IS〈インフィニット・ストラトス〉蒼穹の亡霊 作:右左右左右
午前九時十八分。
雨宮朔は、都内の医療機関の前で足を止めた。
大通りから一本入った場所にある、比較的新しい建物だった。受付の案内板には整形外科や神経内科などの診療科が並び、外観だけでは、IS学園と特別な関係があるようには見えない。
朔は携帯端末で住所を確認した。
《目的地に到着しました》
「見れば分かる」
《予約時刻まで十二分です》
「ちょうどいいな」
建物の中へ入る。
受付で名前を告げると、女性職員が予約情報を確認した。
「雨宮朔さんですね。お待ちしていました」
「よろしくお願いします」
「本日は右腕の診察ですね。こちらの問診票をお願いします」
朔は渡された書類を受け取り、待合室の椅子に座った。
負傷した日。
痛みのある場所。
痺れの有無。
日常生活への影響。
質問に沿って記入していく。
負傷の原因を尋ねる欄で、ペンが止まった。
数日前の戦闘。
機体への負荷。
右腕に走った痛み。
そのすべてを、受付で渡された一枚の問診票に書けるわけではない。
朔は少し考えてから、現在の症状と、負傷時に強い負荷を受けたことを記入した。
具体的な状況は、診察時に説明する。
それが今のところ、最も適切な方法に思えた。
◇
「雨宮さん、どうぞ」
診察室へ入ると、白衣を着た女性医師が椅子を勧めた。
「今日は右腕の痛みと痺れですね」
「はい」
「いつ頃からですか?」
「数日前からです」
「何か、きっかけになることはありましたか?」
朔は少しだけ間を置いた。
「……強い負荷がかかる作業をしていました。その途中で、右腕に痛みが出て」
「転倒したり、何かにぶつけたりは?」
「そういうわけではありません」
医師は頷いた。
「では、今の症状を確認しましょう。まず、腕を動かしてみてください」
指示に従い、朔は右腕を上げた。
肘を曲げる。
手首を回す。
指を開き、握り込む。
大きな動作には問題がない。
だが、指先に力を込めると、わずかな違和感があった。
「このあたりはどうですか?」
医師が指先の感覚を確認する。
「……少し鈍いです」
「右だけ?」
「はい。左は普通です」
医師は検査を続けた。
握力。
腱反射。
皮膚の感覚。
左右の違いを一つずつ確かめていく。
ひととおり終えると、医師は記録を見直した。
「大きな運動障害は見られません。ただ、右手の一部に感覚の低下がありますね」
「……やっぱり、そうですか」
「自覚はあった?」
「はい」
「原因については、この診察だけで断定できません。負荷を受けた状況も、もう少し詳しく確認したいところです」
朔は頷いた。
「……説明できない部分があるんです」
医師は顔を上げた。
「お仕事の関係?」
「……そういう事情です」
「分かりました。ただ、診断に必要なことは、できるだけ教えてくださいね。何が原因かによって、検査や治療も変わりますから」
「はい」
朔は、機体に乗っていたことを伏せずに伝えた。
ただし、任務の内容や場所については話さなかった。
身体に強い加速と負荷がかかったこと。
その直後から腕に症状が出たこと。
数日休んで、痛みは軽くなったこと。
今も、指先の感覚が完全には戻っていないこと。
医師は説明を聞きながら、必要な点を確認した。
「……なるほど。特殊な装備を使用した際の負荷、ということですね」
「はい」
「では、もう少し調べましょう」
◇
検査を終えて診察室へ戻ったのは、午前十一時を過ぎた頃だった。
医師は画面に表示された結果を確認していた。
「現時点で、明らかな骨の損傷は認められません。腕を動かす機能も、おおむね保たれています」
朔は静かに聞いていた。
「ただし、指先の感覚が鈍い状態は残っています。末梢神経への負担なども考えられますが、原因や回復までの期間は、今の検査だけでは断定できません」
「……どれくらい休めばいいですか?」
「症状が残っている間は、強い負荷をかける作業は避けてください。必要なら追加検査も行います」
「普通に生活する分には?」
「今のところ、大きな制限は必要なさそうです。ただ、痛みや痺れが強くなるようなら、すぐに相談してください」
朔は頷いた。
少なくとも、今すぐ何か重大な処置が必要というわけではなさそうだった。
しかし、完全に治ったという判断でもない。
「……ISの操縦は?」
医師が手元の資料を確認した。
「学園から、その点についても相談を受けています」
「はい」
「ただ、ISの操縦には通常の運動とは異なる負荷がかかる場合があるでしょう。今回の診察結果だけで、安全に操縦できると判断することはできません」
「……ですよね」
「まず、低負荷の動作確認などを行う方法があるか、学園側と相談してください。症状が悪化するような検査は避けるべきです」
朔は小さく息を吐いた。
「分かりました」
医師は診察内容をまとめた。
現時点で確認できた症状。
必要な注意事項。
追加検査を検討する条件。
そして、強い負荷を伴う操作を控えるべきこと。
「診断書には、医学的に確認できた範囲を記載します。学園には、あなたの同意がある項目だけを提出する形で構いません」
「ありがとうございます」
朔は頭を下げた。
診察室を出ると、待合室の窓から午前の街が見えた。
病院へ来たことで、すべてが解決したわけではない。
だが、今の身体がどんな状態なのか。
少なくとも、その一部は分かった。
◇
午後一時過ぎ。
IS学園の事務棟では、担当職員が診察結果の概要を受け取っていた。
「……右手の感覚低下が残っている、ですか」
上席の女性職員が報告書へ目を通す。
「はい。ただし、大きな運動障害は認められなかったそうです」
「強い負荷は避けるように、ということね」
「そのようです」
上席の女性は少し考えた。
「では、いきなり実機の高出力試験を行うことはできないわね」
「はい」
「ただ、操縦能力の確認そのものを無期限に延期するわけにもいかない」
担当者は頷いた。
雨宮朔という少年が、本当にISを動かせるのか。
その疑問は、まだ解決していない。
しかし、医師の診察結果が出たことで、検証方法を具体的に検討する材料が増えた。
「まずは、負荷の少ない方法を検討しましょう」
「学園の機体を使用する場合は、機体の管理部署との調整が必要になります」
「ええ。でも、本人の機体を持ち込む場合は、もっと慎重な確認が必要よ」
上席の女性は画面を閉じた。
「この件は、轡木さんにも直接報告するわ」
「学園長に、ですか?」
「いいえ。十蔵さんの方よ。学園の設備や運営に関わる判断になるもの」
「承知しました」
「報告書をまとめてちょうだい。診断結果と、実機検証で問題になる点を中心に」
担当者は新しい文書を開いた。
――候補者氏名、雨宮朔。
――男性。IS操縦経験を申告。
――身元確認、完了。
――提出映像、本人との関連を完全には確認できず。
――右腕の診察結果、強い負荷を伴う操作は非推奨。
――実機検証の方法について、学園側の判断が必要。
上席の女性は完成した報告書に目を通した。
「……これでいいわ。持っていきましょう」
◇
朔が滞在先へ戻ったのは、午後二時を少し過ぎた頃だった。
部屋に入り、上着を脱ぐ。
右腕の包帯を外すと、まだ薄く残る傷の痕が見えた。
《診察結果を記録しますか?》
「頼む」
《了解しました》
端末に、今日の診察内容が整理されていく。
右手の感覚低下。
大きな運動障害なし。
強い負荷を伴う操作は控えること。
追加検査の可能性あり。
朔は画面を見つめた。
「……結局、まだ無理はするなってことか」
《医師の見解と一致します》
「分かってる」
朔は椅子に座った。
以前なら、多少の痺れが残っていても、機体を動かしていたかもしれない。
だが、今は事情が違う。
学園側に能力を証明する必要がある。
そのために無理をして負傷を悪化させれば、かえって検証が遅れる。
「……低負荷の確認か」
《実機の起動のみを確認する方法も考えられます》
「起動だけなら、負担は少ないかもしれないな」
《ただし、現在の負傷状態における安全性は確認されていません》
「分かってるよ」
朔は端末を閉じた。
ISは、操縦者の意思に応じて展開する。
必ずしも飛行や武装の使用を伴うわけではない。
だからこそ、まず起動できるかどうかだけを確かめる方法はあるだろう。
ただし、それを実施する場所と方法については、学園側と相談する必要がある。
◇
午後四時。
IS学園の管理棟にある小さな作業室で、一人の老人が棚の扉を直していた。
蝶番の調子が悪かったらしい。
工具を手にした男性は、扉を何度か開閉して具合を確かめている。
「……うん。これで大丈夫だね」
満足した様子で工具を片づける。
そのとき、入口から声がかかった。
「轡木さん、少しよろしいでしょうか」
「ああ、どうぞ。ちょうど終わったところだよ」
老人は振り向き、訪ねてきた二人の女性職員を迎え入れた。
彼の名は轡木十蔵。
IS学園で用務員として働く男性であり、学園長である轡木トメの夫でもある。
普段は設備の修理や学内の雑務を引き受け、生徒たちにも気さくに声をかける。
だが、学園運営の重要事項について実際の判断を下しているのも、この男だった。
「例の男性操縦者候補について、ご報告があります」
上席の女性職員が言った。
「雨宮朔の件か」
十蔵の声から、先ほどまでの気安さが消えた。
工具箱を棚へ戻し、作業台の上を片づける。
「ここでは話しにくいな。奥へ行こう」
隣の小部屋に移ると、十蔵は扉を閉めた。
職員たちが着席するのを待ち、向かいの椅子に腰を下ろす。
「それで、診察の結果は?」
「本日、学園側で手配した医療機関にて診察を受けてもらいました。右手の一部に感覚の低下が残っています。ただし、大きな運動障害は確認されませんでした」
「強い負荷を伴う操作は避けるべき、ということだな」
「はい」
十蔵は報告書を受け取り、静かに目を通した。
「診断書の内容は、本人の同意を得ているか?」
「はい。検証の安全判断に必要な項目に限って提出されています」
「分かった」
頁をめくる。
候補者の身元確認。
これまでの面談内容。
提出された映像記録。
そして、詳細が分かっていないIS。
「……機体の出所は、まだ不明か」
「はい。本人は操縦経験を申告していますが、現在の機体の管理状況についても確認できていません」
「ならば、先にそこを確かめる必要がある」
十蔵は報告書を閉じた。
「機体を所持しているのか。所持しているなら、待機状態を維持できるのか。まずは本人へ確認しよう」
「承知しました」
「ただし、出所の分からないISを、そのまま学園内で展開させるわけにはいかない。検証施設の確保も並行して進めてくれ」
「学園の機体を使用する案も検討しますか?」
「選択肢からは外さない。ただ、いずれの機体を用いるにせよ、安全を確認する必要がある」
十蔵は職員の顔を見た。
「医師の診断では、強い負荷を避けるべきとされている。起動だけなら安全だと決めつけることはできん」
「はい」
「必要な技術者と医療担当者を手配してくれ。男女は問わない。機体の状態と検証方法を判断できる者が必要だ」
「承知しました」
「それから、検証の目的を明確にする。今回は戦闘能力を測る必要はない。確認すべきは、雨宮朔本人がISを起動できるかどうかだ」
職員は頷いた。
「実施の可否は、安全条件を整理してから判断するということでよろしいでしょうか」
「ああ。少しでも無理があるなら延期する。候補者の身体を傷つけてまで急ぐ理由はない」
十蔵は一度、資料の表紙へ目を落とした。
「それと、この件を知る者は引き続き限定しておけ」
「はい」
「正式な能力確認が済むまでは、憶測で外へ情報を出すべきではない。確認が取れた場合の対応も、並行して考えておく必要がある」
十蔵の言葉は短かった。
だが、一つ一つの判断に迷いはなかった。
上席の女性職員が資料をまとめる。
「では、準備を進めます」
「頼んだ」
職員たちが退出しようとすると、十蔵が声をかけた。
「一つ、忘れないでくれ」
二人が振り向く。
「雨宮朔は調査対象である前に、負傷した少年だ。本人への説明は十分に行うように」
「……はい」
職員たちが退出すると、十蔵は小部屋の扉を開けた。
作業室には、先ほど直した棚がある。
十蔵は扉をもう一度開け閉めした。
「……よし、これで大丈夫だ」
その声は、いつもの穏やかな用務員のものに戻っていた。
◇
夕方。
朔の端末に、IS学園から新しい連絡が届いた。
――診察結果を確認しました。
――今後の操縦能力検証について、学園内で実施方法を協議しています。
――検証では、身体への負荷をできる限り抑えた方法を優先します。
――使用する機体と実施場所については、決定次第通知します。
さらに、確認事項が一つ付け加えられていた。
――現在、操縦経験のあるISを所持していますか。
朔は画面を読み終えた。
「……そこを聞いてきたか」
《機体の所持状況に関する照会です》
「見れば分かる」
朔は右手を軽く握った。
学園側に、機体を持ち込むつもりがあるのか確認されるのは当然だ。
だが、正直に答えれば、次はコアの識別情報や機体の出所を求められるだろう。
それに対して、どこまで答えられるのか。
朔は少し考えた。
「……嘘をついても仕方ないか」
返信欄を開く。
――現在、操縦経験のあるISを所持しています。
――ただし、機体の詳細情報については、現時点で開示できない項目があります。
――安全確認に必要な情報については、検証方法が決まり次第、協議を希望します。
送信。
《回答を送信しました》
「……これで、どう出るかだな」
朔は端末を机へ置いた。
右腕には、まだわずかな違和感が残っている。
医師からは強い負荷を避けるよう言われた。
だから今は、無理に動かすつもりはない。
だが、いつまでも隠しておくこともできない。
学園に能力を証明するためには、いずれあの機体を見せる必要がある。
過去の試験記録で何が起きていたのか。
その答えが出ないまま、再び機体を展開することになるのかもしれない。
朔は端末の画面に保存された静止画へ目を向けた。
灰色のIS。
赤い警告灯。
そして、試験中断の文字。
「……今度は、ちゃんと確かめないとな」
◇
夜。
地下施設では、変わらず大型保護容器の監視が続いていた。
当直の女性技術者は、外部から届いた記録を確認していた。
そこには、短い指示が記されている。
――試験記録の外部流出に関する調査を継続。
――関連する記録へのアクセス権限を再確認せよ。
「……流出?」
女性は画面を見つめた。
昨日までは、外部から問い合わせがあれば報告するように、という指示だった。
しかし、今度は明確に流出という言葉が使われている。
何かが、既に外へ出ている。
そう判断されているのだろう。
「どうかしました?」
隣の席から、男性技術者が声をかけた。
「試験記録について、追加の指示が来たの」
「またですか」
「今度は、流出の調査を続けるようにって」
男性は眉をひそめた。
「……この施設の記録なんですか?」
「そこは分からない。でも、関係する記録へのアクセス権限を確認しろって」
「了解です。こちらで確認できる範囲は調べます」
女性は頷いた。
監視室の向こうでは、大型保護容器が静かに置かれている。
封印状態に変化はない。
外部の供給装置も正常。
移送の指示は、相変わらず届かない。
ただ、施設へ送られてくる命令だけが、少しずつ変わっていた。
女性は新しい記録を保存した。
この箱と、流出した試験記録。
二つの間に、どんな関係があるのか。
今はまだ、誰も説明してくれなかった。
◇
同じ夜。
朔は寝る前に、右腕を軽く動かしてみた。
痛みはない。
ただし、指先にはわずかな痺れが残る。
《無理な動作は避けてください》
「分かってる」
朔は腕を下ろした。
学園側が何を準備しているのかは分からない。
だが、実機を使って能力を確認するなら、いずれあの機体を動かすことになるかもしれない。
そのとき、何が起きるのだろう。
過去の試験で発生した、原因の分からない異常。
今も残る右腕の症状。
それらが同じ問題に関係しているのかどうかさえ、まだ分かっていない。
朔は机の上の端末を見つめた。
雨宮朔。
IS学園へ編入するかもしれない、もう一人の男性操縦者。
その名前は、既に学園の記録に残っている。
しかし、彼が何者なのか。
何を背負ってここまで来たのか。
それを知る者は、まだほとんどいなかった。
窓の向こうでは、夜の街が静かに広がっている。
朔は照明を落とした。
明日も、何かが動く。
そう思いながら、目を閉じた。