僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

9 / 71
第九話 神の手が触れたもの

 

 

1.奇跡には、必ず代償がある

 最初に異変を報告したのは、正門東側に配置されていた第二観測班だった。

 午前十一時十二分。

 雄英高校の敷地内外に集まった人々は、まだ奇跡を信じていた。

 死んだはずの家族が帰ってきた。

 もう二度と会えないと思っていた友人が、かつてと同じ顔で笑っている。

 十三年前に失った人間が、十三年分の時間を飛び越えて、目の前に立っている。

 その光景は、あまりにも残酷で、あまりにも優しかった。

 だからこそ、人々は目を逸らしたかったのだ。

 奇跡が、必ずしも幸福をもたらすとは限らないという現実から。

『こちら第二観測班。対象の状態に変化なし。呼びかけに反応しません』

「呼吸は?」

『確認できます。ただし、脈拍が……いえ、待ってください』

 無線の向こうで、言葉が途切れた。

 相澤消太は眉を寄せた。

「どうした」

『脈拍がありません』

 周囲の空気が変わった。

 プレゼント・マイクが、手に持っていた端末から顔を上げる。

 オールマイトが一歩前へ出る。

 現場指揮を担当していた職員が、無線を握りしめた。

「脈拍がないのに、呼吸はあるのか?」

『はい。呼吸はあります。体温も維持されています。ですが、脈拍だけが……』

「救急班を向かわせろ。対象には触れるな。周囲の人間を下がらせろ」

 相澤は即座に指示を飛ばした。

「それと、皮膚の変化を撮影しろ。黒い線が広がっているなら、その進行速度も記録する」

『了解』

 通信が切れる。

 相澤は端末に表示された現場映像を見つめた。

 映像の中には、四十代ほどの男性が映っていた。

 黒い髪。

 痩せた体格。

 古びたジャケット。

 どこにでもいる、ごく普通の男だった。

 ただ一つ、普通ではないことがある。

 その男は、十三年前に死亡していた。

 死因は交通事故。

 家族の証言によれば、帰還後の彼は生前とほぼ同じ人格を保っていたという。

 妻の名前を覚えていた。

 息子の名前を覚えていた。

 家の場所も、職場も、好きだった食べ物も。

 ところが、今朝から少しずつ様子がおかしくなった。

 会話の途中で、突然黙り込む。

 質問に対する返答が遅れる。

 自分の名前を呼ばれても、反応しないことがある。

 そして今。

 男の首筋から、黒い亀裂が浮かび上がっていた。

「……またか」

 相澤が呟く。

 黒い霧。

 記憶の欠落。

 説明のつかない能力。

 死者の帰還。

 それらを結びつける何かが存在する。

 しかし、その何かを特定するための情報が、あまりにも足りなかった。

 いや。

 正確には、足りないのではない。

 情報そのものが、こちらの理解を拒んでいる。

 そう感じるほどに、現象が異常だった。

「先生」

 緑谷出久が、隣から声をかけた。

「僕も現場へ行きます」

「駄目だ」

 即答だった。

「でも、黒い霧が僕に反応するなら――」

「だから駄目なんだ」

 相澤は画面から目を離さなかった。

「お前に反応する理由が分かっていない。お前を近づけることが解決につながるのか、それとも事態を悪化させるのか、それすら分からない」

「……」

「それに、今のお前には個性がない」

 緑谷は反論しなかった。

 その事実は、誰よりも彼自身が理解している。

 かつて世界を救った力は、もう彼の中にはない。

 残っているのは、戦いの経験と、鍛え上げた身体と、これまで積み重ねてきた知識。

 そして。

 それでも誰かを救いたいという、変わらない意志だけだった。

「だからこそ、僕が行く意味があるかもしれません」

「緑谷」

「僕が狙われているのかもしれない。僕が近づくことで何かが起きるなら、それも情報になります」

「お前は自分が何を言っているのか分かっているのか」

「分かっています」

 緑谷は相澤を見返した。

「でも、誰かが危険にさらされているのに、何もせずに待つのは……」

「その考え方が、問題だと言っている」

 相澤の声は低かった。

「お前はまだ、自分が危険を引き受ければ解決に近づくと思っている」

「……」

「一人で抱え込むなと、何度言えば分かる」

 緑谷は唇を結んだ。

 反論できなかった。

 そのとき。

「出久くん」

 麗日お茶子が、彼の手にそっと触れた。

「行くなって言われたからって、何もしないわけじゃないよ」

「お茶子ちゃん……」

「情報を集めることもできる。現場の人たちを支えることもできる。救急班の誘導だって、避難してきた人たちの対応だって」

 彼女は緑谷の目を見た。

「私たち、そういうことをするためにヒーローになったんでしょう?」

 緑谷は、しばらく黙っていた。

 やがて、小さく息を吐く。

「……うん」

 相澤は二人を交互に見た。

「現場には行かせない。だが、観測映像の分析には参加しろ。お前たちの意見も聞く」

「はい!」

「分かりました」

「ただし、異常が発生した場合は即座に退避。勝手な判断で現場に飛び出したら、今度こそ拘束する」

「えっ、拘束ですか!?」

「聞こえなかったか?」

「聞こえました……」

 緑谷が肩を落とす。

 その姿を見て、プレゼント・マイクが苦笑した。

「いやぁ、相変わらずだな、イレイザー。お前、教師としての成長が見られねえぞ」

「余計なお世話だ」

「昔からデクちゃんに厳しすぎるんだって!」

「昔からこいつが無茶をしすぎるんだ」

 いつものやり取り。

 いつもの声。

 いつもの雄英。

 ほんの一瞬だけ、そこには平穏があった。

 しかし、その平穏を打ち砕くように。

 通信端末が、再び鳴った。

『第二観測班より緊急報告!』

 今度の声は、明らかに動揺していた。

『対象の口が動いています!』

「何と言っている?」

『聞き取れません! ただ……』

 ノイズが走る。

 そして。

『――神様、と』

 誰もが、言葉を失った。

『神様、と繰り返しています!』

 映像の中で、男の口がゆっくりと開閉していた。

 声は聞こえない。

 だが、その唇は確かに、同じ言葉を繰り返していた。

 神様。

 神様。

 神様。

 まるで、祈るように。

 あるいは。

 何かに、命令されているかのように。

2.帰ってきた英雄は、何を見たのか

 午前十一時二十分。

 雄英高校の臨時医療区画。

 そこでは、帰還者たちの健康状態を確認するための検査が続けられていた。

 もっとも、通常の医学検査で彼らの状態を説明することは難しい。

 心臓が停止しているにもかかわらず、血液が循環している者。

 死亡時の損傷が完全に消失している者。

 逆に、生前の傷跡だけが残り、死因となった致命傷だけが消えている者。

 そして、身体の構造そのものが、現代医学の常識から逸脱している者。

 帰還者の身体は、死者の身体であると同時に、生者の身体でもあった。

 あるいは。

 生者にも死者にも分類できない、第三の何か。

「検査結果を見ても、まるで意味が分からないわね」

 マウントレディが、医療端末の画面を覗き込んだ。

 彼女は現場支援のために駆り出されていたが、今は帰還者の移送と保護にも協力している。

「心拍数がゼロなのに血液循環が確認される。脳波はあるのに、睡眠状態に近い波形が突然現れる。しかも、本人は普通に会話できる」

「医学的には、あり得ない状態です」

 リカバリーガールが答えた。

「だけど、目の前にいる以上、あり得ないで片づけるわけにもいかない」

 ベッドの上には、一人の女性が横たわっていた。

 彼女の名前は、香山睡。

 かつて、プロヒーローとして活動していた女性。

 通称――ミッドナイト。

 彼女は、死亡していた。

 そして今、帰ってきている。

 顔色は悪くない。

 呼吸も安定している。

 ただ、彼女は目を閉じたまま、何かを考えるように眉を寄せていた。

「……先生」

 隣にいた緑谷が、思わず声をかけた。

「聞こえていますか?」

 ミッドナイトのまぶたが、わずかに動く。

「……うるさいわね」

 掠れた声だった。

 それでも、確かに。

 聞き覚えのある声だった。

「先生!」

「耳元で叫ばないで……頭に響くでしょう」

 彼女はゆっくりと目を開いた。

 その瞳が、緑谷を捉える。

 しばらく、彼女は何も言わなかった。

 緑谷も、何も言えなかった。

 彼女は生前と変わらない顔をしていた。

 けれど、緑谷は知っている。

 この人は、もう死んでいるはずだった。

 その事実を理解しているからこそ、彼女の姿を見ることが、こんなにも胸を締めつける。

「……緑谷くん?」

「はい」

「大きくなったわね」

「……え?」

「最後に会ったときより、ずっと大人になった」

 ミッドナイトは微笑んだ。

「それに、少し痩せた?」

「い、いえ! そんなことは……!」

「嘘。目の下に隈があるわ」

「先生、それは……」

「ちゃんと寝なさい」

 あまりにも、いつもどおりだった。

 緑谷の喉が、詰まる。

「……先生」

「何?」

「本当に……先生なんですか?」

 口にした瞬間、自分がひどいことを言ったのだと分かった。

 しかし、言わずにはいられなかった。

 彼女が本人であると信じたい。

 信じたいからこそ、確かめずにはいられない。

 ミッドナイトは、微笑みを消した。

 しばらく緑谷を見つめてから、静かに尋ねる。

「緑谷くん。あなた、今、何歳?」

「……二十八です」

「そう」

 彼女は目を伏せた。

「じゃあ、私はあなたよりずっと年上のままなのね」

「先生?」

「おかしな話ね。私は死んだはずなのに、あなたたちは生きて、時間を進めていた」

 彼女は自分の手を見つめた。

 指を曲げる。

 開く。

 その動作を、何度も繰り返した。

「私は……」

 声が震えた。

「私は、何をしていたのかしら」

 緑谷は、息を呑んだ。

「死んでいた間のことですか?」

「ええ」

 ミッドナイトは目を閉じた。

「何も覚えていないの。眠っていたという感覚もない。夢もない。暗闇もない。時間が止まっていたという感覚さえない」

 彼女はゆっくりと息を吐く。

「気がついたら、そこにいたのよ」

「そこ……?」

「真っ白な場所」

 ミッドナイトの指先が、シーツを握りしめた。

「誰もいない。何もない。上も下も分からない。私が立っているのか、浮いているのか、それすら分からない」

 緑谷は、背筋が冷たくなるのを感じた。

 自分も、似た場所を知っている。

 暗闇の中で、幼い自分と向き合った場所。

 過去と現在の境界が曖昧になった場所。

 そして、黒い霧が現れた場所。

「そこに……誰かいたんですか?」

「ええ」

 ミッドナイトは答えた。

「女の子がいたわ」

 緑谷の目が見開かれる。

「女の子?」

「顔は覚えていないの。というより、顔があったのかどうかも分からない。ただ、女の子だと思った」

「何を話したんですか?」

「何も」

 彼女は首を横に振った。

「その子は、ずっと私を見ていた。私も、その子を見ていた。それだけ」

「……」

「でも、最後に一つだけ聞かれたわ」

 ミッドナイトは、緑谷を見た。

「あなたは、もう一度、生きたいですか、と」

 部屋の空気が凍りついた。

 緑谷は、すぐには返答できなかった。

 ミッドナイトは続ける。

「私は答えたの。ええ、と。まだやりたいことがあるから、と」

「……」

「そうしたら、その子が言ったのよ」

 彼女の声が、ほんの少しだけ低くなった。

「それでは、あなたの願いを叶えましょう、と」

 緑谷は、拳を握りしめた。

 願い。

 死者が蘇った理由。

 その根源にあるのは、死者自身の願いなのだろうか。

 それとも、死者の願いを利用する何かがいるのだろうか。

「先生。その女の子は……」

「分からないわ」

 ミッドナイトは、静かに答えた。

「ただ、一つだけ覚えていることがある」

「何ですか?」

「その子、最後にこう言ったの」

 彼女は目を伏せた。

「――あなたは、あなたのままでいられますように、と」

 緑谷は、言葉を失った。

 それは祝福だったのか。

 警告だったのか。

 あるいは。

 願いを叶える者自身にも、願いを叶えた後の結果が分かっていなかったのか。

 その答えは、まだ誰にも分からない。

「緑谷くん」

 ミッドナイトが、彼を呼んだ。

「一つ、お願いしてもいい?」

「もちろんです」

「相澤先生を呼んでちょうだい」

「相澤先生を?」

「ええ。あと、プレゼント・マイクも」

 彼女は少しだけ笑った。

「それから……」

 その笑顔が、消えた。

「私が死んだときのことを、教えてほしい」

 緑谷は、息を止めた。

「……先生」

「私は、どこで死んだの?」

 彼女の目には、恐怖があった。

 死そのものへの恐怖ではない。

 自分が何を失ったのか分からないことへの恐怖だった。

「誰が、私を殺したの?」

 緑谷は答えられなかった。

 彼女は生き返った。

 けれど、死んだという事実は消えない。

 死んだ瞬間も。

 そのときに感じた恐怖も。

 最後に見た景色も。

 誰かが彼女を救おうとしたのか。

 彼女は誰かを救おうとしたのか。

 そのすべてが、彼女の中から失われている。

 奇跡は、失われた命を取り戻した。

 しかし、失われた時間までは返してくれない。

 そして。

 その奇跡が、何を代償として要求しているのか。

 まだ誰にも分からなかった。

3.死者の記憶

「死者は、死ぬ直前の記憶を持っていると思うか?」

 相澤の質問に、緑谷は考え込んだ。

 ミッドナイトの証言を受け、臨時対策本部では帰還者の記憶について再検討が行われていた。

 現時点で確認されている帰還者の状態は、大きく分けて三種類。

 生前の記憶をほぼ完全に保持している者。

 生前の記憶に欠落がある者。

 そして、自分が誰なのかさえ分からない者。

 だが、問題はそこではなかった。

「帰還者の証言を比較すると、死後の状態に共通点があるんです」

 緑谷は端末に表示された資料を指さした。

「死んでから蘇るまでの記憶が、ほぼ存在しない」

「空白期間というわけか」

「はい。ただし、ミッドナイト先生のように、何らかの場所で誰かと会ったという証言もあります」

「その証言が正確だと、どうやって判断する?」

「……それは」

 緑谷は口を閉じた。

 相澤の指摘は正しかった。

 帰還者の記憶が正しいという保証はない。

 そもそも、記憶とは何なのか。

 脳内に保存された情報なのか。

 経験によって形成された人格なのか。

 それとも、本人という存在を成立させる、もっと根本的な何かなのか。

 仮に、死者の脳が完全に再構築されていたとする。

 その脳に、生前の記憶が正確に複製されていたとする。

 その人間は、本当に本人なのだろうか。

 それとも。

 本人の記憶を持った、別の存在なのだろうか。

「先生」

 緑谷は、慎重に言葉を選んだ。

「もし、死者が生前と同じ記憶を持っていて、同じ人格を持っていて、同じ人間関係を覚えていたとしても……」

「それでも本人ではない可能性がある、と?」

「はい」

 相澤は腕を組んだ。

「なら、何をもって本人だと判断する?」

「……」

「記憶か。人格か。肉体か。魂か」

 魂。

 その言葉が出た瞬間、緑谷は顔を上げた。

 相澤は続ける。

「魂があるかどうかなんて、科学的には確認できない。だが、魂が存在しないと証明することもできない」

「先生は、魂があると思いますか?」

「知らん」

 相澤は即答した。

「知らないから、調べるんだ」

 その言葉は、ひどく当たり前だった。

 そして、当たり前だからこそ、緑谷の心に残った。

「ただし」

 相澤は画面を切り替えた。

「本人かどうかを判断できないからといって、目の前にいる人間を人間として扱わない理由にはならない」

「……!」

「帰還者が本物かどうかは、調査する必要がある。だが、本人かどうか分からないから、保護しなくていいという話にはならない」

 相澤は、冷静に言った。

「分からないものを、分からないまま扱う。それも、現場の人間に必要な判断だ」

 緑谷は深く頷いた。

 確かに、そうだ。

 彼らが本物かどうか。

 それは重要な問題だ。

 しかし、その答えが出るまでの間にも、彼らは苦しんでいる。

 帰還した家族を失うことを恐れる人々がいる。

 自分が本当に本人なのか分からず、苦しむ帰還者がいる。

 そして。

 自分の身体が、何かに乗っ取られようとしている者がいる。

「先生、あの黒い亀裂の件ですが……」

「今、映像を確認している」

 相澤が画面を操作する。

 そこに映し出されたのは、先ほどの男性だった。

 首筋から始まった黒い亀裂は、すでに頬まで広がっている。

 亀裂は皮膚の表面だけではなかった。

 透過画像には、血管に似た黒い線が、身体の内部へと伸びている様子が映っていた。

「……血管じゃない」

 緑谷は呟いた。

「構造が違います。分岐の仕方も、太さも、規則性も……」

「生体組織ではない?」

「少なくとも、普通の生体組織とは考えにくいです」

 映像の中で、男性の指が動いた。

 ぴくり、と。

 それから、手首が曲がる。

 肘が持ち上がる。

 まるで、糸で操られる人形のように。

「……止まった」

 観測班の声が入った。

『対象の身体が動き始めました』

 映像の男性が、ゆっくりと顔を上げる。

 その目は、何も見ていなかった。

 瞳孔が開ききり、焦点が合っていない。

 それなのに。

 彼は、カメラの方を向いた。

 正確に。

 まるで、カメラの向こう側にいる誰かを見つけたかのように。

 そして、口を開いた。

『――見つけた』

 映像の音声が、乱れた。

 その声は、男性のものだった。

 しかし、男性の声ではなかった。

 複数の声が、同時に同じ言葉を発しているように聞こえた。

『見つけた』

『見つけた』

『見つけた』

 音声が重なる。

 低い声。

 高い声。

 子供の声。

 老人の声。

 男の声。

 女の声。

 そのすべてが、同じ言葉を繰り返していた。

 緑谷は背筋に冷たいものを感じた。

 相澤が、映像を止める。

「……音声分析を回せ」

「はい」

「対象の周囲にいる人間を、全員退避させろ。医療班もだ。遠隔監視に切り替える」

 指示が飛ぶ。

 そのとき。

 画面の中の男性が、笑った。

 静止した映像の中で。

 止まっているはずの男性が。

 笑ったのだ。

「――っ!」

 緑谷が息を呑む。

 次の瞬間。

 画面が真っ黒になった。

 通信が途絶した。

 そして、端末のスピーカーから。

 誰のものでもない声が、聞こえた。

『緑谷出久』

 相澤が顔を上げる。

 プレゼント・マイクが、音響機器を確認する。

 緑谷は、動けなかった。

『ようやく、見つけた』

 その声は、彼の名前を知っていた。

 それだけではない。

 その声は。

 彼の心の奥底にある、何かを知っているようだった。

『お前は、まだ持っている』

 端末が、激しくノイズを発した。

『お前は、まだ――』

 通信が切れる。

 部屋に静寂が戻った。

 誰も、すぐには口を開けなかった。

 緑谷は、自分の手を見つめていた。

 何もない。

 かつて、世界を救った力は、もうない。

 それなのに。

 何かが、自分を探している。

 何かが、自分を知っている。

 そして。

 何かが、自分の中に残っているものを求めている。

 相澤が、静かに口を開いた。

「緑谷」

「……はい」

「お前が以前見たという、あの場所」

 相澤は、彼の目を見た。

「そこにいた自分以外の存在について、思い出せることはないか?」

 緑谷は、すぐには答えられなかった。

 暗闇。

 幼い自分。

 そして。

 その向こう側にいた、何か。

 顔は見えなかった。

 形も、はっきりとは思い出せない。

 ただ。

 最後に聞いた言葉だけは、覚えている。

 ――君は、まだ終わっていない。

 緑谷は、ゆっくりと息を吸った。

「……あります」

 そして、彼は答えた。

「でも、あれが何だったのかは……分かりません」

 相澤は頷いた。

「なら、これから調べる」

 その声に、迷いはなかった。

「分からないことが多すぎる。だからこそ、勝手に結論を出すな」

「はい」

「特に、自分を犠牲にすれば何とかなるという結論はな」

「……はい」

 緑谷は苦笑した。

 相澤は、それを見て、ほんの少しだけ表情を和らげた。

「よし。なら、まずは飯を食え」

「えっ?」

「朝から何も食べていないだろう」

「い、いや、でも今は――」

「飯を食えと言った」

「……はい」

 こんなときでも、相澤は相澤だった。

 その当たり前さが、緑谷にはありがたかった。

 世界がどれほど異常になっても。

 分からないことが、どれほど増えても。

 人間は、食べて、眠って、考えなければならない。

 その積み重ねこそが、未来を選ぶための土台になる。

 少なくとも、彼らはそう信じていた。

 まだ、この時点では。

4.神の手が触れたもの

 南極大陸。

 人類が到達できる最果ての一つ。

 氷の下には、現代の観測技術では説明できない構造物が眠っていた。

 人工物なのか。

 自然物なのか。

 そもそも、物質と呼べるものなのか。

 そのすべてが不明だった。

 ただ、一つだけ確かなことがある。

 そこには、死神がいた。

 少女の姿をした存在。

 白い髪。

 赤い瞳。

 人間のような輪郭。

 しかし、その身体は、人間という種族の枠組みに収まっていない。

 彼女は、氷の大地に立っていた。

 その周囲には、無数の光が浮かんでいる。

 青い光。

 白い光。

 赤い光。

 そして、黒い光。

 光は、それぞれ異なる形を持っていた。

 あるものは、人間の姿。

 あるものは、獣の姿。

 あるものは、輪郭さえ曖昧な、名もない何か。

 死者たち。

 彼女が呼び戻したものたち。

 その一つ一つを、死神は見つめていた。

「……また、壊れた」

 少女が呟いた。

 彼女の視線の先には、黒い光があった。

 その光は、激しく明滅している。

 光の内部には、複数の輪郭が重なっていた。

 人間。

 人間。

 人間。

 それぞれが、別の存在であるはずなのに、同じ器の中に押し込められている。

「器が耐えられなかったのかしら」

 少女は首を傾げた。

「それとも、記憶が混ざった?」

 答えはない。

 彼女自身も、まだ理解していないことが多すぎた。

 死者を呼び戻す。

 それは、彼女にとって不可能なことではなかった。

 しかし、呼び戻した存在が、その後どうなるのか。

 どこまでが本人で、どこからが異物なのか。

 その境界を、彼女は完全には把握していなかった。

 そもそも。

 死者という存在を、彼女は人間と同じように理解しているのだろうか。

 少女は、長い時間を生きてきた。

 人類の歴史よりも、ずっと長い時間を。

 文明が生まれる前から。

 人類が個性という力を手に入れる前から。

 あるいは、地球という惑星に生命が生まれる以前から。

 彼女は、そこにいた。

 死を見てきた。

 生を見てきた。

 生まれては消えていく文明を、数え切れないほど見てきた。

 けれど。

 人間という生き物は、彼女にとって奇妙な存在だった。

 自分の命を犠牲にして、他人を救おうとする。

 自分を傷つけた相手を、それでも救おうとする。

 死んだ者を忘れられず、何年も、何十年も、その名前を呼び続ける。

 失ったものを取り戻せないと知りながら、それでも手を伸ばす。

 非合理的だ。

 効率が悪い。

 生存という観点から見れば、明らかな欠陥だ。

 それなのに。

 その欠陥が、彼らを奇妙な方向へ進化させてきた。

 死神は、緑谷出久を思い出した。

 彼は、力を失った。

 世界を救うために使った力を。

 それでも、誰かを救おうとしていた。

 彼のような人間は、何度も見てきた。

 そのたびに、疑問が生まれる。

 なぜ、そこまでするのか。

 なぜ、自分を犠牲にすることを恐れないのか。

 なぜ、失うと分かっているものを、それでも求めるのか。

 死神は、人間の行動を観測してきた。

 だが、観測するだけでは分からないことがある。

 それなら。

 実際に、彼らの願いを叶えてみればいい。

 願いが叶ったとき、人間は何を選ぶのか。

 失った家族が戻ってきたとき。

 もう一度、愛する人に会えたとき。

 やり直す機会を与えられたとき。

 人間は、何を望むのか。

 その答えを知りたかった。

 ただ、それだけだった。

 少なくとも、彼女はそう考えていた。

「……あら?」

 少女が顔を上げた。

 遠く離れた地球。

 雄英高校。

 そこから、微かな波紋が伝わってきた。

 彼女の意識が、ほんの一瞬だけ揺れる。

 黒い光の一つが、動いた。

 それは、死神が直接呼び戻した光ではなかった。

 正確には、彼女が呼び戻した光の中に、別の何かが混ざっている。

 彼女自身が作り出したものではない。

 彼女が意図したものでもない。

 それなのに、その何かは、彼女の力を利用していた。

「……あなた、どこから来たの?」

 少女は、黒い光に手を伸ばした。

 指先が触れた瞬間。

 黒い光が、彼女の手を弾いた。

 氷の大地に、亀裂が走る。

 少女の赤い瞳が、細くなった。

「そう」

 初めて、彼女の表情から笑みが消えた。

「私の手を、勝手に使っているのね」

 黒い光が、明滅する。

 その奥から、声が聞こえた。

『お前の手ではない』

 死神は、黙っていた。

『お前は、扉にすぎない』

「……扉?」

『死者を呼び戻したのは、お前だ。しかし、死者が戻ってきた理由のすべてを、お前が理解しているわけではない』

 少女は、黒い光を見つめた。

「あなたは何?」

『問いが間違っている』

 声が答えた。

『問うべきは、私が何者かではない』

 黒い光が、ゆっくりと膨らんだ。

『お前は、何を呼び戻した?』

 少女は、答えなかった。

 その質問には、まだ答えられなかった。

 彼女は死者を呼び戻した。

 しかし、呼び戻したものが、すべて死者だったとは限らない。

 人間の記憶。

 人間の肉体。

 人間の願い。

 それらを器として、別の何かが入り込んでいる可能性がある。

 では、その何かはどこから来たのか。

 死者の世界からか。

 宇宙の彼方からか。

 それとも。

 最初から、人間の世界に存在していたのか。

「……面白いわね」

 少女は、再び笑った。

 ただし、その笑みは、先ほどまでの無邪気なものとは違っていた。

「あなたも、観測対象ということね」

『観測するのは、お前ではない』

 声が言った。

『お前もまた、観測されている』

 その瞬間。

 少女の周囲に浮かんでいた無数の光が、一斉に明滅した。

 青い光が、震える。

 白い光が、歪む。

 赤い光が、黒く染まりかける。

 そして、黒い光が。

 少女の方を向いた。

 目など、存在しないはずだった。

 顔も、口も、何もない。

 それなのに。

 少女には、見られていると分かった。

 遠くから。

 途方もなく遠い場所から。

 この宇宙そのものよりも、さらに外側から。

 何かが、こちらを見ている。

 少女は初めて、ほんのわずかに警戒した。

「……あなた」

 彼女は、小さく呟いた。

「もしかして、あの方の――」

 言葉が途切れた。

 黒い光が、消えたのだ。

 まるで最初から存在しなかったかのように。

 少女は、しばらくその場所を見つめていた。

 やがて、彼女は顔を上げた。

 氷の下。

 惑星の中心。

 そのさらに深い場所。

 人間の知覚が届かない領域に向かって。

「……起きているの?」

 返答はなかった。

 しかし。

 世界のどこかで、何かが動いた。

 それは、音を持たなかった。

 光を持たなかった。

 形も、意志も、人間が理解できる意味での存在すら持っていなかった。

 ただ。

 眠りの底で、微かな夢を見ていた。

 人間という種族の夢を。

 そして、その夢の中で。

 緑谷出久という、一人の人間の姿を。

5.十三年前に死んだ男

 その日の午後。

 東京都内の臨時保護施設に、一人の男性が運び込まれた。

 年齢は五十代。

 帰還時刻は午前九時三十二分。

 死亡記録は十三年前。

 生前の職業は、警察官だった。

 名前は、真壁慎吾。

 彼は十三年前、大規模なヴィラン事件で命を落としていた。

 現場に取り残された市民を救出するため、崩壊寸前の建物へ戻ったのだという。

 救助対象は三人。

 そのうち二人は生還した。

 真壁は、最後の一人を庇って死亡した。

 その記録は、当時の報道にも残っていた。

 帰還後の彼は、自分が死んだことを理解していた。

 自分の葬儀が行われたことも。

 妻が再婚せず、一人で子供を育てたことも。

 娘が結婚し、孫が生まれたことも。

 彼は、すべて覚えていた。

 そして、娘と孫に会いたいと願った。

 その願いは叶った。

 娘は泣いた。

 孫は、初めて会う祖父に戸惑った。

 真壁は、二人を抱きしめた。

 十三年分の時間を埋めることはできない。

 それでも、再会は本物だった。

 少なくとも、彼らはそう信じたかった。

 だが、保護施設に運び込まれた真壁は、医療スタッフの前で、突然こう言った。

「俺は、あの子を助けたんじゃない」

 その場にいた医師は、最初、聞き間違いだと思った。

「真壁さん?」

「俺は……あの子を助けたかったんじゃない」

 真壁は、自分の手を見つめていた。

 その指先が震えている。

「俺は、逃げたかったんだ」

 医師が顔を上げた。

「逃げたかった?」

「死にたくなかった」

 真壁の声が、掠れた。

「怖かった。建物が崩れる音がして、床が揺れて、瓦礫が落ちてきて……俺は、死にたくなかった」

 彼は顔を覆った。

「それなのに、俺は戻った」

 嗚咽が漏れる。

「戻らなきゃよかった。逃げればよかった。あのとき、俺が戻らなければ……」

「真壁さん、落ち着いてください」

「俺は英雄なんかじゃない!」

 真壁が叫んだ。

 その声に、施設内の人々が振り返った。

「俺は怖かったんだ! 死にたくなかった! 家に帰りたかった! 娘に会いたかった!」

 彼は床に膝をついた。

「俺は……俺は……」

 声が震える。

「それでも、あの子を助けたかったんだ」

 静寂が訪れた。

 真壁は、顔を覆ったまま泣いていた。

 矛盾している。

 逃げたかった。

 死にたくなかった。

 それでも、助けたかった。

 その三つは、同時に存在していた。

 彼は英雄だった。

 しかし、英雄である前に、人間だった。

 死の恐怖を知らなかったわけではない。

 恐怖を感じなかったわけでもない。

 ただ、その恐怖を抱えたまま、誰かを助けようとした。

 それだけだった。

 医師は、彼の隣にしゃがみ込んだ。

「真壁さん」

「……」

「あなたが何を感じていたとしても、あの子が助かったという事実は変わりません」

「でも……」

「怖かったことも、逃げたかったことも、あなたが誰かを助けたことも、全部、あなたの一部です」

 真壁は、ゆっくりと顔を上げた。

 目が赤くなっていた。

「……俺は、あのとき、正しかったんでしょうか」

 医師は、すぐには答えなかった。

 正しかったのか。

 間違っていたのか。

 その判断を、他人が簡単に下すべきではない。

 彼は自分の命を失った。

 助けた人間は生き延びた。

 それは、確かな結果だ。

 だが、だからといって、彼の選択を美談として消費していいわけではない。

 彼自身の恐怖も。

 生きたかったという願いも。

 家族と過ごしたかった未来も。

 そのすべてが、彼の命と一緒に失われたのだから。

「……分かりません」

 医師は、正直に答えた。

「でも、あなたがそうした理由を、あなた自身が考えることには意味があると思います」

 真壁は、しばらく黙っていた。

 やがて、涙を拭った。

「……娘に、もう一度会いたい」

「会えますよ」

「今度は、英雄じゃなくていい」

 彼は、ゆっくりと立ち上がった。

「ただの父親として、会いたいんです」

 その瞬間。

 真壁の首筋に、黒い線が走った。

 医師は、息を呑んだ。

「真壁さん?」

 黒い線は、皮膚の下を走っていた。

 血管に似ている。

 しかし、血管ではない。

 それは、真壁の首筋から顎へ。

 顎から頬へ。

 頬から、こめかみへと伸びていく。

「……ああ」

 真壁は、自分の顔に触れた。

 指先が、震えている。

「また、来た」

「何がですか!?」

 真壁は、医師を見た。

 その目には、恐怖があった。

 そして。

 その奥に、何か別のものがいた。

「……俺の中に、誰かいる」

 医師が後ずさる。

 真壁は、必死に首を振った。

「違う。違うんだ。俺は、あの子に会いたいだけなんだ」

 黒い線が、さらに広がる。

「俺は、俺のままでいたいんだ」

 真壁の声が、二重に響いた。

「俺は……」

 彼の口が、勝手に開いた。

 そして。

 真壁自身の声ではない声が、そこから漏れた。

『――願いは、叶えられた』

 医師は、動けなかった。

『ならば、次は代償を支払え』

 真壁の身体が、ゆっくりと傾いた。

 彼は倒れなかった。

 空中で、何かに吊り上げられたように静止した。

 黒い亀裂が、全身へと広がっていく。

 真壁は、必死に口を動かした。

「……たす、け……」

 その声は、かすかだった。

 それでも。

 確かに、真壁の声だった。

「……たすけて……」

 医師は、通信端末を掴んだ。

「緊急事態です! 対象に異常が発生――」

 その瞬間。

 真壁の目が、医師を見た。

 焦点が合った。

 黒く染まった瞳の奥に、一瞬だけ、人間の光が戻った。

「……娘を」

 真壁が言った。

「娘を……頼む」

 そして。

 彼の身体が、黒い霧に包まれた。

6.人間の願い

「……そんな」

 緊急映像を見た緑谷は、言葉を失っていた。

 真壁慎吾。

 かつて、命を懸けて市民を救った警察官。

 彼は、帰還後も誰かを傷つけようとしたわけではない。

 ただ、娘に会いたかった。

 もう一度、父親として生きたかった。

 その願いを叶えられたはずだった。

 なのに。

「どうして……」

 緑谷の声が震える。

「どうして、こんなことになるんですか」

 誰も答えなかった。

 映像の中では、医療スタッフが避難を開始していた。

 黒い霧は、真壁の身体から噴き出している。

 それは以前、緑谷が見たものと同じだった。

 しかし、今回の霧は違った。

 人間の形を保っている。

 頭部。

 肩。

 腕。

 胴体。

 まるで、真壁の身体を外側からなぞるように、黒い輪郭が形成されていく。

 そして。

 霧の中に、別の顔が浮かんだ。

 真壁の顔ではない。

 それは、緑谷の知らない男の顔だった。

 だが、映像を見ていた相澤が、突然立ち上がった。

「……待て」

「先生?」

「その顔……」

 相澤の目が、細くなる。

「拡大しろ」

 職員が映像を拡大する。

 黒い霧の中に浮かんだ顔。

 年齢不詳。

 白い髪。

 目元には、深い皺。

 そして、額から頬にかけて、何かに引き裂かれたような傷跡があった。

 その顔を見た瞬間。

 相澤の表情が変わった。

「……まさか」

 プレゼント・マイクが、画面を覗き込んだ。

「おい、イレイザー。どうした?」

 相澤は答えなかった。

 ただ、映像を見つめていた。

 その顔を知っている。

 正確には、知っているはずがない。

 その男は、相澤が生まれるずっと前に死んでいる。

 記録に残っているのは、古い写真だけ。

 そして、その写真は。

 雄英高校の地下保管庫に、厳重に封印されていた。

「……オール・フォー・ワン」

 誰かが、呟いた。

 その名が、部屋に落ちた。

 緑谷は、息を呑んだ。

 オール・フォー・ワン。

 かつて世界を恐怖に陥れた、最悪の敵。

 彼は、最終決戦で敗北した。

 その存在は、確かに終わったはずだった。

 緑谷自身が、その終わりを見届けた。

 だからこそ。

 彼は、その名を聞くだけで、胸の奥が冷たくなる。

「……違う」

 緑谷は、映像を見つめた。

「先生。あれは、オール・フォー・ワンじゃありません」

 相澤が振り返る。

「なぜ、そう言い切れる?」

「分かりません。でも……」

 緑谷は、拳を握りしめた。

「あれは、彼の顔をしているだけです」

 その言葉には、確信があった。

 根拠はない。

 証明もできない。

 しかし、緑谷には分かった。

 あれは、オール・フォー・ワンではない。

 あれは。

 オール・フォー・ワンという名前を、利用している何かだ。

 映像の中で、黒い霧が動いた。

 真壁の身体が、ゆっくりと顔を上げる。

 そして。

 その口が、笑みの形に歪んだ。

『――いい器だ』

 音声が響く。

『恐怖も、愛情も、後悔も、すべてを持っている』

 黒い霧が、真壁の身体を包み込む。

『人間とは、なんと都合のいい器なのだろう』

 緑谷は、歯を食いしばった。

『死んでもなお、願いを捨てられない』

 声が笑った。

『死んでもなお、失ったものに執着する』

 その声は、楽しそうだった。

『だからこそ、使える』

 緑谷は、一歩前へ出た。

「やめろ……」

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

「やめろ!」

 彼は叫んだ。

 しかし、映像の中の存在は、彼の声を聞いているかのように顔を向けた。

『緑谷出久』

 また、その名前だった。

『お前は、まだ理解していない』

 黒い霧が、揺れる。

『死者は、願いによって戻ってきた』

『だが、願いは、彼らだけのものではない』

 緑谷は、息を止めた。

『誰かを取り戻したいという願い』

『もう一度、生きたいという願い』

『失ったものを、取り返したいという願い』

 声が重なる。

『そのすべては、扉となる』

 黒い霧が、真壁の顔を覆った。

『願いを叶えるために、何かを差し出す』

『その何かを、誰が決める?』

 緑谷は答えられなかった。

『願いを叶えた者か』

『願いを抱いた者か』

『それとも――』

 黒い霧が、ゆっくりと膨張した。

『願いを利用する者か』

 その瞬間。

 映像が途切れた。

 通信が切断される。

 再び、部屋が静まり返った。

 誰もが、何かを考えていた。

 そして、緑谷は気づいた。

 この事件は、単なる死者の復活ではない。

 死者たちは、確かに帰ってきた。

 だが、その帰還は、何者かによって利用されている。

 彼らの願いが。

 彼らの後悔が。

 彼らの愛情が。

 彼らが生きた証そのものが。

 何かを呼び込むための、扉にされている。

「……先生」

 緑谷は、相澤を見た。

「僕たちは、何と戦っているんでしょうか」

 相澤は、しばらく黙っていた。

 やがて、静かに答えた。

「まだ分からん」

「……」

「だが、一つだけ分かっていることがある」

 相澤は、画面を見つめた。

「これは、死者を生き返らせただけの現象ではない」

 彼の目は、厳しかった。

「誰かが、死者の帰還を利用している」

 その言葉が、緑谷の胸に落ちた。

「そして、その誰かは……」

 相澤は、そこで言葉を切った。

 彼は、続きの言葉を口にすることを躊躇っていた。

 しかし、言わなければならない。

「おそらく、俺たちが知っている敵とは違う」

 それは、警告だった。

 オール・フォー・ワンを倒した。

 長年、人類を脅かしてきた巨悪を打ち破った。

 その後、世界は少しずつ平和を取り戻してきた。

 だが、彼らは今、再び理解しなければならない。

 人類が知っている悪意など。

 この世界に存在する悪意の、ほんの一部にすぎないのかもしれないということを。

7.娘は、父を待っている

 同じ頃。

 真壁慎吾の娘、真壁由香は、臨時保護施設へ向かっていた。

 父が異常を起こしたという連絡を受けたからだ。

 電話口の職員は、詳しい説明を避けた。

 安全のため、施設への立ち入りは控えてほしい。

 現在、原因不明の異常が発生している。

 状況が分かり次第、改めて連絡する。

 そう言われた。

 だが、由香には、それで納得できるはずがなかった。

 十三年間。

 彼女は父を失ったまま生きてきた。

 父の葬儀の日。

 父の遺品を整理した日。

 結婚式で、父の席を空けた日。

 自分の子供が生まれた日。

 そのたびに、父がいないことを思い知らされた。

 父が生きていたら、どうしただろう。

 どんな顔をしただろう。

 何と言っただろう。

 そんな想像を、何度も繰り返してきた。

 そして今日。

 父が帰ってきた。

 十三年という時間を飛び越えて。

 彼は、自分のことを覚えていた。

 子供の頃に好きだった絵本。

 初めて自転車に乗った日。

 転んで膝を擦りむいたとき、泣きながら父にしがみついたこと。

 由香が忘れかけていたようなことまで、彼は覚えていた。

 父は、泣いていた。

 由香も泣いた。

 父の手は、記憶の中より少し冷たかった。

 けれど、確かに父の手だった。

 その父が、再び危険にさらされている。

「……お父さん」

 由香は、施設の入口で立ち止まった。

 そこには、規制線が張られていた。

 職員たちが、慌ただしく行き来している。

 遠くから、救急車のサイレンが聞こえた。

「すみません!」

 由香は、入口にいた職員へ駆け寄った。

「父がここにいるんです! 真壁慎吾です!」

「申し訳ありません。現在、施設内で異常が発生しておりまして――」

「父は無事なんですか!?」

 職員は、答えられなかった。

 その沈黙が、何よりも恐ろしかった。

「お願いです……!」

 由香は、声を震わせた。

「せっかく、帰ってきたんです」

 彼女は、涙を堪えながら言った。

「十三年も待ったんです。やっと会えたんです。今度こそ、ちゃんと話せると思ったんです」

 職員は、目を伏せた。

「……」

「私、まだ言えていないことがあるんです」

 由香の声が、小さくなる。

「結婚したことも。子供が生まれたことも。お父さんが死んだあと、どんなことがあったのかも」

 彼女は、震える手で口元を覆った。

「それに……」

 涙が、頬を伝った。

「私、お父さんに、ありがとうって言えていないんです」

 父は、彼女を守るために死んだ。

 それを、由香は知っていた。

 だからこそ、言いたかった。

 ありがとう。

 あなたが父親でよかった。

 あなたの娘でよかった。

 その言葉を、もう一度。

 今度こそ、ちゃんと伝えたかった。

 そのとき。

 規制線の向こう側で、何かが動いた。

 黒い霧が、建物の窓から漏れ出していた。

 職員たちが叫ぶ。

 警備員が、由香を下がらせようとする。

 だが、彼女は動けなかった。

 黒い霧の中に、人影が見えた。

 見覚えのある背格好。

 見覚えのある肩。

 見覚えのある、歩き方。

「……お父さん?」

 人影が、こちらを向いた。

 顔は見えない。

 黒い霧が、その全身を覆っている。

 それでも、由香には分かった。

 あれは、父だ。

 父の身体だ。

 父の姿だ。

「お父さん!」

 彼女は、規制線を越えようとした。

「来ちゃ駄目です!」

 職員が叫ぶ。

 だが、由香は止まらなかった。

「お父さん! 私、ここにいるよ!」

 黒い人影が、動きを止めた。

「お父さん!」

 由香は、涙を流しながら叫んだ。

「私だよ! 由香だよ!」

 黒い霧が、揺れた。

 そして。

 その奥から、かすかな声が聞こえた。

「……ゆ、か……」

 由香は、息を呑んだ。

 その声は、確かに父の声だった。

「……お父、さん……?」

「……逃げ、ろ……」

 人影が、震えた。

「……逃げろ……由香……!」

 黒い霧が、激しく膨張する。

 父の身体が、何かに引き裂かれるように歪んだ。

「……俺は……!」

 声が、途切れる。

「……俺は、お前を……!」

 由香は、泣きながら首を振った。

「嫌だ……!」

 彼女は、規制線を掴んだ。

「嫌だよ! またいなくならないで!」

 父は、必死に何かを伝えようとしていた。

 黒い霧の中で。

 自分の身体を奪われながら。

 それでも、娘を守ろうとしていた。

「……ごめん、な……」

 その声が、最後に聞こえた。

 次の瞬間。

 黒い霧が、弾けた。

 由香は、地面に倒れ込んだ。

 目の前で、父の姿が消えていく。

 黒い粒子となって。

 風に散る灰のように。

 そして。

 何も残らなかった。

 由香は、しばらく動かなかった。

 ただ、地面に手をついたまま、父がいた場所を見つめていた。

 やがて。

 彼女の口から、声が漏れた。

「……ありがとう」

 誰もいない場所へ。

 もう一度、言えなかった言葉を。

「……お父さん。ありがとう」

 その言葉は、届いたのだろうか。

 分からない。

 父が、本当に父だったのか。

 最後まで、自分の意志を保っていたのか。

 その答えさえ、分からない。

 それでも。

 由香は、父が最後に自分を逃がそうとしたことを、忘れないだろう。

 父が自分を呼んだことを。

 自分を守ろうとしたことを。

 そして。

 自分が、もう一度、父に会えたことを。

 それが偽物だったとしても。

 その瞬間に感じた愛情まで、偽物だと決めつけることはできなかった。

8.英雄ではない人間のために

 午後二時。

 雄英高校の臨時対策本部は、帰還者の異常事例を受け、警戒レベルを引き上げた。

 黒い亀裂が発生した帰還者は、複数確認されていた。

 共通点はある。

 いずれも、何らかの強い感情が表面化した直後に異常を起こしている。

 ただし、強い感情そのものが原因とは限らない。

 家族との再会を喜んだ帰還者もいる。

 死んだことを悔やむ帰還者もいる。

 自分の死を受け入れ、穏やかに暮らしている帰還者もいる。

 それでも、黒い亀裂が現れる者と、現れない者がいる。

 違いは何なのか。

 感情の種類か。

 記憶の欠落か。

 帰還した時間の長さか。

 それとも、帰還者の中に入り込んだ何かの性質か。

 現時点では、何も分からない。

 だが、一つだけ、はっきりしたことがあった。

 帰還者の異常は、本人の意志だけでは止められない場合がある。

 本人が望んでいなくても。

 本人が誰かを傷つけたくなくても。

 本人が、ただ家族に会いたいだけだったとしても。

 その身体が、何かに利用される可能性がある。

「……厄介だな」

 爆豪勝己が、腕を組んで唸った。

 彼は現場対応の準備を進めていたが、対策本部から出された資料を見て、露骨に顔をしかめていた。

「敵がいるならぶっ飛ばせばいい。だが、敵がどこにいるか分からねえ。そもそも、どこからどこまでが敵なのかも分からねえ」

「その通りだ」

 相澤が答えた。

「しかも、敵の身体が、保護対象の身体と一体化している可能性がある」

「つまり、ぶっ飛ばしたら中の人間まで巻き込むってことか」

「そうだ」

「……クソが」

 爆豪は舌打ちした。

 その怒りは、敵に向けられていた。

 いや。

 敵という言葉さえ、正確ではないのかもしれない。

 彼らが相手にしているのは、誰かの身体を使い、誰かの記憶を利用し、誰かの願いを踏みにじる何かだ。

 それは、倒せば終わるヴィランとは違う。

 力で打ち砕くだけでは、救えないものがある。

「だからって、見捨てるわけにはいかねえだろ」

 爆豪が言った。

「本人が助けてくれって言ってんだ。だったら、助ける方法を探すしかねえ」

 緑谷は、彼を見た。

「かっちゃん……」

「何だ、クソナード」

「いや……ありがとう」

「礼なんかいらねえ。気色悪い」

「ご、ごめん!」

「謝んな! 余計気色悪い!」

 いつものやり取り。

 その横で、轟焦凍が静かに口を開いた。

「……俺は、分かる気がする」

 全員の視線が集まる。

「自分の中に、自分じゃないものがある感覚」

 轟は、自分の左手を見た。

「もちろん、今の話とは違う。俺の場合は、父親から受け継いだものだ。だが、昔は自分の力が、自分のものだと思えなかった」

 彼は、少しだけ目を伏せた。

「自分の身体なのに、自分の意志で動かせない。自分の力なのに、自分が望んだ使い方ができない。そういうことが、どれだけ苦しいかは……少しは分かる」

 緑谷は、静かに頷いた。

「……うん」

「だから、助けるなら、身体だけじゃ駄目なんだと思う」

 轟は言った。

「本人が、自分で自分を選べるようにしないといけない」

 その言葉に、相澤は目を細めた。

 自分で自分を選ぶ。

 それは、簡単なようで、難しいことだ。

 人間は、環境に影響される。

 家族に影響される。

 社会に影響される。

 そして、時には、誰かの期待や憎悪によって、自分自身を見失う。

 それでも。

 最後に何を望むのか。

 何を選ぶのか。

 その選択を、他人に奪わせてはならない。

「……そうだな」

 相澤は言った。

「帰還者を、単なる異常存在として扱うわけにはいかない」

 彼は、資料を閉じた。

「だが、同時に、危険性を無視するわけにもいかない。保護と警戒。その両方を徹底する」

「了解」

 爆豪が答える。

 轟も頷いた。

 緑谷は、しばらく黙っていた。

 やがて、静かに口を開いた。

「……先生」

「何だ」

「もし、帰還者が本当に本人じゃなかったとしても」

 相澤は、彼を見た。

「もし、記憶を持っただけの別人だったとしても……その人が誰かを愛していたことや、誰かに愛されていたことまで、偽物になるわけじゃないと思うんです」

 その言葉に、誰も反論しなかった。

「僕たちは、まだ何も分かっていません。でも、だからって、最初から偽物だと決めつけたくない」

 緑谷は、自分の手を見つめた。

「本物か偽物かを決めるのは、僕たちじゃないのかもしれない」

「……」

「その人が誰を大切に思っているのか。何を守りたいのか。何を望んでいるのか。そういうものを、ちゃんと見ていきたいんです」

 彼は顔を上げた。

「もし、その人が本当に誰かを傷つけようとしているなら、止めます。でも、助けを求めているなら……僕は、助けたい」

 それは、かつての彼と変わらない答えだった。

 しかし。

 以前とは、少し違っていた。

 かつての緑谷出久は、自分が傷つくことを恐れずに、誰かを救おうとした。

 自分が犠牲になればいい。

 自分が耐えればいい。

 自分が何とかすればいい。

 そう考えていた。

 今は違う。

 自分一人で救うことはできない。

 だからこそ、仲間と共に考える。

 仲間と共に戦う。

 仲間と共に、誰かを救う方法を探す。

 それは、彼がようやく学んだことだった。

 相澤は、静かに頷いた。

「分かった」

 そして、言った。

「なら、全員で考えるぞ」

 その言葉を聞いて、緑谷は微笑んだ。

 小さく。

 しかし、確かに。

 それは希望だった。

 まだ何も解決していない。

 世界は、今も混乱している。

 死者は帰ってきた。

 その身体に、未知の何かが入り込んでいる。

 神のような存在が、彼らを観測している。

 そして、その背後には、人類が理解できない何かがいる。

 それでも。

 彼らは、考えることをやめない。

 人間を、人間として扱うことをやめない。

 それこそが、彼らの選んだ道だった。

9.死神の問い

 南極。

 少女は、再び地球を見つめていた。

 彼女の視界には、世界各地の光が映し出されている。

 帰還者たち。

 その家族。

 彼らを守ろうとする者。

 彼らを恐れる者。

 彼らを利用しようとする者。

 そして。

 彼らを救おうとする者。

 少女は、そのすべてを眺めていた。

「……面白い」

 彼女は呟いた。

 人間は、矛盾している。

 死者を取り戻したいと願いながら、死者が戻ってくることを恐れる。

 本人であってほしいと願いながら、本人であることを証明しろと求める。

 生き返った家族を抱きしめながら、いつか再び失うのではないかと怯える。

 そして。

 それでも、彼らを愛そうとする。

 少女には、その感情の仕組みが完全には理解できなかった。

 なぜ、一度失ったものを、もう一度愛そうとするのか。

 また失う可能性があるなら、最初から距離を置けばいい。

 期待しなければ、失望することもない。

 願わなければ、叶わなかったときに苦しむこともない。

 それなのに。

 人間は、願う。

 何度でも。

 何度でも。

 少女は、緑谷出久の姿を映し出した。

 彼は、仲間たちと共に、帰還者を救う方法を探している。

 力を失っても。

 かつてのような力を持っていなくても。

 彼は、まだ誰かを救おうとしている。

「あなたは、何を望んでいるの?」

 少女が尋ねた。

 当然、返答はない。

 彼は、遠く離れた場所にいる。

 彼女の声は届かない。

 それでも、少女は問いかけた。

「失った力を取り戻したい?」

 緑谷の映像が、わずかに揺れた。

「もう一度、世界を救いたい?」

 答えはない。

「それとも……」

 少女は、少しだけ目を細めた。

「誰かに、自分を救ってほしい?」

 その問いかけに、彼女自身が興味を持った。

 人間は、他人を救うことに執着する。

 だが、自分が救われることを望むのは、どれほど難しいのだろう。

 自分が苦しんでいると認めること。

 自分には助けが必要だと認めること。

 自分一人では、どうにもならないと認めること。

 それは、彼らにとって、死ぬことよりも難しい場合がある。

 少女は、静かに笑った。

「あなたの願いを、聞いてみたいわ」

 そのとき。

 彼女の背後から、声が聞こえた。

『その問いに、意味はあるのか』

 少女は振り返った。

 そこには、誰もいない。

 だが、声は確かに存在していた。

「あるわ」

 彼女は答えた。

「私は、知りたいの」

『知ることで、何が変わる』

「私が変わるかもしれない」

『お前が?』

 声に、微かな響きが混ざった。

 嘲笑だったのか。

 驚きだったのか。

 それとも、ただの人間的な表現にすぎないのか。

 少女には分からなかった。

「ええ」

 彼女は、真っ直ぐに答えた。

「私は、死者を呼び戻した。彼らが何を望むのか、知りたかったから」

『そして、彼らは苦しんでいる』

「……そうね」

『お前の選択が、彼らを苦しめている』

「そうかもしれない」

『それでも続けるのか』

 少女は、しばらく黙っていた。

 そして。

「いいえ」

 彼女は、静かに答えた。

「続けるかどうかは、これから決めるわ」

 その答えに、声は沈黙した。

 少女は、地球を見つめた。

「私は、まだ何も知らない」

 彼女は言った。

「死者が何を望むのか。生者が何を恐れるのか。彼らが、どこまで自分自身でいられるのか」

 赤い瞳が、わずかに揺れる。

「そして、私が呼び戻したものが、本当に彼らだけだったのかも」

 彼女は、自分の手を見た。

 白い指先。

 人間に似た手。

 けれど、人間の手ではない。

「……もし、私が間違えたのなら」

 少女は、初めてその可能性を口にした。

「私は、何をすればいいのかしら」

 返答はなかった。

 それでも。

 少女は、その問いを忘れなかった。

10.十三年目の終わりへ

 夕方。

 雄英高校の敷地には、まだ多くの人々が残っていた。

 公式の追悼式典は中止された。

 安全上の理由から、帰還者の受け入れにも制限が設けられた。

 それでも、人々は帰らなかった。

 花を手向ける者。

 亡くなった家族の名前を呼ぶ者。

 帰還した家族を抱きしめる者。

 そして。

 もう一度、会いたいと願う者。

 そのすべてが、同じ場所に集まっていた。

 緑谷は、校舎の外から、その光景を見つめていた。

 隣には、麗日がいる。

「……不思議だね」

 麗日が言った。

「何が?」

「こんなに怖いことが起きてるのに、みんな帰らない」

 緑谷は、ゆっくりと頷いた。

「うん」

「帰ってきた人たちが、本当に本人なのか分からない。いつ、何が起きるかも分からない。それなのに……」

 彼女は、遠くにいる親子を見た。

 母親が、帰還した息子の頬に触れている。

 息子は、母親の手を握っていた。

 その二人は、何も話していなかった。

 ただ、互いの存在を確かめるように、手を握り合っていた。

「……それでも、会いたいんだよね」

 麗日が呟いた。

「もう一度、会いたい。もう一度、話したい。もう一度、手を握りたい」

 彼女は、胸元に手を当てた。

「その気持ちが、どれだけ強いものなのか……私、分かる気がする」

 緑谷は、彼女を見た。

「お茶子ちゃん……」

「でもね、出久くん」

 麗日は、真剣な表情で彼を見返した。

「会いたいって気持ちが、誰かを傷つける理由になっちゃいけないと思う」

「……うん」

「帰ってきた人たちを、全部偽物だって決めつけるのも違う。でも、何が起きても奇跡だからって受け入れるのも違う」

 彼女は、はっきりと言った。

「私たちは、ちゃんと考えなきゃいけないんだと思う」

 緑谷は、深く頷いた。

「そうだね」

 彼は、遠くの空を見上げた。

 夕日が、街を赤く染めていた。

 十三年前。

 彼らは、世界を救うために戦った。

 多くのものを失った。

 多くの人が傷ついた。

 それでも、彼らは未来を選んだ。

 誰かが用意した答えではなく。

 誰かに押しつけられた正義でもなく。

 自分たちの意志で、未来を選んだ。

 そして今。

 世界は再び、選択を迫られている。

 死者を取り戻したいという願い。

 もう一度、人生をやり直したいという願い。

 失ったものを、取り返したいという願い。

 それらは、決して間違った願いではない。

 誰かを愛すること。

 誰かを忘れられないこと。

 過去に囚われてしまうこと。

 そのすべてが、人間の弱さであり、人間の強さでもある。

 しかし。

 その願いを、誰かが勝手に利用していいわけではない。

 願いを叶えるために、本人の意志を奪っていいわけではない。

 死者を呼び戻すために、生者の未来を犠牲にしていいわけではない。

 それだけは、譲れない。

「……お茶子ちゃん」

「うん?」

「僕たち、これから大変なことになると思う」

「うん。そうだね」

「もしかしたら、今までの常識が全部通用しないかもしれない」

「うん」

「何が正しいのか、分からなくなるかもしれない」

 麗日は、彼の手を握った。

「それでも、一緒に考えよう」

 緑谷は、彼女を見た。

「……うん」

「一人で答えを出そうとしないで。私たちにも考えさせて」

「……分かった」

「約束だよ」

 彼は、微笑んだ。

「約束する」

 そのとき。

 校舎の中から、慌ただしい足音が聞こえた。

「緑谷!」

 相澤だった。

 その表情は、厳しい。

「緊急事態だ」

 緑谷と麗日は、同時に振り返った。

「何があったんですか?」

「帰還者の異常事例について、追加の情報が入った」

 相澤は、端末を差し出した。

 画面には、複数の映像が並んでいた。

 世界各地。

 異なる国。

 異なる地域。

 異なる時間。

 しかし、映像には共通点があった。

 帰還者の身体に、黒い亀裂が浮かび上がっている。

 ある者は、家族の前で。

 ある者は、病院で。

 ある者は、警察の取り調べ中に。

 そして、ある者は。

 人々の目の前で、突然、黒い霧へと変わっていた。

「……これ、全部……」

 麗日が息を呑む。

「ああ」

 相澤は答えた。

「同時多発的に発生している」

「原因は?」

「不明だ」

 緑谷は、画面を見つめた。

 その中の一つに、目が止まる。

 映像の中には、幼い少女がいた。

 年齢は、十歳前後。

 彼女は、帰還した母親の手を握っている。

 母親は、娘に微笑みかけていた。

 その首筋に、黒い亀裂が浮かび上がる。

 少女は、それに気づいていない。

 ただ、母親の手を握っていた。

 そして、映像の中の母親が、口を開いた。

『――ごめんね』

 緑谷の心臓が、跳ねた。

『あなたを、もう一度、置いていくことになって』

 少女が、顔を上げる。

『でも、私は……』

 母親の身体が、黒い霧に包まれた。

『あなたに、会えてよかった』

 映像が途切れた。

 緑谷は、息を止めていた。

 相澤が、静かに言った。

「帰還者の一部が、自分の身体を侵食する何かを認識している可能性がある」

「……自分で、分かっているんですか?」

「少なくとも、そう見える事例がある」

 相澤は、端末を閉じた。

「そして、もう一つ」

 彼は、緑谷を見た。

「異常を起こした帰還者の多くが、最後に同じ言葉を残している」

「同じ言葉……?」

「ああ」

 相澤の声が、低くなる。

「――『あの方が、目を覚ます』」

 風が吹いた。

 校庭に置かれた花が、静かに揺れる。

 遠くで、誰かが泣いていた。

 誰かが、笑っていた。

 誰かが、再会を喜んでいた。

 そして。

 誰かが、もう一度、別れを迎えようとしていた。

 緑谷は、空を見上げた。

 夕暮れの向こう。

 雲の切れ間。

 そのさらに向こう側。

 何かが、こちらを見ているような気がした。

 死神ではない。

 黒い霧でもない。

 オール・フォー・ワンでもない。

 もっと、遠い。

 もっと、深い。

 人間という存在を、個々の命としてではなく、一つの種族として見つめている何か。

 その視線は、善でも悪でもなかった。

 愛でも憎しみでもなかった。

 ただ、観測していた。

 人類が、何を選ぶのかを。

 死者が帰ってきた世界で。

 失ったものを取り戻せるかもしれない世界で。

 願いを叶える力が、再び人類の前に現れた世界で。

 人間が、どんな未来を選ぶのかを。

 そして。

 その観測者は、静かに問いかけた。

 ――人間よ。

 ――お前たちは、何を望む?

 ――死者の帰還か。

 ――永遠の命か。

 ――失われた過去の再現か。

 ――それとも。

 ――それらすべてを捨ててでも、自分たち自身の未来を選ぶのか。

 答えは、まだなかった。

 人類は、まだその問いを知らない。

 しかし、答えを選ぶ日は、確実に近づいていた。

 そして、その日が来たとき。

 彼らは知ることになる。

 自分たちが取り戻そうとしていたものが、何だったのかを。

 自分たちが失ってきたものが、何だったのかを。

 そして。

 自分たちが、何を守るべきなのかを。

11.終わりの始まり

 夜。

 雄英高校の地下保管庫。

 一般職員の立ち入りが禁止された区画で、一台の端末が自動的に起動した。

 画面に表示されたのは、古い記録だった。

 十三年前の最終決戦。

 オール・フォー・ワンの死亡確認。

 その後の残存個性の消失記録。

 関係者の証言。

 そして。

 人類が、まだ誰も知らない記録。

 最終決戦から数日後。

 緑谷出久の体内から、最後の力が失われたとき。

 世界のどこかで、微かな反応が観測されていた。

 その反応は、個性ではなかった。

 生体反応でもない。

 電磁波でも、重力波でもない。

 当時の観測装置は、その現象を解析できなかった。

 記録には、ただ一文だけが残されていた。

 《未知の情報構造を検出。発生源不明。解析不能》

 その記録は、封印された。

 理由は単純だった。

 世界は、ようやく戦争を終えたばかりだった。

 誰も、もう一つの戦いを始めたくなかった。

 誰も、世界の外側に何かが存在する可能性を考えたくなかった。

 だから、その記録は忘れられた。

 そして、十三年後。

 同じ反応が、再び観測された。

 今度は、世界中で。

 端末の画面が切り替わる。

 そこに表示されたのは、最新の観測結果だった。

 南極。

 北極。

 太平洋。

 大西洋。

 アジア。

 ヨーロッパ。

 アフリカ。

 北米。

 南米。

 世界各地の観測点が、同じ反応を記録している。

 それらは、互いに独立した現象ではなかった。

 すべてが、一つにつながっていた。

 まるで。

 世界そのものが、一つの巨大な回路になっているかのように。

 画面の中央に、警告が表示された。

 《観測対象の活動を確認》

 続いて。

 《観測対象の状態:覚醒準備段階》

 そして。

 最後の一文が表示された。

 《対象識別名:AZATHOTH》

 誰も、その表示を見ていなかった。

 誰も、その名前の意味を知らなかった。

 だが、端末の内部では、記録されていたデータが静かに書き換えられていた。

 古い記録。

 十三年前の記録。

 死者の帰還に関する記録。

 個性の発生に関する記録。

 そして、人類の進化に関する記録。

 それらすべてが、一つの場所へと集約されていく。

 最後に。

 画面が、真っ白になった。

 何も表示されなくなった端末に、ただ一つだけ、文字が浮かび上がった。

 《人類の観測を継続する》

 その文字は、数秒後に消えた。

 地下保管庫は、再び暗闇に包まれた。

 誰も知らない。

 死者が帰ってきた理由も。

 黒い霧の正体も。

 死神が何を望んでいるのかも。

 そして。

 人類が、個性という力を手に入れた本当の理由も。

 すべては、まだ始まったばかりだった。

 十三年前。

 人類は、世界を滅ぼそうとした悪を倒した。

 十三年後。

 人類は、世界そのものを見つめる何かと向き合うことになる。

 その存在は、憎しみから生まれたわけではない。

 人類を滅ぼすために、目覚めようとしているわけでもない。

 それは、ただ知りたいのだ。

 人間という生き物が、どこまで進化できるのか。

 どこまで自分自身を理解できるのか。

 そして。

 いつか、自分と対話できる存在へと至るのか。

 そのために、個性を与えた。

 そのために、進化を促した。

 そのために、長い時間をかけて観測を続けてきた。

 だが。

 観測される側の人類にとって、それは善意とは限らない。

 たとえ、滅ぼす意志がなくても。

 たとえ、悪意がなくても。

 人類の理解を超えた存在が、人類の未来に手を伸ばすなら。

 その手を受け入れるかどうかは、人類自身が決めなければならない。

 神が与えた奇跡を、受け入れるのか。

 神が用意した進化を、受け入れるのか。

 神が差し出した未来を、受け入れるのか。

 それとも。

 神の手を振り払い、自分たち自身の足で歩き出すのか。

 その答えを選ぶのは、神ではない。

 死神でもない。

 死者でもない。

 生きている人間たちだ。

 緑谷出久も。

 麗日お茶子も。

 爆豪勝己も。

 轟焦凍も。

 相澤消太も。

 そして。

 帰ってきた死者たちも。

 彼らは、まだ知らない。

 自分たちが、何を相手にしているのかを。

 それでも、彼らは選ぶだろう。

 誰かに与えられた答えではなく。

 自分たちの意志で。

 自分たちの未来を。

 ――そのための戦いが、もうすぐ始まる。

 第一章 十三年目の祈り

 残り一話。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。