1 帰還者のための部屋
その部屋には、窓がなかった。
壁は白く、床も白く、天井には均等な間隔で照明が埋め込まれている。ベッドが六台。椅子が十二脚。簡素なテーブルが三つ。
病室のようにも見える。
収容施設のようにも見える。
あるいは、誰かが「人間を休ませるために必要な最低限」を計算し、計算結果だけで作り上げた場所のようにも。
壁の一角に、黒い文字が表示されていた。
帰還者一時保護区画
対象者の生命活動は安定。
記憶情報の整合性は未確認。
身元情報の照合は継続中。
外部接触については、本人の意思を確認した上で判断する。
最後の一文だけ、文字が何度も明滅していた。
「本人の意思、ねえ」
マグネは、椅子の背もたれに肘を乗せた。
「こういう施設で、そんな言葉を見せられると、逆に信用できなくなるんだけど」
「同意します」
治崎廻は、壁の表示を見上げたまま答えた。
「人間の意思を確認すると書くことと、人間の意思を尊重することは別だ」
「それ、あんたが言う?」
「私だから言う」
マグネは鼻で笑った。
「相変わらずね。自分が正しいときは一歩も引かない」
「正しいかどうかは関係ない。少なくとも、区別する必要がある」
治崎は手袋をはめた指先を見下ろした。
「死者を蘇らせた者がいる。記録を修復した者がいる。だが、蘇った本人が何を望むのかを確認した者は、どれほどいる?」
マグネは答えなかった。
答えられなかった。
彼らの前にいるのは、帰還した死者たちだ。
死者という呼び方自体が、すでに正確ではなくなりつつある。肉体がある者。記憶だけが復元された者。過去の姿を保ったまま存在する者。生きていた時代と現在とで、世界の状態が異なりすぎる者。
誰もが同じ条件で戻ってきたわけではない。
そして、彼らに共通するものが一つだけあった。
戻ってきた理由を、本人たちが知らないこと。
「ねえ、治崎」
「何だ」
「もし、あんたが死んで、目を覚ましたら、昔の組織も、昔の仲間も、昔の目的も、何一つ残ってなかったとしたら。どうする?」
治崎は少しだけ黙った。
「……まず、現状を把握する」
「それから?」
「必要なら、目的を修正する」
「ふうん」
「何が言いたい」
「それってさ。帰る場所がなくなっても、あんたは帰る場所を探すんじゃなくて、次の目的地を探すってことでしょ」
「同じことだ」
「違うわよ」
マグネは椅子から身を起こした。
「帰る場所っていうのは、目的地じゃないの。役に立たなくても、何もできなくても、失敗しても、そこにいていいと思える場所のことよ」
治崎の目が、わずかに細くなった。
「そんなものが存在すると思っているのか」
「少なくとも、存在してほしいとは思ってる」
マグネは笑った。
いつものように、不敵で、遠慮がなく、何かを恐れていないような笑顔だった。
けれど、その目だけは、壁に表示された「身元情報の照合中」という文字を見つめていた。
「だって、そうじゃなきゃ、帰ってきた意味がないじゃない」
その言葉を聞いた瞬間。
部屋の照明が、一度だけ瞬いた。
壁の表示が書き換わる。
帰還者情報を更新しました。
個体識別情報:不完全。
生前の所属情報:一部欠損。
帰還後の所属先:未登録。
マグネは、立ち上がった。
「……所属先?」
治崎が壁へ歩み寄る。
表示の下に、さらに小さな文字が浮かび上がった。
所属先の登録がない対象者については、社会的保護の継続可否を審査します。
沈黙。
たった数行の文章だった。
それだけで、この世界が彼らをどう扱おうとしているのか、二人には分かった。
死者は帰ってきた。
だが、彼らが戻るべき社会は、彼らを待っていたわけではない。
社会の側から見れば、彼らは過去の人間だ。
死亡記録がある。
戸籍や身元の照合が難しい。
かつての家族が生きているとは限らない。
かつての家族が、彼らを望んでいるとも限らない。
そして、かつて罪を犯した者については――。
「保護の継続可否、ね」
マグネがつぶやいた。
「帰ってきたばかりの人間に、まず聞くことがそれ?」
治崎は、表示を見つめた。
「このシステムにとって、存在は記録によって保証される。記録に収まらない人間は、処理対象になる」
「じゃあ、聞いてやろうじゃない」
「誰に」
「これを書いた連中に」
マグネは、拳を握った。
「帰る場所がないなら、作ればいい。所属先がないなら、本人が選べばいい。昔の名前も、昔の罪も、昔の居場所も、全部抱えて、それでも明日を選ぶ権利くらいあるでしょ」
治崎は彼女を見た。
かつての彼なら、その発言を理想論だと切り捨てただろう。
人間は管理されなければならない。
世界は秩序を必要とする。
壊れたものは修復されなければならない。
そして、自分はその修復を行う側なのだと。
だが、彼自身が今、問われている。
自分は誰のために、何を修復しようとしているのか。
「マグネ」
「何よ」
「お前は、帰る場所がほしいのか」
彼女は、すぐには答えなかった。
そして、笑うこともやめた。
「……分からない」
その答えは、彼女自身にも意外だった。
「昔はあったのかもしれない。あったけど、自分で壊したのかもしれない。誰かが壊したのかもしれない。もう、どれが本当だったのかも、よく分からない」
彼女は自分の手を見つめた。
「でもね。少なくとも、帰る場所がないからって、ここから先まで誰かに決められたくはない」
治崎は目を伏せた。
「……それは、正しい」
「へえ。あんたが認めるなんて珍しい」
「訂正する必要がないだけだ」
「はいはい」
軽口を叩きながら、マグネは壁の前に立った。
そして、保護区画の管理端末に手を伸ばす。
「ねえ、システム」
応答はなかった。
「聞こえてるんでしょ?」
壁の文字が一瞬だけ揺らいだ。
マグネは、はっきりと言った。
「この人たちの所属先は、まだ決まってない。だからって、勝手に決めないで。帰る場所がないってことと、ここにいてはいけないってことは、同じじゃないんだから」
今度は、応答があった。
申告を受理しました。
帰還者の所属先について、本人による選択手続きを追加します。
ただし、社会的受け入れについては、別途審査が必要です。
「……半分だけね」
マグネが言った。
「でも、ゼロよりはまし」
治崎は、その表示を見つめ続けていた。
彼はまだ、誰かを許せるわけではない。
自分が犯した罪を消せるわけでもない。
それでも、彼は初めて、修復される側の人間として、この世界に立っていた。
そして、彼らのいる部屋の外では。
別の帰還者が、たった一つの問いに答えられずにいた。
――私は、どこへ帰ればいいのだろう。
2 帰りたくても、帰れない家
轟家の食卓には、五人分の食器が並んでいた。
誰かが意識して用意したものではない。
いつもの習慣だった。
家族が食卓を囲むとき、そこには五人分の食器があった。
父。
母。
長男。
次男。
そして、末の娘と息子たち。
家族の人数を数えれば、もっと複雑な数字になる。過去に失われた時間を数えれば、さらに増える。
だが、食卓に並ぶ食器の数だけは、長いあいだ変わらなかった。
今日、そのうちの一つが、誰も座らない椅子の前に置かれている。
轟燈矢は、戸口からそれを見ていた。
「……何やってんだよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
母の冷が振り返った。
「燈矢くん」
その声は、穏やかだった。
穏やかであろうとしている声だった。
「座らない?」
「何で」
「食事を用意したから」
「俺の分?」
「ええ」
燈矢は笑った。
「俺の分ねえ」
その笑いは、ひどく乾いていた。
「何十年も遅れてるじゃねえか」
冷の手が止まった。
彼女は言い返さなかった。
言い返せなかった。
彼の言葉が、間違っていないからだ。
この食卓は、燈矢が生きていた頃の食卓ではない。
彼が家族に認められたいと願っていた頃の家ではない。
彼が炎を燃やし、身体を壊し、それでも父の視線を求めていた頃の世界は、もう戻ってこない。
目の前にいる母は、彼が最後に見た母ではない。
弟たちは大人になった。
妹も成長した。
家族の記憶には、燈矢が知らない時間が積み重なっている。
そして、自分はその時間を生きていない。
「座ってよ、兄さん」
焦凍が言った。
燈矢は弟を見た。
「お前まで言うのかよ」
「何が」
「家族ごっこだよ」
焦凍の眉が動いた。
「ごっこじゃない」
「じゃあ何だ? 死んだ人間を連れてきて、昔みたいに食卓に座らせれば、全部元どおりになるってか?」
「誰もそんなこと言ってない」
「言ってねえだけだろ」
燈矢の声が鋭くなる。
「お前らはいいよな。時間がある。家族で飯を食う時間も、母親と話す時間も、親父を殴る時間も、全部あった。俺にはなかった」
冷が、静かに息を呑んだ。
燈矢は続けた。
「俺がいなくなってから、どれだけの時間が過ぎた? 俺が知らない家族の思い出が、どれだけ増えた? お前らが俺のいない人生を生きてる間、俺はずっと、あの頃のままだったんだぞ」
その言葉には、怒りがあった。
だが、それだけではない。
取り残された者の恐怖があった。
自分だけが過去に閉じ込められている。
自分だけが、あの日から一歩も進めていない。
それなのに、世界は勝手に未来へ進んでしまった。
「……俺は」
燈矢は、食卓の椅子を見つめた。
「ここに帰ってきたかったのか?」
誰も答えなかった。
「ここに帰りたかったから、俺はあんなことをしたのか?」
彼は笑った。
「いや、違うな。帰りたかったんじゃねえ。親父に、俺を見ろって言いたかったんだ」
エンデヴァーが、廊下の奥に立っていた。
いつから聞いていたのかは分からない。
彼は一歩も動かなかった。
燈矢の視線が父に向く。
「なあ、親父」
エンデヴァーは答えない。
「俺が帰ってきたら、何を言うつもりだった?」
その問いは、責めるためだけのものではなかった。
燈矢自身が、答えを知らなかった。
父に謝らせたかったのか。
父を苦しめたかったのか。
自分を認めさせたかったのか。
それとも、最後に一度だけ、自分の名前を呼んでほしかったのか。
「俺は、何を聞きたかったんだろうな」
エンデヴァーの喉が動いた。
「燈矢」
その名を呼ぶ声は、ひどくかすれていた。
「私は――」
「やめろ」
燈矢が遮った。
「今、謝るな」
エンデヴァーは口を閉じた。
「謝られたら、俺はどうすりゃいい?」
燈矢は、父を睨んだ。
「お前が悪かったって言われたら、俺の人生が戻ってくるのか? お前が間違ってたって認めたら、俺が焼いた人間が生き返るのか? お前が父親だったって認めたら、俺はもう一度、子供になれるのか?」
答えはなかった。
あるはずがなかった。
燈矢は、ゆっくりと視線を落とした。
「……俺は、帰る場所を間違えたんだ」
冷が一歩、前に出た。
「燈矢くん」
「違う。お袋が悪いって言ってんじゃねえよ」
彼は自分の言葉に、自分で苛立っていた。
「ただ、ここに帰れば、何かが変わると思ってた。ここに帰れば、あの頃の俺が欲しかったものを、今度こそ手に入れられると思ってた」
彼は、椅子に触れた。
指先が、木の表面をなぞる。
「でも、俺が欲しかったのは、今の家族じゃねえんだよ」
冷の目に涙が浮かんだ。
燈矢はそれを見て、顔を歪めた。
「……そういう顔をするなよ」
「ごめんなさい」
「謝るなって」
「ごめんなさい」
冷は、涙を拭かなかった。
「あなたが帰ってきてくれたことを、うれしいと思っているの。だけど、あなたが失った時間を、私たちが代わりに生きたことも、本当なの。あなたの知らない思い出があることも、本当なの」
彼女は、言葉を選びながら続けた。
「だから、あなたが私たちを知らないと感じても、私たちがあなたを知っていると、簡単には言えない」
燈矢は母を見た。
「……何だよ、それ」
「あなたは、私の息子よ」
冷の声が震えた。
「でも、あなたが生きていた時間を、私は取り戻せない。あなたがいなくなってからの時間も、消すことはできない。あなたが私たちに怒ることも、悲しむことも、拒むことも、止められない」
彼女は、空いている椅子を見た。
「だから、ここに座ってほしいと願うことはできても、ここに座るべきだとは言えないの」
燈矢は、何も言わなかった。
それは、彼が望んでいた答えではなかった。
母に抱きしめてほしかった。
何も考えずに、帰ってきてくれてありがとうと言ってほしかった。
もう大丈夫だと、すべてを許してほしかった。
けれど、そんな願いを叶えてもらえば、自分が犯した罪まで消えてしまうような気がした。
それは、許されることとは違う。
許されたい気持ちと、許されてはいけないと思う気持ちは、燈矢の中で、同じ場所を奪い合っていた。
焦凍が、椅子を引いた。
「座るかどうかは、兄さんが決めればいい」
燈矢は弟を見る。
「お前は、俺を許すのか」
「許さないこともあると思う」
焦凍は、目を逸らさなかった。
「兄さんがやったことを、なかったことにはできない。兄さんが苦しかったことと、兄さんが誰かを苦しめたことは、両方とも本当だから」
「……ああ」
「でも、俺は兄さんが何を考えていたのか、もっと知りたい」
焦凍は椅子の背を握った。
「兄さんが何を望んで、どこで間違えて、何を諦めたのか。俺が知らないまま終わらせたくない」
燈矢は、弟を長いあいだ見つめていた。
「お前、変わったな」
「そうかもしれない」
「昔は、もっと何考えてんのか分かんねえ顔してたぞ」
「兄さんも、昔よりずっと話すようになった」
「うるせえよ」
焦凍は、ほんの少しだけ笑った。
燈矢はその笑顔を見て、何かを言おうとした。
しかし、言葉は出なかった。
彼は椅子に座らなかった。
代わりに、食卓の端へ歩いていき、立ったまま皿を見下ろした。
「……飯、冷めてんじゃねえか」
冷は涙を拭った。
「温め直すわ」
「いや、いい」
燈矢は、食卓から視線を外した。
「今は、いらねえ」
それは拒絶だった。
同時に、初めての選択でもあった。
誰かに座らされるのではなく。
誰かに許されるためでもなく。
自分が何を望んでいるのか分からないまま、それでも「今は違う」と言うこと。
その小さな意思を、誰も奪わなかった。
エンデヴァーは、父親として何かを言うべきだと思った。
だが、彼はそこで初めて、自分の言葉を飲み込んだ。
燈矢に必要なのは、父の謝罪を受け取る義務ではない。
父を許す義務でもない。
家族に戻る義務でもない。
燈矢が、自分自身の人生を選ぶための時間だった。
その夜、轟家の食卓から、燈矢の分の食器は片づけられなかった。
誰も、それを特別な意味だとは言わなかった。
ただ、冷は食器を洗いながら、明日も同じ数を用意しようと思った。
明日、燈矢が座るとは限らない。
明後日も、座らないかもしれない。
それでも、椅子をなくすことだけは、しないでおこうと思った。
帰ってくることを強制しない。
帰らないことを罰しない。
そして、いつか本人が座りたいと思ったときに、座れるようにしておく。
それが今の彼女にできる、母親としての選択だった。
3 帰る場所を奪った男
その部屋には、窓があった。
だが、外の景色は映っていなかった。
ガラスの向こうにあるのは、街並みではなく、安寧システムが管理する情報層の光景だった。
無数の文字列が流れ、個人の記憶が分類され、死亡記録と現在の存在が照合されている。
死者たちの情報は、ここで整理されていた。
記憶の不一致。
時間軸の矛盾。
肉体と精神の対応関係。
そして、生きている人間との関係性。
システムは、それらを一つずつ処理していた。
その中央に、治崎廻は立っていた。
「これは何だ」
彼が指差した画面には、二つの名前が並んでいた。
一つは、治崎廻。
もう一つは、天喰環。
その間に、赤い文字が表示されている。
関係性の再照合が必要です。
過去の接触履歴に重大な矛盾が存在します。
「私と彼の関係に、何の矛盾がある」
システムは応答した。
過去の行動記録に基づくと、対象者間には敵対的な接触が確認されています。
一方、現在の記録では、両者の接触履歴に欠損があります。
治崎は、画面を見つめた。
「欠損?」
一部記録は、世界再構成以前に削除されています。
その言葉を聞いた瞬間、治崎の顔が変わった。
世界再構成以前。
それは、安寧システムが自分の記憶を修正するよりも前の記録を意味している。
彼は、自分の過去がすべて記録されているとは思っていなかった。
人間は、自分に都合の悪い記憶を忘れる。
組織は、自分に不都合な記録を隠す。
社会は、自分たちの過ちを歴史の陰に押し込める。
それは、彼自身が誰よりもよく知っていることだった。
だが、世界そのものが記録を削除していたとしたら。
「誰が削除した」
削除者は特定できません。
「削除された記録を復元しろ」
記録の復元には、関連する対象者の同意が必要です。
治崎は、歯を食いしばった。
「……またそれか」
「また?」
背後から声がした。
振り返ると、マグネが立っていた。
「何を見つけたの?」
治崎は画面を指した。
マグネは表示を読み、顔をしかめた。
「天喰環……雄英の生徒ね」
「知っているのか」
「名前くらいは。あんたが何をしたのかも、少しはね」
治崎の表情が硬くなる。
「私が何をしたか、だと?」
「そうよ。あんたは自分が壊したものについて、いつも『必要だった』って説明するじゃない」
「必要だった」
「その言葉で、壊された側の人生まで説明できると思ってる?」
治崎は答えなかった。
マグネは、画面の赤い文字を指で示した。
「この記録、復元するの?」
「本人の同意が必要だと表示されている」
「じゃあ、本人に聞けばいいじゃない」
「……それだけで済む問題ではない」
「どうして?」
「私が復元したいと思っているからだ」
その答えに、マグネは目を瞬かせた。
治崎は続けた。
「私は、過去の記録を知りたい。自分が何をしたのか、何を忘れているのか、何が削除されたのか。それを知る必要があると思っている」
「それで?」
「その必要が、相手の意思より優先されるとは限らない」
マグネは、しばらく黙っていた。
それから、ふっと笑った。
「……あんた、本当に面倒くさい男ね」
「よく言われる」
「褒めてないわよ」
「理解している」
彼女は画面から目を離し、治崎を見た。
「じゃあ、本人に聞きに行きましょう。記録を復元してほしいかどうか。会いたいかどうか。話したいかどうか」
「会いたくないと言われたら?」
「帰る」
「それで終わりか」
「終わりじゃないわよ」
マグネは、きっぱりと言った。
「会いたくないって答えも、その人の意思でしょ。あんたがそれを受け入れたからって、過去が消えるわけじゃない。でも、相手にもう一度傷つけられることを強制しない。それだって、今できることの一つよ」
治崎は、画面を見た。
天喰環。
その名前を見ても、彼の中に明確な記憶は戻ってこない。
だが、彼は知っていた。
記憶がないことは、罪がなかったことを意味しない。
記録が消えたことは、傷が消えたことを意味しない。
そして、自分が知りたいと思うことは、相手が答える義務を負うことと同じではない。
「……分かった」
治崎は、端末を閉じた。
「本人の意思を確認する。ただし、記録の復元を求める前に、私が何をしたのかを確認する必要がある」
「どうやって?」
「消された記録以外に、残っている情報があるはずだ」
彼は振り返った。
「私は、自分の過去を知る。だが、そのために相手を道具として扱うことはしない」
マグネは肩をすくめた。
「最初からそう言えばいいのに」
「最初から分かっていれば、苦労はしない」
そのとき、端末の画面に新たな通知が表示された。
帰還者の社会復帰に関する審査を開始します。
重大犯罪記録を持つ対象者については、社会的受け入れの可否を別途判断します。
マグネの笑顔が消えた。
「……社会復帰?」
治崎は画面を見つめた。
「当然の処理だろう」
「当然?」
「罪を犯した者が、何の責任も負わずに社会へ戻ることはできない」
「それはそうよ」
マグネは、すぐに答えた。
「でも、罪を犯したからって、本人の意思を聞かずに未来まで決めていいことにはならない」
治崎は黙っていた。
「罰を受けることと、人間として存在する権利を奪われることは違う。あんたが誰かを傷つけたことと、あんたがこれから何をするかは、同じじゃない」
マグネは一歩近づいた。
「それに、あんたが誰かを傷つけたからって、あんたが傷つけられていいことにもならない」
その言葉に、治崎の表情がわずかに揺れた。
彼は、過去に多くのものを奪った。
他人の身体を。
他人の意思を。
他人が自分の未来を選ぶ権利を。
彼は、秩序を守るためだと考えていた。
世界を修復するためだと考えていた。
だが、今、自分の未来が他者によって審査されている。
その立場になって初めて、彼は気づき始めていた。
自分が過去に誰かへ押しつけたものが、どれほど重いのかを。
「……マグネ」
「何?」
「私は、あの少女に何をした」
彼女の顔から、冗談めいた表情が消えた。
治崎は続けた。
「私が記憶していることだけでは、足りない。記録が削除されているなら、なおさらだ。だが、何をしたかを知ることと、彼女にそれを語らせることは、別の問題だ」
彼は、静かに言った。
「私は、何を知るべきなのだろうな」
マグネは答えなかった。
簡単に答えられる問いではなかった。
過去を知らなければ、責任を取れない。
しかし、過去を知るために、被害者をもう一度傷つけることもできない。
この世界には、まだ、その両方を成立させる仕組みがない。
安寧システムは、矛盾を消そうとしている。
だが、矛盾を消すことと、矛盾を抱えたまま生きることは違う。
治崎は、端末を見つめたまま、初めてこう考えた。
自分が修復すべきなのは、世界の記録だけではないのかもしれない。
4 翼を失った男と、帰る場所を知らない少女
ホークスは、廊下の窓際に立っていた。
窓の外には、街が見える。
人々が歩いている。
信号が変わる。
店の扉が開き、閉じる。
子供が母親の手を引き、走ろうとして叱られる。
誰かが落とした荷物を、見知らぬ人間が拾う。
何の変哲もない日常だった。
だからこそ、ホークスはそこから目を離せなかった。
ヒーローがいなくても、誰かが誰かを助けている。
それは、彼がずっと見てきた光景だった。
しかし、彼が生きてきた世界では、その行為に名前がついていた。
ヒーロー。
助ける者。
守る者。
誰かが危険に飛び込むことを、社会は称賛した。
誰かが誰かを救うことを、社会は制度にした。
そして、その制度の外側にいる人々は、しばしば救われる側として分類された。
ホークスは、自分の背中に手を伸ばした。
そこには、もう翼がない。
少なくとも、以前と同じ翼はない。
自分がどれほど速く飛べるか。
どれほど遠くまで見渡せるか。
どれほど早く現場へ駆けつけられるか。
そうした能力を基準に、自分の価値を測る必要は、もうないのかもしれない。
だが、能力を失えば、自分が何者なのか分からなくなる。
その感覚を、彼は否定できなかった。
「……参ったなあ」
ホークスは小さく笑った。
「飛べないと、考え事が増えるんですね」
「飛べると、考えなくて済むの?」
背後から声がした。
振り返ると、トガヒミコが立っていた。
彼女は廊下の端にいて、こちらを警戒している。
ホークスもまた、彼女の存在を警戒していた。
それは当然だった。
彼らの間には、死という決定的な断絶がある。
トゥワイスの死。
ホークスが彼を殺したこと。
トガがその事実を受け入れられなかったこと。
そして、彼女がその後に選んだ道。
そのすべてが、二人の間に積み重なっていた。
「……聞いてたんですか?」
「少しだけ」
「盗み聞きは感心しないなあ」
「ヒーローだって、秘密を探るでしょ」
ホークスは苦笑した。
「手厳しいですね」
「あなたが言う?」
トガの声は明るかった。
明るすぎるほどに。
彼女は笑顔を作っていたが、ホークスは知っていた。
その笑顔の奥に、何があるのかを。
「トゥワイスは?」
ホークスは、すぐに答えなかった。
「別の区画にいます。今は、本人の希望で一人になっている」
「会ったの?」
「ええ」
「何を話したの?」
「……いろいろ」
「私のことは?」
ホークスは、トガを見た。
「あなたのことも、話題にはなりました」
トガの笑顔が、止まった。
「何て?」
「それを、私から話していいかどうかは分かりません」
「どうして?」
「彼自身が、あなたに何を話すかを決めることだからです」
トガは、しばらくホークスを見つめていた。
それから、首を傾げる。
「あなた、変わった?」
「そう見えます?」
「うん。前は、もっと何でも分かってる顔をしてた」
「それは、誤解ですよ」
「そうかなあ」
トガは、窓の外を見た。
「私、分からないんだ」
その言葉は、あまりにも唐突だった。
「何が?」
「どこへ帰ればいいのか」
ホークスは黙った。
トガは、窓に映る自分の姿を見つめていた。
「家に帰ればいいのかな。家族のところに帰ればいいのかな。それとも、昔の私がいた場所に帰ればいいのかな」
彼女は、指先でガラスをなぞった。
「でも、私が帰りたい場所って、どこだったんだろう」
ホークスは答えを探した。
彼女が求めているものを、彼は知っているつもりだった。
好きな人の血を飲むこと。
好きな人に近づくこと。
好きな人になりたいと願うこと。
彼女にとって、それは愛情の表現だった。
しかし、それが他人の意思を踏みにじることもあった。
彼女の願いを理解することと、その行為を正当化することは違う。
ホークスは、その違いを知っている。
そして、知っているからこそ、何を言えばいいのか分からなかった。
「トゥワイスに会いたいんですか?」
トガは、首を横に振った。
「会いたいよ」
「では――」
「でも、会うのが怖い」
ホークスは口を閉じた。
トガは笑った。
「だって、ジンくんが帰ってきたら、私はうれしいもん。すっごくうれしい。今までのこと、全部忘れて、また一緒にいられたらいいなって思う」
彼女の声が、少しずつ震え始めた。
「でも、ジンくんは私のこと、どう思うかな」
ホークスは何も言わなかった。
「私がしたこと、知ってるよね。私が誰を傷つけたかも、知ってるよね。ジンくんが死んでから、私が何をしたかも」
トガは、自分の胸元を握った。
「もし、ジンくんが私を見て、もう一緒にいたくないって言ったら?」
それは、彼女が初めて口にした恐怖だった。
彼女は、拒絶されることを恐れていた。
だが、それ以上に恐れているものがあった。
自分が愛した相手に、自分自身を否定されること。
「私、ジンくんが大好きなの」
その声は、ひどく小さかった。
「でも、好きだからって、何をしてもいいわけじゃないんだよね」
ホークスは、息を呑んだ。
トガは、彼の方を見た。
「あなたがジンくんを殺したことも、私は許せない。絶対に許せない。だけど、私があなたにしたことも、私が他の人たちにしたことも、なかったことにはならない」
彼女は笑った。
「ねえ、ホークスさん。これって、どうすればいいの?」
ホークスは、しばらく答えられなかった。
彼は、ヒーローだった。
人を助ける方法を学んできた。
危険を見つけ、判断し、最善の行動を選ぶ。
必要ならば、誰かを犠牲にする判断も求められる。
だが、今、彼の前にいる少女は、正解を求めていなかった。
正解を教えてほしいのではない。
自分が何をすれば、もう一度誰かと一緒にいられるのか。
その答えを、自分で見つけたいのだ。
「……分かりません」
ホークスは、正直に言った。
トガが目を丸くした。
「え?」
「私にも、分からないんです。あなたがトゥワイスに会うべきなのか。会わない方がいいのか。会ったら何を話すべきなのか」
彼は窓の外を見た。
「私が答えを出してしまえば、あなたはその答えに従うことになるかもしれない。私は、それをしたくない」
「……ホークスさんらしくないね」
「そうですか?」
「うん。もっと、かっこよく答えてくれると思った」
「いやあ、期待外れですみません」
ホークスは苦笑した。
「でも、一つだけ言えることがあります」
トガは、彼を見た。
「あなたがトゥワイスに会いたいと思うことは、間違いじゃない。会うのが怖いと思うことも、間違いじゃない。どちらかを消さなくてもいいんです」
「両方あっていいの?」
「ええ」
「でも、どっちかを選ばなきゃいけないよね」
「行動を選ぶ必要はあります。でも、気持ちまで一つにまとめる必要はありません」
トガは、考え込んだ。
それは、彼女が慣れていない考え方だった。
好きか、嫌いか。
敵か、味方か。
自分を受け入れてくれるか、拒絶するか。
これまでの彼女は、世界をそのように分けてきた。
だが、誰かを好きなまま、相手の行為を否定することはできるのだろうか。
誰かを憎みながら、その人が苦しんでいることを理解することはできるのだろうか。
誰かを許せないまま、その人と同じ世界で生きることはできるのだろうか。
「……私、ジンくんに会いたい」
トガは言った。
「でも、ジンくんが私に会いたくないなら、無理には会わない」
ホークスは、静かに頷いた。
「それでいいと思います」
「あなたに許可されたくはないけど」
「ええ。あなたの人生ですから」
トガは少しだけ笑った。
「それから」
彼女は、ホークスをまっすぐ見た。
「あなたのことも、まだ許してないから」
「……でしょうね」
「あなたがジンくんを殺したこと、忘れないから」
「忘れないでください」
ホークスは答えた。
「私も、忘れません」
その返事に、トガは驚いたような顔をした。
ホークスは続けた。
「あなたに許してもらうために、私が過去を忘れるわけにはいかない。トゥワイスが死んだことも、私が彼を殺したことも、そのとき私が何を考えていたかも。全部、私が背負うべきことです」
彼は自分の手を見た。
「でも、私がその罪を背負うことと、あなたが私を許すことは、別です」
トガは、何も言わなかった。
ホークスは顔を上げた。
「あなたが私を許さなくても、私はあなたを助けることがあるかもしれない。あなたが私を憎んでいても、あなたが誰かに助けを求めたら、私はその声を聞くかもしれない」
彼は、少しだけ笑った。
「それが、今の私にできることだと思っています」
トガは、窓の外を見た。
街では、誰かが転んだ子供を助け起こしていた。
ヒーローの姿はない。
カメラもない。
称賛する観客もいない。
ただ、子供が泣き止むまで、見知らぬ大人がそばに立っていた。
「……ああいうのも、ヒーローなのかな」
トガがつぶやいた。
ホークスは、すぐには答えなかった。
「そうだと、いいですね」
彼の声には、願いがあった。
まだ実現していない未来への、静かな願いが。
その願いがいつか世界を変えることになるとは、このときの彼は知らなかった。
ただ、翼を失った男と、帰る場所を失った少女は、同じ窓から、同じ街を見ていた。
5 帰ってきた男の、帰れない場所
トゥワイスは、一人で座っていた。
椅子に深く腰を下ろし、両手を膝の上に置いている。
彼は、誰かと話すことが好きだった。
一人でいることは苦手だった。
一人でいると、頭の中の声が大きくなる。
自分が自分であることを確かめるために、彼はいつも誰かの声を必要としていた。
だが、今は誰とも会いたくなかった。
会いたい人間はいる。
たくさんいる。
会いたくない人間もいる。
もっとたくさんいる。
その中でも、最も会いたい人間と、最も会うのが怖い人間が、同じ少女だった。
「……参ったな」
彼は、膝の上で指を組んだ。
「どうすりゃいいんだよ」
誰も答えない。
「会いたいよな。会いたいに決まってるだろ。だって、俺たちは仲間だ。家族みたいなもんだ。いや、家族以上かもしれない。家族なんて言葉じゃ足りない。俺たちは――」
そこで、彼は言葉を止めた。
自分の声が、部屋に響いていた。
彼は顔を上げた。
「……違う」
今度は、はっきりと言った。
「俺が会いたいからって、あいつも会いたいとは限らない」
その言葉を口にすることは、ひどく難しかった。
トガは、彼にとって大切な存在だった。
彼女が笑ってくれると、世界が少しだけ明るくなった。
彼女が自分を必要としてくれると、自分が存在していてもいいのだと思えた。
だからこそ、彼は彼女に会いたかった。
だが、彼女が何を経験したのか。
自分が死んだ後、彼女がどんな道を歩んだのか。
彼は、まだ知らない。
知らないまま、彼女に自分を必要としてほしいと願うのは、彼女の人生を、自分の願いで縛ることになるのではないか。
「……いや、そんなの、俺らしくねえな」
彼は笑った。
「俺らしくないことを考えてるぞ。成長したな、俺。いや、死んだ後に成長って何だよ。死んだら終わりだろ。いや、終わってないからここにいるんだろ。じゃあ俺は何なんだ? 生きてるのか? 死んでるのか? 俺は俺なのか? 俺が俺なら――」
彼は、額を押さえた。
思考が絡まり、声が重なり、いつものように自分を見失いかける。
そのとき。
扉が、軽く叩かれた。
トゥワイスは顔を上げた。
「……誰だ?」
「私」
少女の声だった。
トガ。
トゥワイスは、息を止めた。
扉の向こうから、もう一度声がする。
「入っていい?」
彼は立ち上がろうとした。
だが、足が動かなかった。
「……ちょっと待ってくれ」
「うん」
トガは、扉の向こうで待っていた。
急かさなかった。
扉を開けようとしなかった。
ただ、そこにいた。
トゥワイスは、何度も息を吸った。
会いたかった。
会いたくなかった。
会って、抱きしめたかった。
会って、何も聞かずに一緒にいたかった。
でも、彼女が自分を見て泣いたら。
彼女が自分を見て、もう昔のようには笑えなくなっていたら。
彼女が、自分のいない時間を生きたことを、彼自身が受け止められなかったら。
彼は、どうすればいいのだろう。
「……入っていいぞ」
ようやく、それだけ言った。
扉が開く。
トガが立っていた。
彼女は、いつものように笑おうとした。
「ジンくん」
その声を聞いた瞬間、トゥワイスの顔が歪んだ。
「……ヒミコ」
二人は、しばらく見つめ合っていた。
何も言えなかった。
言いたいことが、ありすぎた。
トガは、一歩だけ前に出た。
「会いたかった」
トゥワイスは、頷いた。
「俺もだ」
「ずっと、会いたかった」
「……ああ」
「でも、会うのが怖かった」
その言葉に、トゥワイスは目を見開いた。
トガは、手を握りしめた。
「私、ジンくんがいなくなってから、いっぱい考えたの。ジンくんがいたら、何て言ってくれるかなって。ジンくんなら、私のこと、分かってくれるかなって」
彼女は、笑おうとした。
「でも、ジンくんがいたら、私は何も変わらなくてよかったのかなって。ジンくんが帰ってきたら、また昔みたいに、何も考えずに一緒にいられるのかなって」
トゥワイスは、何も言わなかった。
「私、ジンくんに会いたかった。でも、昔の私に戻りたいわけじゃないんだ」
その言葉は、彼女自身が初めて口にしたものだった。
トガは、涙をこらえながら続けた。
「昔の私が、ジンくんを好きだったことは本当だよ。今も好き。大好き。でも、好きだからって、何をしてもいいわけじゃないって、少しだけ分かった」
彼女は、目を伏せた。
「だから、もしジンくんが、昔の私に戻ってほしいって言ったら、私、困っちゃう」
トゥワイスは、ゆっくりと椅子に座った。
そして、顔を両手で覆った。
「……俺は」
声が震えた。
「俺は、お前に何を望めばいいんだよ」
トガは、顔を上げた。
「え?」
「俺は、お前に会いたかった。会って、昔みたいに笑ってほしかった。俺がいなくなったことなんて忘れて、また一緒にバカなことをしてほしかった」
彼は、手を下ろした。
「でも、それって、お前が俺のいない時間を生きたことを、俺が認めたくないだけなのかもしれない」
トガは、何も言わなかった。
「俺が死んでから、お前は生きてたんだよな」
トゥワイスは、言葉を一つずつ確かめるように続けた。
「俺が知らない時間を生きて、俺が知らない人間に会って、俺が知らないことを考えて、俺が知らないお前になった」
彼は、笑った。
「……そりゃ、当たり前だよな」
その笑顔は、ひどく悲しかった。
「俺は、お前に会いたかった。でも、お前が変わってないことを望むのは、違うんだよな」
トガの目から、涙がこぼれた。
「ジンくん……」
「お前が変わったなら、俺もそれを知らなきゃいけない。俺が知らないお前を、もう一度知る必要があるんだ」
彼は、両手を膝の上に置いた。
「だから、ヒミコ」
トガは顔を上げた。
「俺に、教えてくれないか」
「……何を?」
「お前が、俺のいない時間に、何を考えたのか」
トガは唇を震わせた。
「それ、聞いたら、ジンくんは私のこと嫌いになるかもしれないよ」
「なるかもしれない」
トゥワイスは、正直に答えた。
トガは、息を呑んだ。
「俺だって、知らないことを全部受け入れられるわけじゃない。お前がやったことを、全部正しいとは言えない。俺がいたら違ったのに、なんてことも、思うかもしれない」
彼は、目を閉じた。
「でも、俺が知らないからって、お前の人生をなかったことにはできない」
トガは、とうとう泣き出した。
声を上げて泣くことはなかった。
ただ、涙が止まらなかった。
トゥワイスは立ち上がりかけた。
抱きしめようと思った。
だが、手を止めた。
彼女が今、何を望んでいるのか分からなかったからだ。
トガは、その手を見た。
そして、自分から一歩近づいた。
「……抱きしめて」
トゥワイスは、彼女を抱きしめた。
強く。
けれど、彼女が望めばいつでも離れられるように。
二人は、しばらく何も言わなかった。
やがて、トガが彼の胸に顔を埋めたまま、小さく言った。
「ジンくん。私、あなたに会いたかった」
「……ああ」
「でも、あなたがいなくなった時間も、私の時間だったんだよね」
トゥワイスは、彼女の背中に手を置いた。
「そうだ」
「じゃあ、私、その時間のことも話すね」
「ああ」
「いいことばかりじゃないよ」
「分かってる」
「ジンくんが嫌いになるようなことも、あるかもしれない」
トゥワイスは、目を閉じた。
「それでも、聞きたい」
トガは、彼の胸の中で頷いた。
二人の間に、過去が戻ったわけではない。
罪が消えたわけでもない。
彼らの未来が、再び同じ方向を向いたと決まったわけでもない。
ただ、二人は初めて、相手が自分の知らない時間を生きたことを認めた。
そして、その時間を聞くかどうかを、互いに選んだ。
帰る場所は、過去にあるとは限らない。
かつて一緒にいた場所に戻ることだけが、再会の意味ではない。
もしかしたら、帰る場所というものは。
もう一度、相手を知ろうとするところから始まるのかもしれなかった。
6 教師が帰る場所
雄英高校の教室は、静かだった。
机も椅子も、いつもと同じ場所にある。
黒板には、前の授業で書かれた文字が残っていた。
窓から差し込む光は穏やかで、廊下の向こうからは生徒たちの声が聞こえる。
何も変わっていないように見えた。
だからこそ、相澤消太は、教室に入ることができなかった。
扉の前に立ち、教室を見つめている。
生徒たちは、ここで学んだ。
失敗した。
喧嘩した。
笑った。
泣いた。
そして、何度も立ち上がった。
彼らを守ることが、自分の仕事だった。
教師として、プロヒーローとして。
自分にできることを考え、必要ならば危険に飛び込み、彼らが未来へ進めるように道を作る。
そのために、彼は多くのものを失った。
仲間を失った。
身体を傷つけた。
そして、友人を失った。
白雲朧。
彼の名前を思い出すたび、相澤は自分の中に、今も埋まらない空白があることを思い知らされる。
その友人は、死んだ。
だが、死者たちは帰ってきた。
そして、彼の前には、もう一度問いが突きつけられている。
――お前は、何を望むのか。
「入らないのか?」
背後から声がした。
相澤は振り返らなかった。
「……プレゼント・マイク」
「何だよ。せっかく来たんだぜ?」
山田ひざしは、相澤の隣に立った。
二人で教室を見つめる。
「懐かしいだろ」
「そうだな」
「俺たちも、ここで教えるようになったんだなあ」
マイクは笑った。
「昔はさ、教師になるなんて、考えもしなかったよな」
「お前は考えたことがなかっただろうな」
「ひでえな!」
いつもの調子だった。
いつものように、軽口を叩く。
けれど、マイクの笑顔も、どこか無理をしていた。
彼らは知っている。
この教室に、もう一人の友人が戻ってきたわけではない。
白雲朧は、黒霧として存在している。
かつての友人の記憶を持ちながら、別の人格として生きている存在。
彼を白雲と呼べば、黒霧を否定することになるのか。
黒霧と呼べば、白雲の人生を消すことになるのか。
二人は、その答えをまだ見つけていなかった。
「……相澤」
マイクが、珍しく真面目な声で言った。
「会いたいか?」
相澤は目を閉じた。
「会いたい」
答えは、すぐに出た。
「会いたいに決まってる」
彼は、教室の中を見つめたまま続けた。
「だが、俺が会いたいからといって、あいつが俺に会いたいとは限らない」
マイクは黙っていた。
「白雲としての記憶が残っているとしても、今のあいつは黒霧だ。あいつが何を望んでいるのかを、俺が決めるわけにはいかない」
相澤の声は、冷静だった。
冷静であろうとしていた。
「……でもな」
彼は、拳を握った。
「それでも、俺はあいつに会いたい」
マイクは、ゆっくりと頷いた。
「それでいいんじゃねえの」
「何がだ」
「会いたいって思うことと、相手に何かを強制することは違うだろ」
相澤は、マイクを見た。
「……お前まで、そんなことを言うようになったか」
「俺だって成長するんだよ!」
マイクは胸を張った。
それから、少しだけ声を落とした。
「なあ。俺たちはさ、ずっと、あいつを取り戻したいと思ってた」
相澤は何も言わなかった。
「でも、取り戻すって何なんだろうな」
マイクは、教室の扉に手を置いた。
「白雲が戻ってくることか? 昔の三人に戻ることか? それとも、あいつが自分のことを思い出して、俺たちの名前を呼んでくれることか?」
彼は笑った。
「どれも、俺はうれしいと思う。そりゃ、うれしいよ。けどさ。あいつが今の自分を捨てなきゃいけないなら、それは本当に、あいつを取り戻すことになるのか?」
相澤は、長いあいだ黙っていた。
そして、ゆっくりと答えた。
「……分からない」
「だよな」
「だが、俺たちが会わなければ、何も始まらない」
マイクは頷いた。
「そうだな」
「ただし、会うことを強制しない。話すことを強制しない。記憶を取り戻すことも、白雲に戻ることも、強制しない」
相澤は、扉を見た。
「俺は、あいつに会いたい。だが、あいつの答えを聞く覚悟が必要だ」
「どんな答えでも?」
相澤は目を閉じた。
「……努力する」
マイクは、声を上げて笑った。
「おいおい、そこは即答しろよ!」
「嘘をつくよりはましだ」
「相変わらずだな、お前!」
二人の笑い声が、廊下に響いた。
そのとき、教室の中から声がした。
「先生?」
相澤は振り返った。
教室の奥に、生徒が一人立っていた。
彼らは、授業の準備をしていたらしい。
「どうしたんですか?」
相澤は、少しだけ目を細めた。
「……いや。何でもない」
「そうですか?」
「授業の準備をしろ」
「はい!」
生徒は元気よく返事をした。
相澤は、教室へ足を踏み入れた。
その瞬間、胸の奥にあった空白が消えたわけではなかった。
白雲に会いたいという気持ちも、何も変わらない。
だが、彼は理解した。
自分の帰る場所は、過去にだけあるのではない。
かつての友人と過ごした時間も。
今の生徒たちと過ごす時間も。
自分が守れなかったものも。
これから守りたいものも。
すべてが、自分の人生の一部なのだ。
だからこそ、過去を取り戻すために、現在を捨てる必要はない。
相澤は教壇に立った。
「席につけ。授業を始める」
生徒たちが、一斉に動いた。
いつもの音。
いつもの光景。
だが、相澤はその一つ一つを、以前よりも強く意識していた。
この教室にいる生徒たちは、いつか卒業する。
いつか、自分のもとを離れる。
いつか、彼ら自身の帰る場所を見つける。
そのとき、教師である自分にできるのは、彼らの人生を代わりに選ぶことではない。
自分の意思で未来へ進めるように、教えることだ。
「今日の授業は――」
相澤は黒板に向かった。
「自分で考えることについてだ」
生徒の一人が、小声で言った。
「先生、それいつもじゃないですか?」
教室に笑いが起きた。
相澤は振り返った。
「文句があるなら、追加課題を出す」
「すみませんでした!」
再び笑いが起きる。
その笑い声を聞きながら、相澤はほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
彼の帰る場所は、まだ失われていない。
ただ、その場所が一つだけではなかったということを、彼はようやく認め始めていた。
7 帰る場所がない者たちの会議
夜。
帰還者一時保護区画の中央室に、数人の人間が集められていた。
死神。
マグネ。
治崎廻。
そして、安寧システムの管理者として、ホログラム状の人影が立っている。
その姿は、人間に似ていた。
しかし、顔の輪郭は定まらない。
人間の顔を模倣しているのか。
あるいは、見る者の記憶に合わせて姿を変えているのか。
分からなかった。
「本日の審査結果を報告します」
管理者が告げた。
「帰還者のうち、過去の所属先への復帰を希望する者は、全体の四十二パーセントです。過去の家族との接触を希望する者は、三十一パーセント。過去の所属先への復帰を拒否する者は、二十七パーセント」
マグネが眉をひそめた。
「残りは?」
「意思表示が確認できない対象者です」
「意思表示が確認できない?」
「記憶の混乱、精神的動揺、身元情報の欠損などにより、現時点で選択が困難と判断された対象者です」
「それは、本人が答えられないってこと?」
「はい」
「じゃあ、答えられるまで待てばいいじゃない」
管理者は、間を置かずに答えた。
「無期限の保護は、社会的資源の配分に影響します」
マグネは目を細めた。
「……なるほどね」
治崎が口を開いた。
「保護を打ち切るということか」
「いいえ。保護区画の再編成を検討しています」
「言い方を変えただけだ」
管理者は否定しなかった。
死神は、静かにそのやり取りを聞いていた。
彼は、死者たちが戻ってきたことを喜んでいないわけではない。
だが、死者が戻ることを、無条件に救済だとも思っていなかった。
死は、終わりである。
生きている者にとって、死者の帰還は奇跡かもしれない。
しかし、死者自身にとっては、終わったはずの時間に、もう一度立たされることでもある。
自分が知らない未来。
自分がいない間に変わった世界。
自分が失ったもの。
自分が傷つけた人々。
死者が帰ってきたからといって、過去が巻き戻るわけではない。
「一つ、確認したい」
死神が言った。
管理者が、彼の方を向く。
「帰還者の意思表示が確認できない場合、その者の保護を継続するかどうかを、誰が決める?」
「管理者が、客観的な基準に基づいて判断します」
「客観的な基準とは?」
「社会復帰の可能性、本人の精神状態、過去の行動記録、社会に与える影響などです」
死神は、目を閉じた。
「本人の意思が分からないから、本人の未来を決める。そういうことか」
「現時点では、合理的な方法です」
「合理的であることと、正しいことは同じではない」
管理者は答えなかった。
死神は続けた。
「本人が答えられないなら、答えられるようになるまで待つ。本人が自分の意思を見つけられないなら、意思を見つけるための時間を与える。それができないほど、社会は脆いのか?」
「保護対象が増加した場合、既存の社会機能に負荷が発生します」
「ならば、社会機能を調整すればいい」
「その調整には、他の市民の生活への影響が伴います」
「当然だ」
死神は、管理者を見つめた。
「人を生かすというのは、何の影響も出さずに済むことではない。誰かが生きることで、誰かの生活が変わることはある。それをすべて避けようとすれば、最終的には誰も生きられなくなる」
治崎が、静かに頷いた。
マグネは腕を組んだ。
「そういうこと。帰還者をどうするかって話だけじゃない。そもそも、この社会が、予定どおりにいかない人間をどう扱うかって話でしょ」
管理者は、三人を順番に見た。
「それでは、提案を求めます」
マグネは即座に答えた。
「本人の意思を確認するまで、保護を続ける。選択肢を用意する。過去の所属先に戻る以外の道も用意する。帰りたくない人間が、帰らないことを選べるようにする」
「社会復帰の可否については?」
治崎が答えた。
「犯罪歴のある対象者については、過去の行為に応じた責任を求めるべきだ。ただし、過去の記録だけで未来の行動を確定させることはできない」
管理者は、死神を見た。
「死神。あなたの提案は?」
死神は、しばらく考えていた。
そして、ゆっくりと答えた。
「名前を、返せ」
管理者の輪郭が揺れた。
「……詳細を求めます」
「帰還者を、番号で呼ぶな。処理対象と呼ぶな。過去の所属先で定義するな。犯罪記録だけで定義するな」
死神は、壁の表示を見た。
そこには、身元情報が不完全な者たちの一覧があった。
名前がある者。
名前を失った者。
名前が記録から消された者。
そして、自分の名前を思い出せない者。
「名前は、記録のためにあるのではない。本人が自分を名乗るためにある。本人がまだ名乗れないなら、名乗れるようになるまで待てばいい」
死神は、静かに言った。
「本人が望まない名前を、与えるな」
その言葉を聞いた瞬間、管理者の表示にノイズが走った。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ。
管理者の顔が、別の誰かの顔に見えた。
若い女性。
白い服。
こちらを見つめる、悲しげな瞳。
死神は息を止めた。
その顔を、知っている気がした。
いや。
知っている。
絶対に、知っている。
だが、記憶の奥へ手を伸ばした瞬間、そこには何もなかった。
ただ、白い空間。
そして、遠くから聞こえる声。
――あなたが、最初に眠らせた人。
死神の指先が震えた。
「……今のは」
管理者が答える。
「表示上の異常は確認されていません」
「嘘をつくな」
死神の声が低くなった。
「今、誰かの顔が見えた」
「該当する情報はありません」
「お前の記録に、何が隠されている?」
「私は、管理者です。個別の記憶情報は保持していません」
「なら、なぜ今、私の記憶に干渉した?」
管理者は答えなかった。
マグネが、死神の方を向いた。
「……死神?」
彼は返事をしなかった。
視線は、管理者に固定されている。
その目には、怒りがあった。
だが、その怒りの奥に、もっと深いものがあった。
恐怖。
自分が何を忘れているのか、分からないことへの恐怖。
自分が何をしたのか、知らないことへの恐怖。
そして、もしも自分が本当に誰かを忘れたのだとしたら。
その人が、今も自分を待っているかもしれないという恐怖。
「……会わせろ」
死神が言った。
「誰に?」
「最初の死者に」
その言葉を口にした瞬間、室内のすべての端末が停止した。
照明が落ちる。
壁の表示が消える。
管理者の輪郭が崩れ、声だけが残った。
「その対象への接触は、許可されていません」
死神は、一歩前へ出た。
「なぜだ」
「対象者の記録は、世界の成立以前に存在します」
「知っている」
「対象者の記録を復元した場合、現在の世界構造に重大な影響が発生する可能性があります」
「それでもだ」
「死神。あなたは、その対象者との接触によって、現在の自己認識を維持できなくなる可能性があります」
死神は、笑った。
「……それが何だ」
「あなたの存在そのものが、変化する可能性があります」
「私は、死神だ」
彼は、はっきりと言った。
「死者を眠らせる者だ。死を管理する者だ。だが、私自身の記憶が消されているのなら、私もまた、自分の過去を知らない者の一人にすぎない」
彼は管理者を見つめた。
「自分が何をしたのかを知らずに、他人の死を語ることはできない」
その言葉に、管理者は沈黙した。
長い沈黙だった。
やがて、画面の一つに文字が浮かび上がった。
接触申請を受理しました。
対象者本人の意思確認が必要です。
ただし、対象者の現在の所在は不明です。
死神は、目を閉じた。
会えるとは限らない。
記憶が戻るとも限らない。
そして、相手が自分に会いたいと思っているとも限らない。
それでも、彼は初めて、自分が何を望んでいるのかを認めた。
彼は、最初の死者に会いたい。
その者が自分を恨んでいても。
自分を拒絶しても。
自分が取り返しのつかないことをしていたとしても。
知らないまま、忘れたままでいることだけは、もう選べなかった。
8 名前を持たない少女
その夜、緑谷出久は眠れなかった。
部屋の明かりを消しても、目を閉じることができなかった。
頭の中に、いくつもの言葉が浮かんでは消える。
患者番号零。
最初の死者。
世界の成立以前。
名前を失った者。
そして、自分の知らない妹。
妹。
その言葉を考えるたび、胸の奥が痛んだ。
妹がいたのかもしれない。
自分が知らないだけで。
記録から消されているだけで。
あるいは、そもそも、この世界に存在していないことにされているだけで。
彼は、枕元の端末に手を伸ばした。
画面には、母からのメッセージが残っている。
『無理に答えを出さなくていいからね』
短い文章だった。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になった。
彼は、端末を置いた。
妹が存在するのなら、会いたい。
どんな子なのか知りたい。
何が好きで、何が嫌いで、どんなことを考えていたのか知りたい。
自分を兄だと思ってくれるのか。
自分を知らないままでいたいのか。
それも、分からない。
そして、彼はもう一つのことに気づいていた。
自分は、妹に会いたいと思っている。
だが、その願いが彼女にとって幸せなのかどうかは、分からない。
会いたいという願いは、相手にも会いたいと思ってほしいという願いと、どこかで結びついてしまう。
けれど、相手には相手の人生がある。
相手には、相手の記憶がある。
相手には、自分の知らない願いがある。
自分が兄だからといって、彼女の人生に入る権利があるわけではない。
出久は、両手で顔を覆った。
「……難しいな」
ヒーローになるために、彼は多くのことを学んできた。
誰かを助けるために、何ができるのか。
力がないなら、どうすればいいのか。
危険が迫っているとき、何を優先するのか。
だが、誰かを助けたいという願いそのものが、相手を縛ってしまうこともある。
自分が正しいと思う道を、相手にも歩ませようとしてしまうこともある。
それを、彼は何度も見てきた。
そして、自分自身も、同じ過ちを犯すかもしれない。
「……会いたいよ」
彼は、誰もいない部屋でつぶやいた。
「でも、君が会いたくないなら、無理に会いたいとは言わない」
言葉にした瞬間、胸の奥が締めつけられた。
会いたくないと言われたら、きっと傷つく。
自分が兄だと認めてもらえなかったら、悲しい。
自分が知らないところで彼女が苦しんでいたのなら、何もできなかった自分を責めるだろう。
それでも。
その悲しみを理由に、彼女の選択を奪うことはできない。
出久は、ベッドから起き上がった。
机の上に置かれたノートを開く。
彼は、そこに一つの文章を書いた。
君が誰なのか、僕はまだ知らない。
君が僕の妹なのかどうかも、まだ分からない。
でも、もし君がこの世界にいるのなら。
僕は、君のことを知りたい。
ただし、君が望む形で。
僕が君の兄であることを、君に押しつけないために。
君が自分の人生を選べるように。
書き終えたとき、ノートの端に、小さな文字が浮かび上がった。
出久は息を止めた。
文字は、彼の筆跡ではなかった。
お兄ちゃん。
たった四文字。
彼は、ノートを落としかけた。
「……誰?」
返事はない。
文字が揺らぎ、消えかける。
出久は、慌ててノートを押さえた。
「待って!」
声が、部屋に響いた。
「お願い、待って!」
文字は消えなかった。
その下に、もう一行が現れる。
わたしは、まだ、帰れない。
出久は、息を呑んだ。
さらに、文字が続く。
でも、あなたが、わたしのことを忘れないでいてくれるなら。
いつか、帰る場所を選べるかもしれない。
出久の目から、涙がこぼれた。
「……忘れないよ」
彼は、ノートを胸に抱いた。
「忘れない。君が誰なのか、まだ分からなくても。君が僕に会いたいと思っているのか、まだ分からなくても」
彼は、震える声で続けた。
「君が、自分で選べるようになるまで。僕は、君のことを忘れない」
その瞬間、部屋の空気が揺らいだ。
遠くで、誰かが笑ったような気がした。
あるいは、泣いたような気がした。
出久は顔を上げた。
部屋には、誰もいなかった。
ノートに残された文字も、もう消えていた。
だが、彼は知っていた。
今の言葉は、夢ではなかった。
彼女は、まだ帰れない。
帰る場所を失ったのか。
帰る場所を奪われたのか。
それとも、帰ることそのものを許されていないのか。
まだ、分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
彼女は、まだ自分の名前を名乗っていない。
出久は、ノートを閉じた。
そして、初めて、そのことを恐ろしいとは思わなかった。
名前が分からないからといって、存在しないわけではない。
名前を知らないからといって、忘れていいわけでもない。
彼女が自分で名乗る日が来るまで。
彼女が自分の人生を選ぶ日が来るまで。
その名前を、勝手に決めない。
それは、彼が兄としてできる、最初の約束だった。
9 世界の外側で、誰かが待っている
世界の外側には、夜がなかった。
昼もなかった。
時間が流れているのかどうかさえ、確かではなかった。
そこには、記録だけがあった。
生まれた者の記録。
死んだ者の記録。
存在したことを認められた者の記録。
そして、存在したことそのものを、消された者の記録。
そのすべてが、どこまでも続く白い空間に並んでいた。
一つの記録が、かすかに光っている。
患者番号零。
名前はない。
年齢もない。
出生記録もない。
死亡時刻は、世界の成立以前。
死因は、世界の創造。
そして、最後の願いだけが、消されずに残っていた。
世界を、私の知らない未来へ進ませて。
その記録の前に、一人の女性が立っていた。
白い服。
長い髪。
顔は、はっきりと見えない。
彼女は、記録に触れようとして、手を止めた。
触れれば、何かが変わる。
それは分かっていた。
しかし、何が変わるのかは分からない。
彼女自身の記憶が戻るのか。
世界の記録が書き換わるのか。
死神が、忘れたものを思い出すのか。
あるいは、世界そのものが、今とは違う形に変わるのか。
「……まだ、早い」
彼女はつぶやいた。
その声は、誰にも届かないはずだった。
だが、記録の奥で、何かが応答した。
――どうして?
彼女は、目を閉じた。
「彼が、まだ、自分の罪を知らないから」
――あなたは、彼を許すの?
「分からない」
彼女は、正直に答えた。
「許せるかどうかも、分からない。会いたいのかどうかも、分からない。私は、彼のことを覚えているはずなのに、彼が何をしたのか、すべてを思い出せない」
彼女は、記録に手を伸ばした。
「でも、彼が自分の罪を知らないまま、私を救ったと思い込むことだけは、許したくない」
――ならば、なぜ、彼に会わないの?
彼女は、手を止めた。
長い沈黙。
やがて、彼女は答えた。
「……彼が、私に会いたいから」
――それでは、彼の願いを拒絶するの?
「違う」
彼女は、顔を上げた。
「彼が私に会いたいと思うことを、否定したくない。けれど、その願いを叶えるために、私が自分の意思を捨てることもしたくない」
彼女は、記録を見つめた。
「私は、彼に会うかどうかを、自分で選びたい」
――あなたは、世界を作った者なのに?
「だからこそよ」
彼女の声が、わずかに震えた。
「世界を作ることと、世界のすべてを決めることは違う。誰かを生み出すことと、その人の未来を所有することも違う」
彼女は、白い空間を見渡した。
「私は、それを間違えたのかもしれない」
――あなたは、何を願えばよかったのだろう?
その問いを聞いた瞬間、彼女の顔から、表情が消えた。
その言葉を知っている。
誰かが、かつて同じ問いを口にした。
あるいは、自分自身が。
彼女は、記録の前に膝をついた。
「……私は、願うことが許されていなかった」
声が、かすれた。
「誰かを失いたくないと願うことも。誰かに愛されたいと願うことも。誰かに会いたいと願うことも。私は、それを願うことすら、許されていなかった」
彼女は顔を覆った。
「だから、世界を作ったのかもしれない」
白い空間が、わずかに揺れた。
「願うことが許されないなら、願いが必要ない世界を作ればいい。誰も失わない世界。誰も悲しまない世界。誰も、選ばなくていい世界」
彼女は笑った。
泣いているような笑顔だった。
「でも、それは、私が誰かの未来を奪うことだった」
記録が、光を増した。
彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
「私は、もう一度、選びたい」
――何を?
「彼に会うかどうかを」
彼女は、まっすぐに前を見た。
「そして、彼に会ったとき、何を話すかを」
白い空間の奥で、何かが動いた。
それは、人間の姿をしていなかった。
形があるのかどうかも分からない。
ただ、世界のすべてを見つめるような、巨大な気配だけがあった。
その気配は、彼女に問いかけた。
――あなたが選べば、世界は変わる。
彼女は、答えた。
「ええ」
――あなたが選べば、彼も変わる。
「ええ」
――それでも、選ぶの?
彼女は、目を閉じた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「今度こそ」
彼女の手が、記録に触れた。
その瞬間、遠く離れた世界で、死神が目を覚ました。
10 死神が忘れたもの
死神は、自分の部屋に戻っていた。
だが、椅子に座ることも、目を閉じることもできなかった。
頭の中に、断片的な光景が浮かんでいる。
白い空間。
誰かの手。
泣いている少女。
自分の声。
そして、彼女が言った言葉。
――あなたは、私を忘れたのね。
死神は、両手を握りしめた。
「……私は、何をした?」
誰も答えない。
彼は、自分の記録を呼び出した。
そこには、いつものように、無数の情報が並んでいた。
死者の記録。
死を迎えた者たちの記録。
死を拒んだ者たちの記録。
そして、自分自身の記録。
その一角に、新しい文字が浮かび上がっていた。
記憶情報の更新を確認しました。
対象:死神
更新内容:未分類の記憶断片
関連対象:患者番号零
関連性:不明
死神は、息を止めた。
「……患者番号零」
その名を口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
名前ではない。
番号だ。
彼女は、番号で呼ばれることを望んでいないかもしれない。
だが、彼はまだ、その名を知らない。
彼女が自分で名乗るまで、勝手に名前を与えることもできない。
それでも。
彼は、記録を見つめた。
「私は、あなたを忘れたのか」
その問いに、記録は答えなかった。
死神は、目を閉じた。
彼は、死者を眠らせる。
死者の苦しみを終わらせる。
死という終わりを、尊重する。
そうしてきた。
だが、もしも彼が最初に眠らせた者が、死を望んでいなかったのだとしたら。
もしも彼が、誰かの願いを聞かずに、その人を眠らせたのだとしたら。
もしも、その相手が、自分に会うことを望んでいなかったのだとしたら。
自分は、どうすればいいのだろう。
死神は、ゆっくりと目を開けた。
「……会いたい」
その言葉は、誰にも聞かせるつもりのないものだった。
「あなたが私を拒絶しても。あなたが私を許さなくても。私は、あなたに会いたい」
彼は、自分の手を見た。
「だが、あなたが会いたくないのなら、私は待つ」
そのとき。
記録の一角に、新しい文字が浮かび上がった。
接触申請に対する回答を受信しました。
死神は、息を止めた。
画面が切り替わる。
そこに表示されたのは、たった一文だった。
まだ、会いたくありません。
死神は、目を閉じた。
胸の奥が、痛んだ。
予想していた答えだった。
それでも、実際に目にすると、痛みは消えなかった。
彼女は、会いたくないと言った。
ならば、自分は待つ。
それが、彼女の意思を尊重するということだ。
だが、画面の下に、もう一文が浮かび上がった。
でも、あなたが私を忘れないでいてくれるなら、いつか、会うかもしれません。
死神は、長いあいだ、その言葉を見つめていた。
そして、静かに答えた。
「……忘れない」
その瞬間、画面が消えた。
死神の記録から、何かが消えたのか。
それとも、何かが戻ったのか。
彼には分からなかった。
ただ、初めて、自分が死者を眠らせる者である前に、一人の人間だったのかもしれないと思った。
そして、彼が忘れた名前は、まだ戻ってこない。
11 帰る場所を作る者
翌朝。
保護区画の一角に、新しい部屋が用意されていた。
大きな部屋ではない。
窓があり、テーブルがあり、椅子がいくつか置かれている。
壁には、白紙の掲示板がある。
誰かが、そこに一枚の紙を貼った。
ここは、帰る場所が決まっていない人のための部屋です。
何をする場所なのか、まだ決まっていません。
誰が使うのかも、まだ決まっていません。
ここで何をするかは、ここに来た人たちが決めます。
その下には、手書きで付け足されていた。
ただし、誰かの意思を勝手に決めることは禁止。
マグネは、その紙を見て笑った。
「最後の一文、誰が書いたの?」
治崎が答えた。
「私だ」
「でしょうね」
「不満か」
「いいえ。あんたにしては、いいことを書いたじゃない」
「褒めているのか」
「半分くらいはね」
マグネは椅子に座った。
部屋には、まだ誰もいなかった。
「ここ、何に使うの?」
「さあな」
治崎は、窓の外を見た。
「帰還者が、自分の今後について考えるための場所だ。家族に会いたい者も、会いたくない者も。過去の所属先へ戻りたい者も、戻りたくない者も。何を望んでいるのか分からない者も」
「つまり、何も決まってないってことね」
「そうだ」
「ふふっ」
マグネは笑った。
「いいじゃない。最初から決まってる場所なんて、つまらないもの」
治崎は、彼女を見た。
「お前は、ここにいるつもりか」
「さあね」
マグネは肩をすくめた。
「帰る場所が見つかったら、出ていくかもしれない。見つからなかったら、ここにいるかもしれない。別の場所を作りたくなるかもしれない」
「随分と曖昧だな」
「人生って、そういうものでしょ」
治崎は、返事をしなかった。
だが、否定もしなかった。
そのとき、扉が開いた。
一人の帰還者が、恐る恐る顔を覗かせる。
「……ここは?」
マグネが、笑顔で手を振った。
「いらっしゃい。何をする場所か、まだ決まってない部屋よ」
帰還者は、戸惑った顔をした。
「それで、いいんですか?」
「いいのよ。決まってないなら、これから決めればいいじゃない」
その人は、しばらく迷っていた。
そして、部屋に入った。
椅子に座る。
何も話さない。
ただ、座っている。
マグネは、何も聞かなかった。
治崎も、何も聞かなかった。
ここに来た理由を説明する必要はない。
何を望んでいるのか、すぐに答える必要もない。
帰る場所がないことを、恥じる必要もない。
その部屋は、まだ何も解決していなかった。
だが、誰かが初めて、自分の意思でそこに座った。
それだけで、何かが始まっていた。
12 帰る場所のない世界
その日の夕方。
出久は、保護区画の窓から街を眺めていた。
トガは、トゥワイスと話をしている。
ホークスは、二人から少し離れた場所に立っていた。
マグネと治崎は、帰還者のための新しい部屋を整えている。
相澤は、授業を終えた後、黒霧との接触申請について確認を続けている。
轟家では、燈矢のための椅子が、食卓の端に残されている。
それぞれが、何かを選ぼうとしていた。
まだ、答えは出ていない。
許せないことがある。
忘れられないことがある。
戻れない時間がある。
会いたい人がいる。
会いたくない人もいる。
そして、自分が何を望んでいるのかさえ、分からない者もいる。
それでも、彼らはここにいる。
出久は、窓に映る自分の顔を見た。
自分もまた、帰る場所を失った者の一人なのかもしれない。
かつての自分には、明確な目標があった。
ヒーローになること。
誰かを救うこと。
自分の力で、世界を変えること。
だが、個性を失った今、その目標は同じ形では成立しない。
それでも、誰かを助けたいという気持ちは消えていなかった。
ならば、ヒーローとは何なのだろう。
力を持つ者のことなのか。
社会から認められた者のことなのか。
危険な現場へ飛び込む者のことなのか。
あるいは、誰かが困っているときに、手を差し伸べる者のことなのか。
出久は、窓の外を見た。
街では、誰かが荷物を落としていた。
別の誰かが、それを拾っている。
二人は短く言葉を交わし、別々の方向へ歩いていった。
何の変哲もない光景だった。
だが、出久は、その光景を見つめ続けた。
もしも、誰もが誰かを助けられる世界になったら。
もしも、助けることが特別な資格ではなく、誰もが選べる行為になったら。
もしも、ヒーローという言葉が、職業や能力を意味するのではなく、誰かのために何かをしようとする意思を意味するようになったら。
その世界では、ヒーローは暇になるのだろうか。
危険な事件が減り、誰もが互いを助けるようになれば、プロヒーローの出番は少なくなるのかもしれない。
それは、ヒーローという職業の終わりなのだろうか。
それとも、ヒーローという理想の始まりなのだろうか。
出久は、まだ答えを知らなかった。
だが、ホークスが窓の外を見つめていることに気づいた。
「ホークスさん」
「ん?」
「……誰もが誰かを助けられる世界って、実現できると思いますか?」
ホークスは、しばらく黙っていた。
そして、いつもの軽い笑顔を浮かべた。
「できるかどうかは、分かりません」
出久は、少しだけ肩を落とした。
ホークスは続けた。
「でも、目指す価値はあると思いますよ」
彼は窓の外を見た。
「ヒーローがいらなくなる世界って、ヒーローがいない世界とは違うんじゃないですかね」
出久は顔を上げた。
「どういう意味ですか?」
「誰かが困っているとき、必ずプロヒーローが来てくれる。そういう世界も、悪くない。でも、誰かが困っているとき、近くにいる人が助けてくれる世界なら、もっといい」
ホークスは、少しだけ笑った。
「ヒーローが暇になるってことは、誰かが助けを求める前に、誰かが気づいてくれるようになったってことかもしれない」
「……それは」
出久は、言葉を失った。
「もちろん、危険な事件が全部なくなるわけじゃない。人間が誰も傷つけなくなるわけでもない。専門家が必要なくなるわけでもない」
ホークスは続けた。
「でも、誰かが助けを求めたときに、社会が『それはヒーローの仕事だから』って、全部をプロに押しつける必要はないんです」
彼は、自分の背中に手を伸ばした。
「私たちが飛べなくても。個性がなくても。誰かを助けたいと思うことはできる」
出久は、ゆっくりと頷いた。
「……そうですね」
ホークスは、彼を見た。
「緑谷くん。君は、個性がなくなっても、誰かを助けたいと思いますか?」
出久は、即座に答えた。
「はい」
その答えは、以前と同じだった。
だが、以前とは少し違う意味を持っていた。
彼はもう、自分が強くなれば誰かを救えると思っているだけではない。
自分が誰かを救いたいと思うことと、相手が何を望んでいるのかを聞くこと。
自分の正義を押しつけることと、相手が自分で選べるように支えること。
その違いを、少しずつ理解し始めていた。
「僕は、誰かを助けたいです」
出久は、窓の外を見た。
「でも、誰かの人生を代わりに選びたいわけじゃない」
ホークスは、静かに頷いた。
「それなら、きっと大丈夫ですよ」
その言葉に、出久は笑った。
窓の外では、夕日が沈み始めていた。
街の明かりが、一つずつ灯っていく。
誰かが帰宅する。
誰かが仕事へ向かう。
誰かが、見知らぬ人のために足を止める。
そのすべてが、誰かの人生だった。
誰かの帰る場所だった。
そして、帰る場所を失った者たちは、今、もう一度、自分の居場所を探し始めている。
過去に戻るためではなく。
誰かに許されるためだけでもなく。
自分の意思で、これからを選ぶために。
そのとき、出久の端末が震えた。
新しい通知が届いている。
送り主は、表示されていない。
本文には、一文だけがあった。
帰る場所を作ることと、帰ることを許すことは、同じではありません。
出久は、その文章を見つめた。
次の瞬間、画面にもう一行が浮かんだ。
あなたは、誰を帰らせたいのですか?
出久は、息を止めた。
それは、彼がこれまで何度も自分に問いかけてきたことだった。
誰を救いたいのか。
誰を助けたいのか。
誰を、もう一度こちら側へ連れ戻したいのか。
死柄木弔。
轟燈矢。
トガヒミコ。
そして、名前さえ知らない妹。
彼は、誰もが帰ってこられる世界を望んでいた。
だが、誰もが帰りたいと思っているとは限らない。
誰かを帰らせたいという願いは、相手が帰りたくないと答えたとき、どうなるのだろう。
出久は、端末を握りしめた。
そして、ゆっくりと文字を打った。
僕は、誰かを無理に帰らせたいわけじゃありません。
その人が帰りたいと思ったとき、帰る場所を選べる世界にしたい。
帰りたくないと答えたときも、その答えを聞ける世界にしたい。
送信ボタンを押す。
画面が暗くなった。
返事はなかった。
だが、彼は後悔しなかった。
その答えが正しいかどうかは、まだ分からない。
それでも、今の自分が選べる答えは、それだった。
その夜、世界の外側で、一つの記録が更新された。
選択の記録を保存しました。
対象:緑谷出久
選択内容:帰還の強制を拒否。
関連対象:患者番号零
記録者:不明。
そして、その記録の下に、誰かの手書きのような文字が浮かび上がった。
ありがとう、お兄ちゃん。
13 次の扉
深夜。
死神は、世界の外側へ続く扉の前に立っていた。
扉は、白かった。
取っ手も、鍵穴もない。
ただ、そこに存在している。
これまで何度も、この扉の前に立ったことがあるような気がした。
だが、記憶はない。
誰と来たのか。
何をしに来たのか。
扉の向こうに何があるのか。
何一つ、思い出せない。
死神は、手を伸ばした。
その瞬間、背後から声がした。
「行くのか」
振り返ると、管理者の影が立っていた。
「止めるつもりか」
「あなたの選択を止める権限はありません」
「なら、なぜ来た」
「警告するためです」
死神は、扉を見つめた。
「言え」
「扉の向こうにあるのは、あなたが失った記憶だけではありません。あなたが忘れたことによって成立した世界も、そこに含まれています」
死神は、静かに頷いた。
「分かっている」
「記憶が戻れば、あなたが守ってきた秩序が崩れる可能性があります」
「それでもだ」
「あなたが、あなたでなくなる可能性もあります」
死神は、少しだけ笑った。
「私は、自分が何者なのかを知らないまま、ずっと死者を眠らせてきた」
彼は扉に手を置いた。
「もし、私が何者でもなかったとしても。もし、私が取り返しのつかない過ちを犯していたとしても。それを知らずに、正しいふりを続けることはできない」
管理者は、沈黙した。
死神は続けた。
「私は、最初の死者に会いたい」
「対象者は、まだ接触を望んでいません」
「知っている」
「それでも?」
「それでも、私は待つ」
死神は、扉から手を離した。
「会いたいという願いを持つことと、相手に会うことを強制することは違う。私は、相手が選ぶまで待つ」
彼は、管理者を見た。
「だが、私が何をしたのかを知ることまで、放棄するつもりはない」
そのとき、扉の表面に、文字が浮かび上がった。
記憶の復元には、本人の同意が必要です。
死神は、その文字を見つめた。
そして、ゆっくりと答えた。
「……そうだな」
彼は、扉の前に座った。
待つことにした。
彼女が会いたいと思うまで。
彼女が、自分の名前を名乗るまで。
彼女が、自分の記憶を取り戻すことを望むまで。
死神は、そこに座っていた。
世界の外側には、時間がない。
それでも、待つことはできる。
待つことを選ぶことはできる。
その選択が、彼にとって何よりも難しいものだったとしても。
そして、扉の向こうで。
誰かが、静かに泣いていた。
その涙の理由を、死神はまだ知らない。
彼が知るのは、もっと先のことになる。
自分が最初に眠らせた者の名前。
自分が忘れた約束。
世界が生まれた理由。
そして、世界を作った者が、何を願い、何を諦めたのか。
そのすべてが明らかになるまで、まだ時間が必要だった。
扉の表面に、最後の一文が浮かび上がる。
帰る場所は、誰かが用意するものではない。
自分で選び、相手と交渉し、時には作り直すものだ。
死神は、その文字を見つめた。
「……ならば」
彼は、目を閉じた。
「私は、もう一度、選ぶことから始めよう」
その言葉を最後に、扉は静かに光を失った。
だが、消えたわけではない。
そこにある。
いつか、誰かが自分の意思で開く日を待っている。
今回の結末
帰還者たちは、まだ帰る場所を見つけていない。
燈矢は家族の食卓に座らず、母の謝罪も父の後悔も、すぐには受け取らなかった。
トガとトゥワイスは再会したが、過去へ戻るのではなく、互いが知らない時間を生きたことを認め始めた。
ホークスは、翼を失った自分にも、誰かを助ける道があるのかもしれないと考え始めた。
相澤は、黒霧を白雲に戻すことだけが再会ではないと認めながら、それでも友人に会いたいと願った。
治崎とマグネは、帰還者が過去の所属先へ戻る以外の選択肢を持てるよう、小さな場所を作り始めた。
そして、出久は、まだ名前のない妹から「お兄ちゃん」と呼ばれた。
だが、彼女はまだ帰れない。
死神もまた、最初の死者との再会を拒まれた。
それでも、待つことを選んだ。
帰る場所とは、過去の姿に戻ることではない。
誰かに許されることだけでもない。
自分が何を望むのかを知り、相手が何を望むのかを聞き、それでも共にいられる道を探すこと。
彼らは、その最初の一歩を踏み出したばかりだった。