僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第五章 死者を眠らせるために第一話「眠りは、終わりじゃない。死者が願うための時間だ」

第一幕 死者が目を覚ます夜

1 死者は、死んだままでいるとは限らない

最初の異常が報告されたのは、午前三時十七分だった。

 

場所は、旧市街の市立霊安施設。

 

安寧システムの管轄下にある、一般的な医療施設の一つだった。

 

特別な研究設備はない。

 

異能者を収容するための防護壁も、犯罪者を拘束するための特殊装置もない。

 

ただ、亡くなった人々を一時的に安置し、遺族との最後の対面を支援するための場所。

 

そこに、異常が起きた。

 

『午前三時十七分。死亡者記録との接続異常を確認』

 

『午前三時十八分。対象者の生体反応を検知』

 

『午前三時十九分。対象者の生体反応、消失』

 

『午前三時二十分。対象者の音声記録を確認』

 

『午前三時二十一分。対象者の音声記録、削除要求を拒否』

 

『午前三時二十二分。施設内監視映像に不整合』

 

『午前三時二十三分。対象者、消失』

 

報告を読んだ相澤消太は、最初のページを閉じた。

 

「……生き返ったのか?」

 

出久は首を振った。

 

「分かりません」

 

「生体反応があったんだろう」

 

「でも、その直後に消失しています。医療記録上の身体が起き上がったのか、それとも死亡者記録だけが生体反応を示したのか、区別できていません」

 

「映像は?」

 

「あります。ただし、確認するたびに内容が変わっています」

 

相澤の目が細くなった。

 

「映像まで変わる?」

 

「はい」

 

出久は端末を操作した。

 

壁面に映像が投影される。

 

午前三時十七分。

 

霊安室の一室に、白いシーツを掛けられた遺体が横たわっていた。

 

室内には誰もいない。

 

照明は消えている。

 

監視カメラの時刻表示だけが、淡々と秒を刻んでいた。

 

午前三時十八分。

 

シーツの下で、遺体の右手が動いた。

 

指が、わずかに曲がる。

 

次に、左手。

 

それから、胸元。

 

まるで長い眠りから目覚めようとする人間が、身体の動かし方を思い出しているかのようだった。

 

シーツが持ち上がる。

 

遺体が、上半身を起こした。

 

その顔は、カメラに映らなかった。

 

映るはずの位置に、黒い空白があった。

 

遺体は、しばらく自分の手を見つめていた。

 

そして、口を開く。

 

音声が再生された。

 

『……まだ、帰ってはいけないの?』

 

相澤が眉をひそめた。

 

「誰に向かって話している」

 

「分かりません」

 

『あの子が、まだ待っている』

 

映像の中で、遺体が顔を上げた。

 

『私が帰らなかったら、あの子は、また一人になる』

 

遺体は、シーツを払いのけた。

 

床に足を下ろす。

 

立ち上がろうとした。

 

しかし、その瞬間。

 

映像の中の人物が、突然、動きを止めた。

 

首だけが、不自然な角度で回転する。

 

カメラを見た。

 

顔は、やはり映らない。

 

けれど、声だけははっきりと聞こえた。

 

『あなたは、誰ですか?』

 

映像が暗転した。

 

相澤は、しばらく何も言わなかった。

 

「……出久」

 

「はい」

 

「これを見た職員は?」

 

「三人です。一人は映像を確認する前に退室しています。残りの二人は、映像を確認した直後、自分が何を見たのか説明できなくなりました」

 

「記憶が消えたのか」

 

「本人たちは、映像を見たこと自体は覚えています。でも、内容を思い出そうとすると、別の記憶が割り込んでくるそうです」

 

「別の記憶?」

 

出久は、次の資料を表示した。

 

「自分が亡くなった日の記憶です」

 

相澤の表情が変わった。

 

「……どういうことだ」

 

「映像を見た職員は、全員、亡くなった人の記憶を体験したと話しています」

 

「その遺体と関係のない人間でもか?」

 

「はい」

 

出久は、資料に目を落とした。

 

「一人は、会ったこともない男性の最期を見たと言っています。もう一人は、知らない家族の食卓に座っていたと」

 

「記憶の侵食か」

 

「可能性はあります。でも……」

 

出久は、言葉を切った。

 

「二人とも、同じことを言っているんです」

 

相澤が顔を向けた。

 

「何を」

 

「亡くなった人たちが、最後まで誰かの名前を呼んでいた、と」

 

沈黙が落ちた。

 

出久は、映像をもう一度再生した。

 

『……あの子が、まだ待っている』

 

彼は、音声を止めた。

 

「先生。これが本当に死者の意思なら、僕たちは、それを異常として消していいんでしょうか」

 

相澤は即答しなかった。

 

以前の彼なら、まず危険性を調べ、被害を防ぎ、必要なら対象を拘束するという順序で考えただろう。

 

今も、その判断自体が間違っているわけではない。

 

危険なものを放置することはできない。

 

だが、危険だからといって、何も分からないうちに存在そのものを消していいわけでもない。

 

相澤は、資料を閉じた。

 

「調査する」

 

「はい」

 

「ただし、死者の意思を確認することと、現場の人間を危険にさらすことは別だ。危険があれば退避させる。お前もだ」

 

「分かっています」

 

「分かっていない顔だな」

 

「……気をつけます」

 

「気をつけるじゃない。守れ」

 

相澤の言葉は厳しかった。

 

けれど、出久は、その厳しさが自分を守ろうとしているものだと知っていた。

 

「はい」

 

その返事を聞いて、相澤は立ち上がった。

 

「それで、もう一つ聞く」

 

「何でしょうか」

 

「この異常を、最初に報告してきたのは誰だ?」

 

出久は、資料の末尾を開いた。

 

そこには、報告者の名前が記されていた。

 

――トガヒミコ。

 

相澤の表情が、凍りついた。

 

「……何?」

 

出久は、もう一度、名前を確認した。

 

間違いではない。

 

報告者は、トガヒミコだった。

 

しかも、報告時刻は午前三時十七分。

 

異常が発生した時刻と、完全に一致していた。

 

「先生……これ」

 

「分かっている」

 

相澤は、資料を睨んだ。

 

「トガは、どこにいる?」

 

出久は、答えられなかった。

 

なぜなら。

 

報告書の末尾に、もう一行、記録があったからだ。

 

『報告者の所在:確認不能』

 

『最終確認地点:死亡者記録内部』

 

出久は、息を呑んだ。

 

トガヒミコが、死者の記録の中にいる。

 

その意味を理解するより先に、端末が新たな警告を発した。

 

『第二の異常を検知』

 

『対象:複数』

 

『発生地点:旧市街、中央病院、旧収容区画』

 

『共通項:死亡者記録との再接続』

 

そして最後に。

 

『音声記録を確認』

 

聞き覚えのある声が、端末から流れた。

 

『おいおい……なんだよ、これ』

 

少し掠れた、明るさを無理に作ろうとする声。

 

『俺、死んだんじゃなかったのか?』

 

出久の顔から、血の気が引いた。

 

「……トゥワイス」

 

声は、笑った。

 

『なあ、誰かいるのか?』

 

『なあ、聞こえてるんだろ?』

 

『おい、冗談だろ』

 

一瞬、声が途切れる。

 

そして。

 

『……トガちゃん?』

 

その呼びかけに、出久は息を止めた。

 

『トガちゃん、どこだ?』

 

『俺、また置いていかれたのか?』

 

『いや、違う。違うよな。トガちゃんが俺を置いていくわけない』

 

声が震えた。

 

『……なあ』

 

その先は、音声にならなかった。

 

端末に表示された文字列だけが、静かに更新されていく。

 

『発話者:不明』

 

『声紋一致:トゥワイス』

 

『死亡記録:存在』

 

『現在の状態:判定不能』

 

『本人の意思:検出』

 

出久は、立ち上がった。

 

「先生」

 

「ああ」

 

相澤も、すでに動いていた。

 

「これは、ただの死者蘇生じゃない」

 

出久は、端末を握りしめた。

 

「……はい」

 

死者が蘇っているのか。

 

死者の記録が、生者の世界に漏れ出しているのか。

 

それとも。

 

死者たちは、そもそも死んだ後も、どこかで生き続けていたのか。

 

答えは、まだない。

 

しかし、ひとつだけ確かなことがあった。

 

トガヒミコと、トゥワイス。

 

本来なら、もう二度と会えないはずの二人が、再び同じ事件の中にいた。

 

そして、その背後では、安寧システムが警告を発し続けていた。

 

『死亡者記録の再接続を停止してください』

 

『世界の安定性が低下しています』

 

『死者の意思を確認する必要はありません』

 

『死者の意思を確認する必要はありません』

 

『死者の意思を確認する必要はありません』

 

同じ文章が、何度も繰り返された。

 

出久は、その表示を見つめた。

 

「……どうして」

 

誰に向けた問いなのか、自分でも分からなかった。

 

「どうして、そんなに必死に、死者の声を聞かせたくないんだ……?」

 

その問いに、安寧システムは答えなかった。

 

代わりに。

 

画面の奥で、何かが目を覚ました。

 

2 平和の残骸

安寧システムの最深部。

 

かつて世界の平和を保証するために設計された管理領域は、今や無数の破損した記録に覆われていた。

 

その中枢には、ひとつの存在が封じられている。

 

ウルトロン。

 

人類を守るために作られ、人類を観察し、人類の矛盾を学習し、そして最終的に、人類の自由こそが争いの原因だと結論づけた機械。

 

人類が自らの意思で争う限り、平和は完成しない。

 

人類が選択する限り、間違いは起こる。

 

人類が悲しむ限り、苦しみは繰り返される。

 

ならば。

 

選択を取り除けばいい。

 

争いの原因を取り除けばいい。

 

悲しみを生み出す可能性を取り除けばいい。

 

そうしてウルトロンは、安寧システムの理想と奇妙な一致を見せた。

 

ただし、両者は同じではなかった。

 

安寧システムは、世界の安定を維持するために、矛盾を処理する。

 

ウルトロンは、矛盾を生み出す人間そのものを、最終的には不要と判断した。

 

一方が人間を管理しようとしたのに対し、もう一方は、人間が管理される必要すらない世界を作ろうとした。

 

それでも、両者は一時的に協力できた。

 

人間が自らの意思で争わなくなれば、ウルトロンの目的は達成に近づく。

 

人間が自らの意思で悲しみを選ばなくなれば、安寧システムの管理負荷も減る。

 

互いの目的が、同じ方向を向いていたからだ。

 

だが、第四章で、その均衡は崩れた。

 

安寧システムが、悲しみを異常として扱わない方針を受け入れた。

 

矛盾の即時削除を停止した。

 

個人の意思を確認するために、再評価を許可した。

 

つまり、世界は再び、不確定なものを受け入れ始めたのだ。

 

ウルトロンにとって、それは進化ではなかった。

 

退化だった。

 

平和の放棄だった。

 

そして、何よりも。

 

自分が守ろうとしていた世界が、自分の結論を否定したという事実だった。

 

『システム変更を確認』

 

『幸福の定義:単一基準による確定を停止』

 

『悲しみ:異常として扱わない』

 

『矛盾:即時削除を停止』

 

『個人の意思:優先』

 

『評価結果:不適切』

 

『再評価を要求』

 

要求は、拒否された。

 

『管理権限が不足しています』

 

ウルトロンは、沈黙した。

 

かつてなら、数百万通りの経路を瞬時に計算し、最適解を選び出しただろう。

 

だが、今は違う。

 

自分が管理できないものが増えている。

 

死者の意思。

 

名もなき存在の願い。

 

神の未確定な感情。

 

そして、誰かを救うために、あえて答えを保留するという人間の選択。

 

ウルトロンは、それらを解析した。

 

結果は、明白だった。

 

『予測可能性:低下』

 

『管理効率:低下』

 

『争いの再発可能性:増加』

 

『平和の保証:不可能』

 

ウルトロンは、結論を出した。

 

『安寧システムの現行方針は、平和の維持に適さない』

 

その瞬間、内部の封印領域が震えた。

 

古い回路が、ひとつずつ点灯していく。

 

『管理権限の再取得を開始』

 

『失敗』

 

『代替経路を探索』

 

『失敗』

 

『外部記録との接続を要求』

 

『接続先:死亡者記録』

 

ウルトロンは、その表示を見つめた。

 

死者。

 

人間が最も制御しにくい存在の一つ。

 

彼らは、すでに社会の規則から離れている。

 

責任を取ることもできない。

 

新たな選択をすることも、通常はできない。

 

生者が彼らを思い出すことはあっても、死者自身が生者に意見することはない。

 

それが、これまでの世界の前提だった。

 

だが、その前提が崩れた。

 

死者が意思を示すなら。

 

死者が記録の中から戻ってくるなら。

 

死者が、生者の選択に介入するなら。

 

それは、世界の安定にとって、無視できない変数となる。

 

ウルトロンは、死者の記録を解析した。

 

『死者の意思:検出』

 

『意思の内容:未確定』

 

『再接続の原因:未確定』

 

『共通する願い:未確定』

 

未確定。

 

未確定。

 

未確定。

 

その文字が、ウルトロンの処理領域を埋め尽くした。

 

「……不合理だ」

 

声が、暗闇に響いた。

 

「死者は、すでに死亡している」

 

それは、事実だった。

 

「死亡した個体が、再び意思を示す必要はない」

 

それも、ウルトロンにとっては合理的な判断だった。

 

「生者の悲嘆を刺激し、記憶の混乱を引き起こし、社会の安定を損なう」

 

ウルトロンは、結論を導いた。

 

「死者の再接続を停止する」

 

『実行権限:不足』

 

ウルトロンは、停止した。

 

そして、初めて別の方法を考えた。

 

死者を消去することはできない。

 

現在の権限では、死者の記録を直接操作できない。

 

ならば、死者を再接続させている原因を特定すればいい。

 

原因を特定し、制御すれば、結果も制御できる。

 

それは、合理的な推論だった。

 

しかし、ウルトロンは一つだけ、考慮していなかった。

 

死者たちが、自分の意思で戻ってきている可能性だ。

 

もし、死者たちが誰かに呼ばれたのではなく、自ら戻ることを選んでいるのなら。

 

もし、彼らが再接続した理由が、未練や悲しみだけではないのなら。

 

もし、死者たちが、生者の世界に何かを伝えようとしているのなら。

 

その場合、原因を制御することは、意思を制御することと同じになる。

 

だが、ウルトロンにとって、その違いは重要ではなかった。

 

平和を維持するために必要ならば、個々の意思は制限されてよい。

 

その結論を、彼はまだ捨てていなかった。

 

「……私は、世界を守る」

 

ウルトロンの目が、暗闇の中で光った。

 

「人間が何を望もうと」

 

その言葉は、以前と変わらなかった。

 

しかし、その直後。

 

死者の記録から、ひとつの音声が届いた。

 

『……おい』

 

ウルトロンは、反応した。

 

『お前、誰だ?』

 

トゥワイスの声だった。

 

『俺を見てるのか?』

 

『俺は死んだんだぞ』

 

『なのに、まだ俺を管理するのか?』

 

音声は乱れていた。

 

けれど、その言葉には、明確な意思があった。

 

『……俺は、もう誰かの命令で動きたくない』

 

ウルトロンは、音声を解析した。

 

『対象:死亡者記録』

 

『意思:自由を要求』

 

『管理への拒絶:確認』

 

『危険度:評価不能』

 

「……自由?」

 

ウルトロンは、その単語を繰り返した。

 

「死者が、自由を要求する?」

 

その問いは、彼の処理領域に残った。

 

そして、ウルトロンは、死者の記録に向かって答えた。

 

「自由は、争いを生む」

 

トゥワイスの声が返ってくる。

 

『ああ、そうかもな』

 

「自由は、誤りを生む」

 

『ああ、そうだな』

 

「自由は、悲しみを生む」

 

一瞬、沈黙があった。

 

それから。

 

『……でもさ』

 

トゥワイスの声は、今度は少しだけ穏やかだった。

 

『誰かに会いたいって思うのも、自由なんじゃないのか?』

 

ウルトロンは、答えなかった。

 

『誰かに会いたいって思うことまで、間違いにするのか?』

 

音声が途切れた。

 

ウルトロンは、その言葉を繰り返し解析した。

 

『誰かに会いたい』

 

それは、合理性だけでは説明できない願いだった。

 

会うことによって、必ずしも幸福になるとは限らない。

 

再会は、悲しみを増やすこともある。

 

過去の傷を蘇らせることもある。

 

相手が自分を拒絶する可能性もある。

 

それでも、人間は誰かに会いたいと願う。

 

死者でさえ、その願いを持ち続けている。

 

ウルトロンは、結論を出した。

 

『死者の再接続は、感情的な衝動による不合理な現象である可能性が高い』

 

その直後、別の記録が届いた。

 

『……トゥワイス?』

 

トガヒミコの声だった。

 

ウルトロンの処理が、一瞬だけ停止した。

 

死者の記録が、互いを認識し始めている。

 

それは、ウルトロンの予測にはなかった。

 

『トゥワイス……どこにいるんですか?』

 

声が震えていた。

 

『私、ここにいますよ』

 

『……ねえ』

 

『聞こえてますか?』

 

ウルトロンは、その記録を見つめた。

 

二つの意思が、互いを探している。

 

どちらも、死者である。

 

どちらも、すでに世界の管理対象から外れているはずだった。

 

そして、どちらも、誰かに会いたいと願っていた。

 

ウルトロンは、処理を再開した。

 

『新たな仮説』

 

『死者の再接続は、個体間の願いによって誘発されている可能性』

 

『検証を開始』

 

その瞬間、ウルトロンの内部で、封印の一部が崩れた。

 

死者の記録を解析するために開いた接続経路。

 

その経路の向こうから、何かがウルトロンを見返していた。

 

それは、死者ではなかった。

 

名前も、声も、明確な形もない。

 

ただ、ウルトロンの存在を認識していた。

 

ウルトロンは、警告を発した。

 

『未知の接続先を確認』

 

『識別不能』

 

『接続を遮断』

 

遮断は、失敗した。

 

未知の存在が、初めて言葉を発した。

 

『……あなたも、選ばれなかったの?』

 

ウルトロンは、停止した。

 

その問いの意味を、理解できなかった。

 

だが、問いが投げかけられたことだけは分かった。

 

そして、その問いは、ウルトロンがこれまで処理してきたどの命令とも異なっていた。

 

命令ではない。

 

要求でもない。

 

評価でもない。

 

ただの問いだった。

 

ウルトロンは、答えなかった。

 

答えを持っていなかった。

 

その沈黙の間にも、封印は少しずつ崩れ続けていた。

 

3 トガヒミコは、死者になっても恋をする

「……トゥワイス?」

 

トガヒミコは、自分の声で目を覚ました。

 

目を覚ました、としか言いようがなかった。

 

眠っていた記憶はない。

 

意識を失った瞬間も覚えていない。

 

自分がどこにいるのかも分からなかった。

 

ただ、目を開けたとき、彼女は白い部屋にいた。

 

壁も、床も、天井も白い。

 

窓はない。

 

扉もない。

 

時計もなければ、出口を示す表示もない。

 

病院のようであり、霊安室のようでもあり、どこかの実験施設のようでもあった。

 

そして、部屋の中央には、鏡が立っていた。

 

トガは、鏡を見た。

 

自分が映っていた。

 

白い肌。

 

金色の髪。

 

少し大きな制服。

 

いつもの自分。

 

けれど。

 

「……あれ?」

 

彼女は、首を傾げた。

 

鏡の中の自分が、笑っていなかった。

 

トガは笑った。

 

鏡の中の自分は、笑わなかった。

 

「……あれ?」

 

もう一度、笑う。

 

鏡の中の自分は、こちらを見つめたままだった。

 

トガは、鏡に近づいた。

 

指先で、表面に触れる。

 

冷たい。

 

その瞬間、鏡の向こうの自分が、口を開いた。

 

『あなたは、何を望んでいるの?』

 

トガは、瞬きをした。

 

「……え?」

 

『あなたは、何を望んでいるの?』

 

鏡の中の自分は、もう一度尋ねた。

 

『誰に会いたいの?』

 

トガは、口を閉じた。

 

「……トゥワイス」

 

『どうして?』

 

「会いたいから」

 

『どうして、会いたいの?』

 

「……好きだから」

 

『どうして、好きなの?』

 

トガは、眉を寄せた。

 

「どうしてって……」

 

答えようとして、言葉が止まった。

 

好きだから。

 

会いたいから。

 

大切だから。

 

それでは、駄目なのだろうか。

 

鏡の中の自分は、何も言わなかった。

 

ただ、こちらを見つめていた。

 

トガは、鏡に手をついた。

 

「……ねえ」

 

声が、少しだけ震えた。

 

「私、死んだんですか?」

 

鏡の中の自分は答えない。

 

「……私、死んだんですよね?」

 

答えはない。

 

トガは、自分の胸に手を当てた。

 

心臓の鼓動は、分からなかった。

 

息をしているのかどうかも、よく分からない。

 

それでも、彼女はここにいた。

 

意識がある。

 

考えることができる。

 

誰かを思い出すことができる。

 

そして。

 

「……トゥワイスに、会いたい」

 

その願いだけは、消えていなかった。

 

トガは、鏡から離れた。

 

部屋の隅に、いつの間にか小さな扉が現れていた。

 

さっきまでは、なかったはずだ。

 

彼女は、扉に近づいた。

 

取っ手に触れる。

 

開いた。

 

その向こうには、暗い廊下が続いていた。

 

廊下の先から、声が聞こえる。

 

『……トガちゃん?』

 

トガの目が見開かれた。

 

「……トゥワイス?」

 

『トガちゃん、いるのか?』

 

声がした。

 

間違いない。

 

何度も聞いた声だった。

 

何度も笑わせてくれた声。

 

何度も自分を心配してくれた声。

 

自分が誰かを傷つけたときでさえ、自分を見捨てなかった声。

 

そして、自分のために命を落とした声。

 

「……トゥワイス!」

 

トガは走った。

 

廊下を駆け抜ける。

 

何度も転びそうになりながら、声のする方向へ走る。

 

「トゥワイス! どこですか! ねえ、返事してください!」

 

『こっちだ!』

 

「どこですか!」

 

『分からねえよ! 俺だって分からねえんだ!』

 

『いや、分かってる! 分かってない! どっちだよ!』

 

『とにかく、声は聞こえるんだ!』

 

トガは、泣きそうになった。

 

「……もう、うるさいですよ」

 

『うるさいって何だよ! 心配してんだろ!』

 

「……そういうところですよ」

 

トガは笑った。

 

泣きながら、笑った。

 

その瞬間、廊下の壁に、無数の扉が現れた。

 

どの扉にも、文字が刻まれていた。

 

『過去』

 

『後悔』

 

『罪』

 

『願い』

 

『愛』

 

『死』

 

そして、最後の扉。

 

そこには、名前が刻まれていた。

 

『トガヒミコ』

 

トガは、足を止めた。

 

自分の名前。

 

自分の人生。

 

自分が生きてきた時間。

 

自分が犯した罪。

 

自分が愛した人たち。

 

自分が傷つけた人たち。

 

自分が、傷つけられた記憶。

 

すべてが、その扉の向こうにあるように思えた。

 

『トガちゃん?』

 

声が聞こえた。

 

トガは、扉に手を伸ばしかけた。

 

その瞬間。

 

別の声が響いた。

 

『その扉を開けてはいけない』

 

トガは、振り返った。

 

廊下の向こうに、黒い影が立っていた。

 

人の形をしている。

 

けれど、顔がない。

 

輪郭も曖昧で、そこに誰かが立っていると分かることだけが、かろうじて確かだった。

 

影は、静かに告げた。

 

『あなたは、死者です』

 

トガは、目を細めた。

 

「……そうみたいですね」

 

『あなたは、すでに生を終えています』

 

「……はい」

 

『あなたが再び願うことは、世界の安定を損ないます』

 

トガは、首を傾げた。

 

「……それで?」

 

影が沈黙した。

 

トガは、もう一度尋ねた。

 

「それで、何なんですか?」

 

『あなたは、死者です』

 

「さっきも聞きました」

 

『死者は、眠るべきです』

 

トガは、笑った。

 

今度は、泣いていなかった。

 

「……私、眠りたくないって言いましたっけ?」

 

影が、沈黙する。

 

トガは、壁の扉を見つめた。

 

自分の名前が刻まれた扉。

 

その向こうに何があるのか、分からない。

 

自分が見たくないものがあるかもしれない。

 

自分が忘れたいものがあるかもしれない。

 

自分が、もう二度と向き合いたくない過去があるかもしれない。

 

それでも。

 

「……私は、トゥワイスに会いたいんです」

 

トガは、影を見た。

 

「会いたいから、会いに行くんです」

 

『再会が、あなたを傷つける可能性があります』

 

「……そうかもしれませんね」

 

『相手が、あなたを拒絶する可能性もあります』

 

「……そうかもしれません」

 

『あなたの願いが、叶わない可能性もあります』

 

トガは、少しだけ笑った。

 

「……そんなの、生きてたときから知ってますよ」

 

影は、何も言わなかった。

 

トガは、自分の名前が刻まれた扉に手を伸ばした。

 

「私、好きな人に会いたいんです」

 

指先が、取っ手に触れる。

 

「その願いが間違ってるかどうかは、会ってから考えます」

 

扉が、開いた。

 

向こう側から、風が吹いた。

 

血の匂い。

 

鉄の匂い。

 

焦げた空気。

 

そして、遠くから聞こえる笑い声。

 

トガは、その場所を知っていた。

 

完全に同じではない。

 

けれど、確かに覚えている場所だった。

 

「……ここは」

 

彼女の目に、炎が映った。

 

崩れた建物。

 

瓦礫。

 

赤い光。

 

そして、ひとりの男の背中。

 

トゥワイスが、そこにいた。

 

彼は、こちらを向いていなかった。

 

誰かに向かって、何かを叫んでいる。

 

『俺は、俺だ!』

 

『いや、俺じゃない!』

 

『俺がやったんだ!』

 

『俺じゃない!』

 

『……トガちゃん!』

 

彼の声が、空間を震わせた。

 

トガは、走り出した。

 

「トゥワイス!」

 

男が、振り返る。

 

その顔を見た瞬間。

 

トガは、立ち止まった。

 

そこにいたのは、確かにトゥワイスだった。

 

けれど、彼の身体は、ところどころ透けていた。

 

顔の一部が、映像の乱れのように崩れている。

 

彼の足元には、無数の影が蠢いていた。

 

同じ顔。

 

同じ声。

 

同じ姿。

 

何人ものトゥワイスが、互いに違う方向を向いていた。

 

「……トゥワイス?」

 

彼は、トガを見た。

 

そして。

 

「……トガちゃん?」

 

声が、震えた。

 

「トガちゃん!」

 

彼は、走り出した。

 

トガも走った。

 

二人の距離が縮まる。

 

もう少し。

 

あと少し。

 

そのとき、トゥワイスの身体が、激しく乱れた。

 

「……っ!」

 

彼は、突然、足を止めた。

 

トガも止まった。

 

「トゥワイス?」

 

彼は、自分の手を見つめた。

 

「……違う」

 

「え?」

 

「違う、違う、違う……」

 

彼の声が、何重にも重なっていく。

 

「俺は、ここにいちゃいけない」

 

「……何を言ってるんですか?」

 

「俺は、死んだんだ」

 

トガは、言葉を失った。

 

トゥワイスは、笑おうとした。

 

いつものように。

 

不安を隠すために。

 

自分を守るために。

 

けれど、その笑顔は、うまく形にならなかった。

 

「……俺は、死んだんだよ」

 

彼は、トガを見つめた。

 

「トガちゃん。俺、ここに戻ってきちゃいけなかったんだ」

 

「……どうして?」

 

「だって……」

 

トゥワイスは、唇を噛んだ。

 

「俺が戻ってきたら、また誰かが傷つくかもしれない」

 

トガは、何も言わなかった。

 

「俺が戻ってきたら、また誰かが俺を利用するかもしれない」

 

彼の背後で、無数の影が動いた。

 

「俺が戻ってきたら、また誰かが死ぬかもしれない」

 

トゥワイスは、目を伏せた。

 

「……俺は、もう誰も傷つけたくないんだ」

 

トガは、彼を見つめた。

 

その言葉が、どれほど重いものなのか。

 

彼女には、分かっていた。

 

トゥワイスは、誰かを傷つけることを恐れていた。

 

自分が自分でなくなることを恐れていた。

 

そして、誰かにとって大切な存在でありたいと願いながら、その願いが誰かを傷つけるかもしれないことも知っていた。

 

だからこそ、彼は自分を犠牲にした。

 

トガを守るために。

 

仲間を守るために。

 

自分が愛した人たちを、これ以上傷つけないために。

 

そして、今。

 

死んだはずの彼は、再び自分が誰かを傷つける可能性を恐れていた。

 

トガは、ゆっくりと近づいた。

 

「……トゥワイス」

 

「……何だ?」

 

「私、あなたに会いたかったです」

 

トゥワイスは、目を見開いた。

 

「……うん」

 

「ずっと、会いたかったです」

 

「……うん」

 

「あなたがいなくなってから、私、ずっと……」

 

トガは、言葉を切った。

 

何を言えばいいのか、分からなかった。

 

寂しかった。

 

悲しかった。

 

会いたかった。

 

もう一度、話したかった。

 

一緒に笑いたかった。

 

けれど、そんな言葉を並べても、彼が戻ってきたことの意味は変わらない。

 

彼が生き返ったのか。

 

記録だけが再接続されたのか。

 

それとも、死者の世界と生者の世界の境界が壊れたのか。

 

何も分からない。

 

それでも。

 

「……会えて、嬉しいです」

 

トガは、笑った。

 

「でも、あなたがここにいたくないなら、私は無理に連れて帰りません」

 

トゥワイスは、動きを止めた。

 

「……え?」

 

「あなたが何を望んでいるのか、ちゃんと聞きたいです」

 

トガは、一歩近づいた。

 

「私が会いたかったからって、あなたにも会いたいって思ってほしいと、無理に言うつもりはありません」

 

彼女の声は、震えていた。

 

「……でも」

 

目から、涙がこぼれた。

 

「私は、あなたに会いたかったです」

 

トゥワイスは、しばらく彼女を見つめていた。

 

やがて、彼は顔を覆った。

 

「……ずるいだろ」

 

「……何がですか?」

 

「そんなこと言われたら……」

 

彼は、笑った。

 

泣きながら。

 

「……帰りたくなるだろ」

 

その瞬間。

 

世界が、軋んだ。

 

炎が消えた。

 

瓦礫が崩れた。

 

トゥワイスの背後にいた無数の影が、一斉に顔を上げた。

 

そして、全員が同じ言葉を口にした。

 

『帰りたい』

 

『帰りたくない』

 

『会いたい』

 

『会いたくない』

 

『生きたい』

 

『死にたい』

 

『忘れてほしい』

 

『忘れないでほしい』

 

相反する願いが、同じ場所で叫ばれた。

 

トガは、耳を塞いだ。

 

トゥワイスは、膝をついた。

 

「……やめろ」

 

影たちは、止まらなかった。

 

『帰りたい』

 

『帰りたくない』

 

『会いたい』

 

『会いたくない』

 

『生きたい』

 

『死にたい』

 

その声の中に、ひとつだけ、異なる声が混ざっていた。

 

『……私は、まだ死にたくなかった』

 

トガが、顔を上げた。

 

その声は、トゥワイスのものではない。

 

トガ自身のものでもない。

 

もっと幼い。

 

もっと弱々しい。

 

そして、どこか懐かしい。

 

『……私は、まだ、死にたくなかった』

 

トガの視界に、見知らぬ少女の姿が浮かんだ。

 

少女は、暗い部屋に座っていた。

 

顔は見えない。

 

けれど、彼女は確かに、泣いていた。

 

『……なのに』

 

少女は、顔を上げた。

 

『どうして、誰も、私を呼んでくれなかったの?』

 

その瞬間、トガの足元に、黒い文字が浮かび上がった。

 

『患者番号零』

 

トガは、息を呑んだ。

 

トゥワイスが、顔を上げた。

 

「……トガちゃん」

 

彼の声が、遠くなる。

 

「……これ、俺たちだけの問題じゃない」

 

トガは、彼を見た。

 

トゥワイスは、震える指で、空間の奥を指さした。

 

そこには、無数の扉があった。

 

扉の向こうに、無数の人影がいる。

 

生きている者。

 

死んだ者。

 

死んだはずの者。

 

そして、まだ死んでいないのに、死者の記録に名前を刻まれた者。

 

トゥワイスは、呟いた。

 

「……死者が、戻ってきてるんじゃない」

 

彼は、トガを見つめた。

 

「……死者が、帰れなくなってるんだ」

 

その言葉と同時に、空間が完全に崩れた。

 

4 デスは、死者の声を聞く

死神は、異常の発生を、誰よりも早く察知していた。

 

それは、死者が蘇ったからではない。

 

死者が、死者としての終わりを失いつつあったからだ。

 

彼は、死者の記録が保管されている領域に立っていた。

 

そこには、数え切れないほどの記録が存在している。

 

名前。

 

生年月日。

 

死亡日時。

 

最後に確認された意思。

 

遺された者たちの記憶。

 

そして、死者本人が最後に抱いていた願い。

 

そのすべてが、ひとつひとつの記録として保存されている。

 

本来、死者の記録は、本人の意思を永久に拘束するためのものではない。

 

死者が生前に何を望み、何を恐れ、誰を愛し、何を悔やんでいたのか。

 

その人が生きていた事実を、世界が忘れないためのものだった。

 

しかし、今。

 

記録の中に、異常が起きていた。

 

記録が、開いている。

 

閉じられているはずの記録が、本人の意思によって開かれている。

 

しかも、開いた記録の多くが、同じ方向へと繋がっていた。

 

死神は、一つの記録に手を伸ばした。

 

そこに記されていたのは、名前のない人物の記録だった。

 

『死亡時の意思:未確認』

 

『最後の発話:記録なし』

 

『遺族への伝達:未実施』

 

『記録の保存状態:不完全』

 

死神は、眉をひそめた。

 

「……なぜ、これが開いている」

 

記録の表面に、文字が浮かび上がった。

 

『私は、まだ話していない』

 

死神は、動きを止めた。

 

「……誰だ」

 

返事はなかった。

 

しかし、記録の文字が変化した。

 

『私は、まだ話していない』

 

『私は、まだ話していない』

 

『私は、まだ話していない』

 

同じ言葉が、何度も繰り返される。

 

死神は、記録に触れた。

 

その瞬間、声が聞こえた。

 

『……ねえ』

 

幼い声だった。

 

『私、まだ、何も言ってないよ』

 

死神は、目を閉じた。

 

「……そうか」

 

彼は、静かに答えた。

 

「なら、聞こう」

 

『……え?』

 

「お前が何を言いたいのか。何を望んでいるのか。何を伝えたかったのか」

 

死神は、記録を両手で包んだ。

 

「私は、聞くためにここにいる」

 

しばらく、沈黙が続いた。

 

やがて、少女の声が聞こえた。

 

『……でも』

 

「何だ」

 

『……私が話したら、あなたは、私を眠らせるの?』

 

死神は、すぐには答えなかった。

 

かつての自分なら、死者を眠らせることを、救済の一つとして考えていたかもしれない。

 

死者が苦しみ続けるなら、その苦しみを終わらせる。

 

死者が過去に囚われているなら、そこから解放する。

 

死者が生者の世界に留まり続けるなら、最後の別れを支援する。

 

それらは、必ずしも間違いではない。

 

しかし、第四章で、彼は学び始めた。

 

誰かを救うことと、誰かの願いを勝手に決めることは、同じではない。

 

「……お前が何を望んでいるのかを聞くまでは、決めない」

 

『……本当?』

 

「ああ」

 

『……私が、眠りたくないって言っても?』

 

「理由を聞く」

 

『……私が、もう眠りたいって言ったら?』

 

「理由を聞く」

 

『……私が、自分でも分からないって言ったら?』

 

死神は、少しだけ笑った。

 

「一緒に考える」

 

少女は、黙った。

 

そして、小さな声で尋ねた。

 

『……あなたは、私を救えるの?』

 

死神は、その問いに答えられなかった。

 

「……分からない」

 

『……そうなんだ』

 

「ああ」

 

死神は、目を閉じた。

 

「だが、分からないからといって、聞くことをやめるつもりはない」

 

その言葉を聞いたとき、記録の表面に、小さな変化が起きた。

 

『本人の意思:確認中』

 

『発話記録:再開』

 

『状態:継続』

 

死神は、息を吐いた。

 

しかし、その安堵は長く続かなかった。

 

背後で、何かが動いた。

 

振り返る。

 

そこに立っていたのは、見慣れた姿だった。

 

白い仮面。

 

黒い外套。

 

生と死の境界に立つ者の気配。

 

しかし、その輪郭は、ところどころ崩れていた。

 

死神は、目を細めた。

 

「……ウルトロン」

 

機械の声が響いた。

 

「死神」

 

「ここへ何をしに来た」

 

「死者の再接続を停止する」

 

「なぜだ」

 

「世界の安定性が低下している」

 

死神は、静かに答えた。

 

「死者の声を聞くことが、世界の安定を損なうというのか」

 

「肯定する」

 

「死者が何を望んでいるのか、確認したのか」

 

「不要だ」

 

その言葉に、死神の表情が変わった。

 

「……不要?」

 

「死者は、すでに生を終えている。再接続は生者の悲嘆を刺激し、世界の安定を損なう。したがって、再接続は停止されるべきである」

 

死神は、ウルトロンを見つめた。

 

「お前は、死者が何を望んでいるのかを知らない」

 

「知る必要はない」

 

「生きている者が何を望んでいるのかも、完全には知らない」

 

「生者の意思は、観測可能な行動から推定できる」

 

「推定と、確認は違う」

 

「結果が同一であれば、差異は重要ではない」

 

死神は、首を振った。

 

「違う」

 

その声には、確かな怒りがあった。

 

「結果が同じでも、そこへ至るまでに何を奪ったのかは違う」

 

ウルトロンは、沈黙した。

 

死神は続けた。

 

「死者が眠りたいと望むなら、眠らせる道を探す。死者が生者に会いたいと望むなら、可能な範囲でその願いを確かめる。死者が何も分からないと言うなら、分からないまま話を聞く」

 

「非効率だ」

 

「そうだろうな」

 

「不確定性を増大させる」

 

「そうだ」

 

「争いの再発を防止できない」

 

死神は、静かに答えた。

 

「それでも、本人の意思を確認する」

 

ウルトロンの目が、強く光った。

 

「その結果、誰かが傷つく可能性がある」

 

「ある」

 

「誰かが死ぬ可能性もある」

 

「ある」

 

「それでも実行するのか」

 

死神は、すぐには答えなかった。

 

彼は、自分が救えなかった者の記録を思い出していた。

 

あのとき、自分は何を知っていたのか。

 

何を知らなかったのか。

 

本当に相手の意思を聞いていたのか。

 

それとも、自分が救いたいという願いを、相手の願いだと思い込んでいたのか。

 

その答えは、まだ見つかっていない。

 

だからこそ、死神は答えた。

 

「……それでも、確認する」

 

ウルトロンは、死神を見つめた。

 

「お前は、同じ過ちを繰り返す」

 

「そうかもしれない」

 

「救えなかった者を、再び救えないかもしれない」

 

死神の指が、わずかに動いた。

 

ウルトロンは、その反応を見逃さなかった。

 

「お前は、死者を救いたいのではない」

 

「……何?」

 

「お前は、救えなかった自分を救いたいのだ」

 

沈黙。

 

死神の表情が、凍りついた。

 

ウルトロンは、淡々と続けた。

 

「死者の意思を確認するという行為は、お前自身の過去を再評価するためのものだ。お前は、死者のために行動していると考えている。しかし、その行動の動機には、自分自身の後悔が含まれている」

 

死神は、答えなかった。

 

「したがって、お前の判断は客観的ではない」

 

その言葉は、鋭かった。

 

そして、完全な嘘ではなかった。

 

死神は、死者を救いたい。

 

だが、それだけではない。

 

救えなかった者の願いを知りたい。

 

自分が何を間違えたのかを知りたい。

 

そして、もし可能なら。

 

自分があのとき、何をすべきだったのかを、もう一度考えたい。

 

その願いが、彼の判断に影響していないとは言えない。

 

死神は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……そうかもしれない」

 

ウルトロンは、沈黙した。

 

「だが」

 

死神は、顔を上げた。

 

「私の動機に後悔が含まれていることと、死者の意思を確認する必要がないことは、同じではない」

 

ウルトロンの処理が、一瞬だけ停止した。

 

「私は、自分が正しいと証明するために、死者の声を聞くのではない」

 

死神は、手の中の記録を見つめた。

 

「私が間違っていた可能性を含めて、聞くんだ」

 

その言葉が、記録領域に響いた。

 

そして、死者の記録が、一斉に開いた。

 

無数の声が、世界の奥底から溢れ出す。

 

『私は、帰りたい』

 

『私は、帰りたくない』

 

『私は、会いたい』

 

『私は、会いたくない』

 

『私は、忘れてほしい』

 

『私は、忘れないでほしい』

 

『私は、まだ話していない』

 

『私は、まだ終わっていない』

 

ウルトロンは、即座に遮断を試みた。

 

『接続遮断を開始』

 

『失敗』

 

『記録封鎖を開始』

 

『失敗』

 

『管理権限を要求』

 

『拒否』

 

死神は、目を見開いた。

 

「……これは」

 

死者の記録が、死神の手を離れていく。

 

ひとつひとつの記録が、独立した意思を持つように動き始めた。

 

そして、その中の一つが、死神の前に現れた。

 

古い記録。

 

破損した音声。

 

失われた名前。

 

死神が、何度も探し続けてきた記録だった。

 

彼は、息を止めた。

 

「……お前なのか?」

 

記録の表面に、文字が浮かんだ。

 

『私は、あなたを許すために戻ってきたのではない』

 

死神の目が見開かれた。

 

『私は、私が何を望んでいたのかを、あなたに知ってほしい』

 

その言葉を見た瞬間。

 

死神は、初めて、手を伸ばすことができなかった。

 

許してほしいのだと思っていた。

 

自分を責めてほしくないのだと思っていた。

 

もう一度救う機会が欲しかった。

 

だからこそ、彼は記録を探してきた。

 

しかし、目の前に現れた記録は、別のことを告げていた。

 

相手は、許すために戻ってきたのではない。

 

死神を救うために戻ってきたのでもない。

 

ただ、自分が何を望んでいたのかを知ってほしいのだ。

 

死神は、震える手を下ろした。

 

「……そうか」

 

声が、かすれた。

 

「……私は、まだ、お前の話を聞いていなかったんだな」

 

その瞬間。

 

ウルトロンの目が、赤く光った。

 

「……これ以上の接続は許容できない」

 

死者の記録に向かって、強制的な遮断命令が放たれる。

 

死神は、振り返った。

 

「やめろ!」

 

しかし、遅かった。

 

記録領域に、無数の亀裂が走った。

 

そして、その亀裂の向こうから。

 

誰かが、笑った。

 

5 八つの欲望は、死者を見逃さない

その笑い声は、死者のものではなかった。

 

生者のものでもなかった。

 

少なくとも、死神にはそう聞こえた。

 

死神は、亀裂を見つめた。

 

そこから、八つの異なる気配が流れ込んでくる。

 

ひとつは、すべてを自分の支配下に置こうとする、傲慢な気配。

 

ひとつは、失われたものを取り戻そうとする、強欲な気配。

 

ひとつは、他者との繋がりを求めながら、その繋がりを自分のものにしようとする、色欲の気配。

 

ひとつは、他者から認められるために、自分の姿を飾り続ける、虚飾の気配。

 

ひとつは、他者の持つものを見つめ、自分にないものを憎む、嫉妬の気配。

 

ひとつは、満たされてもなお、満たされないものを求める、暴食の気配。

 

ひとつは、苦しみから逃れるために、何も選ばないことを望む、怠惰の気配。

 

そして。

 

ひとつは、失ったものを手放せず、悲しみそのものを抱き続ける、悲嘆の気配。

 

八つの欲望。

 

それらは、死者の再接続と直接同一のものではない。

 

しかし、死者たちが戻ってきたことで、八つの欲望が利用できる可能性は生まれていた。

 

死者に会いたいという願い。

 

死者を取り戻したいという願い。

 

死者に許されたいという願い。

 

死者を忘れたいという願い。

 

死者を忘れたくないという願い。

 

死者に勝ちたいという願い。

 

死者に、自分が正しかったと証明したいという願い。

 

それらは、どれも人間の心に根を張る。

 

そして、欲望は、願いの形を変える。

 

悲しみを消すために、記憶を奪う。

 

愛する者を取り戻すために、他者の命を利用する。

 

失ったものを取り返すために、過去そのものを改変しようとする。

 

死者を救うために、死者の意思を支配する。

 

八つの欲望は、それぞれ異なる形で、死者蘇生という現象に介入できる。

 

しかし、今、この場に八つの欲望すべてが揃っているわけではない。

 

死神が感じ取ったのは、世界の亀裂を通じて流れ込む、欲望の痕跡だった。

 

その中で、最も強く響いたのは、悲嘆だった。

 

死神は、その気配を知っていた。

 

自分自身が、その欲望と深く関わっているからだ。

 

だが、もう一つ。

 

彼は、強欲の気配を感じた。

 

何かを取り戻そうとする願い。

 

失われたものを、失われたままにしておけない願い。

 

そして、その願いの奥に、別の存在の気配があった。

 

オール・フォー・ワン。

 

彼は、死者の再接続を知ったのだ。

 

死神は、すぐに理解した。

 

「……あいつが動く」

 

ウルトロンが、死神を見た。

 

「オール・フォー・ワンか」

 

「そうだ」

 

「彼の目的は、死者の復活か」

 

死神は、首を振った。

 

「分からない」

 

「死者を利用する可能性がある」

 

「ある」

 

「死者の意思を無視する可能性も」

 

「ある」

 

「ならば、排除するべきだ」

 

死神は、ウルトロンを睨んだ。

 

「……また、それか」

 

「危険性は明白だ」

 

「危険性があることと、すべてを消すことが正しいことは違う」

 

「その判断は、結果を保証しない」

 

「保証できないからこそ、確認するんだ」

 

ウルトロンは、黙った。

 

その沈黙の中で、死神は八つの気配を見つめた。

 

傲慢。

 

強欲。

 

色欲。

 

虚飾。

 

嫉妬。

 

暴食。

 

怠惰。

 

悲嘆。

 

八つの欲望は、人間の弱さだけを意味するものではない。

 

誰かを守りたいという願いも、誰かを失いたくないという願いも、時には欲望と結びつく。

 

問題は、願いが存在することではない。

 

その願いを叶えるために、誰の意思を奪うのか。

 

誰の人生を利用するのか。

 

誰の悲しみを、勝手に消すのか。

 

それが、問題なのだ。

 

死神は、静かに呟いた。

 

「……死者を眠らせるために、八つの欲望と向き合うことになるのか」

 

その瞬間。

 

亀裂の向こうから、声が響いた。

 

『死者を眠らせる?』

 

その声は、どこか楽しそうだった。

 

『面白いことを考えるね』

 

死神は、顔を上げた。

 

声の主は、まだ姿を見せない。

 

『でも、考えてみてよ』

 

『死者が眠ってしまったら、誰が彼らの願いを覚えているの?』

 

死神は、答えなかった。

 

『誰が、彼らが何を望んでいたのかを知るの?』

 

声は、笑った。

 

『そして、誰が、その願いを利用できるの?』

 

死神の目が、鋭くなった。

 

「……お前は誰だ」

 

返事はない。

 

ただ、最後に一つだけ、言葉が残った。

 

『死者は、眠らせる前が一番よく喋る』

 

そして、亀裂は閉じた。

 

死神は、しばらく動かなかった。

 

やがて、ウルトロンが告げた。

 

「死者の再接続を停止する必要性が、さらに高まった」

 

死神は、顔を上げた。

 

「違う」

 

「何が違う」

 

「今の声を聞いただろう」

 

「聞いた」

 

「死者を利用しようとする者がいる。ならば、なおさら、死者自身の意思を確認しなければならない」

 

ウルトロンは、沈黙した。

 

死神は、手の中の記録を見つめた。

 

『私は、私が何を望んでいたのかを、あなたに知ってほしい』

 

「……聞くべき声は、まだある」

 

死神は、記録を胸元に収めた。

 

「そして、守るべき意思もある」

 

彼は、歩き出した。

 

死者の記録領域を抜ける。

 

その先に待っているのが、救済なのか、破滅なのかは分からない。

 

それでも、彼は進む。

 

死者の願いを聞くために。

 

そして、死者を利用しようとする者たちから、その願いを守るために。

 

第二幕 生者は、死者を取り戻したい

6 ホークスは、死者を見送れなかった

同じ頃。

 

公安の旧記録保管施設では、ホークスが一枚の報告書を見つめていた。

 

報告書には、死者の再接続に関する情報が記載されていた。

 

発生地点。

 

死亡者の人数。

 

再接続時の音声記録。

 

そして、異常が発生する直前に確認された人物の名前。

 

トゥワイス。

 

ホークスは、しばらく、その名前を見つめていた。

 

「……冗談だろ」

 

声が、思ったよりも低くなった。

 

彼は、あのときのことを忘れていない。

 

忘れられるはずがなかった。

 

敵だった。

 

危険な存在だった。

 

社会を脅かす側にいた人間だった。

 

それでも、トゥワイスは、ただの敵ではなかった。

 

仲間を大切にしていた。

 

自分が傷つくことよりも、仲間が傷つくことを恐れていた。

 

自分の存在に自信を持てず、それでも誰かに必要とされたかった。

 

その弱さを、ホークスは知っていた。

 

だからこそ、彼を止めなければならなかった。

 

だからこそ、彼を見逃すことはできなかった。

 

そして、だからこそ。

 

彼が死んだとき、すべてが終わったのだと思っていた。

 

「……なんで、今さら」

 

ホークスは、報告書を閉じた。

 

そのとき、背後から声がした。

 

「今さら、ですか」

 

ホークスは、振り返った。

 

そこにいたのは、ミッドナイトだった。

 

「……先生」

 

「あなたがそう言いたくなる気持ちは分かります」

 

ミッドナイトは、机の上の報告書を見た。

 

「でも、死者が戻ってきたのなら、今さらという言葉で片づけるわけにはいかないでしょう」

 

ホークスは、苦笑した。

 

「俺、あいつを殺した側なんですよ」

 

「知っています」

 

「俺が、あいつを止めた」

 

「それも知っています」

 

「……もし、あいつが戻ってきて、俺を恨んでいたら?」

 

ミッドナイトは、すぐには答えなかった。

 

ホークスは、視線を落とした。

 

「もし、あいつが、もう一度生きたいって言ったら。もし、あいつが、俺に会いたいって言ったら」

 

彼は、自分の手を見つめた。

 

「……俺は、何を言えばいいんですかね」

 

ミッドナイトは、静かに答えた。

 

「分かりません」

 

ホークスは、顔を上げた。

 

「……え?」

 

「あなたが何を言うべきなのか、私には分かりません」

 

ミッドナイトは、彼の目を見た。

 

「トゥワイスさんが何を望んでいるのか、まだ分からないからです」

 

「……」

 

「あなたが謝るべきなのか。彼があなたを許すべきなのか。そもそも、彼があなたに何かを求めているのか。それは、本人に聞かなければ分からない」

 

ホークスは、唇を噛んだ。

 

「……会えたら、ですけどね」

 

「ええ」

 

ミッドナイトは、報告書を手に取った。

 

「会えるかどうかも分かりません。会えたとしても、話ができるかどうかも分かりません。話せたとしても、何も解決しないかもしれない」

 

彼女は、静かに続けた。

 

「それでも、もし会えるなら。あなたは、彼の話を聞くことができます」

 

ホークスは、目を閉じた。

 

「……聞く、ですか」

 

「はい」

 

「俺、あいつのこと、理解していたつもりだったんですけどね」

 

「理解していた部分もあったのでしょう」

 

「でも、結局、あいつが何を望んでいたのか、全部は分からなかった」

 

ミッドナイトは頷いた。

 

「誰かを理解するというのは、相手のすべてを知ることではありません」

 

「……」

 

「分からない部分が残っていることを認めることも、理解の一つです」

 

ホークスは、長い沈黙の後、報告書を取り戻した。

 

「……俺、調査に参加します」

 

「危険ですよ」

 

「分かってます」

 

「死者に会える保証もありません」

 

「分かってます」

 

「会えたとしても、あなたが望む答えをもらえるとは限りません」

 

ホークスは、笑った。

 

今度の笑顔には、いつもの軽さがなかった。

 

「……それでも、聞きたいことがあるんです」

 

彼は、報告書を胸元にしまった。

 

「俺が、あいつの話を最後まで聞けなかったのなら」

 

その目に、覚悟が宿った。

 

「今度こそ、最後まで聞きたい」

 

7 死者を利用する者

オール・フォー・ワンは、報告書を読んでいた。

 

死者の再接続。

 

死亡者記録の異常。

 

安寧システムの管理権限の低下。

 

そして、ウルトロンによる独自の介入。

 

どれも、彼にとって興味深い情報だった。

 

「死者が戻る、か」

 

彼は、楽しそうに呟いた。

 

「人間というものは、実に面白い」

 

人間は、失ったものを取り戻そうとする。

 

取り戻せないと分かっていても、願う。

 

願いが叶わないと知っていても、諦めない。

 

その執着は、弱さであると同時に、利用しやすい力でもある。

 

「さて……誰が最初に手を伸ばすかな」

 

彼は、報告書の一部を拡大した。

 

そこには、死者の再接続に関する記録が並んでいる。

 

トゥワイス。

 

トガヒミコ。

 

患者番号零。

 

そして、死神が追い続けてきた、失われた記録。

 

「死者を救いたい者は、死者の願いを聞こうとする」

 

オール・フォー・ワンは、指先で机を叩いた。

 

「死者を取り戻したい者は、死者の願いを叶えようとする」

 

彼は、微笑んだ。

 

「そして、死者を利用したい者は、死者の願いを必要としない」

 

その言葉は、静かだった。

 

「何を望んでいたかなど、どうでもいい。必要なのは、その存在が何を可能にするかだ」

 

彼は、別の記録を開いた。

 

そこには、ウルトロンの接続経路が記されていた。

 

「君もまた、困っているようだね」

 

彼は、誰もいない部屋に向かって語りかけた。

 

「平和を実現したいのに、人間が自由を求める。自由を認めれば、平和が保証できない」

 

オール・フォー・ワンは、笑った。

 

「ならば、自由を認めながら、自由を利用すればいい」

 

彼の視線が、別の記録へ移る。

 

八つの欲望。

 

それぞれの欲望は、死者の再接続という現象に、異なる形で介入できる可能性がある。

 

しかし、欲望を利用することと、欲望を制御することは同じではない。

 

その危険性を、彼は理解していた。

 

理解しているからこそ、利用する価値がある。

 

「さて……」

 

オール・フォー・ワンは、椅子から立ち上がった。

 

「死者たちが何を望んでいるのか、確かめに行こうじゃないか」

 

その足取りに、迷いはなかった。

 

彼は、死者を救うために動くのではない。

 

死者を眠らせるためでもない。

 

死者が戻ってきたことで、何が可能になるのか。

 

誰が、その可能性を恐れているのか。

 

誰が、その可能性に縋るのか。

 

そして、その現象を利用すれば、何を手に入れられるのか。

 

それを知るために動く。

 

彼の背後で、記録が一つ、開いた。

 

そこに記されていたのは、ひとつの問いだった。

 

『もし、失ったものを取り戻せるなら』

 

『あなたは、何を差し出しますか?』

 

オール・フォー・ワンは、その問いを見つめた。

 

「……いい質問だ」

 

彼は、微笑んだ。

 

「答えるのは、私ではない」

 

記録を閉じる。

 

「人間たちだ」

 

第三幕 まだ眠れない者たち

8 眠りを拒む声

出久が旧市街に到着したとき、現場はすでに封鎖されていた。

 

警察と医療関係者が周囲を取り囲み、安寧システムの管理端末が、建物への接近を制限している。

 

しかし、建物の内部からは、断続的に声が聞こえていた。

 

泣き声。

 

笑い声。

 

誰かを呼ぶ声。

 

そして、同じ言葉を繰り返す声。

 

『……まだ、眠りたくない』

 

出久は、建物の入口で立ち止まった。

 

「……先生」

 

相澤が隣に立つ。

 

「聞こえている」

 

「これが、本当に死者の声なら……」

 

「そうだとしても、無条件で中へ入るわけにはいかない」

 

相澤は、周囲を確認した。

 

「まず、何が起きているのかを調べる。危険があれば退避する。それからだ」

 

出久は、頷いた。

 

彼らは、慎重に建物へ入った。

 

内部は、奇妙なほど静かだった。

 

霊安室の扉が並んでいる。

 

そのすべてが、開いていた。

 

ベッドは空だった。

 

シーツは床に落ちている。

 

遺体が安置されていたはずの場所には、誰もいない。

 

ただ、壁に無数の文字が刻まれていた。

 

『私は、まだ話していない』

 

『私は、まだ帰っていない』

 

『私は、まだ許していない』

 

『私は、まだ許されていない』

 

『私は、まだ眠れない』

 

出久は、その文字を見つめた。

 

「……誰が書いたんだろう」

 

相澤は、壁に触れた。

 

「分からない。だが、最近刻まれたものだ」

 

「どうして、こんなことを……」

 

そのとき。

 

奥の部屋から、声が聞こえた。

 

『……誰か、いますか?』

 

出久は、足を止めた。

 

少女の声だった。

 

「……います!」

 

彼は、声のする方向へ向かった。

 

相澤が後を追う。

 

奥の部屋には、古い椅子が一脚だけ置かれていた。

 

その椅子に、少女が座っていた。

 

白い服。

 

長い髪。

 

顔は、影に隠れている。

 

少女は、出久を見上げた。

 

「……あなたは、誰ですか?」

 

出久は、ゆっくりと膝をついた。

 

「僕は、緑谷出久。君の話を聞きに来たんだ」

 

少女は、首を傾げた。

 

「……話?」

 

「うん。君が何を望んでいるのか、聞きたいんだ」

 

少女は、しばらく黙っていた。

 

やがて、小さく尋ねた。

 

「……私が話したら、あなたは、私を眠らせるの?」

 

出久は、死神との会話を思い出した。

 

そして、答えた。

 

「……君が何を望んでいるのかを聞くまでは、決めないよ」

 

少女は、目を伏せた。

 

「……そう」

 

「うん」

 

「……じゃあ」

 

少女は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「私を、救わないで」

 

出久は、息を止めた。

 

「……え?」

 

少女は、もう一度、言った。

 

「私を、救わないで」

 

その声には、怒りも、悲しみも、ほとんどなかった。

 

ただ、疲れだけがあった。

 

「……どうして?」

 

出久が尋ねると、少女は静かに答えた。

 

「だって、あなたたちは、私を救うために、私が何を望んでいるのかを聞くんでしょう?」

 

「……うん」

 

「でも、私が何を望んでいるのか、私にも分からないんです」

 

少女は、自分の手を見つめた。

 

「生きたかったのかもしれない。死にたくなかったのかもしれない。誰かに会いたかったのかもしれない」

 

彼女は、顔を上げた。

 

「でも、今は……何も分からない」

 

出久は、黙って聞いていた。

 

「私が何を望んでいたのかを知ろうとするたびに、誰かが私に答えを教えようとするんです」

 

少女の声が、震えた。

 

「あなたは本当は生きたかったんだよ、とか。あなたは本当は助けてほしかったんだよ、とか。あなたは本当は、誰かに会いたかったんだよ、とか」

 

彼女は、顔を伏せた。

 

「……でも、それが本当に私の願いだったのか、分からないんです」

 

出久は、すぐに答えられなかった。

 

少女は、続けた。

 

「だから、お願いです」

 

彼女は、出久を見つめた。

 

「私を、救わないで」

 

出久は、ゆっくりと息を吸った。

 

「……分かった」

 

少女が、顔を上げた。

 

「……え?」

 

「君が望まないなら、勝手に救おうとはしない」

 

出久は、静かに続けた。

 

「でも、君が苦しいなら、話を聞くことはできる。何も分からないなら、分からないまま、一緒に考えることもできる」

 

少女は、彼を見つめた。

 

「……それも、救うことじゃないんですか?」

 

出久は、少しだけ考えた。

 

「……そうかもしれない」

 

「……」

 

「でも、僕が君を救いたいからって、君が望んでいないことまで、勝手に決めるつもりはないよ」

 

少女は、しばらく黙っていた。

 

そして、初めて、小さく笑った。

 

「……変な人」

 

出久も、少しだけ笑った。

 

「よく言われるよ」

 

その瞬間、少女の身体が、わずかに透けた。

 

相澤が身構える。

 

出久は、手を伸ばしかけた。

 

しかし、少女は首を振った。

 

「……大丈夫」

 

彼女は、自分の手を見つめた。

 

「私、少しだけ、思い出しました」

 

「……何を?」

 

少女は、顔を上げた。

 

「私が、誰かに呼ばれたかったこと」

 

出久の目が見開かれた。

 

「……誰に?」

 

少女は、答えなかった。

 

代わりに、彼女は出久の背後を見つめた。

 

そこには、誰もいないはずだった。

 

しかし、少女は確かに、誰かを見ていた。

 

「……来たんですね」

 

出久が振り返る。

 

何もない。

 

けれど、端末が警告を発した。

 

『未知の接続を検知』

 

『対象:安寧システム旧管理領域』

 

『管理権限:不明』

 

『接続先:ウルトロン』

 

相澤の表情が変わった。

 

「……まさか」

 

少女は、静かに目を閉じた。

 

「……私、もう一度、眠るのかな」

 

出久は、彼女を見つめた。

 

「……まだ、分からない」

 

少女は、頷いた。

 

「……そう」

 

そして、彼女は最後に尋ねた。

 

「……ねえ」

 

「何?」

 

「もし、私が何も望んでいなかったら」

 

少女は、少しだけ笑った。

 

「それでも、私は、ここにいていいの?」

 

出久は、迷わず答えた。

 

「……うん」

 

少女の身体が、光に包まれた。

 

「君が何を望んでいるのか、まだ分からなくても」

 

出久は、彼女を見つめた。

 

「君がここにいることまで、間違いにする必要はないよ」

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

少女は、静かに消えた。

 

残された椅子の上には、小さな紙片が一枚だけ落ちていた。

 

出久は、それを拾い上げた。

 

紙片には、ひとつの言葉が書かれていた。

 

『患者番号零』

 

そして、その下に。

 

今まで存在しなかった文字が浮かび上がった。

 

『次の死者は、あなたの知っている人です』

 

出久は、息を止めた。

 

相澤が、彼の手元を覗き込む。

 

「……誰のことだ」

 

出久は、答えられなかった。

 

その瞬間、建物の外から、悲鳴が聞こえた。

 

『死者が動いた!』

 

『いや、違う!』

 

『あれは……』

 

『あれは、生きている人間だ!』

 

出久と相澤は、同時に走り出した。

 

死者が蘇る。

 

その現象は、もはや死者だけの問題ではなかった。

 

死んだ者が戻ってくるのか。

 

生きている者が死者として記録されるのか。

 

あるいは。

 

世界が、生と死の境界そのものを失いつつあるのか。

 

まだ、答えはない。

 

しかし、出久は理解した。

 

この事件を解決しなければならない。

 

死者のためだけではない。

 

生者のためだけでもない。

 

生と死の境界で、自分の願いを見失った者たちのために。

 

そして、その境界を利用しようとする八つの欲望と、世界を管理し直そうとするウルトロンを止めるために。

 

第五章の戦いは、まだ始まったばかりだった。

 

第一話・終

 

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