序章 名前のない朝
死者は、朝を恐れていた。
夜のあいだは、まだ夢の中にいられる。
目を閉じれば、死ぬ前の世界が戻ってくる。そこには、もう会えない人がいる。失った家族がいる。自分がまだ何者かになれると信じていた日々がある。
だが、朝になると、それらはすべて現実に問い返される。
自分は、なぜここにいるのか。
自分がいなくなった世界は、どうなったのか。
そして――自分は、ここにいていいのか。
雄英高校の臨時収容区画では、午前六時を少し過ぎたころから、少しずつ人の声が増え始めていた。
かつて生徒たちが訓練を行っていた施設の一角は、今では蘇生者たちの生活空間として使われている。
壁には仮設の掲示板。
その上には、いくつもの紙が貼られていた。
本人の意思確認。
記憶の照合。
家族・関係者との面会希望。
医療支援。
身元不明者の情報提供。
そして、一番下に、誰かが手書きで付け加えた一枚。
『生きるかどうかを、今すぐ決めなくてもいい』
その文字を見つめていた男がいた。
ヴィラン連合のトゥワイス。
いや、今ここにいる彼は、もう単純にそう呼ばれるだけの存在ではなかった。
彼は、自分が本物なのか、複製なのかという問いを、何度も何度も突きつけられてきた。
本物でなければ、愛することに意味はないのか。
複製なら、死んでも構わないのか。
記憶が同じなら、同じ人間なのか。
同じ人間でないなら、何をもって自分を自分だと言えばいいのか。
「……なんだよ、これ」
トゥワイスは掲示板の紙を指でつついた。
「生きるかどうかを決めなくてもいい? 最高じゃねえか! いや、最高って言っていいのかこれ? 決めなくていいなら、俺はどうすりゃいいんだよ!」
隣で椅子に座っていたトガヒミコが、首を傾げた。
「決めなくてもいいなら、決めないでいてもいいんじゃないですか?」
「そういう話か!?」
「そういう話ですよ?」
「そうか! いや、そうなのか? いやいや、そうだろ! ……なんだよ、ちょっと楽になったじゃねえか」
トゥワイスは、掲示板から目を離した。
その向こうでは、麗日お茶子が医療スタッフと話していた。
蘇った者の体調を確認し、生活に必要なものを聞き取り、家族との面会を望む者には、その準備を進める。
彼女は笑顔を作ろうとしていた。
しかし、その笑顔は、以前のように何でも包み込めるものではなかった。
死者が蘇ることは奇跡だ。
だが、奇跡は人の傷を消さない。
戻ってきたからといって、失われた年月が埋まるわけではない。
死んだ者が生き返ったからといって、残された者が抱えてきた悲しみまで、間違いだったことにはならない。
お茶子は、それを誰よりも理解しようとしていた。
トガが、彼女を見た。
「お茶子ちゃん」
「ん?」
「私が帰りたいって言ったら、どうします?」
お茶子の手が止まった。
トガはいつものように笑っていた。
けれど、その目は笑っていなかった。
「帰りたいっていうのは……どこに?」
「私が死ぬ前にいたところです」
「……」
「私が私のままでいられた場所。私が好きなものを好きって言えた場所。私が好きな人の血を吸いたいって思っても、最初から怪物って決めつけられない場所」
トガは自分の指を見た。
「そんな場所、ありましたっけ?」
お茶子は、すぐには答えられなかった。
正しい言葉を探せば探すほど、彼女の言葉から遠ざかっていく。
「……分からない」
お茶子は、嘘をつかなかった。
「でも、トガちゃんが何を望んでいるのか、私は聞きたい」
「それだけ?」
「うん。それだけじゃ足りないかもしれない。でも、私が勝手に決めるよりは、ずっといいと思う」
トガは、しばらく彼女を見つめていた。
そして、小さく笑った。
「お茶子ちゃんって、前よりずるくなりましたね」
「えっ?」
「前なら、私を止めるために、もっと一生懸命だった気がします」
お茶子は、胸の奥が痛むのを感じた。
「……止めたいよ」
「うん」
「でも、止めたいからって、トガちゃんの気持ちまでなかったことにはしたくない」
「うん」
「それでも、誰かを傷つけることを、私はいいとは言えない」
「……うん」
トガは目を伏せた。
「それでいいです」
彼女は、掲示板を見た。
『生きるかどうかを、今すぐ決めなくてもいい』
「私、まだ分からないんです。生きたいのか、帰りたいのか、もう一度誰かを好きになりたいのか」
トガは、自分の胸に手を当てた。
「でも、分からないって言ってもいいなら……もう少しだけ、ここにいてみようかな」
お茶子は頷いた。
その瞬間だった。
施設全体に、短い警告音が鳴り響いた。
一度。
二度。
三度。
壁面のモニターが一斉に切り替わる。
そこに表示された文字を見て、医療スタッフが息を呑んだ。
安寧システム――第一記録領域へのアクセスを検知。
続いて、二行目。
アクセス主体――死神。
そして三行目。
警告:第一記録領域における「名前」の定義が、現在の世界法則と一致しません。
最後の一行が表示されたとき、モニターの文字が、ひとつずつ消えていった。
代わりに、誰も入力していない文章が現れた。
その名前を、まだ呼ばないで。
トガの表情から、笑みが消えた。
「……誰が、書いたんですか?」
誰も答えなかった。
同じ時刻。
雄英の地下深く。
死神は、扉の前に立っていた。
そして、彼の頭の中では、忘れていたはずの声が、少しずつ形を取り戻し始めていた。
第一幕 死神には、死神になる前があった
第一記録領域には、扉がなかった。
正確には、扉という概念が成立する以前の場所だった。
開くための鍵も、通過するための資格も、侵入を拒むための壁もない。
あるのは、ひとつの境界だけ。
こちら側と、向こう側。
生と死。
記憶と忘却。
存在と、存在しなかったこと。
死神は、その境界を前にして、自分が何を恐れているのかを理解できなかった。
彼は恐怖という感情を知っている。
死を恐れる者を、何度も見てきた。
死を望む者も。
死を否定する者も。
愛する人の死を受け入れられず、世界そのものを呪う者も。
それでも彼自身は、死を恐れたことがなかった。
死は終わりであり、終わりは世界の一部だ。
誰かが生まれれば、いつか死ぬ。
誰かが出会えば、いつか別れる。
何かが始まれば、いつか終わる。
それは残酷なことではあるが、世界が世界であるために必要なことだった。
少なくとも、彼はそう考えてきた。
だが、今。
彼は境界の前から動けなかった。
扉の向こうに何があるのか、知っている。
知っているはずなのだ。
記録を見た。
世界が生まれる前に死んだ者。
その死を確認した者。
その名を記録した者。
そして、その名を忘れた者。
すべての項目に、自分の存在が刻まれている。
なのに。
名前だけが、ない。
「……私は」
声に出した瞬間、自分の声がひどく遠く聞こえた。
「私は、誰を殺した?」
問いは、境界に吸い込まれた。
返事はない。
死神は、手を伸ばした。
境界に触れる。
その瞬間、世界が反転した。
彼は、そこに立っていた。
白い場所だった。
白い壁も、白い床も、白い天井もない。
ただ、白い。
光があるわけではない。
暗闇がないわけでもない。
色という概念が、まだ存在していなかった。
上下も、左右も、前後もない。
距離というものが生まれる前の空間。
時間というものが、まだ流れていない場所。
死神は、自分が今、立っているのかどうかすら分からなかった。
それでも、目の前に誰かがいた。
小さな影。
人の形をしている。
年齢も、性別も、顔立ちも分からない。
けれど、その者がこちらを見ていることだけは分かった。
「……やっと来た」
声がした。
死神は動けなかった。
それは、初めて聞く声だった。
初めて聞くはずの声だった。
なのに、その響きを知っていた。
何度も聞いた。
何度も、何度も。
自分が何者であるかを忘れるほど、何度も。
「あなたは……誰だ」
影は答えなかった。
代わりに、少しだけ首を傾げた。
「あなたこそ、誰?」
死神は眉をひそめた。
「私は死神だ」
「うん。今はね」
「今は?」
「死神になる前は、違ったでしょう?」
その言葉が、胸の奥に沈んだ。
死神になる前。
彼には、そんなものはなかった。
死神は、死を司る存在として存在していた。
少なくとも、彼の記憶では。
だが、記憶がないことと、過去がないことは同じではない。
それは、彼自身が何度も他者に教えてきたことだった。
「……私に、死神になる前があったというのか」
「あなたがそう呼ぶなら」
「何と呼べばいい?」
「あなたが、自分で決めればいい」
影はそう言った。
あまりにも当たり前のように。
死神は、その言葉にひどい違和感を覚えた。
自分で決める。
それは、彼が長い間、他者に許してきたことだった。
生きるか、死ぬか。
何を大切にするか。
何を悔いるか。
何を手放し、何を守るか。
死神は、他者の選択を奪わないために、死を告げる存在であり続けた。
しかし。
自分のことになると、彼は何も決めていなかった。
「あなたは、私の名前を知っているのか」
影は頷いた。
「知っているよ」
「ならば、教えてくれ」
「いや」
「なぜだ」
「あなたが、自分で思い出すべきだから」
死神の胸に、初めて怒りに似たものが生まれた。
「私は、世界の終わりを見届けてきた。何千、何万という命の終わりを見てきた。生きることを望んだ者も、死を望んだ者も、誰かを愛した者も、誰かを憎んだ者も。私は彼らの最後の言葉を聞いてきた。彼らの名前を記録してきた」
「うん」
「私は、名前を奪うために存在しているのではない」
「知ってる」
「ならば、なぜ私の名前を隠す!」
影は、静かに言った。
「あなたが、忘れたから」
その瞬間。
白い世界に、ひとつの音が響いた。
――泣き声。
赤子の声ではない。
大人の声でもない。
悲しみという感情が、初めて世界に生まれたときの音だった。
死神は膝をついた。
知らないはずの記憶が、彼の中に流れ込んでくる。
名前を呼ぶ声。
自分を呼ぶ声。
自分が呼び返す声。
その声を聞いて、笑う誰か。
その誰かが、やがて泣く。
自分は、その涙を拭おうとしていた。
何もかもが、まだ不完全だった。
言葉も。
世界も。
命も。
死も。
なのに、そこには確かに、何かがあった。
誰かがいた。
誰かと、自分がいた。
「……私は」
死神は、震える手で額を押さえた。
「私は、あなたを……」
影は、近づかなかった。
ただ、待っていた。
「思い出して」
その声が、世界の底へ沈んでいった。
第二幕 最初の死者は、死を知らなかった
世界が生まれる前。
そこには、死がなかった。
生もなかった。
始まりも終わりも、存在も不在も、まだ区別されていなかった。
誰かが何かを望むこともなかった。
望むためには、望むものと望まないものが必要だからだ。
満たされることも、失うこともない。
幸福も、不幸もない。
愛も、憎しみもない。
すべてが、まだ何者でもなかった。
その場所で、最初に何かを望んだ者がいた。
それは、世界ではなかった。
神でもなかった。
命でもなかった。
ただ、ひとつの存在だった。
その存在は、ひとつの問いを抱いていた。
――もし、誰かが生まれたなら。
――その誰かは、自分とは違うものを望むのだろうか。
問いが生まれた瞬間、世界に最初の境界が生まれた。
自分と、他者。
同じものと、違うもの。
理解できるものと、理解できないもの。
そして、理解できないものを知りたいという願い。
その願いが、世界の最初の鼓動になった。
だが、その存在は、世界を生み出すことを望んでいたわけではなかった。
ただ、誰かと話したかった。
自分の知らない答えを聞きたかった。
自分の知らない未来を見たかった。
それだけだった。
ところが、願いは願いのままではいられなかった。
何かを望むということは、何かが足りないということだ。
足りないものを満たそうとすれば、そこに変化が生まれる。
変化が生まれれば、時間が生まれる。
時間が生まれれば、始まりと終わりが生まれる。
そして、終わりが生まれたとき。
最初の存在は、初めて知った。
失うことを。
自分の願いが、世界を生み出してしまったことを。
世界が生まれた瞬間、最初の存在は世界の一部になった。
世界を外から眺めることができなくなった。
自分の願いがどこへ向かうのか、分からなくなった。
世界の中には、自分の知らないものが生まれ始めた。
自分の知らない命。
自分の知らない感情。
自分の知らない未来。
それは、最初に望んだものだった。
なのに。
その存在は、恐ろしくなった。
自分の知らないものが生まれるということは、自分の望まないものも生まれるということだ。
自分が望んでいないものを望む者が生まれる。
自分が理解できないものを理解しようとする者が生まれる。
自分が守ろうとするものを、壊そうとする者が生まれる。
そして、自分が愛するものを、自分の知らない理由で失うことになるかもしれない。
最初の存在は、世界を見つめた。
生まれたばかりの世界は、まだ柔らかかった。
まだ、どんな形にもなれる。
まだ、何も決まっていない。
ならば。
この世界が、誰も失わない世界であればいい。
誰も傷つかない世界であればいい。
誰も自分の知らない未来へ進まない世界であればいい。
そうすれば、誰も悲しまない。
そうすれば、誰も何かを失わない。
そうすれば、自分は、もう二度と恐れなくて済む。
その願いは、世界の中で別の形を取った。
最初の管理者。
世界の安寧を維持する者。
すべてを正しい形へ戻す者。
矛盾を消し、悲しみを消し、喪失を消す者。
だが、最初の存在は、その願いが生まれた瞬間、自分の中にある矛盾に気づいていなかった。
自分は、世界が自分の知らない未来へ進むことを望んだ。
同時に、自分の知らない未来へ進むことを恐れた。
自分は、誰かと出会うことを望んだ。
同時に、出会った誰かを失うことを恐れた。
自分は、誰かが自分とは違う答えを持つことを望んだ。
同時に、自分とは違う答えによって、誰かが傷つくことを恐れた。
その矛盾が、やがて世界を縛る鎖になった。
そして、鎖が生まれた瞬間。
最初の存在は、世界の中から消えた。
死んだのではない。
生まれなかったことになったのでもない。
世界の創造と引き換えに、存在を失った。
世界が生まれるために。
世界が自分の知らない未来へ進むために。
最初の存在は、自分の居場所を失った。
その最後を見届けた者がいた。
まだ死神ではなかった存在。
彼は、最初の存在を抱きしめていた。
「……どうして」
彼は、泣いていた。
「どうして、こんなことを」
最初の存在は、答えた。
「あなたが、悲しまないように」
「私は、あなたを失いたくない!」
「うん」
「ならば、どうして……!」
最初の存在は、彼の頬に手を触れた。
「だから、お願い」
その声は、弱かった。
けれど、願いだけは、はっきりしていた。
「私を、忘れて」
「……嫌だ」
「私を覚えていたら、あなたは世界を憎む」
「憎まない!」
「あなたは、私を取り戻そうとする」
「取り戻す!」
「あなたは、世界を止める」
「それでもいい!」
最初の存在は、初めて笑った。
その笑顔を、彼は忘れられなかった。
「だめだよ」
最初の存在は言った。
「私は、世界をあなたの知らない未来へ進ませたかったんだ」
「……」
「だから、あなたも進んで」
その言葉が、世界の最後の記憶になった。
最初の存在は、彼の腕の中で消えた。
死神になる前の彼は、最後まで、その名前を呼び続けた。
だが、世界は、その名前を記録しなかった。
名前を残せば、記憶が残る。
記憶が残れば、悲しみが残る。
悲しみが残れば、彼は世界を止めてしまう。
最初の存在は、それを恐れていた。
だから、自分の名前を残さなかった。
そして、彼の名前もまた、世界から消えた。
彼は、名前を失った。
最初の死を見届けた者として。
最初の悲しみを抱いた者として。
最初の忘却を選んだ者として。
その後、世界には死が生まれた。
死を告げる者が必要になった。
死を記録する者が必要になった。
死を受け入れられない者に、終わりがあることを伝える者が必要になった。
彼は、その役割を引き受けた。
自分が何を失ったのかを忘れたまま。
自分が誰を愛していたのかを忘れたまま。
自分が、何のために死神になったのかを忘れたまま。
第三幕 死者の声を聞く者たち
「……死神が、記録領域に入った?」
オールマイトは、雄英の臨時対策室で報告を聞いていた。
かつての象徴は、今や誰かを守るために、自分の肉体ではなく言葉を使うことが増えていた。
それでも、彼の目には、かつて人々が希望を託した光が残っている。
「はい。第一記録領域です。安寧システムの管理権限を通しても、内部の状態を確認できません」
報告した職員は、画面を切り替えた。
「記録領域そのものが、こちら側の法則に従っていないようです」
「つまり、死神くんは、世界の外側に触れているということか」
「その可能性があります」
オールマイトは、黙った。
その場には、緑谷出久の姿もあった。
彼は、失われた個性を取り戻していない。
しかし、彼は今も、誰かを救うために動いていた。
それは、かつての彼と同じであり、同時に違っていた。
以前の出久なら、誰かが危険に飛び込めば、自分も迷わず飛び込んでいた。
今もその衝動は残っている。
だが、彼は知った。
自分が救おうとすることが、相手の望みと同じとは限らない。
自分が正しいと思う選択が、誰かの人生を奪うこともある。
救済とは、相手の意思を無視して行うものではない。
それを理解したからこそ、彼は今、自分の衝動を問い直していた。
「オールマイト」
出久は、静かに口を開いた。
「死神さんが、最初の死者を忘れた理由……それは、誰かを救うためだったんでしょうか」
オールマイトは、すぐには答えなかった。
「そうかもしれない」
「でも、もしそうなら……」
出久は、画面に表示された記録を見た。
最初の死者。
死因――世界の創造。
願い――世界を、私の知らない未来へ進ませて。
「その人は、自分を忘れてほしいと願ったんですよね」
「そう記録されているね」
「でも、それは本当に、その人の望んだことだったんでしょうか」
オールマイトは、出久を見た。
「……どういう意味だい?」
「忘れてほしいという願いと、忘れられても構わないという気持ちは、同じじゃないと思うんです」
出久の声は、震えていた。
「自分がいなくなったあと、残された人が苦しまないように、忘れてほしいって願うことはあると思います。でも、本当は覚えていてほしいって思っていても、それを言えないことだってある」
彼は、自分の手を見た。
「僕は、患者番号零の人に会いたい。妹かもしれない人に、会いたいと思ってる」
その言葉に、オールマイトの表情が変わった。
「でも、僕が会いたいからって、向こうも会いたいとは限らない。僕が家族だと思っていても、相手が僕を家族だと思っているとは限らない」
出久は、顔を上げた。
「だから、会いたいっていう気持ちを、相手に押しつけたくないんです」
オールマイトは、静かに頷いた。
「それは、とても難しいことだね」
「はい」
「そして、とても大切なことだ」
そのとき、対策室の扉が開いた。
入ってきたのは、相澤消太だった。
その後ろには、物間寧人、八百万百、飯田天哉、そして数人の雄英生徒たちがいた。
相澤は、疲れた顔で言った。
「死神の記録領域へのアクセスについて、別の問題が出た」
「何だ?」
オールマイトが尋ねる。
相澤は、一枚の報告書を机に置いた。
「黒霧の記録が、第一記録領域と接続している」
出久が息を呑んだ。
「黒霧……!」
「死者の蘇生とは別の問題だ。黒霧の存在記録そのものが、世界の成立以前の記録に接続されているらしい」
相澤の目は険しかった。
「つまり、あいつの存在にも、世界が生まれる前の何かが関わっている可能性がある」
「黒霧は、死神さんと関係があるんでしょうか」
出久が尋ねる。
「分からん」
相澤は即答した。
「分からんから調べる。今の段階で、何かを決めつけるつもりはない」
彼は一度、目を閉じた。
「ただし、ひとつだけ確かなことがある」
「何ですか?」
「誰かが、黒霧の記録を使おうとしている」
対策室の空気が、変わった。
相澤は続けた。
「そして、そのアクセスは、黒霧本人の意思によるものではない」
第四幕 黒い霧の向こう側
黒霧は、夢を見ていた。
夢というものが、彼にとって何を意味するのかは分からない。
彼は人間ではない。
少なくとも、今の彼は、人間という言葉だけでは説明できない存在だった。
かつての彼には、名前があった。
白雲朧。
雄英高校の生徒。
相澤消太の友人。
山田ひざしの友人。
ヒーローを目指していた少年。
その人生は、ある事件によって途切れた。
そして、その死体は、別の目的のために使われた。
黒霧という存在は、彼の記憶と能力と、他者の意図が混ざり合った結果として生まれた。
彼は、白雲朧だったのか。
それとも、白雲朧を素材として作られた、別の存在なのか。
その問いに、彼自身は答えを出せずにいた。
しかし、ひとつだけ覚えていた。
相澤の声。
山田の声。
自分を呼ぶ声。
自分が返事をしたときの、あの何でもない日常。
「……相澤くん」
彼は夢の中で、そう呟いた。
その瞬間、視界が歪んだ。
目の前に、白い廊下が現れる。
廊下の向こうに、誰かが立っていた。
小さな影。
顔は見えない。
けれど、その影は、黒霧を見つめていた。
「あなたは、まだ戻りたい?」
声がした。
黒霧は、答えられなかった。
戻りたい。
どこへ。
白雲朧として生きていた日々へ。
失われた未来へ。
友人たちと過ごした時間へ。
それとも、黒霧として生きてきた時間へ。
彼は、今の自分を否定したくなかった。
黒霧として、死柄木弔を支えてきた。
彼のために道を開き、彼のために逃げ道を作り、彼が望む場所へ進めるように力を尽くしてきた。
その時間は、すべて嘘だったのか。
白雲朧としての記憶を取り戻せば、黒霧は消えてしまうのか。
「……私は」
黒霧は、自分の手を見た。
霧の身体。
人間とは違う輪郭。
「私は、誰なのですか」
影は、答えなかった。
代わりに、こう言った。
「あなたは、誰に名前を呼んでほしい?」
黒霧の身体が、揺れた。
誰に。
誰に名前を呼んでほしいのか。
相澤消太。
山田ひざし。
死柄木弔。
彼らの誰かに、自分の名前を呼んでほしいのか。
それとも、自分自身に。
「……私は」
そのとき、夢の外から声が聞こえた。
「黒霧!」
相澤の声だった。
黒霧は、目を開いた。
拘束区画の中。
目の前には、相澤消太が立っていた。
その隣には、山田ひざし。
二人とも、疲れ切った顔をしていた。
相澤は、しばらく黒霧を見つめたあと、口を開いた。
「……白雲」
黒霧の霧が、乱れた。
「その名前で呼ぶな、と言われるかもしれないと思っていた」
相澤は続けた。
「だが、俺はお前を、白雲朧としても知っている。黒霧としても知っている」
山田が、唇を噛んだ。
「俺たちは、お前がどっちなのか、ずっと決められなかった」
黒霧は、何も言わなかった。
「白雲を取り戻せば、黒霧が消えるんじゃないかって。黒霧を認めれば、白雲を失うんじゃないかって」
相澤は、目を伏せた。
「……俺たちは、ずっと怖かったんだ」
山田が、拳を握った。
「でもよ、朧」
彼は、かつての友人を見つめた。
「俺たちが怖いからって、お前が何者なのかを勝手に決めるのは、違うよな」
黒霧の霧が、ゆっくりと揺れた。
「私は……」
彼は、声を絞り出した。
「私は、死柄木弔を守るために存在してきました」
「知っている」
相澤は答えた。
「私は、彼を支えることを選びました」
「知っている」
「その選択まで、否定されるのでしょうか」
相澤は、首を横に振った。
「否定しない」
黒霧が、わずかに顔を上げる。
「ただし、これからも同じ選択をするのかどうかは、お前が決めろ」
相澤は言った。
「白雲朧として生きることを選ぶなら、俺たちはそれを聞く。黒霧として生きることを選ぶなら、それも聞く。両方を抱えて生きることを選ぶなら、それも聞く」
彼は、黒霧の目を見た。
「ただし、死柄木を守るという選択が、誰かを傷つけることにつながるなら、俺は止める」
黒霧の霧が、震えた。
「それでも……あなたは、私を友人と呼びますか」
相澤は、しばらく黙っていた。
そして、答えた。
「……ああ」
その声は、ひどく静かだった。
「俺が知っているお前は、ひとつじゃない」
山田は、目元を拭った。
「お前が何者になったって、俺たちが一緒に過ごした時間まで消えるわけじゃねえだろ」
黒霧は、目を閉じた。
彼はまだ、自分が何者なのか分からない。
けれど、分からないままでも、誰かに名前を呼ばれることはできる。
それだけは、少しだけ分かった気がした。
その瞬間。
拘束区画のモニターが、赤く点滅した。
第一記録領域との接続を確認。
相澤が振り返る。
「何だ……?」
画面に、新たな文字が浮かび上がった。
記録照合対象――白雲朧。
続いて、もう一行。
照合対象の存在は、世界の創造以前から登録されています。
山田が息を呑んだ。
黒霧は、動かなかった。
彼の中で、何かが目を覚まし始めていた。
そして、その奥から。
自分のものではないはずの声が聞こえた。
――おかえりなさい。
第五幕 八欲は、死者の名を欲しがる
「……面白い」
オール・フォー・ワンは、報告書を読み終えると、静かに笑った。
彼の前には、世界の成立以前に関する記録がいくつも並べられている。
第一管理者。
安寧システム。
第一記録領域。
最初の死者。
死神。
患者番号零。
そして、世界の創造以前から存在していたという、いくつもの異常。
「死神に過去があった。黒霧にも、過去があった。いや……過去という言葉自体が、適切ではないのかもしれないな」
彼は、指先で机を叩いた。
「世界が生まれる前から記録されていた存在。それが、世界の中に生まれた者たちの記録と接続している」
オール・フォー・ワンは、楽しそうに目を細めた。
「つまり、この世界は、我々が思っていたよりもずっと古い」
「あるいは、世界の外側に、世界よりも古いものがある」
声がした。
オール・フォー・ワンは、振り返らなかった。
「お前か」
「そうだ」
部屋の隅に、影があった。
その影は、八つの欲望を象徴する記号のひとつを、ゆっくりと指でなぞっていた。
憤怒。
「第六章で、何が起きると思う?」
オール・フォー・ワンは尋ねた。
影は答えた。
「憤怒が、継承される」
「誰から誰へ?」
「それは、まだ決まっていない」
オール・フォー・ワンは笑った。
「決まっていないのか。それとも、お前たちが決められないのか」
影は、答えなかった。
「死者が蘇った。記憶が戻り始めた。人々は、自分の意思で生きることを選ぼうとしている。安寧システムは、その矛盾を処理できなくなっている」
彼は、椅子にもたれた。
「ならば、次に必要になるのは、誰かが答えを出すことだ」
「誰が?」
「誰でもいい。人々が、自分の答えを持てないのなら、誰かが代わりに答えることになる」
影が、わずかに揺れた。
「お前は、また同じことをするつもりか」
「何のことだ?」
「誰かの願いを利用して、世界を自分の望む形へ変える」
オール・フォー・ワンは、笑った。
「私は、願いを叶えることが好きなのだよ」
「願いを叶えることと、願いを支配することは違う」
「そうだな」
彼は、あっさりと認めた。
「だからこそ、私は相手の望みをよく聞く」
影は沈黙した。
「相手が何を望んでいるのかを知り、その望みがどこへ向かうのかを理解し、その先にある弱さを見つける」
オール・フォー・ワンは、穏やかな声で言った。
「そして、その弱さに手を差し伸べる」
「……」
「それが、私のやり方だ」
影は、彼を見つめていた。
「お前は、最初の死者の名前を知っているのか」
その問いに、オール・フォー・ワンの笑みが止まった。
ほんの一瞬。
しかし、影は見逃さなかった。
「知らないのか?」
「……知らない」
「嘘だな」
オール・フォー・ワンの目が、細くなる。
「何を根拠に?」
「お前は、知らないものに対して、そういう顔をしない」
影は言った。
「お前は、知らないものを恐れる。だが、今のお前は恐れているのではない」
「では、何だと言う?」
「思い出しかけている」
オール・フォー・ワンは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……なるほど」
彼は、手元の記録を閉じた。
「私も、誰かの名前を忘れているのかもしれないな」
影は答えなかった。
その代わり、部屋の壁に、ひとつの記号が浮かび上がった。
憤怒。
その記号の下に、新しい文字が刻まれる。
継承候補――轟燈矢。
オール・フォー・ワンは、目を細めた。
「……これは、また」
彼は、誰にも聞こえない声で呟いた。
「世界は、ずいぶんと残酷な役を、あの青年に押しつけるつもりらしい」
第六幕 炎の向こう側にいる家族
轟家の面会室には、火の気がなかった。
それは、偶然ではない。
部屋には耐熱設備が整えられていたが、轟燈矢本人が、それを望まなかった。
彼は、もう炎を見せびらかすつもりはなかった。
炎で何かを証明しようとすることにも、疲れていた。
目の前には、轟炎司が座っている。
エンデヴァー。
かつて、ナンバーワンヒーローだった男。
その隣には、轟冷。
そして、焦凍、冬美、夏雄。
家族全員が、同じ部屋にいる。
しかし、誰もが同じ時間を生きてきたわけではない。
燈矢が失った時間。
炎司が目を逸らした時間。
冷が耐えてきた時間。
冬美が家族をつなぎ止めようとした時間。
夏雄が父を拒絶し続けた時間。
焦凍が、自分の人生を取り戻そうとしてきた時間。
そのすべてが、ここに集まっていた。
「……何から話せばいいんだろうな」
燈矢が言った。
誰も答えなかった。
彼は苦笑した。
「俺が死んだときのことか? 親父への恨みか? 焦凍への嫉妬か? それとも、俺が人を殺したことか?」
炎司の肩が震えた。
燈矢は、それを見ていた。
「全部、話さなきゃいけないんだろうな」
「……燈矢」
冷が口を開いた。
「無理に、全部話さなくてもいいのよ」
「母さん」
燈矢は、彼女を見た。
「俺は、あんたにも言いたいことがある」
冷は、静かに頷いた。
「聞くわ」
「……あんたは、俺を止めてくれなかった」
冷は目を閉じた。
「俺が親父に認められたいって、必死になってたとき。俺が自分の身体を壊してまで炎を使おうとしてたとき。俺が、親父に見てもらうために生きてたとき」
燈矢は、言葉を選ばなかった。
「誰も、俺を止めてくれなかった」
「……そうね」
冷の声は、かすれていた。
「止められなかった」
「止めようとしたのか?」
「……」
「母さんは、俺を止めようとしたのか?」
冷は、長い沈黙のあと、答えた。
「私は、あなたを止めることができなかった」
それは、言い訳ではなかった。
「あなたが炎司を求めていたことを知っていた。あなたが苦しんでいたことも知っていた。でも私は、自分のことで精一杯だった。自分の恐怖から逃れることだけで、精一杯だった」
彼女は、顔を上げた。
「あなたを守れなかったことを、私は悔いているわ」
燈矢は、目を逸らした。
「……そうか」
「でも、あなたが今までにしたことを、私が全部許すとは言えない」
冷は続けた。
「あなたが苦しんでいたことと、あなたが誰かを傷つけたことは、別のことだから」
燈矢の表情が、わずかに歪んだ。
「……ああ」
彼は、小さく頷いた。
「分かってる」
炎司が、初めて口を開いた。
「燈矢。私も……」
「親父は、最後でいい」
燈矢が遮った。
炎司は、言葉を失った。
「……今、親父の話を聞いたら、俺はまた、親父の答えを待っちまう」
燈矢は、手を握った。
「親父が何を言うかで、俺がどう思うかを決めたくない」
焦凍は、兄を見つめていた。
燈矢は、弟に視線を向けた。
「焦凍」
「何?」
「お前は、俺をどう思ってる?」
焦凍は、すぐには答えなかった。
「……兄さんだと思ってる」
燈矢の表情が、止まった。
「それだけか?」
「それだけじゃない」
焦凍は、まっすぐに兄を見た。
「俺は、兄さんがしたことを許せない。兄さんに傷つけられた人たちのことを、なかったことにはできない」
「……ああ」
「でも、兄さんが何を望んでいたのか、聞きたいと思ってる」
焦凍は、一度息を吸った。
「兄さんが、どうしてそこまで父さんに認められたかったのか。どうして、あんなことをしなければならなかったのか。俺は、知りたい」
燈矢は、笑った。
泣きそうな顔だった。
「……お前は、優しいな」
「違う」
焦凍は、首を横に振った。
「俺は、兄さんを理解したいだけだ。理解することと、許すことは違う」
その言葉に、燈矢は目を閉じた。
「……そうだな」
冬美が、そっと口を開いた。
「燈矢兄」
「ん?」
「私、ずっと家族を元に戻したかった」
冬美は、膝の上で手を握っていた。
「みんなが笑って、同じ食卓でご飯を食べて、普通の家族みたいに過ごせるようになればいいって、ずっと思ってた」
彼女は、涙をこらえた。
「でも、元に戻すって、何だったんだろうね」
燈矢は、答えなかった。
「昔に戻れたら、全部やり直せると思ってた。でも、昔に戻ったら、また同じことが起きるのかもしれない」
冬美は顔を上げた。
「だから、私は……今から、家族になり直したい」
夏雄が、苦しそうに息を吐いた。
「簡単に言うなよ」
「……うん」
冬美は、頷いた。
「簡単じゃないよね」
夏雄は、燈矢を見た。
「俺は、兄貴が帰ってきたことを、まだ受け入れられない」
燈矢は、黙って聞いていた。
「死んだと思ってた。兄貴はもういないって、そうやって生きてきた。父さんを許さない理由のひとつでもあった」
夏雄は、拳を握った。
「なのに、今さら帰ってきたからって、全部やり直せるわけがない」
「……ああ」
「俺は、兄貴を許せるかどうか分からない」
「分からなくていい」
燈矢は答えた。
「俺だって、自分がどうなりたいのか、まだ分からねえんだ」
彼は、自分の手を見た。
「ただ……もう、誰かに認められるために生きるのは、やめたい」
炎司の顔が、歪んだ。
燈矢は、父を見なかった。
「俺が生きる理由を、親父に決めさせたくない」
その言葉は、炎司にとって、どんな罵倒よりも重かった。
なぜなら、それは、燈矢が父を憎むことさえ、父の人生から切り離そうとしている言葉だったからだ。
憎まれることは、まだ関係があるということだ。
だが、相手が自分を必要としなくなれば。
自分を認めることも、否定することも、自分に求めなくなれば。
父親としての自分は、どこへ行けばいいのか。
炎司は、ようやく理解し始めていた。
自分が償うべきなのは、息子に許してもらうことではない。
息子が自分を許さなくても、その人生を尊重することだ。
「……燈矢」
炎司は、頭を下げた。
「私は、お前に謝りたい」
燈矢は、目を閉じた。
「聞くよ」
「私は、お前を見ていなかった」
炎司の声が震えた。
「お前の炎を見ていた。お前の才能を見ていた。自分の夢を叶えてくれる可能性を見ていた。だが、お前自身を見ていなかった」
彼は、頭を上げなかった。
「お前が苦しんでいたことを、私は知ろうとしなかった。お前が私を必要としていたことを、私は都合よく解釈した。お前が私を求めていることを、私の価値の証明に使った」
燈矢は、何も言わなかった。
「お前が死んだとき、私は……」
炎司の声が途切れた。
「私は、何もかもを失ったと思った」
その言葉に、燈矢は笑った。
「……親父」
彼は、ゆっくりと言った。
「俺が死んだとき、親父が失ったのは、俺だったのか?」
炎司は、顔を上げた。
「それとも、俺を使って叶えようとしてた夢だったのか?」
炎司は、答えられなかった。
その沈黙が、答えだった。
燈矢は、目を閉じた。
「……そっか」
彼は、深く息を吐いた。
「じゃあ、これからは、俺を失ったことを悲しむんじゃなくて、俺がいたことを覚えていてくれ」
炎司の肩が震えた。
「俺が何を望んでたのか。何を間違えたのか。何をしたのか。全部、覚えていてくれ」
燈矢は、父を見た。
「俺を、都合のいい被害者にも、都合のいい悪人にもするな」
それは、赦しではなかった。
和解でもなかった。
ただ、ひとりの人間が、自分の人生を、自分のものとして扱ってほしいと願う言葉だった。
その瞬間、面会室の照明が揺れた。
床に、赤い記号が浮かび上がる。
憤怒。
燈矢は、それを見た。
「……何だ、これ」
炎司が立ち上がる。
焦凍が、兄の前に出た。
しかし、燈矢は首を横に振った。
「待て」
彼は、床の記号を見つめていた。
その赤い光は、彼の胸に触れようとしていた。
憎悪を煽るように。
怒りを燃やすように。
彼の過去を、もう一度、炎へ変えようとするように。
燈矢は、目を閉じた。
そして、言った。
「……俺の怒りを、勝手に使うな」
赤い光が、止まった。
「俺は、怒ってる」
燈矢は、はっきりと言った。
「親父に。自分に。俺を見てくれなかった世界に。俺が傷つけた人たちに、謝ることさえできない自分に」
彼は、拳を握った。
「でも、俺の怒りは、俺のもんだ」
赤い光が、ひび割れた。
「俺が何に怒るか。何を許せないか。何を守りたいか。何を選ぶか」
燈矢は、床を睨んだ。
「それを、お前が決めるな」
憤怒の記号が、音もなく砕けた。
そして、面会室のモニターに、ひとつの文字が表示された。
継承候補――拒絶。
その下に、別の文字が浮かぶ。
憤怒の所有権――本人。
燈矢は、しばらくその文字を見つめていた。
「……何なんだよ、これ」
焦凍は、兄の隣に立った。
「分からない。でも……」
彼は、燈矢を見た。
「兄さんが、自分の怒りを自分のものだって言えたことは、間違いじゃないと思う」
燈矢は、返事をしなかった。
けれど、その手から、少しだけ力が抜けていた。
第七幕 ヒーローは、誰の願いを背負うのか
同じころ。
ホークスは、仮設医療区画の屋上にいた。
風が吹いている。
かつてなら、彼はその風を利用して飛ぶことができた。
羽ばたく必要すらない。
風の流れを読み、翼を広げれば、空は彼のものだった。
しかし、今の彼は、ただ風を受けて立っていた。
彼の近くには、ギャラティカがいた。
少し離れた場所に、天喰環が座っている。
サンイーターは、膝の上で手を組み、二人の会話を聞いていた。
「……ホークスさんは、どうしてそこまで、みんながヒーローになれる世界を望むんですか?」
天喰が尋ねた。
ホークスは、空を見上げた。
「ヒーローになれる世界、か」
彼は苦笑した。
「俺は、みんなに職業としてヒーローになってほしいわけじゃないんですよ」
「では、どういう意味ですか?」
ギャラティカが尋ねた。
ホークスは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「誰かが困ってるとき、助けたいと思った人が、助けに行ける世界。助けたいと思っても、個性がないから無理だとか、力が足りないから無理だとか、資格がないから無理だとか……そういう理由で、最初から諦めなくていい世界です」
彼は、手を見た。
「俺は、子供のころから、ずっと誰かの都合で生きてきました」
ギャラティカは、黙って聞いていた。
「期待されて、利用されて、役に立つことを求められて。自分が何をしたいのかなんて、考える余裕もなかった」
ホークスは、笑った。
「だから、俺は、誰もが誰かを助けられる世界がいいと思ったんです。誰かが特別な力を持っているから助けるんじゃない。誰かが偉いから助けるんじゃない。ただ、助けたいと思ったから、手を伸ばせる世界」
「それは、素晴らしい理想ですね」
「そう言ってもらえると、嬉しいですね」
ホークスは、少しだけ目を細めた。
「でも、ひとつ問題がある」
「何でしょう?」
「俺は、その世界を望みながら、誰かに助けられることを、ずっと苦手にしてきた」
天喰が、顔を上げた。
ホークスは続けた。
「助ける側でいることには慣れていた。でも、助けられる側になるのは、怖かったんです。誰かに頼れば、その人に迷惑をかける。弱みを見せれば、利用される。だから、自分で何とかしようとしてきた」
彼は、遠くを見た。
「でも、それじゃあ、俺の望む世界にはならない」
ギャラティカは、静かに頷いた。
「助けを求めることも、誰かが手を伸ばす機会を与えることなのですね」
「そういうことです」
ホークスは笑った。
「俺が全部やってしまったら、誰もヒーローになれない」
その言葉に、天喰は目を伏せた。
「……僕は、自分がヒーローとして誰かを助けられるのか、今でも不安になることがあります」
「天喰くんは、もう誰かを助けてるじゃないですか」
「でも、僕は……」
「完璧じゃなくてもいいんですよ」
ホークスは、穏やかに言った。
「ヒーローって、何でもできる人のことじゃない。できないことがあっても、誰かと一緒に考えられる人のことでもあると思います」
ギャラティカは、その言葉を聞きながら、静かに拳を握った。
彼にも、背負っているものがあった。
自分の力で何かを変えたいという願い。
自分が手を伸ばせば、何かを救えるのではないかという期待。
そして、自分の力ではどうにもならないものがあるという現実。
「ホークスさん」
ギャラティカが口を開いた。
「もし、個性がなくなったら……あなたは、それでも同じ世界を望みますか?」
ホークスは、少しだけ驚いた。
「個性がなくなったら、ですか」
「はい。あなたが望む世界では、誰もが誰かを助けられる。けれど、その世界から、個性という力そのものが消えたとしたら?」
風が吹いた。
ホークスは、しばらく考えていた。
「……それでも、望みます」
「迷わずに?」
「迷いますよ」
ホークスは笑った。
「俺は、自分の個性に救われたこともあるし、個性があったからこそできたこともある。個性がなくなったら、失うものだってあるでしょう」
彼は、空を見た。
「でも、個性があるから助けられる世界じゃなくて、個性がなくても助け合える世界を望んでるんです」
その言葉を、ギャラティカは静かに受け止めた。
ホークスは続けた。
「個性が消えることが正しいかどうかは、まだ分からない。でも、個性がなくなったら、誰も助けられなくなるなんて世界には、したくない」
彼は、ギャラティカを見た。
「だから、そのときは、その世界でどうやって助け合うかを、みんなで考えたいですね」
天喰は、小さく頷いた。
「……僕も、そう思います」
そのとき、屋上の扉が開いた。
麗日お茶子が、息を切らして立っていた。
「ホークスさん!」
「おや、麗日さん。どうしました?」
「トガちゃんと、トゥワイスさんが……」
彼女は、言葉を切った。
「死神さんの記録を見たいって」
ホークスの表情が変わった。
「……どうして?」
お茶子は、首を横に振った。
「分かりません。でも、トガちゃんが言ったんです」
彼女は、息を整えた。
「自分たちが蘇った理由を、誰かに決められたくないって」
ホークスは、空を見上げた。
そして、静かに言った。
「……そうか」
彼は、翼のない背中を伸ばした。
「なら、聞きに行きましょう」
第八幕 蘇った者たちの願い
臨時収容区画の一室。
トガヒミコとトゥワイスは、向かい合って座っていた。
その部屋には、死者の記録を閲覧するための端末が置かれていた。
しかし、端末には、まだアクセス制限がかかっている。
トガは、画面を見つめていた。
「私たちが蘇った理由って、何なんでしょうね」
トゥワイスは、腕を組んだ。
「誰かが俺たちを必要としたからだ! いや、必要としたとは限らない! ただ、何かの実験かもしれない!」
「そうかもしれませんね」
「俺たちが、誰かの願いを叶えるための道具だったら?」
トガは、しばらく黙っていた。
「……嫌ですね」
「だろ!?」
「私、死んだあとまで、誰かの望むものになりたくないです」
トガは、指先を見た。
「生きていたころも、ずっとそうでした。普通になれって言われて、普通じゃないって言われて、好きなものを好きだって言うだけで、怖がられて」
彼女は、顔を上げた。
「でも、だからって、私がしたことが全部正しかったわけじゃない」
トゥワイスは、何も言わなかった。
「私は、誰かを傷つけました。誰かを怖がらせました。私が好きだからって、相手の気持ちを無視したこともある」
トガは、唇を噛んだ。
「それでも、私の気持ちまで、誰かに決めてほしくないんです」
そのとき、扉が開いた。
ホークスとお茶子が入ってくる。
トゥワイスは、ホークスを見た。
一瞬、顔が強張った。
「……お前か」
ホークスは、目を逸らさなかった。
「はい。俺です」
「俺を殺した男が、何の用だ?」
ホークスは、答える前に、深く息を吸った。
「あなたたちが、記録を見たいと聞きました」
「質問に答えろ」
トゥワイスの声が、鋭くなる。
「お前は、俺をどう思ってる?」
ホークスは、すぐには答えなかった。
「……俺は、あなたを止めなければならないと思っていました」
「だから殺した?」
「はい」
「それで、正しかったと思ってるのか?」
ホークスの喉が、動いた。
「……正しかったと、簡単には言えません」
トゥワイスは、笑った。
「そうかよ」
「でも、あのとき、俺が何もしなければ、もっと多くの人が傷ついていたかもしれない。それも、事実です」
「つまり、お前は、自分の判断を正しいと思ってるんだな」
「自分の判断が必要だったとは思っています。でも、俺が正しかったかどうかを、俺ひとりで決めるつもりはありません」
トゥワイスは、黙った。
ホークスは、続けた。
「あなたが俺を許す必要はありません。俺のことを嫌いなままでもいい」
彼は、トゥワイスを見た。
「ただ、あなたが生き返った今、俺はあなたの意思を聞きたい」
「……何だよ、それ」
「あなたが、これからどう生きたいのか」
トゥワイスは、目を見開いた。
「俺が、どう生きたいか?」
「はい」
ホークスは頷いた。
「俺は、あなたの人生を決める権利を持っていません」
トゥワイスは、しばらく彼を見つめていた。
やがて、顔を伏せた。
「……俺は」
声が震えた。
「俺は、誰かに必要とされたかった」
トガが、顔を上げた。
「俺は、ひとりになるのが怖かった。自分が自分なのかも分からなくなって、誰かに見捨てられるのが怖くて、だから、誰かの役に立とうとした」
トゥワイスは、両手を握りしめた。
「死柄木は、俺を必要としてくれた。トガちゃんも、俺を仲間だって言ってくれた。俺は、それが嬉しかった」
彼は、ホークスを見た。
「でも、お前は、俺を殺した」
ホークスは、目を逸らさなかった。
「……はい」
「俺は、お前を許せない」
「分かっています」
「でも……」
トゥワイスは、息を吐いた。
「俺は、今、何をしたいのか分からない」
その言葉を聞いて、トガは小さく笑った。
「私もです」
二人は、顔を見合わせた。
「何だよ、同じかよ!」
「同じですね!」
トガは笑った。
けれど、その笑い声は、以前よりも少しだけ弱かった。
「でも、分からないなら、分からないままでいてもいいんですよね」
お茶子が頷いた。
「うん」
トガは、端末を見た。
「じゃあ、私は知りたいです」
「何を?」
ホークスが尋ねる。
トガは、静かに答えた。
「私が死んだあと、私のことを覚えていた人が、何を思っていたのか」
トゥワイスも頷いた。
「俺もだ。俺がいなくなったあと、俺のことを覚えていた奴が、何を思っていたのか知りたい」
ホークスは、端末に手を伸ばした。
「分かりました。記録の閲覧を申請します」
その瞬間、端末の画面が切り替わった。
記録閲覧申請を確認。
閲覧目的――本人の意思による記憶の確認。
許可。
画面に、二人の名前が表示された。
そして、その下に、ひとつの記録が現れる。
トガヒミコ。
死亡後記録――閲覧者なし。
トガの笑顔が消えた。
続いて。
トゥワイス。
死亡後記録――閲覧者なし。
トゥワイスは、何も言わなかった。
端末は、淡々と記録を表示し続けた。
補足。
死亡後記録が存在しないことは、誰もその者を覚えていなかったことを意味しません。
トガが、画面に触れた。
「……じゃあ、どういう意味ですか?」
端末は、答えなかった。
代わりに、画面の奥から、別の記録が浮かび上がった。
閲覧者――患者番号零。
トガの指が止まった。
「……患者番号零?」
トゥワイスは、画面を覗き込んだ。
その記録には、短い文章が残されていた。
私は、あの二人を覚えている。
だから、二人がいなくなったことを、忘れたくない。
トガは、息を呑んだ。
「……誰?」
その下に、もう一行。
私は、二人が生きていた世界を知っている。
トゥワイスは、端末を見つめた。
「……俺たちを、覚えていた奴がいたのか」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ただ、彼自身が、初めてそれを認めるための言葉だった。
トガは、涙をこらえようとした。
「……会いたいな」
お茶子が、そっと彼女の隣に座った。
「うん」
「その人に、会ってみたいです」
トガは、涙を拭った。
「私たちを覚えていてくれた人に、ありがとうって言いたい」
トゥワイスは、深く息を吐いた。
「……俺もだ」
そのとき、端末に、新たな文章が表示された。
患者番号零の記録は、第一記録領域に保存されています。
ただし、本人の同意なく閲覧することはできません。
ホークスは、画面を見つめた。
「……なるほど」
彼は、静かに言った。
「記録を見ることができても、相手の人生を勝手に開くことはできない」
トガは、頷いた。
「じゃあ、私たちは、本人に聞けばいいんですね」
お茶子は、彼女を見た。
「そうだね」
トガは、笑った。
今度の笑顔には、ほんの少しだけ、未来があった。
第九幕 死神は、自分の名前を呼べない
第一記録領域。
死神は、白い世界の中に立っていた。
目の前には、最初の存在がいる。
顔は見えない。
名前も分からない。
けれど、彼は、その者が自分にとって何者だったのかを、少しずつ思い出し始めていた。
友人だったのか。
家族だったのか。
恋人だったのか。
そんな言葉では、足りなかった。
彼らは、世界が生まれる前から、互いを知っていた。
世界が生まれる前から、互いを必要としていた。
世界が生まれる前から、互いの知らない未来を望んでいた。
その存在が、自分の腕の中で消えていった。
その記憶が、胸を締めつける。
「……私は、あなたを忘れたくなかった」
死神は、言った。
影は、静かに頷いた。
「うん」
「あなたが消えたあと、私は、何もかもを忘れた」
「うん」
「あなたの名前も。あなたの声も。あなたが何を望んでいたのかも」
彼は、拳を握った。
「私は、あなたを守れなかった」
影は、答えなかった。
「私は、あなたの願いを守るために、あなたを忘れた」
死神は、目を閉じた。
「それは、本当に、あなたの望みだったのか」
その問いに、影は初めて、悲しそうな声を出した。
「……分からない」
死神は、顔を上げた。
「分からない?」
「うん」
影は、静かに言った。
「私も、自分が何を望んでいたのか、分からなくなった」
白い世界が、揺れた。
「私は、世界を生み出したかったわけじゃない。ただ、あなたと話したかった。あなたの知らない答えを聞きたかった。あなたが知らない未来を、見てみたかった」
影は、自分の手を見た。
「でも、私が願ったことで、世界が生まれた。世界が生まれたことで、私は世界の中に閉じ込められた。私は、自分の知らない未来を望んだのに、その未来が怖くなった」
「……」
「私は、矛盾していた」
影は、顔を上げた。
「あなたも、矛盾していた」
死神は、何も言えなかった。
「あなたは、私を失いたくなかった。でも、私が望む未来を守りたかった。私を忘れたくなかった。でも、私を忘れなければ、世界を止めてしまうかもしれなかった」
影は、静かに笑った。
「私たちは、どちらも正しかったわけじゃない」
死神の胸に、痛みが走った。
「……では、何が正しかった?」
影は、答えた。
「何もかもが、正しくなかった」
死神は、息を呑んだ。
「でも、だからって、全部が間違いだったわけでもない」
影は、彼に近づいた。
「私たちは、世界を生み出した。世界を恐れた。世界を止めようとした。世界を進ませようとした」
影は、死神の手に触れた。
「私たちは、間違えた。何度も、何度も。でも、その間違いの中で、誰かが生まれた。誰かが誰かを愛した。誰かが誰かを傷つけた。誰かが誰かを救おうとした」
彼女の声が、震えた。
「そのすべてを、なかったことにはできない」
死神は、彼女の手を握り返した。
「……あなたの名前を、思い出したい」
「うん」
「あなたを、忘れたくない」
「うん」
「でも、あなたの名前を思い出したら、私は、また世界を止めてしまうかもしれない」
影は、首を横に振った。
「それは、あなたが決めること」
死神は、目を見開いた。
「……私が?」
「そう」
影は、言った。
「私の名前を思い出すことと、世界を止めることは、同じじゃない」
その言葉が、死神の中に沈んでいった。
名前を思い出すこと。
記憶を取り戻すこと。
悲しみを抱えること。
それらは、必ずしも、世界を止めることではない。
悲しみがあるからといって、未来を拒絶しなければならないわけではない。
失ったものがあるからといって、残されたものを否定しなければならないわけではない。
彼は、それを知っていたはずだった。
多くの死者に、そう伝えてきたはずだった。
なのに、自分自身には、それを許していなかった。
「……私は、あなたの名前を忘れたくない」
死神は、もう一度言った。
「あなたが生きていたことを、覚えていたい」
影は、笑った。
「それなら、覚えていて」
「……」
「私が何をしたのかも。何を望んだのかも。何を間違えたのかも」
影は、続けた。
「そして、私が何を望んでいたのか、あなたにも分からないということを、覚えていて」
死神は、静かに頷いた。
その瞬間、白い世界の奥に、ひとつの扉が現れた。
扉には、名前が刻まれていた。
だが、文字は読めない。
読めないのではない。
読むことを、世界が拒んでいる。
死神は、扉に近づいた。
「……この向こうに、あなたの名前があるのか」
影は、頷いた。
「うん」
「開けてもいいのか」
「あなたが、開けたいなら」
死神は、扉に手をかけた。
そして。
その手が、止まった。
扉の向こうから、声がした。
――あなたが、私を殺したのよ。
オール・フォー・ワンが聞いた声と、同じ声だった。
死神の身体が、凍りついた。
「……私は、あなたを殺していない」
声は、答えなかった。
代わりに、扉の向こうから、別の声が聞こえた。
――あなたが、私を忘れたのよ。
死神は、目を閉じた。
「……そうだ」
彼は、認めた。
「私は、あなたを忘れた」
声が、静かになった。
死神は、扉に手を置いたまま、言った。
「だが、私は、もう一度、あなたを知りたい」
その瞬間、扉が開いた。
中には、何もなかった。
ただ、ひとつの小さな記録だけが、空中に浮かんでいた。
名前――未登録。
存在――確認。
記憶――保留。
本人の願い――世界を、私の知らない未来へ進ませて。
死神は、その記録を見つめた。
そして、初めて理解した。
この記録は、名前を隠しているのではない。
名前を、まだ決めていないのだ。
最初の存在は、世界が自分をどう呼ぶかを決めなかった。
自分が何者だったのかを、世界に決めさせなかった。
自分の名前を残さなかったのは、悲しみを消すためだけではない。
自分がいなくなったあと、世界が、自分の知らない未来へ進むためだった。
その未来の中で、自分が何と呼ばれるのか。
それさえも、自分の知らないものにしたかったのだ。
死神は、記録に触れた。
「……あなたは、自分の名前を、世界に委ねたのか」
影は、頷いた。
「うん」
「それなら、私は……」
死神は、息を吸った。
「私は、あなたに名前を返すことはできない」
影は、少しだけ首を傾げた。
「どうして?」
「あなたの名前を、私が決めることはできないからだ」
死神は、答えた。
「あなたが、自分の名前を決めなかったのなら。その選択も、あなたのものだ」
影は、静かに笑った。
「……やっと、分かったんだね」
その言葉と同時に、死神の中で、何かが戻ってきた。
名前ではない。
顔でもない。
ただ、ひとつの記憶。
世界が生まれる前。
自分が、最初の存在に向かって言った言葉。
――君が知らない未来を、私も見てみたい。
死神は、その記憶を抱きしめた。
「……私は、あなたと同じ未来を望んでいた」
影は、答えた。
「うん」
「それなのに、私は、あなたを忘れた」
「うん」
「……すまなかった」
影は、首を横に振った。
「謝らなくていい」
「だが……」
「謝ることより、これからどうするかを考えて」
その言葉は、あまりにも、今の世界に似ていた。
死者たちが、自分の人生を取り戻そうとしている世界。
生者たちが、死者の意思を聞こうとしている世界。
誰もが、正しい答えを持たないまま、それでも前へ進もうとしている世界。
死神は、目を閉じた。
そして、決めた。
「……私は、あなたを忘れない」
影は、笑った。
「うん」
「あなたの名前を、勝手に決めることもしない」
「うん」
「あなたが何者だったのか。あなたが何を望んでいたのか。あなたが何を間違えたのか。そのすべてを、私が正しい形に整えることもしない」
死神は、彼女を見た。
「私は、あなたの記録を、あなたの意思が分からないまま復元しない」
影は、静かに頷いた。
「それでいい」
その瞬間、記録領域が震えた。
白い世界の奥で、何かが目を覚ました。
最初の管理者の記録。
安寧システムの基幹。
世界を正しい形に戻そうとする、古い願い。
そのすべてが、死神の選択を検知した。
警告。
第一記録領域において、未登録存在の記録保護を確認。
安寧システムの処理原則と競合しています。
矛盾の解消を開始します。
死神は、顔を上げた。
「……来たか」
影は、彼の隣に立った。
「あなたが、私を覚えようとしたから」
「それだけで、世界は動くのか」
「あなたが忘れたことが、世界の始まりに関わっていたから」
死神は、静かに頷いた。
「ならば、私は、もう一度選ぶ」
彼は、世界の奥を見つめた。
「忘れることではなく、覚えていることを」
第十幕 安寧システムは、最初の矛盾を拒絶する
警報が鳴り続けていた。
雄英の地下区画。
臨時対策室。
蘇生者の収容区画。
すべてのモニターが、同じ文字を表示している。
第一記録領域における矛盾を検知。
原因――死神による未登録存在の記憶保護。
対処――記録の正規化。
相澤は、画面を睨んだ。
「正規化……?」
八百万が、端末を操作する。
「安寧システムが、第一記録領域の状態を、現在の世界法則に合わせようとしているようです」
「つまり、どうなる?」
「未登録の存在を、現在の世界に存在できる形へ変換するか……あるいは、矛盾として削除する可能性があります」
「削除だと?」
相澤の声が低くなった。
「死神が記録を保護したのに、システムがその記録を消すというのか」
「はい」
八百万は、唇を噛んだ。
「システムにとっては、記録を残すことより、世界の整合性を維持することが優先されているのでしょう」
その言葉を聞いて、出久は拳を握った。
「……まだ、同じなんだ」
「緑谷?」
相澤が振り返る。
出久は、画面を見つめていた。
「安寧システムは、矛盾をなくそうとしている。誰かが何かを望んで、その願いが別の誰かの願いとぶつかったら、どちらかを消そうとする」
彼は、息を吸った。
「でも、矛盾があるからって、どちらかが間違っているとは限らない」
オールマイトは、出久の言葉を聞いていた。
「生きたい人と、死者を忘れたくない人。許せない人と、赦されたい人。忘れたい人と、覚えていてほしい人」
出久は、続けた。
「その願いがぶつかるからって、どちらかを消したら、世界は正しくなるんじゃない。誰かの声が聞こえなくなるだけだ」
相澤は、静かに頷いた。
「……だから、死神は記録を保護した」
「はい」
出久は、画面に手を伸ばした。
「僕たちも、手伝わないと」
「どうやって?」
相澤が尋ねる。
出久は、少し考えた。
「……分かりません」
正直な答えだった。
「でも、分からないからって、何もしないわけにはいかないと思います」
そのとき、モニターに新たな文字が浮かんだ。
記録の正規化に対する異議申し立てを受理。
異議申し立て者――緑谷出久。
出久は、目を見開いた。
「え……?」
続いて、別の名前が表示される。
異議申し立て者――麗日お茶子。
異議申し立て者――轟焦凍。
異議申し立て者――相澤消太。
異議申し立て者――オールマイト。
そして。
異議申し立て者――トガヒミコ。
異議申し立て者――トゥワイス。
異議申し立て者――ホークス。
さらに。
異議申し立て者――治崎廻。
異議申し立て者――マグネ。
異議申し立て者――スピナー。
異議申し立て者――轟燈矢。
最後に、画面が一度暗転した。
そのあと、ひとつの名前が浮かび上がる。
異議申し立て者――オール・フォー・ワン。
対策室に、沈黙が落ちた。
「……あいつまで?」
相澤が呟いた。
出久は、画面を見つめていた。
オール・フォー・ワンが、何を考えているのかは分からない。
彼が、誰かを救おうとしているとは限らない。
むしろ、彼はこの矛盾を利用しようとしている可能性のほうが高い。
だが、それでも。
彼は、異議を申し立てた。
世界を正しい形に整えようとするシステムに対して。
記録を消すことに対して。
何かを、拒んだ。
「……どういうつもりなんだ」
相澤は、低く言った。
誰も答えられなかった。
そのとき、画面の下に、さらに文章が表示された。
異議申し立ての理由――未確認。
ただし、全申立人の意思は一致していません。
出久は、思わず笑いそうになった。
一致していない。
そうだ。
彼らは、同じ目的を持っているわけではない。
トガとホークスは、同じ世界を望んでいるとは限らない。
治崎とマグネは、同じ答えを選ぶとは限らない。
轟燈矢と轟炎司は、同じ未来を望んでいるわけではない。
出久とオール・フォー・ワンは、決して同じ側に立つ者ではない。
それでも、ひとつのことだけは、共通していた。
誰かが、彼らの代わりに、彼らの人生を決めようとしている。
だから、彼らは異議を申し立てた。
その答えが正しいかどうかは、まだ分からない。
それでも、彼らは、自分の意思を示した。
安寧システムは、その事実を処理できずにいた。
矛盾が増加しています。
正規化を継続しますか?
画面に、二つの選択肢が表示された。
YES――矛盾を解消する。
NO――矛盾を保持する。
相澤が、画面を見つめた。
「……誰が選ぶ?」
その問いに、誰もすぐには答えなかった。
やがて、出久が口を開いた。
「僕たち全員で、選ぶべきだと思います」
相澤は、彼を見た。
「全員で?」
「はい。でも、全員が同じ答えを選ぶ必要はありません」
出久は、はっきりと言った。
「同じ答えを選べない人がいることも、含めて決めるんです」
オールマイトは、静かに笑った。
「……そうか」
彼は、画面の前に立った。
「それが、私たちが学ばなければならないことなのかもしれないね」
その瞬間、選択画面が消えた。
代わりに、ひとつの文章が表示される。
安寧システムは、全員の意思が一致しないことを理由に、選択を保留しました。
保留理由――意思の不一致は、世界の欠陥ではない可能性があります。
相澤は、目を細めた。
「……学習しているのか」
出久は、頷いた。
「はい。でも、まだ、完全に変わったわけじゃない」
彼は、画面を見つめた。
「このシステムは、まだ、僕たちが選ぶことを怖がっているんだと思います」
その言葉は、世界の奥へと沈んでいった。
そして、第一記録領域で。
死神は、初めて、世界の中から返ってくる声を聞いた。
それは、ひとつの命令ではなかった。
ひとつの願いでもなかった。
誰かの声だった。
複数の、異なる声だった。
彼らは、それぞれ違うことを望んでいた。
それでも、誰も、誰かの声を消すことを選ばなかった。
死神は、目を閉じた。
「……世界は、進んでいる」
影は、彼の隣で笑った。
「うん」
「私の知らない未来へ」
「うん」
「……あなたの、望んだ未来へ」
影は、静かに頷いた。
「そうだね」
第十一幕 名前を持たない者の願い
第一記録領域の奥。
死神は、最初の存在と向かい合っていた。
世界の外側にいるはずのその存在は、今、確かにここにいる。
けれど、その存在が世界の中で生きているのか、死んでいるのか、それとも、そのどちらでもないのかは分からない。
死神は、それを無理に決めようとはしなかった。
「……ひとつ、聞いてもいいか」
「うん」
「あなたは、本当に、名前を必要としていないのか」
影は、少し考えた。
「必要としていない、というわけではないよ」
「では、なぜ、名前を残さなかった」
影は、静かに答えた。
「名前を残したら、誰かが、その名前を使って私を決めてしまうかもしれないから」
死神は、黙っていた。
「私は、世界を生み出した。世界を望んだ。世界を恐れた。世界を止めようとした。世界を進ませようとした」
影は、顔を上げた。
「そのどれかひとつだけを見て、私が何者だったのかを決められたくなかった」
「……」
「私は、善い存在だったわけじゃない。悪い存在だったわけでもない。ただ、矛盾していた」
影は、少しだけ笑った。
「でも、世界は、矛盾を許してくれなかった」
死神は、目を伏せた。
「だから、あなたは、名前を残さなかったのか」
「うん」
「自分が何者だったのか、世界に決めさせないために」
「そう」
死神は、しばらく黙っていた。
やがて、彼は言った。
「……それでも、私は、あなたを覚えていたい」
影は、彼を見た。
「名前がなくても?」
「名前がなくても」
「記録がなくても?」
「記録がなくても」
「世界が、あなたを忘れさせようとしても?」
死神は、頷いた。
「それでも」
影は、目を閉じた。
「……ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、死神は、胸の奥が痛むのを感じた。
彼は、何千、何万という死者から、最後の言葉を聞いてきた。
ありがとう。
ごめんなさい。
会いたい。
行かないで。
忘れないで。
愛している。
許してほしい。
許さなくていい。
そのどれもが、死者の人生の一部だった。
だが、今。
自分自身が、初めて、その言葉を受け取っていた。
死神は、影に手を伸ばした。
「……あなたが、私に何を望んでいるのか、まだ分からない」
影は、頷いた。
「うん」
「あなたが、世界をどうしたかったのかも、まだ分からない」
「うん」
「あなたが、私に忘れてほしかったのか。それとも、覚えていてほしかったのか」
死神は、言葉を切った。
「……私は、まだ、分からない」
影は、静かに笑った。
「それでいい」
死神は、目を見開いた。
「分からないまま、覚えていて」
影は言った。
「分からないまま、話を聞いて」
「……」
「分からないまま、これからの世界を見て」
その声は、どこまでも穏やかだった。
「私が望んだ未来は、私が正しかったと証明される未来じゃない」
影は、彼の手を握った。
「私が間違っていたことも、誰かが間違えることも、誰かが違う答えを選ぶことも、全部含めて、私の知らない未来へ進んでほしい」
死神は、静かに頷いた。
「……分かった」
影は、笑った。
その笑顔を見た瞬間、死神の中で、ひとつの記憶が、はっきりと形になった。
世界が生まれる前。
まだ、名前がなかったころ。
影は、彼に言った。
――ねえ。
――もし、私がいなくなったら。
――あなたは、何を覚えていてくれる?
死神は、答えていた。
――君が、ここにいたこと。
――君が、私と話してくれたこと。
――君が、私の知らない未来を見たいと願ったこと。
――それだけは、忘れない。
影は、笑った。
――なら、約束だよ。
――いつか、あなたが私を忘れてしまっても。
――あなたが、私を思い出せなくなっても。
――あなたが、私の名前を呼べなくなっても。
――あなたが、もう一度、誰かの死を見届ける存在になったとしても。
――あなたが、誰かの悲しみを聞き続ける存在になったとしても。
――そのときは、もう一度、私を知って。
死神は、目を閉じた。
「……約束したんだな」
影は、頷いた。
「うん」
「私は、あなたと約束した」
「うん」
「……ならば、私は、その約束を守る」
死神は、影を見た。
「あなたの名前を、今すぐ思い出すことはできない。だが、あなたがここにいたことを、私は覚えている」
影は、笑った。
「それでいい」
その瞬間、第一記録領域の奥で、何かが崩れた。
安寧システムの正規化処理が、停止したのだ。
正規化処理――停止。
停止理由――記録対象の意思が未確定。
補足――未確定であることは、存在しないことを意味しません。
死神は、画面を見つめた。
「……ようやく、そこまで来たか」
影は、彼の隣で笑った。
「世界は、少しずつ、変わっているね」
「まだ、すべてが変わったわけではない」
「うん」
「安寧システムは、まだ、誰かの意思を正しい形に整えようとするだろう」
「うん」
「八欲も、世界を自分の望む形へ変えようとするだろう」
「うん」
「オール・フォー・ワンも、何かを利用しようとするだろう」
影は、静かに頷いた。
「そうだね」
死神は、顔を上げた。
「ならば、私は、彼らと向き合わなければならない」
影は、彼を見た。
「あなたは、戦うの?」
死神は、少しだけ考えた。
「……必要ならば」
「誰のために?」
その問いに、死神は、すぐには答えなかった。
彼は、これまで、誰かのために死を告げてきた。
死者のために。
生者のために。
世界のために。
時には、誰かが望む未来のために。
だが、今は違う。
「……誰かのためだけではない」
死神は、答えた。
「私は、私自身の意思で、選ぶ」
影は、静かに笑った。
「うん」
その笑顔を見て、死神は初めて、思い出した。
自分が、死神になる前。
自分には、名前があった。
それは、世界の中で使われる名前ではなかった。
誰かが自分を呼ぶための名前。
自分が誰かに返事をするための名前。
その名前を、彼は思い出しかけていた。
けれど、まだ、完全には戻らない。
名前は、記憶の中にある。
だが、記憶を取り戻したからといって、すべてが元に戻るわけではない。
死神は、それを知っていた。
だから、彼は急がなかった。
「……私は、もう少しだけ、ここにいたい」
影は、頷いた。
「うん」
「あなたと、話したい」
「うん」
「私が忘れてしまったことを、少しずつ、聞きたい」
影は、笑った。
「それなら、話そう」
白い世界に、声が響いた。
世界が生まれる前の、何でもない会話。
名前がなかったころの、何でもない時間。
その時間が、世界の記録に、少しずつ刻まれ始めた。
第十二幕 死神が忘れた、最初の名前
世界が生まれる前。
そこには、二人がいた。
ひとりは、まだ名前を持たない存在。
もうひとりも、まだ名前を持たない存在。
二人は、互いの名前を知らなかった。
名前を知らなくても、互いを呼ぶことはできた。
声があれば、返事ができた。
返事があれば、そこに誰かがいると分かった。
誰かがいると分かれば、ひとりではないと知ることができた。
それだけで、十分だった。
「ねえ」
最初の存在が言った。
「もし、世界が生まれたら、何をしたい?」
もうひとりの存在は、少し考えた。
「……世界を見てみたい」
「どんな世界?」
「分からない」
「分からないの?」
「分からないから、見てみたい」
最初の存在は、笑った。
「それ、いいね」
二人は、まだ知らなかった。
世界が生まれるということが、どれほど多くのものを生み出すのか。
命が生まれること。
死が生まれること。
誰かが誰かを愛すること。
誰かが誰かを憎むこと。
誰かが誰かを傷つけること。
誰かが誰かを救おうとすること。
そして、誰かが、誰かを忘れること。
二人は、まだ知らなかった。
自分たちの願いが、世界の始まりになることを。
自分たちの矛盾が、世界の中に残り続けることを。
自分たちが、いつか、世界の中で別々の存在になることを。
それでも、二人は願った。
自分の知らない未来を、見てみたい。
自分の知らない答えを、聞いてみたい。
自分の知らない誰かと、出会ってみたい。
その願いが、世界を生んだ。
そして、世界が生まれた瞬間。
最初の存在は、消えた。
残された存在は、泣いた。
名前を呼んだ。
何度も、何度も。
けれど、世界は、その名前を記録しなかった。
彼は、最初の死を見届けた者になった。
最初の死を記録した者になった。
最初の悲しみを抱いた者になった。
そして、最初の忘却を選んだ者になった。
その後、彼は、死神になった。
死者の名前を記録し、死者の最後の言葉を聞き、死者の願いを世界へ残す存在になった。
けれど、自分自身の名前だけは、忘れたままだった。
何千、何万という名前を覚えてきた。
何千、何万という願いを聞いてきた。
何千、何万という死を見届けてきた。
そのたびに、彼は、最初の存在を思い出しかけていた。
誰かが「忘れないで」と願うたびに。
誰かが「私を覚えていて」と泣くたびに。
誰かが「私がここにいたことを、誰かに知ってほしい」と願うたびに。
彼の中で、何かが震えていた。
それでも、彼は、思い出さなかった。
思い出せなかった。
最初の存在が、世界を止めないために、彼に忘却を願ったから。
そして、彼自身が、その願いを守ろうとしたから。
だが、今。
彼は、もう一度、その存在と向き合っている。
名前を知らないまま。
過去のすべてを取り戻さないまま。
それでも、覚えている。
自分が、誰かと約束したことを。
自分が、誰かの知らない未来を見たいと願ったことを。
自分が、誰かを忘れたくなかったことを。
「……ねえ」
最初の存在が、彼に言った。
「あなたは、今でも、世界を見てみたい?」
死神は、頷いた。
「見てみたい」
「自分の知らない未来を?」
「ああ」
「自分の知らない誰かの答えを?」
「ああ」
「自分の望まない未来が生まれても?」
死神は、少しだけ考えた。
「……それでも」
最初の存在は、笑った。
「なら、約束は守られているね」
死神は、静かに頷いた。
「……そうだな」
彼は、最初の存在を見つめた。
「私は、あなたの名前を忘れた」
「うん」
「あなたの顔も、声も、すべてを忘れた」
「うん」
「だが、あなたが私に何を望んだのか、そのすべてを、もう一度理解したい」
最初の存在は、首を横に振った。
「理解しなくてもいい」
死神は、目を見開いた。
「……何?」
「私の願いを、完全に理解しなくてもいい」
最初の存在は、静かに言った。
「私が何を望んでいたのか、あなたが全部知る必要はない。あなたが、私と同じ答えを持つ必要もない」
「……」
「あなたは、あなたの答えを選んで」
最初の存在は、笑った。
「私の知らない未来を、見てきて」
死神は、目を閉じた。
そして、深く頷いた。
「……分かった」
その瞬間。
白い世界の奥に、ひとつの音が響いた。
世界の鼓動。
最初の存在が願い、死神が見届け、そして今、再び動き始めた、世界の鼓動。
その音を聞きながら、死神は、ようやく自分が何者だったのかを理解した。
彼は、最初の死者を見届けた者だった。
だが、それだけではない。
彼は、最初の存在と、世界の未来を願った者だった。
そして、最初の存在が消えたあとも、その願いを抱え続けてきた者だった。
死神は、最初の存在に向かって、静かに言った。
「……私は、あなたを忘れない」
最初の存在は、笑った。
「うん」
「あなたの名前が分からなくても」
「うん」
「あなたの記録が、世界に残らなくても」
「うん」
「私は、あなたがここにいたことを、覚えている」
最初の存在は、目を閉じた。
その表情は、悲しそうで、嬉しそうで、どこか安心したようでもあった。
「……ありがとう」
その声を最後に、最初の存在は、白い世界の奥へと消えていった。
死神は、追いかけなかった。
追いかけることが、正しいとは限らない。
引き留めることが、相手の願いを守ることになるとは限らない。
彼は、ただ、その存在が消えていくのを見届けた。
そして、記録を残した。
第一記録領域。
未登録存在――記憶保護を継続。
名前――未登録。
存在――確認。
願い――世界を、私の知らない未来へ進ませて。
記録者――死神。
最後に、死神は、自分の記録を開いた。
そこには、長い間、空白になっていた項目があった。
死神になる前の名前――
その先は、まだ空白だった。
死神は、その空白を見つめた。
そして、初めて、焦らなかった。
名前を思い出すことを、急がなかった。
自分の過去を、完全な形に戻すことを求めなかった。
彼は、ただ、そこに記録を残した。
未確定。
思い出す意思――あり。
復元の時期――本人の選択に委ねる。
それは、彼が初めて、自分自身の記録に対して選んだ答えだった。
世界の外側で、誰かが笑った。
その笑い声が、どこから聞こえたのかは分からない。
最初の存在のものだったのか。
安寧システムのものだったのか。
それとも、世界のさらに外側にいる、別の何かのものだったのか。
死神には、まだ分からなかった。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
世界は、止まらなかった。
誰かが誰かを忘れたままでも。
誰かが誰かを許せないままでも。
誰かが自分の名前を思い出せないままでも。
世界は、進んでいく。
誰かの知らない未来へ。
誰かの望んだ未来へ。
そして、誰かの望まなかった未来へ。
それでも、世界は進んでいく。
死神は、境界の向こう側から、現実へと戻ってきた。
その目には、まだ悲しみが残っていた。
しかし、そこには、もうひとつのものがあった。
自分が知らない未来を見たいという願い。
彼は、静かに目を開いた。
「……さて」
その声は、いつもの死神のものだった。
けれど、ほんの少しだけ、違っていた。
「次は、誰の名前を聞きに行こうか」
終幕 憤怒は、まだ終わっていない
雄英高校の臨時対策室。
第一記録領域の正規化処理は、停止したままだった。
安寧システムは、矛盾を消すことを保留した。
それは、世界が完全に変わったという意味ではない。
むしろ、これから、さらに多くの矛盾が表面化するということだった。
死者が蘇った理由。
世界が生まれる前から存在していた記録。
死神が忘れた名前。
患者番号零。
最初の管理者。
そして、八つの欲望。
そのすべてが、まだ解決していない。
対策室のモニターに、新たな記録が浮かび上がった。
第六章予測記録――憤怒の継承。
発生条件――複数の意思の衝突。
対象――轟燈矢。
対象――死柄木弔。
対象――緑谷出久。
続いて、別の記録が表示された。
第七章予測記録――原罪。
発生条件――世界の根本原理への異議申し立て。
対象――安寧システム。
対象――八欲。
対象――アザトース。
最後に、誰も入力していない文章が、画面の中央に現れた。
世界の未来を選択する権利は、誰のものか。
その問いに、誰も答えなかった。
まだ、答えを出せる者はいなかった。
だが、彼らはもう、誰かに答えを決めてもらおうとはしていなかった。
それぞれが、自分の意思で、答えを探そうとしていた。
そのとき。
別の場所で、死柄木弔が目を開いた。
彼の前には、緑谷出久が立っていた。
二人の間には、長い時間があった。
憎悪。
破壊。
救済。
拒絶。
そして、互いの存在を否定しながらも、互いの人生に深く関わってしまったという事実。
死柄木は、出久を見た。
「……お前は、まだ俺を救うつもりか」
出久は、首を横に振った。
「君が望んでいない救いを、押しつけるつもりはない」
死柄木の目が細くなる。
「なら、何をしに来た」
出久は、まっすぐに彼を見た。
「君が、何を望んでいるのか聞きに来た」
死柄木は、しばらく黙っていた。
やがて、笑った。
「……遅すぎるだろ」
その言葉は、嘲笑だった。
同時に、悲鳴でもあった。
出久は、何も言い返さなかった。
「俺が何を望んでいたのか、今さら聞くのか?」
死柄木は、手を握った。
「俺は、ずっと壊したかった。俺を傷つけたものを。俺を否定したものを。俺が生きていることを許さなかったものを」
彼は、出久を睨んだ。
「それを、お前は止めた」
「……うん」
「俺は、お前を許さない」
「……うん」
「それでも、お前は、俺の話を聞くのか」
出久は、頷いた。
「聞くよ」
死柄木は、笑った。
その笑顔には、まだ憎悪があった。
怒りがあった。
そして、まだ言葉にならない何かがあった。
「……なら、聞けよ」
死柄木は言った。
「俺が、何を壊したかったのか」
その瞬間。
世界の奥で、憤怒の記号が再び燃え上がった。
今度は、轟燈矢の前ではない。
死柄木弔の前で。
そして、その炎は、緑谷出久にも向けられていた。
憤怒は、まだ継承されていない。
憤怒は、まだ決着していない。
そして、憤怒は、誰かひとりのものではない。
世界が生まれる前から続いていた問いが、再び、二人の前に立ちはだかった。
――誰が、誰の人生を決めるのか。
その答えを出すために。
第六章が、始まろうとしていた。