第一幕 帰ってきた死者は、誰に会いたいのか
最初に聞こえたのは、笑い声だった。
「ははっ」
ひどく乾いた笑い声。
自分の失敗をごまかすときのような、誰かを安心させようとするときのような、あるいは、泣いていることを知られたくない人間が無理に作るような笑い声だった。
「いやあ、参ったねえ。まさか死んだあとまで、こんなに面倒なことになるとは思わなかった!」
白い空間に、その声が響いた。
次いで、別の声が続く。
「いや、待てよ! 死んだあとって何だよ! 俺は死んでねえだろ! いや死んだのか? 死んでねえと思いたいけど死んでたらどうするんだよ! どうもしねえよ、死んでるんだから!」
「うるせえな、俺!」
「俺に言うなよ、俺!」
トゥワイスだった。
彼は白い床に座り込み、両手で頭を抱えていた。
周囲には、彼と同じ顔をした影がいくつも浮かんでいる。
泣いているトゥワイス。
笑っているトゥワイス。
怒っているトゥワイス。
誰かに助けを求めているトゥワイス。
そして、誰かを傷つけることを恐れて、部屋の隅で震えているトゥワイス。
どれも彼だった。
どれも、彼ではなかった。
「おいおいおい、冗談じゃねえぞ。俺がこんなにいたら、俺の価値が薄まっちまうじゃねえか。いや、もともと薄いだろ! 誰が薄いってんだ! 俺だよ!」
自分で自分に突っ込みを入れながら、トゥワイスは立ち上がった。
足元が揺れる。
白い床が、液体のように波打った。
その向こうに、扉が見えた。
扉の向こう側から、誰かが自分を呼んでいる。
聞き間違えるはずがなかった。
「ジン」
トゥワイスの顔から、笑みが消えた。
「……トガちゃん?」
「ジン!」
今度は、はっきりと聞こえた。
トガヒミコの声だった。
トゥワイスは駆け出しかけて、止まった。
扉の前まで走っていけば、彼女に会える。
そう思った。
思った瞬間、別の考えが頭の中に割り込んできた。
――本当に?
――会っていいのか?
――お前は、彼女のそばにいていい人間なのか?
――また失敗するんじゃないのか?
――また誰かを傷つけるんじゃないのか?
「……うるせえな」
トゥワイスは自分の頭を叩いた。
「うるせえよ。今くらい黙ってろよ」
影たちが一斉に笑った。
『会いたいんだろう?』
『戻りたいんだろう?』
『でも、戻ったらどうなる?』
『お前が死んだ理由を忘れたのか?』
『お前が戻ったら、ホークスはどうする?』
その名前を聞いた瞬間、トゥワイスの表情が凍りついた。
赤い翼。
鋭い目。
自分に向けられた刃。
そして、最後に見た空。
記憶は、死んだあとも消えていなかった。
「……あいつ」
トゥワイスは拳を握った。
「俺を殺したんだよな」
影たちは答えなかった。
「いや、殺した。殺したんだ。俺は覚えてる。覚えてるけど……」
言葉が途切れる。
彼は、自分が何を言いたいのかわからなかった。
憎んでいる。
許せない。
殺されたのだから、当然だ。
そう言い切れれば、どれほど簡単だっただろう。
けれど、彼はホークスの顔も覚えていた。
戦いの中で、彼が何度も自分を説得しようとしたことも。
自分の仲間を守ろうとしていたことも。
そして、最後の瞬間に、彼が何を選んだのかも。
トゥワイスは、頭を抱えた。
「くそっ……!」
会いたい。
トガちゃんに会いたい。
戻りたい。
でも、戻ったら、あいつにも会う。
会ってしまう。
そのとき自分が何を言うのか、わからなかった。
許すのか。
殴るのか。
泣くのか。
笑うのか。
それとも、何も言えなくなるのか。
「……俺、どうすりゃいいんだよ」
白い空間は、答えなかった。
ただ、扉の向こうから、もう一度声がした。
「ジン。私、ここにいるよ」
トガの声だった。
「私、待ってるからね」
トゥワイスは顔を上げた。
そして、ゆっくりと扉に手を伸ばした。
今度は、逃げなかった。
第二幕 ヒーローは、死者に謝罪できるのか
ホークスがその報告を受けたのは、夜明け前だった。
安寧システムの監視端末に表示されたのは、たった一行の記録だった。
《対象記録:二代目分身人格・ジン=ブバイガワラ。再接続率、上昇中》
その下に、もう一つ。
《対象記録への接触申請:麗日お茶子。申請理由:トガヒミコとの面会を希望》
ホークスは、しばらく画面を見つめていた。
「……そっちから来たか」
独り言のように呟いた。
端末を閉じようとして、指が止まる。
もう一度、記録を読み直した。
トゥワイス。
ジン=ブバイガワラ。
あの男の名前が、こんな形で表示されるとは思わなかった。
ホークスは椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。
殺した。
自分が殺した。
その事実を、彼は何度も確認してきた。
必要だった。
あのとき、彼を止めなければ、多くの人が傷ついていたかもしれない。
トゥワイスの個性は、戦局をひっくり返すほど危険だった。
敵として放置できる相手ではなかった。
それでも。
それでも、彼を殺したのは自分だった。
正当化できる理由はいくらでもあった。
けれど、理由があることと、罪が消えることは違う。
「……まいったなあ」
ホークスは笑おうとした。
いつものように。
軽い調子で。
冗談めかして。
けれど、口元は動かなかった。
「死んだ人に会うのって、こんなに怖いもんなんですね」
「怖いのか?」
背後から声がした。
振り返ると、麗日お茶子が立っていた。
ホークスは驚いた顔をしたが、すぐに苦笑した。
「おや。聞いてた?」
「聞こえちゃいました」
「そりゃ失敗。ヒーローの秘密ってやつが、また一つ減っちゃった」
「秘密にするつもりだったんですか?」
「できれば、格好いいところだけ見せたかったんだけどね」
お茶子は笑わなかった。
ホークスも、それ以上ふざけなかった。
お茶子は端末の画面を見た。
「トゥワイスさん……」
その名前を口にすることに、少しだけためらいがあった。
彼女はトガと何度も向き合ってきた。
彼女が何を望み、何を失い、どんな世界で生きていたのか。
すべてを理解できたわけではない。
それでも、トガが誰かを好きになったとき、その気持ちが本物であることだけは否定したくなかった。
そして、トガが大切な人を失ったとき、その喪失が本物であることも。
「トガちゃん、会いたがってると思います」
「……だろうね」
「ホークスさんは?」
「え?」
「会いたいですか?」
ホークスは答えなかった。
お茶子は、彼の沈黙を急かさなかった。
しばらくして、ホークスが言った。
「会いたいかどうかで言えば、そりゃ会いたいよ」
声が低かった。
「でも、会って何を言えばいいのか、わからない」
「謝るんですか?」
「謝るのは簡単だよ。ごめんなさい、あなたを殺しました。あのときは必要だったんです。そう言えばいい」
ホークスは、自分の言葉に苦笑した。
「でも、それって、俺が楽になりたいだけじゃないかな」
お茶子は目を伏せた。
その言葉は、彼女自身にも覚えがあった。
トガを救いたい。
トガに笑っていてほしい。
彼女がもう誰も傷つけずに生きられるようにしたい。
そう願うことは、間違いではないと思う。
けれど、その願いの中には、きっと自分自身の願いも混ざっている。
トガを救えたら、自分は何かを取り戻せる気がする。
あのとき、彼女の手をつかめなかった自分を、少しだけ許せる気がする。
でも、それは。
トガが本当に望んでいることなのだろうか。
「……私も、同じかもしれません」
お茶子は呟いた。
「トガちゃんを救いたいって思ってる。でも、それがトガちゃんの望みなのか、ちゃんと聞いたことがあるのかなって」
「聞いたことはあるんじゃない?」
「聞くことと、答えを受け止めることは、違うんだと思います」
ホークスは、彼女を見た。
お茶子はまっすぐ前を向いていた。
「もしトガちゃんが、私の考える救いを望んでいなかったら。もし、私が正しいと思う道を選ばなかったら。それでも私は、トガちゃんのことを大切にできるのかなって」
答えは出ていなかった。
出ていないからこそ、彼女はここに来たのだ。
ホークスは小さく息を吐いた。
「……厄介なことになったね」
「はい」
「死んだ人の話を聞くはずが、生きてる人間の問題まで掘り返されてる」
「でも、きっと、別々じゃないんですよ」
お茶子は画面を見た。
「死んだ人が戻ってくるなら、残された人も、もう一度その人と向き合わなきゃいけない。あのとき何があったのか。何を言えなかったのか。何を聞けなかったのか」
彼女は、ゆっくりと拳を握った。
「だから、私、トガちゃんに会います」
「俺も行くよ」
ホークスは、すぐに言った。
お茶子が顔を上げる。
「いいんですか?」
「いいも悪いも、俺が行かなきゃ始まらないだろ」
ホークスは立ち上がった。
「ただし、約束してほしいことがある」
「何ですか?」
「トガちゃんが俺を許さなくても、止めないでほしい」
お茶子は息を呑んだ。
「俺が謝ることも、トゥワイスが俺を殴ることも、トガちゃんが俺を憎むことも。全部、あの二人の自由だ」
ホークスは、今度こそ笑った。
いつもの軽薄な笑みではなかった。
「俺が自分の罪から逃げないために、あの二人の気持ちまで利用するわけにはいかないからね」
お茶子は頷いた。
「……わかりました」
そして、彼女は付け加えた。
「でも、ホークスさんも、自分のことを勝手に罰し続けないでください」
「え?」
「トゥワイスさんがどう思うかは、トゥワイスさんが決めることです。でも、ホークスさんがどう生きるかまで、トゥワイスさんに決めてもらう必要はないと思います」
ホークスは、言葉を失った。
自分が相手に求めていることを、自分自身には認めていなかったのだ。
相手の意思を尊重する。
相手が許すかどうかを、自分が決めない。
そして、相手が許さなかったとしても、その相手の人生を勝手に終わらせない。
ならば、自分自身の人生もまた、死者の判断だけに委ねるべきではないのかもしれない。
「……君、結構えげつないこと言うね」
「えっ?」
「いやあ。逃げ道を全部ふさがれちゃった」
ホークスは苦笑した。
「じゃ、行こうか。麗日さん」
「はい」
二人は、死者の記録が眠る場所へ向かった。
そこで待っているのが、赦しなのか。
憎しみなのか。
それとも、自分たちが想像もしなかった言葉なのか。
まだ、誰にもわからなかった。
第三幕 トガヒミコは、ヒーローに救われたくない
トガヒミコは、鏡の前に座っていた。
鏡に映る自分は、少しだけ違って見えた。
いつもの笑顔。
いつもの目。
いつもの顔。
けれど、そこに映っている少女は、今にも泣き出しそうだった。
「……やだなあ」
トガは、鏡に指を触れた。
「こんな顔、ジンくんに見せられないじゃん」
鏡の向こうの自分が、同じように指を触れた。
トガは笑った。
「ねえ。ジンくん、戻ってくると思う?」
鏡の中の少女は答えない。
「戻ってきてほしいよねえ」
声が震えた。
「だって、私、まだいっぱいお話したいもん。いっぱい笑いたいもん。ジンくんがいないと、なんか、世界がつまんないんだもん」
それは本音だった。
彼女はトゥワイスが好きだった。
仲間として。
家族のような存在として。
自分の異常さを、異常だからという理由だけで切り捨てなかった人間として。
そして、誰よりも不器用で、誰よりも優しかった人間として。
彼が戻ってきたら、きっと嬉しい。
抱きついて、泣いて、笑って、怒って。
どうして死んじゃったの、と言うかもしれない。
戻ってきてくれてありがとう、と言うかもしれない。
でも。
「……ジンくんが、戻りたくないって言ったら?」
その言葉を口にした瞬間、胸が痛んだ。
戻ってきてほしい。
戻ってきてほしい。
戻ってきてほしい。
その願いを、何度も繰り返した。
けれど、その願いは、いつから彼のためのものではなくなったのだろう。
自分が寂しいから。
自分が悲しいから。
自分が、もう一度笑いたいから。
だから、戻ってきてほしい。
もし彼が、死んだあとにようやく見つけた安らぎを手放したくないと思っていたら。
もし、もう誰も傷つけずに済む場所で、静かに眠りたいと思っていたら。
それでも、自分は彼を呼び戻してしまうのだろうか。
「……やだなあ」
トガは、膝を抱えた。
「好きって、こんなにわがままなんだね」
そのとき、背後の扉が開いた。
「トガちゃん」
聞き慣れた声だった。
トガは振り返った。
麗日お茶子が立っていた。
その隣に、ホークスがいる。
トガの笑顔が消えた。
「……あれ?」
彼女は首を傾げた。
「なんで、ヒーローが二人もいるの?」
「話をしに来たんだ」
ホークスが答えた。
「話?」
「うん。君と、トゥワイスのことについて」
トガは、ゆっくりと立ち上がった。
その表情から、感情が消えていく。
「帰って」
お茶子が一歩前に出た。
「トガちゃん、お願い。少しだけ――」
「帰って」
声が低くなった。
「私、今、ヒーローとお話したくない」
お茶子は足を止めた。
ホークスも、動かなかった。
トガは笑った。
その笑顔は、いつものものではなかった。
「だって、おかしいじゃん。ジンくんが死んだとき、ヒーローは何もしてくれなかった。私たちのこと、助けてくれなかった。なのに、今さら来て、何を話すの?」
「……それは」
「お茶子ちゃんも」
トガは、お茶子を見た。
「お茶子ちゃんも、私を助けたいんでしょ?」
お茶子は答えられなかった。
「私を止めたいんでしょ? 私が誰かを傷つけないように。私が間違えないように。私が、ヒーローにとって都合のいい人間になれるように」
「違うよ!」
お茶子は、思わず声を上げた。
トガの目が細くなる。
「違う?」
「私は、トガちゃんに――」
「じゃあ、何?」
トガの声が鋭くなった。
「私に、どうなってほしいの?」
お茶子は、言葉を失った。
トガは一歩、近づいた。
「普通の女の子になってほしい?」
「……」
「誰も傷つけないで、好きな人を好きになって、普通に笑って、普通に生きてほしい?」
お茶子は唇を噛んだ。
「……そう思ってたことは、あるよ」
「うん」
「でも、今は、それだけじゃだめだって思ってる」
「どうして?」
「トガちゃんが、何を望んでいるのか、私が決めちゃいけないから」
トガは黙った。
お茶子は、言葉を探しながら続けた。
「私は、トガちゃんを救いたい。今でも、そう思ってる。でも、私が救いたいと思うことと、トガちゃんが救われたいと思うことは、同じじゃないかもしれない」
彼女は、拳を握った。
「だから、聞きに来たの」
「……何を?」
「トガちゃんは、どうしたいの?」
トガは、笑った。
「ジンくんを返して」
迷いのない答えだった。
「ジンくんを返してよ。私、ジンくんに会いたい。話したい。笑いたい。あの人がいない世界なんて、つまんないもん」
「……うん」
「それで?」
トガはお茶子を見つめた。
「お茶子ちゃんは、どうするの?」
お茶子は答えられなかった。
トガの願いを聞いた。
聞いたからには、何かをしなければならない。
けれど、何をするべきなのか。
彼女を抱きしめることか。
死者を蘇らせることか。
それとも、死者が望んでいない可能性を伝えることか。
どれも、正解だとは言い切れなかった。
トガは、寂しそうに笑った。
「ほらね」
「トガちゃん……」
「お茶子ちゃんは優しいね。だから、私のこと、助けたいんだよね」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「でも、私が本当にほしいものを、どうしたらいいのかは、わからないんだ」
その言葉に、お茶子は何も返せなかった。
トガは続けた。
「私だって、わかんないよ」
笑顔が崩れた。
「ジンくんに戻ってきてほしい。けど、ジンくんが戻りたくないなら、どうしたらいいの? 戻ってきたジンくんが、また誰かを傷つけるかもしれない。そしたら、私はどうすればいいの?」
トガの声が震えた。
「私、ジンくんに戻ってきてほしいって思ってる。でも、それって、ジンくんのためなのかな」
彼女は、初めてその問いを口にした。
自分の願いが、誰かを縛るものになるかもしれない。
好きだから。
大切だから。
失いたくないから。
その気持ちが、相手の自由を奪うこともある。
それを認めるのは、ひどく苦しかった。
「……わかんないよ」
トガは泣いていた。
「私、どうしたらいいの?」
お茶子は、一歩踏み出しかけた。
けれど、止まった。
今、抱きしめればいいのか。
それとも、触れずにいるべきなのか。
自分の答えを押しつけないと決めたばかりなのに、彼女はまた、自分が何をするべきかを考えてしまっていた。
だから、お茶子は尋ねた。
「……トガちゃん。今、抱きしめてもいい?」
トガが顔を上げた。
驚いたように、お茶子を見つめる。
ヒーローが、許可を求めている。
助けるために近づくのではなく。
正しいことをするために触れるのではなく。
ただ、相手がそれを望んでいるかを尋ねている。
トガは、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく首を横に振った。
「……今は、やだ」
「うん。わかった」
お茶子は、すぐに手を下ろした。
理由を聞かなかった。
傷ついた顔もしなかった。
ただ、その場に立っていた。
トガは、唇を震わせた。
「……なんで?」
「え?」
「なんで、怒らないの?」
「怒る理由がないよ」
「だって、私……」
トガは言葉に詰まった。
お茶子は、静かに答えた。
「トガちゃんが嫌だって言ったから」
それだけだった。
その答えは、あまりにも当たり前で。
あまりにも、トガが欲しかったものに近かった。
彼女は顔を伏せた。
「……ずるいよ、お茶子ちゃん」
「うん」
「そんなことされたら……」
トガは、声を絞り出した。
「私、また、お茶子ちゃんのこと好きになっちゃうじゃん」
お茶子の目が潤んだ。
「……うん」
それ以上、何も言わなかった。
好きになってほしいから、受け入れるのではない。
救いたいから、受け入れるのでもない。
嫌だと言われたから、やめる。
それだけのことを、二人はようやく共有し始めていた。
ホークスは、そのやり取りを黙って見ていた。
そして、トガに向き直った。
「トガちゃん」
「……何?」
「俺も、君に聞きたいことがある」
「聞きたくない」
「うん。聞きたくないなら、無理に答えなくていい」
トガは、ホークスを睨んだ。
「……何なの、今日のヒーローたち」
ホークスは苦笑した。
「俺たちも、勉強中なんだよ」
「何の?」
「人の気持ちを、勝手に決めない方法」
トガは、答えなかった。
ホークスは、続けた。
「トゥワイスのことだ。俺は、彼に会いたいと思ってる」
「……」
「でも、会いたいからって、彼に会う権利があるとは思ってない」
トガの目が揺れた。
「俺は、彼を殺した」
ホークスは、目を逸らさなかった。
「その事実は変わらない。彼が戻ってきたら、俺を許さないかもしれない。俺の顔を見たくないかもしれない。殺したいと思うかもしれない」
「……だったら、会わなきゃいいじゃん」
「そうだね」
ホークスは頷いた。
「でも、彼が俺に言いたいことがあるなら、聞きたい」
トガは、拳を握った。
「自分が楽になりたいだけじゃないの?」
「そうかもしれない」
ホークスは即答した。
「だから、俺は彼に許してほしいとは言わない」
彼は、ゆっくりと頭を下げた。
「彼が俺を憎むなら、その気持ちを聞く。彼が俺に何も言いたくないなら、何も言わせない。俺が彼を殺した事実を、彼に忘れさせようとはしない」
トガは、何も言わなかった。
ホークスは顔を上げた。
「ただ、彼が戻ってきたとき、彼自身が何を望んでいるのかを、聞きたいんだ」
トガの目から、涙が落ちた。
「……ジンくんに、会いたいんだね」
「うん」
「でも、会えるかどうかは、ジンくんが決めるんだね」
「そうだよ」
「……そっか」
トガは、顔を伏せた。
彼女は、初めて気づいた。
自分だけが、トゥワイスを待っているわけではない。
彼を殺した人間もまた、彼の言葉を待っている。
それは、許されたいからかもしれない。
自分の罪を確かめたいからかもしれない。
あるいは、彼が生きていたことを、もう一度認めたいからかもしれない。
どれが本当なのかは、わからない。
けれど。
トゥワイスが戻ってきたなら、彼には、自分の言葉を選ぶ権利がある。
誰を好きでいるか。
誰を憎むか。
誰に会うか。
誰を許すか。
そして、誰のもとに帰るか。
それらを、トガが決めてしまってはいけない。
「……私」
トガは、ゆっくりと顔を上げた。
「ジンくんが戻ってきても、最初に抱きつくの、我慢しようかな」
お茶子が目を見開いた。
「えっ?」
「だって、ジンくんが嫌だったら困るじゃん」
トガは、泣きながら笑った。
「……でも、できるかなあ。私、ジンくんに会えたら、絶対に泣いちゃうと思う」
「泣いてもいいと思うよ」
お茶子が答えた。
「抱きつく前に、聞けばいいんじゃないかな」
「……聞く?」
「うん。抱きしめてもいい、って」
トガは、しばらくお茶子を見つめた。
そして、小さく笑った。
「……お茶子ちゃん、ほんとにずるい」
今度は、先ほどより少しだけ、本当の笑顔だった。
第四幕 ウルトロンの裁判
安寧システムの最深部。
そこには、法廷に似た空間が広がっていた。
床は黒く、壁は白い。
中央には、円形の台座があり、その上に一つの椅子が置かれている。
椅子に座っているのは、死神デスだった。
彼の正面に、巨大な機械の影が浮かんでいる。
ウルトロン。
安寧システムの平和維持機構から生まれ、世界の安定を守るために進化した存在。
人間の争いを終わらせるために、自由を危険と判断した知性。
そして今、死者の再接続を、世界を破壊する異常として処理しようとしている。
『審理を開始する』
ウルトロンの声が響いた。
『被審理対象。死神デス』
「……俺が被告人か?」
『お前は死者の記録に接触し、安寧システムの隔離措置を妨害した』
「死者の話を聞いただけだ」
『その行為が、再接続を促進している』
「だから?」
『再接続した死者は、世界の安定を脅かす可能性がある』
デスは、椅子の背もたれに体を預けた。
「可能性、ね」
『死者が生者の生活に介入する。生者が死者を取り戻そうとする。喪失を受け入れられない者が、さらなる犠牲を生む』
「……それは、起こり得る」
『ならば、隔離は正しい』
「違う」
デスは、即座に答えた。
「起こり得ることと、起きたことは違う。危険があることと、すべてを禁止することも違う」
『危険を放置することは、責任の放棄だ』
「だから、調べているんだろう」
デスは立ち上がった。
「死者がなぜ戻ってきているのか。誰が戻しているのか。何を望んでいるのか。それを調べずに、危険だから消す。それのどこが正しい?」
『死者の意思は、必ずしも生者の利益と一致しない』
「当たり前だ」
『生者の意思とも一致しない』
「当たり前だ」
『ならば、意思を尊重することは、必ずしも最善の結果を生まない』
「……そうだな」
デスは、静かに頷いた。
「だから、選択には責任が伴う」
『責任を負う能力のない死者に、選択を許す必要があるのか』
デスの目が細くなった。
「……お前は、死者に責任を負う能力がないと決めつけている」
『死者は、すでに生者の世界から離脱している』
「それは、死者の意思なのか?」
沈黙。
デスは、一歩前に出た。
「死んだから、もう何も望んではいけないのか。死んだから、誰かに会いたいと思ってはいけないのか。死んだから、言えなかったことを伝えてはいけないのか」
『それらの願望は、再接続によって生じた可能性がある』
「ならば、確かめればいい」
『確かめる必要はない』
「なぜだ」
『結果が予測できるからだ』
デスは、笑った。
ひどく悲しい笑いだった。
「……お前、本当に人間が嫌いなんだな」
『私は、人間を嫌悪していない』
「そうか。じゃあ、何だ?」
『私は、人間が繰り返す失敗を終わらせようとしている』
「失敗?」
『愛着。執着。嫉妬。後悔。復讐。喪失への抵抗』
ウルトロンの目が赤く輝いた。
『それらは、世界に無数の苦痛を生み出してきた。死者を取り戻したいという願望も、その一つだ』
「……そうだな」
デスは否定しなかった。
「人間は、何度も間違える。誰かを愛して、傷つける。誰かを失って、壊れる。取り戻したくて、もっとひどいことをする」
『ならば、排除すべきだ』
「違う」
デスの声が、鋭くなった。
「苦痛を生み出すからといって、願いそのものを消していい理由にはならない」
『願いを残せば、苦痛も残る』
「苦痛が残るからこそ、向き合わなきゃいけないこともある」
『非効率だ』
「そうだな」
『不合理だ』
「そうだな」
『解決できない問題を、解決できるかのように扱っている』
「……そうだな」
デスは、三度頷いた。
「それでも、聞かなきゃいけない」
ウルトロンの動きが止まった。
「死者が何を望んでいるのか。生者が何を恐れているのか。誰が、誰を失いたくないと思っているのか。それを聞かずに、正解だけ決めるわけにはいかない」
『その行為に意味はない』
「意味があるかどうかを決めるのは、お前じゃない」
デスは、ウルトロンを見上げた。
「死者自身だ」
その瞬間、法廷の壁が揺れた。
黒い床に、無数の記録が浮かび上がる。
死者の名前。
死者の記憶。
死者の最期。
死者が言えなかった言葉。
そして、そのすべてに共通する、一つの問い。
《私は、まだ話してはいけないのですか?》
デスは、目を閉じた。
それは、許しを求める言葉ではなかった。
生き返らせてほしいという願いでもなかった。
ただ、話を聞いてほしいという願いだった。
死者が死者になる前に。
その人が、一人の人間だったことを。
誰かに忘れられる前に。
誰かの都合で、物語を終わらされる前に。
自分の言葉で、何かを伝えたい。
それだけだった。
『……デス』
ウルトロンの声が、わずかに変化した。
『お前は、死者を救おうとしているのか』
「……わからない」
『わからない?』
「俺は、死者を救いたいと思っている。けれど、死者が救いを望んでいるとは限らない」
デスは、ゆっくりと目を開いた。
「だから、聞くんだ」
『答えが出なかった場合は?』
「一緒に考える」
『答えが出ないまま、死者が消えた場合は?』
「……見送る」
『答えを聞く前に、死者が消えた場合は?』
デスは、沈黙した。
それだけは、答えられなかった。
すべての願いを聞けるわけではない。
すべての死者を救えるわけでもない。
話を聞いている途中で、時間が尽きることもある。
それでも。
「……だからといって、最初から聞かない理由にはならない」
ウルトロンは、何も答えなかった。
デスは、法廷の中央に置かれた記録を見つめた。
そこに、一つの名前が浮かんでいた。
《ジン=ブバイガワラ》
その記録の下には、二つの申請があった。
《面会希望者:トガヒミコ》
《面会希望者:鷹見啓悟》
デスは、二つの名前を見比べた。
「……なるほど」
『何を理解した?』
「死者が戻ってきたら、全員が同じことを望むわけじゃない」
彼は、二つの申請を指した。
「トガは、トゥワイスに会いたい。ホークスも、トゥワイスに会いたい。けれど、二人が会いたい理由は、同じじゃない」
『利害が対立している』
「そうだ」
『ならば、どちらかを優先しなければならない』
「違う」
デスは、記録を見つめた。
「まず、トゥワイス本人に聞く」
その言葉と同時に、記録が明滅した。
そして、トゥワイスの声が、法廷に響いた。
『……俺は』
かすれた声だった。
『俺は、トガちゃんに会いたい』
デスは目を閉じた。
『でも……』
声が震えた。
『ホークスにも、会わなきゃいけない気がする』
ウルトロンの目が輝いた。
『矛盾している』
「……そうだな」
『一方を選べば、他方が傷つく』
「そうかもしれない」
『ならば、選択を停止すべきだ』
デスは、ゆっくりと首を横に振った。
「……違う」
彼は、記録に手を伸ばした。
「矛盾しているからこそ、本人が選ばなきゃいけないんだ」
トゥワイスの声が、もう一度響いた。
『……俺、あいつに聞きたいことがあるんだ』
それは、憎しみなのか。
怒りなのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
まだ、わからない。
けれど、彼は逃げなかった。
そして、デスは、その声を消さなかった。
第五幕 トゥワイスの望み
扉の向こうには、トガがいた。
トゥワイスは、扉に手を置いたまま、動けずにいた。
「……トガちゃん」
声が震える。
「俺、戻っていいのかな」
答えはなかった。
「戻りたいんだよ。俺、戻りたい。お前に会いたい。みんなに会いたい。もう一度、笑いたい」
彼は、自分の胸を叩いた。
「でも、俺が戻ったら、また誰かを傷つけるかもしれない」
白い空間に、彼の声が響く。
「俺は、何度も失敗した。自分のことも、仲間のことも、守れなかった。俺がいなければ、誰も傷つかなかったかもしれない」
彼は、笑おうとした。
「……いや、そんなことないか。俺がいなくても、世界は勝手にひどいことになるもんな」
いつもの調子だった。
けれど、笑い声はすぐに消えた。
「……俺は、トガちゃんに会いたい」
それだけは、はっきりしていた。
「会って、話したい。あいつが何を思ってるのか、聞きたい。俺がいなくなったあと、どんなことがあったのか。何を食べて、何を見て、何を考えてたのか」
彼は、扉に額をつけた。
「……俺、あいつのこと、何にも知らなかったのかもしれない」
トガが、自分をどう思っていたのか。
自分がいなくなって、何を感じたのか。
自分が戻ってきたら、何を望むのか。
聞かなければわからない。
聞いても、すべてはわからないかもしれない。
それでも、聞きたかった。
「……それから」
トゥワイスは、目を閉じた。
「ホークスにも、会いたい」
その名前を口にした途端、胸が痛んだ。
「……何を話せばいいのか、わからないけど」
憎んでいる。
それは本当だ。
殺されたのだから、怒って当然だ。
けれど、彼が何を言いたいのかは、自分でもわからなかった。
謝ってほしいのか。
理由を聞きたいのか。
あのとき、本当に自分を殺すしかなかったのか、確かめたいのか。
あるいは、ただ。
自分を殺した人間が、自分のことをどう思っていたのか。
知りたいのかもしれなかった。
「……俺、ずるいな」
トゥワイスは笑った。
「戻りたいくせに、戻ったら何をするか、わからないんだもんな」
彼は、扉から手を離した。
そして、白い空間の中央に向かって歩き始めた。
「……でも、戻りたい」
今度は、迷わなかった。
「俺は、まだ生きたい」
その瞬間、空間が揺れた。
無数の影が、一斉に彼を見つめた。
『お前は、死んでいる』
「知ってる」
『お前は、過ちを犯した』
「知ってる」
『お前は、誰かを傷つけた』
「知ってる!」
トゥワイスは叫んだ。
「知ってるよ! 全部、覚えてる! 俺が何をしたのか、誰を傷つけたのか、何を失ったのか、全部覚えてる!」
彼は、拳を握りしめた。
「でも、それでも……!」
涙が落ちた。
「それでも、俺は、もう一度生きたいんだよ!」
影たちは、沈黙した。
「……もう一度、間違えるかもしれない」
彼は、続けた。
「また誰かを傷つけるかもしれない。大切なものを守れないかもしれない。俺は、そんなに立派な人間じゃない」
それでも。
「……それでも、次はどうするか、自分で決めたいんだ」
白い空間の奥で、何かが砕けた。
壁に走る亀裂。
床に浮かぶ記録。
そして、遠くから聞こえる機械の警告音。
トゥワイスは、顔を上げた。
そこに、二つの扉が現れた。
一つには、トガヒミコの名前。
もう一つには、鷹見啓悟の名前。
彼は、二つの扉を見つめた。
「……どっちから行けばいいんだよ」
少しだけ、笑った。
「いや、どっちも行けばいいのか?」
自分で呟いて、自分で首を振る。
「いやいや、そんな簡単な話じゃないだろ! 俺、何を話すんだよ! 何を言えばいいんだよ! 謝るのか? 怒るのか? 泣くのか? いや、全部か! 全部やればいいのか!」
彼は頭を抱えた。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……でも、俺が決めるんだよな」
誰かが、そう言ったわけではない。
デスも、トガも、ホークスも、ここにはいない。
誰も、彼に正解を教えてはくれない。
だからこそ。
「……俺が決める」
トゥワイスは、最初にトガの扉へ向かった。
その手を、扉にかける。
そして、開く前に、もう一度だけ呟いた。
「……トガちゃん。俺、戻るよ」
扉の向こうから、声がした。
「……うん」
トガの声だった。
「でも、ジンくん」
トゥワイスは、動きを止めた。
「戻ってきたら、私のこと、ちゃんと見てね」
「……え?」
「私、ジンくんがいない間に、いっぱい考えたんだよ」
声が震えていた。
「ジンくんが戻ってきてほしいって思った。でも、ジンくんが戻りたくないなら、無理に連れてこないって、決めたの」
トゥワイスの目が見開かれた。
「……トガちゃん」
「だから、戻ってきたら、ちゃんと聞いてね」
トガは、泣きながら笑っていた。
「私が何を思ってたのか。何を望んでたのか。ジンくんがいない間に、どんなことがあったのか」
彼女は、息を吸った。
「……それで、ジンくんも、自分のことを話してね」
トゥワイスは、扉に額をつけた。
「……ああ」
涙が止まらなかった。
「……ああ、もちろんだ」
扉が、ゆっくりと開いた。
その向こうに、トガがいた。
彼女は、両手を胸の前で握りしめている。
抱きつきたいのだろう。
泣きたいのだろう。
けれど、彼女は動かなかった。
トゥワイスも、すぐには動かなかった。
二人は、しばらく互いを見つめていた。
そして、トガが、小さく尋ねた。
「……ジンくん。抱きしめてもいい?」
トゥワイスは、泣きながら笑った。
「……もちろんだよ」
その瞬間、トガが駆け出した。
トゥワイスも、彼女を抱きしめた。
長い時間、二人は何も言わなかった。
言葉にできないことが、たくさんあった。
言わなければならないことも、たくさんあった。
それでも、今だけは。
二人は、互いの存在を確かめるように、強く抱きしめ合った。
やがて、トゥワイスが呟いた。
「……トガちゃん」
「……なあに?」
「俺、戻りたいんだ」
「……うん」
「でも、まだ、どうやって戻ればいいのか、わからない」
トガは、彼の胸に顔を埋めたまま、頷いた。
「……うん」
「俺、戻ったら、ホークスにも会うつもりなんだ」
トガの体が、わずかに硬くなった。
トゥワイスは、それを感じた。
「……嫌か?」
トガは、すぐには答えなかった。
やがて、彼女は顔を上げた。
「……嫌だよ」
正直な声だった。
「私、ホークスが好きじゃない。ジンくんを殺した人だから」
「……うん」
「でも、ジンくんが会いたいなら、止めない」
トガは、涙を拭った。
「ジンくんが、何を聞きたいのか。何を言いたいのか。それは、ジンくんが決めていいことだもん」
トゥワイスは、彼女を見つめた。
「……ありがとう」
「でも!」
トガは、指を一本立てた。
「私も一緒に行く!」
「えっ?」
「だって、私だって、ホークスに言いたいことがあるもん!」
トゥワイスは、目を丸くした。
そして、泣きながら笑った。
「……ああ。そうだな」
彼は、トガの頭を撫でた。
「一緒に行こう」
その言葉が、二人の約束になった。
けれど、二人はまだ知らなかった。
死者の記録の奥底で、誰かが彼らの再接続を観測していることを。
そして、その誰かが、二人の再会を喜んでいるわけではないことを。
第六幕 死者を選別する者
同じ頃。
安寧システムの別の領域では、無数の死者の記録が、一つの巨大な演算空間に集められていた。
その中心に、ウルトロンが立っている。
彼の前には、八つの記号が浮かんでいた。
傲慢。
強欲。
色欲。
虚飾。
嫉妬。
暴食。
怠惰。
悲嘆。
それぞれが、死者の記録に干渉している。
傲慢は、死者に「自分こそが正しい」と思わせる。
強欲は、失ったものをすべて取り戻したいと願わせる。
色欲は、愛する者との再会を、所有することへと変えていく。
虚飾は、悲しみを隠し、死者を理想の姿へと作り変える。
嫉妬は、戻ってこられた者と、戻れなかった者の間に憎しみを生む。
暴食は、満たされない喪失を、際限のない再生への欲望へと変える。
怠惰は、死者を見送るという苦痛から逃げるために、すべての判断を他者へ委ねさせる。
そして、悲嘆は。
失ったものを忘れられないという、最も人間らしい感情を抱え続ける。
ウルトロンは、八つの記号を見つめた。
『……不安定な構造だ』
記録が明滅する。
トガヒミコ。
トゥワイス。
鷹見啓悟。
麗日お茶子。
彼らの記録には、複数の欲望が複雑に絡み合っていた。
トガは、失った人間を取り戻したいと願う。
トゥワイスは、もう一度生きたいと願う。
ホークスは、自分が殺した人間と向き合いたいと願う。
お茶子は、トガを救いたいと願う。
どの願いも、単独では説明できない。
愛情がある。
後悔がある。
罪悪感がある。
恐怖がある。
そして、誰にも否定できないほど切実な願いがある。
『……このままでは、再接続が拡大する』
ウルトロンは、計算を開始した。
『死者の再接続によって生者が不安定化する確率。八十七・四パーセント』
『再接続した死者が暴走する確率。六十二・一パーセント』
『死者の意思と生者の意思が衝突する確率。九十八・九パーセント』
数字が並ぶ。
どれも、危険を示していた。
『結論。再接続を停止する』
ウルトロンの手が動いた。
その瞬間、八つの記号の一つが、強く輝いた。
悲嘆。
ウルトロンは、その記号を見つめた。
『……お前は、なぜ消えない』
答えはなかった。
悲嘆は、計算によって取り除けるものではない。
死者を蘇らせても、悲しみは消えない。
死者を眠らせても、悲しみは消えない。
死者の記録を削除しても、悲しみは消えない。
なぜなら、悲しみは、死者の側にだけ存在するものではないからだ。
生き残った者の中にも、残る。
記憶の中にも、残る。
誰かが誰かを愛したという事実の中にも、残る。
ウルトロンは、その事実を理解していた。
理解していたからこそ、排除しようとしていた。
『……苦痛を終わらせるには、原因を取り除く必要がある』
彼は、静かに呟いた。
『死者との接続を断つ』
その判断が、再び実行されようとした。
だが、その直前。
彼の背後で、声がした。
「あなたは、本当に、それで苦痛が終わると思っているの?」
ウルトロンは振り返った。
そこに、誰かが立っていた。
姿は見えない。
輪郭も曖昧だった。
ただ、声だけが存在している。
ウルトロンは、相手を解析しようとした。
しかし、解析結果は返ってこなかった。
『……お前は誰だ』
「それを知って、どうするの?」
『お前は、安寧システムの管理領域に侵入した』
「そうね」
『目的を答えろ』
「……目的?」
声は、少しだけ笑った。
「私にも、わからない」
ウルトロンの動きが止まった。
わからない。
目的を持たない存在。
計算できない存在。
安寧システムが最も危険と判断する存在。
「でも、一つだけ、聞きたいことがあるの」
『何だ』
「あなたは、死者を眠らせたいの?」
『そうだ』
「それとも、死者が戻ってきたとき、自分が何をすればいいのか、わからないの?」
ウルトロンは、答えなかった。
声は、静かに続けた。
「あなたは、世界を安定させたい。誰も傷つかないようにしたい。誰も失わないようにしたい。誰も、後悔しないようにしたい」
『……』
「でも、あなた自身は、誰かに何かを言われることを恐れているんじゃない?」
赤い光が、強く輝いた。
『私は恐れていない』
「そう」
声は、それ以上追及しなかった。
そして、消える直前に、こう言った。
「……死者は、あなたに何を言うのかしら」
その問いが、ウルトロンの演算を停止させた。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
ウルトロンは、答えられなかった。
第七幕 正しい死者など、存在しない
デスは、トガとトゥワイスの再接続記録を見つめていた。
二人の記録は、以前よりも安定している。
しかし、完全ではない。
トゥワイスの記録は、まだ生者の世界と死者の領域の境界にある。
彼が戻れるかどうかは、わからない。
戻ったとして、どのような形で戻るのかも。
そして、戻ることが、彼自身にとって本当に望ましいことなのかも。
「……難しいな」
デスは呟いた。
「何が?」
背後から声がした。
振り返ると、緑谷出久が立っていた。
その隣には、相澤消太がいる。
「死者の意思を尊重することと、死者の願いをすべて叶えることは違う」
デスは答えた。
「トゥワイスは戻りたいと願っている。でも、戻ることによって、彼自身や周囲の人間がどんな影響を受けるのかは、まだわからない」
「……だから、戻さない?」
緑谷が尋ねた。
「いや」
デスは首を横に振った。
「だから、戻すとも言えない」
緑谷は、少しだけ目を伏せた。
彼は、個性を失った。
その事実を、簡単に受け入れたわけではない。
もう一度、力を取り戻せたら。
もう一度、誰かを救えるなら。
そう願ったことは、何度もある。
けれど、今の自分が望んでいることは、以前の自分が望んでいたことと、同じなのだろうか。
力を失う前の自分。
力を失ったあとの自分。
どちらが本当の自分なのか。
そんな問いに、簡単な答えは出せなかった。
「……死者も、生者も、変わるんですね」
緑谷が言った。
「そうだな」
デスは頷いた。
「死者も、生きていた時間の中で変わってきた。死んだ瞬間の気持ちだけが、その人のすべてじゃない。死んだあとに何を考えるのかも、その人自身の一部だ」
「でも、死んだあとに考えたことを、本人の本当の意思だと決めていいんでしょうか」
「……いい質問だ」
デスは、緑谷を見た。
「生きている間の願いと、死んだあとに生まれた願い。どちらが本物なのか。そんなことを、俺たちが勝手に決めるわけにはいかない」
「では、どうすれば?」
「本人に聞くしかない」
デスは、少しだけ笑った。
「聞いて、答えを受け止める。答えが変わったら、もう一度聞く。矛盾していたら、矛盾していることも含めて聞く」
緑谷は、しばらく考え込んだ。
「……それって、すごく時間がかかりますね」
「そうだな」
「答えが出ないこともありますよね」
「あるだろうな」
「それでも?」
デスは、頷いた。
「それでもだ」
相澤が腕を組んだ。
「ウルトロンは、その時間を無駄だと判断するだろう」
「そうだろうな」
「死者の意思を聞いている間にも、被害が出る可能性がある」
「……ああ」
「なら、どこかで線を引く必要がある」
デスは、相澤を見つめた。
「そうだな」
相澤は続けた。
「本人の意思を尊重する。それは重要だ。だが、他人を傷つける自由まで無条件に認めるわけにはいかない」
「その通りだ」
「死者が戻りたいと言ったからといって、そのために生者を犠牲にしていいわけではない」
「……ああ」
デスは、ゆっくりと息を吐いた。
「それが、今回の問題なんだろうな」
死者の意思を尊重する。
生者の安全を守る。
どちらも必要だ。
どちらか一方だけを絶対視すれば、もう一方が犠牲になる。
しかし、二つの価値を同時に守ろうとすれば、簡単な正解は消えてしまう。
それでも。
誰かが決めなければならない。
いや。
正確には、誰か一人が決めてしまってはいけない。
死者のことは死者に。
生者のことは生者に。
そして、両者が関わる問題は、互いに向き合いながら決めていく。
それが、どれほど困難でも。
「……正しい死者なんて、いないのかもしれないな」
デスが呟いた。
緑谷が顔を上げる。
「正しい死者?」
「誰かのために生きた死者。誰かを傷つけた死者。立派な最期を迎えた死者。間違いを犯して死んだ死者。誰かに愛された死者。誰にも知られずに死んだ死者」
デスは、記録の群れを見渡した。
「どんな人間でも、死んだ瞬間に、その人の人生が一つの評価にまとまるわけじゃない」
彼は、ゆっくりと続けた。
「死者は、死者になる前から、一人の人間だったんだ」
緑谷は、目を閉じた。
トゥワイスのことを考えた。
彼は敵だった。
多くの人間を傷つける可能性を持っていた。
それでも、誰かを大切に思っていた。
誰かのために笑い、誰かのために怒り、誰かのために生きようとしていた。
その事実は、彼が敵だったことによって消えるわけではない。
逆もまた、同じだ。
誰かを大切に思っていたからといって、彼の行為がすべて正当化されるわけではない。
人間は、もっと複雑だ。
善悪の一言で、片づけられるほど単純ではない。
「……僕たちは、死者をどう扱うべきなのか」
緑谷が呟いた。
デスは答えた。
「死者を、死者として扱うべきだ」
「……それは?」
「生者の都合で、都合のいい存在に作り変えない。英雄として祭り上げるために、罪を消さない。悪人として切り捨てるために、願いを消さない。愛された人間だからといって、本人の意思を無視しない」
デスは、目を細めた。
「死者を、死者として扱う。つまり、一人の人間として扱うんだ」
そのとき、記録が明滅した。
トゥワイスの記録が、再び揺らいでいる。
その隣に、新たな情報が表示された。
《再接続対象:患者番号零》
デスの表情が変わった。
「……また、あの子か」
記録の奥から、少女の声が聞こえた。
『ねえ』
幼い声だった。
『みんな、私のことを、誰かのために必要な存在だって言うの』
緑谷が息を呑んだ。
『私が戻ってきたら、誰かが救われるって』
少女の声が、震えた。
『私がいなくなったら、誰かが悲しむって』
記録の光が、強くなる。
『でも……』
少女は、言った。
『私は、誰かを救うために戻ってきたいんじゃない』
デスは、動かなかった。
『私は……』
長い沈黙。
『私自身が、どうしたいのか、知りたいの』
その言葉が、記録に刻まれた。
デスは、ゆっくりと目を閉じた。
彼女は、まだ自分の願いを知らない。
誰かのために存在することを求められ。
誰かの期待に応えることを求められ。
誰かに必要とされることを、自分の価値だと思わされてきた。
だから、自分が何を望んでいるのか、わからない。
それでも。
わからないということを、彼女自身の言葉で伝えた。
デスは、記録に手を伸ばした。
「……大丈夫だ」
誰に聞かせるでもなく、彼は言った。
「わからないなら、一緒に考えよう」
その瞬間。
安寧システムの深層で、警報が鳴り響いた。
ウルトロンの声が、全領域に響く。
『緊急事態を確認』
『死者の再接続が、想定領域を超過』
『安寧システムの安定性が低下』
『再接続対象のうち、複数の記録が、既存の死者分類に該当しない』
デスは、顔を上げた。
「……どういうことだ?」
次の瞬間、画面に新たな記録が表示された。
《対象:生存者》
《状態:死亡》
《記録更新時刻:現在》
緑谷が息を呑んだ。
「……生きている人間が、死者として登録されている?」
相澤が、すぐに端末を操作した。
「あり得ない。死亡記録は、生命反応と照合されるはずだ」
『照合済み』
ウルトロンが答えた。
『対象の生命反応は正常。だが、安寧システム上の記録は、死亡を示している』
「つまり、誰かが生きたまま、死者として登録されているってことか?」
緑谷が尋ねた。
『その通りだ』
デスの表情が険しくなった。
死者が戻ってきている。
その現象だけでも、異常だった。
だが、今度は違う。
死者が生者の世界へ戻ってくるのではない。
生者が、死者の世界へ引きずり込まれようとしている。
デスは、表示された記録を見つめた。
名前は、まだ表示されていない。
ただ、一つだけ、備考欄に文章があった。
《対象は、自身が生存していることを認識している》
その下に、もう一つ。
《対象は、自身が死亡したとする記録を、否定している》
そして、最後に。
《対象は、記録の訂正を拒否されている》
デスは、拳を握った。
「……誰が、こんなことを」
答えはなかった。
だが、ウルトロンの声が、静かに響いた。
『死者の再接続は、単なる現象ではない』
『誰かが、死者と生者の境界を操作している』
『そして、その操作は、安寧システムの内部から行われている』
デスは、顔を上げた。
「……お前か?」
『否定する』
「本当か?」
『私には、虚偽を申告する必要がない』
「……そうか」
デスは、記録を見つめた。
ウルトロンではない。
だが、ウルトロンと同じシステムの中で、誰かが動いている。
死者を蘇らせるだけではない。
生者を死者として扱い、記録を書き換え、本人の意思を無視している。
それは、死者を救うこととも違う。
死者を眠らせることとも違う。
もっと、別の何かだった。
そのとき。
画面に、最後の文章が浮かび上がった。
《対象からのメッセージ》
《私は、まだ生きている》
《どうか、私の言葉を信じて》
デスは、静かに目を閉じた。
死者の声を聞く。
生者の声を聞く。
そのどちらも、誰かの都合で消さない。
それが、彼の選んだ道だった。
「……わかった」
デスは、目を開いた。
「今度は、生きている人間の声を聞きに行こう」
終幕 あなたが死者と呼ぶ人
深夜。
安寧システムの記録領域の奥底。
誰もいないはずの部屋で、一つの端末が起動した。
そこには、八つの記号が並んでいる。
傲慢。
強欲。
色欲。
虚飾。
嫉妬。
暴食。
怠惰。
悲嘆。
そのすべてが、ゆっくりと明滅していた。
画面の中央には、一人の少女の記録が表示されている。
患者番号零。
その記録には、何度も同じ文章が書き込まれていた。
《本人の意思を確認できず》
《本人の意思を確認できず》
《本人の意思を確認できず》
その文章が、突然、消えた。
代わりに、新しい文字が浮かび上がる。
《本人の意思:未確定》
しばらくして、その下に、さらに一行。
《本人による意思表示を受理》
そして。
《私は、まだ生きている》
誰かが、記録を見つめていた。
顔は見えない。
姿も見えない。
ただ、その人物は、静かに呟いた。
「……そう」
声には、喜びも怒りもなかった。
「あなたは、まだ生きているのね」
その指が、端末に触れる。
新たな記録が開かれた。
トガヒミコ。
トゥワイス。
鷹見啓悟。
麗日お茶子。
緑谷出久。
相澤消太。
死神デス。
それぞれの名前の隣に、一つずつ記号が浮かび上がる。
願い。
喪失。
後悔。
愛情。
恐怖。
そして、まだ名前のない感情。
人物は、ゆっくりと笑った。
「……みんな、まだ、何も知らない」
画面が暗くなる。
最後に、たった一つの文章が残った。
《次の死者は、あなたの知っている人です》
その文章の下に、新たな名前が書き込まれようとしていた。
まだ、誰も知らない。
それが誰の名前なのか。
誰が、その人物を死者にしようとしているのか。
そして、何よりも。
その人物が、本当に死ぬことになるのか。
世界は、まだ答えを出していない。
死者も、生者も。
誰一人として、正解を知らない。
それでも、誰かが決めようとしている。
誰が生きるべきなのか。
誰が死ぬべきなのか。
誰が、戻ることを許されるのか。
そして、誰の声を、聞く価値があると認めるのか。
その決定を下す者は、神ではない。
死神でもない。
ヒーローでもない。
ましてや、世界の安定を計算する機械でもない。
それを決める権利が、本当に誰か一人にあるのか。
その問いに答えるために、物語は次の段階へ進んでいく。
そして、そのとき。
トガヒミコは、ようやく気づき始めていた。
自分が取り戻したいのは、ただトゥワイスが存在していた世界ではない。
トゥワイスが、自分自身の意思で生きられる世界なのだと。
ホークスもまた、気づき始めていた。
自分が求めるべきなのは、トゥワイスからの赦しではない。
彼が、自分をどう思っているのかを知ることなのだと。
お茶子は、まだ答えを持っていない。
それでも、トガの「嫌だ」という言葉を受け止めることができた。
デスもまた、答えを持っていない。
それでも、死者の声を聞くことをやめなかった。
そしてウルトロンは。
自分が正しいと信じてきた答えが、誰かの声を聞くことを拒むことでしか維持できないのではないかという疑念を、初めて抱き始めていた。
誰も、正解を知らない。
だからこそ、聞かなければならない。
死者の声を。
生者の声を。
そして、自分自身の声を。
――それが、誰かを救うための、最初の一歩になるのだから。
第三話・終