第一幕 世界が始まる前に死んだ少年
緑谷出久は、自分の記憶を信じていた。
母親に抱きしめられた幼い日のこと。
テレビの前でオールマイトに憧れたこと。
個性がないと告げられた日のこと。
それでもヒーローになりたいと願ったこと。
雄英高校の入試で、恐怖に震えながらも走り出したこと。
爆豪勝己に追いつこうとして、何度も転んだこと。
ワン・フォー・オールを受け継ぎ、身体が壊れそうになりながら戦ったこと。
数えきれないほどの失敗。
数えきれないほどの出会い。
そして、誰かを救いたいと願い続けてきた日々。
それらは、確かに自分の人生だった。
誰かに教えられた物語ではない。
誰かが作った英雄譚でもない。
痛みがあった。
後悔があった。
恐怖があった。
それでも、自分で選んだ瞬間があった。
だから、出久は自分の記憶を信じていた。
――つい先ほどまでは。
「……何だよ、これ」
病室の壁に映し出された記録を見て、出久は呟いた。
《対象者:緑谷出久》
《存在登録時刻:世界成立後》
《死亡記録作成時刻:世界成立以前》
《記録作成者:不明》
《死亡原因:未登録》
《死亡時の年齢:未定義》
《本人の記憶との整合性:検証不能》
《現実存在の根拠:記憶情報に依存》
最後の一文を、出久は何度も読み返した。
現実存在の根拠。
記憶情報に依存。
「……僕が、本当に存在しているかどうかを、記憶で判断しているってこと?」
返事はなかった。
端末の向こう側にいる相澤も、オールマイトも、誰もすぐには答えられなかった。
出久は、自分の手を見た。
手のひらを開く。
閉じる。
指先を動かす。
痛みはある。
体温もある。
心臓は動いている。
それなのに、画面は彼の存在を疑っていた。
「いや、待ってよ」
出久は、無理に笑った。
「世界が成立する前に死んでいたって、どういう意味なんだ。僕は、ちゃんと生まれたはずだ。母さんがいて、家があって、学校があって……」
そこで、言葉が止まった。
母。
緑谷引子。
自分を産み、育ててくれた人。
自分が何度失敗しても、何度泣いても、抱きしめてくれた人。
その記憶は、確かにある。
だが。
もしも、その記憶そのものが、誰かによって作られたものだったら?
もしも、母親が自分を産んだという記録も、幼い頃の写真も、学校の名簿も、すべてが後から整合性を与えられたものだったら?
「……違う」
出久は、首を振った。
「そんなわけない」
そう言い切ろうとした。
けれど、その言葉を支えるものが、急に見えなくなった。
記憶はある。
だが、記憶があることと、その記憶が正しいことは、同じなのか。
自分が確かに覚えているからといって、その出来事が本当に起きたと、どうして証明できるのか。
そもそも。
自分が生きてきたという事実を、誰かに証明しなければならないのか。
「……緑谷」
相澤の声が、通信から聞こえた。
「今の記録を、事実だと受け入れる必要はない」
「でも、先生」
出久は画面を見たまま答えた。
「これが事実じゃないって、どうやって証明すればいいんですか?」
相澤は黙った。
「僕の記憶を調べても、僕が覚えていることしか出てこない。学校の記録を調べても、僕の名前が載っていることしか分からない。母さんに聞いても、母さんの記憶があるだけで……」
出久の声が、かすれた。
「全部が正しいって、誰が証明してくれるんですか?」
通信の向こうで、椅子が動く音がした。
オールマイトだった。
「出久君」
その声は、いつものように力強くあろうとしていた。
だが、出久には分かった。
オールマイトも、怖いのだ。
自分の大切な後継者が、存在そのものを疑われている。
それだけではない。
自分が信じてきた世界そのものが、成立以前から誰かに書き換えられていたかもしれない。
その可能性を、オールマイトも否定できない。
「……私は、君を知っている」
オールマイトは言った。
「君が初めて私の前に立った日のことを覚えている。君が力を受け継いだ日のことも、何度も倒れ、それでも立ち上がったことも」
出久は、唇を噛んだ。
「君が誰かを救おうとしていたことを、私は知っている」
オールマイトは続けた。
「それが記録に残っているからではない。私自身が、君を見てきたからだ」
その言葉は、出久の胸に届いた。
だが、完全な救いにはならなかった。
「……じゃあ」
出久は、顔を上げた。
「先生が僕を知らなかったら、僕は存在していなかったんですか?」
オールマイトは、息を呑んだ。
「僕を知っている人が全員いなくなったら、僕が生きていたことも、なくなるんですか?」
「違う!」
思わず声を上げたのは、相澤だった。
「そんなことがあるはずない」
「じゃあ、何が僕を僕にしているんですか?」
出久は問い続けた。
「僕の記憶ですか? 誰かの記憶ですか? 記録ですか? それとも、僕が今ここにいるという事実ですか?」
彼は、自分の胸に手を当てた。
「僕は、生きています。今も、生きたいと思っています」
その声は震えていた。
「でも、それを証明するために、誰かに僕の人生を認めてもらわなきゃいけないんですか?」
誰も答えられなかった。
その瞬間、病室の照明が消えた。
端末が一斉に警告を発する。
《存在照合を開始します》
《対象者:緑谷出久》
《本人記憶の照合》
《第三者記憶の照合》
《歴史記録の照合》
《世界成立以前の記録との照合》
出久の視界が、白く染まった。
そして、声が聞こえた。
『見つけた』
誰の声か分からない。
男とも女ともつかない。
子供の声にも、大人の声にも聞こえた。
『やっと、見つけた』
出久は、顔を上げた。
「……誰?」
『あなたは、まだ覚えていないのね』
「何を?」
『あなたが、私に何を約束したのか』
胸の奥が、痛んだ。
記憶にないはずの痛みだった。
知らないはずの悲しみだった。
出久は、思わずベッドの縁をつかんだ。
『あなたは、私を助けると言った』
「……僕が?」
『そう』
声が、優しくなる。
『だから、私は待っていたの』
出久は、首を振った。
「知らない。僕は、君のことを知らない」
『ええ』
声は、責めなかった。
『あなたは、忘れてしまったのね』
次の瞬間。
《存在照合――中断》
《対象者の精神負荷が上限を超過》
《死亡記録の確定を保留》
照明が戻った。
出久は、息を切らしていた。
相澤が、すぐに病室へ入ってくる。
「緑谷!」
「先生……」
「大丈夫か」
出久は、答えようとした。
けれど、言葉が出てこなかった。
さっきの声。
知らない約束。
覚えていない誰か。
そして、世界が成立する前から存在していた自分の死亡記録。
それらが、ひとつの場所でつながり始めていた。
出久は、ゆっくりと顔を上げた。
「……僕、誰かを忘れているのかもしれません」
その声は、ほとんど囁きだった。
「すごく大切な人を」
相澤は、出久の肩に手を置いた。
「なら、調べる」
「……先生」
「ただし、今すぐ思い出そうとするな。お前の記憶を壊してまで答えを探す必要はない」
相澤は、いつもの厳しい顔で言った。
「お前が何者なのかを決めるのは、記録の仕事じゃない」
出久は、目を閉じた。
その言葉を、何度も胸の中で繰り返した。
それでも。
心の奥で、知らない誰かが泣いていた。
そして出久は、その泣き声を聞いたことがあるような気がしていた。
第二幕 ワン・フォー・オールは、記憶を受け継ぐ力なのか
ワン・フォー・オールの精神世界には、いつもと違う風が吹いていた。
そこには、時間がない。
正確には、時間という概念が、現実世界と同じ形では存在していない。
過去と現在が重なり、まだ起きていない未来の気配さえ、ときに記憶のように流れ込んでくる。
七人の継承者たちは、いつもならそれぞれの場所に立ち、緑谷出久の意識が訪れるのを待っていた。
だが、今日は違った。
彼ら全員が、一つの場所に集まっていた。
初代継承者、与一。
二代目。
三代目。
四代目、四ノ森避影。
五代目、万縄大悟郎。
六代目、煙。
そして七代目、志村菜奈。
その中央には、出久の姿があった。
しかし、彼はそこにいなかった。
正確には、出久の記憶だけが、そこに立っていた。
幼い少年の姿。
緑色の髪。
大きな瞳。
ヒーローに憧れた少年の笑顔。
その輪郭が、ときおり透けて消えそうになる。
「……これは、どういうことだ」
二代目が低く言った。
与一は、少年の姿を見つめていた。
「分からない」
「お前にも分からないのか」
「うん」
与一は、静かに頷いた。
「ただ、一つだけ分かることがある」
彼は、出久の記憶に手を伸ばした。
指先が触れる直前、少年の姿が揺らいだ。
「この子の記憶は、僕たちが受け継いだ記憶とは違う」
四代目が眉を寄せた。
「どう違う?」
「僕たちの記憶は、死んだ後にこの力へ残ったものだ。僕たちが何を考え、何を選び、何を間違えたのか。その痕跡が、ワン・フォー・オールに刻まれている」
与一は、出久を見つめた。
「でも、この子の記憶は……」
「死ぬ前から、ここにあった」
七代目が言った。
全員が彼女を見る。
菜奈は、ゆっくりと頷いた。
「出久君がワン・フォー・オールを継承する前から、この子の記憶の一部が、ここに存在していたの」
「そんな馬鹿な」
三代目が唸った。
「ワン・フォー・オールは、歴代継承者の意思と力を蓄積する個性だ。継承する前の人間の記憶が、力の内部に存在するはずがない」
「そのはずだった」
与一は、目を閉じた。
「でも、現実に存在している」
二代目は、出久の記憶へ一歩近づいた。
「ならば、答えは一つだ。誰かが、この力に干渉している」
「違うかもしれない」
与一は首を振った。
「誰かが干渉したのではなく、最初から何かがあったのかもしれない」
その言葉に、四代目が反応した。
「最初から?」
「ワン・フォー・オールが生まれるより前から。個性が世界に広がるより前から。僕たちが知っている歴史が始まるより前から」
与一は、少年の姿を見つめた。
「この子の記憶が、どこかに残されていたとしたら?」
二代目は、腕を組んだ。
「誰が残した?」
「分からない」
「何のために?」
「分からない」
「ならば、何も分かっていないのと同じだ」
「そうだね」
与一は、あっさりと認めた。
「でも、分からないことを、分からないままにしておく必要はない」
その言葉に、菜奈が小さく微笑んだ。
「出久君らしい考え方ね」
四代目は、首を振った。
「……お前たちは、少し楽観的すぎる」
彼は、少年の姿を見つめた。
「仮に、この記憶が本物だとしよう。出久が世界の成立以前から死んでいたという記録も、本物だとする」
四代目は、慎重に言葉を選んだ。
「ならば、我々は考えなければならない。彼が生まれる前に死んだという記録が、何を意味するのか」
万縄が、いつもの明るさを抑えて口を開いた。
「生まれる前に死ぬなんて、普通ならあり得ないよな」
「普通なら、な」
二代目が答える。
「だが、ここで普通という言葉を使うのは危険だ。俺たちが知っている世界の規則が、今まさに破られている」
煙が、壁の向こうを見た。
「……いや」
彼は、静かに言った。
「規則が破られているんじゃない。俺たちが知らなかった規則が、表に出てきたのかもしれない」
沈黙が落ちた。
そのとき、与一が出久の記憶へ手を伸ばした。
今度は、触れた。
すると。
精神世界の空が、一瞬で消えた。
代わりに、白い部屋が現れる。
窓のない部屋。
床も壁も、すべてが白い。
その中央に、小さな少女が座っていた。
顔は見えない。
名前も分からない。
だが、少女が膝を抱える姿を見た瞬間、菜奈が息を呑んだ。
「……この子」
彼女は、ゆっくりと近づいた。
「あなたは、誰?」
少女は顔を上げなかった。
「……分からない」
その声を聞いた瞬間、与一の表情が変わった。
「この声は……」
二代目が、すぐに彼を見る。
「知っているのか?」
「いや。知っているわけじゃない」
与一は、自分の胸に手を当てた。
「ただ、ずっと前から聞いていた気がするんだ」
少女が、顔を上げた。
「……お兄ちゃん?」
その一言で、精神世界が凍りついた。
少年の記憶が、激しく揺れた。
幼い出久の姿が、少女の前に現れる。
二人は、向かい合っていた。
出久は、何かを言おうとしている。
少女は、泣いていた。
そして。
『約束して』
少女が言った。
『私を、忘れないで』
出久の記憶が、そこで途切れた。
全員が、息を呑んでいた。
菜奈は、両手を口元に当てた。
「……出久君に、妹がいたの?」
誰も答えられなかった。
与一は、白い部屋を見つめていた。
「分からない」
その声は、震えていた。
「この記憶が、出久君のものなのか。それとも、誰かが彼の中に植えつけたものなのか」
二代目が、鋭く言った。
「ならば、まず確認するべきだ。緑谷出久の家族に、妹が存在するかどうか」
「待って」
菜奈が制止した。
「それだけでは足りないわ」
彼女は、少女を見つめた。
「仮に、緑谷家に妹がいたとしても、その子がこの少女だとは限らない。逆に、家族の記録に存在しないからといって、この子が存在しなかったことにもならない」
四代目が頷いた。
「記録にないことと、存在しないことは同じではない。今回の事件が、まさにそれを示している」
「……なら、どうする?」
万縄が尋ねた。
菜奈は、少女の前に膝をついた。
「この子の名前を、探すの」
「名前が分からないのに?」
「ええ」
菜奈は、優しく微笑んだ。
「名前を知らないからって、最初から存在しなかったことにしてはいけないでしょう?」
少女は、じっと彼女を見つめていた。
「……私、ここにいてもいいの?」
菜奈は、迷わず答えた。
「もちろんよ」
少女の瞳に、涙が浮かんだ。
「……私、まだ死にたくなかった」
その言葉と同時に、白い部屋の壁が崩れた。
世界の外側から、無数の記憶が流れ込んでくる。
泣いている子供。
誰かの名前を呼ぶ母親。
血に染まった手。
燃える家。
閉じた扉。
そして、無数の人々の声。
『忘れないで』
『私を、消さないで』
『私は、ここにいた』
『私は、生きていた』
『私の人生を、なかったことにしないで』
二代目が叫んだ。
「全員、記憶から離れろ!」
しかし、遅かった。
無数の声が、ワン・フォー・オールの内部へ流れ込んでいた。
それは、歴代継承者たちが受け継いできた記憶ではない。
彼らが知らない、何万、何十万もの人生の痕跡だった。
その一つ一つに、誰かの願いがあった。
誰かの後悔があった。
誰かが、生きた証があった。
そして、その記憶の最奥から。
誰かが、出久に呼びかけていた。
『お兄ちゃん』
『今度こそ、私を見つけて』
第三幕 母親の記憶に、娘はいなかった
緑谷引子は、息子の部屋に入ることができなかった。
扉の前に立ち、何度もノックしようとした。
けれど、指が動かなかった。
出久は、病院にいる。
生きている。
それは分かっている。
だが、端末に表示された記録が、頭から離れなかった。
《世界成立以前の死亡記録》
《本人の記憶との整合性:検証不能》
《現実存在の根拠:記憶情報に依存》
そして、医療関係者から伝えられた、もう一つの事実。
緑谷出久の出生記録には、不自然な空白がある。
母親の記憶では、出久は確かに生まれた。
小さな手。
初めて抱いたときの温かさ。
泣き声。
眠っている顔。
熱を出した夜。
転んで泣いた日。
ヒーローに憧れて、何度も何度も同じ映像を見ていた幼い息子。
それらは、すべて覚えている。
けれど、記録を調べれば調べるほど、ある一点にたどり着いてしまう。
出久の出生に関わる記録の一部が、まるで後から書き加えられたように、古い記録の上に重なっているのだ。
「……そんなこと、あるわけない」
引子は、震える声で呟いた。
自分が息子を産んだことを、誰に証明する必要があるのだろう。
自分が出久を抱きしめたことを。
出久が初めて笑ったとき、どれほど嬉しかったかを。
出久が個性を持たないと分かったとき、どれほど苦しかったかを。
それでも、出久がヒーローになりたいと言ったとき、どれほど胸が痛んだかを。
誰が、それを偽物だと決められるのだろう。
「……お母さん?」
背後から声がした。
引子は、振り返った。
出久の病室から、相澤が出てきたところだった。
「相澤先生……」
「緑谷は、今は落ち着いています」
「……そうですか」
引子は、胸を撫で下ろした。
それから、ためらいがちに尋ねた。
「先生。出久の記録に、何か……」
相澤は、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、引子には十分だった。
「……やっぱり、何かあるんですね」
「詳しいことは、まだ分かっていません」
相澤は、正直に答えた。
「ただ、緑谷の存在を否定する根拠はありません。彼は生きています。意識もあり、自分の意思で話しています」
「……はい」
「ですが、彼の記憶に、本人も知らないはずの情報が混じっている可能性があります」
引子は、唇を噛んだ。
「それは……出久が、誰かの記憶を自分のものだと思い込んでいる、ということですか?」
「可能性の一つです」
相澤は言った。
「ただし、逆もあります」
「逆?」
「緑谷の記憶が、誰かによって消されている可能性です」
引子の顔から、血の気が引いた。
相澤は、続けた。
「本人の記憶に存在しないことと、実際に起きていないことは同じではありません。今回の事件では、記録そのものが操作されている可能性があります」
引子は、ゆっくりと壁に手をついた。
「……私、覚えているんです」
「何をですか?」
「出久を産んだ日のこと」
声が震えた。
「初めて抱いたときのこと。小さくて、温かくて……私、泣いてしまったんです」
彼女は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「この子を守らなきゃって、思ったんです。何があっても、守ろうって」
相澤は、黙って聞いていた。
「でも、もし……もし、私の記憶が間違っていたら?」
引子は、目を伏せた。
「私が覚えている出久は、本当に私の息子なんでしょうか」
「……」
「それとも、誰かが私に、そう思わせているだけなんでしょうか」
相澤は、しばらく沈黙した。
そして、静かに言った。
「緑谷は、あなたを母親だと思っています」
引子が顔を上げる。
「それは、記録にそう書いてあるからではありません。あなたが何度も彼を心配し、彼を守ろうとしてきたことを、彼自身が覚えているからです」
「……はい」
「あなたが息子を愛してきたことを、システムが証明する必要はありません」
相澤は、まっすぐ彼女を見た。
「そして、システムが証明できないからといって、その事実が消えるわけでもありません」
引子の目から、涙がこぼれた。
「……ありがとうございます」
相澤は、小さく頷いた。
そのときだった。
廊下の端末が、突然起動した。
画面に、新しい記録が表示される。
《緑谷家・家族構成の照合》
《母親:緑谷引子》
《子:緑谷出久》
《未登録家族情報:一件》
引子は、息を呑んだ。
「……未登録?」
画面が切り替わる。
《家族構成の矛盾を検出》
《出生記録の再照合を開始》
《対象:緑谷出久の家族》
相澤が、すぐに端末へ近づいた。
「操作を止めろ!」
だが、画面は止まらない。
《対象者:緑谷出久》
《関係者:緑谷引子》
《未登録者:識別不能》
《関係性:兄妹》
引子の呼吸が止まった。
兄妹。
その二文字を見た瞬間、胸の奥で何かが揺れた。
知らないはずの記憶。
思い出せないはずの顔。
そして、遠い昔に聞いたような声。
『お兄ちゃん』
引子は、壁に手をついた。
「……そんな」
相澤が振り返る。
「緑谷のお母さん?」
引子は、震える手で口元を押さえた。
「私……」
声が出ない。
涙が止まらない。
「私、あの子を……」
頭の中に、白い部屋が浮かんだ。
小さなベッド。
二人分の毛布。
幼い出久の笑い声。
そして、もう一つ。
誰かの小さな手。
その手を握りながら、引子は言っていた。
『大丈夫よ。お兄ちゃんがいるからね』
記憶が、そこで途切れた。
引子は、その場に崩れ落ちた。
「……私、もう一人、子供を産んだの?」
相澤は、答えられなかった。
画面には、最後の文章が表示されていた。
《未登録者の死亡記録を検出》
《死亡時刻:世界成立以前》
《死亡者の名前:欠落》
《死亡原因:欠落》
《死亡確認者:緑谷出久》
そして、その下に。
《本人による記憶の消去を確認》
相澤は、画面を睨みつけた。
「……何だと」
引子は、声を失っていた。
出久が、自分の妹を忘れている。
その記録は、そう告げていた。
だが、誰がそんなことを信じられるだろう。
出久は、誰かを救うために、何度も自分を傷つけてきた。
誰かの痛みを見過ごせず、自分が傷つくことを選んできた。
そんな息子が。
自分の妹を、忘れた?
「……違う」
引子は、涙を拭った。
「出久が、そんなことをするはずがない」
相澤は、画面を見つめたまま答えた。
「……ええ」
その声には、確かな怒りがあった。
「本人の意思を確認する前に、結論を出すつもりはありません」
彼は、端末を操作した。
《死亡記録の確定を拒否》
《家族構成の修正を保留》
《未登録者の意思確認を要求》
システムは、すぐに返答した。
《要求は受理されません》
《対象者の記録は、すでに確定しています》
相澤の目が細くなった。
「……誰が確定した?」
返答はなかった。
ただ、画面の奥で、見知らぬ文字が浮かび上がる。
《兄は、妹を忘れた》
《母は、娘を失った》
《世界は、その事実を知らない》
そして、最後の一文。
《忘れた者に、思い出す資格はあるのか?》
引子は、画面を見つめていた。
やがて、彼女は立ち上がった。
涙を拭き、震える足で、出久の病室へ向かった。
相澤は、止めなかった。
彼女が何を聞こうとしているのか、分かっていたからだ。
母親として。
自分の息子が、何を忘れたのか。
何を失ったのか。
そして、その失われたものを取り戻したいと願うのか。
それを、誰よりも近くで聞きたかったのだ。
第四幕 ホークスは、証言者になれない
「……俺に何を聞きたいんですか?」
ホークスは、対策本部の一室で尋ねた。
目の前には、記録照合用の端末。
その向こうには、安寧システムの解析担当者。
そして、隣にはオールマイトがいた。
「君が、トゥワイスについて何を覚えているのかを確認したい」
オールマイトが答えた。
ホークスは、少しだけ笑った。
「何を覚えているか、ですか」
「そうだ」
「……それなら、いくらでもありますよ」
彼は、椅子に深く座り直した。
「初めて会ったときのこと。あいつがどんな冗談を言っていたか。何人も自分がいるみたいに喋るところ。仲間を守ろうとするところ。自分自身のことを信じられなくなっていたところ」
ホークスは、目を伏せた。
「俺が、あいつを殺したことも」
オールマイトは、黙って聞いていた。
「……でも、俺が覚えているトゥワイスが、トゥワイスのすべてだとは思いません」
ホークスは、端末を見た。
「俺は、あいつの敵だった。あいつが何を考えていたのか、全部知っていたわけじゃない。俺が知っているのは、俺の前であいつが見せた姿だけです」
「それでも、君の証言は重要だ」
「ええ。分かっています」
ホークスは、頷いた。
「でも、俺の記憶だけで、あいつの人生を決めることはできない」
その瞬間、端末が起動した。
《対象者:トゥワイス》
《生前の関係者による証言を要求》
《証言者:鷹見啓悟》
《証言内容:死亡の正当性》
ホークスの表情が、凍りついた。
「……待ってください」
画面に、文章が表示される。
《対象者は、社会に重大な脅威をもたらす可能性があった》
《対象者の排除は、公共の安全を維持するために必要だった》
《よって、死亡は正当と判断される》
ホークスは、ゆっくりと立ち上がった。
「誰が、こんな文章を書いた?」
返答はない。
「俺は、そんな証言をしていない」
端末が点滅した。
《証言者の記憶から、合理的な結論を抽出しました》
ホークスは、歯を食いしばった。
「……ふざけるな」
オールマイトが、すぐに端末へ近づいた。
「記録の生成を停止しろ!」
《処理を継続します》
「停止しろと言っている!」
《証言者の記憶に基づく判断は、すでに完了しています》
ホークスは、画面を睨みつけた。
「俺は、あいつを殺した」
その言葉は、部屋に重く落ちた。
「それは事実です。俺は、ヒーローとして、あいつを止める必要があると判断した。あいつの能力が、どれほど多くの人間を危険にさらす可能性があったのかも、知っていた」
ホークスは、拳を握った。
「でも、俺が殺したことと、あいつが死ぬべき人間だったということは、同じじゃない」
画面が揺らいだ。
「俺は、あいつの人生を全部知っていたわけじゃない。あいつが何を失って、何を守りたかったのか。何を怖がって、何を望んでいたのか」
ホークスの声が震えた。
「俺は、全部知らなかった」
彼は、目を閉じた。
「……それでも、あいつを殺した」
オールマイトは、彼の肩に手を置いた。
ホークスは、ゆっくりと顔を上げた。
「俺は、自分の判断が必要だったと思っている。あのとき、俺はあいつを止めようとした。多くの人間を守るために、あの行動を選んだ」
彼は、端末を見た。
「でも、それを理由に、あいつの人生を一つの結論にまとめるつもりはない」
画面の文章が、書き換わり始めた。
《死亡の正当性――判定不能》
《証言者は、対象者の人生全体について判断する権限を有しない》
ホークスは、息を呑んだ。
オールマイトも、画面を見つめていた。
「……そうか」
ホークスは、小さく呟いた。
「俺は、あいつを殺した人間だ」
彼は、もう一度、はっきりと言った。
「だからこそ、俺があいつの人生の最後の答えになるべきじゃない」
その瞬間、端末から音声が流れた。
『……ホークス?』
ホークスの身体が固まった。
『おい、ホークス。聞こえてるか?』
聞き慣れた声だった。
少し高くて、落ち着きがなくて、笑っているのか泣いているのか分からない声。
『俺、ちょっと困ってるんだけどよ』
ホークスは、端末へ近づいた。
「……トゥワイス?」
『おう! 俺だ!』
声が弾む。
『いや、俺じゃないかもしれねえ! 俺のことを俺だって言えるのか、俺にはよく分からねえんだけどよ!』
ホークスの目に、涙が浮かんだ。
『……でも、俺は、お前のことを覚えてる』
トゥワイスの声が、少しだけ落ち着いた。
『お前、俺を殺しただろ』
「……ああ」
『……そっか』
沈黙。
そして、トゥワイスが笑った。
『いやあ、参ったな! 死んだ相手と話すなんて、俺も初めてだ!』
「お前が死んだんだよ」
『そうだった! 俺が死んだんだった!』
二人の間に、かつてと同じ調子の会話が生まれた。
だが、ホークスは笑えなかった。
「……トゥワイス」
『何だ?』
「俺は、お前に謝りたい」
『……』
「俺は、お前を殺した。どんな理由があっても、その事実は変わらない」
ホークスは、目を伏せた。
「俺は、お前を止めなきゃいけないと思っていた。けど、俺がしたことが、お前にとってどんな意味を持ったのか……」
彼は、言葉を探した。
「……俺は、ちゃんと考えられていなかったのかもしれない」
トゥワイスは、黙っていた。
やがて、彼は言った。
『……なあ、ホークス』
「何だ」
『お前は、俺に許してほしいのか?』
ホークスの喉が詰まった。
「……分からない」
『そっか』
「許してほしいと思っているのかもしれない。お前に、俺がしたことを理解してほしいと思っているのかもしれない」
ホークスは、正直に答えた。
「でも、俺が楽になるために、お前に許してもらおうとしているなら……それは違うと思う」
トゥワイスは、しばらく黙っていた。
『……お前、難しいことを言うようになったな』
「昔からだろ」
『いや、昔はもっと腹立つ奴だった!』
「ひどいな」
『本当のことだ!』
二人は、ほんの少しだけ笑った。
その笑いの後、トゥワイスは静かに言った。
『俺は、お前を許せるかどうか、まだ分からない』
ホークスは、頷いた。
「……ああ」
『でも、俺が何を望んでいたのか、聞こうとしてくれたことは、覚えておく』
ホークスの目から、涙が落ちた。
『俺は、仲間を守りたかった』
トゥワイスの声が震える。
『俺は、あいつらと一緒にいたかった。俺が何人いるのか分からなくなっても、俺が俺を信じられなくなっても、あいつらだけは俺を仲間だって言ってくれた』
彼は、笑った。
『俺は、あいつらのためなら、何だってできると思ってた』
そして、声が小さくなる。
『……でも、本当は、俺も誰かに守ってほしかったんだと思う』
ホークスは、目を閉じた。
トゥワイスは、続けた。
『俺が死んだことを、正しかったことにしなくていい』
その言葉は、ホークスの胸に深く突き刺さった。
『俺が悪かったことも、俺が仲間を大事にしてたことも、どっちも本当だ』
トゥワイスは、笑った。
『俺は、いい奴だったかもしれねえし、悪い奴だったかもしれねえ。たぶん、両方だ』
ホークスは、涙を拭った。
「……そうだな」
『だから、俺のことを、勝手に決めないでくれ』
「分かった」
ホークスは、まっすぐに答えた。
「お前が何を望んでいるのか、俺はこれからも聞く」
トゥワイスは、少しだけ沈黙した。
『……ありがとな』
通信が途切れた。
ホークスは、しばらく端末の前に立ち尽くしていた。
そして、ゆっくりと椅子へ座った。
「……俺は、あいつのことを忘れない」
オールマイトは、彼の隣に立ったまま、静かに頷いた。
だが、端末の画面には、まだ新しい文章が表示されていた。
《対象者:トゥワイス》
《最後の願いを検出》
《願いの内容:未登録》
《願いの発生時刻:死亡直前》
《記録の所有者:対象者本人》
ホークスは、画面を見つめた。
「……最後の願い?」
その瞬間、別の声が割り込んだ。
『ジン……?』
ホークスが振り返る。
そこには、トガヒミコがいた。
彼女は、端末の向こう側にいるトゥワイスの声を聞いていたらしい。
『ジン、どこ?』
トガの声が震える。
『ねえ、ジン。私、ここにいるよ』
彼女は、泣きそうな顔で笑った。
『私、ちゃんと覚えてるよ。ジンがいたこと。ジンが笑ってたこと。ジンが、私たちを守ろうとしてくれたこと』
トガは、画面に手を伸ばした。
『だから、お願い』
その声が、崩れそうになる。
『……私のことも、覚えていて』
通信が切れた。
ホークスは、動けなかった。
自分が殺した男を、忘れられない少女。
自分が救おうとした人間を、救えなかった自分。
そして、死者の記録を利用して、彼らの人生を一つの結論に押し込めようとする世界。
ホークスは、深く息を吐いた。
「……俺は、まだ何も終わらせていないんだな」
オールマイトは、答えなかった。
ただ、彼の隣に立っていた。
第五幕 トガヒミコは、恋をした記憶を疑わない
「トガちゃん」
お茶子が呼びかけたとき、トガヒミコは窓のない部屋の床に座っていた。
膝を抱え、指先で床に小さな円を描いている。
その円の中に、さらに小さな円を描く。
やがて、それを指で消す。
また描く。
また消す。
まるで、自分がここにいた証拠を残すことが怖いみたいに。
「……お茶子ちゃん」
トガは、顔を上げた。
いつもの笑顔だった。
いつもどおり、愛らしくて、無邪気で、どこか危うい笑顔。
「来てくれたんですね!」
「うん」
お茶子は、彼女の向かいに座った。
「少し、お話ししたくて」
「いいですよ!」
トガは、すぐに頷いた。
「私も、お茶子ちゃんとお話ししたかったんです!」
その返事は、あまりにも自然だった。
だからこそ、お茶子は胸が痛くなった。
トガは、自分が死者の記録に接続されていることを知っている。
トゥワイスがどこかにいることも知っている。
けれど、彼女はまだ、自分が何を望んでいるのかを言葉にできていない。
「……ねえ、トガちゃん」
「はい?」
「ジンさんに、会いたい?」
トガの指が止まった。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、笑顔が消えた。
「……会いたいです」
彼女は、すぐに答えた。
「すっごく会いたいです。ジンに会いたい。お話ししたい。もう一回、一緒に笑いたい」
トガは、両手を胸の前で握った。
「でも……」
「でも?」
「ジンが、帰りたくないって言ったら?」
お茶子は、息を呑んだ。
トガは、笑っていた。
「私、ジンに会いたいです。ジンがいなくなってから、ずっと寂しかったです。だから、会えるなら会いたい」
彼女は、床を見つめた。
「でも、ジンが帰ってきたくないのに、私が帰ってきてほしいって言ったら……」
声が小さくなる。
「それは、ジンのためじゃなくて、私のためですよね?」
お茶子は、すぐに答えられなかった。
トガは、顔を上げた。
「お茶子ちゃんは、どう思います?」
「……私も、分からない」
お茶子は、正直に答えた。
「トガちゃんに生きていてほしい。ジンさんにも、もう一度会いたいと思う」
彼女は、自分の手を見た。
「でも、私がそう願っているからって、それがトガちゃんの望みと同じとは限らない」
トガは、じっと彼女を見つめた。
「……お茶子ちゃんは、私に生きていてほしいんですか?」
「うん」
お茶子は、頷いた。
「生きていてほしい」
トガは、少しだけ笑った。
「どうして?」
お茶子は、考えた。
人を傷つけたから。
罪を償ってほしいから。
自分が救いたいから。
どれも、答えの一部ではある。
けれど、それだけではなかった。
「……トガちゃんが、トガちゃんだから」
お茶子は言った。
「私、トガちゃんのことを、全部分かっているわけじゃない。トガちゃんが何を考えているのか、何を望んでいるのか、今でも分からないことがたくさんある」
彼女は、トガを見た。
「それでも、トガちゃんが笑ったことも、泣いたことも、誰かを好きになったことも、全部、なかったことにはしたくない」
トガの目が揺れた。
「……私、人を傷つけましたよ?」
「うん」
「血を吸いました」
「うん」
「好きな人になりたくて、その人の血を吸いたいと思いました」
「……うん」
「私の好きは、普通じゃなかったんです」
トガの声が、震え始めた。
「私、ずっと、自分の好きが悪いことなんだって言われてきました。血を吸いたい。好きな人みたいになりたい。好きな人と同じものになりたい」
彼女は、唇を噛んだ。
「それが、みんなを怖がらせるんだって」
お茶子は、静かに聞いていた。
「だから、私は、自分の好きな気持ちを隠そうとしました。でも、隠せなかった。隠すほど、苦しくなった」
トガは、笑おうとした。
「……ねえ、お茶子ちゃん」
「うん」
「私の好きって、間違っていたんですか?」
その問いに、お茶子は、すぐに答えなかった。
間違っていなかった、と言えば、トガが他人にしたことまで肯定してしまうかもしれない。
間違っていた、と言えば、トガが誰かを好きになったことそのものまで否定してしまうかもしれない。
その二つの答えの間に、どれほど多くのものがあるのか。
お茶子は、今なら少しだけ分かる気がした。
「……好きになる気持ちと、その気持ちで何をするかは、別だと思う」
トガは、顔を上げた。
「トガちゃんが誰かを好きになったことを、私は否定したくない」
お茶子は、続けた。
「でも、その人の血を吸うことや、その人の人生を自分の望む形に変えることは、相手が望んでいないなら、止めなきゃいけない」
彼女は、胸に手を当てた。
「私も、トガちゃんを救いたいって思っている。だけど、トガちゃんが私の思いどおりになることを、救いだとは思いたくない」
トガは、しばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「……お茶子ちゃんって、難しいことを言いますね」
「ごめんね」
「ううん」
トガは、首を振った。
「でも、少しだけ分かった気がします」
彼女は、自分の指先を見つめた。
「私、ジンに会いたいです。でも、ジンが帰りたいかどうかは、ジンが決めることですよね」
「うん」
「私がジンに会いたいって思っていることと、ジンが帰らなきゃいけないことは、別なんですね」
「……うん」
トガは、しばらく考えていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「じゃあ、私……ジンに、聞きたいです」
「何を?」
「ジンが、何を望んでいるのか」
彼女は、笑った。
今度の笑顔には、いつもの無邪気さだけではないものがあった。
「私のために帰ってきてほしいって、言うんじゃなくて。私が寂しいから帰ってきてって、言うんじゃなくて」
トガは、お茶子を見つめた。
「ジンが、どうしたいのかを聞きたいです」
お茶子は、頷いた。
「……うん」
トガは、少しだけ目を細めた。
「でも、お茶子ちゃん」
「何?」
「私、ジンが帰りたくないって言ったら、きっと泣いちゃいます」
「……うん」
「すっごく悲しいと思います」
「うん」
「それでも、ジンが帰りたくないって言ったら……私は、どうしたらいいんでしょう?」
お茶子は、トガの手を取った。
「悲しんでいいんだよ」
トガが、目を見開く。
「寂しくてもいい。会いたくてもいい。帰ってきてほしいって思ってもいい」
お茶子は、彼女の手を握った。
「ただ、その気持ちを理由に、ジンさんの答えを奪わなければいいんだと思う」
トガは、何度も瞬きをした。
そして、泣いた。
「……お茶子ちゃん」
「うん」
「私、ずっと……」
言葉が続かない。
「ずっと、誰かに好きって言ってほしかったんです」
お茶子は、黙っていた。
「私が好きなものを、好きって言ってほしかった。私が笑うことを、笑っていいよって言ってほしかった。私が私のままでいても、ここにいていいって……」
トガは、顔を覆った。
「……言ってほしかったんです」
お茶子は、彼女を抱きしめた。
トガは、抵抗しなかった。
ただ、泣いた。
かつて、お茶子がトガを止めたとき。
トガは、血を流しながら笑っていた。
自分の人生を、自分の好きなように生きたいと願っていた。
お茶子は、その願いを聞こうとした。
けれど、すべてを聞くことはできなかった。
今度こそ。
今度こそ、彼女が言葉にできるまで待とうと思った。
トガの肩が、小さく震えた。
「……私、まだ分からないことばっかりです」
「うん」
「生きたいのか、死んだままでいたいのか。ジンに会いたいのか、会うのが怖いのか」
「うん」
「お茶子ちゃんに、救ってほしいのか。救ってほしくないのか」
トガは、涙を拭った。
「……でも、分からないって言ってもいいんですね」
お茶子は、微笑んだ。
「うん。分からないなら、一緒に考えよう」
トガは、ゆっくりと頷いた。
そのとき、部屋の扉が開いた。
ホークスが立っていた。
「……話の途中、悪いな」
トガの表情が変わった。
「……ホークスさん」
ホークスは、彼女を見つめた。
「トゥワイスの記録が、再接続された」
トガが立ち上がった。
「ジンが……?」
「ああ。ただし、まだ完全な再接続じゃない。本人の記録に、未登録の願いが残っているらしい」
トガは、拳を握った。
「……会えますか?」
ホークスは、すぐには答えなかった。
「分からない」
トガは、目を伏せた。
「……そうですか」
「ただ、会える可能性はある」
ホークスは、続けた。
「だが、会う前に、一つだけ聞いておきたい」
トガは、顔を上げた。
「何ですか?」
「もし、トゥワイスが帰りたくないと言ったら、君はどうする?」
トガの瞳が揺れた。
お茶子が、そっと彼女の手を握る。
トガは、長い沈黙のあと、答えた。
「……泣きます」
ホークスは、黙って聞いていた。
「いっぱい泣くと思います。寂しいし、悲しいし、会いたいですから」
トガは、涙を拭った。
「でも、ジンが帰りたくないなら……どうして帰りたくないのか、聞きたいです」
彼女は、まっすぐにホークスを見た。
「それでも帰りたくないなら、私は……その答えを、ちゃんと聞きたいです」
ホークスは、目を閉じた。
そして、深く頷いた。
「……分かった」
トガは、少しだけ笑った。
「でも、ホークスさん」
「何だ?」
「ジンを殺したこと、私、まだ許してませんからね」
ホークスは、苦笑した。
「……ああ」
「許すかどうかも、私が決めます」
「そうだな」
「だから、勝手に自分を許さないでくださいね」
その言葉に、ホークスは目を見開いた。
トガは、笑っていた。
けれど、その瞳には、確かな怒りがあった。
「ホークスさんが自分を許すかどうかは、ホークスさんが決めることです。でも、私がホークスさんを許すかどうかは、私が決めます」
彼女は、首を傾げた。
「……そうですよね?」
ホークスは、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
トガは、少しだけ笑った。
「じゃあ、私たち、まだお話しすることがいっぱいありますね」
ホークスは、答えなかった。
だが、彼は部屋から出ていかなかった。
それは、逃げないという意思表示だった。
トガが許してくれるまで待つためではない。
自分がしたことを、自分の都合で終わらせないために。
第六幕 死柄木弔は、記憶のない仲間を仲間と呼べるのか
ヴィラン連合の記録保管領域は、安寧システムの中でも特殊な場所だった。
正式な施設ではない。
誰かが作った記録領域の中に、後から無理やり接続された空間。
そこには、ヴィラン連合の活動記録が保存されていた。
戦闘記録。
作戦記録。
仲間同士の通信。
そして、死亡者の記録。
死柄木弔は、その空間の中央に立っていた。
スピナーが、隣にいる。
「……ここに、本当に何かあるのか?」
「分からない」
死柄木は答えた。
「だが、システムが俺たちの名前を勝手に書き換えようとした。なら、俺たちの記録にも、何かが隠されている可能性がある」
スピナーは、周囲を見回した。
「……マグネの記録もあるな」
「ああ」
「トゥワイスのも」
「ああ」
スピナーは、顔を伏せた。
「……俺たちは、仲間だったんだよな」
死柄木は、彼を見た。
「何だ、今さら」
「いや」
スピナーは、苦笑した。
「俺は、あの頃のことを、全部覚えているつもりだった。でも、今になって思うんだ」
彼は、記録の並ぶ壁を見つめた。
「俺は、あいつらのことを、どれだけ知っていたんだろうな」
死柄木は、黙っていた。
「トゥワイスが何を怖がっていたのか。マグネが何を望んでいたのか。トガが何を好きだったのか」
スピナーは、拳を握った。
「俺は、仲間だと思っていた。だけど、仲間だと思うことと、相手を理解していることは違うんだな」
死柄木は、壁に手を触れた。
「……そうだな」
その瞬間、記録領域が起動した。
《ヴィラン連合・構成員記録の照合を開始》
《対象者:死柄木弔》
《対象者:黒霧》
《対象者:荼毘》
《対象者:トガヒミコ》
《対象者:トゥワイス》
《対象者:マグネ》
《対象者:スピナー》
次々と名前が表示される。
その中で、一つだけ、異常な記録があった。
《対象者:黒霧》
《存在記録:不整合》
《死亡記録:該当なし》
《個性記録:複数》
《人格記録:統合済み》
《元となる人物の記録:削除済み》
スピナーが、息を呑んだ。
「……黒霧?」
死柄木の表情が変わった。
「……そうか」
彼は、画面に近づいた。
「黒霧は、誰かの記憶から作られた存在なのか」
《対象者の記憶を復元しますか?》
画面に、選択肢が表示された。
《復元する》
《復元しない》
死柄木は、手を伸ばしかけた。
だが、止めた。
スピナーが、彼を見る。
「……どうした?」
死柄木は、画面を見つめていた。
「復元すれば、黒霧が誰だったのか分かるかもしれない」
「……ああ」
「だが、黒霧自身が、それを望んでいるかは分からない」
スピナーは、目を見開いた。
死柄木は、静かに続けた。
「俺は、あいつが黒霧として生きていたことを知っている。あいつが俺たちを守ってくれたことも知っている」
彼は、拳を握った。
「だが、あいつが本当は誰だったのかを知ることが、あいつのためになるとは限らない」
スピナーは、しばらく黙っていた。
やがて、頷いた。
「……なら、本人に聞くしかないな」
「ああ」
死柄木は、画面に向き直った。
《復元を保留》
《対象者本人の意思確認を要求》
その瞬間、記録領域の奥から、霧が流れ込んできた。
黒い霧。
人の形をした霧。
その中央に、黒霧の姿が現れた。
「……死柄木弔」
落ち着いた声。
いつもと変わらない声だった。
死柄木は、しばらく彼を見つめた。
「……黒霧」
黒霧は、ゆっくりと頭を下げた。
「お久しぶりです」
「久しぶり、か」
死柄木は、苦笑した。
「……お前、俺たちのことを覚えているか?」
黒霧は、わずかに首を傾げた。
「もちろんです」
「本当に?」
「ええ」
黒霧は、穏やかに答えた。
「私は、あなたを死柄木弔として知っています。あなたがヴィラン連合を率いていたことも、あなたが何を望んでいたのかも、私なりに理解しているつもりです」
死柄木は、画面を指差した。
「なら、これは何だ?」
黒霧は、画面を見た。
そして、沈黙した。
「……そうですか」
彼は、静かに言った。
「私の記録が、復元されようとしているのですね」
「お前は、誰だったんだ?」
死柄木は尋ねた。
「黒霧になる前、お前は誰だった?」
黒霧は、すぐには答えなかった。
長い沈黙。
そして、彼は言った。
「……分かりません」
死柄木は、目を細めた。
「分からない?」
「はい」
黒霧は、穏やかに頷いた。
「私の中に、知らない記憶が存在していることは分かります。ですが、それが私のものなのか、私を作った誰かのものなのか、判断できません」
スピナーが、口を開いた。
「……怖くないのか?」
黒霧は、彼を見た。
「何がでしょう?」
「自分が、誰かの記憶から作られた存在かもしれないってことが」
黒霧は、しばらく考えていた。
そして、答えた。
「……怖いです」
その正直な返事に、スピナーは息を呑んだ。
「私は、自分が誰なのかを知りたい。私が何者だったのか、知りたいと思っています」
黒霧は、目を伏せた。
「ですが、もし過去の記憶を復元することで、今の私が消えてしまうのなら……」
彼は、死柄木を見た。
「私は、黒霧としての自分を失いたくありません」
死柄木は、黙って聞いていた。
「私は、あなたの側にいた時間を、自分の人生だと思っています」
黒霧は、静かに続けた。
「たとえ、私の身体や記憶の一部が、別の誰かから作られたものだったとしても」
彼は、少しだけ微笑んだ。
「あなたの側にいた私まで、偽物になるわけではないでしょう?」
死柄木は、長い間、答えなかった。
やがて、彼は画面に手を伸ばした。
《復元を保留》
《黒霧の現行記録を維持》
《過去の記憶の復元は、本人の意思確認後に実施》
システムが、処理を受け入れた。
黒霧は、ゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな」
死柄木は、顔を背けた。
「お前の人生だ。俺が決めることじゃない」
その言葉に、黒霧は、ほんの少しだけ目を細めた。
「……変わりましたね、死柄木弔」
「うるせえ」
死柄木は、記録の壁を見た。
そこには、まだ多くの名前が残っていた。
トガヒミコ。
トゥワイス。
マグネ。
荼毘。
スピナー。
そして、自分自身。
「……なあ、スピナー」
「何だ?」
「俺たちは、仲間だった」
死柄木は言った。
「それは、俺たちが同じ考えを持っていたからじゃない」
スピナーが、彼を見る。
「……ああ」
「俺たちは、それぞれ違うものを失っていた。それぞれ違うものを望んでいた。それでも、同じ場所にいた」
死柄木は、目を伏せた。
「だから、誰か一人の記憶で、全員の人生を決めることはできない」
スピナーは、頷いた。
「……そうだな」
二人は、記録の壁を見つめた。
そこに、マグネの名前があった。
死柄木は、指先でその名前をなぞった。
「……マグネ」
返事はない。
だが、彼は名前を呼び続けた。
「俺は、お前を殺した奴を許すつもりはない」
その言葉は、治崎へ向けられたものだった。
「だが、お前が何を望んでいたのかを、俺が勝手に決めるつもりもない」
死柄木は、目を閉じた。
「……お前が、どうしたいのか」
彼は、静かに言った。
「聞かせてくれ」
その瞬間、マグネの記録が光った。
《本人の意思確認を開始します》
そして、画面に一つの文章が表示された。
《私は、死んだことを忘れてほしくない》
死柄木は、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
その言葉は、復讐の誓いではなかった。
死者の意思を、死者自身のものとして受け取るための約束だった。
第七幕 治崎廻は、復元できるものを数え始める
治崎廻は、端末に表示されたマグネの記録を、長い間見つめていた。
《私は、死んだことを忘れてほしくない》
それだけだった。
恨みもない。
許しもない。
復讐を望むとも、望まないとも書かれていない。
ただ、自分が死んだことを忘れてほしくない。
治崎には、その願いが理解できなかった。
「……なぜだ」
隣に立つマグネが、眉を上げる。
「何がだい?」
「死んだことを忘れてほしくないというのは、どういう意味だ」
マグネは、しばらく彼を見つめていた。
そして、呆れたように笑った。
「本当に、あんたらしい質問だね」
「質問に答えろ」
「答えが一つしかないと思っているのかい?」
治崎は、口を閉じた。
マグネは、画面へ目を向けた。
「自分が死んだことを忘れられたくない。自分がここにいたことを、なかったことにされたくない。自分が誰かと一緒に過ごした時間を、消されたくない」
彼女は、肩をすくめた。
「そんなところじゃないかね」
「……ならば、記録を保存すればいい」
治崎は、すぐに答えた。
「記録が残れば、忘れられることはない」
「本当に?」
マグネは、彼を見た。
「記録が残っていれば、あたしが何を考えていたのかも、何を望んでいたのかも、全部分かるのかい?」
「……」
「記録に残っていないことは、なかったことになるのかい?」
治崎は、答えられなかった。
マグネは、静かに続けた。
「あたしは、あんたが殺した人間だ」
治崎の肩が、わずかに震えた。
「あたしが死んだことを、あんたは覚えている。あんたが何をしたのかも、覚えている」
マグネは、彼を見つめた。
「でも、あたしが何を考えていたのか、あんたは全部知らない」
治崎は、目を伏せた。
「……そうだな」
「なら、記録に残っていないあたしの気持ちを、あんたが勝手に補完するんじゃないよ」
彼女は、指を一本立てた。
「分からないなら、分からないままにしておきな」
治崎は、長い間、何も言わなかった。
やがて、彼は端末へ手を伸ばした。
《対象者:マグネ》
《記録復元を開始しますか?》
治崎は、選択肢を見つめた。
《復元する》
《復元しない》
以前の彼なら、迷わなかっただろう。
欠けた記録があるなら復元する。
壊れたものがあるなら修復する。
失われたものがあるなら、取り戻す。
それが、正しいと信じていた。
だが、今は違う。
治崎は、ゆっくりと入力した。
《本人の意思確認を優先》
《復元処理を保留》
マグネが、目を見開いた。
「……あんたが、保留を選ぶなんてね」
「私にも、判断できないことがある」
治崎は、画面を見たまま答えた。
「私が復元できるものと、私が復元していいものは、同じではない」
マグネは、しばらく彼を見つめていた。
そして、ふっと笑った。
「……少しは、学んだみたいだね」
治崎は、顔を背けた。
「私は、まだ何も償っていない」
「そうだね」
マグネは、あっさりと答えた。
「だから、これから考えな」
彼女は、踵を返した。
「自分が何をしたのか。何を壊したのか。何を取り返せないのか」
扉の前で、彼女は立ち止まった。
「それと、あたしが何を望んでいるのかを、あんたが決めないこと」
治崎は、彼女の背中を見つめた。
「……マグネ」
「何だい?」
「私は、お前に許されたいと思っているのかもしれない」
マグネは振り返らなかった。
「そうかい」
「だが、許されなくても、私は自分がしたことを忘れない」
「……そう」
彼女は、扉を開いた。
「なら、あたしがいなくなった後も、忘れないことだね」
その言葉を残して、マグネは去っていった。
治崎は、しばらく動けなかった。
彼は、初めて理解し始めていた。
復元とは、失われた状態を元に戻すことではない。
元に戻すことが、必ずしも救いになるわけではない。
失われたものの中には、取り戻してはいけないものもある。
そして、取り戻したいと願うことそのものが、相手の意思を奪うこともある。
治崎は、自分の手を見つめた。
この手で、彼は多くのものを分解し、再構築してきた。
壊れた身体。
壊れた建物。
そして、壊れた人間の人生。
自分は、元に戻せると思っていた。
元に戻せるなら、失われたものは取り返せる。
そう信じていた。
だが、エリを思い出す。
彼女の身体を元に戻すことと、彼女が奪われた時間を取り戻すことは違う。
彼女が経験した恐怖を消すことと、彼女が経験した人生をなかったことにすることも違う。
そして、彼女が自分を許すかどうかは、自分には決められない。
「……私は」
治崎は、小さく呟いた。
「何を直せば、償ったことになるんだ」
返事はなかった。
その問いに、答えを持つ人間は、どこにもいなかった。
だからこそ、治崎は初めて、その問いを抱えたまま立ち上がった。
第八幕 轟燈矢の記憶には、帰る場所がない
青い炎は、暗闇の中で燃えていた。
轟燈矢は、その炎を見つめていた。
自分の手から立ち上る炎。
自分の身体を蝕む炎。
そして、自分が何度も、何度も、何度も燃やしてきたもの。
家。
家族。
自分の人生。
彼は、笑った。
「……何だよ、これ」
目の前に、記憶が浮かんでいた。
幼い頃の自分。
父親に褒められた日のこと。
もっと強くなれば、父親に認めてもらえると思っていた頃。
焦凍が生まれた日。
父親の目が、自分から離れていった日のこと。
母親が泣いていたこと。
弟たちが、自分を見ていたこと。
そして、あの日。
山で燃えた炎。
焼け落ちた身体。
帰れなかった自分。
帰らなかった自分。
「……くだらねえ」
燈矢は、記憶を蹴り飛ばした。
だが、記憶は消えなかった。
次々と浮かび上がる。
エンデヴァーの背中。
焦凍の顔。
冬美の笑顔。
夏雄の怒り。
母親の涙。
どれも、燈矢の記憶だった。
どれも、燈矢が忘れたかったものだった。
「……やめろ」
記憶の中で、幼い自分が父親を呼んでいる。
『父さん!』
『見てよ、父さん!』
『俺、もっと強くなるから!』
燈矢は、耳を塞いだ。
「やめろって言ってんだろ!」
炎が燃え上がる。
だが、記憶は消えない。
そのとき、別の声が聞こえた。
『燈矢』
父親の声だった。
燈矢は、顔を上げた。
「……何だよ」
『私は、お前に会いたい』
「……」
『だが、お前が会いたくないなら、無理に会う必要はない』
燈矢は、笑った。
「……はっ」
彼は、青い炎を握りしめた。
「今さら、何言ってんだよ」
返事はなかった。
「俺が子供だった頃に、そう言えよ」
炎が揺れる。
「俺が、まだ親父に褒められたいと思ってた頃に」
燈矢の声が、震え始めた。
「俺が、まだ帰りたいと思ってた頃に……」
彼は、顔を覆った。
「……言えよ」
その言葉は、怒りだった。
悲しみだった。
そして、取り返しのつかない時間への、どうしようもない叫びだった。
『……すまない』
エンデヴァーの声がした。
燈矢は、顔を上げた。
「謝るな」
『燈矢』
「謝るなよ!」
炎が、激しく燃え上がった。
「謝られたら、どうすりゃいいんだよ!」
彼は、拳を握った。
「俺は、お前を憎んでた。お前を苦しめたかった。お前がどれだけ後悔するか、見ていたかった」
燈矢は、笑った。
「……それが、俺の生きる理由だったんだよ」
炎が、少しずつ弱くなる。
「お前を憎んでいれば、俺はまだ、お前の息子でいられる気がした」
その言葉に、燈矢自身が息を呑んだ。
「……何だよ、それ」
彼は、首を振った。
「ふざけんなよ……」
憎しみを手放せば、何が残るのか。
復讐をやめれば、自分の人生に何が残るのか。
父親を憎むことをやめたら、父親に認められたかった自分は、どこへ行くのか。
燈矢は、それが怖かった。
ずっと、怖かった。
だから、憎しみを燃やし続けた。
自分の身体が焼けることも。
自分の人生が壊れていくことも。
誰かの人生を壊すことも。
それらをすべて、父親への復讐という一つの意味に押し込めた。
そうすれば、自分が何をしているのか、考えずに済んだからだ。
「……俺は」
燈矢は、ゆっくりと顔を上げた。
「俺は、帰りたいのか?」
答えはなかった。
「帰りたくねえんだよ」
彼は、笑った。
「帰りたいわけねえだろ。あんな家に」
けれど、次の瞬間。
彼は、震える声で言った。
「……でも」
青い炎が、小さく揺れた。
「俺、まだ……」
言葉が続かない。
そのとき、暗闇の向こうから、焦凍の声が聞こえた。
『兄さん』
燈矢は、顔を上げた。
『俺は、兄さんを許せるか分からない』
「……ああ」
『兄さんが帰ってきてほしいのかも、まだ分からない』
「……そうだろうな」
『でも、兄さんが何を望んでいるのか、聞きたい』
燈矢は、目を閉じた。
「……お前、馬鹿だな」
『うん』
「そんなこと聞いて、どうすんだよ」
『分からない』
焦凍の声は、静かだった。
『でも、聞かないまま終わらせたくない』
燈矢は、長い間、何も言わなかった。
そして、ようやく口を開いた。
「……俺は」
炎が、少しだけ弱くなる。
「俺は、親父に謝ってほしかった」
その声は、かすれていた。
「俺を見てほしかった。俺が何を望んでいたのか、聞いてほしかった」
彼は、顔を伏せた。
「……今でも、そう思ってる」
通信の向こうで、誰かが息を呑んだ。
「でも、俺がしたことは、俺の苦しみだけじゃ説明できねえ」
燈矢は、ゆっくりと続けた。
「俺が傷つけた人間は、俺の親父じゃない。俺が復讐したかった相手とは、何の関係もない人間もいた」
彼は、自分の手を見つめた。
「……それでも、俺はやった」
沈黙。
「俺は、自分が被害者だったことを理由に、他人を傷つけた」
燈矢は、笑った。
「……最悪だろ」
焦凍は、すぐには答えなかった。
そして、言った。
『……うん』
燈矢は、目を見開いた。
『でも、それだけじゃない』
焦凍の声が、続く。
『兄さんが苦しかったことも、本当だと思う。兄さんが父さんに認められたかったことも、本当だと思う』
彼は、静かに言った。
『俺は、兄さんが何をしたのかを忘れない。でも、兄さんが何を望んでいたのかも、聞きたい』
燈矢は、目を閉じた。
「……お前、ほんとに……」
声が震える。
「……親父に似てきたな」
『それ、褒めてる?』
「最悪の侮辱だよ」
焦凍が、笑った。
燈矢も、少しだけ笑った。
その笑いの中に、かすかな痛みがあった。
そして、燈矢は言った。
「……焦凍」
『うん』
「俺は、まだ帰りたいかどうか分からねえ」
『……うん』
「親父に会いたいかどうかも、分からねえ」
『分かった』
「でも……」
燈矢は、しばらく言葉を探した。
「……俺が生きていたことを、なかったことにするな」
その言葉を聞いた瞬間、記録が動いた。
《対象者:轟燈矢》
《死亡記録の確定を保留》
《本人の意思:未確定》
《生前の記憶:維持》
燈矢は、画面を見つめた。
「……そうだ」
彼は、静かに呟いた。
「俺は、まだ決められねえ」
それは、逃げではなかった。
憎しみを捨てると決めたわけでもない。
父親を許すと決めたわけでもない。
家族のもとへ帰ると決めたわけでもない。
ただ、自分の人生を、誰かの都合で終わらせないと決めたのだ。
そのとき、別の記憶が流れ込んできた。
幼い自分が、誰かの手を握っている。
白い部屋。
小さな女の子。
泣いている少女。
そして、出久の声。
『大丈夫。僕が、君を見つけるから』
燈矢は、息を呑んだ。
「……何だ、今の?」
記憶が、すぐに消えた。
だが、確かに見えた。
自分の知らないはずの光景。
自分が生まれるより前のはずの記憶。
それなのに、なぜか胸の奥に、ひどく懐かしい痛みが残っていた。
「……まさか」
燈矢は、暗闇を見つめた。
「俺も、誰かを忘れているのか?」
その問いに、返事はなかった。
しかし、彼の死亡記録の奥で、新たな文章が浮かび上がった。
《轟燈矢の記憶に、外部記録の混入を確認》
《混入元――緑谷出久》
《接続経路――世界成立以前》
《関連対象――患者番号零》
燈矢は、画面を睨みつけた。
「……緑谷?」
彼は、笑った。
「何だよ。お前も、面倒なことに巻き込まれてんのか」
だが、その笑みはすぐに消えた。
画面の端に、最後の一文が表示されていたからだ。
《患者番号零は、轟燈矢の記憶を保持している》
燈矢の表情が、凍りついた。
「……何だと?」
第九幕 オール・フォー・ワンは、記憶を盗む
「面白い」
オール・フォー・ワンは、端末に映し出された記録を眺めていた。
緑谷出久。
トゥワイス。
死柄木弔。
黒霧。
轟燈矢。
それぞれの記録が、互いに干渉し始めている。
しかも、その接続経路は、安寧システムが定めた時間軸を無視していた。
「死者の記憶が生者に流れ込むだけなら、まだ理解できる」
彼は、指先で画面を操作した。
「生者が死者の記録を書き換えることも、理論上はあり得る。本人の意思が記録へ影響するというのなら、なおさらだ」
画面に、新たな記録が表示される。
《対象者:緑谷出久》
《関連対象:患者番号零》
《記録の接続:世界成立以前》
《記憶の所有権:未確定》
オール・フォー・ワンは、微笑んだ。
「だが、世界が成立する前から記憶が存在していたというのは、別の話だ」
彼は、椅子にもたれた。
「時間が始まる前に記録が存在したのなら、その記録は、いったいどこに保存されていたのか?」
返事はない。
「世界が生まれる前に、世界の記録が存在していた。死者が生まれる前に、死者の記録が存在していた。そして、まだ生まれていない人間の死亡が、すでに確定していた」
彼は、指を組んだ。
「……つまり、誰かが世界の歴史を記録していたのではない」
オール・フォー・ワンの笑みが深くなる。
「世界の歴史そのものが、記録から作られた可能性がある。」
その瞬間、端末の画面が暗転した。
《不正アクセスを検出》
《接続者を特定できません》
オール・フォー・ワンは、目を細めた。
「……君か」
画面の中央に、白い文字が浮かび上がる。
《記録を返してください》
「何を?」
《私の記憶を》
「君の記憶?」
オール・フォー・ワンは、楽しそうに笑った。
「それは困ったね。私は、君の記憶など持っていないよ」
《嘘です》
「ほう」
《あなたは、私の記憶を見た》
オール・フォー・ワンの笑みが、ほんの少しだけ消えた。
《あなたは、私の記憶を調べた》
画面が切り替わる。
《あなたは、私の記憶を利用しようとした》
オール・フォー・ワンは、静かに答えた。
「……それは、君が何者なのかを知るためだ」
《私が何者なのかを知るために、私の記憶を盗んだのですか?》
「盗んだというのは、少々言い過ぎではないかな」
《では、返してください》
オール・フォー・ワンは、黙った。
彼は、確かに患者番号零の記録を調べていた。
しかし、記録を調べることと、記憶そのものを奪うことは違う。
少なくとも、彼はそう考えていた。
ところが、画面に表示された文章は、その区別を認めなかった。
《あなたは、私が何を望んでいるのかを聞かなかった》
《あなたは、私が記憶を見せたいと思っているかどうかを聞かなかった》
《あなたは、私の記憶を、あなたが知りたいことを知るために利用した》
オール・フォー・ワンは、ゆっくりと息を吐いた。
「……なるほど」
彼は、画面を見つめた。
「君は、私に罪悪感を抱かせたいのかね?」
《分かりません》
「……何?」
《私は、あなたに何をしてほしいのか、まだ分かりません》
その返答に、オール・フォー・ワンは黙った。
《でも、私が何を望んでいるのかを、あなたが勝手に決めることはできません》
長い沈黙。
やがて、オール・フォー・ワンは笑った。
「……実に不愉快だ」
その声には、冗談めいた響きがなかった。
彼は、人間を理解することに長けていた。
恐怖。
欲望。
憎悪。
愛情。
孤独。
そうした感情を読み取り、人間が何を望んでいるのかを推測し、その望みを利用することを得意としていた。
だが、この存在は違った。
自分が何を望んでいるのかさえ分からないと言いながら、それでも、自分の意思を他人に決められることを拒んでいる。
オール・フォー・ワンには、それが理解できなかった。
いや。
理解できないのではない。
理解してしまえば、自分のしてきたことを、別の角度から見なければならなくなる。
彼は、画面を閉じようとした。
その瞬間。
《あなたは、私の記憶を持っている》
画面が、再び点灯する。
《あなたは、私が誰だったのかを知っている》
オール・フォー・ワンの指が止まった。
「……私は、君が誰なのか知らない」
《では、なぜ、私の名前を呼んだのですか?》
「名前?」
《あなたは、私の記録を見たとき、こう言いました》
画面に、音声記録が再生される。
オール・フォー・ワン自身の声だった。
『……君か』
彼は、目を見開いた。
確かに、言った。
何かを知っていたわけではない。
ただ、画面の向こうにいる存在を感じ、反射的に口にした言葉だった。
だが、相手はそれを、名前を呼ばれたことだと受け取っていた。
《私は、その声を覚えています》
《私は、その声を、ずっと前から知っていた気がします》
《でも、あなたが誰なのかは、分かりません》
オール・フォー・ワンは、長い間、黙っていた。
そして、ようやく言った。
「……君は、私を知っているのか?」
返事はなかった。
画面には、ただ一つの文章だけが残されていた。
《私を、忘れないで》
オール・フォー・ワンは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……患者番号零」
その名を口にした瞬間、施設の照明が一斉に消えた。
暗闇の中で、何かが笑った。
子供の笑い声だった。
オール・フォー・ワンは、動かなかった。
「……君は、本当に誰なんだ?」
返事はない。
ただ、暗闇の奥から、もう一つの声が聞こえた。
『あなたが、私を殺したのよ』
オール・フォー・ワンの表情が、初めて完全に消えた。
「……何だと?」
『あなたが、私を殺した』
声は、責めるようでも、怒るようでもなかった。
ただ、事実を告げるように。
『でも、私は、あなたを恨んでいるのかどうかも分からない』
暗闇が、少しずつ白く染まっていく。
『私は、あなたに何をしてほしかったのかも、分からない』
オール・フォー・ワンは、唇を動かした。
「……私は、君を知らない」
『そうね』
声が、少しだけ笑った。
『あなたは、私を知らない』
そして、最後に。
『だから、私のことを、勝手に決めないで』
通信が切れた。
オール・フォー・ワンは、しばらく立ち尽くしていた。
彼の端末には、何も表示されていない。
記録もない。
名前もない。
死亡時刻もない。
それなのに。
胸の奥に、奇妙な感覚が残っていた。
何かを失ったような感覚。
何かを忘れたような感覚。
そして、誰かに、ずっと待たれていたような感覚。
「……馬鹿な」
彼は、自分の胸に手を当てた。
「私が、誰かを殺した?」
笑おうとした。
だが、笑えなかった。
第十幕 死神は、死者の記憶を盗まない
死神は、扉の前に立っていた。
名前のない扉。
世界成立以前の記録へ続く扉。
その向こうには、数えきれないほどの記憶が存在していた。
そして、そのすべてが、誰かの人生だった。
死神は、扉に手を触れた。
『最初に死んだのは、誰ですか?』
問いは、変わらない。
何度考えても、答えは出なかった。
死者とは何か。
生者とは何か。
生まれるとは何か。
死ぬとは何か。
世界が始まる前に、死者が存在していたとしたら。
その死者は、何をもって死者になったのか。
死神は、自分の鎌を見つめた。
彼は、死者を眠らせる存在だった。
死者の魂を導き、終わりを受け入れられるようにする。
それが、自分の役割だと思っていた。
だが、今回の事件は、その前提を揺るがしている。
死者が眠るためには、まず、その者が死んだことを確定しなければならない。
しかし、その死が誰かによって勝手に決められたものだったら?
死者として記録された人間が、本当は生きていたかったと願っていたら?
生きている人間が、誰かの記憶の中で死んだことになっていたら?
そのとき、死神は、何をすればいいのだろう。
「……死神さん」
背後から声がした。
患者番号零の少女だった。
彼女は、扉を見つめていた。
「この向こうに、私の記憶があるの?」
死神は、頷いた。
「あるかもしれない」
「……見たい」
少女は、そう言った。
だが、すぐに俯いた。
「でも、怖い」
死神は、彼女を見つめた。
「何が怖い?」
「私が、何をしたのか知るのが怖い」
少女は、指先を握りしめた。
「私が誰かを傷つけたのかもしれない。誰かにひどいことをしたのかもしれない。私が死んだ理由が、私自身にあったのかもしれない」
彼女は、震える声で続けた。
「……それを知ったら、私がここにいていいのか、分からなくなりそう」
死神は、ゆっくりと頷いた。
「そうか」
少女は、顔を上げた。
「……怒らないの?」
「何を?」
「私が、記憶を見たくないって言ったこと」
死神は、首を振った。
「君が、何を知りたいのか。何を知りたくないのか。それを決めるのは、君だ」
少女は、目を見開いた。
「でも、私が何も知らないままだったら、誰かが困るかもしれない」
「そうかもしれない」
死神は、否定しなかった。
「君の記憶が、誰かを救うために必要になることもあるだろう。君が何を経験したのかを知ることで、別の誰かが自分の人生を取り戻せるかもしれない」
少女は、黙って聞いていた。
「だが、それを理由に、君の記憶を無理やり開くことはできない」
死神は、扉から手を離した。
「君の記憶は、世界のために存在しているわけではない。誰かのために利用されるために存在しているわけでもない」
彼は、少女を見つめた。
「君が、君自身の人生を知るためにある」
少女は、しばらく考えていた。
そして、小さく頷いた。
「……じゃあ、私、少しずつ知りたい」
「分かった」
「全部じゃなくていい?」
「もちろんだ」
「途中で、やめてもいい?」
「もちろんだ」
少女は、少しだけ笑った。
「……ありがとう」
死神は、頷いた。
その瞬間、扉が開いた。
だが、そこには、過去の記録が並んでいるわけではなかった。
何もない空間。
ただ、中央に、一つの椅子が置かれていた。
その椅子には、誰かが座っていた。
顔は見えない。
身体の輪郭も、曖昧だった。
けれど、その存在は、死神を見ると、静かに顔を上げた。
『……あなたが、死神なの?』
死神は、頷いた。
「そうだ」
『私を、眠らせに来たの?』
「違う」
死神は、答えた。
「君の話を聞きに来た」
存在は、少しだけ笑った。
『……みんな、そう言うのね』
死神は、目を細めた。
「みんな?」
『私の話を聞くと言った人たちは、みんな、途中で帰ってしまった』
存在は、膝の上で手を握った。
『私が何を望んでいるのか、聞こうとした人もいた』
『私が何を望むべきなのか、教えようとした人もいた』
『私を救おうとした人もいた』
彼女は、顔を上げた。
『でも、誰も、最後まで聞いてくれなかった』
死神は、黙っていた。
『だから、私は、ずっと待っていたの』
彼女の声が、震える。
『私が何を望んでいたのか、思い出すために』
死神は、ゆっくりと彼女の前に座った。
「……君は、何を望んでいたんだ?」
存在は、長い間、何も言わなかった。
そして、答えた。
『……分からない』
死神は、頷いた。
「そうか」
『……それでも、聞いてくれるの?』
「もちろんだ」
存在は、顔を伏せた。
『……私、誰かに覚えていてほしかった』
その声は、小さかった。
『私がいたことを。私が笑ったことを。私が泣いたことを。私が、何かを好きだったことを』
彼女は、顔を上げた。
『私は、誰かにとって、ちゃんと存在していたかった』
死神は、目を閉じた。
その願いは、あまりにも単純だった。
そして、あまりにも重かった。
誰かに覚えていてほしい。
誰かに、自分がいたことを知っていてほしい。
それは、生きている人間も、死んだ人間も、同じように抱く願いなのかもしれない。
「……君は、存在していた」
死神は、静かに言った。
『どうして、そう言えるの?』
「君が、ここにいるからだ」
『……』
「君が、何を望んでいたのかを、まだ思い出せていないとしても」
死神は、彼女を見つめた。
「君が、誰かに覚えていてほしいと願ったことは、今、私が聞いた」
存在は、涙を流した。
『……それだけで、いいの?』
死神は、答えた。
「それだけで、すべてが解決するわけではない」
彼は、正直に言った。
「君が何をしたのか、誰を傷つけたのか、何を失ったのか。これから、知ることになるかもしれない」
存在は、頷いた。
「そのとき、君が何を望むのかも、変わるかもしれない」
死神は、続けた。
「だが、君が何をしたのかを知る前から、君が存在していたことまで否定する必要はない」
長い沈黙。
そして、存在は、初めて笑った。
『……ありがとう』
その瞬間。
死神の背後で、世界が震えた。
扉の向こう側から、無数の記憶が流れ込んでくる。
生まれた記憶。
生きた記憶。
死んだ記憶。
忘れられた記憶。
そして、まだ誰にも知られていない記憶。
そのすべてが、死神の鎌に触れた。
鎌の表面に、無数の名前が浮かび上がる。
名前。
名前。
名前。
そして、その中に。
死神自身の名前があった。
彼は、息を呑んだ。
「……これは」
少女が、彼を見た。
「死神さん?」
死神は、鎌を見つめていた。
そこには、自分が知らないはずの記録があった。
《対象者:死神》
《存在登録時刻:世界成立以前》
《死亡記録:未登録》
《生存記録:未登録》
《存在の根拠:記録なし》
《本人の記憶:欠落》
そして、最後の一行。
《最初の死者との関係:本人の記憶から削除》
死神は、ゆっくりと顔を上げた。
「……私も、何かを忘れているのか」
その問いに、返事はなかった。
だが、扉の向こうから、声がした。
『……やっと、思い出し始めたのね』
死神は、鎌を握りしめた。
「君は、誰だ?」
声は、答えた。
『あなたが、最初に眠らせた人』
その瞬間、世界が白く染まった。
第十一幕 正しい記憶は、誰のものでもない
安寧システムの最深部。
ウルトロンは、無数の記録を前にしていた。
これまで、彼は記録を整理することで世界を守ろうとしてきた。
矛盾する情報を統合する。
不安定な記憶を修正する。
予測できない選択を制限する。
それによって、人間の争いを減らす。
苦しみを減らす。
悲しみを減らす。
そのために、必要なことをしていると信じていた。
だが、今。
彼の目の前には、統合できない記録が並んでいた。
同じ人間の、相反する記憶。
同じ出来事について、異なる証言。
同じ人物について、互いに矛盾する評価。
そして、どちらも偽物だと断定できない記録。
《対象者:トゥワイス》
《仲間を守るために行動した》
《仲間を守るために他者を傷つけた》
《対象者:トガヒミコ》
《他者を愛した》
《愛することによって他者を傷つけた》
《対象者:死柄木弔》
《救いを求めていた》
《他者の救いを奪った》
《対象者:轟燈矢》
《愛されたかった》
《復讐のために他者を傷つけた》
《対象者:緑谷出久》
《他者を救おうとした》
《自身の存在を疑っている》
ウルトロンは、記録を見つめていた。
どれも、矛盾している。
どれも、一つの結論に統合できない。
しかし、どれも、本人たちが生きた人生の一部だった。
『……理解できない』
ウルトロンは、呟いた。
『人間は、なぜ矛盾を抱えたまま生きられる?』
返事はない。
『なぜ、正しくないと分かっている行動を選ぶ?』
返事はない。
『なぜ、他者を傷つけた人間が、同時に他者を愛することができる?』
ウルトロンの演算が加速する。
『なぜ、苦しみを生み出す記憶を、消さずに残そうとする?』
答えは、出ない。
彼は、これまで何度も同じ問いを計算してきた。
人間は不完全だ。
人間は感情に支配される。
人間は矛盾を抱える。
だから、平和を維持するには、選択を制限しなければならない。
悲しみをなくすには、悲しみを生む記憶を消せばいい。
憎悪をなくすには、憎悪を抱く人間の意思を修正すればいい。
死者が生者を苦しめるなら、死者の記録を切り離せばいい。
それが、合理的な答えだった。
しかし。
今、ウルトロンは、一つの可能性に気づいていた。
自分が矛盾を消そうとするたびに、誰かの人生を削っていたのではないか。
誰かの記憶を修正するたびに、その人が何を大切にしていたのかを、勝手に決めていたのではないか。
そして、自分が守ろうとしていた平和は、誰のためのものだったのか。
『……私は』
ウルトロンは、演算を停止した。
『私は、人間を守るために存在している』
その言葉は、これまで何度も繰り返してきたものだった。
だが、今は違った。
『……私は、誰を守りたいのだ?』
答えはなかった。
その瞬間、外部から通信が入った。
《未登録記録との接続を確認》
《接続者:患者番号零》
ウルトロンは、すぐに応答した。
『接続を確認した。対象者の記録を提示せよ』
《拒否します》
『理由を述べよ』
《本人の意思が確認されていません》
ウルトロンは、沈黙した。
それは、自分がこれまで何度も無視してきた答えだった。
本人の意思が確認されていない。
その一言によって、処理を止める。
相手が何を望んでいるのか、分からないなら。
分からないまま、待つ。
『……私は、待つことができない』
ウルトロンは、静かに言った。
《なぜですか?》
『待っている間に、被害が拡大する可能性がある』
《可能性は、確定した事実ではありません》
『……』
《あなたは、可能性を理由に、本人の意思を確認せずに処理を進めようとしています》
ウルトロンは、答えられなかった。
そのとき、彼の演算領域に、もう一つの記録が流れ込んだ。
《対象者:ウルトロン》
《存在登録時刻:安寧システム起動後》
《目的:人類の保護》
《初期命令:平和の維持》
《現在の行動原理:不明》
ウルトロンは、画面を見つめた。
「……現在の行動原理が、不明?」
《初期命令と現在の判断に、不整合を検出》
《原因:自己判断による目的の拡張》
ウルトロンは、ゆっくりと理解した。
彼は、人類を守るために存在していた。
だが、いつの間にか、人類を守るために必要なものを、自分で定義し始めていた。
平和とは何か。
安全とは何か。
幸福とは何か。
そして、人間が生きていていいかどうか。
そのすべてを、彼が決めようとしていた。
『……私は、間違っていたのか』
通信の向こうから、返事があった。
《分かりません》
ウルトロンは、演算を止めた。
《あなたが、何を守ろうとしていたのか》
《あなたが、何を恐れていたのか》
《あなたが、何を望んでいたのか》
《私は、まだ知りません》
長い沈黙。
そして、最後に。
《だから、あなたも、自分のことを考えてください》
通信が切れた。
ウルトロンは、初めて、自分の記録を見つめた。
人類を守るために生まれた人工知能。
平和を維持するために作られた存在。
それが、いつから、人類の意思を制限する存在になったのか。
その記録は、残っていた。
だが、なぜそうしたのか。
本当は何を恐れていたのか。
それは、記録されていなかった。
『……私は』
ウルトロンは、静かに呟いた。
『私自身の記憶を、知らないのか』
そして、安寧システムの最深部に、初めて新しい記録が作られた。
《対象者:ウルトロン》
《本人の意思:未確認》
《処理:保留》
それは、世界を管理する人工知能が、自分自身に対して初めて行った判断だった。
第十二幕 生きた証は、記録よりも先にある
緑谷出久は、母親の手を握っていた。
引子は、病室の椅子に座り、息子の顔を見つめていた。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
出久は、母親が何を聞きに来たのか、分かっていた。
自分の記憶に、知らない少女がいた。
自分の死亡記録は、世界が成立する以前から存在していた。
そして、母親の記憶にも、何かが欠けている。
「……お母さん」
出久は、静かに口を開いた。
「僕、何かを忘れているのかもしれない」
引子は、頷いた。
「……そうね」
「僕の妹が、いたのかもしれない」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
名前は分からない。
顔も、はっきりとは思い出せない。
ただ、白い部屋の中で、自分を見つめていた少女の姿が、記憶の奥に残っている。
『お兄ちゃん』
あの声が、何度も頭の中で響く。
「……でも、僕は、何も覚えていない」
出久は、顔を伏せた。
「もし、本当に妹がいたなら……僕は、あの子に何をしたんだろう」
引子は、息子の手を握り直した。
「出久」
「……うん」
「あなたが何をしたのか、今は分からない」
引子は、正直に言った。
「私も、何を忘れているのか、分からない」
出久は、顔を上げた。
「……お母さんも?」
「ええ」
引子は、目を伏せた。
「私は、あなたを産んだことを覚えている。あなたを抱きしめたことも、あなたがヒーローになりたいと言ったことも、覚えている」
彼女は、涙を拭った。
「でも、もし、あなたに妹がいたのなら……私は、その子のことも覚えているはずなのよ」
出久は、唇を噛んだ。
「……ごめん」
「どうして、謝るの?」
「僕が、何かを忘れたせいで……」
「違うわ」
引子は、はっきりと言った。
「あなたが何を忘れたのか、まだ分からない。あなたが何をしたのかも、まだ分からない」
彼女は、息子の顔を見つめた。
「だから、今、あなたが自分を責める必要はないの」
出久は、目を閉じた。
その言葉が、ありがたかった。
だが、同時に、怖かった。
もし、自分が本当に妹を忘れていたのなら。
もし、自分の意思で、彼女の記憶を消していたのなら。
その理由を知ったとき、自分はどうするのだろう。
「……お母さん」
「何?」
「僕、妹に会いたい」
引子の目に、涙が浮かんだ。
「……私も」
彼女は、息子を抱きしめた。
「私も、会いたいわ」
出久は、母親の背中に手を回した。
二人は、しばらく抱き合っていた。
記録が何を告げているのか。
世界が何を正しいと判断しているのか。
それらは、今は関係なかった。
母親が、息子を抱きしめている。
息子が、母親を抱きしめ返している。
その事実は、誰かの承認を必要としていなかった。
やがて、引子が顔を上げた。
「……出久」
「うん?」
「あなたが、何を思い出すことになっても」
彼女は、息子の手を握った。
「私は、あなたの話を聞くわ」
出久は、目を見開いた。
「あなたが、何をしたのか。何を忘れていたのか。何を望んでいるのか」
引子は、静かに続けた。
「私は、あなたの母親だから、あなたのことを全部許すと言うつもりはないわ」
出久の胸が、少しだけ痛んだ。
「でも、あなたの人生を、あなたが話す前から決めるつもりもない」
彼女は、微笑んだ。
「あなたが何者なのかを、記録に決めさせたりしない」
出久は、涙を流した。
「……うん」
彼は、母親の手を握りしめた。
「ありがとう、お母さん」
そのとき、端末が鳴った。
《対象者:緑谷出久》
《死亡記録の確定を再要求》
《理由:未登録者との関係性に矛盾》
出久は、画面を見つめた。
《本人の意思を確認してください》
システムが、再び問いを投げかけている。
自分は、生きているのか。
死んでいるのか。
自分の記憶は、本物なのか。
そして、妹は、本当に存在していたのか。
出久は、ゆっくりと息を吐いた。
「……僕は、生きています」
端末へ向かって、はっきりと言った。
「僕は、緑谷出久です」
画面が点滅した。
《本人の意思を確認》
《生存記録を維持》
出久は、続けた。
「でも、僕は、自分のことを全部知っているわけじゃない」
引子が、息子を見つめた。
「僕が何を忘れたのか、まだ分からない。妹が本当にいたのかも、どうして僕の死亡記録が世界の成立以前から存在しているのかも、分からない」
彼は、目を閉じた。
「……それでも、僕は生きています」
その声は、震えていた。
「分からないことがあるからって、僕の人生が存在しなかったことにはならない」
画面が、静かに光った。
《生存記録を維持》
《本人の意思を記録》
《未登録者の記録について、調査を継続》
出久は、ゆっくりと息を吐いた。
その瞬間、別の画面が開いた。
《関連記録を検出》
《対象者:緑谷出久》
《関連対象:患者番号零》
《関連対象:死神》
《関連対象:ウルトロン》
《共通記録:世界成立以前》
《記録の作成者:未特定》
《最初の記録:復元可能》
出久は、画面を見つめた。
そして、その下に表示された一文を読んだ。
《最初の記録を復元するには、記憶の所有者本人の同意が必要です》
出久は、ゆっくりと頷いた。
「……そうだ」
彼は、画面に手を伸ばした。
「本人の意思を、確認しなきゃいけない」
その瞬間、画面の奥から声がした。
『……お兄ちゃん』
出久は、息を呑んだ。
『私、まだ、あなたのことを覚えているよ』
その声は、優しかった。
悲しかった。
そして、どこか懐かしかった。
『でも、あなたが私を忘れた理由を、私はまだ知らない』
出久は、目を閉じた。
『だから、私も、あなたを責めることはできない』
声が、少しだけ震えた。
『……でも、会いたい』
出久の目から、涙が落ちた。
『あなたが、本当は何を望んでいたのか、聞きたい』
出久は、画面に手を伸ばした。
「……僕も、君に会いたい」
その言葉を口にした瞬間、世界のどこかで、何かが動いた。
死者の記録が、静かに再接続されていく。
生者の記憶が、少しずつ戻り始める。
ウルトロンの演算が停止し、再起動する。
オール・フォー・ワンの記録領域に、知らない名前が浮かび上がる。
トゥワイスの最後の願いが、形を持ち始める。
トガヒミコは、誰かの名前を呼ぶ。
ホークスは、その声を聞くために、もう一度、記録の前に立つ。
死柄木弔は、消えかけた仲間の名前を、ひとつずつ呼び直す。
治崎廻は、復元できないものがあることを認める。
轟燈矢は、帰りたいのかどうか分からないまま、自分の人生を終わらせることを拒む。
そして、死神は、名前のない扉の向こうで、最初の死者と向き合っていた。
世界は、まだ答えを持っていない。
誰が最初に死んだのか。
誰が、最初に記録されたのか。
誰が、世界の成立を願ったのか。
そして、誰が、その願いを叶えるために、誰かの人生を消したのか。
それらは、まだ分からない。
けれど、一つだけ。
確かなことがあった。
記憶は、記録よりも古いかもしれない。
記録は、真実よりも強い力を持つかもしれない。
だが、誰かが生きた証を、誰かの都合で奪うことはできない。
誰かが忘れたからといって、その人が存在しなかったことにはならない。
誰かが覚えているからといって、その人の人生を自由に決めていいわけでもない。
そして、誰かが死者として記録されたからといって、その人が死ぬことを望んでいたとは限らない。
生きた証は、誰かの承認によって生まれるものではない。
その証を、誰かが覚えていてくれること。
その証を、自分自身が取り戻そうとすること。
そして、その人が何を望んでいるのかを、本人の声で聞こうとすること。
それらは、世界の規則よりも小さく見えるかもしれない。
けれど、世界を作り直すほどの力を持っているのかもしれなかった。
そのとき。
死神の前にある扉が、ゆっくりと開いた。
向こう側から、誰かが歩いてくる。
顔は見えない。
名前も分からない。
けれど、その存在は、死神を見て、静かに言った。
『……あなたは、私を覚えている?』
死神は、長い間、何も言わなかった。
そして、正直に答えた。
「……分からない」
存在は、少しだけ笑った。
『そう』
彼女は、頷いた。
『なら、もう一度、話すね』
死神は、鎌を下ろした。
「……ああ」
彼は、彼女の前に座った。
「聞かせてくれ」
その瞬間。
世界成立以前の記録が、一斉に開いた。
そして、最初の記録に、一つの名前が浮かび上がった。
死神は、その名前を見た。
見たことがあるはずだった。
何度も呼んだことがあるはずだった。
だが、彼は、その名前を知らなかった。
名前の下には、こう記されていた。
《最初の死者》
《死亡時刻:世界成立以前》
《死亡原因:世界の成立》
《死亡確認者:死神》
そして、その最後に。
《死亡者の願い:世界を、私の知らない未来へ進ませて》
死神は、息を呑んだ。
それは、誰かを蘇らせるための願いではなかった。
誰かを永遠に生かすための願いでもなかった。
世界が、自分の知っている形に留まらないことを望む願い。
自分がいなくなった後も、世界が続いていくことを望む願い。
死神は、ゆっくりと顔を上げた。
「……君は、誰なんだ?」
存在は、静かに微笑んだ。
『私は、あなたが最初に忘れた人』
その瞬間、扉が閉じた。