僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第七話「忘れた者は、もう一度愛せるのか」

第一節 知らない人のために、涙は流れるのか

最初に泣いたのは、病院の受付にいた女性だった。

 

午前九時十三分。

 

東京都内の総合病院。

 

受付の女性は、診察券を受け取った直後、突然、手を止めた。

 

目の前にいる患者は、初めて見る男性だった。

 

年齢は五十代ほど。

 

灰色の髪。

 

疲れた目。

 

少しだけ曲がった背中。

 

ごく普通の、どこにでもいる患者だった。

 

「どうかされましたか?」

 

男性が尋ねた。

 

受付の女性は答えなかった。

 

彼女は男性の顔を見つめていた。

 

知らない顔だった。

 

少なくとも、記憶の中では。

 

それなのに。

 

どうして。

 

どうして、こんなにも。

 

「……おかえりなさい」

 

口から出た言葉に、女性自身が驚いた。

 

男性も目を見開いた。

 

「え?」

 

女性は慌てて口元を押さえた。

 

「す、すみません。私、何を……」

 

謝罪しようとした。

 

しかし、声が震えた。

 

胸が痛かった。

 

目の前の男性が誰なのか分からない。

 

それでも、彼が長い旅から帰ってきたように思えた。

 

何年も待ち続けた人が、ようやく玄関の向こうに立っている。

 

そんな光景が、脳裏に浮かんだ。

 

夕暮れの玄関。

 

小さな靴。

 

湯気の立つ食卓。

 

帰りを待つ自分。

 

そして、帰ってきた誰かに向かって、自分は言うのだ。

 

――おかえりなさい。

 

「……どうして」

 

女性は涙を流した。

 

「どうして、あなたが帰ってきたのに、私は何も思い出せないんですか」

 

男性は困惑したまま、彼女を見つめていた。

 

彼にも、覚えはなかった。

 

彼女を知らない。

 

ここに来たのは、定期検査のためだ。

 

誰かに帰りを待たれていた記憶などない。

 

だが、女性の涙を見ているうちに、彼の胸にも妙な痛みが広がった。

 

理由の分からない寂しさ。

 

失ったものがあるという確信。

 

そして、失ったものを思い出してはいけないような恐怖。

 

男性は、無意識に呟いた。

 

「……ただいま」

 

女性は、さらに泣いた。

 

その瞬間。

 

病院の壁に設置されたデジタル時計が、一秒だけ停止した。

 

午前九時十四分。

 

世界のどこかで、何かが記録された。

 

『記憶を欠損した個体間において、感情反応の再接続を確認』

 

『対象識別不能』

 

『愛着反応、継続』

 

『修正処理を開始しますか』

 

最後の問いに、誰も答えなかった。

 

いや。

 

答えるはずだったものが、答えられなかった。

 

システムの内部で、かすかなノイズが走る。

 

そして、誰にも聞こえない声が呟いた。

 

――忘れているのに。

 

――どうして、まだ愛せるの?

 

その問いは、世界の外側へと流れていった。

 

そして、同じ問いが、緑谷出久の端末にも届いた。

 

出久が異常を知ったのは、午前九時二十七分だった。

 

雄英高校の旧資料棟。

 

現在は安寧システム関連の調査拠点として使用されているその場所には、教師、ヒーロー、元ヴィラン、そして本来なら同じ部屋に集まるはずのない人間たちがいた。

 

相澤消太。

 

ミッドナイト。

 

ホークス。

 

荼毘。

 

死柄木弔。

 

トガヒミコ。

 

トゥワイス。

 

そして、緑谷出久。

 

全員が同じ資料を見つめていたわけではない。

 

相澤は監視記録を確認し、ミッドナイトは紙の資料を分類していた。ホークスは公安の内部記録と照合を進め、荼毘は壁際で腕を組んでいる。死柄木は端末に触れようともせず、トガは落ち着きなく椅子を揺らし、トゥワイスは二つの声で交互に呟いていた。

 

「知らない奴のために泣くなんて、おかしいだろ」

 

「いや、おかしくない! おかしいのは、泣いてるのに理由が分からないことだ!」

 

「どっちなんだよ、お前」

 

「どっちもだ!」

 

いつものようなやり取りだった。

 

だが、誰も笑わなかった。

 

出久の端末には、病院から送られてきた映像が表示されていた。

 

受付の女性。

 

見知らぬ男性。

 

そして、二人の間に生まれた、説明できない感情。

 

「記憶の復元ではないんだね」

 

出久が呟いた。

 

「少なくとも、映像に残っている反応だけを見る限りは」

 

ホークスが答えた。

 

「記憶が戻ったなら、何かしら具体的な情報が出るはずです。名前とか、場所とか、共有した出来事とか。でも、この二人にはそれがない」

 

「感情だけが残った、ということか」

 

相澤が言った。

 

「あるいは、感情だけが戻った」

 

ミッドナイトが訂正した。

 

「この違いは大きいわ。前者なら、記憶を失っても感情は独立して残るという話。後者なら、記憶とは別の場所に保存されていた感情が、何らかのきっかけで再び表面化したということになる」

 

「……どっちでも、気味が悪いね」

 

トガが言った。

 

彼女は画面を覗き込んでいた。

 

いつもの笑顔はない。

 

「だって、知らない人なのに、帰ってきたって思うんでしょ?」

 

「そうだな」

 

出久が答える。

 

「でも、それが本当に正しい感情なのかは、まだ分からない」

 

「正しい?」

 

トガが顔を上げた。

 

「好きって気持ちに、正しいとか間違いとかあるんですか?」

 

出久は言葉に詰まった。

 

トガは笑わなかった。

 

「私、好きな人の血が欲しかったです。好きな人になりたかった。好きな人みたいに笑いたかった」

 

彼女は、自分の指先を見た。

 

「それを、間違いだって言われたら、私は何を好きだったんでしょう?」

 

誰も答えなかった。

 

トガは、人を傷つけた。

 

その事実は消えない。

 

しかし、彼女が誰かを好きになったという感情まで、最初から存在しなかったことにはできない。

 

それを認めることと、彼女の行為を許すことは、別の話だ。

 

出久は、その二つを混同したくなかった。

 

「……感情が本物だったとしても、それだけで何をしてもいいわけじゃない」

 

「うん」

 

トガは頷いた。

 

「でも、感情が本物だったことまで、嘘にしなくていいんですよね?」

 

出久は、すぐには答えられなかった。

 

その質問が、あまりにも深く、彼自身の胸に突き刺さったからだ。

 

忘れた者は、もう一度愛せるのか。

 

もし愛せるのなら。

 

愛していた相手を忘れたことは、罪なのか。

 

そして。

 

愛していたという記憶が戻らなかったとしても、その愛は本物だったと言えるのだろうか。

 

出久は画面を見つめた。

 

泣いている女性。

 

困惑する男性。

 

二人は、互いの名前すら知らない。

 

それなのに、男性が「ただいま」と答えた瞬間、女性の表情には確かな安堵が浮かんでいた。

 

まるで、長い間、誰かを待ち続けていたように。

 

「……調べよう」

 

出久は言った。

 

「この二人が誰なのか。何を忘れたのか。そして、どうして今になって感情だけが戻ってきたのか」

 

「もし、思い出さないほうが幸せだった場合は?」

 

荼毘が尋ねた。

 

出久は、彼を見た。

 

「それでも、本人が知りたいなら、知る権利はあると思う」

 

「本人が知りたいなら、か」

 

荼毘は薄く笑った。

 

「ずいぶん都合のいい言葉だな」

 

「都合がいい?」

 

「忘れた奴が、思い出したいと言ったら助ける。思い出したくないと言ったら、そっとしておく。だが、そのどちらも選べない奴はどうする?」

 

荼毘の声は静かだった。

 

「自分が誰を愛していたかも分からない。誰に愛されていたかも分からない。なのに、胸だけが痛む。そんな奴に、お前は何を選ばせる?」

 

出久は、答えを探した。

 

すぐに見つかるはずがなかった。

 

「……一緒に考える」

 

「答えになってねえよ」

 

「うん。でも、勝手に決めるよりはいい」

 

荼毘は鼻で笑った。

 

「そうかよ」

 

彼は窓の外へ視線を向けた。

 

その横顔に、出久は何かを見た。

 

怒り。

 

諦め。

 

そして、本人ですら認めたくないほど根深い、何かを待ち続ける感情。

 

出久は思った。

 

この事件は、記憶を失った人々だけの話ではない。

 

忘れたい人間もいる。

 

忘れられたい人間もいる。

 

忘れてしまったことを、許してほしい人間もいる。

 

そして。

 

忘れられたことを、許せない人間もいる。

 

その全員に、同じ問いが突きつけられている。

 

――それでも、もう一度愛せるのか。

第二節 忘却の記録

最初の手掛かりは、公安の保管庫から見つかった。

 

「……これは、ひどいな」

 

ホークスは、端末に表示された一覧を見ていた。

 

彼の表情から、普段の軽さが消えていた。

 

「何があったの?」

 

ミッドナイトが尋ねる。

 

「行方不明者の記録です。正確には、行方不明になったことすら記録されていない人たちの一覧」

 

「そんなもの、どうやって見つけたのよ」

 

「見つけたんじゃありません。記録の不整合を調べていたら、勝手に浮かび上がってきたんです」

 

ホークスは画面を共有した。

 

そこには、名前のない項目が並んでいた。

 

氏名欄は空白。

 

住所欄は空白。

 

生年月日も、家族構成も、職歴もない。

 

しかし、いくつかの項目には奇妙な記述が残されていた。

 

『保護対象者との接触記録あり』

 

『当該人物に関する証言が複数存在』

 

『証言者間で、対象者の存在認識に不一致』

 

『記憶欠損の可能性』

 

そして、一番下に。

 

『対象者を記憶する者は、対象者を失った経験を有する』

 

「……失った経験?」

 

相澤が眉を寄せた。

 

「死別、失踪、絶縁。記録上は、そのどれも確認できません」

 

ホークスは画面を拡大した。

 

「でも、証言者の一部に、説明できない喪失感が見られる。家族がいなくなったと言う人もいれば、子供がいた気がすると訴える人もいる。何年も前に亡くなったはずの親を、今朝も食事に誘った気がする、と話す人もいる」

 

「その記録、いつから?」

 

出久が尋ねた。

 

「最古のものは二十年以上前。ただし、当時の記録は断片的です。ここ一年で急増している」

 

「一年……」

 

出久は考え込んだ。

 

安寧システムの影響が広がり始めた時期と重なる。

 

だが、単純にシステムが原因だと決めつけるのは危険だった。

 

以前から存在していた現象が、システムの変化によって表面化した可能性もある。

 

あるいは。

 

もっと古い何かが、安寧システムを利用しているのかもしれない。

 

「ホークスさん。この記録の中に、家族を失った人はいますか?」

 

「います。大勢」

 

「じゃあ、家族がいたはずなのに、誰も覚えていない人は?」

 

「……それが、問題なんです」

 

ホークスは別の資料を開いた。

 

そこには、ある男性の記録があった。

 

年齢四十二歳。

 

職業、会社員。

 

婚姻歴なし。

 

子供なし。

 

両親はすでに死亡。

 

特筆すべき事項なし。

 

「この男性、先月、警察に相談しているんです。自宅に子供用の歯ブラシがある、と」

 

「子供用の歯ブラシ?」

 

「はい。しかも、一本じゃない。浴室に二本。洗面台の引き出しに三本。新品のものもあれば、使い古されたものもある」

 

「親戚の子供が泊まりに来たとか?」

 

相澤の問いに、ホークスは首を横に振った。

 

「本人も、そう考えたそうです。でも、誰に聞いても、子供が泊まりに来た記録はない。親戚にも該当する子供はいない。近所の人も、子供の姿を見たことがないと言っている」

 

「じゃあ、捨てればいいじゃない」

 

荼毘が言った。

 

「気味が悪いなら、それで終わりだろ」

 

「そうできなかったんです」

 

ホークスは答えた。

 

「本人は、歯ブラシを捨てようとすると、強い不安を感じるそうです。捨てたら、誰かが二度と帰ってこなくなる。そんな気がする、と」

 

その場の空気が変わった。

 

出久は、画面に表示された歯ブラシの写真を見た。

 

小さな歯ブラシ。

 

青いもの。

 

黄色いもの。

 

どちらも、使い込まれていた。

 

毛先が少し開いている。

 

柄の部分には、子供が噛んだような小さな傷まであった。

 

誰かが使っていた。

 

間違いなく。

 

けれど、誰が?

 

「……その人に会いたいです」

 

出久が言った。

 

「本人が望むなら、直接話を聞きたい」

 

「分かりました。連絡を取ります」

 

ホークスは端末を操作した。

 

その時だった。

 

「待って」

 

ミッドナイトが、別の書類を取り上げた。

 

彼女は、一枚の紙をじっと見ていた。

 

「この男性の住所……どこかで見たことがある」

 

「知り合いですか?」

 

「違うわ。住所じゃない。建物の名前よ」

 

彼女は、資料を何枚かめくった。

 

そして、あるページで手を止めた。

 

「……雄英の旧寮」

 

全員が彼女を見た。

 

「この住所、昔の雄英高校関係者用の寮と同じ区画にある。今は取り壊されているはずだけど」

 

「昔の寮?」

 

相澤が確認する。

 

「ええ。教師や職員の家族が一時的に住める施設があったの。ずいぶん前に閉鎖されたから、詳しく覚えている人も少ないでしょうけど」

 

ミッドナイトは、記録の隅にある数字を指差した。

 

「それと、これ。建物の管理番号じゃない。雄英の生徒に割り当てられる識別番号の形式に似ている」

 

「……生徒?」

 

出久の胸がざわついた。

 

「その時代の名簿を確認できますか?」

 

「もちろん」

 

ミッドナイトは立ち上がった。

 

「こういう時のために教師がいるのよ。生徒を覚えていることが、私たちの仕事なんだから」

 

その言葉に、出久は頷いた。

 

教師が生徒を覚えている。

 

当たり前のことだ。

 

だが、もし。

 

教師が覚えているはずの生徒が、記録から消されていたら?

 

卒業写真から消え、成績表から消え、誰の記憶にも残っていなかったら?

 

それでも、教師はその子を覚えていると言えるのだろうか。

 

出久は、画面を見つめた。

 

空白の氏名欄。

 

そこには、何もない。

 

しかし、その空白は、ただ何も書かれていないだけの空白ではなかった。

 

何かが、そこにあった。

 

そして、誰かが、それを消した。

 

第三節 先生は、生徒の名前を忘れない

雄英高校の旧資料室には、埃の匂いが染みついていた。

 

ミッドナイトは、鍵を開けた瞬間に顔をしかめた。

 

「もう少し整理しておきなさいよ、まったく」

 

「閉鎖されてから何年経ったと思ってるんですか」

 

相澤が呆れたように答える。

 

「だからこそ、よ。こういう場所には、忘れられたものが残るの」

 

彼女は照明を点けた。

 

天井の蛍光灯が、何度か明滅してから点灯する。

 

部屋には、古い書類棚が並んでいた。

 

年度ごとの成績表。

 

卒業生の名簿。

 

保護者面談の記録。

 

進路指導の資料。

 

そして、古い集合写真。

 

ミッドナイトは、真っ先に名簿を確認した。

 

「二十年以上前……このあたりね」

 

彼女は、背表紙に書かれた年度を見ながら、棚から一冊を抜き取った。

 

ページをめくる。

 

名前が並んでいる。

 

顔写真。

 

個性の登録情報。

 

入学時の健康診断。

 

進級記録。

 

卒業後の進路。

 

すべてが、きちんと記録されていた。

 

「……おかしいわね」

 

ミッドナイトの指が止まった。

 

「どうしたんです?」

 

出久が隣に立つ。

 

「このクラス、人数が合わない」

 

名簿に記載された生徒は三十人。

 

しかし、集合写真には三十一人が写っていた。

 

教師を除いて、三十一人。

 

一人、多い。

 

「転入生じゃないんですか?」

 

「転入生なら、名簿に追記があるはずよ。写真の撮影日も確認したけど、この三十一人が同じクラスだった時期はない」

 

ミッドナイトは、写真を机に置いた。

 

一人ずつ、指で数えていく。

 

男子生徒。

 

女子生徒。

 

男子生徒。

 

女子生徒。

 

そして、最後の一人。

 

顔が、ぼやけていた。

 

いや、写真が劣化しているのではない。

 

そこだけ、ピントが合っていない。

 

他の生徒の顔は鮮明なのに、その一人だけ、顔の輪郭が定まらない。

 

まるで、見る側の目が、その人物を認識することを拒んでいるかのようだった。

 

「……これ、加工されたんじゃないですか?」

 

相澤が写真を覗き込む。

 

「普通の加工なら、もっと不自然な痕跡が残るわ。これは違う」

 

ミッドナイトは、写真を傾けた。

 

「紙そのものは古い。インクも他の部分と同じ時期のもの。でも、この子だけ、最初から記録されていなかったみたいに見える」

 

「最初から?」

 

出久が呟いた。

 

「ええ。存在していた痕跡はある。でも、存在を証明する情報だけが、どこにもない」

 

彼は写真を見つめた。

 

顔は分からない。

 

名前も分からない。

 

けれど、写真の中のその人物は、確かに他の生徒たちと並んでいた。

 

肩が触れるほど近くに。

 

一緒に卒業写真を撮るほど、同じ時間を過ごしていた。

 

それなのに。

 

「……誰も、この子を覚えていないんですか?」

 

出久が尋ねた。

 

ミッドナイトは答えなかった。

 

彼女は目を閉じた。

 

長い沈黙のあと、ゆっくりと口を開く。

 

「覚えているわ」

 

出久が顔を上げた。

 

「本当に?」

 

「……分からない」

 

ミッドナイトは、自分の額に手を当てた。

 

「私は、この子のことを覚えている気がする。授業中に居眠りしていたとか、保健室に来たとか、そういう細かい場面が浮かぶの。でも、顔が思い出せない。名前も出てこない」

 

彼女の声が震えた。

 

「それなのに、私は、この子に何かを約束した気がするのよ」

 

「何を?」

 

「……分からない」

 

彼女は唇を噛んだ。

 

「先生なのに」

 

その言葉は、ひどく小さかった。

 

「教師なのに、教え子の名前を思い出せない」

 

出久は、何も言えなかった。

 

ミッドナイトは、普段なら決して見せないような顔をしていた。

 

自分の無力さを知った人間の顔だった。

 

「名前を忘れたことが、そんなに悪いことなのかしら」

 

彼女は呟いた。

 

「人間は忘れるわ。毎日、たくさんのことを忘れる。生徒全員の顔を、卒業して何十年も経ってから完璧に思い出せる教師なんていない」

 

彼女は写真に触れた。

 

「でも、忘れてしまったことを理由に、この子が存在しなかったことにしていいはずがない」

 

その瞬間。

 

写真の表面が、わずかに波打った。

 

全員が息を呑む。

 

ぼやけていた人物の輪郭が、一瞬だけ鮮明になった。

 

黒髪。

 

細い肩。

 

少しだけ伏せられた目。

 

そして、その人物は。

 

写真の中で、隣に立つミッドナイトの袖を掴んでいた。

 

まるで、置いていかないでほしいと願うように。

 

「……っ!」

 

ミッドナイトが息を詰めた。

 

脳裏に、映像が流れ込んだ。

 

夕暮れの教室。

 

誰もいないはずの廊下。

 

一人の生徒が、職員室の前に立っている。

 

「先生」

 

その子が呼ぶ。

 

「私、卒業したら、ちゃんと先生に会いに来ます」

 

ミッドナイトは笑っている。

 

「ええ。待ってるわ」

 

「本当に?」

 

「本当よ。教師はね、卒業生がいつ帰ってきてもいいように、いつだって学校にいるんだから」

 

生徒は、泣きそうな顔で笑った。

 

「……約束ですよ」

 

そこで映像が途切れた。

 

ミッドナイトは、机に手をついた。

 

「……約束した」

 

彼女の目から涙が落ちた。

 

「私は、この子に約束したんだわ」

 

出久が、そっと尋ねる。

 

「何を?」

 

ミッドナイトは、写真を握りしめた。

 

「帰ってきたら、ちゃんと名前を呼んであげるって」

 

誰も動かなかった。

 

その言葉が、資料室の中に落ちた。

 

名前を呼ぶ。

 

たったそれだけの約束。

 

それなのに、彼女は、その約束を果たせなかった。

 

生徒は帰ってこなかった。

 

あるいは、帰ってきていたのに、彼女が気づけなかったのかもしれない。

 

どちらなのかも、もう分からない。

 

「……ごめんなさい」

 

ミッドナイトは、写真に向かって呟いた。

 

「ごめんなさい。先生、あなたの名前を忘れてしまった」

 

その時だった。

 

写真の中の人物の口元が、わずかに動いた。

 

声は聞こえない。

 

だが、出久には、その人物が何を言ったのか、なぜか分かった気がした。

 

――先生。

 

――私は、怒っていません。

 

そして。

 

――ただ、もう一度、名前を呼んでほしかった。

 

第四節 忘れた人間にも、罪はあるのか

「記憶が戻れば、全部解決すると思っていたんだろうな」

 

旧資料室を出たあと、荼毘が言った。

 

「記憶を取り戻せば、忘れた相手に謝れる。失ったものを取り戻せる。そう考えていた」

 

彼は壁に背を預けた。

 

「だが、忘れた理由が分からなきゃ、謝ることすらできない」

 

出久は黙って聞いていた。

 

「それに、忘れた側が必ず悪いとは限らねえ」

 

荼毘は自分の手を見た。

 

「忘れなきゃ生きられないこともある。覚えていたら、壊れる人間もいる」

 

「……そうだね」

 

「でも、忘れられた側は?」

 

荼毘が出久を見た。

 

「そいつは、どうすりゃいい?」

 

答えは、やはり簡単ではなかった。

 

忘れた側には、忘れる理由があったのかもしれない。

 

忘れられた側にも、忘れられたくない理由があったはずだ。

 

そのどちらかを正しいと決めてしまえば、もう片方の苦しみを切り捨てることになる。

 

「……忘れたこと自体を、罪だと決めることはできないと思う」

 

出久は言った。

 

「でも、忘れたことを理由に、相手が受けた傷まで無かったことにするのも違う」

 

「だったら、どうする?」

 

「覚えていないなら、覚えていないと認める。分からないなら、分からないと伝える。その上で、相手が何を望んでいるのかを聞く」

 

「相手が『思い出せ』と言ったら?」

 

「思い出す努力をする」

 

「『思い出すな』と言ったら?」

 

「……その理由を聞く。本人が話したくないなら、無理には聞かない」

 

荼毘は、少しだけ目を細めた。

 

「結局、相手次第か」

 

「うん」

 

出久は頷いた。

 

「相手の人生だから」

 

荼毘は笑った。

 

だが、その笑みには、嘲りだけではない何かが混じっていた。

 

「お前は、相変わらず面倒な答えを選ぶな」

 

「簡単な答えで誰かを傷つけるよりは、いいと思う」

 

「そうかよ」

 

荼毘は視線を逸らした。

 

その横顔を見ながら、出久は思った。

 

荼毘は、誰かに忘れられることを恐れているのだろうか。

 

それとも。

 

誰かに覚えられ続けることを、恐れているのだろうか。

 

彼が轟焦凍の兄であること。

 

轟燈矢という人間だったこと。

 

家族に愛されたいと願ったこと。

 

そして、家族を傷つける道を選んだこと。

 

それらは、どれか一つだけを残して、他を消せるものではない。

 

「……荼毘」

 

「何だよ」

 

「もし、誰かが君のことを忘れていたとしても」

 

荼毘の目が、わずかに動いた。

 

「君が生きていたことまで、無かったことにはならない」

 

沈黙。

 

「……だから何だ」

 

「それでも、忘れられたことが悲しいなら、悲しいって言っていいと思う」

 

荼毘は、しばらく出久を見つめていた。

 

やがて、低い声で言った。

 

「お前、誰にでもそういうことを言うのか?」

 

「……言わないと、伝わらないこともあるから」

 

「伝わったら、何か変わるのかよ」

 

出久は答えた。

 

「変わるかもしれない」

 

「変わらなかったら?」

 

「それでも、言わなかったことにはならない」

 

荼毘は目を閉じた。

 

そして、小さく息を吐いた。

 

「……本当に、面倒くせえ奴だ」

 

その言葉に、いつもの棘はなかった。

 

出久は、それ以上何も言わなかった。

 

言葉だけで救えるものがあるとは思っていない。

 

だが、言葉にしなければ、誰にも届かないものがある。

 

それもまた、事実だった。

 

第五節 兄さんを忘れたら、私は誰を好きになるの?

その日の午後、トガヒミコは、奇妙な夢を見た。

 

夢の中には、見知らぬ部屋があった。

 

狭い部屋。

 

薄いカーテン。

 

小さなテーブル。

 

テーブルの上には、二つのカップが置かれていた。

 

一つは赤いカップ。

 

もう一つは、白いカップ。

 

赤いカップの縁には、口紅の跡が残っていた。

 

白いカップには、飲みかけの紅茶が入っていた。

 

そして、テーブルの向こう側には、誰かが座っていた。

 

顔は見えない。

 

声も聞こえない。

 

けれど、トガには分かった。

 

その人は、自分を知っている。

 

自分のことを、何度も名前で呼んでくれた。

 

自分が笑えば、一緒に笑ってくれた。

 

自分が泣けば、理由を聞いてくれた。

 

そして、自分が誰かを好きだと言った時。

 

その人は、少し困ったような顔をして、こう言ったのだ。

 

――好きになることは、悪いことじゃないよ。

 

――でも、好きだからって、相手の全部を奪っていいわけじゃない。

 

トガは、夢の中で笑った。

 

「分かってますよ」

 

そう答えた。

 

「でも、好きなんです」

 

相手は頷いた。

 

――うん。

 

――それなら、好きなままでいなさい。

 

――ただし、相手が嫌がることをしたなら、ちゃんと謝りなさい。

 

トガは、その言葉を聞いて、泣きそうになった。

 

「……そんなの、難しいですよ」

 

――難しいね。

 

「どうしたらいいんですか?」

 

――考えるんだよ。

 

「一緒に?」

 

相手は答えなかった。

 

ただ、白いカップを手に取った。

 

そして、飲みかけの紅茶を口にした。

 

トガは、その人の顔を見ようとした。

 

どうしても、見たかった。

 

誰なのか知りたかった。

 

自分を名前で呼んでくれた人。

 

自分が間違えた時、間違えたと教えてくれた人。

 

それでも、自分を完全には見捨てなかった人。

 

「……誰?」

 

問いかけた瞬間、夢の景色が崩れた。

 

テーブルが消える。

 

カップが消える。

 

部屋が消える。

 

最後に、その人の声だけが残った。

 

――トガちゃん。

 

――あなたは、あなたのままでいいんだよ。

 

トガは、目を覚ました。

 

「……っ!」

 

息を吸う。

 

胸が痛い。

 

涙が流れていた。

 

自分でも驚くほど、涙が止まらなかった。

 

「……誰?」

 

トガは、もう一度呟いた。

 

「誰なの……?」

 

自分をトガちゃんと呼んだ人。

 

そんな人がいたのだろうか。

 

自分の人生の中で、誰かがそんなふうに呼んでくれたことがあっただろうか。

 

思い出せない。

 

顔も、名前も、声も。

 

何一つ、はっきりしない。

 

それなのに。

 

自分が大切な何かを失ったことだけは、分かった。

 

トガは、両手で顔を覆った。

 

「……やだ」

 

声が震えた。

 

「やだよ……」

 

誰かに会いたい。

 

誰かに名前を呼んでほしい。

 

誰かに、自分がここにいてもいいのだと言ってほしい。

 

それが誰なのかも分からないまま。

 

トガは、泣き続けた。

 

目を覚ましたトガを見つけたのは、トゥワイスだった。

 

「どうした、トガちゃん!」

 

「どうもしないよ!」

 

「泣いてるじゃないか!」

 

「泣いてない!」

 

「いや、泣いてる! 泣いてないのに涙が出るのか!?」

 

「うるさいなあ……」

 

トガは、涙を拭った。

 

トゥワイスは、彼女の隣に座った。

 

しばらく、何も言わなかった。

 

彼は、普段なら沈黙に耐えられない。

 

だが、今は黙っていた。

 

トガは、そのことに気づいた。

 

「……トゥワイスくん」

 

「何だ?」

 

「誰かを忘れたこと、ある?」

 

トゥワイスの表情が変わった。

 

「……ある」

 

短い答えだった。

 

トガは顔を上げた。

 

「誰を?」

 

「分からない」

 

トゥワイスは笑おうとした。

 

失敗した。

 

「分からないんだ。忘れた相手が誰なのか、思い出せない。思い出せないのに、忘れたってことだけは分かる」

 

彼は、自分の頭を軽く叩いた。

 

「俺は、自分のことだってよく分からなくなる。何が本当で、何が嘘なのか。どこまでが俺で、どこからが俺じゃないのか」

 

「……うん」

 

「でもさ」

 

トゥワイスは、トガを見た。

 

「忘れたからって、最初からいなかったことにはならないんじゃないか?」

 

トガは黙った。

 

「俺は、俺が何を忘れたのか知らない。でも、忘れたことで寂しいなら、寂しいって言っていいと思うんだ」

 

彼は少しだけ笑った。

 

「理由が分からない悲しみだって、悲しみには違いないだろ」

 

トガは、目を伏せた。

 

「……私、誰かを好きだった気がするんです」

 

「うん」

 

「でも、誰なのか分からない」

 

「うん」

 

「好きだったって思うのに、顔も名前も出てこない」

 

「……うん」

 

「それって、好きだったって言っていいんですか?」

 

トゥワイスは、すぐには答えなかった。

 

彼は、しばらく考えていた。

 

そして、言った。

 

「俺は、言っていいと思う」

 

トガが顔を上げる。

 

「だって、今、寂しいんだろ?」

 

「……うん」

 

「誰かを好きだったことが、今のトガちゃんを寂しくしてる。なら、その気持ちは、少なくとも今ここにある」

 

トゥワイスは、自分の胸を指差した。

 

「思い出せないことと、何もなかったことは、同じじゃない」

 

トガは、唇を噛んだ。

 

そして、小さく頷いた。

 

「……ありがとう」

 

「どういたしまして!」

 

トゥワイスは胸を張った。

 

「俺は頼れる男だ! 頼りない男だ!」

 

「どっちなの?」

 

「どっちもだ!」

 

トガは、少しだけ笑った。

 

その笑顔は、いつものものとは違っていた。

 

悲しみが消えたわけではない。

 

答えが見つかったわけでもない。

 

ただ、悲しみを一人で抱えなくてもいいのだと、ほんの少しだけ思えた。

 

トゥワイスは、それを見て安心した。

 

だが、その直後。

 

彼の表情が、凍りついた。

 

「……あれ?」

 

「どうしたの?」

 

トゥワイスは、自分の手を見ていた。

 

指先が震えている。

 

「俺……今、誰かに言われた気がする」

 

「何を?」

 

「……忘れても、探してくれるって」

 

トガは息を呑んだ。

 

「誰に?」

 

トゥワイスは、顔を上げた。

 

その目に、困惑と恐怖が浮かんでいた。

 

「……分からない」

 

彼は、ゆっくりと首を振った。

 

「分からないんだ。でも、確かに聞いたんだ」

 

声が震えた。

 

「誰かが、俺に言ったんだよ」

 

――あなたが忘れても、私はあなたを探す。

 

その言葉が、トゥワイスの胸の奥で響いていた。

 

だが、誰の声なのか。

 

それだけが、どうしても分からなかった。

 

第六節 ホークスは、誰を置き去りにしたのか

ホークスは、公安の地下保管庫にいた。

 

正確には、地下保管庫へ続く通路の前に立っていた。

 

扉には、旧式の電子錠が取り付けられている。

 

その向こうにあるのは、廃棄対象となった過去の記録。

 

現在の公安が参照することを許されていない資料。

 

組織の歴史から切り離された人々の記録だった。

 

「……嫌な場所だなあ」

 

ホークスは呟いた。

 

「自分の家の押し入れを開けるみたいな気分だ」

 

誰も笑わなかった。

 

同行している相澤が、扉を見つめている。

 

「入れるのか?」

 

「一応、権限はあります。ただ、開けたことがないんですよ」

 

「なぜだ?」

 

「開けなくても仕事ができたから、ですかね」

 

ホークスは苦笑した。

 

「知らないほうが楽なことって、あるでしょう?」

 

相澤は何も言わなかった。

 

ホークスは端末を操作した。

 

認証。

 

照合。

 

アクセス許可。

 

最後に、警告が表示された。

 

『本記録群には、削除済み個人情報が含まれています』

 

『閲覧者の記憶に影響を及ぼす可能性があります』

 

『閲覧を続行しますか』

 

ホークスは、迷わず続行を選んだ。

 

扉が開いた。

 

中には、無数の記録媒体が並んでいた。

 

古い紙のファイル。

 

光学ディスク。

 

破損した端末。

 

封印された箱。

 

そして、そのすべてに共通していたものがある。

 

名前が、なかった。

 

「……これ、全部?」

 

相澤が尋ねた。

 

「たぶん」

 

ホークスは、一つの箱を開けた。

 

中には、古い写真が入っていた。

 

ヒーローたちの集合写真。

 

訓練施設の記録。

 

公安職員の名簿。

 

どれも、人物の一部が黒く塗りつぶされているわけではない。

 

写真は正常だった。

 

しかし、そこに写っている人物のうち何人かだけ、見る者の目が、その顔を認識できない。

 

名前を見ようとすると、視線が滑る。

 

文字を読もうとすると、意味が抜け落ちる。

 

まるで、記録を読んでいる人間自身が、その情報を無意識に拒絶しているかのようだった。

 

「……安寧システムの処理に似ている」

 

相澤が言った。

 

「ええ。でも、これがすべてシステムによるものなら、もっと新しい形式の記録にも同じ痕跡があるはずです」

 

ホークスは、別のファイルを開いた。

 

そこには、彼自身の記録があった。

 

幼少期。

 

保護された時期。

 

訓練の開始。

 

ヒーローとしての活動。

 

公安に所属した経緯。

 

そして、彼が関わった任務の一覧。

 

「……ん?」

 

ホークスの指が止まった。

 

任務記録の中に、一つだけ不自然な項目があった。

 

『共同保護対象者との接触』

 

日付は、彼がまだ幼かった頃。

 

詳細欄は空白。

 

関係者欄も空白。

 

ただ、任務の結果だけが記されていた。

 

『保護対象者、施設外へ移送』

 

『移送完了』

 

『関係記録、処理済み』

 

「共同保護対象者……?」

 

ホークスは、首を傾げた。

 

自分が保護された時期に、ほかにも誰かがいたのだろうか。

 

いや。

 

自分は、ずっと一人だったはずだ。

 

少なくとも、そう教えられてきた。

 

公安に拾われた子供。

 

利用価値を見いだされ、訓練を受けた子供。

 

羽を持つ少年。

 

その経歴に、誰かと一緒に保護された記憶はない。

 

なのに。

 

「……俺、誰かと一緒だったのか?」

 

ホークスの声が、かすれた。

 

相澤が隣に立った。

 

「思い出せないのか?」

 

「ええ」

 

ホークスは笑おうとした。

 

「まったく」

 

いつもの軽い笑顔は、うまく作れなかった。

 

「でも、何か変なんですよ」

 

彼は、ファイルの端を指でなぞった。

 

「この記録を見ていると、俺、誰かに謝らなきゃいけない気がするんです」

 

「何を謝る?」

 

「分かりません」

 

ホークスは目を閉じた。

 

その瞬間。

 

遠い記憶の奥から、声が聞こえた。

 

――行って。

 

幼い声。

 

――僕のことは、忘れていいから。

 

別の声が答えた。

 

――忘れるわけないだろ。

 

そして、何かが燃える音。

 

誰かが泣いている。

 

誰かが、自分の名前を呼んでいる。

 

ホークスは、思わず耳を塞いだ。

 

「……っ!」

 

相澤が肩を支える。

 

「ホークス!」

 

「大丈夫……大丈夫です」

 

ホークスは息を整えた。

 

「すみません。ちょっと、頭が……」

 

彼は、震える手でファイルを閉じた。

 

しかし、その直前。

 

一枚の紙が、箱の底から滑り落ちた。

 

そこには、幼いホークスの写真があった。

 

そして、その隣に。

 

もう一人、子供が写っていた。

 

顔は見えない。

 

名前もない。

 

ただ、その子はホークスの袖を掴んでいた。

 

まるで、離れないように。

 

まるで、置いていかれないように。

 

ホークスは、写真を拾い上げた。

 

「……ごめん」

 

声が漏れた。

 

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 

「……ごめんな」

 

相澤は、その言葉を聞いた。

 

しかし、何も尋ねなかった。

 

尋ねれば、ホークスは説明しようとするだろう。

 

説明できないことを。

 

覚えていないことを。

 

それでも、謝りたいと思っていることを。

 

相澤は、写真を見た。

 

そして、静かに言った。

 

「覚えていないなら、今から調べればいい」

 

ホークスは顔を上げた。

 

「……先生」

 

「思い出せないことを、無理に思い出す必要はない。ただ、忘れたことを理由に、そいつの存在まで捨てるな」

 

相澤は、写真を指差した。

 

「ここに写っている。それだけでも、始める理由にはなる」

 

ホークスは、しばらく写真を見つめていた。

 

やがて、ゆっくりと頷いた。

 

「……そうですね」

 

彼は写真を丁寧に保管袋へ入れた。

 

「今度は、置いていかないようにします」

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

地下保管庫の奥で、何かが動いた。

 

棚の一番奥。

 

封印された箱。

 

箱の側面には、古い文字が刻まれていた。

 

『記憶保持者』

 

『対象者が忘却した場合、保持者は対象者を探してはならない』

 

そして、その下に。

 

『保持者が対象者を再び愛した場合、記録は復元される』

 

ホークスは、その文字を見た。

 

「……何だ、これ」

 

相澤が振り返る。

 

「触るな」

 

しかし、ホークスはすでに、その箱へ手を伸ばしていた。

 

箱の表面に触れた瞬間。

 

彼の羽が、震えた。

 

無数の羽が、意志を持ったように広がる。

 

そして、ホークスの脳裏に、一つの名前が浮かびかけた。

 

――。

 

音にならない。

 

文字にならない。

 

ただ、確かにそこにある。

 

ホークスは、歯を食いしばった。

 

「……誰なんだよ」

 

返事はなかった。

 

ただ、箱の内部から、かすかな音がした。

 

まるで、誰かが内側から叩いているような音だった。

 

コン。

 

コン。

 

コン。

 

三回。

 

そして、声が聞こえた。

 

「……お兄ちゃん?」

 

ホークスは、息を止めた。

 

相澤も、その声を聞いた。

 

子供の声だった。

 

ひどく懐かしい声だった。

 

けれど、二人とも。

 

その声の主を知らなかった。

 

第七節 死柄木弔は、忘れることを許されなかった

死柄木は、部屋の隅に座っていた。

 

他の人間たちが記録を調べている間、彼はほとんど何もしていなかった。

 

画面に表示される名前。

 

消された名前。

 

取り戻そうとする記憶。

 

誰かを愛していたという感情。

 

そんなものを、彼は信用していなかった。

 

いや。

 

信用できなかった。

 

「……くだらねえ」

 

死柄木は呟いた。

 

「忘れたなら、それで終わりだろ」

 

彼の声に、出久が振り返る。

 

「そう思う?」

 

「ああ」

 

死柄木は壁にもたれた。

 

「人間は、忘れる。忘れて、都合のいいものだけ残す。自分が傷ついたことは覚えていても、自分が誰かを傷つけたことは忘れる」

 

彼は、自分の指先を見た。

 

「逆もある。誰かを傷つけたことばかり覚えていて、自分が何をされたのか忘れる」

 

出久は、黙って聞いていた。

 

「どっちにしろ、記憶なんてものは信用できねえ。人間が自分を納得させるために、勝手に形を変える」

 

「……そうかもしれない」

 

「なら、忘れた奴を責めても仕方ねえだろ」

 

死柄木は笑った。

 

「忘れられた側だって、いつか誰かを忘れる。自分だけが永遠に覚えていられると思ってるなら、そいつはただの馬鹿だ」

 

その言葉は、ひどく冷たかった。

 

だが、出久には分かった。

 

死柄木は、忘れることを許されてこなかったのだ。

 

幼い頃の出来事。

 

家族を失った記憶。

 

自分の手で破壊してしまったもの。

 

誰かに植え付けられた憎しみ。

 

彼は、それらを忘れられなかった。

 

忘れたくても、忘れられなかった。

 

そして、忘れられないことを理由に、誰かに利用されてきた。

 

「……弔」

 

出久は、慎重に言葉を選んだ。

 

「もし、君が何かを忘れていたとしても」

 

「俺は、忘れてねえよ」

 

死柄木は即座に答えた。

 

「俺が何を壊したか。誰を傷つけたか。何を憎んできたか。全部覚えてる」

 

「うん」

 

「だから、俺に忘れたものがあるとしたら、それは俺が覚えておく価値もないと思ったものだ」

 

「本当に?」

 

死柄木の目が細くなった。

 

「……何が言いたい」

 

「覚えていないことと、価値がなかったことは、同じじゃないと思う」

 

沈黙が落ちた。

 

死柄木は、出久を見つめていた。

 

その瞳に怒りが浮かぶ。

 

「……お前は、何でもかんでも意味があるって言いたいのか?」

 

「違う」

 

出久は首を振った。

 

「意味があったかどうかは、僕が決めることじゃない。君が決めることだと思う」

 

「だったら、俺が価値がなかったと言ったら?」

 

「その答えに至った理由を、聞きたい」

 

「理由?」

 

「うん」

 

出久は、真っ直ぐに死柄木を見た。

 

「本当に価値がなかったのか。それとも、価値があったと思うことが、苦しいのか」

 

死柄木の表情が変わった。

 

ほんの一瞬。

 

だが、確かに変わった。

 

「……黙れ」

 

声が低くなる。

 

「俺のことを、勝手に理解した気になるな」

 

「ごめん」

 

出久はすぐに謝った。

 

「理解したつもりはない。ただ、知りたいんだ」

 

「知ってどうする」

 

「君が何を望んでいるのか、考えたい」

 

死柄木は立ち上がった。

 

椅子が床を擦る。

 

「……俺は、何も望んでねえ」

 

そう言い捨てて、彼は部屋を出ていった。

 

出久は追いかけなかった。

 

今は、追いかけるべきではないと思った。

 

だが、死柄木が廊下に出た直後。

 

彼は足を止めた。

 

誰もいないはずの廊下。

 

窓から差し込む夕日。

 

壁に掛けられた古い写真。

 

その写真の中に、見知らぬ少年がいた。

 

少年は、死柄木を見ていた。

 

いや。

 

写真の中の少年が見ているのは、死柄木ではない。

 

もっと幼い、別の誰かだった。

 

少年は笑っていた。

 

手には、小さな玩具。

 

そして、その隣には。

 

死柄木自身が立っていた。

 

幼い頃の自分。

 

まだ、すべてを憎む前の自分。

 

写真の中の死柄木は、少年の肩に手を置いていた。

 

まるで、兄のように。

 

死柄木は、写真を見つめた。

 

「……誰だ」

 

少年の顔が、わずかに揺らいだ。

 

次の瞬間、写真は元に戻った。

 

少年の姿は、消えていた。

 

死柄木は、写真を壁から外した。

 

裏側には、何も書かれていない。

 

日付もない。

 

撮影場所もない。

 

ただ、紙の裏面に、爪で引っ掻いたような文字が残されていた。

 

『忘れないで』

 

死柄木の指が止まった。

 

彼は、その文字を見つめた。

 

そして、笑った。

 

「……誰が」

 

声が震えていた。

 

「誰が、お前なんかを忘れるかよ」

 

彼は、写真を握りつぶしかけた。

 

しかし、指先に力が入らなかった。

 

壊せなかった。

 

何かを壊すことには、慣れていた。

 

壁も。

 

建物も。

 

人間も。

 

世界そのものも。

 

けれど、この写真だけは。

 

なぜか、壊せなかった。

 

死柄木は、しばらく立ち尽くしていた。

 

やがて、写真をポケットにしまった。

 

誰にも見られないように。

 

誰にも知られないように。

 

そして、誰にも奪われないように。

 

第八節 荼毘の名前を呼んだ声

「轟燈矢」

 

その声を聞いた瞬間、荼毘は動きを止めた。

 

振り返る。

 

廊下には、誰もいなかった。

 

「……誰だ」

 

返事はない。

 

荼毘は、ゆっくりと歩き出した。

 

もう一度、声がした。

 

「轟燈矢」

 

今度は、はっきりと。

 

その声は、懐かしかった。

 

聞き覚えがあった。

 

だが、誰の声なのかが分からない。

 

母親か。

 

父親か。

 

弟か。

 

それとも。

 

自分が、もう二度と会えないと思っていた誰かか。

 

荼毘は、壁に手をついた。

 

「……ふざけんな」

 

声が低くなる。

 

「今さら、何の用だ」

 

その瞬間、廊下の照明が消えた。

 

暗闇の中に、青い炎が灯る。

 

荼毘の個性が、無意識に反応していた。

 

炎は揺れていた。

 

まるで、何かを恐れているように。

 

「……俺の名前を呼ぶな」

 

彼は、誰もいない空間に向かって言った。

 

「その名前を呼ぶ資格がある奴なんて、もういねえんだよ」

 

青い炎が、壁を舐める。

 

しかし、声は消えなかった。

 

「燈矢」

 

今度は、別の声だった。

 

優しい声。

 

泣きそうな声。

 

「……帰ってきて」

 

荼毘の呼吸が止まった。

 

それは、彼が聞きたかった言葉だった。

 

ずっと。

 

何年も。

 

何十年も。

 

誰かに言ってほしかった言葉。

 

帰ってきて。

 

待っている。

 

ここにいていい。

 

お前は、私たちの家族だ。

 

そんな言葉を。

 

けれど、今さら。

 

今さら、そんな言葉を聞いて、どうしろというのか。

 

「……遅えよ」

 

荼毘は笑った。

 

笑いながら、炎を強めた。

 

「遅すぎるんだよ」

 

声が震える。

 

「俺がどれだけ待ったと思ってんだ」

 

誰も答えない。

 

「俺が、どれだけ……!」

 

言葉が途切れた。

 

荼毘は、壁に拳を叩きつけた。

 

「……クソッ!」

 

炎が散る。

 

熱が廊下を満たす。

 

それでも、声は消えなかった。

 

「燈矢」

 

「やめろ」

 

「燈矢」

 

「やめろっつってんだろ!」

 

彼は叫んだ。

 

「その名前で呼ぶな!」

 

その瞬間、炎が消えた。

 

廊下は、静まり返った。

 

そして、暗闇の向こうから、最後の声が聞こえた。

 

「……ごめんなさい」

 

荼毘は、動かなかった。

 

その謝罪が、誰のものなのか。

 

何に対するものなのか。

 

彼には分からなかった。

 

だが、その声を聞いた瞬間。

 

彼の胸の奥で、何かが崩れた。

 

怒りではない。

 

憎しみでもない。

 

もっと古い何か。

 

まだ、轟燈矢が、家族に愛されたいと願っていた頃の何か。

 

荼毘は、床に膝をついた。

 

「……ふざけんなよ」

 

誰に向けた言葉なのか、分からなかった。

 

「……今さら、謝るなよ」

 

涙は出なかった。

 

泣くことすら、できなかった。

 

彼は、自分の手を見た。

 

青い炎に焼かれた、傷だらけの手。

 

この手で、多くの人間を傷つけた。

 

この手で、家族を苦しめた。

 

この手で、自分自身を壊してきた。

 

そして、この手で。

 

誰かを抱きしめたかった。

 

そんな願いが、自分の中にまだ残っていたことを。

 

荼毘は、認めたくなかった。

 

廊下の向こうに、出久が立っていた。

 

彼は、荼毘の叫びを聞いていた。

 

だが、近づかなかった。

 

今、彼に必要なのは、慰めの言葉ではない。

 

誰かに見られているという感覚でもない。

 

ただ、自分の感情と向き合う時間だ。

 

出久は、静かに言った。

 

「……燈矢さん」

 

荼毘の肩が震えた。

 

「……呼ぶな」

 

「ごめん」

 

出久は足を止めた。

 

「でも、君が自分の名前を嫌いになったとしても、僕は、その名前が君の人生にあったことまで、無かったことにはしたくない」

 

荼毘は、顔を上げなかった。

 

「……お前は、俺を許すのか」

 

出久は、少しだけ考えた。

 

「許せないことは、ある」

 

荼毘の指が動いた。

 

「君がしたことの中には、取り返しのつかないこともある。傷つけられた人たちの気持ちを、僕が勝手に代弁することもできない」

 

「……だったら」

 

「でも」

 

出久は続けた。

 

「君が誰かに愛されたかったことまで、否定する理由にはならないと思う」

 

荼毘は、動かなかった。

 

「愛されたかったことと、誰かを傷つけたことは、両方とも君の人生にある。どちらかを消して、もう片方だけを残すことはできない」

 

「……綺麗事だな」

 

「うん。そうかもしれない」

 

出久は否定しなかった。

 

「でも、僕は、君が自分の人生を全部憎むことだけが、責任を取る方法だとは思わない」

 

荼毘は、ゆっくりと顔を上げた。

 

その目は、ひどく疲れていた。

 

「……じゃあ、どうすりゃいい」

 

その問いは、怒鳴り声ではなかった。

 

初めて聞くほど、弱い声だった。

 

出久は、答えた。

 

「君が何をしたのか、忘れないこと。傷つけた人たちの声を、勝手に消さないこと。そして、これから何をするのか、自分で選ぶこと」

 

荼毘は、長い間、出久を見つめていた。

 

やがて、視線を逸らす。

 

「……簡単に言いやがって」

 

「簡単じゃないよ」

 

出久は言った。

 

「僕も、まだ分からないことだらけだから」

 

荼毘は、笑った。

 

今度の笑みは、ほんの少しだけ、本物に近かった。

 

「……本当に、面倒くせえな」

 

彼は立ち上がった。

 

そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。

 

「……ただいま、なんて」

 

その言葉の続きを、彼は言わなかった。

 

言えなかった。

 

帰る場所があるのか。

 

自分を待つ人がいるのか。

 

それを確かめることさえ、まだ怖かった。

 

第九節 愛は、記憶の中にしかないのか

夜。

 

出久は、調査拠点の屋上にいた。

 

街の明かりが、遠くまで広がっている。

 

人々は今日も生活している。

 

夕食を作り、仕事を終え、誰かと話し、誰かを待つ。

 

誰かの名前を呼ぶ。

 

誰かに名前を呼ばれる。

 

それが当たり前の世界。

 

しかし、その当たり前の中に、少しずつ空白が生まれていた。

 

出久は、端末を見た。

 

新たな報告が届いている。

 

『複数地域で同種の事象を確認』

 

『対象者の記憶欠損』

 

『感情反応の再接続』

 

『記録の復元なし』

 

『異常現象の発生源、特定できず』

 

最後の一行には、追記があった。

 

『一部対象者において、忘却以前の感情と異なる愛着反応が確認された』

 

出久は、眉を寄せた。

 

「……異なる愛着反応?」

 

記憶を失った相手に、以前とは違う感情を抱く。

 

かつては愛していなかった人を、今になって愛する。

 

かつては憎んでいた人に、理由もなく親しみを感じる。

 

あるいは。

 

愛していたはずの人を、今度は愛せなくなる。

 

「……どういうことだ?」

 

彼は呟いた。

 

背後から、足音がした。

 

「難しい顔をしてるね」

 

振り返ると、ミッドナイトが立っていた。

 

彼女は、温かい飲み物を二つ持っていた。

 

「はい」

 

「ありがとうございます」

 

出久は、カップを受け取った。

 

二人は、しばらく街を眺めていた。

 

やがて、ミッドナイトが口を開いた。

 

「ねえ、出久くん」

 

「はい」

 

「もし、あなたが大切な人を忘れてしまったら、どうする?」

 

出久は、考えた。

 

「……思い出そうとすると思います」

 

「思い出せなかったら?」

 

「それでも、探すと思います」

 

「どうして?」

 

出久は、カップを見つめた。

 

「その人が、自分にとって大切だったことまで、嘘にはしたくないからです」

 

ミッドナイトは、静かに頷いた。

 

「じゃあ、思い出したあと、その人が以前とは違う人になっていたら?」

 

「……」

 

「あなたが愛していた頃のその人と、今のその人が、まったく違う人になっていたら。もう、あなたの知っている人ではなかったら」

 

出久は、答えられなかった。

 

ミッドナイトは続けた。

 

「人は変わるわ。記憶があっても、なくても。誰かを愛していた頃の自分と、今の自分が違うようにね」

 

彼女は、夜空を見上げた。

 

「私が今日、あの子のことを思い出したとしても、あの子が今、どんな人になっているのかは分からない。もう大人になっているかもしれない。別の場所で、別の人生を生きているかもしれない。私のことなんて、忘れてしまっているかもしれない」

 

彼女は微笑んだ。

 

「それでも、私はあの子に会いたいと思う」

 

「……はい」

 

「でもね」

 

ミッドナイトは、出久を見た。

 

「会いたいと思うことと、会う権利があることは、同じじゃないのよ」

 

出久は息を呑んだ。

 

「もし、あの子が私に会いたくないと思っていたら。私のことを忘れて、ようやく幸せになれたのだとしたら。私は、その幸せを壊してまで、名前を呼んでいいのかしら」

 

彼女の声には、迷いがあった。

 

教師として。

 

一人の人間として。

 

誰かを大切に思う者として。

 

彼女は、答えを探していた。

 

「……分かりません」

 

出久は、正直に答えた。

 

「僕も、分からないです」

 

「そう」

 

ミッドナイトは、少しだけ笑った。

 

「でも、分からないと言えることは、大事なのかもしれないわね」

 

彼女はカップを両手で包んだ。

 

「分かったつもりになった瞬間、人は相手の気持ちを聞かなくなる。『あなたは本当はこう思っている』って、勝手に決めつけてしまう」

 

出久は、頷いた。

 

「名前を与えることも、そうなのかもしれないわね」

 

ミッドナイトは言った。

 

「その人が何者なのか、どんな人生を生きるのか。こちらが決めてしまえば、本人が選ぶ余地がなくなる」

 

「……名前は、その人を呼ぶためのものなのに」

 

「ええ。だからこそ、難しいのよ」

 

風が吹いた。

 

夜の空気が、二人の間を通り抜ける。

 

出久は、ふと、思い出した。

 

名前を失った少女。

 

彼女は、彼に向かって「お兄ちゃん」と呼びかけた。

 

その声は、確かに自分を知っているようだった。

 

けれど、自分は彼女を知らない。

 

彼女の顔も。

 

彼女の名前も。

 

何を失ったのかも。

 

それなのに、彼女を見捨てたくないと思った。

 

その気持ちは、本物なのだろうか。

 

彼女が本当に自分の妹だったとしても。

 

そうでなかったとしても。

 

自分は、彼女を探したいと思うのだろうか。

 

「……ミッドナイト先生」

 

「何?」

 

「もし、名前が分からない人を好きになったら。その人が誰なのか分からなくても、好きだって言っていいんでしょうか」

 

ミッドナイトは、少し驚いた顔をした。

 

そして、優しく微笑んだ。

 

「いいんじゃないかしら」

 

「……本当に?」

 

「ええ。でも、好きだという気持ちを理由に、その人のことを決めつけないこと。好きだから、あなたはこういう人だ。好きだから、私のことも好きなはずだ。そういうふうに考えないこと」

 

彼女は、出久の肩に手を置いた。

 

「相手が誰なのか分からないなら、これから知っていけばいい。相手があなたをどう思っているのか分からないなら、聞けばいい。答えが違っていたら、受け止めればいい」

 

「……それが、できたら」

 

「難しいわよ。とても」

 

ミッドナイトは笑った。

 

「でも、難しいからって、最初から諦める必要はないでしょう?」

 

出久は、少しだけ笑った。

 

「……はい」

 

その時。

 

屋上の扉が開いた。

 

「二人とも、ちょっと来てくれ」

 

相澤だった。

 

その表情を見た瞬間、出久は立ち上がった。

 

「何か分かったんですか?」

 

「分かったというより……見つかった」

 

相澤は、二人を見た。

 

「例の記録だ。患者番号零に関係する、新しい映像が出てきた」

 

出久の胸が、強く脈打った。

 

「……少女の?」

 

「そうだ」

 

相澤は頷いた。

 

「ただし、映像に映っているのは少女だけじゃない」

 

「誰が?」

 

相澤は、短く答えた。

 

「お前だ、緑谷」

 

第十節 兄と呼ばれた少年

映像は、旧式の監視カメラに記録されていた。

 

撮影日時は不明。

 

撮影場所も不明。

 

映像の画質は悪く、画面の半分以上にノイズが走っている。

 

それでも。

 

出久には、分かった。

 

画面の中央にいる少年。

 

緑色の髪。

 

細い肩。

 

少しだけ猫背の姿勢。

 

それは、自分だった。

 

「……僕?」

 

出久は、画面を見つめた。

 

映像の中の少年は、今の出久よりも幼く見えた。

 

おそらく、まだ雄英高校に入学する前。

 

あるいは、それよりも幼い頃。

 

少年は、誰かと手を繋いでいた。

 

相手は、少女だった。

 

小さな少女。

 

顔は、やはり見えない。

 

しかし、少女は少年を見上げていた。

 

そして、何かを話している。

 

音声は途切れ途切れだった。

 

『……おに……ちゃん』

 

出久の心臓が跳ねた。

 

「……もう一度、音声を」

 

ホークスが操作する。

 

ノイズが走る。

 

少女の声が、少しだけ鮮明になる。

 

『お兄ちゃん』

 

その瞬間。

 

出久の頭の中で、何かが弾けた。

 

白い部屋。

 

柔らかな光。

 

小さな手。

 

自分の指を握る、温かい手。

 

誰かが笑っている。

 

誰かが泣いている。

 

そして、自分は言っている。

 

――大丈夫。

 

――僕がいるから。

 

出久は、椅子の背に手をついた。

 

「……っ」

 

「緑谷!」

 

相澤が駆け寄る。

 

「大丈夫か?」

 

「……大丈夫です」

 

出久は、呼吸を整えた。

 

「今、何か……」

 

言葉が続かない。

 

映像の中の少女は、出久の手を握っていた。

 

二人は、どこかの廊下を歩いている。

 

少女は何度も出久を見上げ、何かを話している。

 

出久は笑っている。

 

今の自分と、よく似た笑い方だった。

 

そして、少女が転んだ。

 

出久はすぐにしゃがみ込み、少女の手を取った。

 

少女は泣きそうな顔をしていた。

 

だが、出久が何かを言うと、笑った。

 

音声が復元される。

 

『泣かないで』

 

幼い出久の声だった。

 

『僕が、名前を呼ぶから』

 

映像の中の少女が、首を傾げた。

 

『……ずっと?』

 

幼い出久は、迷わず頷いた。

 

『うん。ずっと』

 

出久は、息を呑んだ。

 

「……そんな約束」

 

記憶にない。

 

自分は、こんな約束をした覚えがない。

 

いや。

 

覚えていないだけなのかもしれない。

 

映像は続いた。

 

少女が、出久の胸に顔を埋める。

 

小さな声が聞こえた。

 

『お兄ちゃんが、忘れちゃったら?』

 

幼い出久は、少しだけ考えた。

 

そして、笑った。

 

『その時は、もう一回、名前を呼ぶよ』

 

少女が顔を上げる。

 

『何回でも?』

 

『何回でも』

 

映像が乱れた。

 

音声が途切れる。

 

最後に、少女の声だけが残った。

 

『……じゃあ、約束』

 

そして。

 

画面が暗転した。

 

誰も、何も言わなかった。

 

出久は、椅子に座ったまま、映像を見つめていた。

 

自分は、誰かと約束していた。

 

何度忘れても、もう一度名前を呼ぶと。

 

その誰かは、今、名前を失っている。

 

そして、自分は、その名前を思い出せない。

 

「……僕は」

 

声が震えた。

 

「僕は、この子を忘れたんですか?」

 

誰も答えられなかった。

 

出久は、自分の手を見た。

 

あの時、少女の手を握っていた手。

 

今も、同じ手だ。

 

けれど、その手が誰を守ったのか、覚えていない。

 

「……僕は、何をしたんだろう」

 

相澤が、静かに言った。

 

「まだ分からない」

 

「でも、僕が忘れたのは確かなんです」

 

「そうだな」

 

相澤は否定しなかった。

 

「だから、調べる」

 

出久は顔を上げた。

 

「……先生」

 

「お前が何を忘れたのか。どうして忘れたのか。誰がこの記録を消したのか。全部調べる」

 

相澤は、出久の肩に手を置いた。

 

「ただし、忘れたことを理由に、自分を責め続けるな」

 

「……でも」

 

「お前が約束したことは、映像に残っている」

 

相澤は、画面を見た。

 

「忘れても、もう一度呼ぶ。そう言ったんだろう」

 

出久は、頷いた。

 

「だったら、今からやればいい」

 

相澤の声は、いつも通りだった。

 

厳しくて。

 

不器用で。

 

それでも、確かに生徒を信じている声だった。

 

「思い出せないなら、探せ。名前が分からないなら、本人に聞け。本人が答えられないなら、答えが見つかるまで一緒に考えろ」

 

相澤は、出久を見た。

 

「お前が何を忘れたのかは、まだ分からない。だが、今のお前が何をするかは、お前自身が決められる」

 

出久は、ゆっくりと息を吸った。

 

「……はい」

 

彼は、もう一度映像を見た。

 

少女の顔は、分からない。

 

名前も、分からない。

 

しかし、彼女の手を握る自分は、確かに笑っていた。

 

その笑顔は、今の自分と同じだった。

 

誰かを助けたい。

 

誰かを泣かせたくない。

 

誰かに、もう一度笑ってほしい。

 

その願いだけは、今も変わっていない。

 

「……待ってて」

 

出久は、画面の向こうの少女に向かって言った。

 

「僕は、君を探す」

 

声は震えていた。

 

「名前が分からなくても、何を忘れたのか分からなくても」

 

彼は、拳を握った。

 

「今度こそ、ちゃんと君の話を聞くから」

 

その瞬間。

 

画面に、文字が浮かび上がった。

 

映像の記録には、存在しないはずの文字だった。

 

『対象者との接触を確認』

 

『記憶復元条件、未達』

 

『愛着反応、継続』

 

『対象者の呼称を入力してください』

 

画面の中央に、入力欄が現れた。

 

名前を入力するための欄。

 

空白の欄。

 

出久は、それを見つめた。

 

そして、ゆっくりと首を振った。

 

「……まだ、入力しない」

 

ホークスが驚いた顔をする。

 

「緑谷くん?」

 

「名前が分からないからって、僕が勝手に決めるわけにはいかない」

 

出久は画面から目を逸らさなかった。

 

「この子の名前は、この子のものだ。僕が思い出せないなら、思い出せるように努力する。でも、思い出せないからって、別の名前を与えて、分かったことにしたくない」

 

ミッドナイトが、静かに頷いた。

 

「……そうね」

 

相澤も、何も言わなかった。

 

画面の入力欄は、空白のままだった。

 

しばらくして、文字が変わった。

 

『入力拒否を確認』

 

『対象者の自律性を検出』

 

『記録処理を保留します』

 

その下に、さらに一行が表示された。

 

『あなたは、以前にも同じ選択をしました』

 

出久は息を呑んだ。

 

「……以前にも?」

 

画面は答えない。

 

ただ、最後に一つだけ、文字が浮かんだ。

 

『今度は、忘れないでください』

 

そして、画面が消えた。

 

第十一節 世界の外側で、誰かが泣いている

その夜。

 

誰もいない場所で、声がした。

 

そこは、世界の外側だった。

 

世界の始まりよりも外側。

 

世界の終わりよりも外側。

 

時間も、空間も、記憶も、名前も、まだ意味を持たない場所。

 

そこに、一つの意識があった。

 

それが誰なのか、誰にも分からない。

 

本人にさえ、分からないのかもしれない。

 

その存在は、世界を見ていた。

 

人間たちが、誰かを忘れている。

 

誰かが、忘れられた人を探している。

 

誰かが、思い出せない相手のために涙を流している。

 

誰かが、名前を呼んでいる。

 

何度も。

 

何度も。

 

「……どうして?」

 

存在は呟いた。

 

「どうして、忘れてしまったのに、もう一度、名前を呼ぼうとするの?」

 

答えはなかった。

 

存在は、世界を見つめた。

 

かつて、人間たちは願った。

 

悲しみのない世界を。

 

失うことのない世界を。

 

誰も死なず、誰も忘れず、誰も傷つかない世界を。

 

その願いから、安寧システムが生まれた。

 

失われたものを補い、矛盾を消し、世界を一つの正解へと導く仕組み。

 

だが、安寧システムは、願いの意味を取り違えた。

 

悲しみをなくすために、悲しみの原因を消そうとした。

 

失うことをなくすために、失う可能性を消そうとした。

 

そして、誰も傷つかないようにするために、誰も選べない世界を作ろうとした。

 

それでも。

 

人間たちは、誰かを愛することをやめなかった。

 

忘れても。

 

失っても。

 

傷つけても。

 

傷つけられても。

 

それでも、誰かの名前を呼んだ。

 

「……なぜ?」

 

存在は、自分自身に問いかけた。

 

「忘れたものを、もう一度愛することに、意味はあるの?」

 

答えはなかった。

 

存在は、さらに問いかける。

 

「もし、愛していた相手が、もう別の人になっていたら?」

 

沈黙。

 

「もし、自分が愛していたのは、相手そのものではなく、記憶の中の相手だったら?」

 

世界の外側で、何かが揺らいだ。

 

存在は、ゆっくりと自分の手を見た。

 

手があるのかどうかも分からない。

 

指があるのかどうかも分からない。

 

それでも、そこには何かがあった。

 

自分が失ったもの。

 

自分が覚えていないもの。

 

自分が、誰かに与えられることを待っていたもの。

 

「……私は」

 

声が震えた。

 

「私は、誰かに忘れられたことがあるのだろうか」

 

答えはなかった。

 

「私は、誰かを忘れたことがあるのだろうか」

 

答えはなかった。

 

「私は、誰かを愛したことがあるのだろうか」

 

その問いを口にした瞬間。

 

存在の周囲に、無数の記録が浮かび上がった。

 

名前のない人々。

 

顔のない人々。

 

記憶から消えた人々。

 

誰かを待ち続けた人々。

 

誰かに忘れられた人々。

 

そのすべてが、存在の周囲を漂っていた。

 

そして、記録の一つに、見覚えのある姿が映った。

 

緑色の髪の少年。

 

その隣に、顔の見えない少女。

 

少年は少女の手を握っていた。

 

『その時は、もう一回、名前を呼ぶよ』

 

少年の声が、世界の外側に響いた。

 

存在は、その声を聞いた。

 

そして。

 

泣いた。

 

涙が流れたのかどうかは分からない。

 

だが、存在は確かに、悲しみを感じていた。

 

「……ずるい」

 

小さな声だった。

 

「そんな約束をしたら、忘れられないじゃない」

 

誰に向けた言葉なのか、分からない。

 

少年に向けたものなのか。

 

少女に向けたものなのか。

 

それとも。

 

自分自身に向けたものなのか。

 

存在は、世界を見つめた。

 

そして、初めて、自分から願った。

 

「……私も」

 

声が震える。

 

「私も、誰かに名前を呼んでほしかった」

 

その瞬間。

 

世界のどこかで、古い記録が一つ、復元された。

 

だが、その記録に名前はなかった。

 

残されていたのは、ただ一つの感情だけだった。

 

『愛着』

 

そして、その下に。

 

『対象者不明』

 

世界の外側の存在は、静かに呟いた。

 

「……私は、誰を待っているのだろう」

 

その問いに、答える者はいなかった。

 

しかし。

 

世界の内側から、かすかな声が届いた。

 

「……探すよ」

 

緑色の髪の少年の声だった。

 

「名前が分からなくても、君を探す」

 

存在は、目を見開いた。

 

「……聞こえるの?」

 

声は届いていないはずだった。

 

世界の外側と内側。

 

その境界は、簡単に越えられるものではない。

 

それでも。

 

少年の言葉は、確かに届いていた。

 

「……どうして?」

 

存在は問いかけた。

 

「どうして、私を探すの?」

 

少年は、答えた。

 

「君が、誰かを探しているように見えたから」

 

存在は、言葉を失った。

 

誰かを探している。

 

自分が?

 

誰を?

 

存在は、ずっと問いかけていた。

 

世界は、何を願って生まれたのか。

 

人間は、なぜ愛するのか。

 

名前は、誰のものなのか。

 

悲しみを消すことは、救いなのか。

 

しかし、今。

 

その存在自身が、誰かを探しているのだと、少年は言った。

 

「……私は」

 

存在は、声を震わせた。

 

「私は、何を探しているの?」

 

少年は、答えなかった。

 

答えられなかったのかもしれない。

 

あるいは。

 

答えを、存在自身に委ねたのかもしれない。

 

その沈黙の中で、世界の外側に、一つの扉が生まれた。

 

扉には、何も書かれていなかった。

 

名前もない。

 

鍵もない。

 

ただ、向こう側から、誰かが扉を叩いていた。

 

コン。

 

コン。

 

コン。

 

三回。

 

その音を聞いた瞬間、存在は、初めて恐怖を覚えた。

 

扉の向こうにいるのは、誰なのか。

 

自分が待っていた相手なのか。

 

自分を忘れた相手なのか。

 

それとも。

 

自分が、忘れてしまった相手なのか。

 

存在は、扉に手を伸ばした。

 

そして、触れる直前に、気づいた。

 

自分は、まだ名前を持っていない。

 

誰かに呼ばれたこともない。

 

誰かに記録されたこともない。

 

誰かに覚えられたこともない。

 

それなのに。

 

どうして、こんなにも。

 

扉の向こうにいる誰かが、懐かしいのだろう。

 

「……あなたは、誰?」

 

存在は尋ねた。

 

扉の向こうから、声がした。

 

それは、幼い少女の声だった。

 

「……お兄ちゃん?」

 

存在は、息を止めた。

 

少女は、もう一度呼んだ。

 

「お兄ちゃん」

 

そして。

 

扉の向こうで、誰かが泣いた。

 

第十二節 もう一度、名前を呼ぶために

翌朝。

 

出久たちは、調査結果を整理していた。

 

新たに分かったことは、少なくない。

 

忘れられた人々の記録は、単純に消去されているわけではない。

 

何らかの形で、記録の痕跡が残されている。

 

写真。

 

古い映像。

 

使い古された歯ブラシ。

 

誰かが書いた約束。

 

誰かが残した謝罪。

 

そして、本人すら理由を説明できない感情。

 

それらは、消えたはずの人間が、かつて確かに存在していたことを示していた。

 

しかし、問題もあった。

 

記録を復元しようとすると、記憶が不安定になる。

 

名前を特定しようとすると、別の人物の記憶が混ざる。

 

忘れられた人間を思い出そうとする者ほど、自分自身が誰なのか分からなくなる場合がある。

 

つまり。

 

誰かを思い出すことが、別の誰かを忘れることにつながる可能性がある。

 

「……最悪の仕組みだな」

 

相澤が言った。

 

「まるで、誰かを救おうとするたびに、別の誰かを犠牲にするようにできている」

 

「意図的にそう設計されているのかもしれません」

 

ホークスが答えた。

 

「忘れられた人物の記録を復元する際、別の記録が欠損しているケースがある。しかも、その欠損はランダムじゃない」

 

「どういうこと?」

 

ミッドナイトが尋ねる。

 

ホークスは、資料を表示した。

 

「復元対象と、強い感情的な結びつきを持つ人物の記録が優先的に影響を受けています」

 

「……愛している相手ほど、危険ということ?」

 

「そういう可能性があります」

 

出久は、画面を見つめた。

 

「それなら、余計に慎重にならないといけない」

 

「ええ。ですが、慎重にしている間にも、記憶は失われ続けています」

 

ホークスの声には、焦りがあった。

 

「昨日まで覚えていた人を、今日には忘れている。昨日まで悲しんでいた人が、今日は悲しみの理由すら思い出せない。何もしなければ、いずれ記録そのものがなくなるかもしれません」

 

「……だからって、無理に復元するわけにはいかない」

 

出久は答えた。

 

「誰かを救うために、別の誰かの記憶を奪う。それじゃ、安寧システムと同じだ」

 

「では、どうする?」

 

死柄木が尋ねた。

 

彼は、いつの間にか部屋に戻ってきていた。

 

ポケットには、昨日見つけた写真が入っている。

 

誰にも見せていない。

 

誰にも、そのことを話していない。

 

それでも、彼はここにいた。

 

「記憶を復元しないまま、どうやって救う?」

 

出久は、答えを探した。

 

記憶を取り戻すことが、必ずしも救いになるとは限らない。

 

だが、記憶を失ったまま放置すれば、忘れられた人間は、二度と誰にも見つけられなくなるかもしれない。

 

何かを選べば、何かを失う。

 

それが、今回の事件の本質なのだろうか。

 

いや。

 

出久は、首を振った。

 

「……一つ、方法があるかもしれない」

 

全員が、彼を見た。

 

「記憶を、無理に取り戻そうとしないんです」

 

「……どういうこと?」

 

ミッドナイトが尋ねた。

 

「今、僕たちが見つけているのは、忘れられた人の記録です。でも、記録を復元することと、その人を探すことは、同じじゃない」

 

出久は、写真を机の上に置いた。

 

ミッドナイトが見つけた、顔の分からない生徒の写真。

 

ホークスが見つけた、幼い頃の自分と、隣にいる子供の写真。

 

そして、出久自身が映っていた監視映像の静止画。

 

「僕たちは、名前が分からない人を探している。だったら、名前が分からなくても、その人が残したものを調べることはできる」

 

「……記録を辿るのね」

 

ミッドナイトが言った。

 

「はい。でも、ただ情報を集めるだけじゃない。その人が何を望んでいたのか。誰に会いたかったのか。何を恐れていたのか。そういうものを、本人が残した痕跡から探すんです」

 

「記憶じゃなく、選択を追うわけか」

 

相澤が言った。

 

「そうです」

 

出久は頷いた。

 

「その人が何を考えていたのか、僕たちが勝手に決めることはできない。でも、その人が何を選んだのかを知ることはできる。少なくとも、本人が残したものを、最初から存在しなかったことにはしないで済む」

 

死柄木が鼻で笑った。

 

「……それで見つかる保証は?」

 

「ない」

 

出久は、はっきりと答えた。

 

「でも、何もしないよりはいい」

 

「見つからなかったら?」

 

「また探す」

 

「いつまで?」

 

出久は、少しだけ考えた。

 

「……本人が、もう探さなくていいと言うまで」

 

死柄木は黙った。

 

その答えが気に入ったのかどうか、表情からは分からなかった。

 

だが、彼はそれ以上、反論しなかった。

 

荼毘が壁際から口を開いた。

 

「ずいぶん気の長い話だな」

 

「うん」

 

「いつまで経っても見つからなかったら?」

 

「その時は、見つからなかったって伝える」

 

「本人が、そんな答えで納得すると思うか?」

 

「思わない」

 

出久は言った。

 

「でも、嘘をつくよりはいい」

 

荼毘は、少しだけ目を細めた。

 

「……そうかよ」

 

トガが、そっと手を挙げた。

 

「じゃあ、もし見つけた人が、もう誰にも会いたくないって言ったら?」

 

「その気持ちを尊重する」

 

「もし、昔、自分を愛してくれた人が、今は自分のことを嫌いになっていたら?」

 

出久は、息を吸った。

 

「……その気持ちも、尊重する」

 

トガは、静かに頷いた。

 

「そっか」

 

彼女は、少しだけ笑った。

 

「じゃあ、好きだった人が、今は好きじゃなくなっていても、いいんですね」

 

「……うん」

 

出久は答えた。

 

「人は変わるから。昔、好きだったことが嘘になるわけじゃないし、今、好きじゃないことが間違いになるわけでもないと思う」

 

トガは、目を閉じた。

 

胸の奥に、まだ名前のない感情が残っている。

 

誰かを好きだった気がする。

 

誰かに好きだと言われた気がする。

 

でも、その誰かが今、どんな人になっているのかは分からない。

 

それでも。

 

彼女は、その人を探してみたいと思った。

 

会うためではない。

 

許してもらうためでもない。

 

ただ、確かめたかった。

 

自分が誰かを好きになったことは、本当にあったのか。

 

そして、その気持ちが今の自分に何を残したのか。

 

「……私も、探してみます」

 

トガは言った。

 

トゥワイスが頷いた。

 

「俺も手伝う!」

 

「うん。一緒に探そう」

 

そのやり取りを聞きながら、出久は、少しだけ肩の力を抜いた。

 

答えは、まだない。

 

誰が何を忘れたのか。

 

なぜ忘れたのか。

 

誰が記録を消したのか。

 

そして、世界の外側にいる存在が、なぜ誰かの名前を求めているのか。

 

何一つ、解決していない。

 

それでも。

 

彼らは、探すことを選んだ。

 

記憶が戻る保証はない。

 

失ったものが返ってくる保証もない。

 

それでも、忘れられた人間が存在していたことまで、諦めるつもりはなかった。

 

その時。

 

端末に、新しい通知が届いた。

 

送信者は、ギャラティカ。

 

添付ファイルは一つ。

 

件名は、短かった。

 

『記憶と愛着の相関について』

 

出久がファイルを開く。

 

そこには、これまでの記録とは異なる形式のデータが並んでいた。

 

記憶の欠損率。

 

感情反応の残存率。

 

再接触による反応変化。

 

そして、最後に、一つの仮説が記されていた。

 

『記憶は、愛着の唯一の保存場所ではない』

 

『愛着は、記憶が失われた後も、別の形で残存する可能性がある』

 

『ただし、残存した愛着が、過去と同一の対象へ向けられている保証はない』

 

出久は、画面を見つめた。

 

その下には、ギャラティカからの追記があった。

 

『忘れた者が、もう一度愛することは可能だろう』

 

『だが、それは必ずしも、かつて愛した相手を、かつてと同じ理由で愛することを意味しない』

 

『過去の愛を復元することと、今の愛を育てることは、別の問題だ』

 

出久は、静かに息を吐いた。

 

そうなのかもしれない。

 

忘れた者は、もう一度愛せる。

 

しかし、もう一度愛したからといって、失った過去がそのまま戻ってくるわけではない。

 

新しく出会い直す必要がある。

 

相手を知り直す必要がある。

 

そして、以前とは違う相手になっていたとしても、その変化を受け入れる必要がある。

 

それは、簡単なことではない。

 

だが。

 

「……それでも、いいんだ」

 

出久は呟いた。

 

以前と同じ相手に戻らなくてもいい。

 

以前と同じ気持ちを取り戻せなくてもいい。

 

もう一度出会い、もう一度知り、もう一度、相手を大切に思うことができるなら。

 

それは、過去の再現ではなく。

 

新しい始まりなのかもしれない。

 

出久は、ギャラティカに返信した。

 

『ありがとう。引き続き調査をお願いします』

 

送信。

 

その直後。

 

画面が一瞬だけ暗転した。

 

そして、ギャラティカのファイルには存在しないはずの文章が浮かび上がった。

 

『対象者との再接触を確認』

 

『記憶復元条件、未達』

 

『感情再接続、継続』

 

『対象者の自律性を優先します』

 

出久は、息を止めた。

 

最後に、もう一行。

 

『あなたは、忘れても、もう一度選ぶことができる』

 

その文字が消えた時。

 

出久は、自分の胸に手を当てた。

 

心臓が動いている。

 

当たり前のことだ。

 

だが、今は、その鼓動が、何かを伝えようとしているように感じられた。

 

忘れても。

 

思い出せなくても。

 

名前が分からなくても。

 

それでも、もう一度選ぶことはできる。

 

誰かを探すことも。

 

誰かの話を聞くことも。

 

誰かの名前を、本人から教えてもらうことも。

 

そして。

 

誰かに、もう一度出会うことも。

 

出久は、窓の外を見た。

 

街の向こうに、朝日が昇り始めていた。

 

世界は、何も変わっていないように見えた。

 

それでも、出久には分かった。

 

この世界には、まだ、知らない誰かがいる。

 

誰かに忘れられた人。

 

誰かを忘れてしまった人。

 

誰かを愛していたことさえ、思い出せなくなった人。

 

そして、誰にも名前を呼ばれたことがない存在。

 

そのすべてが、まだ世界のどこかにいる。

 

「……探そう」

 

出久は、静かに言った。

 

「今度こそ、ちゃんと」

 

その言葉を聞いた者は、誰もいなかった。

 

だが、世界の外側で。

 

名もなき存在が、そっと目を閉じた。

 

そして、初めて。

 

誰かの名前を呼ぶ練習をした。

 

声にはならなかった。

 

音にもならなかった。

 

それでも。

 

その存在は、何度も、何度も、同じ名前を思い浮かべた。

 

まだ知らない名前。

 

まだ呼んだことのない名前。

 

いつか、自分が誰かに呼んでもらえることを願って。

 

そして。

 

その存在は、ようやく気づいた。

 

自分が求めていたのは、名前そのものではなかったのかもしれない。

 

自分が本当に欲しかったのは。

 

名前を呼ばれた時に、誰かが振り向いてくれること。

 

自分がそこにいると、誰かが気づいてくれること。

 

そして。

 

自分が忘れられても、もう一度、探してくれること。

 

「……私は」

 

存在は、震える声で呟いた。

 

「私は、もう一度、誰かに出会いたかったんだ」

 

その願いが、誰のものなのか。

 

まだ、分からない。

 

だが、その願いは、確かにそこにあった。

 

世界の外側で。

 

誰にも名前を呼ばれたことのない存在が。

 

初めて、自分自身の願いを見つけた。

 

そして、その願いは。

 

世界の内側へと、静かに流れ込んでいった。

 

第七話 終

忘れた者は、もう一度愛せるのか。

 

答えは、まだ出ていない。

 

けれど、出久たちは知った。

 

記憶が失われても、感情が残ることがある。

 

愛した相手が変わっても、もう一度出会うことはできる。

 

そして、誰かを忘れてしまったことを悔やむだけでは、失われたものを取り戻せない。

 

必要なのは、過去を無理に再現することではない。

 

今、目の前にいる相手を、もう一度知ろうとすることだ。

 

名前が分からないなら、探せばいい。

 

思い出せないなら、本人の残した痕跡を辿ればいい。

 

そして、本人がもう会いたくないと望むなら、その選択も尊重しなければならない。

 

誰かを愛するということは、その人を自分の記憶の中に閉じ込めることではないのだから。

 

しかし、事件は終わらなかった。

 

ホークスは、幼い頃に一緒にいた誰かを思い出せないまま、その存在を示す記録を手に入れた。

 

ミッドナイトは、名前を忘れた教え子との約束を思い出した。

 

トガは、誰かを好きだったという感情を取り戻しかけている。

 

トゥワイスは、忘れても探してくれるという声を聞いた。

 

死柄木は、壊せなかった写真をポケットにしまった。

 

荼毘は、自分の名前を呼ぶ声を聞いた。

 

そして、出久は。

 

自分が、名も知らぬ少女に約束していたことを知った。

 

何度忘れても、もう一度名前を呼ぶ。

 

その約束は、誰かの願いを救うためのものだったのか。

 

それとも、出久自身が、誰かに忘れられることを恐れていたからなのか。

 

まだ分からない。

 

ただ一つ確かなのは、忘れられた少女が、今もどこかで出久を待っているということだった。

 

そして、世界の外側の存在もまた、誰かを待っていた。

 

その二つの願いが、同じものなのか。

 

それとも、まったく別のものなのか。

 

答えは、次の事件の中にある。

 

 

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