IS〈インフィニット・ストラトス〉蒼穹の亡霊 作:右左右左右
午前八時十二分。
IS学園の学園長室には、二人分の湯呑みが置かれていた。
六月の朝。窓の外には薄い雲が広がり、校舎へ向かう生徒たちの姿が見える。
「それで、あなた。昨日の男の子はどうだったんです?」
轡木トメは、向かいに座る夫へ尋ねた。
轡木十蔵は湯呑みを置き、少しだけ笑った。
「礼儀正しい子だったよ。もっとも、ずいぶん警戒心が強かったがね」
「まあ。あなたがそう言うくらいですから、よほどなんでしょうね」
「初めて入った施設で、真っ先に避難経路を確認していたそうだ。何かあったとき、どこへ逃げるかを考えるのが癖になっているんだろう」
トメの表情が曇った。
「……まだ、そんなに若い子なのに」
「ああ。どういう暮らしをしてきたのか、気になるところだ」
十蔵は机の上に置かれた報告書へ目を落とした。
雨宮朔。
男性。
ISの起動を確認。
右腕に負傷あり。
機体の出所、不明。
トメも既に目を通している資料だった。
「それにしても、本当に動かせたんですね」
「ああ。私もこの目で確認した」
十蔵は頷いた。
「本人の意思で機体が展開し、操縦者として接続していた。計測結果にも問題はない。少なくとも、彼がISを起動できることは間違いない」
「……一夏君に続いて、もう一人」
「そういうことだ」
トメは湯呑みを両手で包んだ。
「でも、報告書には右腕の痺れが強くなったとありますね」
「起動後に本人から申告があった。そこで試験を中止した」
「今は大丈夫なんですか?」
「安静にすると落ち着いたそうだ。ただ、症状そのものは残っている。追加の操縦試験は当面控えさせるつもりだ」
「それがいいですねえ。身体を壊してまで急ぐことではありませんもの」
十蔵は静かに頷いた。
机の上には、もう一つ資料があった。
朔が使用していた灰色のIS。
その外観と、外部計測で確認できた反応をまとめた報告書だ。
「問題は、あの機体だな」
十蔵の声がわずかに低くなった。
「コアの識別情報が取得できていない。機体の来歴も、現在の管理権限も不明だ」
「盗まれた機体かもしれない、ということですか?」
「可能性の一つだ。だが、それだけで雨宮君を疑う理由にはならん」
「そうですね」
「本人は何か事情を抱えている。誰かとの取り決めで話せないこともあるらしい。ただ、どこまで本人の意思なのかは確かめる必要がある」
トメは夫の顔を見つめた。
「もう、今後のことを考えているんでしょう?」
「ああ」
十蔵は報告書を閉じた。
「学園で保護する方向で進める。男の操縦者がもう一人いると確認された以上、放置する選択肢はない」
「編入させるんですね」
「その準備を始める。正式な手続きには関係機関との調整が必要だが、本人の安全確保を後回しにはできん」
「機体の方は?」
「別に扱う。身元の分からないISを学園で自由に展開させるわけにはいかないからな。待機状態での管理条件を整理し、必要な調査を進める」
トメはほっとしたように頷いた。
「本人を疑うことと、機体を調べることは別ですものね」
「そういうことだ」
十蔵は湯呑みへ手を伸ばした。
少し冷めたお茶を飲み、肩の力を抜く。
「それに、あの子には学校生活が必要だろうね」
「あら、そう思います?」
「昨日、織斑君について聞かれたんだ。どんな少年なのか、とね」
「まあ」
「同じようにISを動かせる男の子がいる。やはり気になるんだろう」
トメは柔らかく微笑んだ。
「会ってみたいんでしょうね」
「そうかもしれないな」
「一夏君も、話し相手が増えたら喜ぶかしら」
「さて、どうだろうね。あの子の周りは今でも十分に賑やかだから」
十蔵が苦笑すると、トメも声を立てて笑った。
それから、ふと真剣な顔になる。
「ねえ、あなた」
「何だい?」
「雨宮君は、ここへ来たいと思っているんでしょうか」
十蔵はすぐには答えなかった。
「……まだ分からない」
「そうですか」
「自分が置かれた立場は理解しているようだった。ただ、他人に行き先を決められることには、思うところがあるんだろう」
「無理もありませんね」
トメは窓の外へ目を向けた。
「一夏君だって、望んで入学したわけではありませんもの」
「ああ」
「事情は違うのでしょうけれど、雨宮君にも、ここに来てよかったと思ってもらいたいですね」
十蔵は妻を見た。
厳重な警備。
機体の調査。
各国との調整。
これから必要になる仕事はいくらでもある。
しかし、それだけで少年の暮らしが成り立つわけではない。
「……まずは本人と話そう」
十蔵が言った。
「何を不安に思っているのか。何を守りたいのか。そのくらいは聞いておきたい」
「お願いしますね、あなた」
「ああ。任せておきなさい」
トメは微笑み、湯呑みを持ち上げた。
「それにしても、男の子がもう一人ですか」
「学園も、ますます賑やかになりそうだね」
窓の向こうでは、いつもどおりの朝が始まっていた。
◇
同じ頃。
雨宮朔は、滞在先の窓から通りを見下ろしていた。
通勤する人々。
信号待ちの車。
交差点の向こうを歩いていく学生たち。
どこにでもある朝の風景だった。
昨日、世界で二人目の男性IS操縦者であることを証明した。
それでも、街は何も変わらない。
当然だ。
今のところ、その事実を知っている人間は限られている。
「……本当に変わるのは、これからか」
《IS学園からの連絡を受信しています》
朔は振り向いた。
「内容は?」
《今後の保護措置について、本人との協議を希望するとのことです》
端末を手に取る。
画面には、学園からの連絡文が表示されていた。
――昨日の実機検証結果を踏まえ、今後の安全確保および就学について、正式な協議を開始します。
――本日午後、担当者との面談をお願いしたく存じます。
――面談は通信によって実施します。
朔は文章を読み終えた。
「……入学の話、か」
《その可能性が高いと考えられます》
「まあ、そうなるよな」
織斑一夏。
世界で唯一とされていた男性IS操縦者。
彼が学園へ入った経緯については、朔もある程度知っていた。
世間に知られてしまった以上、普通の学校へ通うことも難しい。
研究機関や国家からの関心を避けることもできない。
だから、IS学園で保護されている。
それが自分にも当てはまるのだろう。
朔は返信した。
――面談に応じます。
送信を終えた直後、別の通知が表示された。
例の認証符号だった。
――学園への受け入れが進む場合、こちらの指示を待て。
朔は画面を見つめた。
短い文章。
相変わらず、説明はない。
「……いつまで待てばいいんだよ」
《指示者へ確認しますか?》
「いや」
朔は首を振った。
「今度は、向こうの言い分を聞いてから決める」
端末を伏せた。
従わなければならない事情があることは、変わらない。
だが、自分の行き先くらい、知らないままでいたくはなかった。
◇
IS学園、一年一組。
昼休みを告げるチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に緩んだ。
「一夏!」
織斑一夏が立ち上がるより早く、篠ノ之箒が声をかけた。
「今日は放課後の予定を忘れていないだろうな」
「ああ、訓練だろ?」
「分かっているならいい」
箒は腕を組み、少しだけ顔を背けた。
その隣では、セシリア・オルコットが涼しい顔で微笑んでいる。
「ですが箒さん、一夏さんにはわたくしとの約束もありましてよ」
「何?」
「昨日お話しした、射撃姿勢の確認ですわ」
「そんな話、私は聞いていないぞ」
「箒さんにお話しする必要がありましたかしら?」
「お前な……」
「まあまあ、二人とも」
一夏が間に入る。
しかし、その一言が余計だったらしい。
「一夏は黙っていろ!」
「一夏さんは、どちらが先のお約束だったか覚えていらっしゃいますわよね?」
「えっ?」
一夏は困ったように頭をかいた。
その様子を見ていたシャルロット・デュノアが、小さく笑う。
「相変わらずだね、一夏」
「笑ってないで助けてくれよ、シャル」
「どうしようかな」
少し離れた席では、ラウラ・ボーデヴィッヒが二人のやり取りを眺めていた。
「嫁よ。訓練ならば私が相手をしてやる」
「いや、ラウラまで混ざるなって」
「不満か?」
「そういうわけじゃないけど!」
教室のあちこちで笑い声が上がった。
数ヶ月前まで、男子生徒など一人もいなかった学校。
そこに一夏が入学したことで、一年一組の日常は大きく変わっていた。
とはいえ、今では彼の周囲の騒がしさも、すっかり見慣れた光景になっている。
「まったく……」
一夏は苦笑しながら、窓の外へ目を向けた。
いつもどおりの学園。
いつもどおりの昼休み。
このときの彼は、まだ知らなかった。
自分と同じようにISを動かせる少年が、学園へ近づきつつあることを。
◇
午後二時三十分。
通信画面に、轡木十蔵の姿が映った。
『こんにちは、雨宮君。昨日はお疲れさま』
「こんにちは」
『右腕の具合はどうだい?』
「昨日よりは落ち着いています。でも、痺れはまだ残っています」
『そうかい。無理はしないでおくれよ』
「はい」
十蔵の隣には、昨日の女性職員も同席していた。
今日の面談は、これまでより少し長くなるらしい。
朔は椅子に座り直した。
『では、これからのことを話そうか』
十蔵は言った。
『昨日の検証で、君がISを起動できることは確認できた。学園としては、君を保護し、勉強を続けられる環境を整える方向で準備を進めているんだ』
「……やっぱり、入学ですか」
『そうなる可能性が高いね。正式な手続きはこれからだけれど、学園への受け入れを前提にしている』
「俺が断るって言ったら?」
十蔵は、すぐには答えなかった。
『まず、理由を聞かせてもらうよ』
「……」
『でもね、君が男性のIS操縦者だと確認された以上、今のまま何もせずにいるわけにはいかないんだ。君自身の安全もあるし、機体の管理についても確認しなければならない』
「……自由に決められる話じゃないんですね」
『残念だけれど、すべてを君一人の希望で決めるのは難しいだろうね』
朔は視線を落とした。
分かっていた答えだった。
それでも、実際に聞けば気分のいいものではない。
『ただし、雨宮君』
十蔵の声が、わずかに引き締まった。
『学園側の都合だけで、君の将来を決めるつもりはない。必要な保護は行う。そのうえで、君自身がどうしたいのかも確認する』
朔は画面を見た。
『不安なことや、困ることがあれば話してほしい。できるだけ調整しよう』
「……分かりました」
朔はしばらく考えた。
「機体は、どうなりますか?」
『そこは、まだ決められないんだ』
「没収されるんですか」
『現段階で、そのような決定はしていないよ』
十蔵は穏やかに答えた。
『ただ、出所が分からないまま、学園で自由に使わせることはできない。そこは理解してもらえるかな?』
「……はい」
『当面は待機状態を維持して、許可なく展開しないでほしい。機体の管理方法については、改めて相談しよう』
「分かりました」
朔は頷いた。
ただし、それは機体を無条件で引き渡すことに同意したという意味ではない。
十蔵も、その点を理解しているらしかった。
『それと、もう一つ確認しておきたいことがあるんだ』
「何ですか?」
『君の代理人についてだよ』
朔の表情が、わずかに硬くなった。
『これまで何度か連絡を受けているけれど、君との関係や、どこまで判断を任されているのかが明確ではないんだ』
「……そうですね」
『雨宮君。君自身は、その人にこれからの手続きを任せたいと思っているのかい?』
朔は即答できなかった。
あの男から指示を受けてきた。
身分に関する書類も、移動の手配も、向こうが用意していた。
だが、それと信頼しているかどうかは別の話だった。
「……全部任せたいとは思っていません」
朔は答えた。
『そうか』
「ただ、今までのことを説明するには、あいつの協力が必要です」
『そうだろうね』
十蔵は頷いた。
『では、今後の重要な連絡は君本人に直接伝えよう。代理人にどこまで情報を渡すかも、その都度確認する』
「……助かります」
それは小さなことかもしれなかった。
だが、朔にとっては違った。
少なくとも、自分の知らないところで、すべてが決まるわけではなくなる。
◇
面談は、その後も続いた。
学園への移動方法。
受け入れ後の生活。
右腕の診察と経過観察。
そして、機体の取り扱い。
朔は必要なことを確認しながら、説明を聞いた。
「……寮に入ることになるんですか?」
『基本的には、その方向で考えているよ』
「男子用の部屋って、あるんですか」
十蔵が少し笑った。
『織斑君のために、すでに対応しているからね。君の部屋も準備できるよ』
「……なるほど」
世界で唯一だった男子生徒。
そのために整えられた環境へ、もう一人が加わる。
考えてみれば、妙な話だった。
「織斑一夏とは、同じクラスになるんですか?」
『学級については、まだ決めていないんだ』
「そうですか」
『会ってみたいのかい?』
朔は少し考えた。
「……まあ、そうですね」
同じ男で、同じようにISを動かせる。
それだけで、何か通じるものがあるとは限らない。
だが、少なくとも自分とは違う立場を経験してきた人間だ。
一度、話してみたいとは思う。
『その機会は、いずれあるだろうね』
十蔵は頷いた。
『ただ、まずは君を安全に学園へ迎えることが先だよ』
朔も頷いた。
◇
午後四時過ぎ。
面談が終わり、朔は椅子の背にもたれた。
《IS学園への受け入れ準備が進んでいます》
「ああ」
《現時点で、正式な編入日は通知されていません》
「……分かってる」
机の上には、面談中に書き留めたメモがあった。
身分関係の追加確認。
医療情報の提出範囲。
機体の管理。
学園への移動。
寮生活。
並べてみると、やることは多い。
だが、今までよりはっきりしていた。
少なくとも、どこへ向かっているのかは分かる。
「……俺、学校なんて久しぶりだな」
《通常の教育課程について、必要な範囲で補助できます》
「そういう問題じゃないんだけど」
朔は苦笑した。
授業。
試験。
同級生。
毎日、決まった時間に教室へ行く生活。
そんなものが、自分にも戻ってくるのだろうか。
窓の外では、学生服を着た少年たちが歩いていた。
彼らは何かを話しながら笑い、コンビニの前で足を止める。
ありふれた光景。
けれど、朔には少し遠いものだった。
◇
夕方。
IS学園の廊下を、織斑千冬が歩いていた。
職員室へ戻ろうとしたところで、十蔵に声をかけられる。
「織斑先生。少し時間をもらえるか」
千冬は足を止めた。
「轡木さん。何かありましたか」
「重要な話がある。場所を変えよう」
普段の十蔵とは違う声だった。
千冬はそれ以上尋ねず、彼の後に続いた。
小会議室へ入り、扉が閉まる。
十蔵は一枚の資料を千冬へ渡した。
「まず、これを見てくれ」
千冬は資料を開いた。
数秒後。
眉がわずかに動いた。
「……男性操縦者?」
「ああ。昨日、本人によるISの起動を確認した」
千冬は最後まで資料に目を通した。
「機体は?」
「灰色の所属不明機だ。コアの出所も分かっていない」
「……厄介ですね」
「そうだな」
千冬は書類を閉じた。
「一夏には、まだ知らせていないのですか」
「まだだ。情報は必要な関係者だけに限定している」
「それでいいでしょう」
千冬は即答した。
「不用意に広めれば、学園内が騒がしくなるだけです」
「同感だ」
「それで、私に話した理由は?」
「受け入れが正式に決まれば、君にも協力してもらうことになる。それに、織斑一夏への影響も無視できん」
千冬はしばらく黙っていた。
雨宮朔。
十蔵から渡された資料に、そう記されている。
ISを動かせる男性。
これまで、一夏以外には存在しないとされていた例外。
「……本人の経歴は?」
「確認できていない部分が多い」
「操縦経験があるというのは?」
「申告だけではない。提出された映像には、機体を扱い慣れた様子が映っている。ただし、記録の出所には問題が残っている」
千冬は目を細めた。
「つまり、どこかの組織が、男の操縦者を隠していた可能性がある」
「否定はできんな」
「……なるほど」
千冬は資料を机へ置いた。
「学園へ入れるなら、本人だけでなく機体にも十分な監視が必要です」
「ああ。そのつもりだ」
「ですが、本人が何も知らずに利用されていた可能性もあります。機体の出所だけで決めつけるべきではありません」
「そこは区別している。機体の調査と少年の保護は別だ」
十蔵は静かに続けた。
「今後、正式に受け入れが決まれば、教育面で君の力が必要になる。準備を頼めるか」
千冬は迷わず頷いた。
「承知しました」
「助かる」
千冬が立ち上がり、扉へ向かいかけたところで足を止めた。
「……轡木さん」
「何だ?」
「その少年は、一夏のことを知っているのですか」
「名前と、男性操縦者であることは知っている。会ってみたいとも言っていた」
「……そうですか」
千冬は短く答えた。
表情は変わらなかった。
だが、先ほどよりも少しだけ、目が鋭くなっていた。
◇
夜。
朔は、机の上に置いた携帯端末を手に取った。
学園との面談内容は、整理して保存してある。
その一方で、例の指示者からはまだ追加の連絡が来ていない。
「……珍しいな」
《最後の受信から、一定時間が経過しています》
「まあ、静かな方がいいけど」
朔は画面を閉じようとした。
そのとき、新しい通知が表示された。
――学園側の受け入れ方針を確認した。
送信元は、いつもの認証符号。
続けて、もう一文が届く。
――今後、機体に関する質問には慎重に答えろ。
朔は眉をひそめた。
「……また、それか」
《指示者は機体情報の開示を警戒しているようです》
「だろうな」
朔はしばらく考えた。
そして、返信欄を開いた。
――何を隠している?
送信。
数秒。
十数秒。
返事はない。
朔はもう一度、文字を入力した。
――あの試験の記録も、お前が持っているのか?
送信。
今度は、少し間を置いて返信が来た。
――その件は、今は話せない。
朔は端末を握り直した。
「……いつもそれだな」
新しい通知が表示される。
――雨宮。学園に入ったあとも、勝手な行動はするな。
朔は画面を見つめた。
学園へ入る。
それ自体は、もう避けられないのかもしれない。
だが、その先まで指示どおりに動くつもりはなかった。
「……だったら、先に説明しろよ」
呟きは、誰にも届かない。
端末を伏せる。
右腕には、まだ痺れが残っている。
それでも、少しずつ回復している実感はあった。
学園へ入る頃には、もう少し動かせるようになっているだろうか。
朔は窓の外を見た。
灰色のIS。
過去の試験記録。
紛争地帯での任務。
そして、IS学園。
離れているように見えたものが、少しずつ近づいている。
その中心に何があるのかは、まだ分からない。
◇
同じ頃。
IS学園の男子寮として使用されている区画では、一夏が廊下を歩いていた。
手には、訓練後に使ったタオルを持っている。
「……今日は疲れたな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
箒との訓練。
セシリアとの約束。
ラウラの突然の勝負の申し込み。
結局、予定よりもずっと長く訓練場にいることになってしまった。
「明日は少し休めるといいんだけどな」
そんなことを考えながら、自分の部屋へ向かう。
途中、管理用の扉が開き、職員が数人で資料を運び出しているのが見えた。
部屋の設備に関する書類らしい。
一夏は軽く会釈した。
「こんばんは」
「あら、織斑君。お疲れさま」
「何か工事でもあるんですか?」
「いえ、ちょっと部屋の確認をしているだけよ」
「そうなんですか」
「気にしなくて大丈夫」
「分かりました」
一夏はそれ以上気にせず、廊下を歩いていった。
その背中を見送ってから、女性職員は手元の資料に目を落とす。
追加の男子生徒を受け入れる場合の、居住区画の確認。
まだ正式な通知は出ていない。
だが、準備だけは始まっている。
学園に二人目の男子生徒がやってくる。
そのことを、一夏はまだ知らなかった。
そして、雨宮朔もまた。
これから出会う少年が、自分にとってどんな存在になるのかを、まだ知らなかった。