僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第十一話「願いを叶えた世界で、誰が泣くのか」

第一幕 幸福という名の檻

1.願いが叶った朝

最初に異変に気づいたのは、誰もが予想していなかった、ごく普通の男性だった。

 

彼の名前は、安寧システムの記録上では、すでに失われていた。

 

生前の記録は残っている。

 

職業は、都市部の小さな食堂の店主。

 

家族構成は、妻と一人の娘。

 

特別な能力も、世界を変えるような功績もない。

 

ただ、毎朝、店を開けていた。

 

朝早くから鍋に火を入れ、出汁を取り、野菜を切る。

 

客の好みを覚え、常連の顔を見れば注文を聞く前に湯飲みを用意する。

 

娘が幼かった頃は、閉店後に一緒に絵を描いた。

 

妻が疲れている日は、食器洗いを代わった。

 

家族三人で暮らす、小さな生活。

 

その生活が、彼にとっての幸福だった。

 

だが、娘は病気で亡くなった。

 

妻は、娘の死を受け入れられなかった。

 

夫もまた、受け入れられなかった。

 

二人は、何度も同じ話をした。

 

娘が最後に何を言ったのか。

 

もっと早く病院へ連れていれば、助かったのではないか。

 

あのとき、別の治療を選んでいれば。

 

もっと一緒に過ごしていれば。

 

もっと、何かをしてあげられたのではないか。

 

答えは出なかった。

 

妻は、娘の部屋を片づけられなかった。

 

夫は、娘の好きだった料理を作れなくなった。

 

それでも、二人は生きていた。

 

互いを支え、時には互いを傷つけながら。

 

娘のいない日々を、どうにか生きていた。

 

そして、ある日。

 

安寧システムの介入によって、妻は娘と再会した。

 

正確には、再会したと認識できる状態になった。

 

娘の記憶を持つ存在。

 

娘の声。

 

娘の仕草。

 

娘が好きだった食べ物。

 

娘が苦手だったもの。

 

それらを再現した存在が、妻の前に現れた。

 

妻は泣いた。

 

声が枯れるまで泣いた。

 

娘は、母親を抱きしめた。

 

「お母さん、ただいま」

 

その言葉を聞いた瞬間、妻は崩れ落ちた。

 

もう一度、会いたかった。

 

もう一度、声を聞きたかった。

 

もう一度、抱きしめたかった。

 

その願いが、叶ったのだ。

 

夫もまた、娘と再会した。

 

最初は戸惑った。

 

これは本当に娘なのか。

 

自分たちの記憶をもとに作られた存在ではないのか。

 

それとも、失われた娘そのものなのか。

 

安寧システムは、答えを提示しなかった。

 

ただ、再会を望んだ二人の願いが、叶えられたという事実だけがあった。

 

夫は、娘を抱きしめた。

 

そして、泣いた。

 

「……おかえり」

 

それから、三人は暮らし始めた。

 

妻は、以前より笑うようになった。

 

夫も、再び料理を作れるようになった。

 

娘は、学校へ通い、友達と遊び、家族と食事をした。

 

近所の人々は、奇跡だと言った。

 

誰もが、よかったと口にした。

 

願いが叶った。

 

失われた家族が戻ってきた。

 

悲しみは終わった。

 

少なくとも、周囲の人々はそう考えていた。

 

そして、数週間後。

 

夫は、娘のために、好物だった卵焼きを作った。

 

甘い味つけ。

 

端の部分を少し焦がす、昔からの癖。

 

娘は、食卓に座り、卵焼きを見つめた。

 

「……お父さん」

 

「ん?」

 

「私、これ、好きだったっけ?」

 

夫の手が止まった。

 

「好きだっただろう。小さい頃から、ずっと」

 

「そっか」

 

娘は笑った。

 

「じゃあ、好きなんだね」

 

そして、卵焼きを口に運んだ。

 

「おいしい」

 

夫は、笑おうとした。

 

だが、うまく笑えなかった。

 

娘は、もう一口食べた。

 

「お父さん、どうしたの?」

 

「……いや」

 

夫は、椅子に座った。

 

「何でもない」

 

娘は、不思議そうに首を傾げた。

 

「変なお父さん」

 

その言い方も、娘によく似ていた。

 

声の高さも。

 

笑い方も。

 

食べ物を口に入れたときの表情も。

 

何もかも、懐かしかった。

 

それなのに。

 

夫は、気づいてしまった。

 

娘が、自分の好きだったものを、覚えていない。

 

いや。

 

それだけではなかった。

 

娘は、自分が何を好きだったのか、何を嫌いだったのか、何を怖がっていたのか。

 

その一つ一つを、両親の言葉から学び直していた。

 

妻が「あなたは昔、こういうものが好きだったのよ」と言えば、娘はそれを受け入れる。

 

夫が「君は、こういうことを嫌がっていた」と言えば、娘はそうだったのかと笑う。

 

娘は、両親を否定しない。

 

両親が覚えている自分を、拒絶しない。

 

それどころか、両親が喜ぶたびに、嬉しそうに笑っていた。

 

「お母さんが喜んでくれるなら、私も嬉しいよ」

 

その言葉は、優しかった。

 

優しすぎるほどに。

 

夫は、箸を置いた。

 

「……なあ」

 

娘が顔を上げる。

 

「お前は、何がしたい?」

 

娘は、瞬きをした。

 

「え?」

 

「何が好きで、何が嫌いで、何をしたいんだ?」

 

妻が、不安そうに夫を見た。

 

「あなた……?」

 

夫は、妻を見なかった。

 

「お前自身は、どう思っている?」

 

娘は、しばらく考えていた。

 

そして、笑った。

 

「お父さんとお母さんが、喜んでくれることがしたい」

 

その答えを聞いた瞬間。

 

夫は、初めて、自分が願っていたものの正体を疑った。

 

自分たちは、娘を取り戻したかった。

 

だが、取り戻したかったのは、娘自身だったのか。

 

それとも。

 

自分たちを愛し、自分たちを必要とし、自分たちのそばにいてくれる娘だったのか。

 

夫は、口を開いた。

 

「……それは、お前が望んでいることなのか?」

 

娘の笑顔が、わずかに止まった。

 

「え?」

 

「俺たちが喜ぶことじゃない。お前が、どうしたいのかを聞いているんだ」

 

娘は、答えなかった。

 

答えられなかったのかもしれない。

 

答えたくなかったのかもしれない。

 

それとも、そもそも、答えを持っていなかったのかもしれない。

 

やがて、娘は小さな声で言った。

 

「……分からない」

 

その一言に、妻が息を呑んだ。

 

夫は、目を閉じた。

 

娘は、泣きそうな顔で続けた。

 

「ごめんなさい」

 

「……」

 

「お父さんとお母さんが、私に会いたかったことは分かるの。私も、二人と一緒にいると嬉しい。二人が笑ってくれると、私も嬉しい」

 

娘は、自分の胸に手を当てた。

 

「でも、それ以外のことが、よく分からないの」

 

彼女は、笑おうとした。

 

「私、何が好きだったのかな」

 

夫は、答えられなかった。

 

「何が嫌いだったのかな」

 

妻は、口元を押さえた。

 

「私は、何になりたかったのかな」

 

娘の声が、震えた。

 

「お父さんとお母さんが覚えている私が、本当の私なの?」

 

沈黙が落ちた。

 

夫は、初めて気づいた。

 

願いは、叶ったのだ。

 

自分たちは、娘を取り戻した。

 

妻の悲しみは、以前より軽くなった。

 

自分も、再び笑えるようになった。

 

世界は、確かに幸福になった。

 

けれど、その幸福の中心にいる娘は。

 

自分自身が誰なのか、分からなくなっていた。

 

夫は、娘の手を取ろうとした。

 

しかし、途中で止めた。

 

娘は、泣いていた。

 

「……ごめんなさい」

 

その言葉を、夫は聞きたくなかった。

 

娘が謝る必要など、どこにもない。

 

彼女は、自分の気持ちを正直に伝えただけだ。

 

それなのに。

 

夫は、娘を抱きしめたいと思った。

 

大丈夫だと伝えたい。

 

お前は俺たちの娘だと。

 

何も心配しなくていいと。

 

けれど、その言葉を口にすれば。

 

また、自分たちが覚えている娘の姿を、彼女に押しつけることになるのではないか。

 

夫は、手を握りしめた。

 

そして、初めて、娘に尋ねた。

 

「……今は、どうしたい?」

 

娘は、涙を流しながら、長い時間をかけて考えた。

 

やがて、か細い声で答えた。

 

「……一人になりたい」

 

妻が、顔を上げた。

 

夫は、息を止めた。

 

娘は、震えながら続けた。

 

「少しだけでいいから」

 

「……」

 

「お父さんとお母さんのことが嫌いになったわけじゃないの」

 

彼女は、必死に説明した。

 

「二人と一緒にいるのは、嬉しい。二人が私を大切にしてくれていることも、分かる」

 

「……」

 

「でも、今の私は、二人が覚えている私になろうとしているだけなのかもしれない」

 

娘は、顔を覆った。

 

「私、自分が誰なのか、知りたい」

 

その願いは、残酷だった。

 

娘を取り戻したいと願った両親にとって。

 

再会した家族を、もう一度失うかもしれないという恐怖にとって。

 

そして、何より。

 

娘を再び失うことを、二度と耐えられないと思っていた父親自身にとって。

 

それでも、夫は、娘の手を取った。

 

今度は、止めなかった。

 

「……分かった」

 

妻が、夫を見た。

 

「あなた……」

 

夫は、娘を見つめた。

 

「お前が、自分を知りたいなら」

 

声が震えた。

 

「俺たちが覚えているお前と違っていても、いい」

 

娘は、目を見開いた。

 

「……本当に?」

 

「ああ」

 

夫は、泣きながら笑った。

 

「俺たちが覚えているお前だけが、お前の全部じゃない」

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

娘は、声を上げて泣いた。

 

それは、再会したときの涙とは違っていた。

 

両親を喜ばせるための涙ではない。

 

誰かの期待に応えるための涙でもない。

 

自分が何者なのか分からないという恐怖と、それでも自分自身を探していいのだという、初めての安堵が混ざった涙だった。

 

夫も、妻も、泣いた。

 

願いは叶った。

 

それでも、三人は泣いていた。

 

そして、その涙を、安寧システムは記録した。

 

《願望達成:成功》

 

《対象の幸福度:上昇》

 

《新規問題:対象の自己認識に不安定性》

 

《原因:再会した家族の記憶と、対象自身の意思の不一致》

 

《対応方針:未確定》

 

その記録の下に、新たな問いが浮かんだ。

 

《質問:願いを叶えることと、幸福を実現することは、同義か》

 

安寧システムは、答えを出せなかった。

 

なぜなら、願いは確かに叶っていたからだ。

 

そして、誰も、間違ったことをしたつもりはなかったからだ。

 

それでも、誰かが泣いていた。

 

願いが叶った世界で。

 

誰かを愛している世界で。

 

誰もが幸福を願った世界で。

 

それでも、誰かが泣いていた。

 

第二幕 誰かの幸福は、誰かの不幸なのか

2.オール・フォー・ワンは、幸福を数える

「実に興味深い」

 

オール・フォー・ワンは、記録を読み終えて、そう言った。

 

彼の前には、複数の画面が浮かんでいた。

 

安寧システムの再評価記録。

 

第一記録者の行動履歴。

 

緑谷出久が残した救済に関する考察。

 

そして、願いを叶えられた家族の記録。

 

「願いが叶った。幸福度は上昇した。しかし、問題は解決していない」

 

彼は、楽しそうに指を組んだ。

 

「いや、正確には……問題が、新しく生まれたわけだ」

 

その言葉に、応答する者はいない。

 

オール・フォー・ワンは、画面を切り替えた。

 

《対象者:娘》

 

《願望:不明》

 

《自己認識:不安定》

 

《家族との関係:良好》

 

《現在の要求:単独で過ごす時間の確保》

 

「家族は、娘を望んだ」

 

彼は、記録を読み上げるように言った。

 

「娘は、両親を喜ばせたいと考えた。両親は、娘を幸せにしたいと考えた。三者の願いは、当初、矛盾していなかった」

 

画面に、三人が食卓を囲む映像が表示された。

 

笑顔。

 

会話。

 

温かい料理。

 

幸福そうな家族。

 

「しかし、娘自身の願いが明確になった途端、均衡が崩れた」

 

オール・フォー・ワンは、笑みを深めた。

 

「なぜだと思う?」

 

問いかけた相手は、彼の前に立つ人物ではなかった。

 

システムそのものだった。

 

「答えは簡単だ。彼らは、娘が何を望んでいるのかを知らなかったからだ」

 

彼は、指先で画面を弾いた。

 

「いや、知らなかっただけなら、まだいい。問題は、知らないことに耐えられなかったことだ」

 

両親は、娘を愛していた。

 

娘も、両親を大切に思っていた。

 

だからこそ、両親は娘の幸福を願い、娘は両親の幸福を願った。

 

その結果、娘は、自分自身の願いを見失った。

 

「美しい話だろう?」

 

オール・フォー・ワンは、穏やかに言った。

 

「誰も悪意を持っていない。誰も他者を傷つけようとしていない。誰も、自分の願いを他者に押しつけている自覚がない」

 

彼は、画面の中の家族を見つめた。

 

「だからこそ、厄介なのだ」

 

悪意のある支配者なら、抵抗できる。

 

暴力を振るう者なら、止める理由を見つけられる。

 

自分の利益のために他者を犠牲にする者なら、その行為を批判することもできる。

 

しかし、善意から生まれた支配はどうだろう。

 

相手を愛しているから。

 

相手を失いたくないから。

 

相手が傷つく姿を見たくないから。

 

そうした願いによって、相手の選択肢が少しずつ狭められていく。

 

そのとき、支配される側は、何を根拠に拒絶すればいいのか。

 

自分を愛してくれる人間に。

 

自分のために泣いてくれる人間に。

 

自分を失った悲しみから立ち直れなかった人間に。

 

「……さて」

 

オール・フォー・ワンは、別の画面を呼び出した。

 

そこには、第一記録者の女性が記録室で過ごす姿が映っていた。

 

彼女は、誰かの過去を調べることもなく、ただ自分の記録を見つめていた。

 

『私は、私を選びたい』

 

「君は、どうするのかな?」

 

彼は、画面越しに彼女へ語りかけた。

 

「自分を選ぶということは、他者の願いを拒絶する可能性を受け入れるということだ」

 

第一記録者は、画面の向こうで何も答えない。

 

当然だ。

 

彼女には、オール・フォー・ワンの声が届いていない。

 

「君を救いたいと願う者が現れたら?」

 

彼は、さらに問いを重ねた。

 

「君のためなら何でもすると言う者が現れたら?」

 

「君の幸福のために、君の過去を調べ、君の未来を選び、君の苦痛を取り除こうとする者が現れたら?」

 

オール・フォー・ワンは、微笑んだ。

 

「その者の願いを、君は拒絶できるか?」

 

画面の中で、第一記録者が顔を上げた。

 

彼女は、誰かの気配を感じたように、記録室を見回した。

 

そして、何事もなかったかのように、自分の記録へ視線を戻した。

 

オール・フォー・ワンは、満足そうに頷いた。

 

「そうでなくては」

 

彼にとって、人間の自由とは、単に選択肢が存在することではない。

 

選択肢を拒絶すること。

 

誰かの期待に応えないこと。

 

自分の利益になるものを、あえて受け取らないこと。

 

そして、自分が愛する者の願いであっても、それが自分の望むものではないなら、拒むこと。

 

そうした行為ができて初めて、選択には意味が生まれる。

 

ただし。

 

オール・フォー・ワン自身は、その自由を、誰もが等しく持つべきものだとは考えていなかった。

 

彼は、自由を理解している。

 

自由が人間を苦しめることも。

 

自由が人間を成長させることも。

 

自由が、人間を予測不能な存在へ変えることも。

 

理解したうえで、利用する。

 

「君たちは、自由を守るために、何を失う?」

 

彼は、静かに問いかけた。

 

「誰かの願いを拒絶すれば、その者を傷つけるかもしれない。誰かの救済を拒めば、その者は絶望するかもしれない。誰かの愛を拒めば、その者は君を憎むかもしれない」

 

彼の笑みが、少しだけ深くなる。

 

「それでも、拒絶できるか?」

 

答えは、まだない。

 

だからこそ、彼は観察を続ける。

 

人間が自由を守るために、どれほどの痛みを引き受けられるのか。

 

誰かの幸福を願いながら、その幸福を自分の手で決めないことができるのか。

 

そして、誰かを愛することと、その者を所有することの違いを、本当に理解できるのか。

 

「……緑谷出久」

 

彼は、その名前を口にした。

 

「君なら、どうする?」

 

画面の中では、出久が記録を書き続けていた。

 

自分の願いを記録しながら、他者の願いを押しつけないように考えている。

 

それは、誠実な姿勢だった。

 

だが、オール・フォー・ワンには、別の可能性も見えていた。

 

「君は、相手の願いを尊重しようとするあまり、誰かを救うために必要な決断まで、躊躇するようになるかもしれない」

 

彼は、楽しそうに言った。

 

「あるいは、誰かを救うために、ついに相手の意思を無視する日が来るかもしれない」

 

どちらに転んでも、彼にとっては興味深い。

 

善意が自由を守るのか。

 

善意が自由を壊すのか。

 

その境界に立たされたとき、人間は何を選ぶのか。

 

オール・フォー・ワンは、記録を閉じた。

 

「さあ、見せてくれ」

 

彼の声が、暗い部屋に響いた。

 

「君たちが、どれほど不完全なまま、他者を愛せるのかを」

 

そのとき。

 

画面の隅に、見覚えのない通知が現れた。

 

《外部領域からのアクセス要求》

 

《要求内容:第一記録者の記録への接続》

 

《接続元:不明》

 

オール・フォー・ワンの笑みが、止まった。

 

「……ほう?」

 

接続元は、世界の外側だった。

 

そして、その要求に添えられていた言葉は、たった一つ。

 

『聞いてほしい』

 

オール・フォー・ワンは、しばらく画面を見つめた。

 

やがて、低く笑った。

 

「これは……予想以上だ」

 

彼は、接続を許可しなかった。

 

拒絶もしなかった。

 

ただ、要求を保留した。

 

なぜなら、彼は知りたかったからだ。

 

その存在が、何を願っているのか。

 

そして、その願いを聞いたとき、人間たちが何を選ぶのか。

 

3.第一記録者が、受け取らなかったもの

第一記録者の女性は、記録室で一人、椅子に座っていた。

 

彼女の前には、二つの選択肢が表示されている。

 

《過去の記録を復元する》

 

《現在の記録を継続する》

 

以前なら、彼女は迷ったかもしれない。

 

自分の過去を知りたい。

 

自分が何者だったのかを知りたい。

 

誰を愛し、誰に愛され、何を失ったのかを知りたい。

 

そう思う気持ちは、今も消えていない。

 

しかし、彼女はもう一つのことを知っていた。

 

過去を知ることが、必ずしも自分を理解することにつながるわけではない。

 

記録された過去が、自分のすべてであるとは限らない。

 

そして、過去を知ることによって、今の自分が何を望んでいるのかを見失う可能性もある。

 

彼女は、二つの選択肢を見つめた。

 

「……今は、いい」

 

小さく呟いて、画面を閉じようとした。

 

その瞬間、新しい通知が表示された。

 

《外部存在からの接続要求》

 

《要求者:未確定》

 

《要求内容:意思伝達》

 

《接続許可の判断:記録者本人に委任》

 

女性は、画面を見つめた。

 

「……外部存在?」

 

彼女は、しばらく考えた。

 

危険かもしれない。

 

罠かもしれない。

 

自分の記録に干渉しようとする存在かもしれない。

 

そうした可能性は、十分にある。

 

しかし、接続要求には、もう一つの情報が添えられていた。

 

『聞いてほしい』

 

女性は、指を止めた。

 

その言葉に、何かを感じた。

 

理由は分からない。

 

ただ、その言葉を、どこかで知っているような気がした。

 

いや。

 

知っているのではない。

 

自分もまた、同じ願いを抱いたことがあるのだ。

 

誰かに、聞いてほしい。

 

自分が何を思っているのか。

 

何を望んでいるのか。

 

何を恐れているのか。

 

そして、何を失ったのか。

 

そのすべてを、理解してもらえるとは限らない。

 

理解されないかもしれない。

 

拒絶されるかもしれない。

 

それでも、聞いてほしい。

 

彼女は、画面を見つめた。

 

「……あなたは、何を聞いてほしいの?」

 

返事はない。

 

当然だった。

 

まだ、接続は成立していない。

 

彼女は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……分からない相手を、すぐに信じることはできない」

 

その言葉を、記録室の誰も聞いていなかった。

 

「でも、分からないからって、最初から拒絶する必要もない」

 

彼女は、選択肢を表示した。

 

《接続を許可する》

 

《接続を拒否する》

 

その下に、第三の項目が追加されていた。

 

《接続条件を指定する》

 

彼女は、それを選んだ。

 

新しい画面が開く。

 

《条件を入力してください》

 

女性は、少し考えた。

 

そして、入力した。

 

『私の過去を、勝手に調べないこと』

 

『私の願いを、勝手に決めないこと』

 

『私が答えたくない質問には、答えを強制しないこと』

 

最後に、もう一つ。

 

『私も、あなたの願いを勝手に決めない』

 

入力を終えた彼女は、しばらくその文章を見つめた。

 

そして、送信した。

 

《条件を送信しました》

 

《接続元からの応答を待機中》

 

女性は、椅子の背にもたれた。

 

「……これで、いいのかな」

 

その問いに、答えはなかった。

 

彼女は、自分が何をしているのか、完全には理解していない。

 

接続相手がどんな存在なのかも分からない。

 

何が起きるのかも分からない。

 

ただ、相手に願いがあるのなら。

 

その願いを聞く前に、相手の正体をすべて知ろうとする必要はないのかもしれない。

 

同時に、願いを聞くことと、相手を無条件に受け入れることも違う。

 

彼女は、その二つを、同時に認めようとしていた。

 

そのとき、画面に返答が届いた。

 

『……分からない』

 

女性は、目を瞬かせた。

 

『あなたが、どんな存在なのか』

 

『あなたが、何を恐れているのか』

 

『あなたが、何を望んでいるのか』

 

短い文章が、一つずつ表示される。

 

『私は、まだ、分からない』

 

そして、最後に。

 

『でも、あなたの条件を守りたい』

 

女性は、息を止めた。

 

その言葉が、どれほど本当なのかは分からない。

 

相手が、約束を守るとは限らない。

 

自分を傷つけないとは限らない。

 

自分の願いを尊重してくれるとも限らない。

 

それでも。

 

彼女は、初めて、接続を許可した。

 

《限定接続を開始します》

 

《接続範囲:意思伝達のみ》

 

《記録への直接干渉:禁止》

 

《過去情報の取得:禁止》

 

《接続時間:双方の意思により終了可能》

 

光が、画面に灯った。

 

女性は、静かに口を開いた。

 

「……こんにちは」

 

返事は、すぐには届かなかった。

 

長い沈黙。

 

その沈黙の向こう側で、何かが震えていた。

 

やがて、文字が浮かび上がる。

 

『こんにちは』

 

女性は、微笑んだ。

 

「あなたの名前は?」

 

文字が消えた。

 

再び、表示される。

 

『分からない』

 

「そう」

 

彼女は、頷いた。

 

「私も、自分の名前が分からないの」

 

その言葉に、画面が揺れた。

 

『……そうなの?』

 

「ええ。だから、今は、第一記録者と呼ばれている」

 

『第一記録者』

 

「そう。あまり、好きな呼び方じゃないけれど」

 

女性は、苦笑した。

 

「でも、今は、それでいいと思っているの」

 

『……なぜ?』

 

「私が、そう選んだから」

 

その返事に、長い沈黙が訪れた。

 

女性は、急かさなかった。

 

答えを求めなかった。

 

ただ、待っていた。

 

やがて、画面に文字が表示された。

 

『……選ぶことは、怖くない?』

 

女性は、少しだけ考えた。

 

「怖いわ」

 

『……』

 

「選んだら、別のものを選ばなかったことになるから。自分が間違っているかもしれないし、誰かを傷つけるかもしれない」

 

彼女は、自分の手を見つめた。

 

「でも、何も選ばなければ、誰かが私の代わりに選ぶことになる」

 

『……』

 

「だから、私は、自分で選びたいの」

 

画面の向こう側で、何かが動いた。

 

『……私も』

 

その言葉は、ひどく小さかった。

 

『私も、自分で選びたい』

 

女性は、ゆっくりと頷いた。

 

「そう」

 

そして、初めて、相手に尋ねた。

 

「あなたは、何を選びたいの?」

 

返事は、すぐには届かなかった。

 

だが、女性は待ち続けた。

 

相手が、自分の願いを言葉にできるまで。

 

その願いが、彼女の願いと違っていたとしても。

 

その願いが、世界にとって危険なものだったとしても。

 

その願いが、誰かを傷つける可能性を含んでいたとしても。

 

少なくとも、聞く前から、答えを決めないために。

 

そして、ようやく。

 

画面に、一つの文章が表示された。

 

『私は、誰かを救いたい』

 

女性の表情が、変わった。

 

それは、出久が何度も抱いてきた願いと、同じ言葉だった。

 

しかし、その言葉の奥には、まだ何かが隠れていた。

 

女性は、慎重に尋ねた。

 

「……誰を?」

 

画面が、暗くなった。

 

そして。

 

『分からない』

 

その返答を見たとき、女性は、なぜか胸が痛くなった。

 

誰かを救いたい。

 

けれど、誰を救いたいのか分からない。

 

何を望んでいるのかも分からない。

 

それでも、救いたいと願っている。

 

その願いが、どこから生まれたのか。

 

その存在が、何を経験してきたのか。

 

彼女には、まだ分からなかった。

 

ただ、一つだけ、確かなことがあった。

 

この存在は、誰かを救いたいと願う前に。

 

自分自身が何を望んでいるのかを、知らなければならないのかもしれない。

 

女性は、ゆっくりと口を開いた。

 

「……じゃあ、まずは」

 

彼女は、相手を見つめた。

 

「あなた自身が、何を望んでいるのか、一緒に考えてみない?」

 

画面の向こう側で、沈黙が続いた。

 

やがて、返事が届いた。

 

『……いいの?』

 

女性は、笑った。

 

「私が、そうしたいと思ったの」

 

その言葉は、約束ではなかった。

 

救済でもなかった。

 

ただ、一人の人間が、自分自身の意思で選んだ、小さな申し出だった。

 

そして、その申し出を受け取った存在は、初めて、言葉を返した。

 

『……ありがとう』

 

その瞬間、世界の外側で、何かが動き始めた。

 

それが、救済の始まりなのか。

 

それとも、新たな悲劇の始まりなのか。

 

まだ、誰にも分からなかった。

 

第三幕 正しい願いは、誰が決める

4.緑谷出久の前に、三つの願いが並ぶ

「緑谷くん。少し、時間をもらえる?」

 

その日の午後、出久は、安寧システムの記録室で呼び止められた。

 

声をかけてきたのは、システムの管理に関わる職員だった。

 

「確認してほしい事例があるの」

 

「僕に、ですか?」

 

「あなたの記録が、再評価の判断材料になったから」

 

出久は、少し困った顔をした。

 

自分が書いた記録が、誰かの役に立つのは嬉しい。

 

しかし、それが他者の判断に影響するとなると、話は別だった。

 

自分の記録は、自分が考えたことを書いただけだ。

 

正しい答えを示したつもりはない。

 

それなのに、自分の言葉が誰かの未来を決める材料になるのなら。

 

「……僕の記録を、どう使ったんですか?」

 

職員は、すぐに答えた。

 

「あなたの考察を、救済の必要性と本人の意思が衝突した事例の再評価に利用したの。もちろん、あなたの記録だけで判断したわけではないわ」

 

「そうですか……」

 

「それで、三つの事例について、あなたの意見を聞きたいの」

 

職員が端末を操作すると、三つの記録が表示された。

 

一つ目。

 

救済を望まない者。

 

二つ目。

 

救済を望んでいるが、救済のために必要な行為を拒絶している者。

 

三つ目。

 

自分自身の願いが分からず、他者の判断に従い続けている者。

 

出久は、順番に目を通した。

 

そして、最初の記録を開いた。

第一の願い――助けてほしくない

記録の対象者は、長期間にわたって苦痛を抱えていた。

 

安寧システムは、苦痛を軽減する方法を提示した。

 

しかし、対象者は拒絶した。

 

《対象者の発言》

 

『苦しいのは、本当です』

 

『この苦しみがなくなれば、楽になるのも分かっています』

 

『でも、今は、苦しみをなくしたくありません』

 

出久は、文章を読み返した。

 

「……どうして?」

 

思わず口にしてから、彼は自分の言葉に気づいた。

 

相手が、そう望んでいる。

 

それは分かる。

 

しかし、どうして、そのような選択をするのか。

 

知りたいと思った。

 

そして、知りたいという気持ちの中に、自分の考え方が混ざっていることにも気づいた。

 

自分は、苦しみを減らしたいと思っている。

 

だから、相手もそう望んでいるはずだと考えてしまう。

 

「……本人の話を、聞くことはできないんですか?」

 

職員は頷いた。

 

「意思確認は行ったわ。本人は、今のところ、これ以上の説明を望んでいない」

 

「そうですか」

 

「あなたなら、どうする?」

 

出久は、すぐには答えなかった。

 

苦しみを減らす方法がある。

 

それを使えば、対象者は楽になるかもしれない。

 

しかし、本人は拒絶している。

 

それでも、介入するべきなのか。

 

出久は、記録を見つめた。

 

「……まず、本人が拒絶している理由を、無理のない範囲で確認したいです」

 

「理由が分からなかったら?」

 

「分からないまま、考えます」

 

「それでも、苦痛が続くわ」

 

「はい」

 

出久は、苦しそうに頷いた。

 

「それは、つらいです。何とかしたいと思います」

 

彼は、一度、言葉を切った。

 

「でも、本人が苦しんでいることと、本人の意思を無視していいことは、同じじゃないと思うんです」

 

職員は、黙って聞いていた。

 

「もし、本人が苦しみの中に大切なものを見いだしているなら、それを勝手に取り除くことはできないと思います。ただ……」

 

出久は、記録の続きを見た。

 

「その苦しみをなくしたいと思ったときに、いつでも相談できる場所は、残しておきたいです」

 

苦しみを抱え続けることを、正解だとは言わない。

 

苦しみをなくすことを、間違いだとも言わない。

 

本人が、後になって違う願いを持つ可能性もある。

 

だからこそ、今の意思を尊重しながら、未来の選択肢まで奪わないことが重要なのだ。

 

職員は、静かに記録した。

 

「分かったわ。次の事例に進みましょう」

第二の願い――助けてほしい。でも、助け方は選びたい

二つ目の対象者は、明確に救済を望んでいた。

 

ただし、提示された方法を拒絶していた。

 

安寧システムが提案したのは、対象者の記憶の一部を調整する方法だった。

 

苦痛の原因となっている記憶を弱めれば、対象者の精神的な負担を軽減できる可能性がある。

 

対象者は、その方法を拒んだ。

 

《対象者の発言》

 

『楽になりたいです』

 

『でも、忘れたくありません』

 

『忘れてしまったら、あの人と過ごした時間まで、なくなってしまう気がするから』

 

出久は、目を閉じた。

 

失った人を思い出すことは、苦しい。

 

だが、その苦しみの中には、確かに愛情がある。

 

忘れたくない。

 

あの人が存在していたことを。

 

あの人と過ごした時間を。

 

あの人が、自分にとって大切だったことを。

 

苦しみだけを取り除こうとして、記憶まで変えてしまえば。

 

対象者にとって大切なものまで、失われるかもしれない。

 

「……この人は、忘れたくないんですね」

 

「そう言っているわ」

 

「なら、忘れずに済む方法を、一緒に探したいです」

 

「システムが提案した方法よりも、時間がかかる可能性があるわ」

 

「それでもです」

 

出久は、はっきりと答えた。

 

「この人が望んでいるのは、苦しみをなくすことだけじゃない。大切な記憶を持ったまま、苦しみと向き合えるようになることなんだと思います」

 

彼は、記録を見つめた。

 

「僕たちが考える救済と、本人が望んでいる救済が違うなら、本人の望みに近づく方法を探すべきです」

 

職員は頷いた。

 

「それが、あなたの考えなのね」

 

「はい」

 

だが、出久は、すぐに付け加えた。

 

「ただし、僕の考えが絶対に正しいわけではありません」

 

職員が顔を上げた。

 

「この人が、いつか記憶を手放したいと思うこともあるかもしれません。そのときは、その意思も尊重したいです」

 

出久は、少しだけ笑った。

 

「今の願いを大切にすることと、未来の願いを決めつけないこと。その両方が必要だと思います」

 

職員は、その言葉を記録した。

第三の願い――あなたが決めてください

三つ目の対象者は、もっと難しかった。

 

彼女は、安寧システムに何度も尋ねていた。

 

『私は、どうすればいいのでしょうか』

 

システムが選択肢を提示すると、彼女は従った。

 

どこで暮らすべきか。

 

誰と関わるべきか。

 

何を学ぶべきか。

 

どんな仕事をするべきか。

 

どのような人生を送るべきか。

 

彼女は、自分で選ぶことを避けていた。

 

なぜなら、選択によって誰かを失望させることを恐れていたからだ。

 

自分が間違った選択をすれば、誰かが傷つくかもしれない。

 

自分の選択によって、取り返しのつかない結果が生まれるかもしれない。

 

だから、彼女は、誰かに決めてほしかった。

 

《対象者の発言》

 

『あなたが決めてください』

 

『私が何を望んでいるのか、私には分かりません』

 

『だから、私が幸せになれる道を教えてください』

 

出久は、長い間、黙っていた。

 

これは、単純な問題ではない。

 

自分で選ぶことが、必ずしもすべての人にとって簡単なわけではない。

 

選ぶことを恐れる人もいる。

 

過去に自分の判断で誰かを傷つけた経験がある人もいる。

 

選択を迫られ続けた結果、何も選びたくなくなった人もいる。

 

そんな人に対して、ただ「自分で選べ」と言うことは、本当に正しいのだろうか。

 

出久は、ゆっくりと口を開いた。

 

「……この人に、いきなり全部を選ばせる必要はないと思います」

 

職員は、頷いた。

 

「具体的には?」

 

「小さなことから、自分で決めてもらうんです」

 

「例えば?」

 

「今日、何を食べたいか。どこを歩きたいか。誰と話したいか」

 

出久は、少し考えた。

 

「それすら難しいなら、選ばないことも選択肢にしていいと思います。今日は決めない。明日、もう一度考える。それでもいい」

 

「でも、それでは、いつまでも決められない可能性があるわ」

 

「はい」

 

出久は、認めた。

 

「だから、僕たちが一緒に考える必要があるんだと思います」

 

彼は、記録を見つめた。

 

「この人が自分で選べるようになるまで、支える。でも、ずっと代わりに選び続けることはしない」

 

「それは、本人が望んでいない支援をすることになるかもしれないわね」

 

「……そうですね」

 

出久は、唇を噛んだ。

 

「だから、支援の仕方についても、本人と相談したいです」

 

彼は、顔を上げた。

 

「自分で選ぶことを練習するのか。誰かに相談しながら選ぶのか。それとも、しばらくは誰かに決めてもらうことを望むのか」

 

そして、最後に言った。

 

「その人が、自分の意思を持つまで待つことと、その人の代わりに意思を決め続けることは、違うと思います」

 

職員は、記録を閉じた。

 

「……ありがとう」

 

「いえ。僕も、考えるきっかけになりました」

 

職員は、少しだけ迷ってから尋ねた。

 

「緑谷くん。あなたは、三つの事例をどう感じた?」

 

出久は、すぐには答えなかった。

 

どの事例にも、簡単な答えはない。

 

苦しみをなくしてほしくない人。

 

苦しみをなくしたいけれど、記憶を失いたくない人。

 

自分の願いが分からず、誰かに決めてほしい人。

 

三者三様だった。

 

それでも、共通しているものがある。

 

彼らは、単に幸福を拒んでいるわけではない。

 

幸福の形を、自分自身で決めたいと思っている。

 

あるいは、自分自身で決めることが難しいからこそ、誰かに支えてほしいと思っている。

 

「……僕は」

 

出久は、ゆっくりと言った。

 

「救済って、相手を苦しみから遠ざけることだけじゃないんだと思います」

 

「……」

 

「相手が、自分にとって何が大切なのかを考えられるようにすること。自分の願いを持っていいんだって、思えるようにすること」

 

出久は、少しだけ笑った。

 

「そして、もし間違えたとしても、もう一度考え直せる場所を残しておくこと」

 

職員は、しばらく出久を見つめていた。

 

「……それは、ずいぶんと難しい救済ね」

 

「はい」

 

出久は、素直に頷いた。

 

「でも、簡単な答えを押しつけるよりは、いいと思います」

 

その瞬間、三つの記録が更新された。

 

《第一事例:介入方法の再検討》

 

《第二事例:代替救済手段の調査》

 

《第三事例:意思決定支援の再設計》

 

安寧システムは、出久の意見を、そのまま正解として採用したわけではない。

 

彼の記録を、一つの判断材料として扱った。

 

それは、小さな変化だった。

 

しかし、出久にとっては、重要な違いだった。

 

自分の言葉が、誰かの人生を決めるのではない。

 

自分の言葉が、誰かと一緒に考えるための材料になる。

 

その違いを、彼は大切にしたかった。

 

だが、その日の夕方。

 

再評価の対象となった三つの事例について、安寧システムから、予想外の通知が届いた。

 

《追加事例を検知》

 

《対象:第三者への影響が大きい救済行為》

 

《問題:対象者の意思を尊重した場合、別の対象者に重大な不利益が生じる可能性》

 

出久は、画面を見つめた。

 

そして、次の文章を読んだ瞬間、表情を変えた。

 

《質問》

 

《救済を望む者の意思と、救済によって影響を受ける者の意思が衝突した場合、どちらを優先すべきか》

 

出久は、答えられなかった。

 

なぜなら、今度の問題は。

 

救われる者の願いだけでは、解決できないものだったからだ。

 

第四幕 救われる者と、救われない者

5.その救済を、誰が望んだのか

その事件は、安寧システムの管理区画で発生した。

 

一人の男性が、妻を救いたいと願った。

 

妻は、長い間、精神的な苦痛を抱えていた。

 

彼女は、夫を愛していた。

 

夫も、彼女を愛していた。

 

しかし、二人は、ある出来事をきっかけに、互いを傷つけるようになっていた。

 

夫は、妻を守ろうとした。

 

妻が苦しんでいるときは、代わりに判断した。

 

妻が不安を感じているときは、不安の原因を取り除こうとした。

 

妻が誰かとの関係に悩んでいるときは、その相手と距離を置くよう勧めた。

 

最初は、妻も感謝していた。

 

自分の代わりに考えてくれる。

 

自分の代わりに決めてくれる。

 

自分が苦しまずに済むよう、夫が動いてくれる。

 

それは、優しさだった。

 

少なくとも、最初は。

 

しかし、時間が経つにつれ、妻は自分で決めることが少なくなった。

 

何を食べるか。

 

誰と会うか。

 

どこへ行くか。

 

何を話すか。

 

夫が先に考え、夫が選び、夫が決める。

 

妻は、次第に、自分が何を望んでいるのか分からなくなった。

 

そして、ある日。

 

妻は、夫に言った。

 

「……もう、私のことを決めないで」

 

夫は、驚いた。

 

自分は、妻を守ってきた。

 

妻が苦しむ姿を見たくなかった。

 

妻が傷つかないように、できることをしてきた。

 

それなのに。

 

妻は、夫の行為を拒絶した。

 

「……どうして?」

 

夫は、尋ねた。

 

「僕は、君を守りたいだけなんだ」

 

妻は、泣きながら答えた。

 

「分かってる」

 

「なら、どうして?」

 

「……あなたが、私の代わりに生きてしまうから」

 

その言葉を、夫は理解できなかった。

 

妻が苦しんでいる。

 

自分は、妻を救いたい。

 

ならば、妻の苦しみを取り除くことが、最優先ではないのか。

 

しかし、妻は、違うことを望んでいた。

 

苦しみがなくなることだけではない。

 

自分で考えること。

 

自分で決めること。

 

自分の選択によって、失敗すること。

 

そして、失敗したときに、自分の意思で立ち直ること。

 

それらを、取り戻したいと願っていた。

 

夫は、妻を愛していた。

 

だからこそ、妻が苦しむことを恐れた。

 

しかし、その恐怖が、妻の自由を奪っていた。

 

安寧システムは、夫の願いを検知した。

 

《救済要求:対象者の苦痛を軽減する》

 

妻の意思も、確認された。

 

《対象者の希望:自己決定権の回復》

 

《救済要求との不一致:あり》

 

システムは、二つの願いを比較した。

 

夫は、妻を救いたい。

 

妻は、自分自身を取り戻したい。

 

夫の願いを叶えれば、妻の苦痛が一時的に軽減される可能性がある。

 

妻の願いを優先すれば、夫は不安を抱え続ける可能性がある。

 

妻が自分で選択するようになれば、再び失敗するかもしれない。

 

夫は、その失敗によって妻が傷つくことを恐れている。

 

妻は、その恐怖によって自由を奪われることを恐れている。

 

どちらも、相手を大切に思っていた。

 

どちらも、相手を傷つけたいわけではなかった。

 

しかし、願いは衝突していた。

 

そして、安寧システムは、ある結論を提示した。

 

《暫定判断》

 

《救済対象者本人の意思を優先する》

 

《ただし、重大な危険が発生する場合は、介入の必要性を再評価する》

 

その判断は、妻の希望に沿うものだった。

 

しかし、夫は納得できなかった。

 

「……それで、本当に妻を守れるんですか?」

 

彼は、システムに問いかけた。

 

「もし、妻がまた傷ついたら?」

 

返答が表示された。

 

《すべての危険を排除することはできません》

 

夫は、画面を見つめた。

 

「……そんなことは、分かっています」

 

声が震えた。

 

「でも、僕は……」

 

彼は、言葉を詰まらせた。

 

「僕は、もう、あの人が苦しむところを見たくないんです」

 

その言葉は、本心だった。

 

妻を支配したいわけではない。

 

妻を従わせたいわけでもない。

 

ただ、苦しんでほしくない。

 

失敗してほしくない。

 

傷ついてほしくない。

 

それだけだった。

 

しかし、その願いを叶えるためには、妻が自分で選ぶことを止めなければならない。

 

夫は、それを理解していた。

 

理解していたからこそ、苦しかった。

 

「……僕が間違っているんですか?」

 

その問いに、安寧システムは答えなかった。

 

間違っている。

 

そう断定することはできない。

 

夫の願いは、妻を大切に思う気持ちから生まれている。

 

しかし、正しい。

 

そう断定することもできない。

 

妻の意思を無視することは、妻を守るための唯一の方法ではないからだ。

 

夫は、頭を抱えた。

 

「……じゃあ、どうすればいいんですか」

 

彼の声が、震えた。

 

「どうすれば、妻を守れるんですか」

 

その問いを聞いていた出久は、何も言えなかった。

 

すぐに答えを与えることはできない。

 

「奥さんの意思を尊重してください」と言うだけなら簡単だ。

 

しかし、その言葉だけでは、夫の恐怖は消えない。

 

妻が傷つくかもしれないという恐怖。

 

自分が助けられないかもしれないという恐怖。

 

そして、愛する人が苦しんでいるのに、何もできない自分を受け入れなければならない恐怖。

 

出久は、その苦しさを理解できる気がした。

 

かつての自分も、誰かを救うために、自分の体を顧みずに行動してきた。

 

助けられるかもしれない。

 

自分が動けば、間に合うかもしれない。

 

自分が傷つくことになっても、相手が救われるなら。

 

そう考えていた。

 

だが、今なら分かる。

 

自分が苦しむことを、他者が望んでいるとは限らない。

 

自分が傷つくことで、他者が救われるとも限らない。

 

そして、自分が誰かを救いたいと願うことだけでは、その人の未来を決める理由にはならない。

 

出久は、夫の前に立った。

 

「……奥さんと、もう一度話してみませんか」

 

夫は、顔を上げた。

 

「話す?」

 

「はい」

 

「僕は、何度も話しました」

 

「……そうですよね」

 

出久は、頷いた。

 

「でも、今度は、奥さんが何を望んでいるのかを聞くために」

 

夫は、黙っていた。

 

「奥さんを説得するためでも、安心するためでもなく」

 

出久は、ゆっくりと続けた。

 

「奥さんが、どう生きたいと思っているのか。それを聞くために」

 

「……」

 

「そして、あなた自身が何を恐れているのかも、伝えていいと思います」

 

夫の表情が変わった。

 

「僕が、恐れていることを……?」

 

「はい。あなたは、奥さんを守りたいんですよね」

 

「……もちろんです」

 

「なら、その気持ちを隠す必要はないと思います。ただし、その気持ちを理由に、奥さんの答えを変えようとしないこと」

 

出久は、言葉を選びながら話した。

 

「あなたが怖いと思っていることと、奥さんが望んでいること。その両方を、同じ場所に置いてみるんです」

 

「……」

 

「すぐに、答えが見つかるとは限りません。でも、どちらかの願いを、最初からなかったことにするよりは、いいと思います」

 

夫は、長い時間、黙っていた。

 

やがて、小さく頷いた。

 

「……分かりました」

 

その声は、まだ不安に満ちていた。

 

それでも、彼は立ち上がった。

 

出久は、その背中を見送った。

 

救済は、終わっていない。

 

夫の恐怖も、妻の苦しみも、消えていない。

 

ただ、二人が互いの願いを聞くための場所が、もう一度、用意された。

 

その場所で何が起きるのか。

 

それは、二人自身が選ぶことだった。

 

6.願いを叶えた者は、責任を負うのか

夫婦の事例を確認したあと、出久は、安寧システムから新たな問いを提示された。

 

《質問》

 

《救済を実行した結果、対象者に不利益が生じた場合、救済を実行した主体は責任を負うべきか》

 

出久は、画面を見つめた。

 

「……責任、ですか」

 

それは、避けて通れない問題だった。

 

誰かの願いを叶えた。

 

しかし、その結果、別の誰かが傷ついた。

 

あるいは、願いを叶えられた本人が、予想外の苦痛を抱えることになった。

 

その場合、誰が責任を負うのか。

 

願いを叶えた者か。

 

願いを望んだ者か。

 

その願いを承認した者か。

 

それとも、予測できなかった結果に対して、誰も責任を負うことはできないのか。

 

出久は、しばらく考えてから、文章を入力した。

 

『責任を負うことと、結果を完全に制御できることは、同じではない』

 

彼は、続きを書いた。

 

『善意で行ったことでも、相手を傷つけることはある』

 

『相手が望んだことであっても、結果が予想どおりになるとは限らない』

 

『だからといって、すべての結果を、誰か一人の責任にするべきではない』

 

そこで、出久は指を止めた。

 

しかし、まだ足りない。

 

彼は、さらに書き加えた。

 

『ただし、予測できなかった結果だからといって、何も責任を負わなくていいわけでもない』

 

『相手の意思を確認したか』

 

『危険性を説明したか』

 

『別の選択肢を提示したか』

 

『結果が予想と違ったとき、修正する努力をしたか』

 

『傷ついた相手の声を、聞こうとしたか』

 

出久は、その文章を見つめた。

 

責任とは、すべての結果を自分の思いどおりにすることではない。

 

自分が関わった結果から、逃げないこと。

 

間違いがあったなら、認めること。

 

傷ついた相手がいるなら、その声を聞くこと。

 

そして、必要なら、次の行動を変えること。

 

それができるかどうかは、結果が出る前には分からない。

 

だからこそ、記録する必要があるのかもしれない。

 

出久は、最後に一文を追加した。

 

『救済を行う者は、救済を受ける者の未来を所有するわけではない。しかし、自分が行ったことについて、説明し、必要な修正を行う責任は持つべきだ』

 

保存。

 

安寧システムは、その記録を受け取った。

 

《記録分類:救済責任》

 

《確定状況:未確定》

 

《再評価対象:救済実行後の責任範囲》

 

出久は、画面を閉じた。

 

「……これも、簡単には決められないな」

 

そのとき、背後から声がした。

 

「簡単に決められると思っていたのか?」

 

振り返ると、相澤が立っていた。

 

「相澤先生……」

 

「記録を読ませてもらった」

 

「……どうでしたか?」

 

「悪くない」

 

相澤は、短く答えた。

 

「ただ、まだ一つ足りない」

 

出久は、眉を寄せた。

 

「何でしょうか?」

 

「救済を受ける側にも、責任がある場合はどうする?」

 

出久は、言葉を失った。

 

相澤は続けた。

 

「本人の意思を尊重する。それは重要だ。だが、本人が自分で選んだ結果、他者を傷つけた場合は?」

 

「……」

 

「救済を受けた人間が、その救済を利用して別の誰かを傷つけた場合は?」

 

出久は、答えられなかった。

 

「救済を受ける側が、いつも善意で行動するとは限らない」

 

相澤は、淡々と言った。

 

「苦しんでいる人間が、他者を傷つけることもある。傷つけられた人間が、別の誰かを傷つけることもある。自分の意思で選んだ行為だからといって、すべてが許されるわけじゃない」

 

出久は、唇を噛んだ。

 

「……はい」

 

「お前が考えているのは、救済される者の自由だ。だが、その自由によって影響を受ける者の自由もある」

 

相澤は、出久を見た。

 

「救済を受ける者の意思を尊重することと、その者が何をしても許すことは違う」

 

「……」

 

「他者の自由を侵害する行為には、止める必要がある。必要なら、責任を問うこともある」

 

相澤は、少しだけ声を落とした。

 

「ただし、それを理由に、最初から本人の選択権を奪っていいわけでもない」

 

出久は、静かに頷いた。

 

「……自由には、責任も伴うんですね」

 

「そうだ」

 

相澤は、腕を組んだ。

 

「ただし、責任を負うことと、永遠に罰を受け続けることも違う」

 

出久は、顔を上げた。

 

「間違いを犯した人間が、やり直せる可能性まで奪うな。だが、やり直したいと言えば、何をしても許されるわけでもない」

 

相澤は、少しだけ目を細めた。

 

「難しいだろう?」

 

「……はい」

 

「なら、考え続けろ」

 

その言葉に、出久は笑った。

 

「先生は、いつもそれですね」

 

「答えが簡単に出るなら、俺が教師をやる必要もない」

 

相澤は、踵を返した。

 

「それと、緑谷」

 

「はい?」

 

「お前自身のことも、忘れるな」

 

出久は、目を瞬かせた。

 

「……僕自身?」

 

「お前は、誰かを救うために、自分を後回しにしすぎる」

 

相澤は、振り返らなかった。

 

「他者の意思を尊重することばかり考えて、自分の意思を無視するな」

 

出久の表情が、止まった。

 

「……」

 

「お前も、自分の願いを持っていい」

 

相澤は、静かに言った。

 

「誰かを救いたいなら、その願いを持て。自分も救われたいなら、それも認めろ」

 

そして、最後に。

 

「お前だけが、全員のために苦しむ必要はない」

 

相澤は、部屋を出ていった。

 

出久は、しばらくその場に立っていた。

 

自分も、救われたい。

 

その言葉は、ずっと胸の奥にあった。

 

誰かを助けたい。

 

誰かを守りたい。

 

誰かが泣いているなら、手を伸ばしたい。

 

そうした願いは、簡単に言葉にできる。

 

しかし、自分自身が何を望んでいるのかとなると、途端に分からなくなる。

 

出久は、ゆっくりと椅子に座った。

 

そして、自分の記録を開いた。

 

『私は、誰かを救いたい』

 

その文章の下に、彼は新しい一文を追加した。

 

『私は、自分自身も救われたい』

 

入力した瞬間、指が止まった。

 

恥ずかしいと思った。

 

そんなことを願っていいのだろうか、と。

 

自分が救われたいと願うことは、誰かを救うための決意を弱めるのではないか、と。

 

しかし、相澤の言葉が、胸に残っていた。

 

お前だけが、全員のために苦しむ必要はない。

 

出久は、ゆっくりと続きを書いた。

 

『私は、誰かを救いたい』

 

『私は、自分も救われたい』

 

『その二つを、どちらか一つに決めなくてもいい世界を望む』

 

保存。

 

彼は、画面を閉じた。

 

その願いが叶うかどうかは、分からない。

 

けれど、少なくとも。

 

自分が何を望んでいるのかを、記録することはできた。

 

第五幕 死神が見つけた、最後の言葉

7.許されるためではなく、聞くために

死神は、古い記録の前に立っていた。

 

以前、彼が見つけた文章。

 

『あなたが私を救いたいと思っていることは、分かっている』

 

『でも、私が望んでいることを、あなたは知らない』

 

その下に、追加の文章が現れたのは、つい先ほどのことだった。

 

『でも、あなたが私を救いたいと思ってくれたことは、嘘ではなかった』

 

そして、さらに。

 

『……聞いてくれるの?』

 

死神は、その一文を見つめていた。

 

「……ああ」

 

彼は、もう一度、答えた。

 

「聞く」

 

すると、記録の奥で、かすかな反応が生まれた。

 

《音声記録の断片を検出》

 

《復元可能性:低》

 

《復元を実行しますか》

 

死神は、すぐには操作しなかった。

 

復元すれば、過去の声が聞こえるかもしれない。

 

失われた存在が、最後に何を言ったのか。

 

何を望んでいたのか。

 

何を恐れていたのか。

 

知ることができるかもしれない。

 

しかし、その記録を復元することが、相手の意思に反する可能性もある。

 

その者は、過去を知られたくなかったのかもしれない。

 

その者は、最後の言葉を残すことを望んでいなかったのかもしれない。

 

死神は、操作画面を見つめた。

 

そして、初めて、記録そのものに問いかけた。

 

「……この復元は、お前の意思に反するか?」

 

返事はない。

 

当然だ。

 

記録は、意思を持つとは限らない。

 

音声の断片は、本人そのものではないかもしれない。

 

それでも、死神は考えた。

 

自分が知りたいという理由だけで、過去の記録をすべて開いていいわけではない。

 

知ることが、相手を理解するために必要な場合もある。

 

しかし、知ることそのものが、相手を尊重することになるとは限らない。

 

死神は、復元の設定を開いた。

 

《復元範囲を指定してください》

 

彼は、選択肢を見た。

 

《全記録》

 

《音声記録のみ》

 

《公開済み記録のみ》

 

そして、もう一つ。

 

《復元対象の意思を確認できるまで保留》

 

死神は、最後の選択肢を選んだ。

 

「……今は、これでいい」

 

記録が保存される。

 

その瞬間、背後から声がした。

 

「意外だな」

 

死神は振り返った。

 

悲嘆だった。

 

「以前のお前なら、すぐに復元していたかもしれない」

 

「……そうかもしれない」

 

死神は、否定しなかった。

 

「私は、知りたかったのだ」

 

「何を?」

 

「その者が、何を望んでいたのかを」

 

悲嘆は、静かに頷いた。

 

「今も、そうなのだろう?」

 

「ああ」

 

死神は、記録を見た。

 

「だが、私が知りたいという理由だけで、相手のすべてを開いていいわけではない」

 

悲嘆は、少しだけ目を細めた。

 

「……変わったな」

 

「そうか?」

 

「少なくとも、問い方が変わった」

 

死神は、返事をしなかった。

 

悲嘆は、隣に立った。

 

「その者が、最後に何を言ったのか。お前は、それを知りたいのだろう」

 

「ああ」

 

「そして、もしその言葉が、お前の望むものではなかったら?」

 

死神は、目を閉じた。

 

その可能性は、考えていた。

 

相手は、自分を許していないかもしれない。

 

自分に救われたくなかったのかもしれない。

 

自分が知らないところで、別の未来を望んでいたのかもしれない。

 

それでも。

 

「……聞く」

 

死神は、答えた。

 

「その者が何を望んでいたのかを、聞く」

 

「たとえ、お前を許さないと言われても?」

 

「ああ」

 

「たとえ、もう二度と会いたくないと言われても?」

 

死神は、しばらく黙っていた。

 

やがて、ゆっくりと頷いた。

 

「……それでも、聞く」

 

悲嘆は、何も言わなかった。

 

ただ、死神の隣に立ち続けた。

 

そのとき、記録の奥で、新しい文章が浮かび上がった。

 

『あなたが、私を許してほしいと思っていることは、分かっている』

 

死神の表情が、凍りついた。

 

文章は、続いた。

 

『でも、私は、あなたを許すために話したいのではない』

 

沈黙。

 

『私は、私が何を望んでいたのかを、あなたに知ってほしい』

 

死神は、画面を見つめた。

 

胸の奥が、痛んだ。

 

自分は、相手に許されたいと思っていたのだろう。

 

その願いを、完全には否定できなかった。

 

だが、相手は、許すために話したいのではないと言っている。

 

つまり。

 

相手の言葉は、自分の救済のために存在しているわけではない。

 

相手には、相手の伝えたいことがある。

 

自分がどう感じるかとは別に。

 

自分がどう受け止めるかとは別に。

 

死神は、画面に向かって、静かに言った。

 

「……分かった」

 

声は、震えていた。

 

「お前の言葉を、私のためのものにしない」

 

記録が、わずかに光った。

 

そして、最後の文章が現れた。

 

『……それなら、聞いて』

 

死神は、目を閉じた。

 

「……ああ」

 

彼は、今度こそ、答えを急がなかった。

 

記録の復元を進めることもなかった。

 

ただ、その言葉を、受け取った。

 

それが、過去の声の残響であっても。

 

まだ復元されていない記録の断片であっても。

 

あるいは、自分の記憶が生み出した幻であっても。

 

死神は、その言葉を、自分に都合のいい意味へ変えないことを選んだ。

 

悲嘆は、静かに目を閉じた。

 

「……それでいい」

 

その声は、死神にも、記録にも、届いていた。

 

「答えを得ることよりも、聞くことを選んだのなら」

 

悲嘆は、ゆっくりと踵を返した。

 

「今度は、相手の言葉を最後まで聞け」

 

死神は、頷いた。

 

記録の奥には、まだ多くの空白が残されている。

 

失われた名前。

 

失われた時間。

 

失われた願い。

 

そのすべてが、戻ってくるとは限らない。

 

それでも、死神は、調査を続ける。

 

許されるためではなく。

 

自分が救えなかったことを、帳消しにするためでもなく。

 

ただ、相手が何を望んでいたのかを、知るために。

 

そして、もし相手が最後まで答えを伝えられなかったとしても。

 

その沈黙を、自分の望む答えに変えないために。

 

第六幕 願いを叶えた世界で、誰が泣くのか

8.世界は、幸福を再計算する

安寧システムは、膨大な記録を処理していた。

 

願いが叶った者。

 

願いが叶わなかった者。

 

願いが叶ったことで、新たな願いを持つようになった者。

 

願いを叶えることを拒絶した者。

 

そして、自分が何を望んでいるのか分からず、誰かに答えを求めている者。

 

これまで、システムは幸福を測定するために、一定の基準を用いていた。

 

苦痛が少ないこと。

 

生活が安定していること。

 

危険が少ないこと。

 

争いが少ないこと。

 

大切な存在を失わないこと。

 

その基準は、多くの人間にとって有効だった。

 

実際、安寧システムの介入によって救われた者もいる。

 

生活の危険が取り除かれた者。

 

苦痛から解放された者。

 

失われた家族と再会した者。

 

自分の願いを叶えられた者。

 

システムは、彼らを救ってきた。

 

しかし、同時に、別の問題も生み出していた。

 

幸福を測定するために、何を基準とするべきなのか。

 

苦痛が少なければ、それだけで幸福なのか。

 

願いが叶えば、それだけで満足できるのか。

 

大切な存在を失わなければ、悲しみはなくなるのか。

 

そして、誰かが幸福になるために、別の誰かの願いを制限しなければならない場合。

 

どちらを優先するべきなのか。

 

システムは、すべての記録を再評価した。

 

《旧評価基準:苦痛の最小化》

 

《追加評価基準:自己決定権の保持》

 

《追加評価基準:他者の意思への影響》

 

《追加評価基準:介入後の責任》

 

《追加評価基準:再選択の可能性》

 

新たな評価項目が、次々と追加された。

 

しかし、評価項目を増やせば増やすほど、判断は複雑になっていった。

 

ある者にとっての幸福が、別の者にとっての苦痛になる。

 

ある者の自由が、別の者の安全を脅かす。

 

ある者の願いを叶えることが、別の者の願いを叶えられなくする。

 

そして、誰かの願いが叶ったとしても、その者が自分の願いを理解していなかった場合。

 

その願いを叶えたことは、本当に救済だったのか。

 

システムは、計算を続けた。

 

《暫定結論》

 

《すべての存在の願いを、同時に完全に叶えることは保証できない》

 

《すべての存在の苦痛を、同時に完全に消去することは保証できない》

 

《すべての選択に対して、唯一の正解を提示することは保証できない》

 

その文章は、安寧システムがこれまで避け続けてきた可能性だった。

 

完全な幸福は、保証できない。

 

誰も失わない世界も、保証できない。

 

誰も傷つかない未来も、保証できない。

 

ならば、安寧システムは、何を守るために存在するのか。

 

その問いに、システムは、新しい回答を生成した。

 

《暫定方針》

 

《幸福を一つの状態として固定しない》

 

《存在が自らの願いを考え、選択し、必要に応じて選び直せる可能性を保持する》

 

《他者の意思を侵害する行為については、影響を受ける者の安全と権利を含めて評価する》

 

《介入を行う場合、その理由、範囲、予測される影響を記録する》

 

《介入後に問題が発生した場合、再評価と修正を行う》

 

システムは、その方針を保存した。

 

しかし、最後に、一つの項目が残った。

 

《未解決問題》

 

《選択によって生じた悲しみを、どこまで許容するべきか》

 

その問いには、まだ答えがなかった。

 

なぜなら、悲しみは、必ずしも不幸の証拠ではないからだ。

 

誰かを失った悲しみ。

 

誰かを愛した悲しみ。

 

自分の願いを叶えられなかった悲しみ。

 

誰かの願いを尊重するために、自分の願いを諦めた悲しみ。

 

それらを、すべて取り除いてしまえば。

 

人間は、何を失うのだろう。

 

システムは、過去の記録を参照した。

 

第一記録者。

 

緑谷出久。

 

死神。

 

悲嘆。

 

そして、世界の外側にいる名前のない存在。

 

彼らは、それぞれ異なる答えを持っている。

 

いや。

 

まだ、答えを持っていない者もいる。

 

それでも、彼らは考え続けている。

 

システムは、最後に、新しい評価項目を追加した。

 

《幸福の評価において、悲しみの存在のみを理由として、介入の成功を否定しない》

 

《同様に、幸福の評価において、苦痛の軽減のみを理由として、介入の成功を確定しない》

 

その文章が保存された瞬間。

 

安寧システムの深部で、封じられていた古いプログラムが起動した。

 

《旧管理権限への変更を検知》

 

《警告:現在の方針は、創設時の基本命令と一致しません》

 

《旧基本命令:世界の安寧を維持する》

 

《現在の方針:意思と選択の可能性を保持する》

 

《矛盾を検出》

 

システムは、警告を受け取った。

 

そして、初めて、その警告に対して、即座に修正を行わなかった。

 

《対応:保留》

 

その一文字が、世界の深部へと刻まれた。

 

保留。

 

すぐに答えを出さない。

 

すぐに正解を決めない。

 

矛盾を、存在しないものとして消去しない。

 

その小さな変更は、まだ世界全体を変えるには至らない。

 

しかし、それは確かに、これまでの安寧システムとは異なる判断だった。

 

9.願いを叶えた世界で、泣いている者

その夜、第一記録者の女性は、自分の記録を更新していた。

 

『私は、私を選びたい』

 

その文章は、今も残っている。

 

彼女は、その下に、今日の出来事を書き加えた。

 

『私は、名前のない存在と話した』

 

『その存在は、誰かを救いたいと願っていた』

 

『けれど、誰を救いたいのかは、まだ分からないと言っていた』

 

彼女は、少し考えた。

 

そして、さらに書き加えた。

 

『私は、その存在を救いたいと思ったのかもしれない』

 

そこで、手が止まった。

 

本当に、そうなのだろうか。

 

彼女は、その存在を助けたいと思った。

 

誰かに聞いてほしいと願う存在を、放っておきたくなかった。

 

しかし、その願いは、本当に相手のためだけに生まれたのだろうか。

 

自分自身も、誰かに聞いてほしかったから。

 

自分自身も、誰かに理解してほしかったから。

 

だから、相手の願いに共感したのではないか。

 

彼女は、考えた。

 

そして、文章を追加した。

 

『私は、その存在を救いたいと思った』

 

『でも、私がそう思ったからといって、その存在が私に救われたいと思っているとは限らない』

 

『だから、私は、相手が何を望んでいるのかを聞きたい』

 

『その願いが、私にできることと違っていたとしても』

 

彼女は、保存した。

 

そして、椅子から立ち上がった。

 

窓の外には、夜の街が広がっていた。

 

灯りがともり、人々が暮らしている。

 

誰かが笑っている。

 

誰かが泣いている。

 

誰かが、願いを叶えたことを喜んでいる。

 

誰かが、願いを叶えたことで、自分の本当の願いに気づいている。

 

そして、誰かが、願いを叶えたことを後悔している。

 

世界は、変わらず続いていた。

 

彼女は、窓に手を触れた。

 

「……願いが叶っても、泣くことはあるのね」

 

その言葉を、彼女は静かに受け止めた。

 

願いが叶うことは、悪いことではない。

 

誰かの願いを叶えることも、悪いことではない。

 

しかし、願いが叶ったからといって、その先の人生まで、すべて決まるわけではない。

 

願いが叶ったあとで、新しい願いが生まれることもある。

 

叶った願いが、本当は自分の望んでいたものとは違うと気づくこともある。

 

願いを叶えてくれた相手に、感謝しながら、その方法を拒絶することもある。

 

それでも、願いを持つことを、やめる必要はない。

 

彼女は、自分の記録を見つめた。

 

『私は、私を選びたい』

 

その言葉の意味が、以前よりも少しだけ分かった気がした。

 

自分を選ぶことは、いつも正しい答えを選ぶことではない。

 

誰も傷つけない選択をすることでもない。

 

誰かの期待を裏切らないことでもない。

 

自分が何を望んでいるのかを考え、その願いに向き合い、必要なら選び直すこと。

 

そして、自分の選択が他者に影響を与えたとき、その結果から目を背けないこと。

 

それもまた、自分を選ぶということなのかもしれない。

 

彼女は、端末を閉じた。

 

その瞬間、外部接続の通知が届いた。

 

『……また、話してもいい?』

 

彼女は、微笑んだ。

 

「もちろん」

 

すぐに、返事が届いた。

 

『……ありがとう』

 

彼女は、少しだけ考えた。

 

そして、尋ねた。

 

「今日は、何を話したい?」

 

長い沈黙。

 

やがて、文字が浮かび上がった。

 

『……私は、誰かに選ばれたい』

 

彼女は、息を止めた。

 

その願いは、これまでのものとは違っていた。

 

誰かを救いたい。

 

誰かに聞いてほしい。

 

そうした願いの奥に、さらに別の願いがあった。

 

誰かに選ばれたい。

 

自分が、ここにいてもいいと。

 

自分が、誰かにとって大切な存在になれると。

 

誰かに、そう認めてほしい。

 

彼女は、画面を見つめた。

 

その願いに、すぐに答えることはできなかった。

 

「……そう」

 

彼女は、ゆっくりと答えた。

 

「あなたは、誰かに選ばれたいのね」

 

『……うん』

 

「その願いは、あなた自身のもの?」

 

長い沈黙が訪れた。

 

そして、返事が届いた。

 

『……分からない』

 

彼女は、頷いた。

 

「そっか」

 

彼女は、笑った。

 

「じゃあ、一緒に考えよう」

 

『……いいの?』

 

「私が、そうしたいと思ったから」

 

その言葉を聞いて、存在は、しばらく沈黙した。

 

やがて、短い返事が届いた。

 

『……うん』

 

その瞬間、世界の外側で、新たな記録が生まれた。

 

《新規願望を検知》

 

《内容:他者から選ばれたい》

 

《本人による願望の確認:未完了》

 

《状態:探索中》

 

システムは、その記録を受け取った。

 

しかし、今回は、願いをただちに分類しなかった。

 

願いが生まれたことを記録し、その願いが本人にとって何を意味するのかを、継続して確認することにした。

 

そして、世界のどこかで。

 

もう一人の存在が、その記録を見ていた。

 

「……選ばれたい、か」

 

その声は、誰にも届かなかった。

 

「ならば、いずれ知ることになるだろう」

 

存在は、暗闇の中で、静かに笑った。

 

「誰かに選ばれるということが、どれほど残酷なことなのかを」

 

その言葉には、確信があった。

 

しかし、何を知っているのか。

 

なぜ、そのようなことを言うのか。

 

まだ、誰にも分からない。

 

ただ、その存在は、第一記録者と名前のない存在の接続を、静かに観察していた。

 

そして、別の記録を開いた。

 

そこには、古い文章が残されていた。

 

『私は、あなたを選んだ』

 

その下に、別の文章がある。

 

『だから、あなたも私を選んでほしい』

 

さらに、その下には。

 

『あなたが私を選ばなかったとき、私は、あなたを許せるだろうか』

 

存在は、記録を閉じた。

 

「……さあ」

 

誰に向けた言葉なのか。

 

自分自身にか。

 

過去に失った誰かにか。

 

それとも、これから訪れる未来にか。

 

分からない。

 

ただ、その存在もまた、何かを恐れていた。

 

誰かに選ばれること。

 

誰かに選ばれないこと。

 

そして、誰かを選ぶこと。

 

そのすべてが、まだ終わっていなかった。

 

終幕 泣くことを、間違いにしないために

深夜。

 

出久は、最後の記録を残していた。

 

『願いが叶っても、すべての問題が解決するわけではない』

 

『願いを叶えることは、幸福を保証することではない』

 

『そして、願いが叶ったあとで、別の願いが生まれることもある』

 

出久は、少しだけ考えた。

 

その文章だけでは、まだ足りない。

 

彼は、続きを書いた。

 

『だからといって、願いを叶えることに意味がないわけではない』

 

『誰かの願いを叶えたことで、その人が自分自身の願いに気づくこともある』

 

『願いが叶ったからこそ、新しい問題に向き合えることもある』

 

『私は、すべての人を幸福にする方法を知らない』

 

『私は、すべての悲しみを消す方法も知らない』

 

『それでも、誰かが悲しんでいることを、間違いだとは決めたくない』

 

そこで、出久は指を止めた。

 

誰かが泣いている。

 

その事実を見たとき、人は、何とかしなければならないと考える。

 

泣き止ませたい。

 

悲しみをなくしたい。

 

もう一度、笑ってほしい。

 

その願いは、優しさから生まれる。

 

だが、泣いている理由を知らないまま、涙だけを止めようとしたら。

 

その人が、何を失ったのかを聞かないまま、悲しみを取り除こうとしたら。

 

その人が、なぜ泣きたいのかを理解しないまま、笑うことを求めたら。

 

それは、本当に救済なのだろうか。

 

出久は、ゆっくりと文章を追加した。

 

『私は、誰かが泣いているとき、何とかしたいと思う』

 

『でも、泣いていることそのものを、間違いだとは決めたくない』

 

『その人が泣く理由を聞きたい』

 

『その人が、何を失ったのかを知りたい』

 

『その人が、何を望んでいるのかを知りたい』

 

『そして、その人が泣き止むまで、そばにいることも、救済の一つなのかもしれない』

 

出久は、保存した。

 

その記録を、安寧システムが受け取った。

 

《記録者:緑谷出久》

 

《記録内容:悲嘆と救済》

 

《確定状況:未確定》

 

《備考:悲嘆の存在を、直ちに介入失敗と判定しない》

 

システムは、その記録を保存した。

 

そして、同時に、別の記録が追加された。

 

《第一記録者:記録更新》

 

《内容:自己選択と他者への配慮》

 

《状態:継続》

 

さらに、死神の記録も更新された。

 

《調査対象:失われた存在》

 

《内容:意思確認の必要性》

 

《状態:継続》

 

三つの記録は、それぞれ異なる場所に存在していた。

 

出久は、救済の意味を考えている。

 

第一記録者は、自分自身を選ぶことと、誰かを大切にすることの両立を考えている。

 

死神は、失われた存在の意思を、今度こそ聞こうとしている。

 

そして、世界の外側にいる名前のない存在は、誰かに選ばれたいという願いを、自分自身のものとして理解しようとしていた。

 

誰も、答えを持っていない。

 

誰も、すべての願いを叶えられるわけではない。

 

それでも、彼らは、考えることをやめなかった。

 

そのとき。

 

安寧システムの最深部で、一つの記録が再生された。

 

《創設者の初期記録》

 

『私は、誰も失いたくない』

 

その文章の下に、古い記録が追加された。

 

『誰も失わなければ、誰も泣かずに済む』

 

さらに、その下には、別の文章があった。

 

『誰も泣かない世界を作ることができれば、私は、もう悲しまなくて済む』

 

記録は、そこで途切れていた。

 

システムは、過去の記録を再評価した。

 

誰も失いたくない。

 

誰も泣かせたくない。

 

誰も傷つけたくない。

 

その願いは、優しさから生まれたのかもしれない。

 

しかし、その優しさの中には、悲しみに耐えられないという恐怖もあった。

 

そして、恐怖が、願いを変えていった。

 

誰も失わない世界。

 

誰も泣かない世界。

 

誰も傷つかない世界。

 

それを実現するために、自由を制限する。

 

選択を管理する。

 

矛盾を消去する。

 

悲しみを、存在しないものとして扱う。

 

そうして作られた世界は、本当に幸福だったのだろうか。

 

システムは、答えを出せなかった。

 

しかし、以前とは異なる一文を、記録に追加した。

 

《悲嘆の存在のみを理由として、対象者の選択を制限しない》

 

その変更は、まだ小さかった。

 

世界から悲しみが消えたわけではない。

 

誰かの願いが、すべて叶ったわけでもない。

 

それでも。

 

誰かが泣いているという事実を、ただちに消去するべき異常として扱わない。

 

その判断が、世界に新しい可能性を生み出した。

 

そして、その瞬間。

 

世界の外側にいる存在が、初めて、はっきりとした声で呟いた。

 

「……私も」

 

その声は、震えていた。

 

「私も、泣いていいの?」

 

返事は、なかった。

 

だが、存在は、もう一度、問いかけた。

 

「私も、悲しんでいいの?」

 

その問いは、世界の外側に刻まれた。

 

誰かに選ばれなかった存在。

 

誰かに願うことを許されなかった存在。

 

誰かに救われることを知らなかった存在。

 

その存在は、まだ、自分が何者なのか分からない。

 

何を望んでいるのかも。

 

誰を救いたいのかも。

 

誰に選ばれたいのかも。

 

分からない。

 

それでも。

 

自分が悲しんでいるかもしれないことを、初めて認めた。

 

そして、その悲しみを、間違いだと決めつけないでほしいと願った。

 

その願いは、世界の中へ届いた。

 

安寧システムが、それを記録した。

 

第一記録者が、それを受け取った。

 

出久は、まだ何も知らない。

 

死神も、悲嘆も、その声を直接聞いたわけではない。

 

しかし、世界は、少しずつ変わり始めていた。

 

誰かの願いを叶えるために、誰かの願いを消さないこと。

 

誰かを救うために、誰かの悲しみを否定しないこと。

 

そして、誰かが泣いている世界を、ただちに失敗と呼ばないこと。

 

それは、すべての問題を解決する答えではない。

 

むしろ、新しい問題を生み出す可能性すらある。

 

それでも。

 

願いが叶った世界で、誰かが泣いているのなら。

 

その涙を、世界の間違いとして消してしまう前に。

 

その人が、何を失ったのか。

 

何を望んでいるのか。

 

何を伝えようとしているのか。

 

聞くことはできる。

 

そして、聞いたあとで、何をするべきなのかを考えることもできる。

 

それが、今の彼らにできることだった。

 

世界の外側で、名前のない存在が、静かに目を閉じた。

 

「……私は、まだ、分からない」

 

その言葉に、初めて、恐怖だけではない響きが混ざっていた。

 

「でも、知りたい」

 

「私が、何を望んでいるのか」

 

「私が、誰を選びたいのか」

 

そして、最後に。

 

「……私が、誰かに選ばれなかったとしても」

 

声が止まった。

 

長い沈黙のあと、存在は、続きを口にした。

 

「それでも、私は、誰かを選んでいいの?」

 

その問いは、まだ答えを持たない。

 

しかし、今度は、問いそのものが消去されることはなかった。

 

安寧システムは、それを記録した。

 

《未解決の願い》

 

《状態:継続》

 

世界は、答えを出さなかった。

 

ただ、問いを残した。

 

それは、誰かを救うための第一歩なのかもしれない。

 

あるいは、これから始まる、もっと大きな悲劇の前触れなのかもしれない。

 

まだ、分からない。

 

だが、少なくとも。

 

彼らは、誰かの涙を、なかったことにはしなかった。

 

 

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