は、わずかに視線を動かした。
「まだ、断定できない」
「でも、憂鬱に似たものを感じるんですよね?」
「感じることと、存在を確認することは違う」
死神は、はっきりと言った。
「悲嘆はデスに結びつく。憂鬱はアザトースに結びつく。だが、悲しみがある場所に、必ずデスがいるわけではない。同じように、希望を失った場所に、必ずアザトースがいるわけでもない」
出久は、その言葉を頭の中で反芻した。
悲嘆と憂鬱。
似ている。
だが、同じではない。
悲嘆は、誰かを失ったことへの痛み。
憂鬱は、何かを望むことそのものが、意味を失っていく感覚。
前者には、失ったものがある。
後者では、失ったものを探す力さえ、失われていく。
「……つまり、ここにあるものが憂鬱に見えたとしても、アザトースが関係しているとは限らない」
「そういうことだ」
死神は、扉に手を伸ばした。
触れる直前で止める。
「そして、デスもまた、ここで起きていることの犯人だと決めつけてはいけない」
お茶子が頷いた。
「悲しみを食べることと、名前を奪うことは違うんだね」
「違う」
死神は答えた。
「少なくとも、今のところはな」
扉の向こうから、再び声が聞こえた。
「――私の名前を返して」
今度は、少女の声だった。
目の前にいる少女と、同じ声。
お茶子が振り返る。
「……今の声、あなた?」
少女は、首を横に振った。
「違うよ」
「でも、同じ声だった」
「うん」
少女は、唇を噛んだ。
「私の名前を持っている人が、いるの」
出久の顔から血の気が引いた。
「名前を持っている?」
「そう。私の名前を食べた人がいる。だから、私には名前がない」
少女は、自分の胸元を握りしめた。
「でも、その人は私の名前を持っているのに、私のことを知らないの」
「……どういうこと?」
「名前だけを持っているから」
少女は、扉を見つめた。
「私の名前を知っている。でも、私が誰だったのかは知らない。私が何を好きだったのかも、何を怖がっていたのかも、誰を愛していたのかも知らない」
少女の目に、涙が浮かんだ。
「その人は、私の名前を持っているのに、私を覚えていない」
出久は、何も言えなかった。
名前とは何なのか。
人を呼ぶための音。
記録に残すための文字。
他者と自分を区別するための記号。
それだけではない。
名前は、誰かが自分を呼んでくれたという事実でもある。
誰かが、自分を必要としてくれたという記憶でもある。
そして、その名前を奪われたとき。
残された人は、誰を失ったのかさえ、わからなくなる。
「……その人を、探そう」
出久は言った。
少女が顔を上げる。
「え?」
「あなたの名前を持っている人を探す。名前を取り戻せるかどうかは、まだわからない。でも、少なくとも、その人が誰なのかを確かめよう」
少女は、じっと出久を見つめた。
「……どうして?」
「どうしてって……」
出久は、言葉を探した。
正しい答えはわからない。
名前を取り戻す方法もわからない。
少女を救えるという保証もない。
それでも。
「あなたが、ここにいるから」
出久は答えた。
「誰かに忘れられたとしても、誰かに名前を奪われたとしても、あなたがここにいることまで、なかったことにはできない」
少女の目が、大きく見開かれた。
「……本当に?」
「うん」
出久は頷いた。
「だから、あなたの名前を教えてほしい」
少女は、口を開いた。
何かを言おうとした。
しかし、声が出なかった。
彼女の唇が動く。
一文字。
二文字。
名前を形作ろうとする。
だが、そのたびに、言葉が消えていく。
少女は自分の喉を押さえた。
「……あれ?」
もう一度。
「私の……」
声が震えた。
「私の、なま……」
言葉が途切れた。
少女の顔が、恐怖に染まった。
「……どうして?」
彼女は、必死に口を動かした。
「どうして、言えないの?」
その瞬間。
病院全体が、低く唸った。
受付の端末が、遠くで警告音を鳴らす。
廊下の時計が、一斉に逆回転を始めた。
扉の向こうで、何十人もの声が叫ぶ。
「返して!」
「返してくれ!」
「私の名前を!」
「僕は、ここにいる!」
「誰か、覚えていてくれ!」
少女は、耳を塞いだ。
「やだ……」
彼女は震えながら、出久の服を掴んだ。
「お願い……もう、やめて……」
出久は少女を支えた。
「大丈夫だ。落ち着いて」
「違う……違うの……!」
少女は、泣きながら首を振った。
「私の名前が、また食べられちゃう……!」
その瞬間。
死神が振り返った。
廊下の奥。
暗闇の中に、何かが立っていた。
人の形をしている。
だが、顔がない。
目も、鼻も、口もない。
頭部には、顔があったはずの痕跡だけが残されている。
そして、その身体には、無数の名前が刻まれていた。
文字が、皮膚の上を這っている。
浮かんでは消え、消えては別の場所に現れる。
その存在は、歩いていなかった。
ただ、近づいていた。
廊下の距離が、少しずつ短くなっている。
まるで、世界そのものが、その存在のために道を縮めているかのようだった。
死神が、一歩前へ出た。
「……お前か」
顔のない存在は答えなかった。
その代わり、病院中の名前が、一斉に消えた。
5 ミッドナイトの教室
同じ頃。
雄英高校の一室で、ミッドナイトは一枚の資料を見つめていた。
そこには、過去数週間に起きた異常事例がまとめられている。
身元不明者の増加。
戸籍記録の不整合。
家族全員が、ある人物の存在だけを思い出せなくなる事例。
写真に写っている人物を認識できない現象。
そして、最も奇妙な事例。
「名前を覚えているのに、誰の名前なのかがわからない」
ミッドナイトは、ペンを置いた。
「……これは、記憶障害とは違うわね」
向かい側に座るホークスが、椅子の背にもたれた。
「ええ。普通の記憶障害なら、忘れるのは記憶そのものです。でも、今回の事例では、記憶が残っているケースがある」
「名前と記憶の結びつきだけが壊れている」
「そういうことです」
ホークスは資料を一枚めくった。
「最初は、安寧システムの残存機能を疑いました。実際、一部の事例ではシステムの旧式通信規格が検出されています」
「でも、全部じゃない」
「はい。通信経路が存在しない場所でも起きています。それに、システムの介入を示す痕跡がない事例もある」
ミッドナイトは、目を細めた。
「つまり、システムがやっているのか、それとも別の何かがシステムの仕組みを利用しているのか、まだわからない」
「その通りです」
ホークスは軽く肩をすくめた。
「わからないことだらけです。いやになりますね」
「あなた、わからないことが嫌いなの?」
「好きな人がいるんですか、そんなもの」
「少なくとも、あなたはわからないことを放置できない人間に見えるわ」
ホークスは、一瞬だけ笑みを消した。
「……放置した結果、取り返しのつかないことになるのを知っていますから」
その言葉に、ミッドナイトは何も返さなかった。
ホークスの過去を、彼女は知っている。
国家に管理され、期待され、利用されてきた少年。
正しい答えを出すことを求められ、正しい答えを出すために、正しくないことまで背負わされた男。
彼は自由を得たあとも、すべてを自分の責任にしようとする癖を捨てられない。
「ホークス」
「はい?」
「この件で、誰かを一人で背負おうとしないこと」
ホークスは、少しだけ目を丸くした。
「……先生みたいなことを言いますね」
「先生だから言っているのよ」
ミッドナイトは資料を閉じた。
「生徒が自分の人生を選ぶことと、大人がその選択を奪わないことは、別の話ではないわ。子供に選ばせるなら、選んだ結果を一緒に引き受ける覚悟も必要なの」
「……耳が痛いなあ」
「痛いなら、覚えておきなさい」
ミッドナイトは立ち上がった。
窓の外には、夕暮れの街が広がっていた。
一見すれば、何も変わっていない。
人々は歩き、車は走り、店の明かりが灯り始めている。
だが、街のどこかで、誰かの名前が消えている。
そして、消えたことを悲しむ人さえ、自分が何を失ったのかを思い出せなくなっている。
「……これは、単なる怪異じゃないわ」
ミッドナイトは言った。
「人間関係そのものを壊す現象よ」
ホークスが頷いた。
「ええ。だからこそ、厄介です」
「何が?」
「犯人を捕まえれば終わり、とは限らない」
ホークスは資料を指で叩いた。
「もし、誰かが意図的に名前を奪っているのなら、そいつを止めればいい。でも、名前が消える現象そのものが、世界の仕組みに組み込まれているのなら?」
ミッドナイトは、窓の外を見た。
「……その仕組みを変えなければならない」
「はい」
ホークスは立ち上がった。
「だから、調べます。誰がやっているのか。何のためにやっているのか。そして――」
彼は、少しだけ言葉を切った。
「忘れられた人たちは、本当に最初から存在しなかったのか」
そのとき、部屋の端末が鳴った。
ホークスが画面を確認する。
送信者は、公安の調査部門。
添付されていたのは、一枚の写真だった。
廃病院の内部を撮影したものらしい。
写真には、壁に刻まれた名前が写っている。
無数の名前。
その中央に、見覚えのある名前があった。
ミッドナイトの顔から、血の気が引いた。
「……そんな」
ホークスが顔を上げる。
「先生?」
ミッドナイトは、写真を見つめていた。
そこに記されていたのは、彼女が知っている名前だった。
過去に教えた生徒の名前。
もう卒業している。
今も、どこかで生きているはずの生徒。
その名前の横に、こう記されていた。
『この人物を覚えている者は、存在しない』
「……ホークス」
ミッドナイトの声が震えた。
「この子、今も生きているはずよ」
「……はい」
「それなのに、どうして、こんな記録があるの?」
ホークスは答えられなかった。
写真の端に、小さな文字があった。
『第四章・第零病棟』
そして、その下。
『次の患者、選定済み』
ミッドナイトは、ゆっくりと息を吸った。
「……急ぎましょう」
その声には、教師としての決意があった。
「この子が誰なのか、忘れられてしまう前に」
6 翼を持つ男と、炎の中に残った名前
「そこを動くな」
ホークスの声は、いつもの軽さを失っていた。
彼の目の前にいる男は、笑っていた。
青白い炎が、指先で揺れている。
「おいおい。ずいぶん物騒な挨拶だな、ホークス」
荼毘は壁にもたれ、わざとらしく両手を上げた。
「久しぶりに顔を見せてやったんだ。もう少し歓迎してくれてもいいんじゃないか?」
「歓迎してほしいなら、まず不法侵入をやめてくれません?」
「ここは俺の家じゃないぜ」
「だからって、雄英関係者の調査拠点に勝手に入っていい理由にはなりませんよ」
「へえ。まだヒーローごっこを続けてるのか」
荼毘の炎が強まった。
ホークスの背中で、赤い羽根が数枚浮かび上がる。
だが、二人とも攻撃しなかった。
ここで戦えば、調査資料が燃える。
それを荼毘も理解していた。
「用件を言え」
ホークスが告げる。
「名前の件だろ?」
荼毘は笑みを深めた。
「最近、妙な話を聞く。人間が一人消えても、誰も気づかない。記録が残っていても、その人物を誰も認識できない。家族が泣いてるのに、何を失ったのか思い出せない」
「どこで聞いた?」
「さあな」
「荼毘」
「お前に教える義理があるか?」
ホークスは、荼毘の顔を見つめた。
炎の揺らめきの向こうに、傷跡がある。
かつての名前を捨てた男。
いや、捨てたのではない。
その名前を持つ人間として生きることができなくなり、別の名前を選んだ男。
「……お前、自分の名前を覚えているか?」
荼毘の笑みが、ほんのわずかに止まった。
「は?」
「本名のことじゃない。今の名前でも、昔の名前でもいい。自分が何者なのか、ちゃんと覚えているかって聞いてるんです」
「くだらねえ」
荼毘は顔を背けた。
「名前なんか、ただの記号だ」
「なら、どうしてそんなに怒るんです?」
「……何?」
「自分の名前を呼ばれたとき、あなたはいつも怒っていた。呼ばれなかったときも、怒っていた。違いますか?」
青い炎が、爆ぜた。
「黙れ」
「呼ばれたいのか、呼ばれたくないのか。どちらにしても、名前がただの記号なら、そこまで反応する必要はない」
「黙れって言ってんだろうが!」
炎がホークスへ迫る。
赤い羽根が飛び、青い炎を横から切り裂いた。
火花が散る。
二人の距離が、数歩分だけ縮まった。
「……お前に、俺の何がわかる」
荼毘の声は、低かった。
ホークスは、すぐには答えなかった。
わかるとは言えない。
荼毘が経験した痛みを、ホークスが代わりに背負うことはできない。
彼の怒りが正しいかどうかを、ホークスが決めることもできない。
ただ。
「わからないですよ」
ホークスは言った。
「だから、聞いてるんです」
荼毘は、動かなかった。
「俺は、お前の過去を全部知ってるわけじゃない。お前が何を失ったのかも、何を望んでいたのかも、全部はわからない」
ホークスは羽根を下げた。
「でも、お前が何をしたのかは知ってる。お前の炎で傷ついた人がいる。お前の行動で人生を壊された人もいる。その事実は、名前を変えたって消えない」
荼毘の目が細くなる。
「……説教か?」
「いいえ。確認です」
ホークスは、資料を机に置いた。
「この現象は、名前を消す。お前が何をしたのかも、誰を傷つけたのかも、誰に憎まれていたのかも、全部曖昧にするかもしれない」
「それがどうした」
「お前は、それを望むのか?」
荼毘の炎が、止まった。
「自分を憎んでいる人間が、憎む理由を忘れる。お前を許さないと誓った人間が、誰を許さないつもりだったのかを忘れる。お前が傷つけた人間が、お前の名前を思い出せなくなる」
ホークスは、まっすぐ荼毘を見た。
「それでも、お前は復讐を続けたいのか?」
荼毘は、しばらく黙っていた。
やがて、喉の奥で笑った。
「……ああ」
答えは、短かった。
「俺がやったことは、俺がやったことだ。俺が誰を憎んでいたのかも、俺が何をされたのかも、俺が何をしたのかも。誰かに都合よく消されてたまるか」
彼は炎を消した。
「俺は、自分の名前を取り戻したいわけじゃない」
「……」
「俺が選んだ名前で、俺がやったことを背負う。それだけだ」
ホークスは、その言葉を聞いても、荼毘を許すとは言わなかった。
ただ、頷いた。
「なら、協力してください」
「断る」
即答だった。
「お前の命令を聞く気はねえ」
「命令じゃありません」
「同じだ」
「……そうですか」
ホークスは肩をすくめた。
「じゃあ、取引にしましょう」
荼毘が片眉を上げる。
「何を出す?」
「お前が持っている情報。こっちが持っている情報。交換です」
「俺に何の得がある?」
ホークスは、写真を一枚差し出した。
そこには、病院の壁に刻まれた名前が写っていた。
荼毘の視線が止まる。
「……これは」
「あなたの名前が記されていました」
「俺の?」
「正確には、あなたの本名です」
荼毘は写真を奪い取った。
そこには、確かに彼の本名があった。
その横に記された文字。
『この人物を覚えている者は、存在しない』
荼毘は笑わなかった。
怒りもしなかった。
ただ、写真を握りつぶしそうなほど強く掴んでいた。
「……誰が、こんなものを」
「それを調べています」
「ふざけんな」
青い炎が、指先に灯った。
「俺の名前を勝手に使って、勝手に消そうとしてんじゃねえ」
ホークスは静かに言った。
「だから、協力してほしいんです」
荼毘は長い沈黙のあと、写真をポケットにしまった。
「……一つだけ教えろ」
「何でしょう?」
「この名前を、誰が最初に書いた?」
ホークスは答えた。
「わかりません」
荼毘は舌打ちした。
「使えねえな」
「そこはお互い様でしょう」
荼毘は出口へ向かった。
しかし、扉の前で足を止める。
「ホークス」
「はい?」
「もし俺の名前を奪った奴が、俺の過去まで勝手に消そうとしているなら――」
彼は振り返らずに言った。
「そいつは、俺が燃やす」
扉が閉じた。
ホークスは、一人になった部屋で写真を見つめた。
そこに記された名前は、確かに荼毘のものだった。
しかし、その横にある文字は、彼だけの問題ではない。
もし、名前が消えれば。
過去も、罪も、被害者の記憶も、加害者の記憶も、同じように切り離される。
それは、誰かにとって救いになるかもしれない。
けれど、誰かにとっては、最後に残された証言を奪われることになる。
「……忘れることを、救いだと決めつけるわけにはいかないな」
ホークスは、次の連絡先を開いた。
今度は、敵連合に関する情報だった。
そこにもまた、名前の異常が現れていた。
7 壊したい男、忘れたくない少女
「ねえ、弔」
トガヒミコは、ソファの背もたれに顎を乗せた。
「もし、みんなが私のことを忘れちゃったら、どうする?」
死柄木弔は、ゲーム画面から目を離さなかった。
「どうもしねえ」
「えー。つまんない」
「お前は、どうするんだよ」
「私はねえ……」
トガは、少しだけ考えた。
「悲しいと思う」
「そうかよ」
「でも、誰も私のことを覚えてないなら、悲しんでいることもわからなくなっちゃうのかな?」
死柄木の指が止まった。
トガは笑っていた。
いつものように。
軽く、無邪気に。
だが、その問いは、彼女自身の胸に刺さっていた。
「私が誰かを好きだったことも、誰かに好きになってほしかったことも、全部なくなっちゃうのかな?」
「……知らねえよ」
死柄木はゲーム機を置いた。
「そんなこと、俺に聞くな」
「弔は、忘れられても平気?」
「平気だ」
「本当に?」
「うるせえな」
死柄木は頭を掻いた。
「忘れられるのが嫌なら、忘れられないくらいぶっ壊せばいい」
トガは、ぱちぱちと瞬きをした。
「……それ、弔らしいね」
「何だよ」
「でも、壊しちゃったら、覚えてくれる人もいなくなっちゃうかもしれないよ?」
死柄木は答えなかった。
その可能性を、考えたことがなかったわけではない。
破壊すれば、誰かが自分を覚える。
恐怖によって。
憎悪によって。
傷跡によって。
だが、破壊されたものは、元には戻らない。
誰かが自分を覚えていたとしても、その記憶が何で満たされているかは、自分では選べない。
「……お前、最近うるせえぞ」
「えへへ」
「褒めてねえ」
「知ってる」
トガは笑った。
その隣で、トゥワイスが両手を上げた。
「おいおい! 俺の名前が消えたらどうするんだ? 最高だな! いや最悪だ! 俺が俺じゃなくなる! いや、俺は俺だろ!」
「うるせえ」
死柄木が言った。
「ごめん! 謝らない! 俺は悪くない! いや、悪いかもしれない!」
トゥワイスは頭を抱えた。
しかし、その声はいつもより小さかった。
「……なあ、トガちゃん」
「なあに?」
「もし、俺が俺じゃなくなったら、俺のこと、どうする?」
トガは、笑うのをやめた。
「どういうこと?」
「俺の名前を忘れたらさ。俺のことを忘れたらさ。俺が誰だったのか、わからなくなったら……」
トゥワイスは、顔を覆った。
「それでも、俺は俺なのかな」
誰も答えなかった。
トゥワイスは、自分が誰なのかという問いに、何度も苦しめられてきた。
自分の記憶を信じられない。
自分の存在を確かめるために、他人の言葉を必要とする。
自分は本物なのか。
自分は自分なのか。
誰かが自分を否定するたび、その問いは深くなる。
そして今、世界そのものが、その問いを突きつけてきた。
名前を忘れられたら。
誰も自分を覚えていなかったら。
それでも、自分は自分なのか。
トガは、トゥワイスの隣へ移動した。
「私は、忘れないよ」
「……本当か?」
「うん」
「絶対か?」
「絶対」
トガは、彼の袖を掴んだ。
「だって、私はあなたが好きだもん」
トゥワイスは、顔を上げた。
「……好き?」
「うん。トゥワイスはトゥワイスだよ。何人に分かれても、何を言っても、どれだけ変なことをしても」
トガは笑った。
「私が好きになったトゥワイスは、トゥワイスだもん」
トゥワイスの目に、涙が浮かんだ。
「……そうか」
「うん」
「俺は本物か?」
「本物だよ」
「俺は偽物か?」
「偽物じゃないよ」
「俺は俺だ!」
「そうだよ!」
「俺は俺じゃない!」
「もう、どっちなの!」
トガが笑う。
トゥワイスも、泣きながら笑った。
その光景を見ながら、死柄木は何も言わなかった。
彼らは危険だ。
犯罪者だ。
人を傷つけてきた。
その事実は変わらない。
だが、彼らの間にあるものまで、嘘だと決めつけることはできない。
世界が名前を奪うのなら。
名前を奪われた者たちが、互いを覚えていることに、どれほどの意味があるのか。
死柄木は、ふと自分の手を見た。
かつて、彼は自分の家族を壊した。
自分の過去を、憎悪で覆い隠した。
その憎悪が、彼を生かしていた。
もし、家族の名前が消えたら。
自分が誰を失ったのか、わからなくなったら。
自分は、何を壊せばいいのだろう。
「……くだらねえ」
死柄木は呟いた。
「全部、くだらねえ」
トガが顔を上げた。
「弔?」
「名前がなきゃ存在できねえだと? 誰かが覚えてなきゃ、生きてることにならねえだと?」
死柄木の指先が、ソファの表面を掻いた。
「そんな世界なら、最初から壊れてる」
その瞬間、部屋の端末が鳴った。
死柄木が画面を見る。
そこには、一つの名前が表示されていた。
彼が知っているはずの名前。
彼が、かつて何度も呼んだはずの名前。
なのに、その名前を見た瞬間、記憶の一部が白く抜け落ちた。
「……何だ、これ」
死柄木は画面を凝視した。
「弔?」
トガが近づく。
「どうしたの?」
「……わからねえ」
死柄木は、自分の頭を押さえた。
「誰だ、こいつ」
画面には、短い文章が表示されていた。
『あなたが最も忘れたくない人物の名前を入力してください』
その下に、空白の欄。
死柄木は、息を止めた。
自分が最も忘れたくない人物。
そんなものが、あるのだろうか。
あるはずがない。
自分は、すべてを壊すために生きている。
過去も、現在も、未来も。
誰かとの絆も。
自分を縛るものも。
すべて。
それなのに。
画面を見た瞬間、胸の奥に、名前を呼びたいという衝動が生まれた。
誰かの名前を。
もう二度と戻らない誰かの名前を。
「……くそっ!」
死柄木は端末を叩き壊した。
画面が砕ける。
火花が散る。
トガが息を呑んだ。
トゥワイスが立ち上がる。
「おい! 何があった! 何もなかった! いや、何かあっただろ!」
死柄木は、壊れた端末を見下ろした。
「……俺は」
声が震えた。
「俺は、何を忘れた?」
誰も答えられなかった。
壊れた画面の奥で、文字が一瞬だけ浮かび上がった。
『患者番号零』
そして、消えた。
8 名前を集める男
「実に興味深い」
オール・フォー・ワンは、報告書を読み終えると、静かに笑った。
彼の前には、複数の画面が並んでいた。
安寧システムの残存記録。
公安の内部資料。
雄英高校の調査データ。
そして、誰もアクセスした覚えのない、正体不明の記録。
それらは互いに異なる情報源から集められていた。
だが、すべての資料に、一つの共通点があった。
名前。
名前が失われている。
名前が記録されている。
名前が存在しているのに、誰もその人物を認識できない。
「人間という生き物は、名前にずいぶんと執着するものだ」
彼は指先で机を叩いた。
「名を与えられることで、自分が存在していると信じる。名を呼ばれることで、自分が誰かに認識されていると確かめる。実に脆弱な構造だ」
彼にとって、名前は道具だった。
他者を区別するための記号。
恐怖を植えつけるための呼称。
支配する対象を分類するための情報。
必要ならば、他人の個性を奪う。
必要ならば、他人の人生を利用する。
名前など、いくらでも変えられる。
だが。
今回の現象は、彼の知る支配とは異なっていた。
個性を奪うのではない。
身体を奪うのでもない。
記憶を消すのでもない。
名前だけを切り離し、その人が誰だったのかという関係そのものを、世界から失わせている。
「これは、個性の作用ではない」
彼は断言した。
「少なくとも、単純な個性ではない」
側近が尋ねた。
「では、どうなさいますか?」
オール・フォー・ワンは、画面の一つを拡大した。
そこには、病院の記録が映し出されている。
『忘却管理施設』
『第零病棟』
『患者番号零』
「調査しろ」
「施設の場所は特定できておりません」
「ならば、場所を特定する方法を探せ」
「承知しました」
側近が頭を下げる。
オール・フォー・ワンは、別の資料を開いた。
そこには、八つの分類が並んでいた。
傲慢。
強欲。
色欲。
虚飾。
嫉妬。
暴食。
怠惰。
悲嘆。
そして、その外側に、別の記号がある。
憂鬱。
「……八つの欲望だけでは説明できない、ということか」
彼は、興味深そうに呟いた。
「悲嘆は、失ったものを求める。憂鬱は、求めることそのものを諦めさせる。似ているようで、異なる」
その違いを、彼は理解していた。
理解しているからこそ、利用できると考えた。
悲しみを与えれば、人間は何かを求める。
希望を見せれば、人間はその希望にすがる。
そして、希望を奪えば、絶望する。
だが、名前を奪われた人間はどうなるのか。
誰を失ったのかもわからないまま、悲しみだけを抱え続ける人間は。
「……もし、この現象を制御できれば」
彼は微笑んだ。
敵の名前を奪う。
味方の名前を残す。
誰かの記憶から、自分にとって都合の悪い存在を消す。
あるいは、自分だけが知る名前を独占する。
それは、個性を奪うことよりも深い支配になり得る。
しかし、彼はまだ知らなかった。
名前を奪う存在が、何を目的としているのか。
そして、名前を集めた先に何があるのか。
画面が明滅した。
見覚えのない文字が、画面の中央に浮かび上がる。
『あなたは、何を忘れたくないのですか?』
オール・フォー・ワンは、笑った。
「質問する相手を間違えているな」
彼は、指先で文字をなぞった。
「私は、忘れる必要がない」
その瞬間。
画面に、もう一つの文章が表示された。
『それでは、なぜ、すべてを手元に置こうとするのですか?』
オール・フォー・ワンの指が止まった。
笑みは消えなかった。
だが、その目だけが冷たくなった。
「……誰だ」
画面は答えない。
代わりに、彼の知らない名前が、一つずつ表示され始めた。
何百。
何千。
何万。
そのすべてが、彼の所有物ではなかった。
彼が奪った個性の持ち主でもない。
彼が支配した人間でもない。
彼が知っているはずのない名前だった。
そして、その最後に。
一つだけ、空白があった。
『あなたが、最も恐れている名前』
オール・フォー・ワンは、画面を閉じた。
一瞬の判断だった。
あまりにも速く。
まるで、そこに表示される文字を、見たくなかったかのように。
「……くだらない」
彼は呟いた。
「人間の感傷に、私が付き合う必要はない」
しかし、画面を閉じたあとも。
その空白だけが、彼の頭から離れなかった。
彼は、すべてを手元に置いてきた。
個性も。
人間も。
情報も。
力も。
他人の人生さえも。
失わないために。
奪われないために。
誰かに自分の未来を決められないために。
だが、もし。
自分が何を失うことを恐れているのか、その名前さえ思い出せなくなったら。
そのとき、自分は何を守ろうとするのだろう。
オール・フォー・ワンは、笑みを深めた。
「……見つけてやろう」
誰に向けた言葉なのか。
彼自身にも、わからなかった。
「名前を集めるものがいるのなら、そいつを見つけ出す。そして、その力を私のものにする」
彼は、椅子から立ち上がった。
「世界が人間の名前を奪うのなら――その世界の仕組みごと、奪えばいい」
その言葉を、誰も聞いていなかった。
ただ、閉じられた画面の向こうで。
空白だったはずの欄に、ほんの一瞬だけ、文字が浮かび上がった。
それは、オール・フォー・ワンが忘れた名前ではなかった。
彼が、まだ一度も知らない名前だった。
9 ギャラティカが見つけたもの
「この記録、最初から存在していなかったことになっている」
ギャラティカは、解析画面を睨んでいた。
机の上には、複数の記録媒体が並んでいる。
病院の古い診療記録。
行政機関の登録情報。
安寧システムの残存データ。
そして、世界の異常を検出するために用意された観測記録。
どれも、同じ一点で食い違っていた。
「記録が改竄されたわけではない」
ギャラティカは、独り言のように続けた。
「改竄なら、書き換えられた痕跡が残る。消去なら、消去された痕跡が残る。だが、これは……」
指先が止まる。
「記録が作成された時点から、その人物が存在しなかったことになっている」
一見すると、単純な矛盾だった。
だが、矛盾の規模が大きすぎる。
ある人物の名前が消えている。
それだけなら、誤記や記録漏れで説明できる。
しかし、今回の現象では、その人物に関わる記録のすべてが、最初から存在しなかったように整合している。
写真には、その人物が写っていない。
映像には、その人物の声がない。
日記には、その人物について書いたはずの文章がない。
それなのに、残された人々は、理由もわからず悲しんでいる。
世界は、失われた人物を記録から消しただけではない。
その人物が存在しなかった世界のほうを、正しい現実として成立させている。
「……安寧システムに似ている」
ギャラティカは、別の解析画面を開いた。
「だが、完全に同じではない」
安寧システムは、矛盾を排除するために、現実を一つの正解へ近づけていた。
一方、この現象では、矛盾が消されたあとも、感情だけが残っている。
泣く理由がわからない人。
誰かを待っていることだけは覚えている人。
空っぽの部屋を片づけられない人。
知らない名前を見て、胸が痛む人。
現実は整合している。
しかし、人間の心は整合していない。
「……つまり、完全な消去ではない」
ギャラティカは、画面を拡大した。
「何かが残っている」
その瞬間、解析装置が警告音を発した。
画面に、新しいデータが現れる。
それは、通常の情報とは異なっていた。
文字列ではない。
画像でもない。
音声でもない。
それなのに、装置はそれを一つの記録として認識している。
ギャラティカは、慎重にデータを開いた。
画面に、短い文章が浮かび上がった。
『名前は、誰のものですか?』
ギャラティカは眉をひそめた。
「……質問か」
その下に、別の文章が現れる。
『呼んだ者のものですか?』
さらに、続く。
『呼ばれた者のものですか?』
『記録した者のものですか?』
『覚えている者のものですか?』
『忘れた者のものですか?』
最後に、一行。
『誰も覚えていない名前は、誰のものですか?』
ギャラティカは、答えなかった。
答えられなかったのではない。
その問いに、安易な答えを与えるべきではないと判断したのだ。
名前は、誰かがつける。
だが、名前をつけた者が、その人間の人生を所有するわけではない。
名前を呼ぶ者がいる。
だが、呼ぶ者がいなくなったからといって、その人間の人生が消えるわけでもない。
名前を記録する者がいる。
だが、記録が失われたからといって、過去の出来事がなかったことになるわけでもない。
ならば。
誰も覚えていない名前は、誰のものなのか。
「……本人のものだ」
ギャラティカは、静かに答えた。
画面が明滅した。
『本人とは、誰ですか?』
「名前を奪われる前に存在していた人間だ」
『その人間が、自分の名前を忘れていた場合は?』
ギャラティカは沈黙した。
画面に、さらに文字が浮かぶ。
『その人間が、自分の名前を望まなかった場合は?』
『その人間が、別の名前を選んだ場合は?』
『その人間が、誰にも呼ばれなかった場合は?』
ギャラティカは、画面を見つめた。
質問が、次々と続いていく。
どれも、答えを求めているように見えた。
だが、何かが違う。
これは、答えを求めるための質問ではない。
相手が答えを出そうとするたび、その答えが成立しない条件を提示している。
正解を探す者に、正解を出せないことを証明させようとしている。
安寧システムと似ている。
しかし、安寧システムが求めたのは、一つの正解だった。
この質問は、正解そのものを疑っている。
「……お前は、誰だ?」
ギャラティカは、画面に向かって尋ねた。
返事はなかった。
代わりに、最後の一行が表示された。
『私は、名前を持っていません』
ギャラティカは、息を止めた。
『だから、あなたに名前をください』
画面が消えた。
解析装置が、完全に沈黙する。
ギャラティカは、しばらく動かなかった。
名前を持たない存在が、名前を求めている。
それだけなら、珍しい話ではない。
だが、この存在は違う。
自分の名前を求めているのか。
誰かの名前を奪うために、名前を求めているのか。
それとも、名前という概念そのものを理解するために、問いかけているのか。
判断できない。
「……これは、誰かが仕掛けた罠なのか」
ギャラティカは、記録を保存しようとした。
しかし、保存先を選択した瞬間、画面が再び点灯した。
『記録しますか?』
ギャラティカは、操作を止めた。
『記録すれば、名前が与えられます』
『記録しなければ、名前は失われます』
『あなたは、どちらを選びますか?』
ギャラティカは、ゆっくりと息を吐いた。
選ばせる。
また、選ばせるのか。
記録するか。
しないか。
名前を与えるか。
与えないか。
まるで、どちらを選んでも、誰かが何かを失うように設計されている。
「……選ばない」
ギャラティカは、画面を閉じた。
「今は、まだ」
保存も、削除もしない。
名前も、与えない。
判断を先送りにすることは、必ずしも逃げではない。
情報が不足しているときに、無理に決断を下せば、取り返しのつかない結果を生むことがある。
画面は、何も返さなかった。
ギャラティカは、記録媒体を取り出し、物理的に隔離した。
そして、端末に新しい警告を入力する。
『未知の存在による命名誘導の可能性』
『安寧システムとの関連は未確定』
『悲嘆、憂鬱との関係も未確定』
『名前の付与・消去を安易に実行しないこと』
最後に、もう一行を追加した。
『対象を、現時点で敵と断定しない』
入力を終えたとき、端末の隅に小さな文字が浮かんだ。
誰にも気づかれないほど短い時間。
『ありがとう』
ギャラティカは、その文字を見た。
そして、端末の電源を落とした。
「……礼を言われる筋合いはない」
そう呟いたものの。
彼は、先ほどの記録を消去しなかった。
10 その名前を呼んだのは誰だったのか
忘却管理施設。
第零病棟。
名前のない存在が、廊下の中央に立っていた。
その身体には、無数の名前が刻まれている。
だが、どの名前も長くは留まらない。
一つの名前が浮かび上がる。
次の瞬間、別の名前に置き換わる。
文字が身体を這い、胸元へ集まり、やがて顔のない頭部へと流れていく。
名前を食べている。
そう表現するしかなかった。
しかし、存在は口を持っていない。
名前を飲み込むための器官もない。
それでも、名前は消えていく。
「……お前は、何を求めている?」
死神が尋ねた。
存在は答えない。
死神は、一歩近づいた。
「名前か?」
沈黙。
「それとも、名前を持つ者か?」
存在の身体に刻まれた文字が、一斉に動いた。
その中の一つが、死神の目の前に浮かび上がる。
『デス』
死神は、動かなかった。
その名前を見て、存在が何かを伝えようとしていることは理解できた。
だが、敵意があるのかどうかはわからない。
自分の名前を示しているのか。
死神の名前を示しているのか。
それとも、名前という概念を並べているだけなのか。
「……私の名を知っているのか」
存在は答えない。
文字が変わる。
『悲嘆』
死神は、目を細めた。
「違う」
その言葉に、出久とお茶子が顔を上げた。
「悲嘆は、私の名ではない」
死神は続けた。
「私は、悲嘆そのものではない。悲嘆に結びつく存在だ。悲しみを抱く者の人生を、私の所有物にするつもりはない」
文字が、再び変わった。
『では、誰のものですか?』
死神は答えなかった。
その問いは、ギャラティカが見たものと同じだった。
名前は、誰のものなのか。
悲嘆は、誰のものなのか。
人が失ったものは、誰のものなのか。
そして、誰かを失った悲しみを、誰かが勝手に取り上げる権利はあるのか。
死神は、少女を見た。
少女は、出久の服を握りしめていた。
名前を奪われた少女。
誰かに忘れられた少女。
それでも、ここにいる少女。
死神は、静かに言った。
「……本人のものだ」
顔のない存在が、動きを止めた。
「誰が忘れようと。誰が記録から消そうと。誰が名前を持ち去ろうと。本人が生きた時間まで、他人の所有物になるわけではない」
存在の身体に、亀裂のようなものが走った。
刻まれた名前が、いくつも剥がれ落ちる。
落ちた文字は、床に触れる前に消えた。
出久が叫ぶ。
「死神さん、危ない!」
しかし、死神は動かなかった。
「お前は、何を恐れている?」
存在は、答えない。
「名前を失うことか?」
沈黙。
「名前を与えられることか?」
存在の身体が、わずかに震えた。
「それとも――」
死神は、顔のない存在を見つめた。
「誰かに、お前自身を覚えられることか?」
その瞬間。
廊下のすべての時計が、止まった。
午前零時。
秒針が、動かなくなる。
病室の患者たちが、一斉に目を開いた。
老人が、写真を握りしめる。
青年が、本を閉じる。
女性が、歌をやめる。
子供が、玩具を落とす。
そして、全員が同時に、同じ言葉を口にした。
「……おかえり」
出久は、息を呑んだ。
「誰に、言ってるんだ……?」
誰も答えなかった。
顔のない存在が、ゆっくりと腕を上げた。
その指先が、少女へ向かう。
少女は、震えた。
「……いや」
出久が前に出る。
「やめろ!」
彼は少女を背中に庇った。
「この子に何をするつもりだ!」
存在は、出久を見ているようだった。
顔がないのに、視線を感じる。
その身体に刻まれた名前が、一つずつ消えていく。
やがて、胸元に最後の名前が浮かんだ。
それは、少女の名前だった。
出久は、その文字を読んだ。
読めた。
確かに、読めたはずだった。
だが、読み終えた瞬間、その名前は頭の中から消えた。
文字は残っている。
目の前にある。
なのに、意味がわからない。
出久は、自分の頭を押さえた。
「……何だ、今の」
お茶子も、顔を歪めていた。
「出久くん……私も、今……」
少女が叫んだ。
「だめ!」
彼女は、顔のない存在へ向かって走ろうとした。
出久が腕を掴む。
「待って!」
「返して!」
少女は泣き叫んだ。
「それは、私の名前なの!」
存在の身体に刻まれた文字が、最後の一つまで消えた。
顔のない頭部に、空白が広がる。
そして、何もない場所から。
声が聞こえた。
「……あなたの名前は、誰が覚えているの?」
少女が、立ち止まった。
その声は、少女自身の声だった。
「お母さん?」
少女は呟いた。
「……お母さんなの?」
返事はない。
ただ、廊下の奥から、別の声が聞こえた。
「ごめんね」
女性の声。
泣いている声。
「ごめんね……ごめんね……」
少女の目から、涙が溢れた。
「……お母さん!」
彼女は、声のほうへ走り出した。
出久が追いかけようとする。
だが、死神が腕を伸ばして制した。
「待て」
「でも!」
「今、追いかければ、戻れなくなる」
「どうしてですか!」
死神は、廊下の奥を見つめた。
「声が、少女の名前を呼んでいない」
出久は、言葉を失った。
確かに。
声は、謝っている。
泣いている。
少女を求めているように聞こえる。
だが、その名前を呼んでいない。
「……それじゃあ、あれは」
「母親の記憶かもしれない。少女の記憶かもしれない。誰かが作った偽物かもしれない」
死神は言った。
「まだ、何もわからない」
廊下の奥で、少女の姿が消えた。
その瞬間、病院の壁に刻まれていた無数の名前が、一斉に浮かび上がった。
そして、壁から剥がれ落ちる。
文字は空中を漂い、渦を巻き、廊下の天井へ吸い込まれていく。
出久は手を伸ばした。
「待って!」
だが、名前は届かない。
一つ。
また一つ。
誰かが生きた証が、目の前から消えていく。
「……そんな」
お茶子の声が震えた。
「名前が、全部……」
最後の文字が消えた。
壁は、真っ白になった。
病室の扉から、名札が落ちる。
端末の記録が消える。
患者の腕から、識別バンドが外れる。
そして、ベッドの上にいた人々が、一斉に目を閉じた。
誰も動かない。
誰も声を上げない。
まるで、最初から誰もいなかったかのように。
「……これが、名前を奪うということか」
出久は、呟いた。
死神は、答えなかった。
ただ、床に落ちていた一枚の紙を拾い上げた。
そこには、文字が一つだけ残っていた。
『零』
それ以外は、何もない。
名前ではない。
人を呼ぶための文字でもない。
ただ、番号だけが残されている。
死神は、その紙を握りしめた。
「……まだ、終わっていない」
その言葉を聞いたとき。
出久の頭の中で、声がした。
『お兄ちゃん』
知らないはずの声。
忘れたはずの声。
いや。
そもそも、最初から知らなかったのかもしれない声。
『私を、見つけて』
出久は顔を上げた。
誰もいない廊下の奥。
そこに、一瞬だけ少女の姿が見えた。
彼女は泣いていた。
しかし、その口元には、笑みが浮かんでいた。
そして、彼女は言った。
『今度は、私の名前を、あなたが決めてね』
姿が消える。
出久は、動けなかった。
名前を取り戻したいと願った少女が。
自分の名前を、誰かに決めてほしいと言った。
その矛盾が、胸に刺さった。
名前を奪われることは、苦しい。
だが、名前を与えられることもまた、時に誰かの意思を縛る。
ならば。
誰かに名前を与えることは、救いなのか。
それとも、別の形の支配なのか。
出久には、まだ答えがなかった。
そして、その答えを急いではいけないことだけは、わかっていた。
11 世界の外側で、誰かが問いかける
病院を出たとき、夜が明けていた。
いつの間にか、空は白み始めていた。
だが、出久たちが病院の中で過ごした時間は、時計の上ではわずか数分しか経っていなかった。
入口の看板には、再び何も書かれていない。
『忘却管理施設』という文字は、消えていた。
郵便受けに挟まれていた紙も、なくなっている。
そこには、ただ、錆びた金属板があるだけだった。
「……本当に、あったんだよね」
お茶子が呟いた。
「うん」
出久は答えた。
「少なくとも、僕たちは確かに中へ入った」
「でも、記録は?」
「消えているかもしれない」
「……そっか」
お茶子は、空を見上げた。
「なんか、怖いね」
「うん」
出久は、自分の手を見た。
少女の手の冷たさが、まだ残っている気がした。
名前を思い出せない。
顔も、声も、曖昧になり始めている。
それでも、彼女が自分を「お兄ちゃん」と呼んだことだけは、覚えていた。
そして、彼女が泣いていたことも。
「……僕たち、あの子を助けられなかった」
出久の言葉に、お茶子はすぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「うん」
否定しない。
大丈夫だとも言わない。
助けられなかった事実を、簡単な言葉で覆い隠さない。
それでも、お茶子は続けた。
「でも、まだ終わってないよ」
出久が顔を上げる。
「名前は思い出せなくても、あの子がいたことは覚えてる。あの子が助けてほしいって言ったことも、覚えてる」
お茶子は、出久の手を握った。
「それなら、もう一度探せるよ」
出久は、目を閉じた。
少女の名前はわからない。
どこへ行ったのかもわからない。
誰が名前を奪ったのかもわからない。
だが、彼女が存在したことまで、なかったことにはしない。
「……うん」
出久は頷いた。
「探そう」
そのとき、死神が足を止めた。
「どうしたんですか?」
出久が尋ねる。
死神は、遠くの空を見ていた。
雲の向こうに、何かがある。
そう感じているようだった。
「……また、問いかけが来ている」
「世界の外側から?」
「そうだ」
出久は、息を呑んだ。
世界の外側。
名もない存在。
願いから生まれたという世界。
そして、誰にも名前を与えられていない何か。
「……あれが、今回の事件の犯人なんですか?」
「わからない」
死神は即答した。
「関係があるかもしれない。ないかもしれない。少なくとも、今の段階で断定する理由はない」
その言葉は、出久にとって重要だった。
謎が現れるたび、一つの答えに結びつけたくなる。
安寧システムが関係しているのではないか。
デスが悲しみを食べているのではないか。
アザトースの憂鬱が世界を覆っているのではないか。
外側の存在が、すべてを仕組んでいるのではないか。
だが、似ているものを同じだと決めつければ、見えなくなるものがある。
悲嘆と憂鬱は違う。
名前を奪うことと、悲しみを食べることも違う。
そして、世界の外側にいる存在が問いかけているからといって、その存在がすべての異常を引き起こしたとは限らない。
「……じゃあ、何をすればいいんですか?」
出久は尋ねた。
死神は答えた。
「問いを、問いのまま持ち帰る」
「答えを出さずに?」
「答えを出せるだけの情報がない」
死神は、病院を振り返った。
「答えを急げば、誰かの人生を、こちらの都合で決めることになる」
出久は、静かに頷いた。
その瞬間。
世界の音が、消えた。
風が止まる。
鳥の声が途切れる。
遠くを走る車の音も、人々の話し声も、すべてが消えた。
世界が、音を失った。
出久は、お茶子を見る。
彼女も、異変に気づいていた。
死神だけが、空を見上げていた。
そして。
声がした。
『名前を与えることは、救いですか?』
世界の外側から。
『名前を奪うことは、罪ですか?』
出久は、拳を握った。
声は続ける。
『誰かが名前を与えなければ、その者は存在できないのでしょうか』
『誰も名前を呼ばなければ、その者は、最初から存在しなかったことになるのでしょうか』
出久は、空を見上げた。
「……違う」
声が止まる。
「誰も名前を呼ばなくなったからって、その人が生きていた時間まで消えるわけじゃない」
出久は、言葉を選びながら続けた。
「誰かに忘れられたからって、その人が誰かを愛したことまでなくなるわけじゃない」
『では、誰が覚えているのですか?』
「……僕たちだ」
出久は答えた。
「僕たちが覚えている。たとえ名前を忘れても、顔を思い出せなくなっても、誰かがそこにいたことを覚えている」
『もし、その記憶も失われたら?』
出久は、言葉に詰まった。
声は、責めているわけではなかった。
ただ、問いかけている。
その問いに、答えられないことを知っているかのように。
『もし、あなた自身が、あなたの名前を忘れたら?』
『もし、あなたが、誰からも呼ばれなくなったら?』
『それでも、あなたは自分が存在していると信じられますか?』
出久は、自分の胸に手を当てた。
わからない。
自分の名前を忘れる。
誰からも呼ばれなくなる。
自分が何者なのか、誰にも証明できなくなる。
それは、想像するだけでも恐ろしい。
それでも。
「……信じたい」
出久は言った。
「僕が誰なのか、誰かが決めるんじゃない。僕が生きてきた時間は、僕のものだ」
声は、沈黙した。
「誰かが僕を忘れたとしても、僕は僕の人生を生きてきた。誰かが僕の名前を奪ったとしても、僕が選んだことまで、その人のものにはならない」
出久は、空を見上げた。
「だから、僕は自分で選ぶ」
その瞬間。
世界に、音が戻った。
風が吹く。
鳥が鳴く。
遠くの道路から、車の音が聞こえてくる。
何も変わっていないように見える朝が、再び動き始めた。
だが、死神の表情は険しかった。
「……今の声」
出久が尋ねる。
「誰なんですか?」
死神は、しばらく答えなかった。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……わからない」
「え?」
「だが、今の問いは、私たちが知っているどの存在のものとも、完全には一致しない」
死神は、空を見上げた。
「悲嘆とも違う。憂鬱とも違う。安寧システムの論理とも違う」
「じゃあ……」
「まだ、名前を与えるな」
死神は、出久を見た。
「名前を与えた瞬間、私たちは、それが何者なのかを理解したつもりになる」
出久は、黙って頷いた。
名前は、存在を理解するための目印だ。
しかし、目印をつけることと、理解することは違う。
知らないものに名前を与えたからといって、その正体がわかるわけではない。
むしろ、名前をつけたことで、見えなくなるものもある。
「……わかりました」
出久は答えた。
「今は、まだ、名前を決めない」
死神は頷いた。
そのとき、出久の端末が震えた。
母親からのメッセージだった。
『出久、帰ったら少し話がしたいの』
短い文章。
その下に、もう一行。
『あなたの弟のことで』
出久は、画面を見つめた。
まだ生まれていない弟。
名前も、まだ決まっていない。
母親は、何度も候補を書き直していた。
どんな人生を送るのだろう。
どんなものを好きになるのだろう。
どんな人を愛し、何を失い、何を選ぶのだろう。
まだ何もわからない。
だからこそ、名前を決めることには意味がある。
しかし、その名前で人生を決めつけることはできない。
出久は、返信を打った。
『うん。帰ったら話そう』
送信する。
そして、心の中で、まだ見ぬ弟に語りかけた。
――君の名前は、君自身のものだ。
――誰かが決めた未来を生きる必要はない。
――いつか君が、自分の名前を選びたいと思ったなら。
――そのときは、君自身が選べばいい。
その願いが、世界のどこかへ届いたのかはわからない。
ただ、出久は、そう願った。
誰かの人生を、誰かが勝手に決めない世界を。
誰かの名前を、誰かが勝手に奪わない世界を。
そして、誰かが誰かを忘れてしまったとしても。
その人が生きていた時間まで、なかったことにされない世界を。
そのとき。
世界の外側で、何かが笑った。
嘲笑ではなかった。
喜びとも違う。
まるで、初めて答えを聞いた子供が、その答えの意味を理解しようとしているかのような笑いだった。
そして、その声が、誰にも届かない場所で呟いた。
『……あなたは、名前を与えないのですね』
返事はない。
『それでも、あなたは、彼が存在すると信じるのですね』
沈黙。
『では、もし』
声が、ほんの少しだけ震えた。
『もし、あなたが彼の名前を忘れたら』
『もし、彼があなたの名前を忘れたら』
『もし、二人が、互いを誰なのか思い出せなくなったら』
そこで、声は止まった。
誰かが、その問いを口にすることを恐れているようだった。
そして、世界の外側で。
誰にも知られていない名前が、一つだけ生まれた。
その名前は、まだ誰にも呼ばれていない。
誰にも記録されていない。
誰にも覚えられていない。
それでも。
確かに、そこにあった。