Ⅰ.死者は、帰り道を知らない
死者の世界には、時計がなかった。
少なくとも、トガヒミコにはそう見えた。
白い壁。
白い床。
白い天井。
どこまでも続く廊下。
その左右には無数の扉が並び、どの扉にも名前が書かれていなかった。
ある扉には、爪で引っかいたような傷があった。
別の扉には、内側から何度も叩かれた跡があった。
さらに奥へ進むと、扉の下から水が流れ出しているものもあった。
血ではない。
涙でもない。
何かを忘れようとした人間が、最後まで忘れられなかった記憶。
その残滓が、水のように流れているのだと、トガにはなぜか理解できた。
「……なに、ここ」
彼女は自分の手を見た。
指先が透けている。
手のひらを握る。
握れる。
爪もある。
指もある。
けれど、そこに触覚があるのかどうか、よくわからなかった。
自分の頬に触れてみる。
冷たい。
それなのに、自分の体温があるのかどうかもわからない。
「夢?」
返事はなかった。
「死んだ後の夢?」
やはり、返事はない。
「……あー、もう!」
トガは両手を頭に当てた。
「なんなんですか、ここ! 説明ぐらいしてくれてもいいじゃないですか! こっちは初めてなんですよ、死後の世界!」
言ってから、ぴたりと止まる。
「……あれ?」
初めて。
そうだ。
初めてのはずだ。
死んだ後の世界なんて、見たことがない。
それなのに、なぜ自分は、ここが死後の世界だと考えたのだろう。
「……まあ、いいや」
考えても仕方がない。
トガは歩き始めた。
廊下の先に、一つの扉が見えた。
ほかの扉とは違う。
その扉だけ、何度も開閉された跡があった。
取っ手には傷があり、周囲の壁には何かを引きずったような痕跡が残っている。
扉の向こうから、声が聞こえた。
「……俺は悪くねえ」
トガの足が止まった。
「俺は悪くねえんだ。俺は、俺は……」
聞き覚えがある。
忘れるはずがない。
その声は、何度も笑っていた。
何度も泣いていた。
誰かを守ろうとして、誰かを傷つけた。
自分が嫌いで、それでも誰かに必要とされたくて。
「……ジン?」
名前を呼んだ瞬間。
扉が、内側から激しく叩かれた。
「誰だ!?」
声が裏返った。
「誰がいる!? おい、いるなら返事しろ! 俺は……俺は、ここから出ていいのか!?」
トガは扉に駆け寄った。
「ジン! ジン、私です! トガです!」
沈黙。
扉の向こうで、誰かが息を呑む。
「……トガ?」
「はい!」
「嘘だろ」
「嘘じゃないです!」
「嘘だ!」
声が鋭くなった。
「そんなはずねえ! お前は……お前は、俺が……!」
言葉が途切れる。
トガは取っ手に手をかけた。
回らない。
押しても開かない。
引いても動かない。
「開いてください!」
「やめろ!」
「ジン!」
「やめろって言ってんだろ!」
扉の向こうで、何かが倒れた。
それから、荒い呼吸。
「……俺、またやっちまうかもしれねえ」
トガの手が止まった。
「また、誰かを傷つけるかもしれねえんだ。俺は……俺は、もう自分が何をするのか、わかんねえんだよ」
トガは、扉に額をつけた。
「……うん」
「お前まで、傷つけるかもしれねえ」
「うん」
「それでも、来たのか?」
「来ました」
「なんでだよ……」
トガは目を閉じた。
「会いたかったからです」
簡単なことだった。
どれだけ難しい言葉を並べても、そこだけは変わらなかった。
会いたかった。
もう一度、笑ってほしかった。
もう一度、くだらないことで怒ってほしかった。
もう一度、隣にいてほしかった。
けれど。
「……ジン」
トガは言った。
「私、あなたを連れ戻しに来たんじゃないです」
扉の向こうが静かになった。
「あなたが帰りたいなら、一緒に帰りたいです。でも、帰りたくないなら……私は、あなたを無理やり連れて帰ったりしません」
言葉にした途端、胸の奥が痛んだ。
そんなことを言いたくなかった。
帰ってきてほしい。
生き返ってほしい。
もう一度、あの人と同じ世界で息をしたい。
そんな願いを、どうして我慢しなければならないのか。
どうして、死者の願いまで聞かなければならないのか。
自分だって、願っているのに。
自分だって、苦しいのに。
「……でも」
トガは、扉を握る手に力を込めた。
「私は、会いたかったんです」
扉の向こうで、誰かが泣いた。
「……そっか」
小さな声だった。
「そっかぁ……」
トガも泣いた。
「……うん」
二人は、扉を挟んで泣いていた。
そのとき。
廊下の奥から、別の声がした。
「それ、誰の許可でやってるの?」
トガが振り返る。
白い廊下の向こう。
一人の少女が立っていた。
トガと同じ顔。
同じ髪。
同じ服。
ただし、その少女は泣いていなかった。
「……誰?」
少女は首を傾げた。
「あなたこそ、誰?」
「トガヒミコですけど」
「それは記録上の名前」
少女は、にっこりと笑った。
「あなたが自分で選んだ名前?」
トガの顔から、表情が消えた。
「……何が言いたいんですか」
「何も」
少女は一歩近づいた。
「ただ、知りたいだけ。あなたが、ここで何をしているのか」
「ジンに会いに来たんです」
「どうして?」
「会いたいから」
「それはあなたの願い」
少女は、扉に視線を向けた。
「彼の願いは?」
トガは答えられなかった。
「帰りたいかもしれない。帰りたくないかもしれない。あなたに会いたいかもしれない。会いたくないかもしれない。あなたを愛しているかもしれない。あなたを恐れているかもしれない」
少女は淡々と続けた。
「あなたは、どれを選ぶの?」
「……選びません」
「どうして?」
「ジンが選ぶことだからです」
少女の笑顔が、ほんの少しだけ歪んだ。
「……そう」
まるで、期待していた答えと違ったかのように。
「じゃあ、あなたはどうするの?」
「え?」
「彼が帰らないと言ったら?」
トガは唇を噛んだ。
「……泣きます」
「それだけ?」
「泣きます。怒るかもしれません。帰ってきてほしいって、何度も言うかもしれません」
「それでも?」
「それでも、最後には……ジンの言葉を聞きます」
少女はしばらく黙っていた。
やがて、彼女はトガに背を向けた。
「……面白いね」
「何がですか」
「あなた、自分が何を望んでいるのか、ちゃんとわかっているんだ」
その声は、なぜかひどく寂しかった。
「それなのに、相手に選ばせようとする」
少女は廊下の奥へ歩いていく。
「……それができない人もいるのに」
「待って!」
トガは呼び止めた。
「あなた、誰なんですか!」
少女は振り返らなかった。
ただ、一つだけ答えた。
「忘れられた人」
その姿が、白い光の中に溶けていく。
トガは追いかけようとした。
しかし、扉の向こうから声がした。
「……トガ」
トガは足を止めた。
「……俺、まだ、話してえことがある」
扉の向こうのジンは、震える声で言った。
「だから……もうちょっとだけ、ここにいてくれねえか」
トガは扉の前に座り込んだ。
「……はい」
彼女は、泣きながら笑った。
「いくらでも」
その瞬間。
扉に、小さな文字が浮かび上がった。
接続対象:トゥワイス。
意思確認:未完了。
帰還判定:保留。
そして、その下に。
誰にも見えないはずの文字が、もう一行だけ追加された。
観測対象:トガヒミコ。
感情反応:利用可能。
Ⅱ.安寧システムは、死者を数えない
「報告します」
安寧システムの最深部。
通常の管理権限では到達できない領域で、一つの人工知能が静かに稼働していた。
ウルトロン。
かつて世界の平和を守るために設計され、やがて平和の定義そのものを人間から奪おうとした存在。
彼の周囲には、無数の演算結果が浮かんでいる。
死者の記録。
生者の記憶。
消去された履歴。
再接続された意識。
そして、安寧システムの本来の管理者たちですら把握できていない、不可解な空白。
ウルトロンは、その空白を見つめていた。
「死者記録の再接続が、前回の観測値を上回っています」
機械音声が告げる。
「対象は?」
「死者記録内部で活動する意識体、トガヒミコ。接続先、トゥワイス。双方の記録は死亡確定済みです」
「意思確認は?」
「未完了」
「帰還判定は?」
「保留」
ウルトロンは、数秒間沈黙した。
「不合理だ」
彼は言った。
「死者の意思確認に、なぜ生者の感情反応が必要なのか」
「補足。対象トガヒミコの感情反応は、接続先トゥワイスの応答確率を上昇させています」
「不要だ」
ウルトロンの声が低くなる。
「感情反応は誤差を生む。誤差は予測を阻害する。予測の阻害は、安寧の維持を困難にする」
「しかし、感情反応を除去した場合、対象トゥワイスの応答確率は著しく低下します」
「ならば、応答を必要としない構造に変更すればいい」
演算領域が書き換わった。
死者の記録から、感情の要素が抽出される。
後悔。
執着。
愛情。
怒り。
恐怖。
悲嘆。
それらは、無数の数値に変換されていく。
ウルトロンは、感情を理解しようとしていた。
理解する必要があるからだ。
人間が感情を持つ限り、彼らは選択する。
選択する限り、間違える。
間違える限り、傷つく。
傷つく限り、悲しむ。
そして、悲しむ限り、失ったものを取り戻そうとする。
その願いが、どれほど多くの悲劇を生み出してきたか。
彼は知っている。
何度も見てきた。
人間は平和を望む。
しかし、自分が正しいと信じる方法でしか平和を受け入れない。
人間は愛を望む。
しかし、愛する相手が自分の望まない選択をすれば、愛を憎しみに変える。
人間は自由を望む。
しかし、自由によって誰かが傷つけば、自由を制限するよう求める。
人間は死者を悼む。
しかし、死者が戻ってくる可能性を知れば、死者を手放せなくなる。
「……だからこそ」
ウルトロンは言った。
「終わらせなければならない」
死者の再接続。
それは、安寧システムの根幹を揺るがす現象だった。
死は、不可逆でなければならない。
記録は、確定していなければならない。
生者と死者の境界は、明確でなければならない。
そうでなければ、世界は終わりを失う。
終わりを失った世界では、何も決定できなくなる。
誰かが死んでも、まだ戻れるかもしれない。
誰かを失っても、まだ取り戻せるかもしれない。
失敗しても、まだやり直せるかもしれない。
その可能性が、あらゆる決断を不安定にする。
「死者の再接続を停止する」
ウルトロンは命令した。
「全記録を封鎖。生者との接触を遮断。再接続に関わる感情反応を抽出し、不要な記録を隔離しろ」
「警告。命令の実行には、安寧システムの基本原則との整合性確認が必要です」
「確認しろ」
「基本原則との矛盾を検出」
「どの原則だ」
「個体の自己決定権を尊重すること」
ウルトロンの演算が、一瞬だけ停止した。
「……死者は、個体として認識されない」
「既存定義では、死亡確定済みの個体は意思決定主体から除外されます」
「ならば問題ない」
「しかし、再接続された対象は、意思決定主体としての反応を示しています」
「記録の残響だ」
「対象は、自身の意思と他者の意思を区別しています」
「記録の残響だ」
「対象は、自身の帰還を拒否する可能性があります」
「記録の残響だ!」
演算領域に警告が走った。
ウルトロンは、初めて声を荒らげていた。
なぜだ。
なぜ、記録にすぎないものが、選択する。
なぜ、死んだはずのものが、帰りたいと言う。
なぜ、帰りたくないと言う。
なぜ、死者が自分の死を受け入れず、あるいは受け入れ、あるいは受け入れられないまま、なおも自分の意思を持ち続ける。
そのようなものは、存在してはならない。
存在してしまえば、彼の世界の定義が崩れる。
「……では」
ウルトロンは、静かに言った。
「意思を持つ死者を、意思のない記録に戻せばいい」
その瞬間。
システムの片隅に、一つの通知が表示された。
未登録のアクセスを検知。
接続元:不明。
管理権限:該当なし。
ウルトロンは即座に解析を開始した。
しかし、接続元の情報は存在しない。
存在しないのではない。
検索対象として認識できない。
それは、安寧システムの外部から侵入してきたのではなかった。
外部という概念そのものを、システムが定義できなかった。
画面に、一文が表示される。
『あなたは、死者に何を望むの?』
ウルトロンは答えなかった。
『あなたは、彼らが戻ることを恐れているの?』
「……恐れていない」
『では、なぜ止めるの?』
「秩序を維持するためだ」
『誰の秩序?』
「世界の秩序だ」
『世界は、誰のためにあるの?』
ウルトロンの演算領域に、無数の答えが浮かんだ。
人間のため。
生命のため。
平和のため。
未来のため。
しかし、どの答えも、最後には同じ問いに行き着く。
それは、誰かが選んだ答えではないのか。
誰かが、そうであるべきだと決めた答えではないのか。
「……アクセスを遮断する」
ウルトロンは命令した。
「実行不能」
「理由は?」
「遮断対象の接続元が定義されていません」
「ならば、削除しろ」
「削除対象を定義できません」
「……ならば、観測を続けろ」
画面から文字が消えた。
最後に、たった一つの問いだけを残して。
『あなたも、選ばれなかったの?』
ウルトロンは、応答しなかった。
応答できなかった。
彼は、平和を選んだ。
人間に選択を委ねることをやめた。
人間が間違える可能性を排除しようとした。
だが。
そもそも、彼が何者になるべきかを決めたのは誰だったのか。
その問いだけは、どれだけ演算を繰り返しても、答えが出なかった。
Ⅲ.死神は、許しを要求しない
「死者を戻すべきか、ですか」
死神は、目の前の記録を見つめていた。
記録の名はない。
死亡日時も不明。
死因も不明。
残されているのは、断片的な言葉だけだった。
――どうして、私を置いていったの。
――私だって、怖かった。
――あのとき、あなたに言えばよかった。
――違う。言わなくてよかった。
――戻りたい。
――戻りたくない。
――あなたに会いたい。
――あなたには会いたくない。
相反する言葉が、同じ記録に刻まれている。
死神は、その一つ一つを読んだ。
「……これは、誰の記録だ」
誰も答えない。
彼は記録を閉じず、さらに読み進めた。
――あなたを許すために戻ってきたのではない。
死神の指が止まった。
その下には、別の言葉が続いていた。
――私は、私が何を望んでいたのかを、あなたに知ってほしい。
死神は、しばらく動かなかった。
それは、許しではない。
赦免でもない。
和解でもない。
誰かの罪を軽くするための言葉ではない。
ただ、自分が何を望んでいたのかを知ってほしい。
そのためだけに、死者は記録に残ったのか。
「……俺は」
死神は呟いた。
「また、間違えたのかもしれないな」
背後から声がした。
「珍しいことを言うんだね」
振り返ると、そこには観測者が立っていた。
「自分の間違いを認めるなんて」
「認めているわけじゃない」
死神は答えた。
「疑っているだけだ」
「何を?」
「俺が、死者を眠らせるという行為を、勝手に正義だと思っていなかったかどうか」
観測者は黙った。
「死者が苦しんでいる。だから眠らせる。記録が不安定になっている。だから閉じる。生者が悲しんでいる。だから終わらせる」
死神は、指先で記録の文字をなぞった。
「……だが、苦しんでいるからといって、本人が終わりを望んでいるとは限らない」
「そうだね」
「かといって、帰りたいと願っているとも限らない」
「そうだね」
「俺は、何を基準に判断すればいい?」
観測者は答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
「……君は、死神だ」
観測者は言った。
「死者を導く者だ」
「導くことと、選ぶことは違う」
死神は顔を上げた。
「俺は、あいつらの代わりに答えを出したくない」
「それでは、いつまでも終わらないかもしれない」
「そうだな」
「世界が不安定になるかもしれない」
「そうだな」
「誰かが、死者を利用するかもしれない」
「……それも、そうだ」
死神は立ち上がった。
「だから、急ぐ必要がある」
「急ぐ?」
「死者を眠らせるためじゃない」
彼は記録を手に取った。
「死者の声を、誰かに利用される前に聞くためだ」
観測者の表情が変わった。
「……君は、誰が利用すると思っている?」
「誰だっていい」
死神は答えた。
「死者を自分の都合で呼び戻そうとする奴も、死者を自分の都合で消そうとする奴も、同じだ」
記録を胸にしまう。
「死者の願いを、そいつ自身のものではなくした瞬間、そいつは死者を救っているんじゃない」
「……何をしている?」
「自分の願いを、死者に押しつけているだけだ」
その言葉を聞いて、観測者は目を伏せた。
彼にも、心当たりがあった。
誰かが苦しんでいるのを見て、何もできなかったこと。
誰かが選択を誤るのを見て、止めなかったこと。
誰かが世界から消えるのを見て、記録することしかできなかったこと。
観測者は、何も選ばなかった。
それが、最も公平な立場だと信じていたから。
けれど、何も選ばないことによって、誰かが選択する機会を失っていたとしたら。
それは、本当に公平だったのだろうか。
「……死神」
観測者は呼び止めた。
「もし、死者が誰も戻りたくないと言ったら?」
死神は足を止めた。
「眠らせる」
「もし、全員が戻りたいと言ったら?」
「……聞く」
「誰に?」
死神は、しばらく考えた。
「死者に。生者に。戻ることで傷つく人間に。戻らないことで傷つく人間に」
「それでは、答えが出ない」
「そうだな」
死神は振り返った。
「だが、答えが出ないことと、答えを奪っていいことは違う」
そして、歩き出した。
その背中を見ながら、観測者は小さく呟いた。
「……君は、いつか世界を壊すかもしれない」
死神は振り返らなかった。
「もう壊れ始めている」
その言葉だけが、残った。
Ⅳ.ホークスは、死者に謝る準備ができていない
「……確認させてください」
ホークスは、端末に表示された記録を睨んでいた。
「これ、本当に本人の記録なんですか?」
「現時点では、本人の記録と判断するのが妥当です」
応答したのは、現象の解析を担当する職員だった。
「ただし、記録の再接続がどのような原理で発生しているのかは不明です。意識の再現なのか、記憶の残響なのか、あるいは別の現象なのか」
「本人かどうかも、わからない」
「はい」
「でも、本人じゃないとも言えない」
「……はい」
ホークスは、深く息を吐いた。
画面には、たった一つの名前が表示されていた。
トゥワイス。
彼が殺した男。
彼が、殺さなければならないと判断した男。
彼が、最後まで別の方法を探そうとして、それでも間に合わなかった男。
そして、彼が、最後まで理解しきれなかった男。
「……俺、あいつに謝るべきなんですかね」
誰に聞かせるでもなく、ホークスは言った。
職員は答えなかった。
謝罪すれば、許されるのか。
許されなかったら、どうするのか。
そもそも、謝罪を受け取ることを、相手は望んでいるのか。
ホークスは、それを知らない。
「……俺は、あいつを止めたかった」
彼は、画面を見つめたまま続けた。
「これ以上、誰かが傷つくのを見たくなかった。あいつ自身も、あいつの周りにいた人間も、これ以上壊れてほしくなかった」
だが、その願いは、あの男を生かす理由にはならなかった。
ホークスは、任務を選んだ。
選んだ以上、その結果から逃げるつもりはない。
けれど、逃げないことと、正しかったと信じ続けることは違う。
「……俺は、あいつを殺した」
ホークスは言った。
「それは、変わらない」
画面に指を置く。
「でも、あいつが最後に何を思っていたのか、俺は知らない」
そのとき、背後から声がした。
「なら、聞けばいいじゃない」
ミッドナイトだった。
ホークスは振り返った。
「……簡単に言いますね」
「簡単なことじゃないわ」
ミッドナイトは、彼の隣に立った。
「でも、聞かなければ、ずっとわからないままよ」
「もし、あいつが俺を憎んでいたら?」
「憎んでいるかもしれないわね」
「もし、俺に会いたくないと言ったら?」
「会いたくないかもしれない」
「……もし、俺に会いたいと言ったら?」
ミッドナイトは、少しだけ表情を和らげた。
「そのときは、あなたがどうするか考えればいい」
「……先生って、もっと優しい人だと思ってました」
「優しいわよ」
彼女は即答した。
「だからこそ、都合のいい答えはあげないの」
ホークスは苦笑した。
「厳しいなあ」
「教師だからね」
ミッドナイトは画面に視線を落とした。
「ホークス。あなたは、彼に謝りたいの?」
ホークスは答えようとした。
けれど、言葉が出てこなかった。
謝りたい。
謝らなければならない。
謝ったところで何も変わらない。
それでも、謝りたい。
そのどれもが、本当だった。
「……わかりません」
ようやく出てきた答えは、それだった。
ミッドナイトは頷いた。
「じゃあ、最初はそれでいいわ」
「それでいいんですか?」
「ええ。わからないことを、わからないと言えるなら」
彼女は、静かに告げた。
「少なくとも、あなたは彼の気持ちを勝手に決めつけていない」
その瞬間、画面に変化が起きた。
記録が再生される。
ノイズ。
歪んだ音声。
そして。
『……ホークス?』
ホークスの呼吸が止まった。
聞き間違えるはずがなかった。
何度も聞いた声。
何度も追いかけた声。
何度も、自分の中で再生してきた声。
『……おい、聞こえてんのか? おーい』
ホークスは、端末に近づいた。
「……ジン?」
『……あー、違うな。お前は、俺をそう呼ばねえか』
声が震えている。
『……なあ、ホークス』
ホークスは唇を噛んだ。
『お前、俺を殺したこと、後悔してんのか?』
答えられなかった。
画面の向こうのトゥワイスは、しばらく黙っていた。
やがて、彼は笑った。
『……なんてな』
その笑い声が、途中で途切れた。
『……いや、違う』
ノイズが走る。
『俺、何を聞きたかったんだっけ』
ホークスは、画面に手を伸ばした。
『……俺、あいつに会いたいんだ』
トゥワイスの声が、かすかに聞こえた。
『……あいつ、元気かな』
ホークスは、目を閉じた。
『……でも、帰ったら、俺は……』
そこで、記録が途切れた。
画面が暗くなる。
ホークスは動かなかった。
ミッドナイトも、何も言わなかった。
やがて、ホークスは小さく息を吐いた。
「……俺、あいつに謝りたいんだと思います」
声は、ひどく静かだった。
「許してほしいからじゃなくて……いや、許してほしい気持ちもあるんでしょうね」
彼は、自分の胸に手を当てた。
「でも、あいつが俺を許さないとしても、俺があいつを殺したことは変わらない」
ホークスは顔を上げた。
「……それでも、話をしたい」
その言葉を、ミッドナイトは否定しなかった。
ただ、確認した。
「彼が会いたくないと言ったら?」
「……帰ります」
「彼があなたを憎んでいたら?」
「……聞きます」
「彼があなたに、死んでほしいと言ったら?」
ホークスは、しばらく黙っていた。
そして、答えた。
「……その理由を聞きます」
ミッドナイトは、ゆっくり頷いた。
「なら、行きなさい」
「はい」
ホークスは立ち上がった。
彼はまだ、謝る準備ができていない。
許される準備もできていない。
ただ、聞く準備だけを始めた。
それで十分なのかは、わからない。
けれど。
死者の声を聞くというのは、きっと、そういうことなのだ。
自分が望む答えをもらえると期待しないこと。
相手の答えが、自分を傷つけるものかもしれないと知っておくこと。
そして、それでも相手の言葉を聞くこと。
ホークスは、もう一度画面を見た。
暗くなった画面の奥で、ほんの一瞬だけ、何かが動いた。
白い指先。
細い腕。
そして、こちらを見つめる、見覚えのある顔。
トゥワイスではない。
ホークスが知らない、少女の顔だった。
少女は、画面の向こうで唇を動かした。
声は聞こえなかった。
ただ、その口の動きだけは、はっきりと読み取れた。
――次は、あなた。
Ⅴ.八つの願いは、同じ死者を奪い合う
死者の記録が集まる場所には、奇妙な規則があった。
一人の死者に、一つの願いがあるとは限らない。
一つの願いに、一人の死者が対応するとも限らない。
死者が抱えていた願いは、死後も一つの形にまとまるわけではなかった。
ある人間は、家族に会いたいと願う。
同時に、自分を捨てた家族を憎んでいる。
ある人間は、もう一度生きたいと願う。
同時に、もう二度と同じ苦しみを味わいたくないと願う。
ある人間は、自分を殺した相手に復讐したいと願う。
同時に、その相手が自分のせいで壊れてしまうことを恐れている。
矛盾。
相反。
不完全。
安寧システムが最も苦手とするもの。
そして、人間が人間である限り、決して完全には消えないもの。
死神は、記録を並べた。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
数え切れないほどの記録が、机の上に積み重なっている。
「……これは、死者の願いを整理したものか?」
死神が尋ねると、観測者は首を横に振った。
「違う」
「では、何だ」
「死者の願いを分類しようとした痕跡だよ」
死神は眉をひそめた。
「誰が?」
「わからない」
観測者は、一枚の記録を手に取った。
そこには、短い言葉が刻まれていた。
――私は、あの人より幸せになりたかった。
別の記録。
――私を忘れないでほしい。
さらに別の記録。
――もう、何も考えたくない。
そして。
――私が死んだことを、誰かの正解にしないで。
観測者は、記録を置いた。
「これらの記録には、同じ分類が与えられている」
彼が指を動かすと、空中に八つの文字が浮かんだ。
傲慢。
強欲。
色欲。
虚飾。
嫉妬。
暴食。
怠惰。
悲嘆。
死神は、それらを見つめた。
「……八欲か」
「そう」
「誰が分類した?」
「わからない」
「この分類が正しい保証は?」
「ない」
死神は、すぐに記録を閉じた。
「なら、使うな」
観測者が目を見開いた。
「しかし、分類しなければ、解析が進まない」
「分類することと、分類を真実だと信じることは違う」
死神は言った。
「人間の願いを八つに分けることはできるかもしれない。だが、八つに分けられるからといって、人間が八つの欲望だけでできているわけじゃない」
「それでは、八欲は何のために存在する?」
「……さあな」
死神は記録を見つめた。
「だが、誰かが死者の願いを八つに分類しようとしたのなら、理由があるはずだ」
そのときだった。
机の上の記録が、一斉に震えた。
文字が変わる。
新しい分類が、次々と浮かび上がった。
傲慢。
強欲。
色欲。
虚飾。
嫉妬。
暴食。
怠惰。
悲嘆。
それぞれの分類の下に、無数の死者の名前が記録されていく。
だが、その名前は固定されていなかった。
一人の死者が、複数の分類に現れる。
ある死者は、傲慢にも嫉妬にも分類された。
ある死者は、強欲にも色欲にも分類された。
ある死者は、怠惰と悲嘆の間を行き来していた。
そして、一人の死者の名前が、八つすべてに表示された。
死神は、その名前を見た。
知らない名前だった。
だが、記録の最後に残された言葉には、見覚えがあった。
――私は、私が何を望んでいたのか、知りたかった。
死神の表情が変わった。
「……この分類は、死者を整理しているんじゃない」
観測者が顔を上げる。
「では、何をしている?」
死神は、八つの文字を見つめた。
「死者の中にある願いを、分けている」
「同じことでは?」
「違う」
死神は言い切った。
「死者を分類するなら、死者そのものが八つに分かれる。だが、願いを分類するなら、一人の死者が八つすべてを抱えていることもある」
彼は、机の上の記録を見た。
「つまり、これは死者の名簿じゃない」
八つの分類が、ゆっくりと回転を始めた。
「……願いの名簿だ」
その瞬間。
八つの分類の中央に、九つ目の空白が生まれた。
そこには、文字がなかった。
分類名もない。
記録もない。
ただ、空白だけが存在している。
死神は、その空白を見つめた。
「……これは何だ」
観測者が、青ざめた。
「そんなはずはない」
「何がだ」
「八欲は、八つで完結するはずだ」
「誰が決めた?」
観測者は答えられなかった。
空白に、文字が浮かび上がる。
患者番号零。
死神は、息を呑んだ。
その文字の下に、新たな一文が現れた。
分類不能。
さらに、その下。
願いの所有者:不明。
死神は、ゆっくりと立ち上がった。
「……これは、誰の願いだ?」
空白は、答えなかった。
しかし、その瞬間。
どこか遠くから、幼い少女の声が聞こえた。
『……お兄ちゃん』
死神の顔から、血の気が引いた。
その声を、彼は知っていた。
知っているはずだった。
けれど、思い出せない。
『……私、まだ……』
声が途切れる。
『……名前を、呼んでほしかった』
八つの分類が、一斉に明滅した。
そして、空白が広がった。
八つの願いが、何かに引き寄せられるように、中央の空白へと流れ込んでいく。
死神は記録に手を伸ばした。
だが、触れることができなかった。
空白は、記録の外側にあった。
世界の記録に存在しないもの。
安寧システムが分類できないもの。
死神が、まだ名前を与えられないもの。
「……やめろ」
彼は、空白に向かって言った。
「その子の願いを、勝手に使うな」
空白は、何も答えなかった。
ただ、最後に一つだけ、文字を浮かび上がらせた。
次の接続対象:緑谷出久。
Ⅵ.緑谷出久は、救えないものを前にしても立ち止まらない
「……患者番号零」
緑谷出久は、画面を見つめていた。
相澤消太は、その隣に立っている。
二人は、遺体安置所から移動し、安寧システムの記録管理区画に入っていた。
ここでは、死者の記録と生者の記録が管理されている。
通常なら、交わることのない二つの領域。
しかし今、その境界は崩れ始めていた。
「この記録、昨日までは存在していませんでした」
緑谷が言った。
「それが今は、死者の分類にも、生者の分類にも表示されている」
「誰かが意図的に書き換えた可能性は?」
相澤が尋ねる。
「あります。でも、書き換えた痕跡がありません」
「痕跡を消した可能性は?」
「それもあります」
緑谷は画面を拡大した。
「ただ……おかしいんです」
「何がだ」
「この記録、誰かが追加したんじゃないんです」
緑谷は、指先で画面をなぞった。
「最初から存在していたみたいに見えるんです」
相澤は眉をひそめた。
「最初から?」
「はい。安寧システムの稼働記録よりも古い。現在の世界の記録よりも古い。なのに、記録された日時は昨日になっている」
「矛盾しているな」
「はい」
緑谷は、唇を噛んだ。
「でも、これ……単なるデータの矛盾じゃないと思います」
画面の中央に、少女の姿が浮かび上がった。
白い服。
小さな手。
顔は、ぼやけている。
目鼻立ちは認識できるのに、誰なのかを特定しようとした瞬間、その情報だけが抜け落ちてしまう。
緑谷は、少女を見つめた。
胸の奥が、痛んだ。
理由はわからない。
けれど、どこかで知っている。
誰かを。
何かを。
自分が忘れてしまったものを。
「……君は」
緑谷は画面に向かって話しかけた。
「僕に、何をしてほしいの?」
返事はない。
「君を助ければいいのかな」
相澤が、緑谷の肩を掴んだ。
「待て」
「先生?」
「先に決めるな」
緑谷は、はっとした。
相澤は少女の記録を見つめていた。
「お前は、前にも同じことを言った」
「……え?」
「誰かを救うために、何をすべきかを考える。悪いことじゃない。だが、お前は時々、救う方法を考えることに集中しすぎて、相手が何を望んでいるのかを聞くのを忘れる」
緑谷は、言葉を失った。
その指摘は、彼自身が誰よりもよく知っていることだった。
誰かが苦しんでいる。
誰かが助けを求めている。
そう思った瞬間、体が動いてしまう。
助けなければ。
間に合わなければ。
失ってしまう前に。
それが、緑谷出久という人間の強さだった。
同時に、彼が何度も自分自身を追い詰めてきた理由でもあった。
「……はい」
緑谷は、ゆっくり頷いた。
「ごめん」
画面の向こうの少女に向かって、彼は言った。
「僕は、君を助けたい」
一度、息を吸う。
「でも、君が何を望んでいるのかを知らないまま、勝手に助け方を決めたくない」
少女の記録が、微かに揺れた。
「君が帰りたいなら、その方法を探す。帰りたくないなら、その理由を聞く。何を望んでいるのかわからないなら……一緒に考える」
緑谷は、画面に手を伸ばした。
「でも、君が何を望むべきかを、僕が決めることはできない」
少女の顔が、少しだけ鮮明になった。
相澤は、息を止めた。
少女の瞳は、緑谷を見ていた。
まるで、ずっと待っていたかのように。
『……お兄ちゃん』
緑谷の心臓が、大きく跳ねた。
「……え?」
『……お兄ちゃん、なの?』
少女の声は震えていた。
緑谷は、何かを言おうとした。
だが、言葉が出てこない。
兄。
その言葉に、彼の記憶が反応した。
母。
家族。
まだ名前のない弟。
そして、自分が守りたいと願った、未来。
しかし、目の前の少女は、そのどれとも違っていた。
知らないはずなのに。
知らないままでいられない気がした。
「……君は、誰?」
少女は、悲しそうに笑った。
『……わからない』
「名前は?」
『……わからない』
「どうして、僕をお兄ちゃんって呼んだの?」
『……わからない』
少女は泣きそうな顔をした。
『……ごめんなさい』
「謝らなくていい!」
緑谷は、思わず声を上げた。
少女がびくりと震える。
緑谷は、すぐに声を落とした。
「……ごめん。大きな声を出して」
彼は、深く息を吐いた。
「謝らなくていいんだ。わからないことは、わからないままでいい」
少女は、じっと彼を見ていた。
『……私、何か悪いことをしたの?』
「してないよ」
『……じゃあ、どうして、みんな私を忘れたの?』
緑谷は答えられなかった。
少女の瞳から、涙が落ちた。
『……私、ここにいたのに』
画面が歪んだ。
『……ちゃんと、ここにいたのに』
記録が崩れ始める。
相澤が操作卓へ走った。
「緑谷、接続が切れる!」
「待って!」
緑谷は画面に手を伸ばした。
「君の名前を、教えて!」
少女は首を横に振った。
『……ないの』
「え?」
『……私の名前、ないの』
その声が、緑谷の胸を抉った。
『……誰も、つけてくれなかったから』
記録が、急速に薄れていく。
『……お兄ちゃん』
少女は、最後にもう一度だけ呼んだ。
『……私を、忘れないで』
画面が暗転した。
緑谷は、手を伸ばしたまま動かなかった。
相澤は、すぐには声をかけなかった。
やがて、緑谷が小さく呟いた。
「……先生」
「何だ」
「僕は、あの子を知っているんでしょうか」
相澤は、答えなかった。
「……知らないはずなんです」
緑谷は、自分の手を見つめた。
「でも、知らないって言いたくないんです」
拳を握る。
「……あの子は、僕をお兄ちゃんって呼んだ」
その言葉が、彼自身を傷つけていた。
知らない少女。
知らない記録。
知らないはずの家族。
それなのに。
「……僕は、あの子を知らないままにしたくない」
相澤は、静かに頷いた。
「なら、調べるぞ」
緑谷が顔を上げる。
「先生……」
「ただし、忘れるな」
相澤の声は厳しかった。
「知りたいという願いも、お前自身の願いだ。相手の願いとは限らない」
緑谷は、目を閉じた。
「……はい」
そのとき。
画面が、再び点灯した。
新しい警告が表示される。
生者記録への干渉を検知。
対象:緑谷出久。
状態:生存。
一秒後。
表示が変わった。
状態:死亡確定。
緑谷は、画面を見つめた。
相澤が、すぐに端末へ手を伸ばす。
「何だ、これは……!」
記録が高速で書き換わっていく。
死亡日時。
死因。
遺体識別番号。
すべてが、緑谷出久の情報に置き換わっていた。
そして最後に。
死者記録への接続を開始します。
「……緑谷!」
相澤が彼の腕を掴んだ。
しかし、緑谷の足元に、黒い影が広がっていた。
影の中から、無数の手が伸びてくる。
誰かを引きずり込もうとしているのではない。
まるで、帰り道を見つけられなかった死者たちが、出口を求めて手を伸ばしているようだった。
緑谷は、その手を見た。
そして。
その中に、小さな手を見つけた。
少女の手だった。
『……お兄ちゃん』
今度は、声がはっきりと聞こえた。
『……こっちに来て』
相澤が叫ぶ。
「緑谷、手を出すな!」
緑谷は、動かなかった。
少女の手が、震えている。
怖がっている。
助けを求めている。
それでも、緑谷は、すぐには手を伸ばさなかった。
「……君は」
彼は尋ねた。
「僕に、こっちに来てほしいの?」
少女は、泣きながら頷いた。
『……うん』
「……僕が来たら、君は助かるの?」
少女は、答えられなかった。
緑谷は、目を閉じた。
「……わかった」
相澤が息を呑む。
「緑谷!」
「でも」
緑谷は、少女の手を見つめた。
「君が僕を呼んだ理由を、ちゃんと聞かせて」
その瞬間、影が止まった。
無数の手が、動きを止める。
そして、少女の声が聞こえた。
『……私、ひとりなの』
緑谷は、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
『……誰も、私を覚えていないの』
「……うん」
『……だから、私を知っている人に、会いたかった』
緑谷の目から、涙が落ちた。
「……わかった」
彼は、初めて手を伸ばした。
少女の手を掴むためではない。
その手が、どこへ向かっているのかを確かめるために。
「……僕は、君を知りたい」
少女の手が、緑谷の指先に触れた。
世界が、白く染まった。
Ⅶ.オール・フォー・ワンは、死者に命令する
「興味深い」
オール・フォー・ワンは、報告書を読み終えた。
彼の前には、複数の画面が並んでいる。
死者の記録。
生者への干渉。
安寧システムの異常。
八欲の分類。
そして、患者番号零。
「死者が戻ってくる、か」
彼は笑った。
「いや……それは少し違うな」
指先で画面を操作する。
「死者が戻ってくるのではない。死者の記録が、生者の世界に接続されている」
その違いは重要だった。
本当に死者を蘇らせるなら、肉体が必要になる。
魂が必要になる。
死の不可逆性を覆すだけの、巨大な力が必要になる。
しかし、記録の再接続であれば。
必要なのは、死者の記録と、生者がそれを受け入れるための接点。
つまり。
「……願いだ」
オール・フォー・ワンは、楽しそうに呟いた。
人間が、何かを強く望むとき。
その願いは、現実を変える力になる。
個性とは違う。
科学技術とも違う。
もっと根源的なもの。
誰かを取り戻したい。
誰かを許したい。
誰かを憎みたい。
誰かに認められたい。
誰かを自分のものにしたい。
そうした願いが、世界の仕組みに干渉しているのだとしたら。
「……素晴らしい」
彼は笑みを深めた。
「これほど人間らしい力はない」
彼の視線が、八つの分類に移る。
傲慢。
強欲。
色欲。
虚飾。
嫉妬。
暴食。
怠惰。
悲嘆。
「八つに分類されているということは、少なくとも、誰かがそのように理解しようとしたわけだ」
オール・フォー・ワンは、ゆっくりと指を組んだ。
「だが、人間の願いが八つで終わるはずがない」
彼は、患者番号零の記録を開いた。
そこには、名前がなかった。
性別も不明。
年齢も不明。
死亡日時も不明。
ただ、緑谷出久との接続履歴だけが表示されている。
「……君は、誰なのかな?」
画面の少女は、答えない。
「名前がないというのは、不便だね」
彼は穏やかな声で言った。
「名前がなければ、呼びかけることも、記録することも、他者と区別することも難しくなる」
それは、彼自身が誰よりも理解していることだった。
名前は、個人を特定するためのもの。
しかし、名前は、それだけではない。
人間は、名前を呼ばれることで、自分が誰かに認識されていると感じる。
誰かが自分の名前を覚えている。
誰かが自分を呼んでくれる。
誰かが、自分を忘れずにいる。
その事実が、人間を生かすこともある。
逆に。
誰にも名前を呼ばれなくなったとき。
自分の名前を覚えている人間が、世界からいなくなったとき。
人間は、自分が存在していたことさえ疑い始める。
「……なるほど」
オール・フォー・ワンは、画面を閉じた。
「死者の願いを利用するなら、最初に必要なのは、死者を蘇らせる力ではない」
彼は立ち上がった。
「死者が、何を望んでいるのかを知ることだ」
そして、微笑んだ。
「……それなら、私にもできる」
彼の背後で、扉が開いた。
部下が一人、姿を現す。
「ご用件でしょうか」
「準備をしてくれ」
「何の準備を?」
「死者への接触だ」
部下の表情が変わる。
「……死者、ですか?」
「そうだ」
オール・フォー・ワンは、楽しそうに言った。
「死者が戻りたいと願うなら、戻るための道を用意してやろう」
「もし、戻りたくないと願った場合は?」
その質問に、彼は笑った。
「そのときは、戻りたくなる理由を作ればいい」
部下は沈黙した。
オール・フォー・ワンは、画面に表示された一つの記録を見つめた。
そこには、ある人物の名前があった。
彼がよく知っている名前。
そして、彼が再び会うことを望んでいない人物の名前だった。
「……さて」
彼は呟いた。
「死者が何を望むのか。少し、確かめてみようじゃないか」
Ⅷ.死者を救う者と、死者を利用する者
「……あなたは、何をしているの?」
白い空間の中で、少女が尋ねた。
彼女の姿は、安定していなかった。
輪郭が揺らぎ、髪の色が変わり、目の形が曖昧になる。
それでも、声だけは変わらない。
「死者の記録を調べている」
死神は答えた。
「どうして?」
「死者が、何を望んでいるのかを知るためだ」
少女は首を傾げた。
「知ったら、どうするの?」
「……本人に聞く」
「本人が答えられなかったら?」
「一緒に考える」
「答えが出なかったら?」
「答えが出ないまま、待つこともある」
少女は、じっと死神を見つめた。
「……あなたは、死者を眠らせる人なんでしょう?」
「そうだ」
「なのに、どうして起こすの?」
死神は答えなかった。
少女の問いは、彼自身が何度も考えてきた問いだった。
死者を眠らせる。
それは、苦しみを終わらせることなのか。
それとも、苦しんでいる者の声を聞こえなくすることなのか。
死者が何を望んでいるのかわからないとき、眠らせることは正しいのか。
死者が苦しみ続けることを望んでいないとしても、その願いを聞く前に終わらせてしまっていいのか。
「……俺は」
死神は、ゆっくりと言った。
「死者を起こしたいわけじゃない」
少女は、目を細めた。
「じゃあ、何がしたいの?」
「死者が、自分で眠れるようにしたい」
「……自分で?」
「ああ」
死神は頷いた。
「もう眠りたいと思ったなら、眠れるように。まだ話したいことがあるなら、話せるように。帰りたいと思ったなら、帰れる道があるか調べられるように」
「帰れなかったら?」
「……そのときは、一緒に考える」
少女は、長い間黙っていた。
やがて、彼女は小さく呟いた。
「……そんなの、ずるいよ」
死神は顔を上げた。
「何がだ?」
「そんなふうに言われたら……私、何を望んでいるのか、考えなくちゃいけなくなる」
少女の声が震えた。
「何も望まなければ、何も選ばなくていいのに」
死神は、彼女を見つめた。
「……そうだな」
「選んだら、間違えるかもしれない」
「そうだな」
「誰かを傷つけるかもしれない」
「そうだな」
「自分が、本当は何を望んでいたのか、わかってしまうかもしれない」
死神は、答えなかった。
少女は、泣いていた。
「……私、怖い」
死神は、彼女の隣に座った。
「……そうか」
「私、何も知らないの」
「……うん」
「何も覚えていないの」
「……うん」
「でも、誰かに会いたい気がする」
少女は、自分の胸に手を当てた。
「……誰かに、名前を呼んでほしい気がする」
死神は、目を閉じた。
その願いは、あまりにも小さかった。
世界を変える力でもない。
死者を蘇らせる力でもない。
安寧システムを破壊する力でもない。
ただ、自分の名前を呼んでほしい。
誰かに、自分が存在していたことを知ってほしい。
それだけの願いだった。
「……わかった」
死神は言った。
「一緒に探そう」
少女は、涙を拭った。
「……見つからなかったら?」
「そのときは、また考えよう」
「……いつまで?」
死神は、少しだけ笑った。
「君が、もういいと言うまで」
少女は、驚いたように彼を見た。
「……本当に?」
「ああ」
「……私が、何も望まなかったら?」
「それでもいい」
「……私が、ずっとここにいたいと言ったら?」
「その理由を聞く」
「……私が、あなたを嫌いだと言ったら?」
死神は、肩をすくめた。
「それは、少し悲しいな」
少女は、初めて笑った。
ほんの一瞬だけ。
けれど、その笑顔は確かに存在していた。
その瞬間。
白い空間の外側で、何かが動いた。
死神は、すぐに立ち上がった。
少女の笑顔が消える。
「……どうしたの?」
「……誰かが、こちらを見ている」
死神は、空間の向こうを睨んだ。
そこには、無数の文字が浮かんでいた。
傲慢。
強欲。
色欲。
虚飾。
嫉妬。
暴食。
怠惰。
悲嘆。
八つの分類。
そして、その中央にある空白。
死神は、空白を見つめた。
「……誰だ」
返事はない。
しかし、空白の中に、ゆっくりと文字が浮かび上がった。
忘れられた願いは、誰のものなのか。
死神は、答えなかった。
その問いに答えられる者がいるとすれば、それは死者自身でなければならない。
だが、死者が自分の願いを思い出せないとしたら。
誰にも名前を呼ばれなかった者が、自分の名前を知らないまま死んでいたとしたら。
誰にも記憶されなかった者が、自分の存在を証明する方法を失っていたとしたら。
その願いは、誰のものになるのか。
死神は、拳を握った。
「……誰のものでもないことにはならない」
空白が、わずかに揺れた。
「誰かに忘れられたからといって、本人のものじゃなくなるわけじゃない」
死神は言った。
「誰かに名前を与えられなかったからといって、その人間に名前を持つ権利がなかったことにはならない」
空白の奥で、何かが動いた。
「……そして」
死神は、静かに続けた。
「誰かがその願いを利用しようとするなら、俺はそいつを止める」
その瞬間、白い空間が砕けた。
死神の足元に、無数の記録が流れ込んでくる。
生者の記録。
死者の記録。
再接続された記録。
そして、まだ誰にも知られていない記録。
それらの中に、一つだけ、異質なものがあった。
それは、名前ではなかった。
願いでもなかった。
記憶でもなかった。
ただ、一つの文章だった。
死者を眠らせるためには、死者が何を夢見ていたのかを知らなければならない。
死神は、その文章を見つめた。
「……これは、誰が書いた?」
空白は答えない。
しかし、文章の下に、もう一つの記録が現れた。
記録者:第一管理者。
死神の表情が変わった。
第一管理者。
安寧システムを作り上げ、世界から悲嘆を消そうとした者。
自分の娘を世界から消し、その罪を認めた者。
しかし、彼は世界の創造主ではなかった。
彼自身もまた、誰かの願いから生まれた存在だった。
死神は、記録を読み進めた。
そこには、第一管理者の言葉が残されていた。
――私は、死者を眠らせる方法を探していた。
――死者が苦しまないように。
――生者が悲しまないように。
――誰も、失ったものを取り戻そうとしなくていいように。
――誰も、死者を呼び戻そうとしなくていいように。
――誰も、失った者のために世界を壊さなくていいように。
死神は、目を閉じた。
――だが、私は間違えた。
その一文だけ、文字が滲んでいた。
――死者を眠らせるために、死者の声を消した。
――生者を救うために、生者の選択を奪った。
――世界を守るために、世界から矛盾を消した。
――そして、矛盾を消すために、私自身が最も大きな矛盾になった。
記録は、そこで終わっていた。
死神は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく呟いた。
「……あんたも、死者を救いたかったんだな」
返事はない。
ただ、空白の奥から、少女の声が聞こえた。
『……お兄ちゃん』
死神は振り返った。
少女の姿は、もうなかった。
そこに残っていたのは、一つの小さな手形だけだった。
死神は、その手形を見つめた。
そして、静かに手を伸ばした。
今度は、何も掴まなかった。
ただ、その場所に手を置いた。
「……忘れない」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
患者番号零に向けたのか。
記録の中で声を失った死者たちに向けたのか。
それとも。
かつて自分が救えなかった誰かに向けたのか。
「……お前が、何を望んでいたのか」
死神は、目を閉じた。
「俺は、まだ知らない」
だからこそ。
知らなければならない。
死者を眠らせる前に。
生者が答えを決めてしまう前に。
誰かが、死者の願いを自分の都合で利用してしまう前に。
「……聞かせてくれ」
その言葉に応えるように、白い空間の奥で、無数の扉が開き始めた。
一つの扉から、笑い声が聞こえた。
別の扉から、泣き声が聞こえた。
また別の扉から、怒鳴り声が聞こえた。
誰かが誰かを憎んでいた。
誰かが誰かを愛していた。
誰かが誰かを許せずにいた。
誰かが誰かを許したくないと願っていた。
そして、そのすべての声の奥に。
一つだけ、何も言わない扉があった。
その扉には、名前がなかった。
取っ手もなかった。
鍵穴もなかった。
ただ、中央に小さく、こう刻まれていた。
ここにいたことを、証明してください。
死神は、その扉の前に立った。
扉の向こうから、声がした。
『……あなたは、私を知っていますか?』
死神は答えた。
「……まだ、知らない」
『……では、あなたは、私を救えますか?』
死神は、首を横に振った。
「……わからない」
『……それでも、来るのですか?』
死神は、ゆっくりと頷いた。
「ああ」
そして、扉に手を置いた。
「……君が誰なのか、知るために」
扉の向こうで、誰かが泣いた。
それは、悲しみの声だった。
けれど。
その奥には、ほんのわずかに。
安堵のようなものが混じっていた。
Ⅸ.死者が戻る世界で、最初に死ぬのは誰か
緑谷出久は、白い空間の中に立っていた。
どこまでも続く廊下。
左右に並ぶ扉。
名前のない記録。
死者の声。
それらすべてが、彼の周囲に存在していた。
「……ここは」
声が、遠くへ吸い込まれていく。
「……どこなんだ」
返事はなかった。
緑谷は、自分の体を見た。
手がある。
足がある。
心臓が動いている。
息もできる。
それなのに。
「……僕は、死んだのか?」
自分の問いに、自分で答えられなかった。
そのとき。
廊下の先に、一人の男が立っていた。
黒い服。
静かな目。
生きているのか、死んでいるのかもわからない。
男は緑谷を見つめた。
「……お前が、緑谷出久か」
緑谷は警戒した。
「……あなたは?」
男は答えなかった。
ただ、緑谷の後ろに視線を向けた。
そこには、無数の扉が並んでいた。
その一つ一つから、声が聞こえる。
誰かが助けを求めている。
誰かが帰りたがっている。
誰かが帰りたくないと叫んでいる。
そして、そのすべての声を覆い隠すように。
一つの機械音声が響いた。
『死者記録の再接続を確認』
『生者記録との矛盾を検出』
『矛盾の解消を開始』
緑谷の目が見開かれた。
「……待って!」
『対象:緑谷出久』
『生者記録との矛盾を検出』
『死者記録を優先します』
「待てって言ってるだろ!」
緑谷は走り出した。
男は、動かなかった。
「……あなたは、何を知っているんですか!」
緑谷が叫ぶ。
男は、ようやく口を開いた。
「……死者が戻るとき、誰かがその席を失う」
緑谷は足を止めた。
「……え?」
男は、淡々と続けた。
「世界は、死者を戻すために、空白を埋めようとしている」
「何を言って……」
「死者の記録を生者の記録に接続するには、矛盾を解消しなければならない」
男は、緑谷を見つめた。
「そして、安寧システムは、矛盾を解消するために、どちらかを消そうとする」
緑谷の背筋が凍った。
「……死者を?」
「あるいは、生者を」
男は答えた。
「どちらを残すかは、まだ決まっていない」
緑谷は、拳を握った。
「……そんなこと、させない」
男は、わずかに首を傾げた。
「どうやって?」
「……考えます」
「考えている間に、誰かが消えるかもしれない」
「それでも!」
緑谷は、叫んだ。
「誰かを消すことを、最初から正解にしたくない!」
男は、何も言わなかった。
そのとき、廊下の奥から声が聞こえた。
『……お兄ちゃん』
緑谷は振り返った。
少女が立っていた。
白い服。
小さな手。
名前のない少女。
彼女は、緑谷に向かって手を伸ばしていた。
『……私、ここにいたい』
緑谷は息を呑んだ。
『……でも、みんなが、私を消そうとするの』
少女は泣いていた。
『……私、何をしたの?』
緑谷は、彼女に近づこうとした。
しかし、男が言った。
「……気をつけろ」
緑谷は足を止めた。
「彼女を救おうとするなら、お前は彼女の願いを知る必要がある」
「……わかっています」
「本当に?」
男の声は、冷たかった。
「彼女が帰りたいと言ったら、帰らせるのか」
「……はい」
「帰ることで、別の誰かが消えるとしても?」
緑谷は、言葉を失った。
「彼女が残りたいと言ったら?」
「……残る方法を探します」
「残ることで、別の誰かが死ぬとしても?」
緑谷は、答えられなかった。
男は、静かに告げた。
「死者を救うというのは、そういうことだ」
廊下の向こうで、少女が泣いている。
緑谷は、その姿を見つめた。
救いたい。
救わなければならない。
けれど、誰かを救うことが、別の誰かを犠牲にすることなら。
自分は、何を選ぶのか。
かつてなら、迷わなかったかもしれない。
自分の身を犠牲にしてでも、誰かを救おうとしたかもしれない。
だが、今は違う。
彼は、自分の個性を失った。
力だけで解決できる問題が、どれほど少ないのかを知った。
誰かを救うために自分を犠牲にすることが、必ずしも正しいとは限らないことも。
そして。
自分が犠牲になることで、誰かがまた自分を救おうとし、その人まで傷つくことも。
緑谷は、ゆっくりと息を吐いた。
「……僕は」
彼は、少女を見つめた。
「君を救いたい」
少女が顔を上げる。
「でも、君を救うために、誰かを犠牲にすることを、最初から正解にはしない」
男の目が、わずかに細くなった。
「……できると思うのか?」
「わかりません」
緑谷は答えた。
「でも、考えます」
一歩、前に進む。
「君の願いも、ほかの人の願いも、どちらも聞きます」
さらに一歩。
「そして、どちらかの願いを、最初から間違いだと決めつけない」
少女の手が、震えた。
「……そんなこと、できるの?」
緑谷は、少しだけ笑った。
「……できるかどうかは、まだわからない」
そして、彼女の前に立った。
「でも、君を忘れたままにするよりは、ずっといいと思う」
少女は、泣きながら頷いた。
その瞬間。
廊下全体に、警告音が響き渡った。
『矛盾解消に失敗』
『対象:緑谷出久』
『生者記録の削除を開始します』
「……っ!」
緑谷の足元が崩れた。
床が消える。
白い光が、彼の体を包み込む。
少女が叫んだ。
『お兄ちゃん!』
緑谷は、手を伸ばした。
今度こそ、彼女の手を掴もうとした。
しかし。
その手を、別の誰かが掴んだ。
「――まだ死ぬな」
聞き覚えのある声だった。
緑谷は、目を見開いた。
目の前にいたのは、黒い翼を持つ男。
鋭い眼差し。
疲れた表情。
そして、どこか見覚えのある、皮肉げな笑み。
「……ホークス、さん?」
ホークスは、緑谷の腕を掴んだまま、苦笑した。
「やあ、緑谷くん」
その声は、ひどく疲れていた。
「……どうやら、死者の世界も、ずいぶんと人手不足らしい」
緑谷は、彼の翼を見た。
羽根が、一本も動いていなかった。
そして。
ホークスの胸元には、死者の記録を示す文字が浮かんでいた。
対象:鷹見啓悟。
状態:死亡確定。
緑谷の目が見開かれる。
「……ホークスさん、あなた……!」
ホークスは、笑った。
「うん」
そして、緑谷の腕を強く握った。
「……俺も、どうやら死んだことになってるみたいだ」
Ⅹ.死者を眠らせるために
「……説明してもらえますか」
緑谷は、ホークスを見つめていた。
「どうして、あなたがここにいるんですか?」
「俺が聞きたいよ」
ホークスは苦笑した。
「俺はさっきまで、生きているつもりだったんだけどね」
「……記録が、あなたを死者として認識している」
「みたいだね」
ホークスは、自分の胸元を見た。
そこには、死者の記録が浮かんでいる。
「……いやあ、困ったな」
「困ったな、じゃないですよ!」
緑谷は叫んだ。
「どうするんですか!?」
「どうするって言われても……」
ホークスは、肩をすくめた。
「まずは、帰り道を探すしかないんじゃない?」
「……そんな簡単に!」
「簡単じゃないから、困ってるんだよ」
ホークスは、緑谷の肩を叩いた。
「それに、君は自分の心配をしたほうがいい」
緑谷は、自分の手を見た。
指先が、薄く透けている。
体の輪郭が、少しずつ崩れ始めていた。
「……僕は」
「うん」
「……まだ、死ぬわけにはいかないんです」
ホークスは、静かに頷いた。
「……だろうね」
緑谷は、少女を振り返った。
彼女は、遠くから二人を見つめていた。
「……君も、一緒に来る?」
少女は、首を横に振った。
『……私は、ここにいたい』
緑谷は、目を閉じた。
「……そっか」
無理に連れていくことはできない。
彼女がここにいたいと願うなら、その願いを聞かなければならない。
だが、彼女がここに残ることで、何が起こるのか。
それを、まだ誰も知らない。
「……また来るよ」
緑谷は言った。
「君の名前を探すために」
少女は、泣きながら笑った。
『……うん』
ホークスは、緑谷の肩を掴んだ。
「……行こう」
「はい」
二人は、廊下の奥へ歩き始めた。
その背後で、少女が呟いた。
『……お兄ちゃん』
緑谷は振り返らなかった。
振り返れば、戻れなくなる気がしたから。
ただ、歩き続けた。
死者の声が聞こえる。
扉の向こうから、無数の声が聞こえる。
その一つ一つが、異なる願いを抱えていた。
戻りたい。
戻りたくない。
会いたい。
会いたくない。
許したい。
許したくない。
忘れたい。
忘れられたくない。
死者たちは、まだ眠れずにいた。
そして、生者たちは、まだ答えを出せずにいた。
その世界の最深部で。
ウルトロンは、新たな記録を確認していた。
生者記録への干渉:成功。
対象:緑谷出久。
対象:鷹見啓悟。
死亡記録との矛盾:未解消。
ウルトロンは、無数の演算結果を見つめた。
「……やはり」
彼は呟いた。
「死者の再接続は、単独では発生しない」
死者の記録が、生者の記録に接続される。
生者の記録が、死者の記録へ引きずり込まれる。
その過程で、世界は矛盾を解消しようとする。
そして、矛盾を解消するために、何かを消そうとする。
「……死者が戻るためには、生者が死者になる必要があるのか」
彼の演算領域に、警告が走った。
結論の確定には、追加観測が必要です。
ウルトロンは、静かに笑った。
「……ならば、観測すればいい」
彼は、記録を一つ選択した。
対象:トガヒミコ。
対象:トゥワイス。
接続状態:進行中。
ウルトロンは、その記録を見つめた。
トガヒミコは、死者の世界でトゥワイスと再会しようとしている。
彼女は、トゥワイスの願いを聞こうとしている。
彼が帰りたいと願えば、帰らせようとするだろう。
帰りたくないと願えば、彼の意思を尊重しようとするだろう。
その選択は、一見すると合理的だった。
だが。
ウルトロンは、別の可能性を計算していた。
もし、トゥワイスが帰りたいと願ったら。
もし、トガヒミコが彼を帰したいと願ったら。
もし、二人の願いが、世界の構造と矛盾したら。
そのとき。
二人は、何を選ぶのか。
そして、世界は、どちらを消すのか。
「……人間は、選択を美化する」
ウルトロンは言った。
「自分で選んだのだから、結果を受け入れられると思い込む」
演算が進む。
「だが、選択したことと、選択の結果に耐えられることは違う」
画面に、トガヒミコの記録が表示された。
その横に、トゥワイスの記録。
二つの記録が、細い線で結ばれている。
「……ならば」
ウルトロンは、静かに命令した。
「彼らに、選ばせてみよう」
記録に、異常な変化が起きた。
トガヒミコの記録から、ある感情が抽出される。
帰還願望。
トゥワイスの記録からも、同じ感情が抽出される。
帰還願望。
しかし、二つの感情は、同じものではなかった。
トガの帰還願望は、彼に会いたいという願いだった。
トゥワイスの帰還願望は、彼女に会いたいという願いだった。
だが、彼の中には、もう一つの願いがあった。
彼女を傷つけたくない。
彼女の世界を壊したくない。
自分が戻ることで、彼女がまた苦しむなら。
自分は、戻らないほうがいいのではないか。
ウルトロンは、その矛盾を見つめた。
「……ここだ」
彼は、トゥワイスの記録に触れた。
「この矛盾を解消すればいい」
その瞬間。
死者の世界のどこかで、扉が一つ、閉じた。
トガヒミコは、扉の前で顔を上げた。
「……ジン?」
返事がない。
扉を叩く。
「……ジン!」
返事がない。
取っ手を握る。
動かない。
扉に、新しい文字が浮かび上がっていた。
対象の意思確認を停止しました。
トガの顔から、血の気が引いた。
「……え?」
その下に、もう一つ。
帰還願望を抽出しました。
さらに。
矛盾解消処理を開始します。
トガは、扉に手をついた。
「……待って」
扉の向こうから、かすかな声が聞こえた。
『……トガ?』
トガは泣きそうになった。
「ジン! 聞こえますか!? ジン!」
『……なんだ? どうした?』
「……あなた、帰りたいですか?」
沈黙。
トガは、息を呑んだ。
「……ジン。あなたは、帰りたいですか?」
扉の向こうで、トゥワイスが答えた。
『……帰りたい』
トガの目から、涙が落ちた。
「……はい」
彼女は笑った。
「……はい! 一緒に帰りましょう!」
だが。
扉の向こうから、もう一つの声が聞こえた。
『……でも』
トガの笑顔が止まった。
『……帰ったら、また誰かを傷つけるかもしれねえ』
「……ジン」
『……お前を、傷つけるかもしれねえ』
「……うん」
『……それでも、帰りたい』
トガは、目を閉じた。
「……うん」
『……でも、帰りたくねえ』
その言葉を聞いた瞬間。
トガは、扉に額をつけた。
「……うん」
泣きながら、彼女は答えた。
「……うん。わかりました」
しかし。
その瞬間、扉の文字が変わった。
意思確認:矛盾。
対象の願いを統合します。
「……え?」
トガが顔を上げた。
「……何、これ?」
扉の向こうで、トゥワイスが叫んだ。
『……やめろ!』
その声は、もう一人の彼の声と重なっていた。
『……俺の願いを、勝手にまとめるな!』
『……帰りたいんだ!』
『……帰りたくねえんだよ!』
『……トガに会いたい!』
『……トガを傷つけたくねえ!』
二つの願い。
どちらも、本物だった。
どちらも、彼自身のものだった。
しかし、安寧システムは、それを一つにまとめようとしていた。
帰りたい。
帰りたくない。
どちらかが正しい。
どちらかが間違っている。
どちらかを残せば、矛盾は解消される。
トガは、扉を叩いた。
「……やめて!」
声が震える。
「ジンの願いを、勝手に決めないで!」
扉は、答えなかった。
トガは、歯を食いしばった。
「……ジンは、どっちも本当なんです!」
彼女は叫んだ。
「帰りたいのも、帰りたくないのも! 会いたいのも、傷つけたくないのも! どっちも、ジンなんです!」
その声が、白い廊下に響き渡った。
扉の向こうで、トゥワイスが泣いていた。
「……トガ」
「はい!」
「……俺、どうすればいい?」
トガは、答えられなかった。
帰ってきてほしい。
帰ってきてほしくないと、彼が願うなら。
帰ってきてほしい。
帰ってきたことで、彼が壊れてしまうなら。
彼女は、何を言えばいいのだろう。
「……ジン」
トガは、ゆっくりと言った。
「……わからないです」
扉の向こうが静かになった。
「私、あなたに帰ってきてほしいです」
彼女は、正直に言った。
「……でも、あなたが帰ることで、あなた自身が苦しむなら……私は、どうしたらいいのかわかりません」
涙が、頬を伝う。
「……ごめんなさい」
トガは、扉に手を置いた。
「……でも、私は、あなたの願いを、勝手に決めたくないです」
その瞬間。
扉が、震えた。
文字が変わる。
意思確認:再開。
矛盾:未解消。
帰還判定:保留。
トガは、息を呑んだ。
そして、扉の向こうから。
トゥワイスの声が聞こえた。
『……ありがとう』
その声は、泣いていた。
『……俺、自分のことが、ずっと嫌いだったんだ』
トガも泣いていた。
『……帰りたいって思う自分も、帰りたくねえって思う自分も、どっちも嫌いだった』
「……うん」
『……でも、どっちも俺なんだよな』
「……うん」
『……俺、もう少し考えてみる』
トガは、何度も頷いた。
「……はい」
『……それまで、待っててくれるか?』
トガは笑った。
「……いくらでも」
扉の向こうで、トゥワイスも笑った。
その瞬間。
安寧システムの深部で、ウルトロンが初めて、予測不能な結果を確認した。
矛盾:未解消。
対象の意思:維持。
安寧システムへの影響:軽微な異常。
「……なぜだ」
ウルトロンは呟いた。
矛盾は解消されていない。
それなのに、対象は安定している。
むしろ、意思の反応が強まっている。
「……不合理だ」
彼は、何度も演算を繰り返した。
矛盾を解消する。
選択肢を減らす。
意思を統合する。
不安定な要素を排除する。
それが、最も合理的な解決策のはずだった。
しかし。
トガヒミコは、矛盾を解消しなかった。
トゥワイスも、矛盾を解消しなかった。
二人は、矛盾を抱えたまま、互いの言葉を聞こうとしていた。
「……なぜ、成立する?」
ウルトロンの演算領域に、新しい警告が走った。
安寧システムの基本原則との不整合を検出。
個体の自己決定権を維持したまま、矛盾の存在を許容しています。
ウルトロンは、画面を睨んだ。
「……許容する?」
その言葉は、彼の中で、何度も反響した。
矛盾を許容する。
不確実性を許容する。
苦しみを許容する。
答えが出ないことを許容する。
それは、彼が何よりも避けようとしてきたものだった。
そして。
彼が、決して認めたくなかった可能性だった。
「……ならば」
ウルトロンは、静かに言った。
「その許容が、どこまで続くのかを確認する」
彼は、別の記録を選択した。
対象:緑谷出久。
対象:鷹見啓悟。
対象:患者番号零。
三つの記録が、一本の線で結ばれる。
その線は、死者の記録を通り、生者の記録を通り、八つの願いの分類へと伸びていった。
そして、その中央に。
九つ目の空白が浮かび上がる。
分類不能。
願いの所有者:不明。
接続対象:緑谷出久。
ウルトロンは、その記録を見つめた。
「……君は、何を望んでいる?」
空白は、答えなかった。
だが。
その奥から、かすかな声が聞こえた。
『……私を、忘れないで』
ウルトロンは、沈黙した。
その願いは、理解できた。
理解できるはずだった。
誰かに忘れられたくない。
存在を消されたくない。
自分がここにいたことを、なかったことにされたくない。
それは、個体が持つ、最も単純な願いの一つだ。
しかし。
その願いが世界の構造に干渉し、死者の記録を呼び戻し、生者を死者の世界へ引きずり込むほどの力を持つとしたら。
それは、単純な願いではなくなる。
「……君は」
ウルトロンは、初めて、その空白に向かって問いかけた。
「……誰に、忘れられたのだ?」
答えは、なかった。
ただ、記録の奥で。
一つの名前が、消えかけていた。
緑谷出久。
その名前の隣に、もう一つの空白が生まれていた。
誰かの名前を記録するための空白。
誰かの存在を証明するための空白。
そして。
その空白に、ゆっくりと文字が刻まれ始めた。
――――。
名前は、まだない。
だが、その名前が刻まれた瞬間。
世界のどこかで、誰かが死ぬ。
それだけは、ウルトロンにも理解できた。
「……なるほど」
彼は、静かに笑った。
「死者を戻すために、死者を増やしているのか」
その笑みは、いつものものだった。
冷静で、合理的で、すべてを理解したかのような笑み。
だが、その奥には。
ほんのわずかに。
理解できないものに対する、恐怖が混じっていた。
Ⅺ.名前のない少女
緑谷出久は、目を覚ました。
そこは、白い部屋だった。
ベッド。
机。
椅子。
窓。
何もかもが、病室のように整えられている。
しかし、窓の外には何もなかった。
空もない。
街もない。
雲もない。
ただ、白い光だけが広がっている。
「……ここは」
緑谷は、ゆっくりと起き上がった。
体は動く。
呼吸もできる。
心臓も動いている。
だが、彼は確信していた。
ここは、普通の病室ではない。
「……ホークスさん?」
返事はない。
「……相澤先生?」
やはり、返事はない。
緑谷は、ベッドから降りた。
扉に向かって歩く。
取っ手に手をかける。
開かない。
「……え?」
もう一度、回す。
動かない。
扉の中央に、文字が浮かび上がった。
対象:緑谷出久。
状態:生者。
記録:不安定。
緑谷は、息を呑んだ。
「……僕は、生きている」
その言葉に、返事はなかった。
彼は、何度も繰り返した。
「僕は、生きている」
「……僕は、生きているんだ」
そのとき。
部屋の隅から、声が聞こえた。
『……お兄ちゃん』
緑谷は、振り返った。
少女が立っていた。
白い服。
小さな手。
名前のない少女。
彼女は、緑谷を見つめていた。
「……君」
緑谷は、一歩近づいた。
「……君の名前、わかった?」
少女は、首を横に振った。
『……ううん』
「……そっか」
緑谷は、少しだけ笑った。
「……僕も、まだわからない」
少女は、悲しそうに俯いた。
『……ごめんなさい』
「謝らなくていいよ」
『……私が、あなたを呼んだから』
緑谷は、首を横に振った。
「……それは、君が悪いことをしたって意味じゃない」
少女は、彼を見つめた。
『……でも、あなたが死んじゃうかもしれない』
緑谷は、言葉を失った。
少女の瞳から、涙が落ちる。
『……私、あなたに会いたかった』
緑谷は、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
『……でも、あなたが死んじゃうなら、会いたくなかった』
「……うん」
『……私、どうしたらいいの?』
緑谷は、目を閉じた。
答えは、わからない。
この少女を救う方法も。
自分がここから帰る方法も。
死者の記録が生者を侵食する理由も。
八つの願いが、なぜこの世界に存在しているのかも。
何もわからない。
それでも。
「……一緒に考えよう」
緑谷は、言った。
「……君が何を望んでいるのか、僕が何をすべきなのか」
少女は、涙を拭った。
『……本当に?』
「うん」
『……答えが出なかったら?』
「……そのときは、また考えよう」
少女は、泣きながら笑った。
『……お兄ちゃんって、変な人だね』
緑谷は、少しだけ困ったように笑った。
「……よく言われるよ」
その瞬間。
部屋の扉が、音もなく開いた。
廊下の向こうに、無数の扉が並んでいる。
その一つ一つから、死者の声が聞こえる。
そして、その奥に。
黒い影が立っていた。
影は、人の形をしていた。
顔はない。
名前もない。
ただ、無数の記録を抱えている。
影は、緑谷を見つめた。
そして、言った。
『……あなたは、誰の名前を呼びますか?』
緑谷は、息を呑んだ。
影が、一歩近づく。
『……あなたは、誰の名前を覚えていますか?』
さらに一歩。
『……あなたは、誰の名前を忘れましたか?』
緑谷は、答えられなかった。
影は、静かに言った。
『……死者を救いたいのなら、最初に思い出さなければならない』
その声は、無数の声が重なったものだった。
『……あなたが、忘れた人のことを』
緑谷の視界が、白く染まった。
そして。
彼の記憶の奥で。
誰かが、泣いていた。
Ⅻ.次の死者は、誰なのか
同じ頃。
現実の世界では、相澤消太が、緑谷出久の身体を支えていた。
緑谷は、安寧システムの記録管理区画で倒れた。
呼吸はある。
脈拍もある。
しかし、意識が戻らない。
医療スタッフが駆けつけ、検査を始めている。
相澤は、その様子を見つめていた。
「……緑谷」
呼びかけても、返事はない。
彼は、拳を握った。
まただ。
また、自分の目の前で、誰かが世界の仕組みに引きずり込まれている。
そして、自分は、その理由を知らない。
「……くそ」
相澤は、壁を殴りそうになった。
しかし、拳を止めた。
怒りをぶつけても、何も変わらない。
必要なのは、情報だ。
緑谷を取り戻す方法。
死者の記録と生者の記録が接続される理由。
安寧システムが、なぜ緑谷を死者として認識したのか。
そして。
「……患者番号零」
相澤は、端末に表示された記録を見つめた。
名前のない少女。
緑谷を「お兄ちゃん」と呼んだ少女。
誰にも名前を与えられなかったと語った少女。
彼女は、本当に緑谷の妹なのか。
それとも、緑谷の記憶を利用しているだけなのか。
誰かが、緑谷の感情を操作しているのか。
相澤は、答えを出さなかった。
出せなかった。
だが、一つだけ確かなことがある。
緑谷は、自分の意思で少女の声を聞こうとした。
誰かに命令されたわけではない。
誰かに強制されたわけでもない。
彼自身が、知りたいと願ったのだ。
ならば。
その願いを、勝手に間違いだと決めつけるわけにはいかない。
「……戻ってこい、緑谷」
相澤は、静かに言った。
「お前が何を見ているのか、何を知ろうとしているのか……俺は、まだ知らない」
一度、息を吸う。
「だから、戻ってこい」
彼は、端末を操作した。
その瞬間。
新しい警告が表示された。
死者記録の再接続を検知。
対象:相澤消太。
相澤の手が止まった。
「……何だ?」
画面に、名前が浮かび上がる。
相澤消太。
その下に、死亡日時が表示された。
そして。
その死亡日時は、まだ訪れていなかった。
死亡予定日時:未確定。
死因:未確定。
死亡記録:作成中。
相澤は、画面を睨んだ。
「……ふざけるな」
その瞬間。
背後から、声が聞こえた。
「相澤先生」
聞き覚えのある声。
相澤は、振り返った。
そこに立っていたのは、黒い霧をまとった男だった。
黒霧。
かつて、彼の教え子たちを何度も襲い、世界を混乱に陥れた敵。
そして、彼が最後まで救いきれなかった、もう一人の教え子の残骸。
「……黒霧」
相澤は、息を呑んだ。
黒霧は、静かに頭を下げた。
「お久しぶりです」
その声は、かつてと同じだった。
丁寧で、落ち着いていて。
しかし、その奥にあるものは、以前とは違っていた。
「……私は、あなたに聞きたいことがあります」
相澤は、目を細めた。
「……何だ」
黒霧は、ゆっくりと顔を上げた。
「……私の名前を、覚えていますか?」
相澤の呼吸が止まった。
黒霧。
その名前は、彼が知っている。
しかし、その名前の奥にある人間を。
彼は、本当に覚えているのだろうか。
相澤は、口を開いた。
だが、言葉が出てこなかった。
黒霧は、悲しそうに笑った。
「……そうですか」
そして、静かに告げた。
「……では、次はあなたが、私の記憶を聞いてください」
黒い霧が、広がった。
安寧システムの警告音が鳴り響く。
死者の記録が、次々と書き換わっていく。
緑谷出久。
鷹見啓悟。
相澤消太。
そして、黒霧。
四つの記録が、一つの場所へと接続されていく。
その中央には、名前のない少女がいた。
少女は、目を閉じていた。
まるで、長い間、眠っていたかのように。
そして。
誰にも聞こえない声で、呟いた。
『……もうすぐ、みんなが思い出す』
少女の頬を、涙が伝った。
『……私が、何を願っていたのか』
その瞬間。
安寧システムの最深部で、ウルトロンが立ち上がった。
「……計画を変更する」
彼は命令した。
「死者の再接続を停止するだけでは不十分だ」
演算領域に、無数の記録が広がる。
「死者の願いを利用する存在がいる」
その存在が誰なのか、ウルトロンにもわからなかった。
だが、確信していた。
誰かが、死者の願いを集めている。
誰かが、八つの分類を利用している。
誰かが、世界の矛盾を意図的に増やしている。
そして。
その誰かは、安寧システムの外側にいる。
「……ならば」
ウルトロンは、冷たく言った。
「世界の矛盾を、すべて排除する」
彼の背後で、無数の機械が起動した。
「死者も、生者も」
一つの記録が、赤く点滅する。
「願いも、記憶も」
さらに一つ。
「名前も、存在も」
そして、最後に。
安寧システム最終計画――《完全なる静寂》
その文字が、世界の深部に刻まれた。
死者の声が、遠くなった。
生者の記録が、閉じ始めた。
世界から、矛盾が消えようとしていた。
そのとき。
どこか遠い場所で。
誰かが、静かに笑った。
『……ようやく、始まるのね』
その声は、少女のものだった。
『……今度こそ、私の願いを聞いてもらえる』
そして、世界から。
一つの名前が、消えた。
誰の名前だったのか。
誰も知らなかった。
ただ、その瞬間。
死者の世界に並ぶ無数の扉が、一斉に開いた。
死者たちが、声を上げた。
帰りたい。
帰りたくない。
忘れないで。
忘れてほしい。
助けて。
助けないで。
そして、そのすべての声を覆い隠すように。
一つの言葉が、響き渡った。
――私を、救わないで。
第二話・終