IS〈インフィニット・ストラトス〉蒼穹の亡霊 作:右左右左右
午前六時三十二分。
雨宮朔は、机の上に置いた携帯端末を見つめていた。
昨夜届いた二通のメッセージ。
――提出された記録を、信用するな。
――あの試験には、続きがある。
送信元の情報は表示されていない。
添付されていた映像ファイルにも、送り主を特定できる情報は付いていなかった。
朔はまだ、そのファイルを開いていない。
「……送信元は?」
《特定できていません》
「通信の経路は?」
《複数の中継点を経由しています。確認できる範囲では、送信元の特定に至っていません》
朔は椅子の背にもたれた。
昨夜の時点で、添付ファイルは隔離してある。端末上で不用意に実行されないようにし、ほかの記録にも触れられない状態にしていた。
それでも、安全だと確認できたわけではない。
「……あの試験、か」
学園へ提出された映像に映っていたのは、昔の調整施設だった。
朔自身も、そこで機体を動かしたことを覚えている。
短距離の移動。
姿勢制御。
停止と再起動。
機体側の調整が終わるたび、同じような操作を何度も繰り返した。
それ自体は珍しいことではない。
だが、あの試験には続きがある。
その言葉が指しているものを、朔は一つに絞れなかった。
試験は一日で終わったわけではないし、同じ施設で別の調整も行っている。
記録の一部だけを見せられても、どの日の、どの作業を指しているのかまでは分からない。
「……まず、開ける状態にできるかだな」
《隔離環境での静的解析を開始しますか?》
「頼む。外部通信は遮断したままで」
《了解しました》
朔は端末を机へ置いた。
解析結果が出るまで、ほかの作業を進める。
今日は、IS学園からの連絡を待つことになっていた。
右腕の負傷について、医師の診察を受けるための連絡だ。
その診断結果を踏まえて、今後の操縦能力の検証方法が検討されることになっている。
どちらも、もう後回しにはできない問題だった。
◇
東京湾に浮かぶIS学園。
事務棟の一室では、昨日提出された報告書をもとに、今後の検証方法についての協議が行われていた。
「……実機を起動させる前に、やるべきことがあるわね」
上席の女性職員は、資料に目を通しながら言った。
対外窓口の担当者が頷く。
「雨宮君の右腕の診察ですね」
「ええ。負傷しているそうだけれど、診断書は提出されていないのでしょう?」
「はい。本人には、医師による診察が必要だと伝えています」
上席の女性は次の頁を開いた。
そこには、候補者が使用したとされるISについて、現在までに判明している情報がまとめられている。
機体形式、不明。
管理者、不明。
コアの識別情報、未提出。
訓練記録の出所、未確認。
「……機体の方も、ほとんど分からないままね」
「本人は操縦する権限があると話していますが、その根拠は確認できていません」
「その状態で学園へ持ち込むことは認められないわ」
「はい」
女性は書類を閉じた。
IS学園には訓練施設がある。
だが、だからといって、正体不明の機体を無条件で受け入れられるわけではない。
何より、男子生徒の候補者に関する問題は、それだけで各方面の関心を集める可能性がある。
「まずは右腕の診察を受けてもらいましょう。操縦能力の検証については、診断結果を確認してから判断するわ」
「医療機関はどうしましょうか」
「本土で、学園側が信頼できる医療機関を手配して。まだ学園への立ち入りを許可しているわけではないもの」
「承知しました」
「ただし、負傷の詳しい経緯まで聞き出す必要はないわ。医師が診察に必要だと判断した内容については、本人から説明してもらうことになるでしょうけれど」
担当者は頷いた。
学園として知る必要があるのは、朔が安全に操縦能力の検証を受けられる状態かどうかだった。
もちろん、医師が診察したからといって、それだけでISの操縦能力が証明されるわけではない。
また、医学的に異常が見つからなかったとしても、直ちに実機の操縦を許可できるとは限らない。
「診察を受けてもらった後、必要なら操縦負荷を伴わない検査から始めることになりますね」
「そうね。ただし、シミュレーターでの操作が上手だったとしても、それだけでは男性がISを起動できる証明にはならないわ」
「はい」
「最終的には実機を用いた確認が必要になるでしょう。でも、負傷が治っていないのなら無理はさせられない」
担当者は新しい連絡文を作成し始めた。
右腕の負傷について医師の診察を受けてもらうこと。
診察は本土の医療機関で行うこと。
診断結果のうち、実機検証の安全判断に必要な情報を学園側へ提出してもらうこと。
その三点を、候補者本人へ伝える。
◇
午前九時十分。
朔の端末に、IS学園からの通知が届いた。
――右腕の負傷に関する診察について。
――提出された資料には、現在の負傷状態を示す診断書が含まれていません。
――実機による操縦能力の検証を安全に実施するため、医師の診察を受けていただく必要があります。
――診察は、学園側が手配する本土の医療機関で受けていただく予定です。
朔は画面を読み終えた。
「……やっぱり病院か」
《現在の症状を考慮すると、医師による診察は適切と考えられます》
「分かってるよ」
朔は包帯の巻かれた右腕を見た。
傷そのものは落ち着いてきている。
しかし、問題は目に見える部分だけではなかった。
数日前の戦闘。
あのとき機体へ与えた負荷は、自分の身体にも影響していた。
神経系への負担。
反応の遅れ。
指先に残る痺れ。
これまでなら、しばらく休んで様子を見るだけで済ませていたかもしれない。
だが、学園側はそういうわけにはいかないらしい。
「……診察で、どこまで説明できる?」
《現在の症状と負傷時期については説明可能です》
「原因は?」
《機体の具体的な運用状況を伏せた場合、説明できる範囲が限定されます》
「だよな」
朔は額に手を当てた。
医師に嘘をつくつもりはない。
しかし、どこの誰とも分からない相手に、あの戦闘の事情をすべて話すわけにもいかなかった。
必要なのは、右腕の診察だ。
秘密を守ろうとして身体の状態まで隠せば、結局、自分が困る。
朔は学園から届いた案内に返信した。
――学園側で手配していただく医療機関での診察に応じます。
――負傷の詳しい経緯については、一部説明できない事情があります。
――ただし、症状や診察に必要な情報については、医師へ正確に伝えます。
送信。
それから数分して、いつもの認証符号から通信が入った。
「……今度は何だ」
朔は接続した。
『学園側から、診察を求められたそうだな』
「ああ」
『診察先はこちらで手配する』
「……ちょっと待て」
『何だ』
「学園側が病院を手配してくれるらしい。だったら、そっちで診てもらえばいいだろ」
『こちらで用意する医療機関でも、診察は可能だ』
「それは分かる。でも、学園が手配した病院の方が、後の手続きもスムーズだろ」
通信の向こうが静かになった。
朔は続けた。
「学園が必要だって言ってる診察なんだ。向こうの手配に任せればいい」
『……分かった。学園側の手配に任せよう』
「それと、診察結果は俺にも見せてもらう。自分の腕がどうなってるのか、ちゃんと知っておきたい」
『当然だ』
「……だったらいい」
『ただし、負傷した場所については伏せろ』
「聞かれたら、答えられないって言うよ。診察に必要なことまで隠す気はない」
『……承知した』
通信が切れた。
朔は端末を机へ置いた。
「……何をそんなに隠したいんだか」
《指示者の意図を判断するための情報が不足しています》
「分かってる」
朔は窓の外へ目を向けた。
日本へ戻ってから、何度も聞いた言葉。
必要な範囲。
今は答えられない。
指示に従え。
そんな言葉ばかりだった。
学園へ入ることになれば、今までのようにはいかない。
それを、向こうも理解しているはずだった。
◇
午前十一時二十七分。
《添付ファイルの静的解析が終了しました》
朔は机へ戻った。
「結果は?」
《既知の不正な実行処理は検出されていません。ただし、ファイルの安全性を保証するものではありません》
「……そうか」
《映像データとして識別できる領域があります。通常の再生環境への移動は推奨しません》
「内容だけ確認できるか?」
《隔離環境内で、映像フレームの抽出が可能です》
「じゃあ、それで頼む」
《了解しました》
画面が切り替わった。
数秒後、一枚の静止画が表示される。
朔は目を細めた。
そこに映っていたのは、見覚えのある試験施設だった。
学園へ提出された映像と、同じ場所。
ただし、今度は処理が施されていない。
中央には、一機のISが立っている。
暗い灰色の装甲。
左右で形状の異なる推進器。
そして、頭部に配置された二つの光学センサー。
「……やっぱり、あのときのか」
朔は小さく呟いた。
間違いない。
自分が乗っていた機体だ。
映像の記録時刻を見ると、学園へ提出されたものより数分後になっている。
「続きっていうのは、本当だったわけだ」
《同一施設で記録された可能性が高いと考えられます》
「その先は?」
《複数の静止画を抽出できます》
「見せてくれ」
画面が切り替わる。
最初の数枚は、通常の試験だった。
姿勢制御。
短距離移動。
推進器の出力確認。
そこまでは、朔の記憶とも一致している。
しかし、次の画像で手が止まった。
灰色のISが、試験区画の中央に立っている。
その周囲には、先ほどまで表示されていなかった計測用の警告灯が点灯していた。
「……何だ?」
さらに一枚。
試験区画の表示灯が赤く変わっている。
次の画像では、機体の右側の推進器周辺に、異常を示す表示が重なっていた。
朔は画面へ身を乗り出した。
「……こんなこと、あったか?」
《記録時刻の照合を行いますか?》
「頼む」
数秒後、結果が表示された。
朔が保有している当時の訓練履歴。
それと、添付映像の時刻。
両者には、一部重なる部分があった。
だが、完全には一致していない。
《訓練履歴上、この時刻の詳細記録は確認できません》
「……削られてる?」
《記録が存在しなかった可能性もあります。現時点では判断できません》
朔は黙り込んだ。
あの試験施設で何をしていたか。
大まかな流れは覚えている。
だが、今表示されている異常については、はっきりと思い出せない。
単に忘れているだけなのか。
それとも、記録の方がおかしいのか。
判断するには、まだ情報が足りなかった。
「……映像の最後は?」
《抽出可能な最終フレームを表示します》
画面が切り替わった。
灰色のISが停止している。
試験区画の警告灯は、まだ赤い。
その手前には、施設側の監視端末が映り込んでいた。
表示内容の大部分は判読できない。
だが、一行だけ、はっきりと読める文字があった。
――試験中断。
朔は画面を見つめた。
「……中断?」
自分の記憶では、あの試験は通常の調整として終わっている。
少なくとも、重大な異常が起きたという説明は受けていない。
なのに、映像には試験中断の表示が残っている。
朔はゆっくりと椅子の背にもたれた。
「……何を隠した?」
誰に向けた言葉でもなかった。
返事もない。
ただ、端末の画面には、停止した灰色のISが映っていた。
◇
午後二時。
IS学園の事務棟に、雨宮朔の診察に関する新しい連絡が届いた。
送信元は、例の代理人だった。
――候補者の診察について、当方で医療機関を手配することも可能です。
――診察結果は、本人の同意を得たうえで学園側へ提出する予定です。
担当の女性職員は、内容を確認した。
「……今度は病院の手配ですか」
上席の女性が隣から画面を覗き込む。
「どうしたの?」
「代理人が医療機関を用意できると申し出てきました」
「雨宮君本人は、何て?」
「学園が手配する医療機関で診察を受けると回答しています」
上席の女性は頷いた。
「だったら、ひとまず本人の希望に沿いましょう」
「はい」
「こちらで病院の手配を進めて。代理人には、学園側で対応すると伝えればいいわ」
「承知しました」
「それと、診察結果の提出については、本人の同意を改めて確認しておいて。必要以上に詳しい情報まで学園が集める必要はないのだから」
担当者は頷いた。
雨宮朔という少年には、分からないことが多い。
しかし、だからといって、身体に関する情報まで代理人の判断だけで扱ってよいわけではなかった。
担当者は新しい照会文を作成した。
――診察先は、IS学園が手配する本土の医療機関とします。
――候補者本人には、受診先と日時が確定次第、直接通知します。
――診断結果については、実機検証の安全判断に必要な範囲で提出を求めます。
送信。
窓の向こうでは、海上モノレールが人工島へ向かっていた。
まだ、その車内に雨宮朔の姿はない。
だが、彼を学園へ迎える可能性を検討するための準備は、確実に進んでいた。
◇
夕方。
朔は隔離した映像ファイルの解析結果を保存し、端末の画面を閉じた。
今分かっていることは、わずかだった。
学園へ提出された映像には、続きがある。
その続きには、試験中断を示す表示が残っている。
そして、自分の保有する訓練履歴には、その部分の詳細記録がない。
だからといって、誰かが意図的に記録を消したと決めつけることはできない。
だが、説明は必要だった。
「……あいつに聞くか」
《指示者への通信を準備しますか?》
「いや、今はいい」
朔は首を振った。
問いただすにしても、まだ材料が足りない。
何より、あの男が素直に答えるとは思えなかった。
朔は机の引き出しを開けた。
中には、一枚の写真がある。
昔の、自分にとって当たり前だった場所。
そこに写っている風景を、しばらく見つめる。
日本へ戻ってから、いくつもの問題が持ち上がった。
IS学園への編入。
操縦能力の証明。
右腕の負傷。
そして、過去の試験記録。
どれも無関係ではないのかもしれない。
だが、今はまだ、つながりが見えない。
朔は写真を引き出しへ戻した。
そのとき、携帯端末が振動した。
今度はIS学園からだった。
――右腕の診察について、受診先の手配が完了しました。
――医療機関の所在地および受診日時を確認してください。
――診断結果は、本人の同意を得たうえで、操縦能力の検証に必要な範囲に限り取り扱います。
朔は文章を読み終えた。
「……明日の午前、か」
《受診先は本土の医療機関です》
「場所は?」
《現在の滞在先から公共交通機関で移動可能です》
「なら、問題ないな」
朔は案内を確認し、受診することを了承した。
――指定された日時に受診します。
送信。
受領通知が表示された。
朔は端末を机へ置いた。
右腕の状態を診てもらう。
まずは、それだけだ。
診断結果が出れば、実機検証の方法についても話が進むだろう。
ただし、朔にはもう一つ、気になることがあった。
過去の試験記録。
あの施設で何が起きていたのか。
自分の知らないところで、誰が記録を保管していたのか。
診察を受けたからといって、その疑問が解消するわけではない。
◇
夜。
地下施設の監視室では、当直の技術者たちが記録を確認していた。
大型保護容器は、今日も指定された位置に固定されている。
外部の供給装置は正常。
封印状態に変化なし。
移送再開の指示も届いていない。
「供給電圧、変化なし。冷却系も正常です」
監視端末を操作していた男性技術者が報告した。
「了解。監視を継続して」
隣の席にいた女性技術者が答える。
彼女は施設の保安管理を兼ねた当直責任者だった。
男性はIS関連の機器制御や電源設備を専門としている。だが、ISを操縦できるわけではない。
ここでは、それは珍しいことではなかった。
ISの研究や整備に必要なのは、操縦適性だけではない。
推進機構、材料工学、制御系、通信、電力供給。
それぞれの分野に専門家がおり、研究施設では男女を問わず技術者が働いていた。
「……移送の指示はまだですか?」
男性技術者が尋ねた。
「まだ。現状を維持するように、という指示だけ」
「警戒水準だけ上がって、作業は止まったままですか」
「そういうことね」
女性は監視画面を切り替えた。
施設の警戒水準は、数日前から引き上げられたままだ。
ただし、その理由については、現場へ説明されていない。
何かが起きるのを警戒しているのか。
それとも、何かが既に起きたのか。
彼女には分からなかった。
通信端末が短く鳴った。
――外部記録の取扱いについて、追加指示あり。
女性は画面を開いた。
そこには、簡潔な一文が記されていた。
――過去の試験記録に関する外部照会を確認した場合、直ちに報告せよ。
「……試験記録?」
女性は眉をひそめた。
「何かありましたか?」
「過去の試験記録について、外部から問い合わせがあったら報告するように、ですって」
「試験記録……この施設のものですか?」
「そこまでは書かれていないわ」
男性技術者は首を傾げた。
「妙ですね。ここの設備に関する記録なら、管理部門を通すはずですが」
「私たちに分かるのは、指示が来たということだけよ」
女性は通知を保存した。
この施設で管理している保護容器と、過去の試験記録。
その二つに関係があるのかどうか、彼女には分からない。
厚い外殻に覆われた容器は、静かに置かれている。
そこに何が入っているのか。
今も、答えは与えられていなかった。
◇
同じ夜。
朔は寝る前に、もう一度だけ端末を開いた。
隔離された映像ファイル。
学園へ提出されたものとは異なる、試験の後半部分。
あの施設で何が起きたのか。
まだ、分からない。
だが、気になることが一つあった。
試験中断を示す表示。
それが、機体の異常によるものだったのか。
施設側の判断だったのか。
あるいは、別の理由だったのか。
朔は静止画を拡大した。
試験区画の壁面。
警告灯。
機体の周囲。
映像から読み取れる情報は限られている。
それでも、何か見落としている気がした。
「……何だったんだ、あの日」
《追加の解析を行いますか?》
「今日はいい」
朔は画面を閉じた。
明日は、病院で右腕を診てもらう予定だ。
その前に、身体を休めておきたかった。
端末を充電器へ接続し、部屋の照明を落とす。
暗くなった室内で、朔は目を閉じた。
過去の記録。
現在の負傷。
そして、これから向かうかもしれない場所。
どれも、簡単には答えの出ない問題だった。
だが、一つずつ確かめていくしかない。
雨宮朔という名前で、IS学園の記録に載った以上。
いつまでも、正体の分からない亡霊のままではいられないのだから。