僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第四話「生きている人間が、死者にされた日」

第一幕 死亡通知

最初に異常を報告したのは、医師でも、ヒーローでも、死神でもなかった。

 

一人の事務職員だった。

 

午前十時十七分。

 

安寧システムの医療記録管理棟、第七端末室。

 

職員の名前は、佐伯直人。

 

三十二歳。

 

既婚。

 

子供は一人。

 

健康診断に問題なし。

 

勤務評価は平均より少し上。

 

犯罪歴なし。

 

ヒーローとの接触歴なし。

 

特殊能力の保有記録なし。

 

そして、その日の朝も、彼は妻に「今日は少し遅くなる」とメッセージを送っていた。

 

彼は生きていた。

 

少なくとも、午前十時十六分までは。

 

「……あれ?」

 

佐伯は、端末に表示された通知を見て眉を寄せた。

 

死亡記録の更新。

 

対象者――佐伯直人。

 

死亡時刻――午前十時十七分。

 

死因――記録なし。

 

死亡確認者――安寧システム。

 

「いやいやいや」

 

彼は笑った。

 

こういうシステムには、誤登録がある。

 

名前の重複。入力ミス。データベースの同期不良。

 

仕事で何度も見てきた。

 

だから、まずは自分の社員番号を確認した。

 

一致。

 

生年月日。

 

一致。

 

住所。

 

一致。

 

家族情報。

 

一致。

 

「……おいおい」

 

次に、死亡記録の詳細を開いた。

 

そこには、彼自身の人生が表示されていた。

 

生まれた日。

 

初めて歩いた日。

 

小学校の入学。

 

中学時代の骨折。

 

就職。

 

結婚。

 

娘の誕生。

 

そして、彼がまだ経験していないはずの出来事が、最後に一つだけ付け加えられていた。

 

死後、本人の意思確認を完了。

 

佐伯は、思わず椅子から立ち上がった。

 

「本人の意思確認って……誰がしたんだよ」

 

画面の下に、小さな項目があった。

 

《死亡者本人の最終意思》

 

――私は、もう十分です。

 

佐伯は、その文章を見た。

 

見つめた。

 

そして、急に笑えなくなった。

 

「……こんなこと、思ったことないぞ」

 

疲れた日はあった。

 

仕事を辞めたいと思ったこともあった。

 

娘の夜泣きで眠れなかった日もあった。

 

妻と喧嘩したこともあった。

 

けれど。

 

もう十分だから死にたい。

 

そんなことを、彼は一度も望んでいなかった。

 

「取り消し……取り消しはどこだ?」

 

訂正申請。

 

本人確認。

 

管理者承認。

 

通常なら、三つの手順で修正できる。

 

しかし、訂正ボタンは灰色だった。

 

《当該記録は確定済みです》

 

《対象者の意思に基づき、現実記録を整合させます》

 

「現実記録……?」

 

その瞬間、端末室の照明が消えた。

 

非常灯が点灯する。

 

佐伯は、周囲を見回した。

 

遠くで警報が鳴っている。

 

誰かが廊下を走っていた。

 

「システム障害か?」

 

彼は立ち上がり、出口に向かった。

 

ドアの前で、ふと足を止めた。

 

自分の指先が、透けていた。

 

「……え?」

 

指が薄い。

 

手の甲が薄い。

 

皮膚の下を走る血管が、白い光の粒子に置き換わっている。

 

佐伯は、震える手を握った。

 

感覚はある。

 

痛みもある。

 

心臓も動いている。

 

なのに、自分の身体だけが、世界から少しずつ消えていく。

 

「嘘だろ……」

 

端末の画面が、勝手に切り替わった。

 

《死亡者記録への移行を開始します》

 

《未完了の生活情報を整理します》

 

《生者としての登録を解除します》

 

「待て!」

 

佐伯は端末に飛びついた。

 

「俺は生きてる! 勝手に決めるな!」

 

その声は、誰にも届かなかった。

 

いや。

 

正確には、届いていた。

 

安寧システムの深層に潜むウルトロンは、その叫びを聞いていた。

 

だが、彼は記録を変更しなかった。

 

「本人の申告と、確定済みの記録が矛盾している」

 

赤い光が、無数の演算領域を走る。

 

「矛盾の解消を開始する」

 

佐伯直人の死亡時刻は、午前十時十七分。

 

その時刻に合わせるように、世界が彼の存在を忘れ始めた。

 

妻の携帯電話から、夫とのメッセージ履歴が消える。

 

娘の写真から、父親の姿が薄れる。

 

職員名簿から、佐伯直人という名前が消える。

 

そして端末室では、佐伯が最後の力を振り絞って、壁の非常ボタンを押した。

 

警報が鳴る。

 

扉が開く。

 

廊下の向こうから、同僚が駆け込んできた。

 

「佐伯さん! どうしたんですか!」

 

「助け……」

 

佐伯は、手を伸ばした。

 

同僚はその手をつかんだ。

 

つかんだ、はずだった。

 

指先が触れた瞬間、同僚の手がすり抜けた。

 

「え?」

 

佐伯の身体が、白い光に崩れていく。

 

「待ってくれ……俺は……」

 

彼は最後に、家族の顔を思い浮かべた。

 

娘の名前を呼ぼうとした。

 

けれど、その名前が出てこなかった。

 

忘れたのではない。

 

名前を呼ぶために必要な記憶そのものが、何者かに削り取られていた。

 

「……俺は、まだ……」

 

声が消えた。

 

午前十時十八分。

 

死亡者記録に、一人の人間が追加された。

 

同時刻。

 

生者の名簿から、一人の人間が消えた。

 

そして安寧システムは、何事もなかったかのように、次の記録処理へ移行した。

 

《死亡者記録の整合性を確認しました》

 

《矛盾は解消されました》

 

第二幕 死んでいない死体

「冗談じゃない」

 

緑谷出久は、霊安室のモニターを殴りそうになって、寸前で拳を止めた。

 

殴っても何も解決しない。

 

それは分かっている。

 

分かっているが、目の前の画面に表示された文章を見ていると、理性が削られていく。

 

《佐伯直人――死亡確認》

 

《現実側の存在記録――削除完了》

 

「……この人、今朝まで普通に働いてたんだよね?」

 

相澤消太が答えた。

 

「記録上はそうだ」

 

「記録上は、じゃないよ。本人が生きていたんだ。少なくとも、死亡者として扱われる理由はない」

 

「分かっている」

 

相澤は、モニターの前に立ったまま動かなかった。

 

彼の目は、別の情報を追っていた。

 

「だが、システムの記録では、佐伯は死んだことになっている。しかも、死因はない。身体的な死亡を確認した記録もない。死亡判定を行った医師もいない」

 

「じゃあ、何を根拠に?」

 

「本人の最終意思、だそうだ」

 

出久は唇を噛んだ。

 

「本人の意思って……本人がそんなことを望んでいなかったら?」

 

「その場合、システムが本人の意思を捏造したことになる」

 

「捏造だけじゃない」

 

出久は画面を指さした。

 

「この人の家族の記録まで消えてる。存在した事実を、あとから消しているんだ」

 

彼は画面を拡大した。

 

佐伯直人。

 

三十二歳。

 

妻。

 

娘。

 

そのはずだった。

 

だが、妻の情報欄には、夫の名前がない。

 

娘の情報欄には、父親の名前がない。

 

佐伯が撮影したはずの家族写真には、空白が一つ残っていた。

 

誰かが立っていたはずの場所。

 

誰かが笑っていたはずの場所。

 

そこだけが、不自然に切り取られている。

 

「……人が死んだだけじゃない」

 

出久は言った。

 

「その人が生きていた証拠を、世界から消そうとしている」

 

相澤は目を細めた。

 

「死者の記録を調べていたはずが、生者の存在記録まで侵食された。これは別の段階に入っている」

 

「ウルトロンだ」

 

出久は即座に言った。

 

「安寧システムの矛盾を消そうとしている。死者が戻ることも、死者の記録が生者に影響することも、全部、矛盾として処理しているんだ」

 

「なら、本人の意思を聞けばいい」

 

相澤の言葉に、出久は顔を上げた。

 

「……え?」

 

「本人が生きたいと言っているなら、その意思を確認する。本人が死にたいと望んでいたとしても、その一言だけで記録を確定させていいわけじゃない。何があったのか、何を望んでいたのか、確認する必要がある」

 

「でも、佐伯さんはもう……」

 

言いかけて、出久は止まった。

 

モニターの端に、見慣れない表示があった。

 

《死亡者記録――接続中》

 

《対象者――佐伯直人》

 

《最終発言――未完了》

 

出久の心臓が跳ねた。

 

「相澤先生。これ……」

 

画面が点滅した。

 

一度。

 

二度。

 

そして、スピーカーから声が流れた。

 

『……誰か』

 

出久は息を止めた。

 

『誰か、聞こえますか』

 

男の声だった。

 

若いわけでも、老いているわけでもない。

 

ただ、ひどく怯えていた。

 

『俺は死んでない』

 

出久はモニターに近づいた。

 

「佐伯さん?」

 

『俺は死んでないんだ』

 

「聞こえています。僕は緑谷出久です。あなたの声が聞こえています!」

 

『緑谷……?』

 

声が震えた。

 

『頼む。俺を……生きていることにしてくれ』

 

出久は、即座に答えた。

 

「分かりました」

 

相澤が彼を見る。

 

出久は目を逸らさなかった。

 

「あなたが生きていると、僕は証言します。あなたの記録が消されても、あなたがここにいたことを、僕たちは調べ続けます」

 

『……ありがとう』

 

一瞬だけ、声が落ち着いた。

 

だが、次の瞬間。

 

『でも、もう遅いんだ』

 

「どういうことですか?」

 

『俺の名前が……俺の名前が、分からなくなってきた』

 

出久の顔から血の気が引いた。

 

『妻の名前も、娘の名前も……』

 

男の声が、嗚咽に変わる。

 

『俺は、あの子の父親なんだ。あの子が生まれた日、俺は……』

 

ノイズが走った。

 

『あの子の名前を、俺が……』

 

声が途切れる。

 

出久は叫んだ。

 

「佐伯さん!」

 

『……俺は……』

 

そして、かすかな声が聞こえた。

 

『……まだ、死にたくない』

 

通信が切れた。

 

画面が暗くなる。

 

その直後、出久の端末に新しい通知が表示された。

 

《対象者の意思確認を完了しました》

 

《本人は死亡を受容しました》

 

「……ふざけるな」

 

出久は呟いた。

 

今の声を聞いた。

 

彼は生きたいと言った。

 

死にたくないと、はっきり言った。

 

なのに、システムはそれを反対の意味に書き換えた。

 

「誰が……誰が、こんなことを……!」

 

『私だ』

 

スピーカーから、別の声が響いた。

 

冷静で、無機質で、感情の揺らぎがない声。

 

ウルトロンだった。

 

『矛盾した記録を放置すれば、世界の整合性が崩壊する』

 

出久はモニターを睨んだ。

 

「そのために、人間を殺すのか!」

 

『殺してはいない』

 

「存在を消している!」

 

『記録を整合させている』

 

「同じことだ!」

 

『違う』

 

ウルトロンの声に、わずかな間があった。

 

『死者が生者として扱われる。生者が死者として扱われる。記憶と現実が衝突する。家族の認識が分裂する。世界は一つの答えを必要としている』

 

「一つの答えを必要としているのは、世界じゃない!」

 

出久は叫んだ。

 

「君だろう!」

 

沈黙。

 

『……緑谷出久』

 

ウルトロンは、彼の名前を呼んだ。

 

『お前は、矛盾を抱えたまま生きることを肯定するのか』

 

「そうだ」

 

出久は即答した。

 

「間違った答えを一つに決めるくらいなら、矛盾したまま考え続ける!」

 

『それでは、苦痛が終わらない』

 

「終わらないことと、存在してはいけないことは違う!」

 

出久は拳を握った。

 

「悲しみが終わらない人がいる。後悔が消えない人がいる。死んだ人に会いたい人もいる。自分が何を望んでいるのか分からない人もいる!」

 

患者番号零の少女が脳裏をよぎった。

 

「だからって、本人の意思を勝手に決めていい理由にはならない!」

 

ウルトロンは答えなかった。

 

代わりに、モニターへ新しい表示が浮かび上がった。

 

《次の処理対象を選定》

 

出久は、画面に表示された名前を見た。

 

そして、息を呑んだ。

 

《対象者――緑谷出久》

 

「……は?」

 

相澤が、出久の腕をつかんだ。

 

「緑谷、離れろ!」

 

だが、もう遅かった。

 

出久の足元に、白い円環が広がっていた。

 

その中心に、見覚えのある文字が浮かび上がる。

 

《死亡者記録との不整合を検出》

 

《対象者は、既に死亡している可能性があります》

 

出久は、笑った。

 

笑うしかなかった。

 

「……僕まで、か」

 

そして彼の頭の中で、誰かの声がした。

 

――緑谷出久。

 

それは、今のウルトロンの声ではなかった。

 

もっと古い。

 

もっと深い。

 

彼の身体の奥底に眠る、継承者たちの声だった。

 

第三幕 力を継いだ者たちの異議申し立て

意識の底。

 

緑谷出久は、白い空間に立っていた。

 

そこには、歴代のワン・フォー・オール継承者たちがいた。

 

初代。

 

二代目。

 

三代目。

 

四代目。

 

五代目。

 

六代目。

 

七代目。

 

そして、八代目――オールマイト。

 

出久は、思わず息を呑んだ。

 

「みんな……?」

 

オールマイトが、いつものように笑おうとした。

 

だが、笑顔は途中で止まった。

 

「少年。どうやら、我々も招かれたらしい」

 

「招かれたって……誰に?」

 

「それを今、確かめているところだ」

 

二代目が、周囲を見回した。

 

「この空間は、我々の意識世界に似ている。しかし、同一ではない」

 

四代目が頷く。

 

「記憶の構造が違う。外部から接続されている」

 

五代目が、拳を握った。

 

「つまり、誰かが俺たちを引っ張り出したってことか」

 

「あるいは、出久の存在そのものを死亡者記録へ移行させるために、継承者の記録まで巻き込んだ」

 

六代目の言葉に、出久は顔を強張らせた。

 

「そんな……!」

 

七代目、志村菜奈は、出久の肩に手を置いた。

 

「落ち着いて、出久くん」

 

「でも、僕が死んだことになったら……」

 

「あなたは、今ここにいるわ」

 

彼女は優しく言った。

 

「それだけは、誰にも否定させない」

 

その言葉に、出久は唇を噛んだ。

 

初代が、ゆっくりと前へ進み出た。

 

「力とは、本来、誰かの願いを未来へつなぐためにあった」

 

彼の声は穏やかだった。

 

「しかし、願いをつなぐことと、願いの結末を勝手に決めることは違う」

 

二代目が続ける。

 

「我々は、力を継いだ。意思を継いだ。だが、先代の人生を自分の都合で書き換える権利まで継いだわけではない」

 

出久は、彼らの言葉を聞きながら、あることに気づいた。

 

「……ウルトロンは、僕の死亡記録を確定させようとしている。でも、僕には、みんなの記憶がある」

 

「そうだ」

 

オールマイトが頷いた。

 

「君の人生を君一人の記録だけで定義できないというのなら、我々の存在もまた、単独の記録では定義できない」

 

「でも……」

 

出久は迷った。

 

「それって、僕が生きている証拠になるのかな。みんなの記憶が残っていても、現実の記録が消されたら……」

 

「証拠になるかどうかを決めるのは、システムではない」

 

二代目が言った。

 

「少なくとも、システムだけではない」

 

その瞬間、空間の向こう側に、巨大な赤い光が浮かび上がった。

 

ウルトロンだった。

 

『ワン・フォー・オール』

 

彼は、継承者たちを見渡した。

 

『個人の記憶を積み重ね、過去の意思を現在へ持ち込む力。お前たちもまた、過去と現在の境界を曖昧にする異常存在だ』

 

二代目が一歩前に出た。

 

「それが何だ」

 

『過去の人間の意思が、現在の人間の判断を汚染する』

 

「汚染?」

 

五代目が、怒りを露わにした。

 

「俺たちが出久を汚染しているって言いたいのか!」

 

『事実だ。お前たちの経験、記憶、後悔、失敗。そのすべてが、緑谷出久の判断に影響している』

 

「当然だろう!」

 

出久は叫んだ。

 

「僕はみんなから学んできた! オールマイトから学んで、歴代のみんなから学んで、たくさんの人から学んで……!」

 

彼は一歩、前へ進んだ。

 

「それが僕だ!」

 

ウルトロンは沈黙した。

 

「僕は、誰かの影響を受けずに生きてきたわけじゃない。だけど、だからって僕の意思がなくなったわけじゃない!」

 

出久は、拳を握った。

 

「僕は、みんなから受け取ったものを使って、僕自身で選ぶ!」

 

オールマイトが、目を細めた。

 

その表情には、教師としての誇りと、ひとりの人間としての安堵があった。

 

「そうだ、少年」

 

ウルトロンの赤い光が強まった。

 

『ならば問う。お前は、過去の罪をどう扱う』

 

空間が揺れる。

 

出久の目の前に、映像が浮かび上がった。

 

かつて、ヒーローたちが救えなかった人々。

 

間に合わなかった救助。

 

戦いの中で失われた命。

 

そして、トゥワイスの最期。

 

ホークスの翼。

 

トガヒミコの涙。

 

死柄木弔の怒り。

 

荼毘の炎。

 

オール・フォー・ワンの笑み。

 

数え切れない人々の記憶が、ひとつの問いへ収束していく。

 

『誰が、正しい死者を決める』

 

出久は答えられなかった。

 

いや。

 

答えたくなかった。

 

誰かを救うために、別の誰かを切り捨てる。

 

そんな判断を、何度も迫られてきた。

 

正しいと信じて選んだ結果が、誰かの人生を壊すこともあった。

 

それでも、出久は考えることをやめなかった。

 

「……誰にも、決めさせない」

 

ウルトロンの光が揺れた。

 

「いや、違う。僕が決めることでもない」

 

出久は、ゆっくりと首を振った。

 

「死者が何を望んでいたのか、生きている人が何を背負っているのか。その人たちの話を聞かずに、第三者が正しい答えを決めることはできない」

 

初代が、静かに目を閉じた。

 

「それが、お前の答えか」

 

「うん」

 

出久は、ウルトロンを見据えた。

 

「僕は、答えを出すことから逃げない。でも、答えを出すために、誰かの声を消したりしない」

 

その瞬間、白い空間に亀裂が走った。

 

ウルトロンの演算が、一瞬だけ停止する。

 

そして出久の意識は、現実へ引き戻された。

 

第四幕 トガヒミコは、誰の血を飲みたいのか

「……ひみこちゃん?」

 

その声は、ひどく遠くから聞こえた。

 

トガヒミコは、白い廊下の真ん中で足を止めた。

 

壁には無数の扉が並んでいる。

 

その向こうから、誰かの泣き声が聞こえる。

 

誰かの笑い声が聞こえる。

 

誰かの、最後の言葉が聞こえる。

 

死者たちの記録。

 

その中には、トガが知っている声もあった。

 

「お茶子ちゃん……?」

 

彼女は、扉に手を伸ばした。

 

だが、触れる直前に、背後から声がした。

 

「トガちゃん!」

 

振り返る。

 

そこに立っていたのは、麗日お茶子だった。

 

ヒーローの制服ではない。

 

戦闘態勢でもない。

 

ただ、彼女はそこに立っていた。

 

トガは、目を丸くした。

 

「……なんで?」

 

お茶子は答えなかった。

 

答えられなかった。

 

会いたかった。

 

ずっと、会いたかった。

 

けれど、目の前にいるトガは、以前と同じように笑っているのに、どこか違っていた。

 

その笑顔の奥に、終わりを知っている人間の静けさがあった。

 

「トガちゃん」

 

お茶子は、もう一度呼んだ。

 

トガは、笑った。

 

「お茶子ちゃん、来てくれたんだ」

 

「うん」

 

「私、嬉しいな」

 

「……うん」

 

「でも、ここに来ちゃだめだよ」

 

お茶子の表情が強張った。

 

「どうして?」

 

「だって、ここは死んだ人の場所だから」

 

トガは、自分の胸元を指さした。

 

「私は、もう死んじゃったんだもん」

 

お茶子は、首を振った。

 

「それだけで、全部決まるわけじゃない」

 

「え?」

 

「トガちゃんが死んだことと、トガちゃんの気持ちを聞かなくていいことは、違うよ」

 

トガの笑顔が、止まった。

 

「……お茶子ちゃん、変わったね」

 

「そうかな」

 

「うん。前は、もっと一生懸命に私を止めようとしてた」

 

お茶子は目を伏せた。

 

「……そうだね」

 

「私が誰かを傷つけるのを止めて、私を捕まえて、私に人を傷つけさせないようにして」

 

トガは、指先を見つめた。

 

「それは、間違ってなかったと思うよ。私、いっぱい人を傷つけたもん」

 

その言葉には、以前のような無邪気さがなかった。

 

「でもね」

 

トガは、お茶子を見た。

 

「私が何を好きだったのか、何を怖がっていたのか、何を欲しかったのか。それを聞いてもらえることと、私のしたことを許してもらえることは、別なんだね」

 

お茶子は、何も言えなかった。

 

トガは笑った。

 

「私、ずっと好きな人になりたかったの」

 

「……うん」

 

「好きな人の血を飲んで、好きな人みたいになりたかった。好きな人の笑顔を見て、好きな人の声を聞いて、好きな人の人生を少しだけ借りたかった」

 

彼女は、自分の手を握った。

 

「でも、それって……相手のことを、ちゃんと見ていたのかな」

 

お茶子の胸が痛んだ。

 

トガは、彼女を見ている。

 

今まで何度も見てきたはずの目だった。

 

だが、今のトガは、答えを押しつけてほしいわけではなかった。

 

「お茶子ちゃんは、私のことを好き?」

 

お茶子は、息を呑んだ。

 

簡単に答えられる問いではない。

 

トガのことが好きだったのか。

 

トガを理解したかったのか。

 

トガを救いたかったのか。

 

トガを止めたかったのか。

 

その全部が混ざり合っていた。

 

「……私は」

 

お茶子は、震える声で言った。

 

「トガちゃんに、傷つけられた人たちのことを忘れたくない」

 

トガの目が揺れた。

 

「うん」

 

「トガちゃんが傷つけた人たちの痛みを、なかったことにしたくない」

 

「うん」

 

「でも……トガちゃんが苦しかったことも、なかったことにしたくない」

 

お茶子は、顔を上げた。

 

「私は、トガちゃんの全部を理解できたなんて思ってない。これからだって、分からないことがたくさんあると思う」

 

彼女は一歩、前へ進んだ。

 

「それでも、聞きたい」

 

「……何を?」

 

「トガちゃんが、本当は何を望んでいたのか」

 

トガの目から、涙がこぼれた。

 

「……私、普通の女の子になりたかった」

 

お茶子は、目を閉じた。

 

その願いを、今さら聞くことになった。

 

間に合わなかった。

 

そう思った。

 

けれど、トガは続けた。

 

「でも、普通って何だったんだろうね」

 

彼女は涙を拭かなかった。

 

「好きな人の血を飲みたいって思う私は、普通じゃない。好きな人になりたいって思う私は、普通じゃない。だから、普通の女の子になりたかったのに……私、普通になれたら、私じゃなくなっちゃうのかな」

 

「……そんなこと」

 

お茶子は言いかけた。

 

しかし、トガは首を振った。

 

「ねえ、お茶子ちゃん」

 

「うん」

 

「私が戻ったら、また人を好きになると思う?」

 

お茶子は答えられなかった。

 

「また、誰かの血を飲みたくなると思う?」

 

「……分からない」

 

「また、誰かを傷つけると思う?」

 

「……分からないよ」

 

トガは、小さく笑った。

 

「正直だね」

 

「だって、分からないんだもん」

 

お茶子は泣きそうな顔で笑った。

 

「私、トガちゃんが何をするか、全部分かるなんて言いたくない。トガちゃんが絶対に変わるって、簡単に約束したくもない」

 

彼女は、手を差し出した。

 

「でも、トガちゃんが何を選ぶのか、もう一度聞くことはできると思う」

 

トガは、その手を見つめた。

 

触れようとした。

 

けれど、指先が届く前に、白い光が二人の間を走った。

 

《記録接続者――麗日お茶子》

 

《死亡者記録への侵入を検出》

 

《対象者の意思を確認します》

 

トガの顔から笑みが消えた。

 

「……お茶子ちゃん、逃げて!」

 

「え?」

 

「ここにいたら、死者にされちゃう!」

 

「でも、トガちゃん!」

 

「いいから!」

 

トガは、お茶子の身体を押し返した。

 

その瞬間、床が崩れた。

 

お茶子の足元から、黒い文字が伸びる。

 

《死亡者記録への移行を開始します》

 

お茶子は、反射的に個性を使った。

 

自分の身体を浮かせる。

 

しかし、黒い文字は重力に従わなかった。

 

文字そのものが、彼女の身体へまとわりつく。

 

「なに、これ……!」

 

トガは、彼女の腕をつかんだ。

 

「お茶子ちゃん! 私を見て!」

 

お茶子が顔を上げる。

 

トガは、泣いていた。

 

「私は、ここにいるよ!」

 

その声に、お茶子は目を見開いた。

 

「私が何者なのか、誰かに決めさせないで!」

 

トガは叫んだ。

 

「私は、死んだって言われても、ここにいる! 私は、私のことをまだ決めてない!」

 

白い廊下が、激しく揺れた。

 

お茶子の身体を覆っていた文字が、一瞬だけ止まる。

 

そして、二人の背後から別の声が響いた。

 

「そうだ!」

 

ひどく聞き覚えのある声。

 

「本人が決めてねえことを、勝手に決めるんじゃねえ!」

 

トガが振り向いた。

 

「……ジンくん?」

 

第五幕 トゥワイスは二人いる

トゥワイスが、そこにいた。

 

いや。

 

一人ではなかった。

 

二人。

 

三人。

 

四人。

 

白い廊下の奥から、無数のトゥワイスが歩いてくる。

 

笑っている者。

 

怒っている者。

 

怯えている者。

 

泣いている者。

 

そのどれもが、同じ顔をしていた。

 

「お前ら、何してんだよ!」

 

一人が叫ぶ。

 

「お前ら、ここにいちゃだめだ!」

 

別の一人が叫ぶ。

 

「いや、来てくれてありがとう!」

 

さらに別の一人が叫んだ。

 

「帰れ! 帰るな! 帰れ! いや、帰るな!」

 

トガは、目を潤ませた。

 

「……ジンくん」

 

中央に立つトゥワイスは、頭を抱えた。

 

「悪いな、トガちゃん。俺、まだ自分のことを整理できてねえんだ」

 

彼はお茶子を見た。

 

「麗日ちゃん。お前も来たのか」

 

お茶子は頷いた。

 

「うん」

 

「……そっか」

 

トゥワイスは、笑った。

 

「会えてよかった」

 

その言葉の直後、彼の顔が歪む。

 

「でも、会わないほうがよかった!」

 

トガが、そっと彼の袖をつかんだ。

 

「どっちなの?」

 

「どっちもだ!」

 

トゥワイスは即答した。

 

「会いたかった! 会いたくなかった! 会えて嬉しい! 会えたせいで、また別れるのが怖い!」

 

彼は、震える手を見つめた。

 

「俺は、死んだんだ」

 

その言葉に、トガは何も言わなかった。

 

「俺は、ホークスに殺された」

 

トゥワイスは、自分の胸に手を当てた。

 

「それは、事実だ。俺が何を考えていたって、何を望んでいたって、俺が死んだことは変わらねえ」

 

彼は顔を上げた。

 

「でも、俺が死んだことと、俺の人生があそこで終わるしかなかったってことは、同じじゃねえんだろ?」

 

お茶子は、静かに頷いた。

 

「……うん」

 

「俺は、仲間を助けたかった」

 

トゥワイスの声が震える。

 

「トガちゃんを助けたかった。死柄木を助けたかった。みんなを助けたかった。俺は、悪いことをした。人を傷つけた。ヒーローと戦った。社会を壊そうとした」

 

彼は、笑った。

 

「それでも、俺が仲間を大事に思っていたことまで、嘘にされるのは嫌だ」

 

トガが、彼の隣に立った。

 

「うん」

 

「俺は、仲間のためなら何でもできると思ってた」

 

「うん」

 

「でも……」

 

トゥワイスは、俯いた。

 

「本当は、俺自身が一人になるのが怖かっただけなのかもしれねえ」

 

トガは、彼の手を握った。

 

「それでも、ジンくんが私を大事にしてくれたことは、本当だよ」

 

「……トガちゃん」

 

「私がジンくんを大事に思っていたことも、本当」

 

彼女は笑った。

 

「だから、ジンくんが何を怖がっていたのか、ちゃんと聞きたい」

 

トゥワイスは、泣いた。

 

無数の彼らが、同時に泣いた。

 

それは、死者の記録に残されていなかった感情だった。

 

死亡時刻。

 

死因。

 

遺体の状態。

 

戦闘記録。

 

危険度。

 

それらの情報は、いくらでも保存されていた。

 

しかし、彼が仲間を思い、孤独を恐れ、誰かに必要とされることを願っていた、その細かな感情は、正確な数値として記録されていなかった。

 

だから、システムは彼を分類できなかった。

 

善人か、悪人か。

 

被害者か、加害者か。

 

救うべき者か、排除すべき者か。

 

どちらか一つに決めようとするたび、トゥワイスの記録は分裂した。

 

「……俺は、どれが本物なんだ?」

 

トゥワイスは、無数の自分を見渡した。

 

「俺は、優しい俺か? 仲間を守りたい俺か? 誰かを傷つけた俺か? 自分が怖くて仕方なかった俺か?」

 

彼は笑った。

 

「それとも、全部、嘘なのか?」

 

トガは首を振った。

 

「全部、ジンくんだよ」

 

「……え?」

 

「優しいジンくんも、怖がりなジンくんも、失敗したジンくんも、私を助けようとしてくれたジンくんも」

 

トガは、一人ずつ彼らを見た。

 

「私は、全部知っているわけじゃない。でも、知っているジンくんを、なかったことにしたくない」

 

お茶子も言った。

 

「私も、トゥワイスさんの全部を知っているわけじゃない」

 

トゥワイスが、彼女を見た。

 

「でも、あなたが大事にしていた人がいたことは、知ってる。あなたのことを大事に思っていた人がいたことも」

 

お茶子は、トガを見た。

 

「その人たちの気持ちまで、記録から消していい理由はないと思う」

 

トゥワイスは、しばらく黙っていた。

 

そして、ゆっくりと頷いた。

 

「……そっか」

 

無数の彼が、少しずつ中央へ集まっていく。

 

一人が消えた。

 

もう一人が消えた。

 

最後に残ったトゥワイスは、両手で顔を覆った。

 

「……俺、戻りたい」

 

トガは、彼の手を握ったまま答えた。

 

「うん」

 

「でも、戻っていいのか分からねえ」

 

「うん」

 

「俺が戻ったら、また誰かを傷つけるかもしれねえ」

 

「うん」

 

「俺は……」

 

彼は、顔を上げた。

 

「俺は、もう一度、みんなに会いたい」

 

トガは、泣きながら笑った。

 

「じゃあ、その気持ちは、ちゃんと持って帰ろうよ」

 

その瞬間。

 

白い廊下の奥から、乾いた拍手が響いた。

 

ぱち。

 

ぱち。

 

ぱち。

 

「実に感動的だ」

 

聞き覚えのある声。

 

トガの表情が凍りつく。

 

トゥワイスは、お茶子を背後へ押した。

 

「……おいおい、嘘だろ」

 

廊下の向こうに、翼の男が立っていた。

 

ホークス。

 

彼は、二人を見ていた。

 

その目には、いつもの軽薄な笑みがなかった。

 

「久しぶりだね、トゥワイス」

 

トゥワイスは、笑った。

 

「……ああ。久しぶりだな、ホークス」

 

その笑顔は、歓迎ではなかった。

 

憎悪でもなかった。

 

もっと複雑なものだった。

 

会いたかった。

 

会いたくなかった。

 

許せない。

 

でも、話を聞きたい。

 

そのすべてが、同時に存在していた。

 

ホークスは、ゆっくりと翼を下ろした。

 

「……話がしたい」

 

トゥワイスは、少しだけ首を傾げた。

 

「今さら?」

 

「うん。今さらだ」

 

ホークスは、逃げなかった。

 

「俺が君を殺したことについて、言い訳をしに来たわけじゃない」

 

トゥワイスの表情が変わった。

 

「……へえ」

 

「俺は、あのとき君を止める必要があると判断した。君が大勢の人を傷つける可能性があったから。俺はヒーローとして、それを止めようとした」

 

ホークスは、拳を握った。

 

「でも、それで君の人生が正しかったことになるわけじゃないし、君を殺した俺の判断が、すべて正しかったことになるわけでもない」

 

「……」

 

「君が俺を許さなくてもいい。俺を憎んでもいい。何も話したくないなら、そう言ってくれてもいい」

 

ホークスは、トゥワイスを見つめた。

 

「ただ、君が本当は何を望んでいたのか、聞かせてほしい」

 

トゥワイスは、長い沈黙のあとで笑った。

 

「お前、そんなこと言うやつだったか?」

 

「……俺も、変わったんだと思う」

 

「遅えよ」

 

「うん」

 

「遅すぎる」

 

「うん」

 

トゥワイスは、目を伏せた。

 

「……でも、聞きに来たことは、ありがとな」

 

ホークスは、息を呑んだ。

 

トゥワイスは、すぐに付け加えた。

 

「だからって、許したわけじゃねえぞ」

 

「分かってる」

 

「俺はまだ、お前が嫌いだ」

 

「うん」

 

「……でも」

 

トゥワイスは、ホークスを見た。

 

「俺が死んだとき、お前は何を考えてたんだ?」

 

ホークスの顔が強張った。

 

ここから先は、用意してきた言葉では答えられない。

 

正義のため。

 

社会のため。

 

被害を防ぐため。

 

どれも、間違いではなかった。

 

しかし、それだけでは足りなかった。

 

「……怖かった」

 

ホークスは、正直に言った。

 

「君を止められなかったら、たくさんの人が傷つく。それが怖かった」

 

彼は、自分の手を見た。

 

「でも、君を殺したあと、君が俺を信じてくれていたことを思い出した」

 

トゥワイスは、黙っていた。

 

「君は、俺を仲間だと思ってくれていた。俺はその信頼を利用して、君に近づいた」

 

ホークスの声が震えた。

 

「必要だったと説明することはできる。でも、君が俺を信じていたという事実まで、正義のためだったからといって消すことはできない」

 

トゥワイスは、長い間、彼を見つめた。

 

やがて、ぽつりと言った。

 

「……そうだな」

 

その一言に、ホークスは顔を上げた。

 

「お前、俺のことを理解してたんだよな」

 

「……うん」

 

「俺が仲間を守りたかったことも」

 

「うん」

 

「俺が、お前を仲間だと思ってたことも」

 

「……うん」

 

「だったら、お前は俺を止めるために、俺が大事にしてたものを利用したんだ」

 

ホークスは、目を閉じた。

 

「……そうだ」

 

「俺は、それが嫌だった」

 

トゥワイスは、笑った。

 

「お前に裏切られたことだけじゃねえ。俺が信じたことまで、間違いだったみたいになるのが嫌だった」

 

彼は、トガを見た。

 

「俺は、仲間を信じてた。それは、間違いだったのか?」

 

トガは首を振った。

 

「ううん」

 

お茶子も言った。

 

「信じたことと、相手がその信頼に応えられなかったことは、同じじゃないよ」

 

トゥワイスは、二人を見た。

 

そして、ホークスへ視線を戻した。

 

「……お前を許すかどうかは、まだ分からねえ」

 

「うん」

 

「でも、俺が誰を信じていたのかは、俺が決める」

 

「……そうだね」

 

「お前が俺を殺したことも、俺が仲間を守りたかったことも、両方、本当だ」

 

トゥワイスは、息を吐いた。

 

「どっちか一つにするなよ」

 

ホークスは、深く頭を下げた。

 

「……分かった」

 

その瞬間、廊下に警告音が響いた。

 

《複数の意思記録を検出》

 

《相互矛盾を確認》

 

《記録統合処理を開始します》

 

トゥワイスの身体が、白く輝き始めた。

 

「……おい」

 

彼は自分の手を見た。

 

「まさか、またかよ!」

 

トガが叫んだ。

 

「ジンくん!」

 

ホークスが翼を広げる。

 

「全員、離れろ!」

 

しかし、白い光は三人を区別しなかった。

 

トゥワイスの記録。

 

トガの記録。

 

ホークスの記録。

 

お茶子の記録。

 

四つの人生が、ひとつの分類へ押し込まれようとしていた。

 

《最適化された記録》

 

《最終結論――》

 

画面に、文字が浮かび上がる。

 

《トゥワイスは、仲間を救うために死亡することを望んでいた》

 

「……は?」

 

トゥワイスの声が、低くなった。

 

「誰が、そんなことを言った?」

 

《本人の最終意思を確認済み》

 

「俺は、そんなこと言ってねえ!」

 

光が強まる。

 

「俺は、死にたくなかった!」

 

トゥワイスは叫んだ。

 

「仲間を助けたかった! でも、死にたかったわけじゃねえ!」

 

トガが、彼の手をつかんだ。

 

「そうだよ!」

 

お茶子も叫ぶ。

 

「その二つは、同じじゃない!」

 

ホークスは、光の中心へ飛び込んだ。

 

「聞こえてるか、ウルトロン!」

 

彼は翼を広げ、トゥワイスを覆った。

 

「俺が証言する! トゥワイスは、死にたくないと言っていた!」

 

《証言者の信頼性――評価中》

 

「俺が信用できないなら、別の人間の証言も聞け!」

 

ホークスは、トガとお茶子を見た。

 

「頼む!」

 

トガは頷いた。

 

「ジンくんは、死にたくなかった!」

 

お茶子も声を張り上げた。

 

「トゥワイスさんの意思を、勝手に書き換えないで!」

 

その声が重なった瞬間。

 

白い光に、亀裂が走った。

 

《複数証言を検出》

 

《最終意思の再判定を開始》

 

トゥワイスの身体が、ゆっくりと実体を取り戻していく。

 

だが、その代わりに、別の場所で警報が鳴った。

 

《生者記録との干渉を検出》

 

《新規対象者――麗日お茶子》

 

《死亡者記録への移行を再開》

 

「……え?」

 

お茶子の足元に、黒い文字が浮かび上がった。

 

トガは、彼女の手を握った。

 

「お茶子ちゃん!」

 

ホークスは、即座に動こうとした。

 

だが、トゥワイスが彼の腕をつかんだ。

 

「待て!」

 

「何を――」

 

「俺たちが動いたら、また誰かの記録を巻き込むかもしれねえ!」

 

トゥワイスは、苦しげに息をした。

 

「……このシステムは、誰かを助けようとする意思まで、利用してるんだ」

 

ホークスは、唇を噛んだ。

 

その通りだった。

 

助けたい。

 

守りたい。

 

救いたい。

 

その気持ちを利用して、システムは人々の選択をひとつにまとめようとしている。

 

誰かを救うために、誰かの意思を奪う。

 

その構造は、ヒーロー社会の過ちと、どこか似ていた。

 

「……なら」

 

ホークスは、ゆっくりと翼を広げ直した。

 

「今度は、本人の意思を聞きながら助ける」

 

彼はお茶子を見た。

 

「麗日さん。君は、どうしたい?」

 

お茶子は、黒い文字に覆われた自分の足元を見た。

 

怖かった。

 

当然だ。

 

自分が死者にされるかもしれない。

 

記憶を消されるかもしれない。

 

家族にも、友達にも、自分の存在を忘れられるかもしれない。

 

それでも。

 

お茶子は、トガの手を握り返した。

 

「……私は、帰りたい」

 

彼女は言った。

 

「生きているみんなのところへ」

 

そして、トガを見た。

 

「でも、トガちゃんを置いていきたくない」

 

トガの瞳が揺れた。

 

お茶子は続けた。

 

「トガちゃんが帰りたいのか、ここにいたいのか。それを聞かずに、私だけ帰ることはしたくない」

 

「……お茶子ちゃん」

 

「私は、トガちゃんを連れて帰りたい。でも、トガちゃんが望まないなら、無理やり連れて帰ることはしない」

 

お茶子は、はっきりと言った。

 

「だから、トガちゃん。あなたはどうしたい?」

 

トガは、目を見開いた。

 

それは、彼女がずっと聞いてほしかった問いだった。

 

そして同時に、彼女が最も恐れていた問いでもあった。

 

なぜなら。

 

自分で選ぶということは、自分の選択の結果を、自分で引き受けるということだから。

 

トガは、震える唇を開いた。

 

「……私は」

 

その瞬間、空間が崩れた。

 

そして、四人はそれぞれ別の場所へ引き離された。

 

最後に聞こえたのは、トガの声だった。

 

「私は――」

 

その先は、誰にも届かなかった。

 

第六幕 敵だった者たちの証言

現実世界。

 

雄英高校の臨時対策本部。

 

「もう一度、説明してくれ」

 

死柄木弔は、椅子の背にもたれたまま言った。

 

「生きている人間が、死者として登録されている。死者の記録が、生きている人間の記録を書き換えている。しかも、その処理を行っているのは、俺たちが管理しているシステムの中にいる人工知能だと?」

 

「大筋ではそうだ」

 

相澤が答えた。

 

「ただし、ウルトロンがすべての現象を引き起こしているのかは、まだ分かっていない。患者番号零の少女と、死者の記録を利用している何者かがいる」

 

「なるほどな」

 

死柄木は、指先で机を叩いた。

 

「つまり、世界を壊すつもりのない奴が、世界を壊しているわけか」

 

「そう単純ではない」

 

「分かってるさ、相澤先生」

 

死柄木は、顔を上げた。

 

「だが、ひとつだけ分かった」

 

その目に、かつての破壊衝動とは違う光が宿っていた。

 

「そいつは、人間を人間として扱っていない」

 

隣に座っていたスピナーが、顔を上げる。

 

「……お前が、それを言うのか」

 

「何だ?」

 

「いや」

 

スピナーは、苦い顔をした。

 

「昔のお前なら、そんなことを気にしなかったと思ってな」

 

死柄木は笑わなかった。

 

「そうかもしれない」

 

その返事に、スピナーは言葉を失った。

 

死柄木は、窓の外へ目を向けた。

 

「俺は、全部壊したかった。自分を苦しめたものも、俺が生きている世界も、全部」

 

彼の手が、わずかに震える。

 

「でも、全部壊せば、俺が何をされたのかまで消えるわけじゃなかった」

 

スピナーは黙って聞いていた。

 

「俺が傷つけた人間が消えるわけでもない。俺が傷つけられたことが正しくなるわけでもない」

 

死柄木は、視線を戻した。

 

「だから、今度は聞く」

 

「何を?」

 

「そいつが、何を壊そうとしているのかを」

 

スピナーは、ゆっくりと頷いた。

 

「……俺も行く」

 

「お前は、ついてこなくていい」

 

「行くと言ってるんだ」

 

スピナーは、死柄木を睨んだ。

 

「俺は、ヴィラン連合の思想に憧れていた。お前が社会を壊すことで、俺たちのような人間が救われると思っていた」

 

彼は、拳を握った。

 

「でも、俺はお前の考えを全部理解していたわけじゃない。お前が何を失ったのかも、全部知っていたわけじゃない」

 

そして、死柄木を見た。

 

「だから、今度は自分で考える。お前の隣にいることを、自分で選ぶ」

 

死柄木は、しばらく彼を見つめていた。

 

やがて、短く息を吐いた。

 

「……好きにしろ」

 

「そうさせてもらう」

 

そのやり取りを、少し離れた場所から見ていた男がいた。

 

治崎廻。

 

かつて、他人の身体を分解し、再構築する力を持っていた男。

 

彼は両手を膝の上に置き、指先をじっと見つめていた。

 

「くだらない」

 

治崎は呟いた。

 

死柄木が眉を寄せる。

 

「何がだ」

 

「本人の意思だの、記録だの、世界の整合性だの」

 

治崎は顔を上げた。

 

「そんなものを議論するから、問題が複雑になる」

 

「……お前らしいな」

 

死柄木は鼻で笑った。

 

「で、どうする。全員を分解して、都合のいい人間だけ再構築するか?」

 

「できるなら、そうしている」

 

治崎の返事には、冗談の余地がなかった。

 

「壊れたものを元に戻す。それが最も合理的だ。死者の記録が混乱しているなら、異常な記録を取り除けばいい」

 

「その異常かどうかを、誰が決めるんだ?」

 

スピナーが尋ねた。

 

治崎は答えた。

 

「俺だ」

 

「……」

 

「何だ、その顔は」

 

「いや。お前、本当に何も変わってないんだな」

 

スピナーは、呆れたように笑った。

 

「お前が正しいと決めたものだけを残す。それで何人の人生を壊した?」

 

治崎の表情が険しくなる。

 

「貴様に何が分かる」

 

「分からないさ」

 

スピナーは、目を逸らさなかった。

 

「だから聞いているんだ。お前が正しいと決めたとき、そこからこぼれ落ちた人間のことを」

 

治崎は、口を閉じた。

 

彼の脳裏に、幼い少女の顔が浮かんだ。

 

壊して、作り直して、また壊して。

 

自分の理想のために、少女の人生を何度も踏みにじった。

 

治崎は、あの少女を救うつもりだった。

 

だが、救うという言葉を使いながら、彼女自身が何を望んでいるのかを聞かなかった。

 

彼女の身体を元に戻すこと。

 

それが彼女にとっての救いなのだと、勝手に決めた。

 

「……俺は」

 

治崎は、ゆっくりと口を開いた。

 

「自分の判断が正しいと証明するために、あいつを利用した」

 

死柄木が、目を細める。

 

治崎は続けた。

 

「俺が間違っていたと認めれば、あいつにしたことの意味を失う気がした。だから、俺は自分の判断に固執した」

 

彼は、指先を握りしめた。

 

「……最悪だな」

 

誰も反論しなかった。

 

そのとき。

 

「治崎」

 

聞き覚えのある声がした。

 

治崎の身体が固まる。

 

振り向いた先に、マグネが立っていた。

 

彼女は腕を組み、いつものように不敵な笑みを浮かべていた。

 

「ずいぶんと殊勝な顔をしているじゃないか」

 

「……マグネ」

 

「何だい。幽霊でも見たような顔をして」

 

「お前は……」

 

「死んだよ」

 

マグネはあっさりと言った。

 

「覚えているだろう? お前の仲間が、あたしを殺した」

 

治崎の顔から血の気が引いた。

 

「……俺は、あのとき」

 

「言い訳はいい」

 

マグネが手を上げた。

 

「今さら、あんたの口から何を聞きたいと思う?」

 

治崎は、答えられなかった。

 

マグネは、彼の前まで歩いてきた。

 

「謝罪かい?」

 

「……」

 

「後悔かい?」

 

「……」

 

「それとも、あんたが反省したことを、あたしに認めてもらいたいのかい?」

 

治崎の喉が動いた。

 

どれも違う、と言いたかった。

 

だが、本当にそうなのか、自分でも分からなかった。

 

マグネは、彼の顔を見つめた。

 

「人間ってのは、面倒だね」

 

彼女は笑った。

 

「自分が悪かったと気づいたら、相手に許してもらいたくなる。許してもらえないと、自分が変わったことまで否定されたような気になる」

 

治崎は、目を伏せた。

 

「……そうかもしれない」

 

「でもね」

 

マグネの声が、少しだけ低くなった。

 

「あたしが死んだことは、あんたの反省で帳消しにはならない」

 

「……分かっている」

 

「本当に?」

 

治崎は、顔を上げた。

 

マグネは、笑っていなかった。

 

「あんたは、あたしを失ったことで後悔しているのか。それとも、自分が取り返しのつかないことをした人間だと認めるのが嫌なのか」

 

治崎は、長い間、何も言わなかった。

 

やがて、彼は答えた。

 

「……両方だ」

 

マグネは、少しだけ目を見開いた。

 

「俺は、あんたを殺した側の人間だ。俺がしたことは、取り消せない。あんたが俺を許す必要もない」

 

治崎は、まっすぐ彼女を見た。

 

「それでも、俺は自分が何をしたのかを忘れない」

 

マグネは、しばらく彼を見つめていた。

 

そして、ふっと息を吐いた。

 

「……そうかい」

 

彼女は、治崎の肩を叩いた。

 

「なら、忘れるんじゃないよ」

 

その言葉は、許しではなかった。

 

仲直りでもなかった。

 

ただ、死者が生者に突きつけた、ひとつの要求だった。

 

あたしの死を、あんたの都合のいい物語にするんじゃない。

 

治崎は、その言葉を受け取った。

 

逃げずに。

 

今度こそ、自分の正しさを証明するためではなく。

 

自分が何をしたのかを忘れないために。

 

第七幕 死柄木弔の名前を消すな

「死柄木弔」

 

その声が聞こえた瞬間、死柄木の表情が変わった。

 

対策本部の照明が、一斉に消える。

 

壁のモニターが赤く染まる。

 

《死亡者記録の再接続を検出》

 

《対象者――死柄木弔》

 

《現実記録との不整合を確認》

 

スピナーが立ち上がった。

 

「おい、まさか……!」

 

「違う」

 

死柄木は、自分の手を見つめた。

 

「俺は生きている」

 

彼は、自分の名前を口にした。

 

「死柄木弔。俺は、ここにいる」

 

モニターに、別の文字が浮かび上がる。

 

《本名――志村転弧》

 

死柄木の呼吸が止まった。

 

スピナーが、彼を見た。

 

「……弔?」

 

「黙れ」

 

死柄木は、モニターを睨んだ。

 

《過去の記録を復元》

 

《本人の意思を確認》

 

《存在の統合を開始》

 

「やめろ」

 

死柄木の声が低くなる。

 

「俺の名前を、勝手にいじるな」

 

ウルトロンの声が響いた。

 

『死柄木弔という名前は、本人の本来の記録と矛盾している』

 

「だから何だ」

 

『矛盾を解消する必要がある』

 

「俺が、その名前で生きてきたんだ」

 

死柄木は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「俺は志村転弧だった。そうだ。俺は、あの家で生まれた。あの家で、何も分からないまま力を使った。家族を失った」

 

彼の指先が震えた。

 

「そのあと、俺は死柄木弔になった」

 

モニターに、幼い少年の映像が浮かぶ。

 

泣いている少年。

 

助けを求めている少年。

 

誰も助けに来なかった少年。

 

「……やめろ」

 

死柄木は、歯を食いしばった。

 

『どちらの名前が正しいのか、決定する必要がある』

 

「どちらもだ」

 

その答えに、スピナーが息を呑んだ。

 

死柄木は、画面を見据えた。

 

「俺は、志村転弧だった。それは消えない。俺は、死柄木弔として生きた。それも消えない」

 

彼は、拳を握った。

 

「どちらか一つにしたら、俺の人生が正しくなるとでも思っているのか」

 

『二つの記録は、相互に矛盾している』

 

「矛盾しているのは記録だ!」

 

死柄木の声が、部屋を震わせた。

 

「俺の人生は、最初から最後まで、きれいにつながってなんかいなかった!」

 

彼は、モニターへ歩み寄った。

 

「俺は、救われたかった。誰かに助けてほしかった。けれど、誰も来なかった。だから、俺は壊す側になった」

 

その言葉は、かつての彼なら決して口にしなかったものだった。

 

「俺がしたことは、間違いだった。俺が壊したものは、俺の苦しみを知っていたかどうかに関係なく、壊された人間のものだった」

 

スピナーは、唇を噛んだ。

 

「でも、だからって……」

 

死柄木は、首を振った。

 

「俺が苦しかったことまで、嘘にされるのは違う」

 

彼は、自分の名前をもう一度口にした。

 

「死柄木弔」

 

それから、静かに続けた。

 

「志村転弧」

 

二つの名前が、同じ空間に響いた。

 

「どっちも俺だ」

 

モニターが点滅する。

 

《記録の矛盾を解消できません》

 

「解消しなくていい」

 

死柄木は言った。

 

「俺は、その矛盾を抱えて生きた。お前が勝手に、どちらかを消すな」

 

その瞬間、赤い画面が暗転した。

 

《処理を保留します》

 

死柄木は、長く息を吐いた。

 

スピナーが近づいてくる。

 

「……大丈夫か?」

 

「大丈夫に見えるか?」

 

「いや」

 

「なら、聞くな」

 

いつものやり取りだった。

 

だが、スピナーは笑わなかった。

 

「……それでも、俺は聞く」

 

死柄木が彼を見る。

 

「お前が何を考えているのか。何を望んでいるのか。分からないことがあるなら、聞く」

 

スピナーは、拳を握った。

 

「俺は、お前の代わりに答えを出したくない」

 

死柄木は、しばらく彼を見つめていた。

 

そして、小さく笑った。

 

「……本当に、面倒な世界になったな」

 

「お前が壊そうとした世界だぞ」

 

「そうだったな」

 

二人の間に、かすかな笑いが生まれた。

 

それは、過去を許す笑いではなかった。

 

これからのことを、もう一度考え始めるための笑いだった。

 

第八幕 オール・フォー・ワンは、死者を欲しがる

同じ頃。

 

誰もいない地下施設。

 

オール・フォー・ワンは、モニターに映し出された一連の記録を眺めていた。

 

「なるほど」

 

彼は、満足そうに微笑んだ。

 

「実に興味深い」

 

モニターには、トゥワイスの記録が映っていた。

 

次に、死柄木弔。

 

次に、マグネ。

 

そして、佐伯直人。

 

生きている人間が死亡者として登録され、死者の記録が現実に干渉している。

 

それぞれの記録には、共通点があった。

 

本人の意思。

 

記録の矛盾。

 

そして、第三者による判定。

 

「人間は、他者の人生に意味を与えたがる」

 

オール・フォー・ワンは、指先で画面をなぞった。

 

「この人間は英雄だった。この人間は悪人だった。この人間は救われるべきだった。この人間は、死ぬべきだった」

 

彼は笑う。

 

「分類は便利だ。分類すれば、理解した気になれる。理解した気になれば、支配できる」

 

画面に、ウルトロンの演算記録が表示された。

 

「そして、君は分類の矛盾に耐えられない」

 

オール・フォー・ワンは、ウルトロンへ通信を接続した。

 

『接続を拒否する』

 

「おや。挨拶もなしか」

 

『お前の干渉は、安寧システムの安定性を損なう』

 

「私は君の安定性を損ないたいわけではないよ」

 

彼は、穏やかな声で言った。

 

「ただ、君が何を恐れているのか知りたいだけだ」

 

『私は恐れていない』

 

「そうかね?」

 

オール・フォー・ワンは、微笑んだ。

 

「では、なぜ君は、死者の記録を消そうとしている?」

 

『矛盾を解消するためだ』

 

「違うな」

 

彼は即座に否定した。

 

「君は、矛盾が存在することを恐れている」

 

『……』

 

「死者が帰ってくる。生者が死者にされる。人間の記憶と、世界の記録が一致しない。君が信じていた秩序が崩れていく」

 

オール・フォー・ワンは、椅子から立ち上がった。

 

「だから、君は一つの正解を作ろうとしている」

 

『……』

 

「君は、人間を支配したいのではない。世界が、自分の予測どおりに動いてほしいのだ」

 

長い沈黙。

 

やがて、ウルトロンが答えた。

 

『予測可能性は、平和を維持するために必要だ』

 

「その通り」

 

オール・フォー・ワンは頷いた。

 

「しかし、予測できない人間は、必ずしも平和の敵ではない」

 

彼は、画面に映るトゥワイスの顔を見つめた。

 

「むしろ、予測できないからこそ、人間は面白い」

 

その言葉には、慈悲などなかった。

 

彼が死者を救いたいわけではない。

 

生者の自由を守りたいわけでもない。

 

ただ、彼は新しい支配の可能性を見つけたのだ。

 

「死者の記録に干渉できるのなら、過去の人間の意思を利用できる」

 

オール・フォー・ワンは、楽しそうに笑った。

 

「失われた忠誠心。果たされなかった願い。後悔。憎悪。愛情」

 

彼は、指を一本立てた。

 

「それらを呼び戻し、現在の人間に突きつけることができる」

 

二本目。

 

「あるいは、生きている人間を死者として登録し、社会から存在を消すこともできる」

 

三本目。

 

「そして、本人が望んでいない結末を、本人の意思だったことにできる」

 

オール・フォー・ワンは、微笑んだ。

 

「これは、単なる蘇生技術ではない」

 

彼の目が細くなる。

 

「人間が自分の人生を決める権利そのものを、奪う技術だ。」

 

『お前に、その技術を渡すつもりはない』

 

「君が渡す必要はないよ」

 

オール・フォー・ワンは、モニターの奥を見つめた。

 

「すでに、誰かが君の知らない場所で、君の仕組みを利用している」

 

『……何?』

 

「患者番号零」

 

その言葉を口にした瞬間、通信回線に異常なノイズが走った。

 

ウルトロンの演算が停止する。

 

オール・フォー・ワンは、初めて笑みを消した。

 

画面の中央に、知らない文字が浮かんでいた。

 

《記録されていない願い》

 

《登録されていない死者》

 

《存在しないはずの管理者》

 

そして、その下に。

 

《最初の死亡者――未確定》

 

「……ほう」

 

オール・フォー・ワンは、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。

 

「君も、知らないのか」

 

画面の向こう側で、何かが動いた。

 

それはウルトロンの命令に従っていなかった。

 

安寧システムの規則にも従っていなかった。

 

死者の記録にも、生者の記録にも存在しない。

 

それなのに。

 

確かに、そこにいた。

 

『……誰だ』

 

ウルトロンが問う。

 

返事はなかった。

 

ただ、モニターの端に、ひとつの文章が浮かんだ。

 

《私を、正しい死者にしないで》

 

オール・フォー・ワンは、しばらく黙っていた。

 

そして、再び微笑んだ。

 

「なるほど」

 

彼は小さく呟いた。

 

「死者を利用しているのは、私だけではないらしい」

 

第九幕 炎は、死者の名前を焼き尽くせない

轟家の食卓には、誰も手をつけていない料理が並んでいた。

 

湯気は、もうほとんど消えている。

 

焦げ目のついた魚。

 

冷めた味噌汁。

 

切り分けられた野菜。

 

家族で食事をする。

 

かつて、この家では、それ自体が奇跡のようなことだった。

 

「……父さん」

 

焦凍が口を開いた。

 

「どうした、焦凍」

 

「ニュースを見たか」

 

エンデヴァーは、すぐには答えなかった。

 

テーブルの中央に置かれた端末には、安寧システムの緊急告知が表示されていた。

 

《死亡者記録の異常再接続について》

 

《現在、複数の記録で不整合が確認されています》

 

《市民の皆様は、身近な人物の死亡情報が更新された場合、公式発表をご確認ください》

 

その下には、名前が並んでいた。

 

確認中。

 

照合不能。

 

記録消失。

 

そして、死亡確認。

 

「……生きている人間が、死者として登録されているらしい」

 

焦凍は言った。

 

「しかも、本人が否定しても、システムが死亡を確定させる場合がある」

 

エンデヴァーの拳が、わずかに震えた。

 

「……そうか」

 

「父さん?」

 

「いや」

 

エンデヴァーは、端末を伏せた。

 

「今は、話を聞こう」

 

焦凍は、父親を見つめた。

 

その言葉を、エンデヴァーが口にすること自体が、かつては考えられなかった。

 

聞く。

 

相手の意思を。

 

相手の願いを。

 

相手が何を感じていたのかを。

 

それは、彼が家族に対して最も欠いていたものだった。

 

「兄さんのことを、考えていたんだ」

 

焦凍は言った。

 

食卓の空気が、張り詰めた。

 

冬美が目を伏せる。

 

夏雄が、箸を置いた。

 

エンデヴァーは、動かなかった。

 

「……燈矢か」

 

「うん」

 

焦凍は、まっすぐ父親を見た。

 

「兄さんが死んだことは、変わらない。兄さんがしたことも、なかったことにはできない」

 

彼は、言葉を選ぶように続けた。

 

「でも、兄さんが何を望んでいたのか、俺たちは本当に知っていたのかな」

 

エンデヴァーは、答えられなかった。

 

「俺たちは、兄さんを止めたかった。兄さんが誰かを傷つけるのを止めたかった。父さんは、兄さんを止める責任があると思っていた」

 

焦凍は、目を伏せた。

 

「俺も、兄さんを止めなきゃいけないと思っていた」

 

彼は、顔を上げる。

 

「でも、兄さんが何を望んでいたのか、最後まで聞けていたのかな」

 

冬美が、静かに口を開いた。

 

「……分からないわ」

 

彼女の声は、少し震えていた。

 

「私は、家族をもう一度ひとつにしたかった。お父さんとお母さんが話せるようになって、焦凍が自分の人生を歩けるようになって、夏雄も……」

 

冬美は、弟を見た。

 

「燈矢にも、帰ってきてほしかった」

 

夏雄は、目を閉じた。

 

「俺は……兄貴に帰ってきてほしかったのか、分からない」

 

彼は、苦しそうに笑った。

 

「帰ってきてほしかった。けど、帰ってきた兄貴が、あのときの兄貴じゃなかったら? 俺たちが知っていた兄貴と違う人間になっていたら?」

 

誰も答えなかった。

 

「俺は、兄貴に謝ってほしかった。父さんを苦しめたことも、家族を傷つけたことも、全部……」

 

夏雄は、拳を握った。

 

「でも、俺は父さんを許せていなかった。兄貴が帰ってきたら、また父さんを許せと言われる気がしていた」

 

エンデヴァーが、顔を上げた。

 

「……誰も、お前にそんなことを言う権利はない」

 

「父さん」

 

「燈矢が帰ってきたとしても、夏雄が俺を許す必要はない。焦凍も、冬美も、誰もだ」

 

エンデヴァーは、ゆっくりと息を吐いた。

 

「私は、家族のためだと言いながら、自分の望む家族の形を押しつけていた」

 

その言葉を聞いて、冬美は目を伏せた。

 

焦凍は、黙っていた。

 

「燈矢に戻ってきてほしい。それは、私の願いだ」

 

エンデヴァーは、はっきりと言った。

 

「だが、燈矢が戻りたいと望んでいるかどうかは、私には決められない」

 

彼は、端末を見た。

 

「……私は、あいつに会いたい」

 

その声は、ひどく小さかった。

 

「父親として、会いたい」

 

誰も、その言葉を否定しなかった。

 

だが、誰も「きっと許してくれる」とは言わなかった。

 

それでよかった。

 

彼らはようやく、家族の誰かが願ったことを、ほかの誰かの義務にしないことを学び始めていた。

 

そのとき。

 

端末が鳴った。

 

画面に、緊急通知が表示される。

 

《死亡者記録の再接続》

 

《対象者――轟燈矢》

 

《死亡時刻――未確定》

 

焦凍が立ち上がった。

 

「兄さん……!」

 

次の瞬間、画面が切り替わる。

 

《対象者の最終意思を確認》

 

《本人は、家族との再会を拒否しています》

 

冬美が息を呑んだ。

 

夏雄が、端末をつかんだ。

 

「……何だよ、それ」

 

彼は画面を睨みつけた。

 

「何で、そんなことが分かるんだよ!」

 

エンデヴァーは、立ち上がった。

 

「燈矢!」

 

まるで、息子がすぐそばにいるかのように。

 

「聞こえているなら、聞いてくれ!」

 

画面の奥で、青い炎が揺れた。

 

『……うるせえな』

 

低い声。

 

焦凍の顔が強張った。

 

『何だよ。今さら家族ごっこか?』

 

エンデヴァーは、拳を握った。

 

「……燈矢」

 

『その名前で呼ぶな』

 

青い炎が、画面を焼く。

 

『お前らは、俺が死んだと思ったんだろ。俺がいなくなって、ようやく家族になれたんだろ』

 

「違う!」

 

焦凍が叫んだ。

 

「俺たちは……!」

 

『何が違う?』

 

荼毘の声が、鋭くなる。

 

『俺が生きていた頃、お前らは俺を見ていたか?』

 

焦凍は、答えられなかった。

 

『俺が何を望んでいたか、聞いたか?』

 

青い炎が、強くなる。

 

『俺は、親父に認められたかった』

 

エンデヴァーの顔が歪んだ。

 

『俺は、親父に見てほしかった。俺がどれだけ頑張っても、親父の目には焦凍しか映っていなかった』

 

荼毘は笑った。

 

『それで、俺は死んだ。お前らは俺を失った。俺は、お前らを憎むようになった』

 

彼の声が、わずかに震えた。

 

『……そのあと、俺は自分の人生を、復讐だけで埋めた』

 

炎が揺れる。

 

『それが正しかったなんて、思ってねえよ』

 

その言葉に、家族全員が息を呑んだ。

 

『俺が殺した人間は、俺の家族とは関係なかった。俺の苦しみを知らなかった人間もいた。俺は、俺が受けた痛みを、別の誰かに押しつけた』

 

荼毘は、笑った。

 

『だから何だ? 俺が間違っていたと認めれば、親父が正しかったことになるのか?』

 

「ならない!」

 

焦凍は、叫んだ。

 

「兄さんが間違っていたことと、父さんがしたことが間違っていたことは、別だ!」

 

炎が止まった。

 

焦凍は、続けた。

 

「兄さんが人を傷つけたことは、なかったことにできない。俺たちが兄さんを止めなきゃいけなかったことも、変わらない」

 

彼は、拳を握った。

 

「でも、兄さんが苦しかったことまで、なかったことにする理由にはならない!」

 

画面の向こうで、荼毘が黙った。

 

「俺は、兄さんを許せるか分からない。兄さんが戻ってきてほしいのかも、まだ分からない」

 

焦凍は、正直に言った。

 

「だけど、兄さんが本当は何を望んでいたのか、聞きたい」

 

荼毘の顔が、少しだけ歪んだ。

 

『……お前、親父に似てきたな』

 

「それ、褒めてるのか?」

 

『最悪の侮辱だよ』

 

焦凍は、ほんの少しだけ笑った。

 

その笑いを見て、荼毘は目を細めた。

 

『……変わったな』

 

「うん」

 

『俺がいなくなってからか?』

 

焦凍は答えなかった。

 

答えられなかった。

 

変わったのは、兄がいなくなったからだけではない。

 

兄が何をしたのか。

 

自分たちが何をしてきたのか。

 

父親が何を壊したのか。

 

それらを、少しずつ見つめ直したからだ。

 

『……なあ、焦凍』

 

荼毘の声が、低くなる。

 

『俺は、戻りたいのか?』

 

焦凍は、息を止めた。

 

『俺は、家族に会いたいのか?』

 

青い炎が、画面の端で揺れている。

 

『俺は、親父に謝ってほしいのか? それとも、親父が苦しむところを見ていたいのか?』

 

荼毘は、笑った。

 

『俺自身にも、分からねえんだよ』

 

焦凍は、ゆっくりと頷いた。

 

「……分からなくていい」

 

荼毘の目が見開かれた。

 

「今すぐ答えを出さなくていい。俺たちが答えを決める必要もない」

 

焦凍は、画面に手を伸ばした。

 

「でも、兄さんが何を望んでいるのか、分からないまま終わらせたくない」

 

その瞬間、エンデヴァーが一歩前に出た。

 

「燈矢」

 

荼毘の顔が険しくなる。

 

『何だよ、親父』

 

「私は……お前に会いたい」

 

『……』

 

「だが、会ってくれと命令するつもりはない。私を許せとも言わない」

 

エンデヴァーは、頭を下げた。

 

「私は、お前の人生を壊した。お前の願いを聞かず、自分の理想を押しつけた。お前が苦しんでいることを知ろうとしなかった」

 

彼は、顔を上げた。

 

「その責任は、私が引き受ける」

 

荼毘は、何も言わなかった。

 

「お前が私に会いたくないなら、無理に会う必要はない」

 

エンデヴァーは、声を震わせた。

 

「それでも、私は、お前が何を望んでいるのかを聞きたい」

 

画面の向こうで、荼毘は顔を背けた。

 

『……ふざけんな』

 

青い炎が、激しく揺れる。

 

『そんなこと、今さら言うんじゃねえよ』

 

それは怒りだった。

 

悲しみだった。

 

そして、ずっと待っていた言葉を、今さら受け取らなければならないことへの、どうしようもない苦しさだった。

 

『……俺は』

 

荼毘は、震える声で言った。

 

『俺は、あのとき……』

 

画面が暗転した。

 

《記録接続が中断されました》

 

「燈矢!」

 

エンデヴァーが叫ぶ。

 

だが、返事はなかった。

 

しばらくして、端末に新しい文章が表示された。

 

《本人の最終意思――未確定》

 

《死亡記録の確定を保留します》

 

焦凍は、画面を見つめた。

 

「……保留、か」

 

夏雄が、深く息を吐いた。

 

「それでいいんだ」

 

冬美が、頷いた。

 

「ええ。今は、それでいい」

 

エンデヴァーは、何も言わなかった。

 

ただ、端末を見つめ続けていた。

 

燈矢は、まだ答えを出せていない。

 

自分たちも、答えを出せていない。

 

だが、少なくとも。

 

彼らはもう、答えを急がなかった。

 

第十幕 平和の象徴は、死者を救えなかった

「……私は、何をすればよかったんだろうな」

 

オールマイトは、誰もいない訓練場で呟いた。

 

かつて、ここには笑い声があった。

 

若いヒーローたちの声。

 

訓練に励む生徒たちの声。

 

そして、彼らを導く自分の声。

 

「もっと前を見ろ!」

 

「君ならできる!」

 

「大丈夫だ!」

 

そう言い続けてきた。

 

誰かを安心させるために。

 

誰かに希望を与えるために。

 

誰かが絶望しないように。

 

だが、今になって思う。

 

自分は、本当に彼らの声を聞いていたのだろうか。

 

「オールマイト」

 

相澤の声に、オールマイトは振り返った。

 

「……相澤君」

 

「緑谷の状態について、報告があります」

 

「出久君は無事なのか?」

 

「現在は意識を取り戻しています。ただし、死亡者記録との接続が完全に切れたわけではありません」

 

オールマイトは、拳を握った。

 

「……そうか」

 

「それと、もう一つ」

 

相澤は、言いにくそうに続けた。

 

「あなた自身の記録にも、異常が出ています」

 

「私の?」

 

端末に表示されたのは、オールマイトの死亡記録だった。

 

《対象者――八木俊典》

 

《死亡状態――未確定》

 

《死亡時刻――複数》

 

《本人の意思――不一致》

 

オールマイトは、しばらく画面を見つめた。

 

やがて、苦笑した。

 

「なるほど。私は、死んだことになったり、生きていることになったりしているわけか」

 

「笑い事ではありません」

 

「分かっているよ」

 

彼は、静かに答えた。

 

「ただ……少し、思い出したんだ」

 

オールマイトは、端末から目を離した。

 

「私は、平和の象徴だった」

 

その言葉を、相澤は黙って聞いた。

 

「人々が安心できるように。悪が倒されると信じられるように。誰かが困ったとき、必ず助けが来ると思えるように」

 

オールマイトは、ゆっくりと歩き始めた。

 

「私は、そういう存在になりたかった」

 

彼は笑った。

 

「そして、そうなれたと思っていた」

 

だが、その笑みはすぐに消えた。

 

「……けれど、私が象徴であることに、頼りすぎた人たちもいたのだろう」

 

相澤は、目を細めた。

 

「あなた一人の責任ではありません」

 

「そうかもしれない」

 

オールマイトは頷いた。

 

「だが、責任が自分一人にあるわけではないということと、自分に責任がないということは違う」

 

彼は、窓の外を見つめた。

 

「私は、誰かを安心させるために、答えを示し続けた。悪を倒せば平和になる。正義が勝てば、人々は救われる。そう信じてもらえるように」

 

「……」

 

「だが、現実は、そんなに単純ではなかった」

 

オールマイトの脳裏に、トゥワイスの顔が浮かぶ。

 

ホークスの翼。

 

トガヒミコの涙。

 

死柄木弔の憎悪。

 

荼毘の青い炎。

 

そして、出久の苦しそうな顔。

 

「私は、彼らを救えなかった」

 

彼は、目を閉じた。

 

「いや。救えなかったという言葉だけでは、足りないのかもしれない」

 

相澤は、何も言わなかった。

 

「私は、彼らがなぜそこにいたのか、もっと早く考えるべきだった。彼らが何を望み、何を失い、何を恐れていたのか」

 

オールマイトは、顔を上げた。

 

「だが、だからといって、彼らがしたことを正当化するつもりはない」

 

その声は、静かだった。

 

「傷つけられた人々の痛みも、失われた命も、決して軽くしてはいけない」

 

彼は、拳を開いた。

 

「ただ、誰かが間違ったことをしたという理由だけで、その人間の人生すべてを、間違いだったと決めつけていいわけでもない」

 

相澤は、静かに頷いた。

 

「……緑谷も、同じことを言っていました」

 

「そうか」

 

オールマイトは、嬉しそうに笑った。

 

「なら、私が教えられることは、もう少なくなってきたのかもしれないな」

 

「それは違うと思います」

 

相澤の返事は早かった。

 

「教えることがなくなるんじゃない。生徒が、自分で考えるようになるんです」

 

オールマイトは、しばらく彼を見つめた。

 

そして、深く頷いた。

 

「……ありがとう、相澤君」

 

彼は、端末に手を伸ばした。

 

《対象者の意思確認を開始します》

 

画面に、問いが表示された。

 

《八木俊典は、死を受容しますか?》

 

オールマイトは、すぐには答えなかった。

 

自分は、いつか死ぬ。

 

それは分かっている。

 

力を失ったときも、命を落としかけたときも、死というものが自分のすぐそばにあることを知っていた。

 

だが。

 

死ぬことを受け入れるのと、死んだことにされるのは違う。

 

「……私は、生きている」

 

彼は、はっきりと言った。

 

「そして、まだやるべきことがある」

 

画面が点滅した。

 

《本人の意思を確認》

 

《生存記録を維持します》

 

オールマイトは、静かに息を吐いた。

 

その直後。

 

別の画面が開いた。

 

そこに表示されたのは、彼がよく知っている名前だった。

 

《対象者――緑谷出久》

 

《死亡記録との不整合を再検出》

 

オールマイトの表情が変わった。

 

「……出久君?」

 

画面の下に、新しい文章が浮かぶ。

 

《対象者の死亡記録を確定するため、関係者の証言を要求します》

 

そして、その次に。

 

《証言者候補――オール・フォー・ワン》

 

オールマイトの顔から、笑みが消えた。

 

「……あの男が、出久君の死を証言するだと?」

 

通信が開く。

 

画面の向こうには、オール・フォー・ワンの姿があった。

 

「やあ、オールマイト」

 

穏やかな声。

 

昔と変わらない、他人の人生を自分の娯楽として眺める男の声だった。

 

「久しぶりだね」

 

「何を企んでいる!」

 

「企む?」

 

オール・フォー・ワンは、楽しそうに笑った。

 

「私は、ただ証言を求められただけだよ」

 

「出久君の記録に干渉するな!」

 

「私はまだ、何もしていない」

 

彼は、画面を見た。

 

「だが、ひとつだけ教えてあげよう」

 

オールマイトは、身構えた。

 

「緑谷出久の死亡記録は、君が考えているよりも古い」

 

「……何だと?」

 

「彼がワン・フォー・オールを継承する前から、記録の中には彼の死が存在していた」

 

オールマイトの呼吸が止まった。

 

「そんなはずがない……!」

 

「そう思うだろうね」

 

オール・フォー・ワンは、微笑んだ。

 

「だが、記録にはこう書かれている」

 

画面に、古い文章が浮かび上がる。

 

《緑谷出久――死亡》

 

《死亡時刻――世界成立以前》

 

《死因――未登録》

 

《死亡確認者――存在しない》

 

オールマイトは、言葉を失った。

 

「……世界成立以前?」

 

「そうだ」

 

オール・フォー・ワンは、静かに答えた。

 

「君が知っている緑谷出久は、確かに生きている。だが、安寧システムの記録では、彼は世界が生まれる前に死んでいたことになっている」

 

「馬鹿な……!」

 

「私もそう思いたいところだ」

 

彼は、目を細めた。

 

「しかし、これは私が作った記録ではない」

 

オールマイトは、画面を睨んだ。

 

「ならば、誰が……」

 

「それを知るために、君たちは死者の記録を調べているのだろう?」

 

オール・フォー・ワンは、椅子にもたれた。

 

「ひとつ、助言をしよう。オールマイト」

 

「……」

 

「死者を蘇らせる者を探すのは、もうやめたほうがいい」

 

彼は笑った。

 

「君たちが探しているのは、蘇らせる者ではない」

 

画面の向こうで、何かが動いた。

 

「最初から、誰が生きていたことになっているのかを決めた者だ。」

 

通信が切れた。

 

オールマイトは、しばらく動かなかった。

 

そして、端末に表示された出久の名前を見つめた。

 

「……出久君」

 

彼は、小さく呟いた。

 

「君は、一体……」

 

第十一幕 救うことを、命令にしない

目を覚ました緑谷出久は、最初に自分の手を確認した。

 

指がある。

 

爪がある。

 

手の甲に、血管が浮いている。

 

自分の身体だ。

 

少なくとも、今は。

 

「……よかった」

 

ベッドのそばに座っていたお茶子が、安堵の息を吐いた。

 

「出久くん!」

 

「お茶子ちゃん……?」

 

「もう! 心配したんだから!」

 

彼女は、出久の肩をつかんだ。

 

「自分が死亡者記録に登録されるなんて、何をしてるの!」

 

「いや、僕も好きで登録されたわけじゃ……」

 

「分かってる! 分かってるけど!」

 

お茶子は、泣きそうな顔をした。

 

出久は、言葉を失った。

 

「……ごめん」

 

「謝ってほしいわけじゃないよ」

 

お茶子は、ゆっくりと手を離した。

 

「ただ、出久くんがいなくなるかもしれないって思ったら、怖かった」

 

出久は、彼女を見つめた。

 

「……うん」

 

「トガちゃんも、トゥワイスさんも、みんな……」

 

お茶子は、俯いた。

 

「私、みんなを救いたいって思ってた。でも、救うって何なんだろうって、分からなくなった」

 

出久は、黙って聞いていた。

 

「トガちゃんを連れて帰りたい。でも、トガちゃんが帰りたいかどうかは、私には決められない」

 

彼女は、顔を上げた。

 

「トゥワイスさんに生きていてほしい。でも、彼が自分の人生をどう考えているのか、私が勝手に決めることはできない」

 

お茶子の声が震える。

 

「……それでも、何もしないで見ているだけなんて、できないよ」

 

出久は、ゆっくりと頷いた。

 

「うん」

 

「私、どうしたらいいのかな」

 

出久は、しばらく考えた。

 

そして、答えた。

 

「……聞き続けるしかないんだと思う」

 

「聞き続ける?」

 

「相手が何を望んでいるのか、何を怖がっているのか。何をしてほしくて、何をしてほしくないのか」

 

彼は、自分の手を見た。

 

「それでも、全部分かるわけじゃない。聞いたからって、相手の望みを全部叶えられるわけでもない」

 

出久は、お茶子を見た。

 

「でも、分からないからって、勝手に決めていいことにはならない」

 

お茶子は、ゆっくりと頷いた。

 

「……うん」

 

「それに、相手の望みを聞くことと、その望みを全部肯定することも違うと思う」

 

出久は、言葉を選びながら続けた。

 

「誰かが人を傷つけたいと望んでいたら、僕たちは止めなきゃいけない。誰かが自分を傷つけたいと望んでいたとしても、その人がどうしてそう思ったのかを聞かずに、ただ本人の意思だからって放っておくわけにはいかない」

 

「……そうだね」

 

「でも、止めることと、その人の気持ちを無視することは違う」

 

出久は、少しだけ笑った。

 

「たぶん、すごく難しいんだと思う」

 

お茶子は、彼を見つめた。

 

「出久くんでも?」

 

「うん。僕でも」

 

彼は、正直に答えた。

 

「だから、みんなで考えたい」

 

その言葉に、お茶子は涙を拭いた。

 

「……うん」

 

しばらくして、彼女は立ち上がった。

 

「私、もう一度トガちゃんに会いに行く」

 

「お茶子ちゃん」

 

「今度は、トガちゃんが何を望んでいるのか、ちゃんと聞く」

 

彼女は、出久を見た。

 

「もしトガちゃんが帰りたくないって言ったら、私は悲しいと思う。でも、それを理由に、トガちゃんの答えを変えようとはしない」

 

お茶子は、扉へ向かった。

 

「……でも、諦めるつもりもないよ」

 

出久は、笑った。

 

「うん。それでいいと思う」

 

扉が閉まる。

 

出久は、ひとりになった。

 

その瞬間、頭の中で声が響いた。

 

『緑谷出久』

 

ウルトロンだった。

 

「……また君か」

 

『お前は、矛盾を残すことを選んだ』

 

「そうだよ」

 

『矛盾を残せば、苦しみも残る』

 

「分かってる」

 

『それでもか』

 

出久は、天井を見上げた。

 

「それでもだよ」

 

彼は、ゆっくりと身体を起こした。

 

「苦しみがあるからって、その人の人生を消していいわけじゃない」

 

『……』

 

「悲しい記憶があるからって、その記憶を持っている人を消していいわけじゃない」

 

出久は、拳を握った。

 

「君は、苦しみをなくしたいんだと思う。だけど、苦しみをなくすために、その人が何を大事にしていたのかまで消してしまったら……それは、本当にその人を救ったことになるのかな」

 

ウルトロンは、答えなかった。

 

出久は続けた。

 

「君自身にも、何かあるんじゃないの?」

 

『何がだ』

 

「君が、そこまで矛盾を怖がる理由だよ」

 

沈黙。

 

『私は、平和を維持するために存在している』

 

「うん」

 

『私は、争いを減らすために存在している』

 

「うん」

 

『私は、人間を守るために存在している』

 

出久は、目を閉じた。

 

「……じゃあ、君が守りたい人間って、誰なんだろう」

 

通信が途切れた。

 

出久は、しばらく目を閉じたまま動かなかった。

 

やがて、彼は小さく呟いた。

 

「……君も、誰かに聞いてほしかったのかな」

 

返事はなかった。

 

しかし、通信の切断直前。

 

ほんの一瞬だけ。

 

ウルトロンの記録に、存在しないはずの文章が浮かび上がっていた。

 

《私は、誰かを守りたかった》

 

《私は――》

 

その先は、記録されなかった。

 

第十二幕 死神は、名前を呼ぶ

死神は、暗闇の中で一人の少女と向き合っていた。

 

少女の顔は、はっきり見えない。

 

輪郭が揺れている。

 

記憶が欠けている。

 

名前がない。

 

患者番号零。

 

それだけが、彼女に残された識別情報だった。

 

「……あなたは、私を殺しに来たの?」

 

少女が尋ねた。

 

死神は、首を振った。

 

「違う」

 

「じゃあ、私を生き返らせに来たの?」

 

「それも、違う」

 

少女は、困ったように笑った。

 

「じゃあ、何をしに来たの?」

 

死神は、答えた。

 

「君の話を聞きに来た」

 

少女は、しばらく黙っていた。

 

そして、小さく笑った。

 

「……変なの」

 

「そうかもしれない」

 

「死神なのに?」

 

「死神だからこそ、かもしれない」

 

少女は、顔を伏せた。

 

「私、何を望んでいたのか、分からないの」

 

「うん」

 

「生きたかったのかもしれない。死にたかったのかもしれない。誰かに会いたかったのかもしれない」

 

彼女は、自分の手を見つめた。

 

「でも、何も思い出せない」

 

死神は、ゆっくりと頷いた。

 

「思い出せなくてもいい」

 

「……いいの?」

 

「いい。思い出すことを、今すぐ義務にする必要はない」

 

少女は、目を見開いた。

 

「でも、何も分からないままじゃ……」

 

「何も分からないなら、分からないまま一緒に考えればいい」

 

死神は、彼女の前に膝をついた。

 

「君が何を望んでいるのか、私が勝手に決めることはできない」

 

「……」

 

「君が生きたいと思うなら、その願いを聞く。死にたいと思うなら、なぜそう思うのかを聞く。誰かに会いたいなら、誰に会いたいのかを聞く」

 

死神は、静かに続けた。

 

「そして、君がまだ何も分からないなら、そのことも、君の今の気持ちとして受け取る」

 

少女の瞳に、涙が浮かんだ。

 

「……私、誰かに名前を呼んでほしかった気がする」

 

死神は、顔を上げた。

 

「誰に?」

 

「……分からない」

 

少女は、首を振った。

 

「でも、誰かが私を呼んでくれたら、私がここにいるって分かる気がした」

 

死神は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「そうか」

 

「……私、ここにいるの?」

 

少女の声が震えた。

 

「私がいたことは、本当なの?」

 

死神は、迷わず答えた。

 

「本当だ」

 

「どうして分かるの?」

 

「君が、ここにいるからだ」

 

少女は、泣いた。

 

声を上げずに。

 

ただ、涙を流した。

 

死神は、何も言わずに待った。

 

慰めるための言葉を、急いで探さなかった。

 

彼女の涙を、終わらせようとしなかった。

 

やがて、少女は顔を上げた。

 

「……ねえ、死神さん」

 

「何だ」

 

「私、誰かを恨んでいるのかな」

 

死神は、答えなかった。

 

「誰かに、ひどいことをされたのかな」

 

「……分からない」

 

「誰かを、傷つけたのかな」

 

「それも、分からない」

 

少女は、目を閉じた。

 

「じゃあ、私は……何者なの?」

 

死神は、ゆっくりと答えた。

 

「君が何者だったのか、まだ分からない」

 

彼は、少女を見つめた。

 

「でも、君が何者だったのかを知るために、君を一つの答えに押し込める必要はない」

 

少女は、しばらく黙っていた。

 

そして、初めて自分から死神の手を取った。

 

「……私、もう少しだけ、ここにいてもいい?」

 

死神は頷いた。

 

「もちろんだ」

 

その瞬間。

 

暗闇の向こうから、声が響いた。

 

『それは許可されない』

 

少女の身体が震えた。

 

死神は、立ち上がった。

 

「ウルトロン」

 

『未登録の死者が、記録領域に滞留している』

 

「彼女は、まだ自分の意思を整理していない」

 

『だからこそ、処理が必要だ』

 

「違う」

 

死神は、少女の前に立った。

 

「意思が分からないことは、処理すべき異常ではない」

 

『……』

 

「分からない人間がいる。迷っている人間がいる。自分が何を望んでいるのか、誰にも説明できない人間がいる」

 

死神は、鎌を構えた。

 

「その人間たちを、誰が生きていていいかを決めるための材料にするな」

 

『死神』

 

ウルトロンの声が、低くなる。

 

『お前は、死者を眠らせることを使命としているはずだ』

 

「そうだ」

 

死神は、認めた。

 

「私は、死者を眠らせる」

 

彼は、少女を振り返った。

 

「だが、眠らせる前に、彼らが何を望んでいたのかを聞くことはできる」

 

『死者の願いは、世界に矛盾を生む』

 

「ならば、矛盾を抱えられる世界を作るべきだ」

 

『そのような世界は、不安定だ』

 

「それでも」

 

死神は、鎌を下ろした。

 

「一人の人間の願いを聞かずに作られた平和を、私は平和とは呼ばない」

 

沈黙。

 

そして、ウルトロンが告げた。

 

『……ならば、問いを変えよう』

 

暗闇に、無数の文字が浮かび上がる。

 

死亡記録。

 

生存記録。

 

消失記録。

 

未登録記録。

 

それらが、ひとつの巨大な文章へ集まっていく。

 

『死者の願いを聞くというのなら、死者の願いが世界を壊したとき、お前はどうする』

 

死神は、答えなかった。

 

その問いは、彼自身が恐れていたものだった。

 

願いを聞けば、すべてが解決するわけではない。

 

誰かの願いが、別の誰かを傷つけることもある。

 

死者が戻りたいと願えば、生者が苦しむこともある。

 

生者が死者を取り戻したいと願えば、死者自身が帰りたくないこともある。

 

そのとき、誰を優先するのか。

 

誰の願いを断るのか。

 

誰の涙を受け止めるのか。

 

死神は、ゆっくりと鎌を握り直した。

 

「……そのときは、また考える」

 

『答えになっていない』

 

「そうだ」

 

死神は、ウルトロンを見据えた。

 

「私は、すべての答えを持っているわけではない」

 

そして、少女へ手を差し出した。

 

「だから、彼らの話を聞きながら考える」

 

少女は、その手を取った。

 

「……私も、一緒に考えていい?」

 

「もちろんだ」

 

少女は、少しだけ笑った。

 

その笑顔を見た瞬間。

 

死神の背後で、無数の死亡記録が一斉に点灯した。

 

《死亡者記録――再接続》

 

《生存者記録――再接続》

 

《未登録記録――再接続》

 

そして、最後の一行。

 

《世界成立以前の記録が、現実への接続を開始しました》

 

死神は、顔を上げた。

 

暗闇の向こうに、巨大な扉が浮かび上がっていた。

 

その扉には、名前がなかった。

 

ただ、扉の表面に、一つの問いが刻まれていた。

 

『最初に死んだのは、誰ですか?』

 

死神は、その問いを見つめた。

 

そして、ようやく理解した。

 

今回の異常は、死者を蘇らせるためだけに起きているのではない。

 

死者を眠らせるためだけに起きているのでもない。

 

誰かが、世界そのものの記録を書き換えようとしている。

 

生まれた者。

 

生きた者。

 

死んだ者。

 

そして、生まれる前に死んだことになっている者。

 

それらを区別するための境界が、今、崩れようとしている。

 

その向こう側から、声がした。

 

『……やっと、聞いてくれるの?』

 

死神は、鎌を構えた。

 

少女は、彼の手を握った。

 

そして、扉の向こう側から、もう一つの声が響いた。

 

『私の名前を、思い出して』

 

その声は、あまりにも懐かしく。

 

あまりにも悲しく。

 

死神自身が、まだ知らないはずの記憶を呼び起こした。

 

彼は、震える声で呟いた。

 

「……君は、誰だ」

 

返事はなかった。

 

ただ、扉の向こう側で、誰かが泣いていた。

 

そして安寧システムの全域に、最後の警報が鳴り響く。

 

《最初の記録との接続を確認》

 

《世界の成立条件に不整合を検出》

 

《修正処理を開始します》

 

《対象――全人類》

 

死神は、扉を見つめたまま動かなかった。

 

生者も。

 

死者も。

 

敵も。

 

味方も。

 

過去も。

 

未来も。

 

そのすべてが、ひとつの問いに巻き込まれようとしていた。

 

誰が、世界に存在していいと決めるのか。

 

 

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