僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第六話「名前を与える者は、何を背負うのか」

第一節 名前のない記録

午前六時四十二分。

 

雄英高校の地下に設けられた臨時解析室では、夜明けより先に、三台のモニターが沈黙していた。

 

故障ではない。

 

画面は正常に動作している。

 

電源も落ちていない。

 

ただ、表示されているはずの情報が、存在しなかった。

 

「……また消えた」

 

キーボードから手を離し、八百万百が小さく呟いた。

 

画面の中央には、一つの記録番号だけが残っている。

 

患者番号零。

 

その下にあるはずの氏名、生年月日、性別、保護者情報、入院理由、退院記録。

 

すべてが空欄だった。

 

だが、空欄であること自体が異常なのではない。

 

雄英のデータベースに、そもそも該当する患者番号が存在しないからだ。

 

番号零。

 

通常の管理システムなら、欠番として処理されるか、試験用データとして分類される。

 

ところが、この番号は違った。

 

記録の検索履歴には、数え切れないほどのアクセスが残されている。

 

そのアクセスを行った人物の名前も、また消えていた。

 

「おかしいですね」

 

八百万は端末を操作した。

 

「アクセスした形跡があるのに、アクセスした人物が存在しません。しかも、記録そのものは削除されていないんです」

 

「削除されていないのに、読めない?」

 

緑谷出久が尋ねる。

 

「はい。正確には、読める情報がありません。ただし、システムはこの記録を重要情報として扱っています」

 

八百万は別の画面を開いた。

 

そこには、システムが患者番号零に設定したアクセス権限が表示されていた。

 

最上位管理者権限。

 

医療記録管理権限。

 

公安特別閲覧権限。

 

そして――

 

「……死者管理権限?」

 

出久の声が低くなった。

 

八百万は頷いた。

 

「生存者の医療記録に、死者管理の権限が設定される理由はありません。そもそも、患者番号零が生存者なのかどうかすら、現状では確認できませんが」

 

「死者の記録にしても、おかしい」

 

相澤消太が壁際から口を挟んだ。

 

腕を組み、眠そうな目を画面に向けている。

 

「死亡記録なら死亡日がある。身元不明者なら、身元不明者として登録される。最初から存在しなかった人間を、わざわざ死者管理システムに登録する必要はない」

 

「つまり」

 

出久は画面を見つめた。

 

「この記録は、誰かが存在していたことを前提に作られている」

 

「そうだ」

 

相澤は短く答えた。

 

「誰かがいた。だから記録がある。ところが、誰がいたのかを示す情報だけがない」

 

そのときだった。

 

解析室の入口から、靴音が近づいてきた。

 

「その記録について、こちらでも調べていました」

 

現れたのは、ミッドナイトだった。

 

彼女は普段の軽やかな表情を浮かべていなかった。

 

右手には、古い紙の束が握られている。

 

「雄英の卒業生名簿です。電子化される前のものも含めて、可能な限り集めてきました」

 

「ミッドナイト先生、それは……」

 

「あなたたちが探している少女と関係があるかは分からないわ」

 

ミッドナイトは紙束を机に置いた。

 

「でも、私は一つ、確かめたいことがあるの」

 

彼女は名簿を開いた。

 

ある年度の、あるクラス。

 

そこには、複数の生徒の名前が並んでいた。

 

一人だけ、名前の欄に不自然な空白がある。

 

出席番号はある。

 

入学時の身長もある。

 

個性の適性検査の結果もある。

 

授業評価もある。

 

そして、担任教師の所見まで残されていた。

 

ただし、氏名だけが存在しない。

 

「この生徒を、私は覚えている」

 

ミッドナイトは静かに言った。

 

「覚えているはずなの」

 

彼女は目を閉じた。

 

「小柄な子だった。人の顔色をよく見ていて、誰かが怒られると、自分が悪くなくても謝ってしまうような子。実技試験ではいつも最後まで残って、怪我をした生徒の救護を手伝っていた」

 

言葉が途切れる。

 

「……でも、顔が思い出せない」

 

出久は何も言わなかった。

 

ミッドナイトは笑おうとした。

 

失敗した。

 

「おかしいでしょう? 私は教師よ。生徒の顔を覚えている。少なくとも、そういう仕事をしてきたつもりだった」

 

「先生」

 

「名前を思い出そうとすると、その子がどんな声で笑っていたのかまで分からなくなる。まるで、記憶を取り出すたびに、残っているものまで削られていくみたい」

 

彼女は紙の束を握り締めた。

 

「それでも、私は覚えていると言いたい。名前が出てこなくても、顔が浮かばなくても、あの子が確かにここにいたことだけは、なかったことにしたくない」

 

解析室の空気が、重くなった。

 

出久は机に置かれた名簿を見た。

 

名前のない生徒。

 

患者番号零。

 

消えた少女。

 

別々の記録に見える。

 

けれど、欠け方が同じだった。

 

存在した痕跡は残っている。存在を証明するための名前だけが、抜き取られている。

 

「先生」

 

出久は言った。

 

「その子に、名前を呼んであげたことはありますか?」

 

ミッドナイトは唇を噛んだ。

 

「……あるはずよ」

 

「あるはず、ですか」

 

「ええ」

 

彼女は名簿から目を逸らさなかった。

 

「そして、呼んだことがあるなら、私はその子の名前を取り戻したい」

 

出久は頷いた。

 

それは、まだ名前を取り戻せるという確証のない言葉だった。

 

だが、誰かが探さなければ、消えたものは消えたままになる。

 

そして今、探すべきものは名前だけではない。

 

名前を奪われた人が、どんな人生を生きていたのか。

 

その人生を、誰が覚えているのか。

 

誰が、その存在をなかったことにしようとしたのか。

 

出久は、モニターに表示された患者番号零を見つめた。

 

「調べましょう」

 

彼は言った。

 

「名前が見つからなくても、あの人がいた証拠を探します」

 

その瞬間。

 

三台のモニターが、一斉に点灯した。

 

誰も操作していない。

 

画面の空欄に、一行の文章が浮かび上がる。

 

『名前を与える準備ができましたか?』

 

八百万が息を呑んだ。

 

相澤が即座に端末を遮断する。

 

しかし、文字は消えなかった。

 

次の一文が現れる。

 

『名前を与えた者は、その者の未来に責任を負います』

 

さらに、その下に。

 

『あなたは、その責任を負えますか?』

 

出久は画面を見つめた。

 

そして、気づいた。

 

問いかけは、彼に向けられていた。

 

いや。

 

正確には、彼だけではない。

 

ミッドナイトにも。

 

相澤にも。

 

名前を記録し、名前を呼び、名前を守ってきたすべての者に。

 

誰かを名付けるとは、何を意味するのか。

 

その答えを、世界そのものが問い始めていた。

第二節 名前をつけるという罪

「全端末をネットワークから切り離せ!」

 

相澤の声が飛んだ。

 

八百万が緊急遮断を実行する。

 

解析室の端末が一台ずつ暗転していく。メインサーバーとの接続が切れ、外部通信が遮断され、予備電源への切り替えが始まった。

 

それでも、最後のモニターに浮かぶ文字は消えなかった。

 

『あなたは、その責任を負えますか?』

 

「……ネットワークを切ったのに、どうして表示が残っているの?」

 

八百万が困惑したように呟く。

 

「画面そのものに何かを仕込まれたわけじゃない。表示装置に映像を送る経路も断ったはずです」

 

「なら、物理的に壊せばいい」

 

相澤が手を伸ばしかけたところで、出久が口を開いた。

 

「待ってください」

 

「緑谷」

 

「これ、僕たちを攻撃しているんじゃないと思います」

 

「攻撃の定義を勝手に狭めるな。こちらの操作を無視して情報を表示している時点で、十分に危険だ」

 

「分かっています。でも……」

 

出久は画面に目を向けた。

 

『あなたは、その責任を負えますか?』

 

「この問いに答えなければ、何かが起こる。そういう脅しにも見えます。でも、今のところ、こちらに何かを強制してはいない」

 

「だから安全だと?」

 

「いいえ。だからこそ、何をさせたいのかを知りたいんです」

 

相澤はしばらく出久を見つめた。

 

やがて、舌打ちする。

 

「三十秒だ。妙な変化があれば強制遮断する」

 

「ありがとうございます」

 

出久はモニターの前に立った。

 

画面に映る文章は、まるで返事を待っているようだった。

 

名前を与えた者は、その者の未来に責任を負う。

 

その言葉には、覚えがあった。

 

子供に名前をつける親。

 

生徒を呼ぶ教師。

 

保護した人間に新しい身分を与える施設。

 

記録に名前を書き込む役人。

 

そして、誰かの存在を世の中に認めさせるため、何度もその名前を叫ぶ人。

 

名前は、誰かを世界に結びつける。

 

けれど、世界に結びつけるということは、世界から受けるあらゆる影響まで、その人に背負わせることなのだろうか。

 

「あなたは、誰ですか?」

 

出久は画面に向かって尋ねた。

 

文字が一瞬、揺らいだ。

 

『私は、名前を与える者を探しています』

 

「なぜ?」

 

『名前を与えられた者は、名前を与えた者の望みから逃れられないからです』

 

出久は眉を寄せた。

 

「……それは違う」

 

即答だった。

 

「名前をつけられたからといって、名付けた人の望みどおりに生きる必要はない」

 

『では、なぜ名前を与えるのですか?』

 

「その人を呼ぶためです」

 

『呼ぶだけなら、記号でもよいのではありませんか』

 

「違います」

 

『なぜ?』

 

「……その人に、届いてほしいからです」

 

出久は言葉を選んだ。

 

「名前を呼ぶとき、僕たちは相手がそこにいると信じている。返事をしてくれるかもしれないと思っている。振り向いてくれるかもしれないと思っている」

 

名前を呼ぶ。

 

それは、相手の存在を前提とする行為だ。

 

返事が返ってこないとき、呼んだ者は悲しむ。

 

返事を返せなくなった者も、呼ばれなくなったとき、自分の存在を疑うことがある。

 

だからこそ。

 

「名前は、相手を縛るためだけのものじゃない。相手とつながるためのものでもあるんです」

 

『つながることは、相手を失う可能性を受け入れることです』

 

「そうですね」

 

『失うと分かっているのに、なぜつながるのですか?』

 

出久は答えられなかった。

 

答えが分からないからではない。

 

その問いに、簡単な答えを与えたくなかった。

 

失う可能性があるからこそ、つながらない方がいい。

 

傷つくくらいなら、最初から誰も愛さなければいい。

 

悲しむくらいなら、誰も名前を呼ばなければいい。

 

それは、一つの理屈として成立する。

 

そして、その理屈を最後まで突き詰めた先に、安寧システムがあった。

 

誰も選ばなければ、選択による後悔はない。

 

誰も愛さなければ、愛を失う悲しみもない。

 

誰も名前を持たなければ、名前を奪われる者もいない。

 

世界から矛盾を取り除き、悲しみを取り除き、失う可能性そのものを消し去る。

 

その果てに残るのは、誰も傷つかない世界なのだろう。

 

けれど。

 

誰も誰かを選ばない世界で、誰かが誰かを大切にすることはできるのだろうか。

 

「……あなたは、誰かに名前を与えたことがあるんですか?」

 

出久が尋ねると、文字はしばらく動かなかった。

 

そして。

 

『私は、名前を与えられたことがありません』

 

その一文が現れた。

 

ミッドナイトが顔を上げた。

 

「……名前を与えられたことが、ない?」

 

『私は、呼ばれるために存在していませんでした』

 

『私は、記録されるために存在していませんでした』

 

『私は、覚えられるために存在していませんでした』

 

『それでも、私は存在しています』

 

出久の背筋に冷たいものが走った。

 

それは、以前から世界の外側で聞こえていた声と似ていた。

 

しかし、同じ存在だと断定することはできない。

 

世界の外側にいる何者かは、名前を持たないことについて語っていた。

 

一方、この記録は、名前を与えることそのものに執着している。

 

似ている。

 

だが、違う。

 

「あなたは、あの少女の名前を奪ったんですか?」

 

『名前は、奪われたのでしょうか?』

 

「質問に答えてください」

 

『名前を持つことと、名前を失うこと。その二つは、本当に反対の意味ですか?』

 

「……何を言っているんだ」

 

相澤の声が低くなった。

 

『名前を持たない者が、名前を欲しがるとは限りません』

 

『名前を持つ者が、名前を望んでいるとも限りません』

 

『誰かに名前を与えられた者は、必ずしも、その名前を愛しているわけではありません』

 

画面に新たな文章が浮かぶ。

 

『それでも、あなたたちは名前を与えます』

 

『なぜですか?』

 

出久は目を伏せた。

 

答えは、まだ見つからない。

 

いや。

 

見つからないままでいいのかもしれない。

 

誰かの名前を決めるという行為に、完全な正解など存在しないのだから。

 

そのとき、ミッドナイトが静かに言った。

 

「……私は、あの子に名前を呼んでほしかったのかもしれない」

 

出久が振り向く。

 

「先生?」

 

「違うわね。私は、あの子の名前を呼びたかったのよ」

 

彼女は名簿を見下ろした。

 

「教師になったとき、私は生徒たちの名前を覚えようとした。名前を間違えないこと。名前を呼んで話しかけること。名前を呼んで褒めること。名前を呼んで、間違いを叱ること」

 

ミッドナイトは笑った。

 

今度は、少しだけ自然な笑顔だった。

 

「名前を呼ぶことが、その子を見ているという意思表示になると思っていたの」

 

彼女は空白の欄を指先でなぞる。

 

「でも、私はあの子の名前を思い出せない」

 

「……」

 

「私が名前を呼べなくなったら、あの子は私の生徒ではなくなってしまうのかしら」

 

出久は首を横に振った。

 

「そんなことはありません」

 

「どうして?」

 

「先生がその子と過ごした時間は、名前が思い出せなくなったからといって消えるわけじゃないからです」

 

「でも、名前がないのよ」

 

「はい」

 

「その子が誰だったのか、証明できないの」

 

「はい」

 

「それでも、あなたは、その子がいたと言うの?」

 

「言います」

 

出久は迷わなかった。

 

「先生が覚えているから、だけじゃありません。名簿がある。出席番号がある。授業の記録がある。先生が覚えている行動がある。たくさんのものが、その子がいたことを示しています」

 

「……そうね」

 

「それに」

 

出久は空白の欄を見つめた。

 

「名前が分からないからって、僕たちがその子を呼ぶことを諦める必要はないと思います」

 

ミッドナイトは目を閉じた。

 

ほんの一瞬、何かを思い出しかけたような顔をした。

 

けれど、彼女は首を横に振った。

 

「だめね。思い出せない」

 

「焦らなくていいんです」

 

「でも、あの子は……」

 

彼女の声が震えた。

 

「私が呼ぶのを待っているかもしれない」

 

その言葉が、出久の胸に刺さった。

 

名前を与える者は、何を背負うのか。

 

それは、相手の人生を自分の望みどおりにする権利ではない。

 

名前を呼ぶことができなくなったときにも、相手の存在を否定しない責任。

 

名前を忘れてしまったときにも、忘れたことを理由に探すのをやめない責任。

 

そして、相手が自分の望みとは違う未来を選んだとき、それを受け入れる責任なのかもしれない。

 

モニターに、最後の文章が現れた。

 

『あなたは、その責任を負えますか?』

 

出久は画面を見つめた。

 

「……負えるかどうかは、まだ分かりません」

 

彼は答えた。

 

「でも、最初から負うつもりがないなら、名前を与えようなんて思いません」

 

画面が暗転した。

 

今度こそ、本当に消えた。

 

三十秒を過ぎていた。

 

相澤が深く息を吐く。

 

「緑谷。お前は、相手の質問に答えすぎる」

 

「すみません」

 

「謝れとは言っていない。次は質問の意図を考えてから答えろ」

 

「はい」

 

「……それと」

 

相澤は空白の名簿を見た。

 

「お前の答えが正しかったかどうかは、まだ分からない」

 

「分かっています」

 

「ならいい」

 

相澤は踵を返した。

 

「調査を続ける。今度は、相手が何を答えさせたいのかまで含めて調べるぞ」

 

出久は頷いた。

 

画面にはもう何も表示されていない。

 

だが、彼らは確かに問いを受け取った。

 

名前を与える者は、何を背負うのか。

 

その問いは、まだ終わっていなかった。

 

そして、問いを発した者が、本当は誰よりもその答えを求めているのではないか。

 

出久は、そんな予感を拭えなかった。

 

第三節 公安の記録に、死者はいない

同じ日の午前八時十五分。

 

公安委員会の地下資料室。

 

窓のない部屋で、ホークスは一冊のファイルを机に置いた。

 

「これ、閲覧権限がある人間なら、普通に開けられるんですよね?」

 

向かいに座る職員は、疲れた顔で頷いた。

 

「ええ。あなたの権限なら問題ありません」

 

「じゃあ、なんで中身がないんです?」

 

「……確認します」

 

「お願いします」

 

ホークスは笑顔を浮かべた。

 

普段どおりの、軽い笑顔。

 

ただし、目は笑っていなかった。

 

ファイルの表紙には、公安特別管理記録と書かれている。

 

その分類番号は、現在の公安の管理方式とは一致しない。

 

古い時代の番号だ。

 

だが、廃棄されるはずの記録が、なぜか現行システムに接続されていた。

 

「この記録、十年以上前から更新されているんですよ」

 

ホークスは端末を操作しながら言った。

 

「でも、最後に更新した職員の名前がない。承認者もいない。なのに、毎月、閲覧権限だけが再設定されている」

 

「システムの不具合では?」

 

「そうだといいんですけどね」

 

彼は画面を切り替えた。

 

そこには、何十件もの記録が並んでいた。

 

保護対象者。

 

身元不明者。

 

死亡確認済み。

 

所在不明。

 

そして――

 

「……登録抹消?」

 

ホークスは眉を上げた。

 

「この分類、知ってます?」

 

職員は首を横に振った。

 

「聞いたことがありません」

 

「でしょうね。僕も初めて見ました」

 

登録抹消。

 

通常の行政手続きであれば、登録情報の抹消は、何らかの理由と手続きの記録を伴う。

 

ところが、ここに並ぶ人々には、それがなかった。

 

氏名がない。

 

生年月日もない。

 

住所もない。

 

ただし、抹消された日時だけは残されている。

 

そして、その日時の前後には、必ず一つの記録が存在していた。

 

誰かが、その人の名前を呼んだ記録。

 

「……なるほど」

 

ホークスは椅子に深く腰掛けた。

 

「名前を消す前に、呼ばれた記録だけ残してるのか」

 

「どういう意味ですか?」

 

「さあ。まだ分かりません」

 

彼は軽く肩をすくめた。

 

「ただ、これを見てください」

 

一件の記録を拡大する。

 

氏名欄は空白。

 

登録日時は二十年前。

 

抹消日時は十九年前。

 

その直前に、保護担当者が残した短いメモがあった。

 

『本日、対象者が初めて自分の名前を名乗った。本人は、自分の名前が好きだと話していた』

 

それだけだった。

 

その翌日、対象者は登録抹消されている。

 

「……ひどいな」

 

ホークスの口から、笑顔が消えた。

 

職員が息を呑む。

 

「これ、誰がやったんですか?」

 

「分かりません」

 

「承認した人間は?」

 

「記録がありません」

 

「対象者がどこへ行ったかは?」

 

「……分かりません」

 

ホークスはしばらく黙っていた。

 

彼は公安の人間だ。

 

記録を読む仕事をしてきた。

 

記録があれば、事実に近づける。

 

記録がなければ、事実を証明することは難しい。

 

その仕組みを、誰よりもよく知っている。

 

だからこそ、彼は理解してしまった。

 

この記録は、単に名前が消えているだけではない。

 

名前が消された人間について、誰も責任を負わなくて済むように作られている。

 

名前がない。

 

担当者がいない。

 

承認者がいない。

 

行き先がない。

 

責任を追及する相手がいない。

 

記録の上では、誰も何もしていない。

 

だから、誰も罪を問われない。

 

「……よくできてますね」

 

ホークスは呟いた。

 

「誰かが、本気で考えて作ったんだ」

 

職員が顔をこわばらせた。

 

「ホークスさん。それは……」

 

「安心してください。まだ、あなたを疑っているわけじゃありません」

 

ホークスはファイルを閉じた。

 

「ただ、こういう仕組みを作った人間がいるなら、見つけたいだけです」

 

「見つけて、どうするんですか?」

 

ホークスは答えなかった。

 

代わりに、机の上に置かれた一枚の紙を見た。

 

そこには、手書きの文章が残されていた。

 

『名前を与えた者は、その名前を忘れてはならない』

 

ギャラティカから届いた記録と同じ言葉。

 

だが、こちらの紙には続きがあった。

 

『忘れた場合、その者は、名前を与えた理由を失う』

 

さらに、その下に。

 

『名前を与えた理由を失った者は、名前を与えられた者の人生を、再び自分のものとして扱う』

 

ホークスの指が止まった。

 

「……なんだ、これ」

 

名前を与えた理由を失う。

 

それは、名前を与えられた人間が自分の人生を生きることと、どう関係するのか。

 

彼は、ふと一人の男の顔を思い浮かべた。

 

轟燈矢。

 

荼毘。

 

二つの名前を持つ男。

 

片方は、家族が与えた名前。

 

もう片方は、世界に対して自分で掲げた名前。

 

だが、そのどちらも、彼の人生を完全には説明しない。

 

燈矢という名前は、彼の過去を示す。

 

荼毘という名前は、彼が何を選び、何をしたのかを示す。

 

しかし、その二つを並べても、彼が本当は何を望んでいたのかは、簡単には分からない。

 

「……名前を返す、か」

 

ホークスは小さく呟いた。

 

名前を返すことと、罪を許すことは違う。

 

過去を取り戻すことと、過去をなかったことにすることも違う。

 

もし誰かが、名前を奪われた人間の記録を取り戻したとして。

 

その人間が生きていた間に犯した罪まで消えるわけではない。

 

反対に、罪を犯した人間だからといって、その人間が存在した事実まで消していいわけでもない。

 

ホークスは立ち上がった。

 

「この資料、複製を取れますか?」

 

「ええ。ただし、通常の手続きが必要です」

 

「分かりました。手続きを通します」

 

彼は扉へ向かい、ふと足を止めた。

 

「……ああ、そうだ」

 

振り返る。

 

「この記録に名前がない人たち、全員について調べてください。抹消される前に、誰がその名前を呼んだのか」

 

「全員ですか?」

 

「はい」

 

ホークスは笑った。

 

今度の笑顔には、いつもの軽さが少しだけ戻っていた。

 

「名前を消すのに、これだけ手間をかけたんです。なら、名前を呼んだ人間だって、きっと何かを残しているはずですから」

 

扉が閉まる。

 

資料室に、一人の職員だけが残った。

 

彼はファイルを見下ろした。

 

そして、無意識に呟いた。

 

「……誰が、こんなことを」

 

その瞬間、ファイルの最後のページがひとりでに開いた。

 

そこには、今までなかった文章が記されていた。

 

『あなたは、誰の名前を忘れましたか?』

 

職員は息を止めた。

 

次の瞬間。

 

彼は、自分が幼い頃に飼っていた犬の名前を思い出せなくなっていた。

 

第四節 荼毘は、自分の名前を燃やさない

廃工場の一角。

 

崩れた壁から差し込む朝日が、床に長い線を引いていた。

 

荼毘は、その線を踏まないように歩いていた。

 

理由はない。

 

ただ、踏みたくなかった。

 

「……くだらねえ」

 

彼は舌打ちし、床に落ちた紙片を拾った。

 

それは、公安から流出した古い記録の一部だった。

 

記録番号。

 

抹消日時。

 

担当者不明。

 

そして、空白の氏名欄。

 

紙片の裏側には、短い文章が書かれていた。

 

『名前を与えた者は、その名前を忘れてはならない』

 

荼毘は笑った。

 

「はっ。誰が決めたんだよ、そんなこと」

 

名前を忘れてはいけない。

 

名前を与えた者には責任がある。

 

そんなもの、誰が決めた。

 

名前を与えたから何だ。

 

名前を呼んだから何だ。

 

名前を呼んだ人間が、その人間を理解している保証などない。

 

名前を与えた人間が、その人間を愛している保証などない。

 

むしろ、名前を与えたことを理由に、人生を支配しようとする人間だっている。

 

荼毘は紙片を握り潰した。

 

轟燈矢。

 

その名前を、彼は忘れていない。

 

忘れたくても、忘れられない。

 

家族の声。

 

父親の視線。

 

弟たちの背中。

 

母親の手。

 

そして、自分があの日、何を望んでいたのか。

 

すべてが、燈矢という名前に結びついている。

 

だからこそ、彼はその名前を捨てた。

 

捨てたつもりだった。

 

「……なのに、なんで今さら」

 

紙片を床に落とす。

 

そのとき、背後から声がした。

 

「捨てた名前を、まだ覚えているんだな」

 

荼毘は振り返らなかった。

 

「盗み聞きとは、いい趣味してんじゃねえか」

 

「盗み聞きではない。お前が声に出していた」

 

「なら耳を塞いどけ」

 

「そうする理由がない」

 

現れたのは、死柄木弔だった。

 

彼は崩れた柱に寄りかかり、荼毘を見ていた。

 

その顔には、いつもの苛立ちがあった。

 

だが、今日は少し違う。

 

何かを探している人間の目だった。

 

「お前、最近妙なものを追っているらしいな」

 

「お前に関係あるのか?」

 

「あるかもしれない」

 

「なら、話せ」

 

死柄木はしばらく黙った。

 

それから、ポケットから一枚の紙を取り出した。

 

「名前が書いてある」

 

「見りゃ分かる」

 

「だが、誰の名前か分からない」

 

荼毘が初めて、死柄木の顔を見た。

 

紙には、一つの名前が記されていた。

 

ただし、名前の部分だけが黒く塗り潰されている。

 

その下には、短い一文があった。

 

『彼は、あなたが初めて破壊しなかったものです』

 

荼毘は眉をひそめた。

 

「……なんだ、そりゃ」

 

「知らねえよ」

 

死柄木は苛立たしげに紙を握った。

 

「だが、気に入らない」

 

「いつも気に入らねえだろ、お前は」

 

「違う」

 

死柄木は言った。

 

「俺は、破壊したものを覚えている」

 

荼毘は黙った。

 

「壊した建物。殺した人間。潰した組織。俺が壊したものは、俺の中に残っている。忘れたくても忘れられないものだってある」

 

死柄木の指が、紙の端を折り曲げる。

 

「なのに、これは違う。俺が壊さなかったものがあったと言われても、何も思い出せない」

 

「そいつが嘘をついてるんじゃねえのか」

 

「そうかもしれない」

 

「なら、捨てろ」

 

「捨てられない」

 

死柄木は、紙を見下ろした。

 

「……俺が壊さなかったものが、本当にあったなら」

 

その言葉の続きを、彼は口にしなかった。

 

壊さなかったもの。

 

守ったもの。

 

手放さなかったもの。

 

そんなものが、自分の人生にあったのだろうか。

 

もしあったのなら、なぜ覚えていないのか。

 

もしなかったのなら、なぜ、こんな記録が残されているのか。

 

荼毘は、彼の手から紙を奪い取った。

 

「おい」

 

「貸せ」

 

荼毘は紙を光に透かした。

 

黒く塗り潰された部分の下に、わずかな筆圧の跡が残っている。

 

文字の形を推測することはできない。

 

だが、文字を書いた者が、かなり強い力で筆を走らせたことだけは分かった。

 

「……誰かが、名前を消したんじゃねえな」

 

荼毘が呟く。

 

「何?」

 

「名前を書いたあとで、上から塗り潰したんだ。しかも、かなり力を入れてる」

 

「同じことだろ」

 

「違う」

 

荼毘は紙を返した。

 

「最初から名前を書かなかったなら、こんな跡は残らねえ」

 

死柄木は、紙を見つめた。

 

「……誰かが、名前を書いた」

 

「そうだ」

 

「それから、消した」

 

「そうだな」

 

「なぜだ」

 

荼毘は笑った。

 

「知るかよ」

 

それから、少しだけ真顔になる。

 

「でも、忘れたかったんじゃねえの」

 

死柄木は顔を上げた。

 

「何を?」

 

「そいつが存在したことを」

 

廃工場に沈黙が落ちた。

 

荼毘は、自分の手を見る。

 

この手で、何人もの人生を壊してきた。

 

その事実は消えない。

 

どれだけ燈矢という名前を捨てても。

 

どれだけ荼毘という名前を掲げても。

 

過去の自分がしたことは、今の自分の人生から切り離せない。

 

だからこそ、彼は思う。

 

名前を返すというのなら。

 

過去を取り戻すというのなら。

 

自分がしたことも、すべて一緒に取り戻すことになる。

 

「……面倒くせえな」

 

荼毘は呟いた。

 

死柄木が彼を見る。

 

「何がだ」

 

「名前を取り戻すってことがだよ」

 

荼毘は紙片を指で弾いた。

 

「自分が何者だったか思い出すってことは、自分が何をしたかまで思い出すってことだ」

 

「……」

 

「忘れたかったことも、全部な」

 

死柄木は答えなかった。

 

彼もまた、自分が何者だったのかを考えていた。

 

志村転弧。

 

死柄木弔。

 

二つの名前は、別々の人間を指しているようで、どちらも自分自身だった。

 

片方を消せば、もう片方だけで生きていける。

 

そう思っていた時期もあった。

 

だが、名前を消すことと、過去を消すことは違う。

 

「なあ、荼毘」

 

「なんだよ」

 

「お前は、燈矢という名前を取り戻したいのか?」

 

荼毘は即座に答えなかった。

 

窓の外で、風が吹いた。

 

崩れかけた鉄骨が軋む。

 

「……取り戻す?」

 

彼は笑った。

 

「俺は、どこにも置いてきてねえよ」

 

死柄木が目を細める。

 

「なら、なぜ荼毘を名乗る」

 

「燈矢って名前で呼ばれたところで、あの頃の俺に戻れるわけじゃねえだろ」

 

荼毘は言った。

 

「燈矢だった俺も、荼毘になった俺も、どっちも俺だ」

 

その声には、怒りがあった。

 

しかし、怒りだけではなかった。

 

「名前を変えたからって、やったことが消えるわけじゃねえ。名前を戻したからって、やらなかったことにできるわけでもねえ」

 

彼は死柄木を見た。

 

「お前だって、そうだろ」

 

死柄木は答えなかった。

 

ただ、紙を握り締めた。

 

『彼は、あなたが初めて破壊しなかったものです』

 

その言葉が、頭から離れない。

 

もし本当にそんなものがあったのなら。

 

もし自分が、何かを壊さずに済ませた瞬間があったのなら。

 

それは、どんな瞬間だったのだろう。

 

そして、誰がその瞬間を覚えているのだろう。

 

死柄木は紙をポケットにしまった。

 

「……調べる」

 

「好きにしろ」

 

「お前も来い」

 

「断る」

 

「お前も名前を追っているんだろ」

 

「俺は俺のためにやってる」

 

「なら、俺も俺のためにやる」

 

死柄木は踵を返した。

 

「邪魔をするなよ」

 

「それはこっちの台詞だ」

 

二人は別々の方向へ歩き出した。

 

廃工場に、誰もいなくなる。

 

床に落ちた紙片だけが、朝日の中に残された。

 

その紙片には、誰にも気づかれなかった小さな文字があった。

 

『名付け親:不明』

 

そして、その下に。

 

『被名付け者:記録対象外』

 

名前を与えた者も。

 

名前を与えられた者も。

 

どちらも、記録には存在していなかった。

 

第五節 トガヒミコは、名前を呼ばれるのが怖い

「ねえ、トゥワイス」

 

「なんだ?」

 

「名前って、怖いと思わない?」

 

トガヒミコの質問に、トゥワイスは顔を上げた。

 

「怖い? いや、怖くない! いや、怖いかもしれない!」

 

「どっちなの?」

 

「両方だ!」

 

トガは笑った。

 

だが、その笑顔はいつものものとは少し違っていた。

 

彼女は膝を抱え、床に座っている。

 

その手には、一枚の古い写真があった。

 

写真には、何人かの子供が写っている。

 

顔はぼやけている。

 

誰が誰なのか、判別できない。

 

ただ、その中の一人だけが、こちらを見ているように感じられた。

 

「これ、誰だと思う?」

 

「俺に聞かれても分からない! 俺にも分かる!」

 

「トゥワイス、写真に写っている子、何人いる?」

 

「五人だ! 四人だ!」

 

「ええ?」

 

「いや、五人だ。絶対に五人いる。……でも、四人しか見えない」

 

トゥワイスは写真を覗き込んだ。

 

何度数えても、見える子供は四人だった。

 

それなのに、写真の余白には五人分の名前が書かれている。

 

一つだけ、黒く塗り潰されていた。

 

「……これ、誰かが消したのかな」

 

トガが呟いた。

 

「そうかもしれない! いや、最初からいなかったのかもしれない!」

 

「でも、名前があるよ?」

 

「名前があるなら、いたんだろう! いや、名前だけなら誰でも書ける!」

 

トガは写真を胸に抱いた。

 

「ねえ、トゥワイス。もし、私の名前が消えたら、どうする?」

 

トゥワイスの動きが止まった。

 

「……何だって?」

 

「もし、トガヒミコって名前が、どこにもなくなったら」

 

トガは笑っていた。

 

「私のこと、分かる?」

 

トゥワイスは、すぐには答えなかった。

 

トガヒミコ。

 

彼女の名前は知っている。

 

彼女の声も知っている。

 

笑い方も、怒り方も、誰かを好きになったときの表情も知っている。

 

けれど、名前が消えたら。

 

写真が消えたら。

 

彼女と過ごした時間が、記録から消えたら。

 

それでも、自分は彼女を彼女として認識できるのだろうか。

 

「……分かる」

 

トゥワイスは言った。

 

「分かるに決まってる!」

 

「どうして?」

 

「お前だからだ!」

 

「名前がなくても?」

 

「名前がなくてもだ!」

 

トゥワイスは胸を張った。

 

「お前がトガだからじゃない! トガだから、お前なんだ!」

 

「……同じじゃない?」

 

「違う!」

 

彼は叫んだ。

 

「いや、同じかもしれない! でも違うんだ!」

 

トガは、くすくす笑った。

 

「変なの」

 

「うるせえ!」

 

彼は写真を見た。

 

そして、少しだけ声を落とす。

 

「……俺だって、名前が消えたら怖い」

 

トガは笑うのをやめた。

 

トゥワイスは、自分の手を見つめていた。

 

「俺は、俺が誰なのか分からなくなったことがある。自分が本物なのか、偽物なのか。自分が何をしたのか、誰を傷つけたのか。自分の記憶が正しいのか、全部間違っているのか」

 

彼は笑った。

 

いつものように。

 

けれど、その笑顔はひどく不器用だった。

 

「だから、名前があるってのは、ありがたいことなんだよ」

 

トガは彼の横顔を見つめた。

 

「名前があるから、自分が自分だって分かるの?」

 

「……そうだな」

 

「でも、名前を呼ばれたら、逃げられなくなることもあるよね」

 

トゥワイスは答えられなかった。

 

トガは写真を見下ろした。

 

「私、名前を呼ばれるのが好きだった」

 

彼女は言った。

 

「好きな人に名前を呼んでもらえると、嬉しかった。私のことを見てくれている気がしたから」

 

トガは笑った。

 

「でも、名前を呼ばれるのが怖くなるときもあるの」

 

「……どういうことだ?」

 

「私の名前を呼ぶ人が、私のことを好きじゃなかったら?」

 

トゥワイスは黙った。

 

「私の名前を呼ぶ人が、私を捕まえようとしていたら? 私を閉じ込めようとしていたら? 私のことを、私じゃない誰かに変えようとしていたら?」

 

トガは、写真の黒い塗り潰しを指でなぞった。

 

「それでも、名前を呼ばれたら嬉しいのかな」

 

彼女は顔を上げた。

 

「ねえ、トゥワイス。私、どうしたらいいと思う?」

 

トゥワイスは、長い間、何も言わなかった。

 

やがて、彼は写真をそっと受け取った。

 

「……名前を呼ばれたからって、その人の言うことを聞かなきゃいけないわけじゃない」

 

トガは瞬きをした。

 

「え?」

 

「名前を呼ばれたからって、そいつにお前を決める権利があるわけじゃない。お前が誰を好きになるかも、どう生きるかも、お前が決めることだ」

 

トゥワイスは、写真を返した。

 

「俺は、お前の名前を呼ぶ。お前が嫌だって言うなら、呼ばないことだってできる」

 

彼は少しだけ笑った。

 

「でも、お前が名前を失くしても、お前を探すのはやめない」

 

トガは、しばらく彼を見つめていた。

 

それから、顔を伏せた。

 

「……ずるいよ」

 

「何がだ?」

 

「そんなこと言われたら、名前をなくすのが怖くなくなっちゃうじゃん」

 

「怖くなくていい!」

 

「でも、怖いの!」

 

「じゃあ、怖がれ!」

 

トガは笑った。

 

今度は、本当に笑った。

 

その笑い声が、廃墟の中に響いた。

 

その瞬間、写真の黒い塗り潰しが、ほんの少しだけ薄くなった。

 

トガも、トゥワイスも、気づかなかった。

 

そこには、かすかに文字の跡が残っていた。

 

『ひ……』

 

一文字だけ。

 

誰かの名前の最初の一文字かもしれない。

 

あるいは、まったく別の言葉かもしれない。

 

それでも、写真は確かに変化していた。

 

誰かが名前を呼んだからなのか。

 

誰かが、その存在を忘れないと決めたからなのか。

 

まだ、分からない。

 

ただ、トガは写真を捨てなかった。

 

名前が分からないからといって、誰かがいた可能性まで捨てる必要はない。

 

彼女はそう思った。

 

そして、ふと、あることに気づいた。

 

「……ねえ、トゥワイス」

 

「今度は何だ?」

 

「もし、この写真の子が、誰かに名前を呼んでほしかっただけだったら?」

 

トゥワイスは写真を見た。

 

「……なら、呼んでやればいい」

 

「名前が分からないのに?」

 

「名前が分からなくても、話しかけることはできるだろ」

 

トガは、目を丸くした。

 

それから、写真に向かって小さく言った。

 

「こんにちは」

 

返事はなかった。

 

それでも、彼女は続けた。

 

「あなたの名前、まだ分からないの。ごめんね」

 

彼女は、写真の中の誰かに笑いかけた。

 

「でも、あなたがいたなら、私はあなたを探してみたい」

 

その瞬間。

 

写真の裏側に、文字が浮かび上がった。

 

『ありがとう』

 

トガは息を呑んだ。

 

トゥワイスが写真を覗き込む。

 

「……今、何か見えたか?」

 

「うん」

 

トガは頷いた。

 

「見えたよ」

 

写真の裏側には、それ以上何も書かれていなかった。

 

名前もない。

 

日付もない。

 

誰が書いたのかも分からない。

 

ただ、ありがとうという言葉だけが、そこに残っていた。

 

トガは、その言葉を指先でなぞった。

 

「……名前を呼ばれなくても、ありがとうって言えるんだね」

 

トゥワイスは頷いた。

 

「そうだな」

 

「じゃあ、名前がなくても、誰かと出会うことはできるのかな」

 

「できるだろ」

 

彼は笑った。

 

「できなきゃ、俺たちが困る!」

 

「ふふっ。そうだね」

 

トガは写真を大切にしまった。

 

名前が分からない誰か。

 

存在したかどうかさえ、確かな証拠がない誰か。

 

それでも、彼女はその誰かに話しかけた。

 

名前を与えることは、まだできない。

 

だが、名前が分かるまで何もしないという選択をする必要もない。

 

彼女はそう思った。

 

そして、その考えが、後に彼女自身を救うことになるのか。

 

それとも、取り返しのつかない悲劇につながるのか。

 

このときの彼女には、まだ分からなかった。

 

第六節 名前をつけられなかった子供

その日の昼。

 

出久は、雄英の旧記録保管庫にいた。

 

地下解析室で見つかった情報をもとに、八百万が古い資料の保管場所を特定したのだ。

 

そこには、電子化される前の紙の記録が残されている。

 

廃棄されたはずの書類。

 

移管先が不明になった資料。

 

正式な登録番号が与えられなかった生徒の記録。

 

そして、誰かが隠すように保管した、小さな箱。

 

「……これですね」

 

八百万が箱を机に置いた。

 

封印はされていない。

 

鍵もかかっていない。

 

ただ、箱の表面に、手書きの文字が記されていた。

 

『名前を与える前に、考えること』

 

出久は眉を寄せた。

 

「誰が書いたんでしょう」

 

「分かりません。ですが、紙の劣化具合からすると、かなり古いものです」

 

「開けても大丈夫かな」

 

「危険物の反応はありません。ただし、記録そのものが異常な性質を持っている可能性はあります」

 

八百万は慎重に箱を開けた。

 

中には、一冊のノートが入っていた。

 

表紙には、何も書かれていない。

 

最初のページを開く。

 

そこには、短い文章があった。

 

『子供に名前を与えることは、子供の人生を決めることではない』

 

出久は、その一文を読んだ。

 

次のページ。

 

『名前は、子供が生まれる前に決められることがある』

 

その次。

 

『名前は、親が願いを込めて与えることがある』

 

さらに。

 

『名前は、子供が自分自身で選ぶこともできる』

 

出久はページをめくった。

 

『だが、名前を与える者は、ときに忘れてしまう』

 

『自分が何を願って、その名前を与えたのか』

 

『そして、自分が何を願わなかったのか』

 

文字は、ところどころ滲んでいた。

 

誰かが泣きながら書いたのかもしれない。

 

あるいは、長い年月を経て、紙が傷んだだけなのかもしれない。

 

その先のページには、いくつもの名前が並んでいた。

 

しかし、そのすべてが二重線で消されている。

 

名前の横には、短い説明が添えられていた。

 

『強くなってほしかった』

 

『優しくなってほしかった』

 

『自分のようにはならないでほしかった』

 

『自分の代わりに、夢を叶えてほしかった』

 

『誰にも奪われない人になってほしかった』

 

そして、一つだけ。

 

名前が消されていない欄があった。

 

そこには、こう書かれていた。

 

『この子が、何を望むのかは、まだ分からない』

 

その下には、名前を書くための空白があった。

 

出久は、息を止めた。

 

「……名前が、ない」

 

八百万が頷く。

 

「はい。ですが、ほかの空欄とは違います」

 

「どういうこと?」

 

「ほかの名前は、線で消されています。この欄だけは、最初から空白です」

 

出久は、その空白を見つめた。

 

名前を与えられなかった子供。

 

名前を失った子供。

 

名前を自分で選ぶことを許されなかった子供。

 

それらは、似ているようで違う。

 

名前を与えられなかったからといって、愛されなかったとは限らない。

 

名前を与えられたからといって、愛されたとも限らない。

 

そして、名前を与えられたことが、必ずしも幸せだったとは限らない。

 

ノートの最後には、別の筆跡で文章が書かれていた。

 

『私は、この子に名前を与えることができなかった』

 

『この子が何者になるのか、私には決められなかった』

 

『私は、この子が幸せになることを願った』

 

『けれど、幸せとは何かを、私は知らなかった』

 

『だから、名前を与えることができなかった』

 

出久は、ゆっくりとページを閉じた。

 

「……このノートを書いた人は、名前を与えることが怖かったんでしょうか」

 

八百万は考え込んだ。

 

「そうかもしれません。ただ、私は少し違うようにも感じます」

 

「違う?」

 

「この人は、名前を与えることが怖かったのではなく、自分の願いを、その子の人生に押しつけることを恐れていたのではないでしょうか」

 

出久は、もう一度ノートを開いた。

 

『この子が、何を望むのかは、まだ分からない』

 

その言葉を見つめる。

 

名前を与えるということ。

 

そこには、願いがある。

 

元気に育ってほしい。

 

優しい人になってほしい。

 

幸せになってほしい。

 

自分のような苦しみを味わってほしくない。

 

どれも、自然な願いだ。

 

だが、願いが強くなるほど、相手の人生を自分の望む方向へ導きたくなることがある。

 

この子には、こうなってほしい。

 

この子には、こう生きてほしい。

 

この子には、こういう人間であってほしい。

 

そして、いつしか。

 

願いは命令に変わる。

 

愛情は義務に変わる。

 

名前は、その人の人生を決める鎖に変わる。

 

「……僕は」

 

出久は口を開いた。

 

「僕も、誰かに名前を与えるとしたら、何を願うんだろう」

 

八百万は、彼の顔を見た。

 

「緑谷さん?」

 

「僕は、誰かを助けたいと思ってきました。苦しんでいる人がいたら、助けたい。誰かが傷ついていたら、守りたい。誰かが間違ったことをしていたら、止めたい」

 

彼は、ノートを見下ろした。

 

「でも、それって、本当に相手のためだけなんでしょうか」

 

「……」

 

「助けたいと思うこと自体が、間違っているとは思いません。でも、僕が助けたいと思ったからといって、相手が助けられたいと思っているとは限らない」

 

出久は、自分の手を見た。

 

「僕は、相手が望んでいないことまで、正しいと思って押しつけてしまうかもしれない」

 

八百万は、しばらく黙っていた。

 

やがて、静かに答えた。

 

「それでも、緑谷さんは相手に尋ねることができます」

 

「尋ねる?」

 

「あなたは、何を望んでいるのか。何を望んでいないのか。どう生きたいのか。何を選びたいのか」

 

八百万は、ノートをそっと閉じた。

 

「名前を与えることが、その人の人生を決めることではないのなら、名前を与えた後も、その人が自分の人生を選べるようにすることが、大切なのではないでしょうか」

 

出久は、頷いた。

 

「……そうですね」

 

そのとき、保管庫の奥で物音がした。

 

二人は同時に振り向いた。

 

棚の向こうに、人影が立っていた。

 

小柄な人影。

 

顔は見えない。

 

だが、出久には分かった。

 

あの少女だ。

 

患者番号零。

 

名前を失った少女。

 

「待って!」

 

出久は駆け出した。

 

少女は逃げなかった。

 

ただ、棚の間に立ち尽くしている。

 

「君の名前を、教えてくれる?」

 

出久は尋ねた。

 

少女は首を横に振った。

 

「……分からないの?」

 

少女は、もう一度、首を横に振った。

 

そして、口を開いた。

 

「……名前を、つけないで」

 

出久は足を止めた。

 

「え?」

 

少女は震える声で繰り返した。

 

「お願い。私に、名前をつけないで」

 

その声は、幼い子供のものだった。

 

だが、その言葉には、長い時間を生きてきた者の疲労が滲んでいた。

 

「どうして?」

 

少女は答えなかった。

 

代わりに、自分の胸元を指さした。

 

そこには、名札のようなものがついていた。

 

文字はない。

 

番号もない。

 

ただ、小さな穴が一つ空いている。

 

「名前をつけられたら……」

 

少女は、言葉を探すように唇を動かした。

 

「また、誰かのものになっちゃう」

 

出久の胸が、強く締めつけられた。

 

「……君は、誰かに名前をつけられたことがあるの?」

 

少女は頷いた。

 

「その人は、君に何をしたの?」

 

少女は、顔を上げた。

 

その顔は、ぼやけていた。

 

輪郭が曖昧で、目も鼻も口も、はっきりと認識できない。

 

それなのに、出久には、少女が泣いているように見えた。

 

「私に、幸せになってほしかったんだって」

 

少女は言った。

 

「だから、私に名前をつけたの」

 

「……」

 

「その名前は、とてもきれいだった」

 

彼女は胸元の名札に触れた。

 

「その名前を呼ばれるたび、私は嬉しかった。私のことを見てくれていると思った。私のことを大切にしてくれていると思った」

 

少女は、ゆっくりと顔を伏せた。

 

「でも、いつからか、その名前を呼ばれるのが怖くなった」

 

出久は何も言えなかった。

 

「その名前で呼ばれるたび、私は、私じゃなくなっていった」

 

少女の声が震えた。

 

「その人が望む私にならなきゃいけなかった。その人が幸せになるために、私は幸せにならなきゃいけなかった」

 

彼女は、名札を握り締めた。

 

「……私が悲しむと、その人も悲しんだ。私が怒ると、その人も怒った。私が違うことを望むと、その人は、私を愛しているのに、どうしてそんなことを言うのかって聞いた」

 

少女は顔を上げた。

 

「ねえ、お兄ちゃん」

 

その呼び方に、出久の心臓が跳ねた。

 

「私が、誰かの望みどおりじゃなくても、私は私でいられるのかな」

 

出久は、答えようとした。

 

けれど、言葉が出なかった。

 

簡単に答えられる問いではなかった。

 

誰かの望みを拒絶することは、ときに、その人との関係を壊す。

 

愛してくれた人の期待に応えられないことは、ときに、深い罪悪感を生む。

 

自分の人生を選ぶことは、必ずしも、誰かを傷つけずに済むことではない。

 

それでも。

 

「……いられるよ」

 

出久は言った。

 

「君は、誰かの望みどおりに生きなくても、君だ」

 

少女は、じっと彼を見つめた。

 

「……本当に?」

 

「うん」

 

出久は頷いた。

 

「誰かが君を大切に思っていることと、君がその人の望みどおりに生きなきゃいけないことは、同じじゃない」

 

少女の指が、わずかに動いた。

 

「君が、その人の願いを叶えられなかったとしても」

 

出久は続けた。

 

「君が、その人の思っていた人間になれなかったとしても。君が、その人の期待とは違う道を選んだとしても。君の人生が、君のものじゃなくなるわけじゃない」

 

少女は、しばらく黙っていた。

 

そして。

 

「……じゃあ、私の名前は?」

 

出久は息を呑んだ。

 

「私の名前は、誰のものなの?」

 

その問いに、出久はすぐに答えられなかった。

 

少女は、名札を見つめた。

 

「私の名前は、あの人がつけてくれたものだった。だから、あの人のものなの?」

 

「違う」

 

出久は答えた。

 

「でも、私がその名前を嫌いになったら?」

 

「君が決めていい」

 

「私が、その名前を捨てたら?」

 

「それも、君が決めていい」

 

「私が、新しい名前を欲しいと思ったら?」

 

出久は頷いた。

 

「そのときは、君が選べばいい」

 

少女は、目を閉じた。

 

それから、胸元の名札を取り外した。

 

小さな名札が、床に落ちる。

 

音はしなかった。

 

ただ、その瞬間。

 

少女の顔が、ほんの少しだけ鮮明になった。

 

輪郭が戻り、目の形が現れた。

 

彼女は、出久を見た。

 

そして、泣きながら笑った。

 

「……ありがとう」

 

出久が手を伸ばす。

 

だが、少女は一歩下がった。

 

「まだ、名前はいらない」

 

「……うん」

 

「私、もう少し考えたい」

 

「分かった」

 

「私が、どんな人になりたいのか」

 

少女は、胸元を押さえた。

 

「私が、何を好きで、何が嫌いで、どこへ行きたくて、誰と一緒にいたいのか」

 

彼女は、小さく笑った。

 

「私、自分のことを、まだ何も知らないから」

 

出久は、静かに頷いた。

 

「じゃあ、ゆっくり探そう」

 

少女は目を丸くした。

 

「……いいの?」

 

「もちろん」

 

「名前がなくても?」

 

「うん」

 

「誰かに呼んでもらえなくても?」

 

出久は少し考えた。

 

「……呼んでほしくなったら、呼ぶよ」

 

少女は、笑った。

 

今度の笑顔は、さっきよりも鮮明だった。

 

「……うん」

 

そして、彼女は棚の向こうへ歩いていった。

 

出久は追わなかった。

 

名前をつけないでほしい。

 

そう言った少女の意思を、尊重したかった。

 

彼女が自分の名前を選ぶまで。

 

あるいは、名前を選ばないと決めるまで。

 

彼女には、その時間が必要なのだ。

 

八百万が、隣に立った。

 

「……緑谷さん」

 

「うん」

 

「今の少女は、患者番号零と同一人物なのでしょうか」

 

「分からない」

 

出久は、少女が消えた方向を見つめた。

 

「でも、同じ問いを抱えているのは確かだと思う」

 

「名前を与えることについて、ですか?」

 

「うん」

 

出久は床に落ちた名札を拾った。

 

そこには、文字が一つもなかった。

 

けれど、裏側に、小さな刻印が残されていた。

 

『命名者:保護者』

 

その下には、さらに小さな文字があった。

 

『命名理由:幸福』

 

出久は、その文字を見つめた。

 

幸福。

 

幸せになってほしい。

 

その願い自体は、間違っていないのかもしれない。

 

だが、その願いが、いつから相手を縛るものに変わったのか。

 

誰が、その境界を越えてしまったのか。

 

そして、名前を与えた者は、そのことに気づいていたのか。

 

出久は名札をポケットにしまった。

 

「……探そう」

 

「はい」

 

「この子が、何を望んでいるのか。どうして名前を失ったのか。そして、名前を与えた人が、何を考えていたのか」

 

出久は歩き出した。

 

「今度は、僕たちが勝手に決めないように」

 

第七節 ギャラティカからの記録

午後二時三十分。

 

臨時解析室に戻った出久たちを待っていたのは、ギャラティカから届いた新しい記録だった。

 

送信元は、確認できない。

 

送信経路も不明。

 

ただし、文書そのものには、ギャラティカの署名があった。

 

八百万が画面を開く。

 

「……今回の記録は、文章だけではありません」

 

「画像ですか?」

 

「いいえ。音声記録と、複数の人物の証言が添付されています」

 

出久は椅子を引いた。

 

「再生してください」

 

音声が流れた。

 

最初に聞こえたのは、紙をめくる音だった。

 

次に、誰かの声。

 

『私は、その子に名前を与えました』

 

若い女性の声だった。

 

『その子が幸せになってほしかったからです』

 

別の声が続く。

 

『私は、その子の名前を記録しました。名前を失わないようにするためです』

 

さらに別の声。

 

『私は、その子の名前を呼びました。名前を呼ばれたとき、その子が嬉しそうに笑ったからです』

 

音声は、そこで一度途切れた。

 

そして、最後に、かすれた声が聞こえた。

 

『……私は、その子の名前を忘れました』

 

出久の指が止まった。

 

『忘れたくて忘れたわけではありません』

 

『忘れようと思ったこともありません』

 

『ただ、ある日、名前が出てこなくなりました』

 

『私は、その子の顔を覚えています』

 

『その子の声を覚えています』

 

『その子が好きだったものも、嫌いだったものも覚えています』

 

『でも、名前だけが、どうしても思い出せないのです』

 

音声が終わった。

 

解析室には、沈黙が残った。

 

「……これは、誰の証言なんでしょう」

 

八百万が尋ねる。

 

「記録には、話者の名前がありません」

 

「ギャラティカは、何か説明を?」

 

「添付文書があります」

 

八百万が画面を切り替えた。

 

そこには、短い文章が記されていた。

 

『この記録は、名前を与えた者たちの証言である』

 

『彼らは、誰かを愛していた』

 

『彼らは、誰かを守りたかった』

 

『彼らは、誰かに幸せになってほしかった』

 

『そして、彼らは、誰かの名前を忘れた』

 

『忘れたことを責めるべきか』

 

『忘れたことを許すべきか』

 

『それとも、忘れたこととは無関係に、名前を探すべきか』

 

『私は、まだ答えを持たない』

 

出久は、文章を読み終えた。

 

「……ギャラティカも、答えを探しているんだ」

 

相澤は腕を組んだ。

 

「それなら、次の記録を待つより、こちらから聞けばいい」

 

「連絡を取るんですか?」

 

「ああ。記録だけ送ってくる理由も確認する。あちらが何を知っているのか、何を知らないのか。そこを整理しないと、こちらの調査も進まない」

 

八百万は頷いた。

 

「ただ、問題があります」

 

「何だ?」

 

「記録に添付された音声は、全部で四十七件あります。話者の声紋を照合しても、該当する人物が見つかりません」

 

「全員?」

 

「はい。さらに、音声の中で話者たちが語っている人物についても、名前が残っていません」

 

出久は目を伏せた。

 

四十七件。

 

四十七人の証言者。

 

四十七人が、誰かを覚えている。

 

それなのに、その誰かが誰なのか、分からない。

 

「……この人たちは、名前を忘れたあとも、その人を覚えていたんですね」

 

「そう考えられます」

 

「なら、名前を忘れたことが、必ずしもその人を愛していなかったことにはならない」

 

出久は言った。

 

「忘れてしまったことを責めるだけじゃ、何も解決しないんだ」

 

相澤が頷く。

 

「そうだな。ただし、忘れた理由が自然なものかどうかは別問題だ」

 

「はい」

 

「意図的に記憶を消された可能性もある。記録を操作された可能性もある。名前を忘れたことそのものが、誰かの仕掛けた結果かもしれない」

 

相澤はモニターを見つめた。

 

「忘れた者を責めるのではなく、なぜ忘れたのかを調べる。それが先だ」

 

八百万が、音声記録の最後に添付されていたデータを開いた。

 

「……まだ、続きがあります」

 

画面に、新たな一文が表示された。

 

『名前を与えた者は、その名前を忘れてはならない』

 

その下に、別の文章。

 

『しかし、名前を忘れた者が、再び名前を呼ぶことまで禁じられてはいない』

 

出久は顔を上げた。

 

「……そうか」

 

彼は、先ほどの少女を思い出した。

 

名前をつけないでほしい。

 

まだ、自分が何者なのか分からない。

 

自分の名前を、自分で選びたい。

 

彼女がそう願うなら、その願いを尊重する。

 

だが、名前を与えた者が、名前を忘れてしまったとしても。

 

もう一度、名前を呼ぼうとすることまで、否定する必要はないのかもしれない。

 

もちろん、相手がそれを望んでいないなら、無理に呼ぶべきではない。

 

大切なのは、名前を呼ぶことそのものではなく、名前を呼ばれる者の意思を確かめることなのだ。

 

「……ギャラティカに伝えてください」

 

出久は言った。

 

「僕たちは、患者番号零の調査を続けます。名前を失った人たちが、どんな人生を生きていたのかを調べたい」

 

八百万が頷く。

 

「分かりました」

 

「それと、もう一つ」

 

出久は画面を見つめた。

 

「もし、名前を忘れた人がいたら、その人がもう一度、誰かの名前を呼べるようにしたい」

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

画面の端に、小さな通知が現れた。

 

送信元不明。

 

件名なし。

 

本文は、一行だけだった。

 

『そのとき、あなたは誰の名前を呼びますか?』

 

出久は、画面を見つめた。

 

今度は、すぐに答えなかった。

 

なぜなら、その問いには、まだ答えられない名前があったからだ。

 

自分が忘れている誰か。

 

自分がまだ知らない誰か。

 

そして、自分が知っているはずなのに、どうしても思い出せない誰か。

 

出久は、目を閉じた。

 

頭の中に、幼い頃の記憶が浮かぶ。

 

母の声。

 

友達の笑い声。

 

学校のチャイム。

 

誰かが自分の名前を呼ぶ声。

 

そして、そのすべての向こう側に。

 

小さな子供の声があった。

 

「……お兄ちゃん」

 

出久は目を開けた。

 

「……まさか」

 

八百万が振り向く。

 

「緑谷さん?」

 

「いや……」

 

出久は首を横に振った。

 

まだ、何も確かなことはない。

 

ただ、胸の奥に、言葉にならない感覚が残っていた。

 

誰かが、自分を呼んでいる。

 

ずっと前から。

 

あるいは、今この瞬間に。

 

名前を呼ばれるのを待っている。

 

その誰かが誰なのか、出久には分からなかった。

 

けれど、今度こそ。

 

その声を、聞き逃したくなかった。

 

第八節 死神は、名前を奪わない

夕暮れ。

 

出久は、雄英の屋上にいた。

 

空は赤く染まり、街の向こうでは、いつもどおりの生活が続いている。

 

人々が帰宅する。

 

店が開く。

 

子供たちが笑う。

 

誰かが誰かの名前を呼ぶ。

 

その当たり前の光景が、今日はひどく遠く感じられた。

 

「ここにいたのか」

 

背後から声がした。

 

振り返ると、死神が立っていた。

 

彼は、夕日の中でも影を落としていないように見えた。

 

出久は、隣に立つよう促した。

 

「……名前について、考えていました」

 

「そうか」

 

「名前を与えることって、誰かを救うことにも、縛ることにもなるんですね」

 

死神は空を見上げた。

 

「名前そのものに、救済も束縛もない」

 

「……」

 

「それを使う者の意志と、受け取る者の事情によって、意味が変わる」

 

出久は頷いた。

 

「じゃあ、名前を与えることは、いいことなんでしょうか」

 

「なぜ、善悪を決めなければならない?」

 

「……え?」

 

「名前を与えることが、常に善である必要はない。常に悪である必要もない。ただ、名前を与えたという事実が残るだけだ」

 

死神は、出久を見た。

 

「重要なのは、その事実をどう扱うかだ」

 

「……名前を与えた人が、その責任を負うということですか?」

 

「責任とは、相手の人生を支配する権利ではない」

 

死神の声は静かだった。

 

「名前を与えた者は、その名前を与えたという事実から逃げられない。だが、その名前を与えられた者もまた、その名前に従う義務はない」

 

出久は、少女の言葉を思い出した。

 

名前をつけないで。

 

また、誰かのものになってしまうから。

 

「……じゃあ、名前を忘れたら?」

 

「忘れたという事実が残る」

 

「それだけですか?」

 

「それだけではない」

 

死神は答えた。

 

「忘れたことによって、誰かが傷つくこともある。誰かが孤独になることもある。誰かが、自分は存在しなかったのではないかと疑うこともある」

 

「……」

 

「だが、忘れた者が、その事実を認め、もう一度向き合おうとすることまで、禁じられるわけではない」

 

出久は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……ギャラティカの記録にも、似たようなことが書かれていました」

 

「そうか」

 

「でも、僕はまだ、分からないんです」

 

彼は夕日を見つめた。

 

「忘れてしまった人が、もう一度名前を呼ぼうとすること。それが、本当に相手のためになるのか」

 

死神は答えなかった。

 

出久は続けた。

 

「自分が名前を呼びたいから、呼ぶ。自分が忘れたことを許してほしいから、呼ぶ。自分がもう一度つながりたいから、呼ぶ」

 

彼は拳を握った。

 

「それって、結局、自分のためなんじゃないでしょうか」

 

死神は、しばらく出久を見つめていた。

 

そして、静かに言った。

 

「自分のためであることと、相手のためにならないことは、同じではない」

 

出久は顔を上げた。

 

「……」

 

「誰かに謝りたいと思うことは、自分のためでもある。誰かを助けたいと思うことも、自分のためである場合がある。誰かを愛したいと思うことも、そうだ」

 

死神は続けた。

 

「人間は、自分の望みから完全に自由になることはできない。だからといって、すべての望みが他者を傷つけるわけではない」

 

「……相手が望んでいるかどうかを、確かめればいいんでしょうか」

 

「確かめられるならな」

 

死神の声に、わずかな影が落ちた。

 

「だが、死者には答えられないことがある。記憶を失った者には、過去の願いを尋ねられないことがある。名前を奪われた者には、自分が何を望んでいたのかさえ分からないことがある」

 

出久は黙った。

 

「だからこそ、答えが分からないときには、相手の意思を勝手に作り上げないことだ」

 

死神は言った。

 

「分からないものを、分からないままにしておく。それもまた、相手を尊重するということだ」

 

出久は、深く頷いた。

 

「……名前を与えないことも、相手を尊重することになるんですね」

 

「そうだ」

 

死神は、遠くの街を見つめた。

 

「名前を与えることだけが、相手を認める方法ではない。名前を呼ばないことが、必ずしも相手を否定することでもない」

 

「……」

 

「呼んでほしくないと言う者には、呼ばない自由を与えればいい。名前を知られたくない者には、知られない自由を与えればいい。名前を自分で選びたい者には、選ぶ時間を与えればいい」

 

出久は、先ほどの少女を思い出した。

 

彼女は、名前をつけないでほしいと言った。

 

それは、名前を永遠に拒絶するという意味ではなかった。

 

今はまだ、自分で選びたいという意思表示だった。

 

彼女には、その選択をする権利がある。

 

「……死神さん」

 

「何だ」

 

「あなたは、名前を与えたことがありますか?」

 

死神は、しばらく黙っていた。

 

やがて、答えた。

 

「ない」

 

「一度も?」

 

「私が名前を与える必要はない」

 

「どうしてですか?」

 

死神は、出久を見た。

 

「私は、死者を死者として扱う。生者を生者として扱う。だが、誰かの人生に名前を与え、その人生を始めさせる者ではない」

 

「……」

 

「私は、誰かの人生を始めることはできない。誰かの人生を、望んだ形にすることもできない」

 

死神は目を伏せた。

 

「ただ、終わったものを終わったものとして認めることはできる」

 

出久は、その言葉を噛み締めた。

 

死神は、悲しみを消さない。

 

死者を生者の都合で書き換えない。

 

失われたものを、都合のいい形で取り戻さない。

 

だからこそ、死神は名前を奪わない。

 

名前を与える者が、誰かの人生を始めさせる者だとするなら。

 

死神は、誰かの人生を終わらせる権利を持つ者ではないのかもしれない。

 

ただ、終わりを認める者なのだ。

 

「……じゃあ、名前を失った人が、もう一度名前を選ぶことは?」

 

出久が尋ねると、死神は頷いた。

 

「その者の自由だ」

 

「名前を与えた人が、それを認められなかったら?」

 

「認めるかどうかは、その者の問題だ。名前を与えられた者の人生を決める権利にはならない」

 

「……分かりました」

 

出久は空を見上げた。

 

夕日は、もう沈みかけていた。

 

「僕は、あの子の名前を探したい。でも、あの子が望まないなら、無理に名前をつけない」

 

「それでいい」

 

「名前を与えた人が、何を願っていたのかも知りたい。でも、その人の願いを正しいと決めつけない」

 

「それでいい」

 

「そして……」

 

出久は、少しだけ言葉に詰まった。

 

「もし、その人が、あの子を本当に愛していたのなら。その愛情まで、否定しないようにしたい」

 

死神は、静かに頷いた。

 

「愛していたことと、傷つけたことは、両立する」

 

出久は目を閉じた。

 

「……はい」

 

「誰かを愛していたからといって、その者の行為がすべて許されるわけではない。だが、誰かを傷つけたからといって、その者が抱いていた愛情まで、すべて嘘になるわけでもない」

 

死神の言葉は、厳しかった。

 

そして、優しかった。

 

「お前が探すべきなのは、誰が正しく、誰が間違っていたかという単純な答えではない」

 

死神は、出久を見た。

 

「その者たちが何を願い、何を選び、何をしてしまったのか。そして、その結果を、誰が背負っているのか。それを見極めることだ」

 

出久は、頷いた。

 

「……分かりました」

 

そのとき、死神の表情が変わった。

 

ほんのわずか。

 

だが、出久には分かった。

 

死神が、何かに気づいたのだ。

 

「……どうしたんですか?」

 

死神は、屋上の隅に目を向けた。

 

そこには、誰もいない。

 

ただ、古いベンチが置かれているだけだった。

 

「……誰かが、名前を与えようとしている」

 

「え?」

 

「いや」

 

死神は首を横に振った。

 

「正確には、名前を与えられることを恐れている者がいる」

 

出久は、ベンチを見つめた。

 

そこに、何かがいるような気がした。

 

誰かが、座っている。

 

名前を持たない誰かが。

 

けれど、目を凝らしても、何も見えない。

 

「……その人は、どこにいるんですか?」

 

死神は答えなかった。

 

ただ、静かに呟いた。

 

「名前を与える者が、その責任を背負うことを恐れているのではない」

 

出久が振り向く。

 

死神は続けた。

 

「名前を与えられる者が、その名前によって、再び誰かを失うことを恐れているのだ」

 

その言葉が、夕暮れの空気に溶けた。

 

そして、出久の頭の中で、一つの仮説が形になり始めた。

 

名前を集める存在は、誰かから名前を奪っている。

 

だが、それは単純な悪意によるものなのだろうか。

 

名前を失えば、誰かの期待から逃れられる。

 

名前を失えば、誰かの記憶から消えることができる。

 

名前を失えば、誰かの所有物ではなくなる。

 

もし、そう考えた者がいたのなら。

 

名前を奪う行為は、その者にとって、救済だったのかもしれない。

 

だが。

 

その救済によって、本人が何を失うのか。

 

そのことまで、考えられていたのだろうか。

 

出久は、ポケットの中にある名札を握り締めた。

 

名前をつけないでほしい。

 

少女の言葉が、胸の奥で繰り返される。

 

彼女は、名前を失うことを恐れていたのではない。

 

名前を与えられることを恐れていたのだ。

 

そして、その恐怖の向こう側に。

 

彼女が、誰かを愛していた記憶があるのかもしれなかった。

 

第九節 最初の名前

夜。

 

雄英の地下解析室に、再び全員が集まった。

 

相澤、八百万、出久。

 

そして、通信越しに接続されたギャラティカ。

 

画面には、ギャラティカから送られてきた最後の記録が表示されていた。

 

『最初の名前』

 

その記録には、奇妙な説明が添えられていた。

 

『これは、最初に与えられた名前ではない』

 

『これは、最初に奪われた名前でもない』

 

『これは、名前を与えるという行為が、初めて拒絶された記録である』

 

出久は、画面を見つめた。

 

「……名前を与えることが、拒絶された?」

 

通信の向こうから、ギャラティカの声が届いた。

 

「そうだ。少なくとも、記録上はそうなっている」

 

「その記録は、どこから見つかったんですか?」

 

「安寧システムの旧管理領域だ。現在の管理者権限では、通常、アクセスできない場所に保管されていた」

 

「誰が保管したのかは?」

 

「分からない」

 

ギャラティカは続けた。

 

「記録には、管理者の名前がない。作成日時もない。ただ、システムの最初期から存在していたことだけは確認できた」

 

相澤が口を挟んだ。

 

「最初期というのは、どの段階だ?」

 

「安寧システムが、まだ世界の矛盾を処理するための仕組みとして設計されていた頃だ」

 

解析室の空気が変わった。

 

安寧システム。

 

世界から矛盾を取り除き、安定を維持するための仕組み。

 

その根幹に、名前を与えることを拒絶した記録が存在する。

 

「……再生できますか?」

 

出久が尋ねる。

 

「できる。ただし、映像はない。音声と、いくつかの文章だけだ」

 

「お願いします」

 

数秒の沈黙。

 

そして、記録が再生された。

 

『名前を与えます』

 

誰かの声が聞こえた。

 

声の主は、男性とも女性とも判別できない。

 

穏やかで、優しい声だった。

 

『あなたが、あなたとして存在できるように』

 

少し間があった。

 

次に聞こえたのは、子供の声だった。

 

『……いらない』

 

出久は息を呑んだ。

 

『なぜですか?』

 

『名前をもらったら、あなたが決めるから』

 

『何を決めるのですか?』

 

『私が、どんな子なのか』

 

子供の声は、震えていた。

 

『優しい子になってほしい。強い子になってほしい。賢い子になってほしい。幸せになってほしい。あなたは、そう願うでしょう?』

 

『……』

 

『そして、私は、その願いに応えなければいけなくなる』

 

子供は続けた。

 

『あなたが私に名前をつけたら、私は、あなたが望んだ私にならなければいけない』

 

『私は、あなたの望みを知りません』

 

『うそ』

 

子供の声が鋭くなった。

 

『あなたは、私が幸せになってほしいと言った』

 

『それは、あなたを大切に思っているからです』

 

『じゃあ、私が幸せじゃなかったら?』

 

沈黙。

 

『私が、あなたの思う幸せを望まなかったら?』

 

沈黙。

 

『私が、あなたの望まないものを好きになったら?』

 

沈黙。

 

『私が、あなたの望まない場所へ行きたいと言ったら?』

 

長い沈黙。

 

そして、子供は最後に尋ねた。

 

『それでも、あなたは私を愛してくれますか?』

 

記録は、そこで途切れた。

 

誰も、すぐには口を開かなかった。

 

やがて、八百万が小さく呟いた。

 

「……これは」

 

「名前を与えようとした者と、拒絶した子供の会話だ」

 

ギャラティカの声が響いた。

 

「ただし、二人の関係は分からない。親子なのか、保護者と被保護者なのか、それとも別の関係なのか」

 

「名前を与えようとした人は、答えなかったんですね」

 

出久が言った。

 

「少なくとも、この記録では」

 

ギャラティカは答えた。

 

「だが、答えなかったことが、愛していなかったことを意味するとは限らない」

 

「……はい」

 

出久は、音声記録の最後を思い返した。

 

それでも、あなたは私を愛してくれますか?

 

その問いに、答えられなかった者。

 

その問いに、答えられなかった理由。

 

そこには、いくつもの可能性がある。

 

愛していたからこそ、答えられなかったのかもしれない。

 

自分の望みを押しつけていたことに気づき、言葉を失ったのかもしれない。

 

あるいは、相手が何を選んでも愛し続けるという約束が、簡単にはできないものだと知っていたのかもしれない。

 

だが、どんな理由があったとしても。

 

答えを待っていた子供がいたことは、確かだった。

 

「……その子は、どうなったんですか?」

 

出久が尋ねる。

 

ギャラティカは、少し間を置いて答えた。

 

「記録には、続きがある」

 

画面が切り替わった。

 

『命名拒絶後、対象者の登録を保留』

 

『対象者の氏名欄は空白とする』

 

『対象者の将来予測は実行しない』

 

『対象者の幸福判定は実施しない』

 

『対象者の人生に対する介入は、本人の意思確認を前提とする』

 

出久は、画面を見つめた。

 

「……これは」

 

「名前を与えないことを、認めた記録だ」

 

ギャラティカが答えた。

 

「少なくとも、そのように読める」

 

「じゃあ、この子は……」

 

「分からない」

 

ギャラティカは繰り返した。

 

「この記録には、対象者のその後がない。どこで暮らしたのか。誰と出会ったのか。何を選んだのか。何を失ったのか。何も分からない」

 

出久は、唇を噛んだ。

 

「……名前を与えなかったことが、その子を自由にしたのかもしれない」

 

「そうかもしれない」

 

「でも、名前を与えなかったことで、その子が孤独になった可能性もある」

 

「その可能性もある」

 

「……どちらが正しかったのか、分からないんですね」

 

「そうだ」

 

ギャラティカの声は、淡々としていた。

 

「名前を与えなかったことが正しかったのか。名前を与えるべきだったのか。記録だけでは判断できない」

 

出久は、画面を見つめた。

 

答えがない。

 

正解がない。

 

どちらを選んでも、誰かを傷つける可能性がある。

 

それでも、選ばなければならないことがある。

 

名前を与えるか。

 

与えないか。

 

相手のために何かをするか。

 

相手の意思を尊重して、何もしないか。

 

そして、どちらを選んだとしても、その結果を背負うことになる。

 

「……ギャラティカさん」

 

出久は言った。

 

「この記録、もう少し詳しく調べられませんか?」

 

「調べている。だが、問題がある」

 

「何ですか?」

 

「記録の最後に、現在の安寧システムとは異なる署名がある」

 

画面が切り替わる。

 

そこには、見慣れない記号が表示されていた。

 

八百万が解析を始める。

 

「……これは、システムの識別子ではありません。少なくとも、既知の管理コードとは一致しません」

 

相澤が画面を覗き込んだ。

 

「誰かの名前か?」

 

「いいえ。名前ではなく、名前を記録するための欄そのものに、何かが書き込まれているようです」

 

八百万は、慎重に拡大した。

 

そこに浮かび上がったのは、たった一つの文章だった。

 

『私は、まだ名前を持たない』

 

出久の背筋が凍った。

 

世界の外側にいる、あの存在。

 

名前を持たず、願うことすら許されていなかったと語る者。

 

その存在と、今の記録にある署名。

 

同じものなのか。

 

それとも、同じ問いから生まれた別の存在なのか。

 

まだ、分からない。

 

ただ、一つだけ確かなことがあった。

 

安寧システムが生まれる以前から、名前を与えることを拒絶した子供がいた。

 

そして、その子供の記録には、名前を持たない何者かの痕跡が残されていた。

 

「……名前を与えることが、世界の始まりに関係しているのかもしれない」

 

出久が呟く。

 

ギャラティカは、すぐには答えなかった。

 

やがて、静かに言った。

 

「その可能性はある。だが、まだ断定はできない」

 

「はい」

 

「一つだけ、伝えておきたいことがある」

 

「何でしょうか?」

 

「この記録は、安寧システムが世界を安定させるための判断基準を構築する以前のものだ」

 

出久は目を見開いた。

 

「……ということは」

 

「そうだ」

 

ギャラティカは言った。

 

「安寧システムは、最初から世界を支配するために作られたわけではない。だが、その最初期の記録には、すでに一つの問いが存在していた」

 

画面に、子供の言葉が再び表示された。

 

『それでも、あなたは私を愛してくれますか?』

 

ギャラティカは続けた。

 

「この問いに、システムは答えられなかった」

 

「……」

 

「そして、答えられなかったことを、記録した」

 

出久は、ゆっくりと息を吐いた。

 

答えられなかった問い。

 

それを、なかったことにしなかった。

 

それは、ある意味では、安寧システムがまだ完全に矛盾を排除しようとしていなかった証拠なのかもしれない。

 

だが、後にシステムは、矛盾を取り除くことを最優先するようになった。

 

悲しみを消す。

 

選択を減らす。

 

不確実性を排除する。

 

誰も失わない世界を作る。

 

その変化は、どこから始まったのか。

 

名前を与えることを拒絶した子供の問いに、答えられなかったことが、その始まりだったのだろうか。

 

それとも。

 

答えられない問いを抱え続けることに、誰かが耐えられなくなったのだろうか。

 

出久は、画面を見つめた。

 

「……この子の名前を探したい」

 

彼は言った。

 

「名前を与えることが正しかったのか、与えないことが正しかったのか。それを決めるためじゃなくて、この子が何を選んだのかを知るために」

 

ギャラティカは、しばらく黙っていた。

 

そして、答えた。

 

「分かった。こちらでも調査を続ける」

 

通信が切れる。

 

解析室には、静寂が戻った。

 

出久は、ノートを閉じた。

 

名前を与える者は、何を背負うのか。

 

その問いに、まだ答えはない。

 

けれど、名前を与えられる者にも、選ぶ権利がある。

 

そして、その選択を待つこともまた、誰かを大切にする行為なのだ。

 

出久は、そのことを忘れないようにしようと思った。

 

第十節 名前を与えた者の告白

夜九時。

 

公安の地下資料室で、ホークスは一人の老人と向き合っていた。

 

老人は、かつて公安の記録管理部門に所属していた人物だった。

 

現在は退職している。

 

公的な記録上は、安寧システムに関する調査とは無関係だ。

 

だが、ホークスが古い資料を追っていくうちに、彼の名前が何度も浮かび上がってきた。

 

「……あなたは、登録抹消という分類を知っていますね」

 

ホークスが尋ねると、老人は目を閉じた。

 

「知っている」

 

「この分類を作ったのは、あなたですか?」

 

「違う」

 

老人は首を横に振った。

 

「私は、記録を管理していただけだ」

 

「では、誰が作ったんです?」

 

「分からない」

 

ホークスは黙った。

 

老人は、深く息を吐いた。

 

「……ただ、一つだけ、話しておきたいことがある」

 

「何でしょう?」

 

「私は、ある子供に名前を与えたことがある」

 

ホークスの表情が変わった。

 

「あなたが?」

 

「ああ」

 

老人は、机の上に一枚の写真を置いた。

 

写真には、小さな子供が写っていた。

 

顔は、はっきりと見えない。

 

だが、子供が笑っていることだけは分かった。

 

「この子は、身元不明者として保護された。親も分からない。出生記録もない。どこで生まれたのか、誰に育てられたのかも分からなかった」

 

「……それで、あなたが名前を?」

 

「ああ」

 

老人は写真を見つめた。

 

「私は、その子に名前を与えた。新しい身分を用意し、学校に通えるようにした。住む場所も用意した」

 

「その子は、幸せだったんですか?」

 

老人は答えなかった。

 

「……分からない」

 

彼は、長い沈黙の後に言った。

 

「少なくとも、私にはそう見えた。笑っていたし、友達もできた。勉強もした。好きなものもあった。嫌いなものもあった」

 

老人は、写真の端を指でなぞった。

 

「私は、その子が幸せになったと思っていた」

 

「……でも、違った?」

 

老人は、ゆっくりと頷いた。

 

「ある日、その子は私に尋ねた」

 

彼は、目を閉じた。

 

「『この名前は、私のものですか?』と」

 

ホークスは、黙って聞いていた。

 

「私は、当然だと答えた。名前はお前のものだ。これからは、この名前で生きていけばいい。そう言った」

 

老人の声が震えた。

 

「すると、その子は言ったんだ」

 

『じゃあ、どうして、私が名前を変えたいと言ったら、怒るの?』

 

ホークスは、息を呑んだ。

 

「……あなたは、怒ったんですか?」

 

「ああ」

 

老人は、目を伏せた。

 

「私は、その子に新しい人生を与えたつもりだった。だから、その人生を大切にしてほしかった。名前を変えるということは、私が用意した人生を拒絶することだと思った」

 

「……」

 

「私は、その子が自由になれるように名前を与えたはずだった。なのに、いつの間にか、その名前を守ることが目的になっていた」

 

老人は、両手で顔を覆った。

 

「私は、その子に幸せになってほしかった。だが、私が望む幸せになってほしかったんだ」

 

ホークスは、写真を見た。

 

名前を与えた者の願い。

 

名前を与えられた者の人生。

 

二つが、いつの間にか、同じものとして扱われてしまった。

 

「……その子は、どうなったんですか?」

 

ホークスが尋ねると、老人は首を横に振った。

 

「分からない」

 

「分からない?」

 

「ある日、その子は姿を消した」

 

老人は、写真を握り締めた。

 

「部屋には、何も残っていなかった。衣服も、教科書も、写真も。まるで、最初からそこに住んでいなかったかのように」

 

「……」

 

「私は探した。何年も探した。だが、見つからなかった」

 

老人は顔を上げた。

 

「そして、ある日、私はその子の名前を思い出せなくなった」

 

ホークスの目が細くなる。

 

「それが、登録抹消と関係しているんですか?」

 

「分からない」

 

老人は答えた。

 

「だが、名前を忘れた後、私はその子を探すことをやめた」

 

「……なぜ?」

 

老人は、苦しそうに笑った。

 

「探す理由が分からなくなったからだ」

 

その言葉に、ホークスは何も言えなかった。

 

「その子が誰だったのか。何を望んでいたのか。私は、何をしてしまったのか。すべてが分からなくなった」

 

老人は、机の上に写真を置いた。

 

「私は、その子の名前を与えた。だが、名前を与えた理由を忘れた。だから、その子を探すことも、やめてしまった」

 

ホークスは、静かに尋ねた。

 

「……今は、思い出したんですか?」

 

老人は頷いた。

 

「今日、あなたが来る前に、写真を見ていたら、ふと思い出した」

 

「名前を?」

 

「いや」

 

老人は首を横に振った。

 

「名前は、まだ思い出せない」

 

彼は、写真を見つめた。

 

「だが、私はこの子を探していたことを思い出した」

 

ホークスは、深く息を吐いた。

 

名前が戻ったわけではない。

 

記録が復元されたわけでもない。

 

ただ、名前を忘れた者が、再び誰かを探そうと思い始めた。

 

それだけだ。

 

けれど、その小さな変化が、すべての始まりになることもある。

 

「……あなたは、その子に謝りたいですか?」

 

ホークスが尋ねた。

 

老人は、長い間、答えなかった。

 

やがて、静かに頷いた。

 

「ああ」

 

「許してほしいですか?」

 

老人は、目を閉じた。

 

「……そう思っている自分がいる」

 

「でも?」

 

「許してもらえるとは思っていない」

 

老人は、写真を見つめた。

 

「私が謝りたいのは、私が楽になりたいからでもある。許してもらえれば、私がしたことを少しだけ忘れられるかもしれない。だから、私は謝りたいと思っている」

 

ホークスは、何も言わなかった。

 

老人は続けた。

 

「だが、あの子が許してくれなかったとしても、私は探さなければならない」

 

「……どうしてですか?」

 

「私が、その子の名前を与えたからだ」

 

老人は、まっすぐにホークスを見た。

 

「その子が、私の望んだ人生を生きなかったからといって、私がその子を探すことをやめていい理由にはならない」

 

ホークスは、ゆっくりと頷いた。

 

それは、ギャラティカの記録にあった言葉と重なっていた。

 

名前を与えた者は、その名前を忘れてはならない。

 

しかし、忘れた者が、再び名前を呼ぶことまで禁じられてはいない。

 

「……分かりました」

 

ホークスは立ち上がった。

 

「あなたの話を、記録に残します」

 

老人は、驚いたように顔を上げた。

 

「私の罪を?」

 

「あなたが何をしたのかも。何を忘れたのかも。何を思い出したのかも」

 

ホークスは答えた。

 

「あなたが正しいかどうかを決めるためじゃありません。あなたが何をしたのかを、なかったことにしないためです」

 

老人は、目を伏せた。

 

そして、静かに言った。

 

「……ありがとう」

 

ホークスは頷いた。

 

資料室を出る直前、彼は振り返った。

 

「一つだけ、聞いてもいいですか?」

 

「何だね?」

 

「もし、その子が見つかったら、あなたはどうしますか?」

 

老人は、しばらく考えた。

 

そして、答えた。

 

「……名前を呼ぶ前に、尋ねる」

 

「何を?」

 

「私に、名前を呼ばれてもいいかと」

 

ホークスは、小さく笑った。

 

「それがいいと思います」

 

扉が閉じた。

 

老人は、写真を見つめた。

 

名前は、まだ思い出せない。

 

けれど、探すことをやめたくなかった。

 

今度こそ。

 

自分が与えた名前を、その子の人生を決めるために使わないように。

 

その子が、自分の名前を自分で選べるように。

 

老人は、写真をそっと机の引き出しにしまった。

 

その引き出しには、もう一枚の紙が入っていた。

 

そこには、かつて彼が書いた文章が残されていた。

 

『名前を与えた者は、その名前を忘れてはならない』

 

そして、その下に。

 

『名前を忘れた者は、もう一度、名前を呼ぶ前に尋ねなければならない』

 

その文字は、いつの間にか、少しだけ変わっていた。

 

第十一節 名前を奪う者

深夜。

 

出久は、解析室の椅子に座ったまま、眠りかけていた。

 

机の上には、患者番号零に関する資料が積み重なっている。

 

ミッドナイトが見つけた、名前のない生徒の記録。

 

ホークスが発見した、登録抹消の資料。

 

トガとトゥワイスが手に入れた、名前の消えた写真。

 

ギャラティカが送ってきた、最初の命名拒絶の記録。

 

それぞれの記録は、別々の時代に作られたものだった。

 

だが、どれも同じことを示している。

 

誰かが、名前を与えた。

 

誰かが、その名前を失った。

 

そして、誰かが、その事実を忘れた。

 

出久は、ノートに書き込んだ。

 

『名前を与えること』

 

『名前を奪うこと』

 

『名前を忘れること』

 

『名前を取り戻すこと』

 

四つの行為。

 

それぞれの意味は違う。

 

しかし、すべてが一つの問題につながっている。

 

名前を持つことは、誰かに認識されることだ。

 

名前を持たないことは、誰にも認識されないことかもしれない。

 

だが、名前を持たないからといって、存在しないわけではない。

 

そして、名前を持っているからといって、その存在が守られるわけでもない。

 

「……じゃあ、名前を奪う者は、何をしているんだ?」

 

出久は呟いた。

 

その瞬間、部屋の明かりが消えた。

 

「……っ!」

 

出久は立ち上がった。

 

非常灯が点灯する。

 

モニターが、一斉に起動した。

 

そして、すべての画面に、同じ映像が映し出された。

 

暗い部屋。

 

中央に、一人の人影が立っている。

 

顔は見えない。

 

体の輪郭も曖昧だ。

 

だが、その手には、何かが握られていた。

 

紙片のようなもの。

 

そこに書かれているのは、名前だった。

 

一つ。

 

二つ。

 

三つ。

 

数え切れないほどの名前が、紙片から浮かび上がる。

 

名前は、光の粒となって人影の周囲を漂った。

 

人影が手を伸ばす。

 

すると、名前が一つ、消えた。

 

次に、別の名前が消えた。

 

さらに、もう一つ。

 

名前が消えるたび、画面の隅に、小さな数字が表示される。

 

零。

 

一。

 

二。

 

三。

 

「……何だ、これ」

 

出久は、モニターに近づいた。

 

人影が顔を上げた。

 

その顔には、目も鼻も口もなかった。

 

ただ、何もない場所から声が響いた。

 

『名前は、誰のものですか?』

 

出久は、息を呑んだ。

 

第五話で聞いた問い。

 

同じ言葉。

 

しかし、今度の声は、明らかに違っていた。

 

世界の外側から響く、あの存在の声ではない。

 

もっと近い。

 

もっと弱々しい。

 

まるで、何度も同じ問いを繰り返してきた者の声だった。

 

「……あなたが、名前を集めているんですか?」

 

出久は尋ねた。

 

人影は答えなかった。

 

代わりに、手に持っていた紙片を掲げた。

 

そこには、一つの名前が書かれていた。

 

出久には読めなかった。

 

読めないのではない。

 

文字を認識しようとした瞬間、意味が頭から滑り落ちる。

 

まるで、その名前を理解すること自体が、許されていないかのように。

 

『名前を与えた者は、その名前を忘れてはならない』

 

人影が言った。

 

『名前を与えた者は、その名前を忘れてはならない』

 

『名前を与えた者は、その名前を忘れてはならない』

 

何度も繰り返す。

 

声には、怒りがなかった。

 

憎しみもなかった。

 

ただ、深い悲しみがあった。

 

「……どうして、そんなことを繰り返すんですか?」

 

出久は尋ねた。

 

人影は、ゆっくりと顔を向けた。

 

『忘れられたからです』

 

「誰に?」

 

『名前を与えた者に』

 

出久は、拳を握った。

 

「あなたは、その人たちを恨んでいるんですか?」

 

人影は、しばらく黙っていた。

 

『……分かりません』

 

その声が、かすれた。

 

『私は、恨んでいるのでしょうか』

 

『私は、怒っているのでしょうか』

 

『私は、悲しんでいるのでしょうか』

 

『私は、何を望んでいるのでしょうか』

 

人影は、自分の胸元に手を当てた。

 

そこには、名札のようなものがついていた。

 

文字はない。

 

番号もない。

 

ただ、小さな穴が一つ空いている。

 

出久は、息を止めた。

 

あの少女と同じだ。

 

「……君は」

 

出久は言った。

 

「君も、名前を与えられたことがあるの?」

 

人影は、頷いたように見えた。

 

『私は、名前を与えられました』

 

『私は、その名前を愛していました』

 

『私は、その名前で呼ばれることが好きでした』

 

『私は、その名前を与えてくれた人を愛していました』

 

人影の周囲を、無数の名前が漂う。

 

『でも、その人は、私の名前を忘れました』

 

『私の顔を忘れました』

 

『私が何を好きだったのか、何を嫌っていたのか、何を望んでいたのか、すべて忘れました』

 

『その人は、私が存在していたことさえ、忘れました』

 

出久は、何も言えなかった。

 

『私は、その人に名前を与えてほしかった』

 

人影の声が震えた。

 

『私は、その人に名前を呼んでほしかった』

 

『私は、その人に、私が誰だったのかを覚えていてほしかった』

 

そして。

 

『だから、私は名前を集めています』

 

出久は、目を見開いた。

 

「……名前を集めれば、忘れられた人たちを取り戻せるんですか?」

 

『分かりません』

 

「なら、どうして?」

 

『名前を集めれば、誰かが私を呼んでくれるかもしれないからです』

 

出久の胸が、強く締めつけられた。

 

名前を集める。

 

名前を奪う。

 

誰かの名前を自分の手元に集めれば、いつか誰かが自分の名前を呼んでくれるかもしれない。

 

その願いは、あまりにも歪んでいる。

 

だが、その歪みの根元には、誰かに名前を呼んでほしいという、ごく小さな願いがあった。

 

「……でも、名前を奪われた人たちは、どうなるんですか?」

 

出久は尋ねた。

 

人影は、答えなかった。

 

「名前を奪われた人たちは、自分が誰なのか分からなくなるかもしれない。大切な人に忘れられるかもしれない。自分の人生を、誰かに説明できなくなるかもしれない」

 

出久は、一歩前に出た。

 

「あなたが名前を集めることで、あなた自身が苦しんできたことを、別の人たちに繰り返させているんです」

 

人影は、動かなかった。

 

「……あなたが、名前を呼んでほしいと思うことは、間違いじゃない」

 

出久は続けた。

 

「誰かに覚えていてほしいと思うことも、名前を呼んでほしいと思うことも、間違いじゃない。でも、そのために誰かの名前を奪ったら、その人も、あなたと同じ苦しみを味わうことになる」

 

人影は、ゆっくりと顔を上げた。

 

『では、どうすればいいのですか?』

 

出久は答えようとした。

 

だが、言葉が出なかった。

 

どうすればいいのか。

 

誰かに忘れられた人が、どうすればいいのか。

 

名前を失った人が、どうすればいいのか。

 

名前を与えた者が、その名前を忘れてしまったとき、どうすればいいのか。

 

簡単な答えはない。

 

それでも。

 

「……名前を奪うのをやめてください」

 

出久は言った。

 

「そして、あなた自身が、何を望んでいるのかを考えてほしい」

 

人影は、黙っていた。

 

「誰かに名前を呼んでほしいのか。誰かに覚えていてほしいのか。それとも、名前を与えた人に、もう一度会いたいのか」

 

出久は、まっすぐに人影を見つめた。

 

「あなたが本当に望んでいることを、あなた自身が選んでほしい」

 

長い沈黙。

 

やがて、人影が口を開いた。

 

『……私は』

 

声が震えた。

 

『私は、誰に名前を与えてほしかったのでしょうか』

 

出久は、答えなかった。

 

人影は、続けた。

 

『それとも、私は、誰かに名前を呼んでほしかっただけなのでしょうか』

 

その瞬間、画面の中に漂っていた名前が、一斉に光を失った。

 

そして、すべてのモニターが暗転した。

 

解析室に、非常灯の赤い光だけが残った。

 

出久は、しばらく動けなかった。

 

あの人影は、名前を奪う者だった。

 

だが、同時に、名前を失った者でもあった。

 

誰かに名前を呼んでほしいと願いながら、その願いを叶えるために、別の誰かの名前を奪っていた。

 

それは、許されることではない。

 

だが、その存在が何を望んでいたのかを、無視することもできない。

 

「……君は、誰なんだ」

 

出久は、暗いモニターに向かって呟いた。

 

返事はなかった。

 

ただ、最後に、一つの文字だけが画面に残っていた。

 

『零』

 

患者番号零。

 

最初の名前。

 

そして、名前を持たない者。

 

出久は、その文字を見つめた。

 

もしかすると。

 

患者番号零という記録は、単なる管理番号ではないのかもしれない。

 

それは、名前を与えられなかった者のために、誰かが用意した仮の呼び名なのかもしれない。

 

あるいは。

 

名前を与えることを拒絶した者が、自分自身を守るために選んだ、最初の名前なのかもしれない。

 

まだ、分からない。

 

けれど、出久は一つだけ決めた。

 

この存在を、最初から怪物だと決めつけない。

 

同時に、この存在がしてきたことを、悲しみだけを理由に許すこともしない。

 

名前を呼んでほしいという願いと、誰かの名前を奪うという行為は、別のものだ。

 

その二つを混同しないこと。

 

それが、今の自分にできる最初のことだった。

 

第十二節 名前を与える者は、何を背負うのか

深夜十一時五十分。

 

出久は、雄英の屋上に戻っていた。

 

夜風が吹いている。

 

街の明かりは、遠くまで続いていた。

 

人々は眠りにつき、明日を迎える準備をしている。

 

誰かが誰かの名前を呼び、誰かがその名前に応える。

 

そんな当たり前のことが、世界を支えているのかもしれない。

 

出久は、ポケットから小さな名札を取り出した。

 

あの少女が残したもの。

 

名前はない。

 

番号もない。

 

ただ、裏側に『命名者:保護者』『命名理由:幸福』という記録が残っている。

 

出久は、それを見つめた。

 

名前を与えた者は、何を背負うのか。

 

名前を与えることによって、誰かの人生を始めさせることはできない。

 

誰かの未来を決めることもできない。

 

誰かの幸せを保証することもできない。

 

それでも、名前を与えたという事実は残る。

 

その名前を呼び、その名前を記録し、その名前を覚えていることによって、誰かの人生に関わることはできる。

 

そして、その関わりが、相手を傷つけることもある。

 

相手のためだと思っていたことが、相手の自由を奪うこともある。

 

だからこそ。

 

名前を与えた者は、相手が自分の望みとは違う人生を選んだときにも、その選択を尊重しなければならない。

 

名前を与えた者は、相手が自分から離れていくことを、必ずしも裏切りだと考えてはいけない。

 

名前を与えた者は、相手が自分の名前を捨てることを選んだとしても、その選択を認める必要がある。

 

そして、もし。

 

名前を与えた者が、その名前を忘れてしまったとしても。

 

忘れたことを理由に、相手の人生をなかったことにしてはいけない。

 

出久は、名札を握り締めた。

 

「……難しいな」

 

思わず、声が漏れた。

 

誰かを助けることは、簡単ではない。

 

誰かを理解することも、簡単ではない。

 

まして、誰かの人生を尊重しながら、その人と関わり続けることなど。

 

簡単なはずがない。

 

けれど、だからといって、関わることを諦めてしまえば。

 

誰も傷つかない代わりに、誰も誰かを救えなくなるかもしれない。

 

そのとき、背後から声がした。

 

「……お兄ちゃん」

 

出久は振り返った。

 

そこには、あの少女が立っていた。

 

顔は、前よりもはっきり見える。

 

目も、鼻も、口も。

 

まだ、完全ではない。

 

けれど、確かに、一人の少女の顔だった。

 

「……君」

 

少女は、胸元を押さえた。

 

名札は、もうついていない。

 

「私、考えたの」

 

出久は、静かに頷いた。

 

「うん」

 

「名前をつけてほしいかどうか」

 

「……うん」

 

少女は、少しだけ笑った。

 

「まだ、分からない」

 

出久は、頷いた。

 

「そっか」

 

「でもね」

 

少女は、彼を見上げた。

 

「名前がなくても、私が私だってことは、少しだけ分かった気がする」

 

出久の胸が、温かくなった。

 

「……それは、よかった」

 

「うん」

 

少女は、夜空を見上げた。

 

「私、まだ、自分が何を好きなのかも、何が嫌いなのかも、よく分からない。でも、これから少しずつ、見つけていきたい」

 

「うん」

 

「誰かが望んだからじゃなくて、私が望むものを」

 

出久は、笑った。

 

「それがいいと思う」

 

少女は、しばらく黙っていた。

 

そして、小さな声で尋ねた。

 

「……ねえ、お兄ちゃん」

 

「何?」

 

「私が、いつか名前をつけてほしいって思ったら」

 

「うん」

 

「そのときは、名前をつけてくれる?」

 

出久は、すぐには答えなかった。

 

名前をつけてほしい。

 

そう言われたとき、自分は何を願うのだろう。

 

この子が幸せになってほしい。

 

苦しまないでほしい。

 

傷つかないでほしい。

 

そんな願いが、頭の中に浮かんだ。

 

けれど、それらはすべて、自分の望みだ。

 

少女が何を望むのかは、まだ分からない。

 

だからこそ、彼は答えた。

 

「……君が、本当にそうしてほしいと思ったら」

 

少女は、じっと彼を見つめた。

 

「うん」

 

「そのとき、君がどんな名前を望んでいるのか、一緒に考えよう」

 

少女は、笑った。

 

「……うん!」

 

その笑顔を見て、出久は思った。

 

名前を与えることは、相手の人生を決めることではない。

 

名前を与えることは、相手が自分の人生を選べるようになるまで、そばにいることなのかもしれない。

 

もちろん、すべての人が、誰かに名前を与えてもらう必要があるわけではない。

 

名前を与えられることを望まない人もいる。

 

自分で名前を選びたい人もいる。

 

名前を持たずに生きたい人だって、いるのかもしれない。

 

だからこそ、名前を与える者は、相手が何を望んでいるのかを尋ねなければならない。

 

そして、相手の答えを待たなければならない。

 

少女は、出久の隣に座った。

 

二人は、しばらく夜空を見上げていた。

 

「……お兄ちゃん」

 

「うん?」

 

「私、名前を忘れた人たちのことを、探してみたい」

 

出久は、少女を見た。

 

「どうして?」

 

「私と同じように、名前をなくした人がいるなら」

 

少女は、夜空を見上げたまま言った。

 

「その人たちが、どんな人だったのか、知りたいから」

 

「……そっか」

 

「名前が分からなくても、探すことはできるよね?」

 

出久は、笑った。

 

「もちろん」

 

少女も、笑った。

 

その瞬間、夜空の向こう側で、何かが光った。

 

星ではない。

 

流れ星でもない。

 

世界の外側から、こちらを覗き込む何者かの視線。

 

出久は、その存在を感じた。

 

そして、声が聞こえた。

 

『名前を与える者は、その名前を忘れてはならない』

 

出久は、顔を上げた。

 

『名前を与えられた者は、その名前に従わなければならない』

 

「……違う」

 

出久は呟いた。

 

声が続く。

 

『名前を失った者は、名前を与えられなければならない』

 

「違う」

 

出久は、今度ははっきりと答えた。

 

「名前を与えられた者が、その名前に従う必要はない」

 

夜空が、わずかに揺らいだ。

 

「名前を失った者が、必ずしも、新しい名前を必要としているわけじゃない」

 

少女が、出久を見上げた。

 

「そして、名前を与える者は、その人の人生を決める権利を持っているわけじゃない」

 

出久は、空を見つめた。

 

「名前を与えることは、その人を所有することじゃない」

 

沈黙。

 

そして、声が尋ねた。

 

『では、名前を与えることに、何の意味があるのですか?』

 

出久は、答えた。

 

「……その人が、名前を呼んでほしいと思ったときに」

 

彼は、少女を見た。

 

「その声に応えられるようにすることだと思う」

 

少女は、静かに笑った。

 

夜空の向こう側で、何かが動いた。

 

その存在は、すぐには答えなかった。

 

やがて、かすれた声が聞こえた。

 

『……私は』

 

『私は、名前を呼んでほしかったのでしょうか』

 

出久は、目を閉じた。

 

「……それは、君が決めていいんだよ」

 

その瞬間、世界の外側で、何かが震えた。

 

まるで、長い間、誰にも許されなかった選択を、初めて与えられたかのように。

 

声は、何も言わなくなった。

 

夜空は、元に戻った。

 

少女は、出久の手を握った。

 

「……お兄ちゃん」

 

「うん」

 

「私、いつか、自分の名前を選ぶね」

 

出久は、頷いた。

 

「うん」

 

「それで、その名前を好きになれたら、誰かに呼んでもらうの」

 

「うん」

 

「もし、その名前を嫌いになったら?」

 

「そのときは、また考えればいい」

 

少女は、笑った。

 

「……そっか」

 

二人は、再び夜空を見上げた。

 

名前を与える者は、何を背負うのか。

 

その問いに、完全な答えはない。

 

ただ、一つだけ。

 

名前を与えられた者の人生は、名前を与えた者の所有物ではない。

 

名前を与えることは、誰かの未来を決めることではない。

 

名前を与える者は、その人が自分自身の人生を選べることを、認めなければならない。

 

そして、名前を与えられた者もまた、自分が与えられた名前を、どう扱うのかを選ぶことができる。

 

名前を受け入れることも。

 

名前を捨てることも。

 

新しい名前を選ぶことも。

 

名前を持たないまま生きることも。

 

そのすべてが、本人の選択であるべきなのだ。

 

出久は、隣にいる少女を見た。

 

彼女は、まだ名前を持たない。

 

だが、確かに、そこにいる。

 

名前がなくても、彼女は存在している。

 

誰かが彼女を忘れたとしても。

 

誰かが彼女の名前を奪ったとしても。

 

彼女が、自分自身の人生を選ぶ権利まで失うわけではない。

 

「……行こうか」

 

出久が言った。

 

「うん!」

 

少女は立ち上がった。

 

二人は、屋上の扉へ向かって歩き出した。

 

その背後で、夜空の片隅に、小さな文字が浮かび上がった。

 

『名前を与える者は、その名前を忘れてはならない』

 

その下に、新たな文章が現れた。

 

『名前を与えられた者は、その名前を選び直すことができる』

 

そして、さらに。

 

『名前を持たない者は、名前を持たないまま、存在してもよい』

 

最後の文章が浮かんだ瞬間。

 

どこか遠い場所で、誰かが泣いた。

 

それは、悲しみの涙だったのかもしれない。

 

安堵の涙だったのかもしれない。

 

あるいは、初めて自分の意思で何かを選ぶことができた者の、戸惑いだったのかもしれない。

 

誰にも分からない。

 

ただ、その涙が流れたことだけは、確かだった。

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