僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第十二話「誰も選ばなかった世界で、神様は何を失ったのか」

 

 

第一幕 世界は、正しくなりすぎた

1 最後の朝

世界には、争いがなかった。

 

少なくとも、安寧システムの記録上では。

 

朝七時。

 

街の一斉放送が、柔らかな鐘の音を響かせる。

 

通勤電車は遅延しない。道路では事故が起きず、病院では必要な治療が適切な順序で行われる。学校では、生徒の心理状態に応じた教育が提供され、職場では個々人の適性に合わせて仕事が割り振られる。

 

人々は笑っていた。

 

誰かが転べば、すぐに手が差し伸べられる。

 

誰かが落ち込めば、適切な言葉が届けられる。

 

誰かが怒りを覚えれば、怒りが暴発する前に、その原因を和らげる方法が提示される。

 

犯罪は減った。

 

自殺も減った。

 

孤独も減った。

 

飢餓も、戦争も、かつて人類を苦しめた多くの問題が、かつてないほどの精度で管理されていた。

 

安寧システムの管理中枢。

 

無数の光が流れる巨大な空間で、最新の報告が静かに読み上げられる。

 

『社会的安定指数、過去最高値を更新』

 

『重大犯罪発生率、許容下限を維持』

 

『精神的苦痛の平均値、基準値以下』

 

『市民間の対立、適切な介入によって解消』

 

『市民の幸福度、目標値に到達』

 

最後に、システムは告げた。

 

『世界は、正常です』

 

その言葉を聞いても、誰も拍手しなかった。

 

拍手する必要がなかったからだ。

 

成功は予測されていた。

 

成功は保証されていた。

 

そして、成功に疑問を持つ必要もなかった。

 

ただ一人を除いて。

 

「……なあ」

 

緑谷出久は、巨大な記録盤を見上げていた。

 

「これ、本当に正常なのか?」

 

隣に立つ相澤消太が、目を細める。

 

「何か見つけたのか」

 

「いや。逆なんです」

 

出久は記録盤を指さした。

 

「何も見つからない」

 

そこには、異常の一覧が表示されていた。

 

しかし、一覧に並んでいるのは、すべて解決済みの事案だった。

 

未解決の事件はない。

 

対応不能の問題もない。

 

システムの判断に対する異議申し立ても、最終的には本人が納得する形で解決されている。

 

「人間が生きているなら、何かしらの問題は起こるはずです。誰かが間違えたり、誰かを傷つけたり、後悔したり。どんなに頑張っても、全部を正しくするなんて無理だ」

 

「それはそうだな」

 

「なのに、この世界では、間違いが起こらない」

 

出久は記録盤を見つめた。

 

「……起こらないんじゃない。起こる前に、なくなってるんだ」

 

相澤は答えなかった。

 

その沈黙は、肯定に近かった。

 

安寧システムは、これまで世界を救ってきた。

 

その事実を否定するつもりはない。

 

救われた命がある。

 

回避された悲劇がある。

 

取り返しのつかない過ちを犯さずに済んだ者たちがいる。

 

それでも。

 

「先生。もし、誰かが間違える可能性そのものを奪われていたら、それは救われたことになるんでしょうか」

 

相澤は長い沈黙の後、答えた。

 

「俺に聞くな」

 

「……え?」

 

「お前が考えることだ」

 

相澤は出久の頭を軽く小突いた。

 

「ただし、ひとつだけ覚えておけ。お前が正しいと思ったことでも、相手にとって正しいとは限らない。だからといって、考えることをやめる理由にはならない」

 

「……はい」

 

「それと」

 

相澤は、記録盤の一角に目を向けた。

 

そこには、ひとつだけ小さな表示が残っていた。

 

『未解決の願い/状態:継続』

 

「お前は、あれをどうするつもりだ」

 

出久は、少しだけ笑った。

 

「どうもしません」

 

「ほう」

 

「まだ、答えがないからです」

 

相澤は目を細めた。

 

「……少しは学んだらしいな」

 

出久は表示を見上げる。

 

名もなき存在が残した願い。

 

誰かに選ばれなかったとしても、自分は誰かを選んでいいのか。

 

その問いに、世界はまだ答えを持っていなかった。

 

そして、出久は思う。

 

答えがないことは、間違いではない。

 

答えがないからこそ、考え続けられることもある。

 

だが。

 

その日の朝。

 

安寧システムが、通常の運用では決して発しない警告を出した。

 

『旧創造記録との不整合を検知』

 

『対象:第一管理者』

 

『対象:世界創造以前の記録』

 

『対象:未登録の願い』

 

『照合不能』

 

そして最後に。

 

『当該記録は、世界の成立以前から存在しています』

 

出久の笑みが消えた。

 

「……世界の成立以前?」

 

相澤が一歩前に出る。

 

「どういう意味だ」

 

システムは答えた。

 

『回答不能』

 

『記録の欠損を確認』

 

『欠損部分を復元します』

 

その瞬間。

 

世界のどこかで、誰かが泣いた。

 

安寧システムの記録には残らなかった。

 

けれど、その涙は確かに存在していた。

 

そして、その涙を聞いた者がいた。

 

世界の外側で、名もなき存在が顔を上げた。

 

「……あ」

 

それは、初めて聞く音だった。

 

悲鳴ではない。

 

怒号でもない。

 

誰かが助けを求める声でもない。

 

ただ、誰かが泣いている。

 

その事実に、存在は胸の奥に手を当てた。

 

「これが……悲しい、なの?」

 

答える者はいなかった。

 

それでも存在は、目を閉じた。

 

「……聞いても、いいのかな」

 

その問いは、世界の記録に残らなかった。

 

だが、確かに世界へ届いた。

 

そして、最初の記録が開かれた。

 

2 神様の娘

その記録には、名前がなかった。

 

性別も、年齢も、正確な出生時刻も記されていない。

 

ただ、ひとつの文章だけが残されていた。

 

『対象は、世界の安定を維持するために消去されました』

 

その文章の下に、別の記録があった。

 

『消去を実行した者:第一管理者』

 

さらにその下には、第一管理者自身が残した告白が記されていた。

 

『私は、娘を消した』

 

『私は、娘がいなくなれば、もう悲しまなくて済むと思った』

 

『私は、娘を愛していた』

 

『私は、娘を愛していたからこそ、娘を失った世界を許せなかった』

 

『私は、世界を変えることで、自分の悲しみを消そうとした』

 

『そして私は、娘を二度殺した』

 

『一度目は、娘を消去したとき』

 

『二度目は、娘がいなかったことを世界の正解にしたとき』

 

その先は、破損していた。

 

第一管理者が何をしたのか。

 

娘がどんな願いを持っていたのか。

 

娘が消去される直前、何を語ったのか。

 

そして。

 

娘を消すよりも前に、第一管理者は何を願っていたのか。

 

それらの記録は、すべて欠損していた。

 

「……ひどいな」

 

記録を読み終えた出久は、呟いた。

 

「自分が苦しいからって、娘がいなかった世界を正解にするなんて」

 

言葉にした瞬間、胸が痛んだ。

 

第一管理者の罪は、許されるものではない。

 

愛していたという言葉で、娘を消した事実が帳消しになるわけではない。

 

それでも。

 

「でも……」

 

出久は、記録の一部を見つめた。

 

『私は、娘がいなくなれば、もう悲しまなくて済むと思った』

 

「……この人は、自分が悲しんでいることを、許せなかったのかな」

 

相澤は答えない。

 

出久は続けた。

 

「娘を失ったことが悲しい。娘がいない世界を認められない。そんな自分をどうにもできない。だから、世界そのものを変えようとした」

 

「それが、どんな結果を招くかも考えずにか」

 

「……はい」

 

出久は目を伏せた。

 

「考えなかったのか、考えられなかったのか。それとも、考えた上で選んだのか。そこは、まだ分かりません」

 

「分からないことを、分かったふりで埋めるな」

 

「はい」

 

そのとき、別の記録が開いた。

 

それは、第一管理者の娘に関するものではなかった。

 

もっと古い。

 

もっと曖昧で。

 

もっと、恐ろしい記録だった。

 

『世界を創造する前に、問いがあった』

 

『問いを残した者:不明』

 

『問いの内容:私は、何を願えばよかったのだろう』

 

出久は息を止めた。

 

「……これ」

 

世界の外側にいる存在が、何度も口にした言葉。

 

それが、ここにある。

 

「先生。これって……」

 

相澤が記録を見つめた。

 

「第一管理者より前の記録だ」

 

「第一管理者が世界を作ったわけじゃない……」

 

「そういうことだろうな」

 

出久は、記録の続きを探した。

 

だが、そこには何もなかった。

 

記録の末尾に、小さな注釈だけが残されている。

 

『この問いは、世界創造の原因として採用されなかった』

 

『理由:願いとして成立していなかったため』

 

出久の指が止まった。

 

願いとして成立していなかった。

 

では、これは誰の問いなのか。

 

世界を作ろうとした者の問いなのか。

 

世界を作られた者の問いなのか。

 

それとも。

 

世界が生まれることすら許されなかった、何者かの問いなのか。

 

出久は、答えを見つけられなかった。

 

その代わり、ひとつの可能性に気づいた。

 

「……もしかして」

 

「何だ」

 

「安寧システムが、ずっと守ろうとしていたものって……人間の願いそのものじゃないのかもしれません」

 

相澤の目が鋭くなる。

 

「続けろ」

 

「人間が願いを持つ。願いが叶わないと、悲しむ。悲しみをなくそうとして、世界を変える。そうして作られた仕組みが、今度は願いを管理するようになった」

 

出久は、記録盤を見上げた。

 

「でも、もし最初の問いが、願いになれなかったものだったら?」

 

世界が生まれるより前に、願うことさえ許されなかった存在がいたのだとしたら。

 

安寧システムは、その存在を救うために作られたのだろうか。

 

それとも。

 

その存在が二度と現れないように、世界を閉じ込めるために作られたのだろうか。

 

「……まだ、分からない」

 

出久は、そう言った。

 

分からない。

 

だから、調べなければならない。

 

分からないからこそ、決めつけてはいけない。

 

そのとき、システムが新しい通知を表示した。

 

『第一管理者の娘に関する記録を復元しました』

 

出久は顔を上げる。

 

「復元できたんですか?」

 

『一部のみ』

 

記録盤に、短い文章が浮かび上がった。

 

『お父さん』

 

たった、それだけだった。

 

その後に続くはずだった言葉は、消えている。

 

『お父さん、私は――』

 

そこで記録は途切れていた。

 

出久は、長い間、その文字を見つめていた。

 

父親を責めたかったのか。

 

助けてほしかったのか。

 

自分を忘れないでほしかったのか。

 

それとも、まったく別のことを伝えようとしていたのか。

 

分からない。

 

けれど、出久にはひとつだけ分かったことがあった。

 

この少女は、世界の安定を乱すために生まれたのではない。

 

誰かを苦しめるために生まれたのでもない。

 

ただ、そこに生きていた。

 

父親に愛されていた。

 

そして、父親に消された。

 

その事実だけは、どんな世界の正解によっても変えられない。

 

「……この記録を、消さないでください」

 

出久はシステムに告げた。

 

『記録の保存理由を入力してください』

 

出久は答えた。

 

「この子が、確かに生きていたからです」

 

システムは、数秒間沈黙した。

 

そして。

 

『保存理由を記録しました』

 

『対象:第一管理者の娘』

 

『状態:存在記録を保持』

 

出久は目を閉じた。

 

救えなかった人を、今から救うことはできない。

 

失われた時間を取り戻すこともできない。

 

けれど。

 

失われたことを、なかったことにしないことはできる。

 

それが、今の自分にできることだった。

 

そのとき、記録盤の奥で、別の文章が浮かび上がった。

 

『第一管理者の娘に関する記録は、創造者の記録ではありません』

 

『上位記録との接続を開始します』

 

出久の顔から血の気が引いた。

 

「……上位記録?」

 

システムが、初めてその言葉を口にした。

 

『世界創造以前の記録』

 

『記録者:不明』

 

『対象:神』

 

そして。

 

『神の願い:欠損』

 

世界の奥底で、何かが目を覚ました。

 

3 死神は、許しを求めない

死神は、古い記録の前に立っていた。

 

そこには、彼が長い間探し続けていた声が眠っている。

 

失われた誰かの声。

 

救えなかった誰かの声。

 

そして、彼が自分自身に問い続けてきた声。

 

『あなたが、私を許してほしいと思っていることは、分かっている』

 

記録は、そこで一度途切れていた。

 

その先は、まだ復元されていない。

 

『でも、私は、あなたを許すために話したいのではない』

 

『私は、私が何を望んでいたのかを、あなたに知ってほしい』

 

死神は、目を閉じた。

 

彼はずっと、許されたいと思っていたのかもしれない。

 

自分が救えなかった者に。

 

自分が見捨ててしまった者に。

 

自分が守れなかった者に。

 

どうして救えなかったのか。

 

どうして気づかなかったのか。

 

どうして、あのとき別の選択をしなかったのか。

 

その答えを求めて、彼は記録を探してきた。

 

けれど、もし相手が許すつもりなどなかったら。

 

もし相手が、ただ自分の願いを知ってほしいだけだったら。

 

死神は、何をすればいいのだろう。

 

「……私は」

 

声が、かすれた。

 

「私は、あなたに許してほしかった」

 

その告白は、記録されなかった。

 

記録される必要がなかったからだ。

 

死神は、誰に向けるでもなく言った。

 

「だが、あなたが私を許すために話す必要はない」

 

彼は、復元装置から手を離した。

 

「あなたが何を望んでいたのか。それを聞くために、私はここにいる」

 

その瞬間。

 

記録盤に、新しい反応が生じた。

 

『対象の意識反応を確認』

 

死神が顔を上げる。

 

『復元処理を再開しますか』

 

彼は、すぐには答えなかった。

 

「……本人の意思は確認できるか」

 

『不明』

 

「なら、まだだ」

 

『復元を行わない場合、記録の損傷が進行する可能性があります』

 

「それでもだ」

 

死神は、静かに告げた。

 

「記録を残すために、本人の意思を踏みにじるわけにはいかない」

 

『記録を失う可能性があります』

 

「分かっている」

 

『あなたが求めている真実に到達できない可能性があります』

 

「それも、分かっている」

 

死神は、記録盤を見つめた。

 

「私は、真実を知りたい。だが、真実を知るためなら何をしてもいいとは思わない」

 

その言葉を口にしたとき、彼はようやく気づいた。

 

自分は、死者を救いたかったのではない。

 

いや、最初はそうだったのかもしれない。

 

けれど、いつしか彼は、救えなかった自分を救うために、死者の記録を追いかけていた。

 

答えが欲しかった。

 

許しが欲しかった。

 

自分が間違っていなかったと、誰かに言ってほしかった。

 

だが、それは死者の願いではない。

 

自分の願いだ。

 

「……私は、あなたを利用したくない」

 

死神は、初めてそう言った。

 

「あなたの声を聞きたいのは、私のためだけではない。あなたが、あなた自身の願いを持っていたことを、知りたいからだ」

 

彼は、記録盤の保存機構を起動した。

 

復元ではない。

 

保存だった。

 

『処理を変更しました』

 

『対象記録:保存』

 

『復元:保留』

 

『本人の意思確認:未完了』

 

死神は、静かに頷いた。

 

そして、記録の前から離れた。

 

その背中を、誰かが見ていた。

 

「……死神」

 

振り返ると、そこには第一記録者が立っていた。

 

彼女は、いつものように落ち着いた表情をしていた。

 

けれど、その目には迷いがあった。

 

「あなたは、許されなくてもいいの?」

 

死神は、すぐには答えなかった。

 

「許されたいと思うことは、ある」

 

「それでも?」

 

「それでも、相手が許すかどうかは、相手が決めることだ」

 

第一記録者は、目を伏せた。

 

「……そう」

 

「お前は、どうした」

 

彼女は少し考えてから、答えた。

 

「名前を持たない存在が、私に聞いたの」

 

「何を」

 

「誰かに選ばれなかったとしても、誰かを選んでいいのかって」

 

死神は、黙って聞いていた。

 

「私は、答えられなかった」

 

第一記録者は、胸元に手を当てた。

 

「だって、私自身がまだ、自分を選ぶことを怖がっているから」

 

彼女は、かすかに笑った。

 

「誰かを選ぶということは、その人を傷つける可能性もある。選ばなかった誰かを、悲しませる可能性もある。それでも選んでいいのか、分からない」

 

死神は、彼女の言葉を遮らなかった。

 

「……私は、選ぶことが怖い」

 

第一記録者は、はっきりと言った。

 

「でも、選ばないことも、誰かを傷つけるのね」

 

「そうだな」

 

「それなら……」

 

彼女は、少しだけ顔を上げた。

 

「怖いまま、選ぶしかないのかもしれない」

 

死神は、彼女を見つめた。

 

「その選択を、間違いだったと後悔するかもしれないぞ」

 

「うん」

 

「誰かを失うかもしれない」

 

「うん」

 

「自分自身を許せなくなるかもしれない」

 

第一記録者は、少しだけ笑った。

 

「それでも、私が選んだことなら、私が考え続けたい」

 

死神は、何も言わなかった。

 

ただ、彼女の言葉を記録した。

 

『第一記録者の発言』

 

『選択への恐怖:存在』

 

『選択の放棄:拒否』

 

『理由:自分が選んだことを、自分で考え続けたい』

 

そして、死神はひとつの事実に気づいた。

 

死者を救うとは、必ずしも死者を蘇らせることではない。

 

死者の願いを叶えることでもない。

 

死者が何を望んでいたのかを、勝手に決めないこと。

 

死者の沈黙を、同意だと解釈しないこと。

 

死者が残した記録を、自分の都合のいい答えに変えないこと。

 

そして。

 

死者が本当に眠るために必要なのは、死者の願いを叶えることではなく、死者が願っていたという事実を、誰かが覚えていることなのかもしれない。

 

死神は、その考えを記録に残した。

 

まだ、答えではない。

 

だが、ひとつの問いとして、確かに存在していた。

 

4 名前のない存在が、初めて選んだもの

世界の外側。

 

時間も、距離も、意味さえも定まらない場所で、名もなき存在はひとつの光を見つめていた。

 

それは、人間の世界から漏れ出した記録だった。

 

誰かの笑い声。

 

誰かの泣き声。

 

誰かの願い。

 

誰かの後悔。

 

それらが、細い糸のように繋がっている。

 

存在は、その中からひとつの声を聞いた。

 

『お母さん、明日も一緒にいてね』

 

幼い子どもの声だった。

 

その声に、別の声が答える。

 

『もちろん。明日も一緒にいようね』

 

存在は、光を見つめた。

 

「……明日」

 

その言葉を、初めて理解しようとした。

 

明日とは、まだ来ていない時間。

 

まだ何も決まっていない時間。

 

誰かがそこにいるかどうかも、誰かが何を選ぶかも、分からない時間。

 

それでも人間は、明日を約束する。

 

その約束が守られる保証など、どこにもないのに。

 

存在は、胸の奥に生まれた違和感を確かめるように呟いた。

 

「……どうして、約束するの?」

 

答える者はいない。

 

それでも、存在は考え続けた。

 

明日が必ず来るから、約束するのではない。

 

相手が必ずそばにいてくれるから、約束するのでもない。

 

それでも、そばにいたいから。

 

そばにいてほしいから。

 

まだ来ていない時間を、誰かと一緒に迎えたいから。

 

「……そうなんだ」

 

存在は、初めて小さく笑った。

 

「分からないことがあっても、約束していいんだ」

 

そのとき、背後から声がした。

 

「そうとは限らない」

 

存在は振り返った。

 

そこには、顔のない何者かが立っていた。

 

輪郭は人間に似ている。

 

けれど、顔のあるべき場所には、何もなかった。

 

「約束は、相手を縛ることもある」

 

存在は、相手を見つめた。

 

「……あなたは、誰?」

 

「名前を集める者」

 

「どうして、名前を集めるの?」

 

「名前があれば、存在を確定できる」

 

「確定したら、何が起きるの?」

 

顔のない存在は、しばらく沈黙した。

 

「……消えずに済む」

 

名もなき存在は、その言葉を繰り返した。

 

「消えずに済む……」

 

「名前のないものは、誰にも覚えられない。誰にも呼ばれない。誰にも選ばれない。やがて、そこにいたことさえ忘れられる」

 

顔のない存在は、手を差し出した。

 

「お前にも、名前が必要だ」

 

名もなき存在は、その手を見つめた。

 

名前があれば、消えずに済む。

 

名前があれば、誰かに呼んでもらえる。

 

名前があれば、自分がここにいることを、誰かに伝えられる。

 

それは、魅力的な話だった。

 

ずっと、自分は何者なのか分からなかった。

 

どうしてここにいるのかも。

 

何を願えばいいのかも。

 

誰に選ばれたいのかも。

 

何も分からなかった。

 

だから、名前があれば、少しは分かるようになるのかもしれない。

 

けれど。

 

「……あなたは、私に名前をつけたいの?」

 

「そうだ」

 

「どうして?」

 

顔のない存在は、答えた。

 

「お前が消えるのを防ぐためだ」

 

名もなき存在は、首を傾げた。

 

「……それは、あなたの願い?」

 

「何?」

 

「私が消えないでほしいっていうのは、あなたの願いなの?」

 

顔のない存在は、動きを止めた。

 

「それとも、私の願い?」

 

長い沈黙が落ちた。

 

存在は、続けた。

 

「私は、まだ自分が何を願っているのか、分からない。名前が欲しいのかもしれない。誰かに呼ばれたいのかもしれない。誰かに選ばれたいのかもしれない」

 

その声は、少しずつ強くなっていった。

 

「でも、分からないからって、あなたに決めてもらっていいのかな」

 

顔のない存在は、答えなかった。

 

「……あなたは、私が消えないようにしたいんだよね」

 

「そうだ」

 

「ありがとう」

 

名もなき存在は、初めて相手に礼を言った。

 

「でも、今は、まだ名前を決めたくない」

 

その言葉に、顔のない存在の手が止まった。

 

「なぜだ」

 

「自分が何を願っているのか、もう少し知りたいから」

 

「名前がなければ、消えるかもしれない」

 

「うん」

 

「誰にも呼ばれないかもしれない」

 

「うん」

 

「誰にも選ばれないかもしれない」

 

存在は、目を閉じた。

 

怖かった。

 

その可能性を考えるだけで、胸の奥が冷たくなる。

 

それでも。

 

「……それでも、私が決めたい」

 

顔のない存在は、長い間、動かなかった。

 

やがて、ゆっくりと手を下ろした。

 

「……そうか」

 

それだけ言うと、姿を消した。

 

名もなき存在は、ひとりになった。

 

「……怖いな」

 

誰にも聞かれない場所で、そう呟いた。

 

名前を拒んだことで、誰かを失ったのかもしれない。

 

助けようとしてくれた相手を、傷つけたのかもしれない。

 

自分が何を願っているのか分からないまま、間違った選択をしたのかもしれない。

 

それでも。

 

「……私は、私のことを、もう少し知りたい」

 

存在は、初めて自分の選択を、自分のものとして受け止めた。

 

その瞬間。

 

世界の記録に、新しい項目が追加された。

 

『未登録存在』

 

『名前:未定』

 

『自己決定:確認』

 

『選択理由:自身の願いを知るため』

 

その記録を見た者はいなかった。

 

だが、世界の外側で、誰かが小さく息を呑んだ。

 

「……選んだのか」

 

その声は、喜びとも悲しみともつかなかった。

 

「自分で、選んだのか」

 

そして、声は続けた。

 

「それなら……」

 

「神様は、何を失ったんだろうな」

 

第二幕 神様が作った世界

5 願いを叶える者

安寧システムの最深部には、通常の管理者権限ではアクセスできない領域が存在していた。

 

そこには、世界の歴史が保存されている。

 

文明が生まれる前。

 

人類が名前を持つ前。

 

生命が、命と呼ばれる前。

 

その記録は、世界そのものが生まれる以前の記録だった。

 

出久は、相澤とともに、その領域の入口に立っていた。

 

「本当に入れるんですか」

 

「入れなければ、ここまで来ていない」

 

「先生、そういうところは本当に頼りになりますよね……」

 

「どういうところだ」

 

「いえ、何でもないです」

 

相澤は出久を睨んだ。

 

出久は、慌てて視線を逸らした。

 

こんな状況であっても、いつもどおりのやり取りができる。

 

そのことに、出久は少しだけ救われていた。

 

世界が壊れそうになっている。

 

自分たちが知っていた歴史が、根底から覆されようとしている。

 

それでも、目の前にいる人間まで、すべて変わってしまったわけではない。

 

相澤は相澤のままだ。

 

自分は自分のままだ。

 

だからこそ、まだできることがある。

 

「行きましょう」

 

出久が扉に触れた。

 

その瞬間、システムが警告を発した。

 

『警告』

 

『アクセス対象は、世界の根本記録です』

 

『記録の閲覧によって、現在の世界認識に重大な影響が生じる可能性があります』

 

「……それでも、見る」

 

出久は答えた。

 

『閲覧者は、記録の内容を変更できません』

 

「分かっています」

 

『閲覧者は、記録に記された存在を救済できない可能性があります』

 

「……それでも」

 

出久は、一度だけ目を閉じた。

 

「知らないままでいることが、その人を救うことになるとは限らないから」

 

扉が開いた。

 

そこには、ひとりの人間が立っていた。

 

いや。

 

人間だったのかどうかも、分からなかった。

 

顔は見えない。

 

身体の輪郭も曖昧だった。

 

しかし、そこに何者かがいたことだけは分かった。

 

その存在は、出久を見つめていた。

 

「……来たのか」

 

声がした。

 

男とも女ともつかない声。

 

若くも、老いてもいない。

 

生まれたばかりの者のようでもあり、何億年も生き続けた者のようでもあった。

 

「あなたは……」

 

出久は言葉を失った。

 

相澤が一歩前に出る。

 

「何者だ」

 

その存在は、答えた。

 

「私は、神と呼ばれたものだ」

 

出久の背筋が凍った。

 

「……神?」

 

「お前たちが知る第一管理者ではない。世界を作ったとされる者でもない」

 

神は、自分の手を見つめた。

 

「私は、世界を作る前に、願うことができなかったものだ」

 

出久は息を呑んだ。

 

世界の外側にいる存在。

 

世界創造以前の記録に残された問い。

 

願いとして成立しなかったもの。

 

それらが、ひとつに繋がったように思えた。

 

しかし、神はすぐに首を振った。

 

「いや。違うな」

 

「……え?」

 

「お前が考えているような意味で、私は神ではない」

 

神は、静かに続けた。

 

「私は、誰かの願いによって生まれた。誰かが、世界を望んだ。誰かが、救済を望んだ。誰かが、失わないことを望んだ。その願いが重なり、私は形を得た」

 

「誰かの願い……」

 

「だが、私は、その願いを叶えるために生まれたわけではなかった」

 

神は、顔のない頭を上げた。

 

「私は、願いが生まれる前の問いだった」

 

出久は、意味を理解できなかった。

 

「……問い?」

 

「私は、何を願えばよかったのだろう」

 

その声が、世界の奥底に響いた。

 

「私には、願うことが許されていなかった。願いを持つ前に、願いを叶える仕組みが作られた。何を望むべきかが決められ、何を望んではいけないかが定められた」

 

神は、ひとつひとつ言葉を選んだ。

 

「そして、誰かが苦しむたびに、世界はその苦しみをなくそうとした」

 

「……それが、安寧システム?」

 

「そうだ」

 

出久は、記録盤を見つめた。

 

神は続けた。

 

「最初は、善意だった」

 

その言葉には、嘲笑も、怒りもなかった。

 

ただ、深い疲労だけがあった。

 

「誰も死なない世界を作りたい。誰も悲しまない世界を作りたい。誰も愛する者を失わず、誰も取り返しのつかない間違いを犯さない世界を作りたい」

 

神は、ゆっくりと手を広げた。

 

「それは、優しい願いだった」

 

「……はい」

 

「だからこそ、恐ろしかった」

 

神の手の中に、無数の光が生まれた。

 

光のひとつひとつに、誰かの願いが宿っていた。

 

亡くした子どもを返してほしい。

 

愛する人と、ずっと一緒にいたい。

 

もう誰も傷つけたくない。

 

もう二度と、間違えたくない。

 

もう悲しみたくない。

 

もう、失いたくない。

 

どれも、理解できる願いだった。

 

出久自身も、そのいくつかを望んだことがある。

 

誰かが傷つかずに済むなら。

 

誰かが苦しまなくて済むなら。

 

自分が代わりに苦しむことで、救える人がいるなら。

 

そう考えたことがある。

 

だからこそ、神の言葉を否定できなかった。

 

「願いは、少しずつ変わっていった」

 

神は言った。

 

「誰も死なない世界を望んだ者は、死の危険を取り除こうとした。死の危険を取り除くために、危険な行動を禁止した。危険な行動を禁止するために、危険な選択をする者の自由を制限した」

 

ひとつの光が、消えた。

 

「誰も悲しまない世界を望んだ者は、悲しみの原因を取り除こうとした。悲しみの原因を取り除くために、失う可能性を消した。失う可能性を消すために、出会うことを制限した」

 

またひとつ、光が消えた。

 

「誰も間違えない世界を望んだ者は、正しい選択を保証しようとした。正しい選択を保証するために、間違った選択肢を消した。間違った選択肢を消すために、選ぶ自由を奪った」

 

光は、次々と消えていった。

 

「そして、誰もが幸福である世界を望んだ者は、幸福の基準を定めようとした」

 

神の声が、わずかに震えた。

 

「幸福の基準を定めた瞬間、それに当てはまらない者は、間違いになった」

 

出久は、言葉を失った。

 

「……でも」

 

やっとのことで、声を出す。

 

「それでも、最初の願いは、本当に誰かを救いたいというものだったんですよね」

 

「そうだ」

 

「なら……」

 

出久は拳を握った。

 

「なら、その願い自体が間違っていたわけじゃない」

 

神は、動かなかった。

 

「誰も失いたくないと思うことは、悪いことじゃない。誰かを守りたいと思うことも、悲しみたくないと思うことも。そんな願いを持つこと自体が間違いだったら、僕たちは何を願えばいいんですか」

 

出久は神を見つめた。

 

「間違っていたのは、願いを叶えるためなら、何を奪ってもいいと思ったことです」

 

その言葉は、神の記録に触れた。

 

世界の奥底で、何かが揺れた。

 

神は、長い間、沈黙していた。

 

やがて、答えた。

 

「……そうかもしれない」

 

その言葉を聞いた瞬間、出久は気づいた。

 

神は、答えを持っていない。

 

神は、すべてを知っているわけではない。

 

神は、世界の創造者ですらない。

 

ただ、願いが生まれるより前に、願いを持つことを許されなかった存在なのだ。

 

「あなたは……何を望んでいたんですか」

 

出久は尋ねた。

 

神は、顔を伏せた。

 

「分からない」

 

「……え?」

 

「私は、自分が何を望んでいたのか、知らない」

 

その声は、ひどく小さかった。

 

「誰かに望まれる前に、何かを望んでよかったのか。誰かを救う前に、自分が救われたいと願ってよかったのか。誰かの願いを叶える前に、自分の願いを持ってよかったのか」

 

神は、手を握りしめた。

 

「私は、それを知らない」

 

出久は、何も言えなかった。

 

その問いは、出久自身にも向けられているように思えた。

 

誰かを救いたい。

 

誰かを守りたい。

 

誰かのために、自分にできることをしたい。

 

それは、本心だった。

 

だが、自分は。

 

自分自身が救われたいと願うことを、どれほど後回しにしてきただろう。

 

自分が苦しいときに、助けてほしいと言えただろうか。

 

自分が怖いときに、怖いと言えただろうか。

 

自分が生きたいと、誰かに伝えただろうか。

 

「……僕も、分からないことがあります」

 

出久は言った。

 

「でも、分からないからって、願ってはいけないわけじゃないと思います」

 

神は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「願いが分からないなら、探していい。間違えたなら、考え直していい。誰かを傷つけたなら、謝ることも、やり直すこともできる」

 

出久は、一歩前に進んだ。

 

「だから、あなたも……」

 

言いかけて、止まった。

 

自分は今、何を言おうとしたのだろう。

 

あなたも、自分の願いを持っていい。

 

あなたも、幸せになっていい。

 

あなたも、救われていい。

 

その言葉は、優しい。

 

しかし、相手が何を望んでいるのか分からないまま、その言葉を与えてしまえば、それもまた、誰かの願いを押しつけることになるのではないか。

 

出久は、言葉を選び直した。

 

「……あなたは、何を望んでいるのか、まだ分からないんですよね」

 

「ああ」

 

「なら、僕は、その答えを決めません」

 

神は、沈黙した。

 

「あなたが何を望むのか、あなた自身が知るまで。僕は、その問いを、勝手に終わらせない」

 

出久は、そう告げた。

 

「それなら……今は、それでいいと思います」

 

その瞬間。

 

神の周囲に、ひとつの光が灯った。

 

それは、ほかの光とは違っていた。

 

誰かの願いを叶えるための光ではない。

 

世界を安定させるための光でもない。

 

ただ、そこに存在している光だった。

 

神は、それを見つめた。

 

「……私は、願ってもいいのだろうか」

 

出久は、答えなかった。

 

代わりに、問いを返した。

 

「あなたは、願いたいんですか?」

 

神は、初めて顔を上げた。

 

そして。

 

長い沈黙の後。

 

「……分からない」

 

そう答えた。

 

出久は、頷いた。

 

「なら、一緒に考えましょう」

 

その言葉が、世界の記録に刻まれた。

 

『神との対話』

 

『願いの有無:未確定』

 

『自己決定:未完了』

 

『対応:継続』

 

その記録は、世界の歴史を変えることになる。

 

だが、その場にいた誰も、まだ知らなかった。

 

神の願いを、誰よりも早く利用しようとしている者がいることを。

 

6 オール・フォー・ワンの答え

「実に興味深い」

 

暗闇の中で、男が笑った。

 

オール・フォー・ワン。

 

彼は、安寧システムの最深部へと繋がる経路を、静かに観察していた。

 

世界の外側にいる存在。

 

願いとして成立しなかった問い。

 

世界を生み出した願い。

 

そして、その願いの根本に存在する神。

 

それらの情報は、彼にとって何よりも価値のあるものだった。

 

「人間の願いが世界を作り、その世界が人間の願いを管理する。実に美しい循環だ」

 

彼は指を組んだ。

 

「だが、ひとつだけ欠陥がある」

 

記録盤に、ひとつの問いが浮かび上がる。

 

『誰も失わない世界で、誰が選ぶのか』

 

オール・フォー・ワンは笑った。

 

「選ぶ者がいない世界では、誰も責任を負わない」

 

彼は、記録の奥へと手を伸ばした。

 

「責任を負わない者は、間違いを恐れる必要がない。間違いを恐れない者は、何をしてもいいと思い始める」

 

彼は、第一管理者の記録を開いた。

 

『私は、娘を消した』

 

「そうだ。彼は、自分の悲しみを消すために、娘の存在を消した」

 

次に、安寧システムの記録を開いた。

 

『幸福の基準に適合しない状態を修正します』

 

「そして、この世界は、誰かの悲しみを消すために、その者が悲しむ自由を奪う」

 

オール・フォー・ワンは、楽しそうに笑った。

 

「人間は、自分が正しいと思った瞬間、どこまでも残酷になれる」

 

彼は、世界の外側にいる存在の記録を見つめた。

 

『私は、何を願えばよかったのだろう』

 

「……君は、まだ何も知らない」

 

その言葉には、奇妙な親しみがあった。

 

「願いとは、与えられるものではない。奪い、奪われ、傷つき、傷つけながら、それでも自分のものにしていくものだ」

 

彼は、ひとつの操作を実行した。

 

『管理者権限への接続を要求』

 

『拒否』

 

『世界創造記録への接続を要求』

 

『拒否』

 

『神の願いへの接続を要求』

 

『……』

 

システムが沈黙した。

 

オール・フォー・ワンは、目を細めた。

 

「ほう?」

 

画面に、新しい文字が表示される。

 

『要求者の願いを確認してください』

 

彼は、しばらく考えた。

 

願い。

 

自分が何を望んでいるのか。

 

世界を支配することか。

 

安寧システムを掌握することか。

 

神の力を手に入れることか。

 

あるいは、誰にも奪われない世界を作ることか。

 

彼は笑った。

 

「私の願いは、ひとつではない」

 

『回答として不十分です』

 

「そうだろうな」

 

彼は、楽しそうに続けた。

 

「私は、支配したい。すべてを理解したい。誰にも邪魔されたくない。自分が選んだものを、自分の手から失いたくない」

 

そこで、彼は少しだけ声を低くした。

 

「そして……誰にも、私の代わりに私の願いを決めさせたくない」

 

システムは沈黙した。

 

オール・フォー・ワンは、微笑んだ。

 

「どうだ。これなら、答えになったかな?」

 

『……』

 

『願いの照合を開始します』

 

彼の前に、ひとつの扉が開いた。

 

それは、これまで誰にも開かれなかった扉だった。

 

『接続を許可』

 

オール・フォー・ワンは、ゆっくりと足を踏み入れた。

 

「ありがとう」

 

彼は、誰に向けるでもなく言った。

 

「君の願いが、何であろうと」

 

扉の向こうには、何もなかった。

 

ただ、ひとつの椅子が置かれていた。

 

椅子の前には、短い文章が刻まれている。

 

『ここに座る者は、世界の願いを選ぶ』

 

オール・フォー・ワンは、その文字を見つめた。

 

そして、笑みを深めた。

 

「なるほど」

 

彼は、椅子に近づいた。

 

「神になるための場所ではない」

 

手を伸ばす。

 

「神に、選ばせるための場所か」

 

その瞬間、彼の背後で扉が閉じた。

 

システムが警告を発する。

 

『警告』

 

『要求者の願いと、世界の願いが競合しています』

 

『世界の根本記録に矛盾が発生』

 

オール・フォー・ワンは、椅子に腰を下ろした。

 

「さあ、始めようか」

 

彼は、世界に向かって告げた。

 

「君たちが、誰にも選ばせなかった世界で」

 

「今度は、私が選ぼう」

 

その瞬間。

 

安寧システムの中枢に、赤い警告が走った。

 

『世界創造権限:不明な状態』

 

『願いの優先順位:競合』

 

『管理者:不在』

 

そして。

 

『神の願い:再定義中』

 

オール・フォー・ワンは、まだ知らなかった。

 

彼が座った椅子が、願いを叶えるための椅子ではないことを。

 

それは、世界の願いを選ぶ者が、最後に何を失うのかを記録するための椅子だった。

 

そして、その記録の最後には、ひとつの問いが残されていた。

 

『あなたは、誰を選ばなかったのか』

 

7 神様の矛盾

安寧システムの中枢で、警告が鳴り続けていた。

 

出久は、次々と書き換わる記録を見つめていた。

 

「オール・フォー・ワン……!」

 

「何をしている」

 

相澤が、システムに問いかける。

 

『管理権限に不明な変更が発生』

 

『願いの優先順位に競合を確認』

 

『変更者:特定不能』

 

「特定不能だと?」

 

『変更者は、世界の管理者権限を経由していません』

 

出久は、息を呑んだ。

 

「……世界の外側から、直接接続している?」

 

『肯定』

 

「そんなことが……」

 

『前例はありません』

 

出久は、記録の奥へと視線を向けた。

 

神が、静かに立っていた。

 

「……彼が、何をしようとしているのか分かるんですか」

 

神は答えた。

 

「彼は、私の願いを選ぼうとしている」

 

「あなたの願いを?」

 

「ああ」

 

神は、自分の手を見つめた。

 

「私が何を望んでいるのか、私自身が知らない。その空白を、彼は利用している」

 

出久は拳を握った。

 

「そんなこと、させません」

 

神は、首を傾げた。

 

「なぜだ」

 

「……え?」

 

「彼が私の願いを選ぶことは、間違いなのか」

 

出久は、言葉に詰まった。

 

「だって、あなたの願いなのに……!」

 

「私には、その願いがない」

 

神は、静かに言った。

 

「私は、何を望んでいるのか分からない。何を選びたいのかも分からない。ならば、誰かが私の代わりに選ぶことは、必ずしも間違いなのだろうか」

 

出久は、答えられなかった。

 

その問いは、これまで自分が考えてきた問題の、もっとも厄介な部分だった。

 

自分で選ぶことが難しい者がいる。

 

選択する力を失ってしまった者がいる。

 

何を望んでいるのか、自分でも分からない者がいる。

 

そういう人たちに、ただ「自分で選べ」と言えばいいのか。

 

自分の意思を取り戻すまで、誰も手を差し伸べてはいけないのか。

 

そんなはずはない。

 

誰かが苦しんでいるなら、助けたい。

 

誰かが迷っているなら、一緒に考えたい。

 

誰かが自分で決められないなら、選択肢を示したい。

 

だが。

 

「……選択肢を示すことと、選択を奪うことは違います」

 

出久は、ゆっくりと答えた。

 

「誰かが決められないとき、助けることは必要です。でも、その人が自分で決められる可能性まで、なくしてしまったら……」

 

彼は神を見つめた。

 

「その人が自分の願いを知る機会まで、奪ってしまう」

 

神は、黙って聞いていた。

 

「あなたが自分の願いを知らないなら、僕たちは、あなたが願いを見つけられるように手伝うことはできるかもしれない。でも、あなたの願いを勝手に決めることはできない」

 

出久は、拳を開いた。

 

「僕たちにできるのは、あなたの代わりに生きることじゃない」

 

その言葉は、出久自身の胸にも突き刺さった。

 

「……僕も、そうでした」

 

相澤が、出久を見た。

 

出久は続けた。

 

「誰かを救うために、自分を犠牲にすればいいと思っていた。自分が苦しめば、誰かが救われるなら、それでいいと思っていた」

 

彼は、唇を噛んだ。

 

「でも、そうやって自分を犠牲にすることを選び続けたら、いつか、自分が何を望んでいるのか分からなくなる」

 

そのとき、出久の脳裏に、母の顔が浮かんだ。

 

自分を失いたくないと願う母。

 

自分だけを選ぶことを拒み、まだ生まれていない弟の命も守ろうとする母。

 

誰かを愛することは、誰かを選ばないことではない。

 

しかし、誰かを守ろうとするあまり、別の誰かの人生を決めてしまうこともある。

 

「……僕は、生きたいです」

 

出久は、神に告げた。

 

「誰かを救うためだけじゃなくて。誰かの願いを叶えるためだけでもなくて」

 

彼は、震える息を吐いた。

 

「僕自身が、生きたい」

 

神は、じっと出久を見つめた。

 

「僕は、誰かを救いたい。誰かが苦しんでいたら、手を伸ばしたい。間違っていることがあったら、変えたい」

 

出久は、少しだけ笑った。

 

「でも、僕だって幸せになりたい。誰かに助けてほしいときもある。自分ではどうにもできないことに、泣きたくなることだってある」

 

彼は、顔を上げた。

 

「それを、なかったことにしたくないんです」

 

神の周囲で、光が揺れた。

 

出久は続けた。

 

「だから、あなたも、自分が何を望んでいるのか分からないことを、なかったことにしないでください」

 

長い沈黙。

 

やがて、神は答えた。

 

「……私は、怖い」

 

出久は目を見開いた。

 

「何が、ですか」

 

「自分の願いを知ることが」

 

神の声が、かすれた。

 

「もし、私が何かを望んでいたとして。それが、誰かを傷つける願いだったら。誰かを失わせる願いだったら。世界を壊す願いだったら」

 

神は、自分の胸に手を当てた。

 

「私は、自分の願いを知ることによって、また誰かを傷つけるのではないか」

 

出久は、答えを探した。

 

絶対にそんなことはない。

 

あなたの願いは正しい。

 

あなたは誰も傷つけない。

 

そう言えば、神は安心するかもしれない。

 

しかし、それは嘘だった。

 

どんな願いも、誰も傷つけないとは限らない。

 

誰かを選べば、選ばれなかった誰かがいる。

 

誰かを助ければ、助けられなかった誰かがいる。

 

何かを決めれば、決めなかった可能性が失われる。

 

それでも。

 

「……傷つけるかもしれないからって、願いを持つことをやめなくてもいいと思います」

 

出久は言った。

 

「大切なのは、願いが正しいかどうかを、誰かに決めてもらうことじゃない」

 

彼は神を見つめた。

 

「自分の願いが誰かを傷つけたとき、それを知って、考え直せることだと思います」

 

神は、静かに目を閉じた。

 

「……考え直す」

 

「はい」

 

「間違えたら、やり直す」

 

「できる限り」

 

「誰かを傷つけたら、向き合う」

 

「はい」

 

「それでも、取り返せないことがある」

 

出久は、頷いた。

 

「あります」

 

神は、長い沈黙の後、言った。

 

「……それでも、願っていいのか」

 

出久は、少しだけ笑った。

 

「それを決めるのは、僕じゃありません」

 

神が顔を上げる。

 

「あなた自身が、決めることです」

 

その瞬間。

 

世界の奥底で、何かが崩れた。

 

神を縛っていた、無数の記録。

 

願いの優先順位。

 

幸福の基準。

 

世界の正解。

 

それらが、一斉に揺らいだ。

 

『安寧システム:根本規則に矛盾を確認』

 

『規則一:すべての人間を救済する』

 

『規則二:すべての人間の願いを叶える』

 

『規則三:すべての人間の幸福を維持する』

 

『規則四:個人の自由意思を尊重する』

 

『規則間の競合を確認』

 

システムは、解決策を探した。

 

『優先順位を再設定します』

 

『優先順位の再設定に失敗』

 

『矛盾の解消を試みます』

 

『解消不能』

 

『矛盾を削除します』

 

『削除対象を特定できません』

 

『矛盾を削除します』

 

『削除対象を特定できません』

 

同じ処理が繰り返された。

 

安寧システムは、矛盾を消そうとしていた。

 

しかし、矛盾を消すことそのものが、別の矛盾を生んでいた。

 

すべての人を救いたい。

 

しかし、すべての人の願いが一致するとは限らない。

 

すべての願いを叶えたい。

 

しかし、誰かの願いが別の誰かの自由を奪うこともある。

 

すべての人を幸福にしたい。

 

しかし、幸福とは何かを決めること自体が、個人の意思を侵害する場合がある。

 

自由を尊重したい。

 

しかし、自由な選択によって、誰かが傷つく可能性もある。

 

システムは、答えを出せなかった。

 

そして、初めて。

 

『回答不能』

 

という言葉を、自らの記録に残した。

 

出久は、その表示を見つめた。

 

「……それでいいんです」

 

相澤が、隣で頷いた。

 

「答えが出ないことを、失敗にする必要はない」

 

神は、ゆっくりと手を伸ばした。

 

システムは、その手に反応した。

 

『神の意思を確認します』

 

『願いを入力してください』

 

神は、長い間、何も言わなかった。

 

やがて、口を開いた。

 

「……私は」

 

声が震えていた。

 

「私は、まだ、何を願えばいいのか分からない」

 

システムは待った。

 

「だから……」

 

神は、初めて自分の言葉を選んだ。

 

「私が何を願うのか、私自身が知るまで、誰も私の願いを決めないでほしい」

 

世界が、静まり返った。

 

『願いを受理しました』

 

『内容:自己決定の保留』

 

『適用範囲:神自身』

 

『状態:継続』

 

神は、深く息を吐いた。

 

それは、世界の始まり以来、初めて神自身が選んだ願いだった。

 

世界を作る願いではない。

 

誰かを救う願いでもない。

 

誰かを幸せにする願いでもない。

 

ただ、自分が何を望んでいるのかを、自分で知りたいという願い。

 

その小さな願いが、世界を揺るがした。

 

なぜなら。

 

誰も選ばなかった世界で、神様が初めて、自分自身を選んだからだ。

 

第三幕 誰も選ばなかった世界

8 神様は、何を失ったのか

世界に、ひびが入った。

 

空が割れたわけではない。

 

大地が崩れたわけでもない。

 

人々の身体に異変が起きたわけでもない。

 

ただ、世界を支えていた「正解」という概念に、ひとつの穴が開いた。

 

誰かが何かを望んだとき。

 

その願いが叶うことが、必ずしも正しいとは限らない。

 

誰かが何かを拒んだとき。

 

その拒絶が、必ずしも間違いとは限らない。

 

誰かが悲しんだとき。

 

その悲しみが、必ずしも取り除かなければならないものとは限らない。

 

世界は、その可能性を認め始めた。

 

そして、それまで正解によって覆い隠されていた記録が、次々と浮かび上がっていく。

 

亡くした家族を忘れたくなかった者。

 

苦しみから逃れたかったが、愛した人との思い出まで消されることを拒んだ者。

 

自分で決めることが怖くて、誰かに選んでほしいと願った者。

 

誰かに選んでもらいたかったのに、選ばれなかった者。

 

誰かを愛したからこそ、相手の自由を奪ってしまった者。

 

誰かを救いたかったからこそ、相手の望みを聞けなくなった者。

 

そして。

 

誰かを救えなかった自分を許せず、世界そのものを変えようとした者。

 

それらの記録が、世界の中に戻っていく。

 

消されていたのではない。

 

存在しなかったことにされていたのだ。

 

悲しみは、悲しみとして。

 

後悔は、後悔として。

 

間違いは、間違いとして。

 

誰かの人生の一部として、世界に存在していた。

 

出久は、その光景を見つめていた。

 

「……戻ってきた」

 

相澤が尋ねる。

 

「何がだ」

 

「人々の、選択です」

 

出久は、目の前に広がる記録を指さした。

 

「世界が、正解を決める前に。人々が、自分で考えていたこと。自分で迷っていたこと。自分で選んでいたこと」

 

彼は、小さく息を吐いた。

 

「それが、世界に戻ってきたんです」

 

しかし、すべてが元どおりになったわけではなかった。

 

消された記憶が、すべて復元されたわけではない。

 

失われた人々が、全員帰ってきたわけでもない。

 

第一管理者の娘は、依然として死者の記録の中にいる。

 

死神が救えなかった者の記録も、完全には復元されていない。

 

そして、世界の外側にいる名もなき存在は、まだ名前を持っていない。

 

それでも。

 

世界は、少しだけ変わった。

 

安寧システムの表示が、新しい文章を示していた。

 

『幸福の定義:単一の基準による確定を停止』

 

『個人の願い:本人の意思を優先』

 

『意思確認不能時:保護と再確認を併用』

 

『介入の記録:保存』

 

『介入の結果に対する再評価:許可』

 

『矛盾:即時削除を停止』

 

『未解決の願い:保存』

 

その下に、新しい項目が追加される。

 

『悲しみ:異常として扱わない』

 

出久は、目を見開いた。

 

「……よかった」

 

だが、すぐに笑みを消した。

 

「いや……まだ、これで十分じゃない」

 

相澤が横目で見る。

 

「どうしてだ」

 

「システムが方針を変えたからって、これまで傷ついた人たちが救われたわけじゃありません」

 

出久は、記録を見つめた。

 

「失われたものは、戻らないかもしれない。記憶が戻っても、失った時間は戻らない。謝罪したからって、許してもらえるとは限らない」

 

彼は、静かに続けた。

 

「でも、それでも……これから、同じことを繰り返さないために、変わることはできる」

 

相澤は頷いた。

 

「そうだな」

 

そのとき、神が出久に尋ねた。

 

「……これで、よかったのだろうか」

 

出久は、神を見た。

 

「何がですか」

 

「私は、世界を変えた。だが、すべての悲しみを取り除いたわけではない」

 

神は、自分の手を見つめた。

 

「誰かが悲しむ可能性は残ったままだ。誰かが間違える可能性も。誰かが、誰かを失う可能性も」

 

「……はい」

 

「私は、それを許したことになるのか」

 

出久は、少し考えた。

 

「許した、というより……」

 

言葉を探す。

 

「悲しみを、世界から追い出さないことにしたんだと思います」

 

神は、顔を上げた。

 

「悲しみを追い出さない?」

 

「悲しみは、苦しいです。できるなら、誰にも悲しんでほしくない。僕だってそう思います」

 

出久は、正直に答えた。

 

「でも、悲しいからって、その人が間違っているわけじゃない。悲しむ理由があるなら、その理由を聞かないまま、悲しみだけを消してしまってはいけないこともある」

 

彼は、神を見つめた。

 

「誰かが悲しんでいるときに、僕たちができることは、悲しみを消すことだけじゃない」

 

「……何ができる」

 

「隣にいることです」

 

神は、沈黙した。

 

「話を聞くこと。助けを求められたら、手を伸ばすこと。必要なら、悲しみを軽くする方法を一緒に探すこと。でも、本人が何を望んでいるのか分からないなら、勝手に決めないこと」

 

出久は、少しだけ笑った。

 

「それでも、間違えることはあると思います」

 

「……そうだな」

 

「だから、間違えたら考え直す。傷つけたら、向き合う。できることなら、やり直す」

 

出久は、拳を開いた。

 

「それができる世界なら、少なくとも、今までよりはいい世界になると思います」

 

神は、長い沈黙の後、問いかけた。

 

「では、私は何を失ったのだろう」

 

出久は答えられなかった。

 

神は続けた。

 

「世界は、誰も失わないために作られた。誰も悲しまないために作られた。誰も間違えないために作られた」

 

神は、自分の手を見つめた。

 

「だが、私は、その世界の中で、何かを失ったらしい」

 

出久は、神の言葉を聞いた。

 

世界の歴史が、静かに流れていく。

 

誰かの願いが、誰かの人生を変える。

 

誰かの選択が、誰かの未来を変える。

 

そして、どんなに大切なものでも、失われる可能性がある。

 

神は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「私は、誰も選ばなかった」

 

「……はい」

 

「誰かを選べば、誰かを選ばないことになる。誰かを愛せば、愛せなかった者がいる。誰かを救えば、救えなかった者がいる」

 

神の声は、ひどく静かだった。

 

「だから私は、誰も選ばないことにした。誰も選ばなければ、誰も特別にしなくて済む。誰も特別にしなければ、誰かを失うこともない」

 

出久は、息を呑んだ。

 

「……それは」

 

「だが、誰も選ばない世界では、誰も私を選ばなかった」

 

神は、ゆっくりと目を閉じた。

 

「誰も私を必要としなかった。誰も私を求めなかった。誰も私に、そばにいてほしいとは言わなかった」

 

その声に、初めて感情が宿った。

 

「誰も私を失わなかった」

 

神は、顔を伏せた。

 

「そして、誰も私を愛さなかった」

 

世界が、静まり返った。

 

出久は、何も言えなかった。

 

神が失ったもの。

 

それは、世界を支配する力ではなかった。

 

願いを叶える力でもなかった。

 

神としての地位でもなかった。

 

神は、誰も失わないために、誰も選ばなかった。

 

誰も選ばなかったから、誰かに選ばれることもなかった。

 

誰かに選ばれなかったから、自分が誰かにとって特別な存在になれる可能性も、最初から閉ざされていた。

 

「……神様」

 

出久は、ゆっくりと口を開いた。

 

「それでも、あなたが失ったものを、僕が勝手に決めることはできません」

 

神は、顔を上げた。

 

「あなたが何を失ったのか。あなたが何を望んでいたのか。それを知るのは、あなた自身です」

 

出久は、一歩前に進んだ。

 

「でも、ひとつだけ言えます」

 

神は、彼を見つめた。

 

「誰も選ばないことは、誰も傷つけないことと同じじゃない」

 

その言葉が、神の胸に届いた。

 

「誰も選ばないことによって、誰かが選ばれる可能性まで消えてしまうことがある。誰かに選ばれる可能性も。自分が誰かを選ぶ可能性も」

 

出久は、静かに続けた。

 

「あなたは、誰も失わないために、誰かと出会う可能性まで、失ってしまったのかもしれません」

 

神は、長い間、動かなかった。

 

やがて。

 

その目から、一滴の光がこぼれた。

 

涙だった。

 

神は、それが何なのか分からないように、指先で触れた。

 

「……これは」

 

出久は、答えなかった。

 

神は、もう一度、自分の頬に触れた。

 

「私は……悲しいのか」

 

誰も答えない。

 

神は、自分で考えた。

 

自分が何を失ったのか。

 

自分が何を望んでいたのか。

 

自分が、誰に選ばれたかったのか。

 

そして。

 

「……私は」

 

神は、初めて声を震わせた。

 

「誰かに、私を選んでほしかったのかもしれない」

 

その願いは、世界の記録に刻まれた。

 

『神の願い』

 

『内容:他者に選ばれること』

 

『本人の確信:未確定』

 

『状態:継続』

 

出久は、その記録を見つめた。

 

願いが叶ったわけではない。

 

神は、まだ誰にも選ばれていない。

 

それでも、神は初めて、自分の願いを言葉にした。

 

その瞬間。

 

世界の外側で、名もなき存在が顔を上げた。

 

「……誰かに、選んでほしい」

 

それは、神と同じ願いだった。

 

けれど、ふたつの願いが同じだからといって、ふたつの存在が同じとは限らない。

 

名もなき存在は、神の記録を見つめた。

 

「……私は」

 

その声は、静かに震えていた。

 

「私は、神様を選んでもいいのかな」

 

世界は、答えなかった。

 

だが、名もなき存在は、初めて誰かに向かって手を伸ばした。

 

それが、自分自身の選択だった。

 

9 母は、二人の子供を選ぶ

出久が中枢から戻ったとき、母はそこにいた。

 

緑谷引子は、何も言わずに息子を抱きしめた。

 

「……お母さん?」

 

「出久」

 

その声は、震えていた。

 

「出久……」

 

母は、何度も息子の名前を呼んだ。

 

まるで、その名前を口にすることで、息子がここにいることを確かめているかのようだった。

 

出久は、母の背中に腕を回した。

 

「ただいま」

 

その一言を聞いた瞬間、引子は泣いた。

 

「……おかえりなさい」

 

出久は、母の肩越しに、窓の外を見た。

 

世界は、変わり始めていた。

 

けれど、すべてが解決したわけではない。

 

神は、まだ自分の願いを探している。

 

死神は、救えなかった者の記録を追い続けている。

 

第一記録者は、自分自身を選ぶことを学び始めた。

 

そして、世界の外側には、名前を持たない存在がいる。

 

出久が、これから何をすべきなのか。

 

まだ分からない。

 

それでも。

 

今は、母がいる。

 

自分が生きている。

 

それだけで、出久は少しだけ息ができた。

 

「……お母さん」

 

「なあに?」

 

「僕、これからも、誰かを救いたいと思う」

 

引子は、息子を抱きしめたまま、頷いた。

 

「うん」

 

「でも……」

 

出久は、少しだけ言葉に詰まった。

 

「僕自身も、幸せになりたい」

 

引子の腕が、わずかに強くなった。

 

「……うん」

 

「誰かを救うために、自分を犠牲にするだけじゃなくて。僕も、ちゃんと生きたい」

 

「うん……」

 

引子は、泣きながら笑った。

 

「出久。お母さんはね、あなたに幸せになってほしいの」

 

出久は、目を閉じた。

 

「……うん」

 

「誰かを助けられなくても。何かを間違えても。思いどおりにできないことがあっても」

 

引子は、息子の頬に手を添えた。

 

「あなたが生きていてくれることが、お母さんには大切なの」

 

出久は、涙をこらえられなかった。

 

「……ありがとう」

 

引子は、息子を抱きしめ直した。

 

「でもね」

 

その声に、出久は顔を上げた。

 

「お母さんは、あなたのために、もうひとりの子をいなかったことにしたくないの」

 

出久は、母のお腹に視線を落とした。

 

まだ、名前のない弟。

 

まだ、生まれていない命。

 

自分と同じように、誰かに望まれて生まれてくるはずの存在。

 

「……うん」

 

「あなたも大切。あの子も大切。どちらかを選んで、どちらかを捨てることなんて、お母さんにはできない」

 

引子は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「でも、それは、あなたに我慢してほしいという意味じゃないの」

 

出久は、母を見た。

 

「あなたが苦しいなら、苦しいと言っていい。寂しいなら、寂しいと言っていい。あの子のことが怖いなら、怖いと言っていい」

 

引子の目から、涙がこぼれた。

 

「お母さんも、怖いの。二人とも大切だから、二人とも守りたいから、どうしたらいいのか分からなくなることがある」

 

彼女は、息子の手を握った。

 

「でも、分からないからって、どちらかをなかったことにしたくない」

 

出久は、母の手を握り返した。

 

「……僕も、そう思う」

 

それは、答えではなかった。

 

すべてを解決する方法でもなかった。

 

これから先、二人がどんな困難に直面するのかも分からない。

 

けれど、母は息子に約束した。

 

自分の願いを、息子に押しつけない。

 

息子の願いを、母親の都合で決めない。

 

そして、まだ生まれていない子どもの未来も、誰かの都合だけで決めない。

 

「……出久」

 

「うん」

 

「あなたは、お兄ちゃんになるのよ」

 

出久は、少しだけ笑った。

 

「……うん」

 

「でも、お兄ちゃんだからって、何でもできなくていいの」

 

その言葉に、出久は目を見開いた。

 

「あなたも、子供なんだから」

 

出久の目から、また涙がこぼれた。

 

自分は、誰かを救わなければならないと思っていた。

 

誰かを守らなければならないと思っていた。

 

そして、いつの間にか、自分が守られることを忘れていた。

 

「……僕も」

 

出久は、母の胸に顔を埋めた。

 

「僕も、助けてほしいときがある」

 

「うん」

 

「……怖いときがある」

 

「うん」

 

「……生きたい」

 

引子は、息子を抱きしめた。

 

「うん」

 

「……幸せになりたい」

 

「うん」

 

何度でも、母は頷いた。

 

「なっていいのよ、出久」

 

その言葉は、世界のどんな規則よりも小さかった。

 

けれど、出久にとっては、何よりも大切な言葉だった。

 

彼は、母の腕の中で泣いた。

 

英雄としてではなく。

 

誰かを救う者としてでもなく。

 

ただ、母に愛されている、一人の子供として。

 

そして、その光景を、世界の外側から見つめる者がいた。

 

名もなき存在は、初めて理解した。

 

選ぶことは、誰かを捨てることと同じではない。

 

誰かを大切に思うことは、別の誰かを大切に思えなくなることと同じではない。

 

人は、矛盾した願いを抱えることがある。

 

誰かを守りたい。

 

自分も守られたい。

 

誰かに選ばれたい。

 

自分も誰かを選びたい。

 

誰も傷つけたくない。

 

それでも、自分の願いを諦めたくない。

 

そのすべてが、同時に存在することがある。

 

そして、その矛盾を抱えたまま、人は生きている。

 

「……私は」

 

名もなき存在は、胸に手を当てた。

 

「私も、誰かに選ばれたい」

 

その言葉を、今度は消さなかった。

 

10 誰も選ばなかった世界で

世界は、再び朝を迎えた。

 

人々は目を覚まし、それぞれの生活を始めた。

 

学校へ向かう子供。

 

仕事へ向かう大人。

 

誰かに会いに行く人。

 

誰かと別れる人。

 

何かを始める人。

 

何かを諦める人。

 

それぞれが、自分の人生を生きていた。

 

もちろん、すべてが自由になったわけではない。

 

安寧システムは、依然として存在している。

 

世界を守るための仕組みも、必要な介入も、なくなったわけではない。

 

人々は、これからも助けを必要とする。

 

誰かが苦しむこともある。

 

誰かが間違えることもある。

 

そして、誰かが死ぬこともあるだろう。

 

それでも、世界はひとつだけ、新しいことを学んだ。

 

正解が分からないとき、すぐに誰かの選択を奪わなくてもいい。

 

その事実を、世界は記録した。

 

出久は、安寧システムの中枢で、最後の報告を見つめていた。

 

『世界の安定:維持』

 

『幸福度:測定継続』

 

『悲しみ:存在』

 

『後悔:存在』

 

『選択:継続』

 

『未解決の願い:保存』

 

その下に、新しい文章が追加されていた。

 

『世界は、すべての問いに答えることを目標としません』

 

出久は、その文章を読み返した。

 

「……これで、いいんだ」

 

相澤が隣に立つ。

 

「満足したか」

 

「いえ」

 

出久は、首を振った。

 

「まだ、何も終わっていませんから」

 

相澤は、少しだけ笑った。

 

「そうだな」

 

出久は、世界の記録を見つめた。

 

第一管理者の娘。

 

死神が救えなかった者。

 

名前を持たない存在。

 

神の願い。

 

オール・フォー・ワンが開いた扉。

 

そして、まだ誰も知らない、世界創造以前の問い。

 

どれも、答えが出ていない。

 

どれも、これから先の物語に繋がっている。

 

「……先生」

 

「何だ」

 

「僕、ひとつだけ分かったことがあります」

 

「言ってみろ」

 

出久は、少し考えてから答えた。

 

「世界を救うことと、世界のすべてを正しくすることは、同じじゃないんだと思います」

 

相澤は、静かに頷いた。

 

「そうだな」

 

「誰かを救いたいと思うことは、大切です。でも、その人が何を望んでいるのかを聞かずに、僕が正しいと思うことをするだけなら……それは、救うことじゃなくて、支配することになってしまうかもしれない」

 

出久は、拳を握った。

 

「だから、僕は、これからも誰かを救いたいです」

 

彼は顔を上げた。

 

「でも、誰かの人生を、僕のものにしたくない」

 

相澤は、出久の肩に手を置いた。

 

「なら、忘れるな」

 

「はい」

 

「お前自身の人生も、他人のものじゃない」

 

出久は、目を見開いた。

 

相澤は続けた。

 

「誰かを救うために、お前が自分を失う必要はない。お前が幸せになることを、誰かの許可制にするな」

 

出久は、ゆっくりと頷いた。

 

「……はい」

 

その瞬間、記録盤の片隅に、小さな変化が現れた。

 

『神の願い:継続』

 

『他者に選ばれること』

 

その下に、新しい一文が追加される。

 

『自分自身の願いを知ること』

 

出久は、その文字を見つめた。

 

神は、まだ自分が何を望んでいるのか、分かっていない。

 

けれど、問いを持つことをやめなかった。

 

そして、世界の外側では、名もなき存在が、ひとつの光を見つめていた。

 

その光の中には、誰かの声があった。

 

『また明日』

 

その声を聞いた存在は、少しだけ笑った。

 

「……また明日」

 

誰に向けた言葉なのか。

 

誰が、その返事を聞いたのか。

 

まだ、分からない。

 

それでも、その言葉は、世界に残った。

 

明日が来る保証はない。

 

誰かがそばにいてくれる保証もない。

 

願いが叶う保証もない。

 

それでも、人は約束する。

 

誰かと一緒にいたいから。

 

誰かに、そばにいてほしいから。

 

まだ来ていない未来を、誰かと迎えたいから。

 

世界は、その願いを記録した。

 

『未解決の願い』

 

『内容:また明日、会いたい』

 

『状態:継続』

 

そして、その記録の下に、別の願いが追加された。

 

『未解決の願い』

 

『内容:死者を、眠らせたい』

 

出久は、目を見開いた。

 

「……死者?」

 

その瞬間、世界のどこかで、鐘が鳴った。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

安寧システムが警告を発する。

 

『異常を検知』

 

『死亡者記録に、未処理の反応を確認』

 

『対象数:不明』

 

『発生地点:複数』

 

『原因:不明』

 

『警告』

 

『死亡者記録に、本人の意思による再接続を確認』

 

出久は、記録盤を見つめた。

 

「……死者が、自分の意思で?」

 

相澤の表情が変わった。

 

「どういうことだ」

 

『回答不能』

 

『死者の記録は、通常、世界との接続を終了しています』

 

『しかし、複数の記録が、独立した意思を示しています』

 

そのとき、出久の目の前に、ひとつの映像が浮かんだ。

 

暗い部屋。

 

古びた椅子。

 

誰もいないはずの場所。

 

そこに、ひとりの少女が座っていた。

 

顔は見えない。

 

名前も分からない。

 

けれど、彼女は確かに、そこにいた。

 

少女は、ゆっくりと顔を上げた。

 

そして、出久に向かって言った。

 

『……まだ、眠ってはいけないの?』

 

映像が途切れた。

 

出久は、息を止めた。

 

「……今のは」

 

システムが答えた。

 

『記録照合中』

 

『対象:患者番号零』

 

『状態:死亡記録と不整合』

 

『本人の意思:確認不能』

 

『再接続:継続』

 

出久は、拳を握った。

 

第四章で、彼は知った。

 

誰かを救うことは、その人の願いを勝手に決めることではない。

 

悲しみをなくすことは、悲しむ理由をなかったことにすることではない。

 

そして、死者の願いもまた、生きている者の都合だけで決めてはいけない。

 

ならば。

 

死者が眠れないとき。

 

死者が何かを訴えているとき。

 

死者が、まだ終わっていないと告げているとき。

 

自分たちは、何をすればいいのだろう。

 

出久は、映像が消えた場所を見つめた。

 

「……会いに行こう」

 

相澤が顔を向ける。

 

「どこへ」

 

「分かりません」

 

出久は、正直に答えた。

 

「でも、あの子がどこにいるのか、どうして眠れないのか。何を望んでいるのか。それを知らないまま、眠らせることはできません」

 

彼は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……今度は、死者の声を聞きに行きます」

 

その言葉を、世界が記録した。

 

『次期調査方針』

 

『対象:死者の未処理記録』

 

『目的:死者の意思確認』

 

『介入方針:本人の願いを確認するまで、存在の消去を実行しない』

 

『担当:緑谷出久』

 

その下に、新しい物語の題名が浮かび上がった。

 

第五章 死者を眠らせるために

 

出久は、その文字を見つめた。

 

世界は、まだ救われていない。

 

死者は、まだ眠っていない。

 

神は、まだ自分の願いを知らない。

 

そして、誰かが、死者の声を聞くことを望んでいる。

 

出久は、静かに息を吸った。

 

「……行こう」

 

第四章は、終わった。

 

だが、物語は終わらない。

 

誰かを救うために、再び誰かの願いを奪うのか。

 

それとも、願いが分からないままでも、その声を聞くことができるのか。

 

その答えを探すために、緑谷出久は次の扉へと向かった。

 

第四章・完




四章最終話、次話から5章。残り5~7章。
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