IS〈インフィニット・ストラトス〉蒼穹の亡霊 作:右左右左右
午前七時四十三分。
雨宮朔は、鏡の前で制服の襟を整えていた。
白を基調とした生地に、黒と赤の装飾が入ったIS学園の制服。
昨日、寮へ案内された際に渡されたものだ。
採寸は事前に済まされていたらしく、サイズに問題はない。
ただ、着慣れていないせいか、どうにも落ち着かなかった。
「……こんな感じでいいのか?」
《制服の着用状態に、目立った問題は確認できません》
「ならいいけど」
朔は鏡から目を離した。
右腕の包帯は、まだ外せない。
袖の下に隠れている部分もあるが、手首から先には白い包帯が見えている。
昨日から、痺れに大きな変化はなかった。
《本日の予定を確認しますか?》
「頼む」
《午前八時三十分より、一年一組のホームルーム。以降は通常授業に参加します。ただし、実技については見学となっています》
「……いきなり普通の授業か」
《学園側から、授業内容について特別な変更の通知はありません》
「まあ、学校だしな」
鞄を手に取る。
中身は、昨日渡された教材と筆記用具。
それだけだった。
機体の整備道具も、予備の装備も必要ない。
今日一日、自分がするべきことは授業を受けること。
その事実が、朔には少し不思議だった。
◇
寮を出たところで、声をかけられた。
「おーい、雨宮!」
振り向くと、織斑一夏が手を振っていた。
昨日、学園の校舎前で顔を合わせた少年だ。
「おはよう」
「ああ。おはよう」
一夏は朔の制服を見て、笑った。
「お、似合ってるじゃん」
「……そうか?」
「うん。やっぱり男がもう一人いると、ちょっと変な感じだな」
「俺も同じこと思ってた」
「だよな」
二人は並んで歩き始めた。
学園へ向かう通路には、既に多くの生徒がいる。
白い制服を着た女子生徒たち。
その中に混じって歩く、二人の男子生徒。
目立たないはずがなかった。
「……ねえ、あれ」
「織斑君と一緒にいる子?」
「昨日見かけた男の子じゃない?」
声を潜めているつもりなのだろう。
だが、近くを通れば聞こえてくる。
朔は前を向いたまま歩き続けた。
一夏が横目で見てくる。
「気になるか?」
「……まあ、少し」
「そのうち慣れるって」
「経験者の言葉は重いな」
「いや、実際大変なんだけどさ」
一夏は苦笑した。
「最初なんて、教室に入っただけで大騒ぎだったからな」
「……想像できる」
「だろ?」
一夏は軽く笑った。
その自然な態度に、朔は少しだけ肩の力を抜いた。
「そういえば、腕はどうだ?」
「昨日と変わらない。まだ少し痺れるけど」
「そっか。無理すんなよ」
「ああ」
一夏は頷き、校舎を指さした。
「一年一組はこっち。最初は迷うと思うから、しばらく案内するよ」
「助かる」
「任せとけ」
朔は、その言葉に小さく笑った。
誰かに学校の道案内をしてもらう。
そんな当たり前のことが、妙に久しぶりだった。
◇
午前八時二十七分。
一年一組の教室は、いつもより落ち着かない空気に包まれていた。
「ねえ、聞いた?」
「何を?」
「新しい転入生が来るって」
「それなら知ってるけど……」
「男の子らしいよ」
「えっ!?」
教室のあちこちで、似たような会話が交わされている。
まだ正式な説明は行われていない。
しかし、昨日から学園内で男子生徒らしい人物が目撃されていた。
噂が広がるのは時間の問題だった。
「……一夏」
篠ノ之箒が、隣にいる少年を見た。
「お前、何か知っているのか?」
「え?」
「昨日、見知らぬ男子生徒と一緒にいたという話を聞いた」
「ああ、雨宮のことか」
箒の眉が動いた。
「……知り合いなのか?」
「昨日初めて会ったんだよ。今日から同じクラスになるらしい」
「それなら、なぜ私に話さなかった!」
「いや、正式に発表するまでは黙っててくれって言われてたからさ」
「……そういうことか」
箒は腕を組んだ。
納得したような、していないような顔だった。
その隣では、セシリア・オルコットが興味深そうに話を聞いている。
「それにしても、男子生徒がもう一人とは驚きですわね」
「そうだな」
「一夏さんと同じように、ISを動かせる方なのでしょうか?」
「そこは先生から説明があると思う」
一夏は曖昧に答えた。
そこへ、シャルロット・デュノアが話に加わる。
「でも、一夏以外にも男の子がいるって、ちょっと不思議だね」
「シャルも最初は男子として編入してきたじゃないか」
「それはそうだけど」
シャルロットは苦笑した。
「今度は本当に男の子なんでしょ?」
「……まあな」
窓際に座っていたラウラ・ボーデヴィッヒは、会話には加わらず、教室の入口へ目を向けていた。
転入生。
男性。
IS学園。
その三つが揃って、何の事情もないとは考えにくい。
「……興味深いな」
ラウラは小さく呟いた。
そのとき、始業を告げるチャイムが鳴った。
◇
教室の扉が開く。
織斑千冬が入ってきた。
その後ろには、副担任の山田真耶。
そして、見慣れない制服姿の少年が一人。
教室が静まり返った。
「全員、席に着け」
千冬の声が響く。
生徒たちは慌てて姿勢を正した。
「既に噂になっているようだが、今日から一組に新しい生徒が加わる」
千冬は隣へ視線を向けた。
「雨宮。前へ」
「はい」
朔は教壇の横に立った。
教室中の視線が集まっている。
その数の多さに、思わず苦笑しそうになった。
戦場で敵の照準に捉えられるのとは違う。
だが、居心地の悪さという点では、どこか似ていた。
千冬が言った。
「自己紹介をしろ」
朔は一度、教室を見渡した。
「雨宮朔です」
短く名乗る。
「事情があって、今日からこちらでお世話になることになりました。しばらくは授業についていくのが大変かもしれませんが、よろしくお願いします」
軽く頭を下げた。
数秒の沈黙。
そして。
「……本当に男の子?」
「織斑君以外にもいたんだ……」
「結構かっこよくない?」
教室が一気に騒がしくなった。
「静かにしろ!」
千冬の一喝で、再び静寂が戻る。
「質問はあるだろうが、その前に説明しておく」
千冬は教室を見渡した。
「雨宮は、学園側の検証によってISの起動能力が確認されている」
今度こそ、教室に大きなどよめきが起きた。
「ええっ!?」
「じゃあ、織斑君と同じ!?」
「二人目の男性操縦者ってこと!?」
千冬は表情を変えない。
「そういうことだ。ただし、現在は身体の負傷により、実技訓練への参加を制限している」
朔は右腕へ視線を落とした。
包帯を巻いている理由まで、説明されるわけではない。
「機体や経歴について、現時点で開示できない情報もある。本人を質問攻めにするな。無断撮影や外部への情報発信も禁止する」
生徒たちは顔を見合わせた。
異例の転入生。
それも、世界で二人目の男性IS操縦者。
気にならないはずがない。
しかし、千冬の前で騒ぎ続ける勇気のある者は少なかった。
「雨宮。席は織斑の近くだ。山田先生、案内を」
「は、はいっ!」
真耶が少し慌てながら前へ出た。
「雨宮君、こちらです。教科書のことで分からないことがあったら、いつでも聞いてくださいね」
「ありがとうございます」
朔は案内された席へ向かった。
途中、女子生徒たちの視線が追いかけてくる。
その中に、一夏の姿があった。
一夏は軽く手を上げた。
朔も小さく頷いた。
着席すると、千冬が教卓を叩いた。
「では、授業を始める。転入生が来たからといって、授業の内容は変わらんぞ」
教室から、控えめな笑いが漏れた。
◇
一時間目が終わると同時に、朔の周囲へ女子生徒たちが集まった。
「雨宮君って、どこから来たの?」
「前はどこの学校だったの?」
「ISを動かせるって本当?」
「専用機は持ってる?」
質問が重なる。
朔は少し困った顔になった。
「……一度に聞かれても、答えられないんだけど」
「あ、ごめん!」
「でも、気になるじゃん!」
一夏が隣から笑った。
「ほらな。言っただろ?」
「……想像以上だった」
「俺も最初はこんな感じだったよ」
女子生徒の一人が一夏を見た。
「織斑君、雨宮君とはもう仲良しなの?」
「昨日会ったばっかりだけどな」
「じゃあ、私たちにも紹介してよ!」
「いや、今紹介してるだろ?」
「そうじゃなくて!」
一夏は首を傾げた。
朔は、そのやり取りを見て小さく笑った。
そこへ、箒が歩いてきた。
「お前たち、少しは落ち着け。雨宮が困っているだろう」
「あ、篠ノ之さん」
「……別に邪魔するつもりじゃないけど」
女子生徒たちは、少しずつ散っていった。
箒は朔へ向き直った。
「篠ノ之箒だ。よろしく頼む」
「雨宮朔です。よろしく」
「一夏とは、もう話したのか?」
「ああ。昨日、少し」
「そうか」
箒は一夏をちらりと見た。
「一夏は、考えなしに人の世話を焼くところがある。困ったことがあれば、私にも言え」
「おい、箒。それどういう意味だよ」
「言葉どおりだ」
朔は二人を見比べた。
会話の調子からして、昔からの知り合いなのだろう。
「……仲がいいんだな」
「なっ!?」
箒の顔がわずかに赤くなった。
「そ、そういう話ではない!」
「え?」
一夏は意味が分からないという顔をした。
朔はそれ以上追及せず、机の上の教材へ視線を戻した。
◇
二時間目。
千冬は、ISの武装運用に関する資料を表示していた。
「拡張領域、いわゆるバススロットについては既に学んでいるな」
教室の前方に、ISの装備構成図が映し出される。
「武装を収納し、必要な場面で呼び出すことができる。ただし、拡張領域には容量の制限がある。何でも無制限に持ち歩けるわけではない」
朔は画面を見つめていた。
実際に何度も使ってきた機能だ。
しかし、こうして授業として聞くのは初めてだった。
「武装を呼び出せることと、戦闘中に素早く切り替えられることは別だ」
千冬は画面を切り替えた。
「高速切替、ラピッド・スイッチ。単に武装を展開するだけではない。状況に合わせて、最小限の隙で装備を切り替える技術だ」
シャルロットが顔を上げた。
千冬の視線が、その方向へ向く。
「デュノア。この技術を使ううえで、重要なのは何だ?」
「切り替えの速さだけでなく、次に必要な武装を正確に選ぶことです」
「そうだ」
千冬は頷いた。
「速く切り替えても、状況に合っていなければ意味がない」
朔は静かに聞いていた。
頭の中には、過去の戦闘が浮かんでいた。
射撃武装を使い続けられなくなった瞬間。
相手との距離。
遮蔽物。
退路。
何を呼び出すか。
その判断が遅れれば、次の行動を選ぶ余裕すら失う。
「雨宮」
突然、名前を呼ばれた。
「はい」
「お前にも操縦経験があるそうだな。では、武装切替を行う際に注意すべきことを一つ挙げてみろ」
朔は少し考えた。
「……切り替えた後に、何ができるかだと思います」
「続けろ」
「武装を変えても、状況が変わらなければ意味がありません。切り替える時間を作れるか、そのあとにどう動くかまで考える必要があると思います」
教室が静かになった。
千冬は朔を見た。
「……経験に基づいた答えか?」
「はい」
それ以上の説明はしなかった。
千冬も追及しなかった。
「よし。座れ」
朔は腰を下ろした。
隣から、一夏が小さく声をかけてくる。
「……すげえな」
「何が?」
「俺だったら、そんなすぐに答えられないぞ」
「……慣れてるだけだよ」
朔は短く答えた。
褒められるようなことではない。
あの状況で判断できなければ、困るのは自分だけではなかったのだから。
◇
昼休み。
「雨宮、飯どうする?」
一夏が声をかけた。
「食堂に行こうと思ってるけど」
「じゃあ、一緒に行こうぜ」
「いいのか?」
「もちろん」
朔が立ち上がると、セシリアが近づいてきた。
「一夏さん、わたくしたちもご一緒してよろしいですわよね?」
「別にいいけど」
「では、参りましょう」
そこへシャルロットも加わる。
「朔も、もう少しみんなと話したいだろうしね」
「……そうだな」
朔は頷いた。
名前で呼ばれたことに、少しだけ驚いた。
だが、悪い気はしなかった。
「そういえば、雨宮君」
シャルロットが微笑んだ。
「朔って呼んでもいい?」
「ああ。構わないよ」
「じゃあ、僕のこともシャルって呼んでね」
「分かった。シャル」
そのやり取りを見て、セシリアが口を開く。
「では、わたくしも朔さんとお呼びしてよろしいかしら?」
「……好きに呼んでくれていいよ」
「ふふ。ありがとうございます」
箒は何か言いたそうにしていたが、結局口を挟まなかった。
ラウラは一歩離れたところから朔を見ている。
その視線に気づき、朔が顔を向けた。
「……何か?」
「お前、本当に実戦経験があるのか?」
唐突な質問だった。
一夏が慌てる。
「ラウラ!」
「気になっただけだ」
ラウラは表情を変えなかった。
朔は数秒考えた。
「……少なくとも、訓練だけじゃない」
「そうか」
ラウラの目が細くなる。
「ならば、後で一度、腕を見てみたいものだな」
「今は無理だけど」
「分かっている。負傷者に無理をさせるつもりはない」
ラウラはそれだけ言い、歩き出した。
一夏が苦笑する。
「悪いな。ラウラ、ああいう奴なんだ」
「別に気にしてない」
朔は答えた。
むしろ、ラウラの反応は分かりやすかった。
実際に戦う人間なら、相手の技量が気になることもある。
少なくとも、興味の向け方に嘘がない。
◇
食堂は、既に多くの生徒で賑わっていた。
朔は周囲を見渡し、少しだけ目を丸くした。
「……広いな」
「全校生徒が使うからな」
一夏が答える。
「料理も結構うまいぞ」
「それは楽しみだ」
各自が食事を受け取り、空いている席へ向かう。
朔が席に着こうとしたとき、背後から声がした。
「一夏!」
振り向くと、髪を左右にまとめた少女が近づいてきた。
「鈴?」
一夏が名前を呼ぶ。
少女は一夏の隣にいる朔を見て、足を止めた。
「……あんたが噂の転入生?」
「え?」
「男の子がもう一人来たって聞いたんだけど」
「……俺のことかな」
少女は朔をじっと見た。
「ふうん」
一夏が慌てて口を開く。
「鈴、紹介するよ。こいつが雨宮朔。雨宮、こっちは鳳鈴音。二組の代表候補生だ」
「雨宮朔です。よろしく」
「鳳鈴音よ。鈴でいいわ」
鈴はそう名乗ると、一夏へ向き直った。
「それで? どうして教えてくれなかったの?」
「いや、昨日までは内緒にしろって言われててさ」
「ふうん……」
鈴は一夏を睨んだ。
「まあ、今回は仕方ないけど」
「今回は?」
「何でもない!」
朔は黙って食事に手をつけた。
どうやら、一夏の周囲には個性的な人物が多いらしい。
それだけは、初日で十分に理解できた。
◇
午後の授業が終わる頃には、朔は少し疲れていた。
授業内容そのものは、難しすぎるというほどではない。
むしろ、知っていることも多かった。
ただ、長時間机に向かい、周囲の生徒たちと一緒に授業を受けるという環境に、まだ慣れていなかった。
千冬が教卓から告げる。
「雨宮。実技については、当面見学だ。勝手に機体を展開するなよ」
「はい」
「右腕の状態に変化があれば、すぐに報告しろ」
「分かりました」
「よし。今日はここまでだ」
終業の挨拶が終わる。
教室の空気が緩んだ。
一夏が朔の席へ近づいてきた。
「どうだった? 初日」
「……思ったより疲れた」
「だろうな」
一夏は笑った。
「でも、みんな悪い奴じゃないだろ?」
「ああ。それは分かった」
朔は素直に答えた。
興味本位の質問は多かった。
だが、それ以上のものはない。
敵意を隠して近づいてくる人間も、こちらを試すように武器を向けてくる人間もいない。
少なくとも、今日の教室では。
「……一夏」
「ん?」
「一つ聞いていいか?」
「何だ?」
「お前、最初からあんな感じだったのか?」
「あんな感じって?」
「……誰にでも普通に話しかけるところ」
一夏は少し考えた。
「別に、意識したことないな」
「そうか」
「何で?」
「いや……」
朔は言葉を探した。
自分のことをほとんど知らない相手に、当たり前のように声をかける。
昨日初めて会ったばかりなのに、今日も一緒に登校し、昼食に誘う。
その行動に、何か裏があるようには見えなかった。
「……変わってるなと思って」
「えっ、俺が?」
「うん」
「ひどくないか?」
一夏が困ったように笑う。
朔も、つられて笑った。
ほんの短い時間だった。
だが、誰かとこんなふうに笑ったのは、久しぶりのことだった。
◇
帰り道。
一夏と別れた朔は、寮へ向かう通路を歩いていた。
夕方の校舎。
遠くから聞こえる生徒たちの声。
訓練施設の方では、まだISの稼働音が響いている。
朔は足を止めた。
空を見上げる。
そこには、訓練を行っている数機のISが見えた。
色とりどりの装甲。
背部に展開された推進装置。
武装を呼び出し、互いの位置を確かめながら飛行する機体。
どの操縦者も、訓練に集中している。
朔はその光景をしばらく眺めていた。
《実技訓練への参加を希望しますか?》
「……まだ無理だろ」
《医師の指示では、強い負荷を伴う操作を控える必要があります》
「分かってるよ」
右手を軽く握る。
指先の痺れは、まだ消えていない。
今は無理をする必要がない。
そう頭では分かっていた。
それでも、空を飛ぶISを見ていると、身体がわずかに反応する。
相手の位置。
推進器の向き。
武装の射程。
どこへ動くのか。
次に何をするのか。
自然と考えてしまう。
「……癖って、抜けないもんだな」
《どの習慣を指していますか?》
「いろいろだよ」
朔は歩き出した。
そのとき、遠くで訓練終了を知らせる音が鳴った。
空を飛んでいた機体が、次々と高度を下げていく。
その光景を見て、朔はふと思った。
ここでは、戦闘が終われば日常に戻れる。
教室へ戻り、友人と話し、食事をして、明日の授業を気にする。
紛争地帯では、そうはいかなかった。
銃声が止んだからといって、安全になるわけではない。
昨日まで使えた道路が、今日も通れるとは限らない。
誰かの帰りを待っている人間が、必ずその人に会えるとも限らなかった。
朔は、もう一度だけ空を見上げた。
訓練機の姿は、既に見えなくなっている。
「……平和だな」
小さな呟きだった。
◇
その日の夕方。
IS学園の職員室で、千冬は新しい報告書を確認していた。
雨宮朔。
編入初日の授業参加状況。
出席に問題なし。
授業への理解度、良好。
生徒間の大きな問題、なし。
「……ひとまず、問題はなさそうですね」
隣から、真耶が声をかけた。
「ええ。私も少し心配していたんですけど、みんなとも話せていたみたいですし」
「そうか」
千冬は書類を閉じた。
「ただ、油断はできん」
「……機体のことですか?」
「それもある」
千冬は窓の外へ目を向けた。
「雨宮は、実際の戦闘を知っている」
「……はい」
「今日の授業でも、それが分かる答え方をしていた」
真耶は少し考えた。
「確かに、経験があるような話し方でしたね」
「知識だけなら、訓練を受ければ身につく。だが、判断の順序には経験が出る」
千冬は静かに続けた。
「あの年齢で、何を経験してきたのか」
そこまで言って、口を閉じた。
まだ、確かなことは分からない。
提出された経歴には空白が多い。
機体の出所も不明。
過去の試験記録についても、説明が必要な点が残されている。
「……しばらくは様子を見る」
「分かりました」
「授業には普通に参加させろ。ただし、実技の制限は厳守だ」
「はい」
千冬は次の書類を開いた。
学園に男子生徒がもう一人増えた。
それだけなら、まだよかったのかもしれない。
だが、あの少年は普通の転入生ではない。
そのことを、千冬は忘れていなかった。
◇
夜。
朔は寮の自室で、机に向かっていた。
今日の授業で配られた教材。
明日の時間割。
提出する必要のある書類。
それらを一つずつ確認していく。
《本日の学園生活について、記録を整理しますか?》
「……そんなものまで記録するのか?」
《必要であれば》
「別に、そこまでしなくていいよ」
《了解しました》
朔は椅子の背にもたれた。
今日一日。
何か特別なことが起きたわけではない。
教室で自己紹介をした。
授業を受けた。
昼食を食べた。
同級生と話した。
それだけだった。
だが、朔には、その一つ一つが妙に新鮮だった。
「……学校って、こんな感じだったな」
《以前の学校生活について、参照可能な記録があります》
「今はいい」
《了解しました》
朔は窓の外を見た。
校舎の明かりが、遠くに見える。
昼間はあれほど騒がしかった学園も、夜になれば静かだった。
明日も、同じような一日が続くのだろうか。
そんなことを考えた。
そのとき、端末に新しい通知が届いた。
IS学園の管理部門からだった。
――雨宮朔君。
――編入初日の生活状況について、確認しました。
――右腕の経過観察については、引き続き担当医の指示に従ってください。
――ISの使用制限は、現在の状態を維持します。
朔は文章を読み終えた。
「……分かってるって」
《返信は必要ありません》
「なら、いいや」
端末を机へ置く。
そして、ふと思い出した。
今日、一夏が言っていたこと。
――みんな悪い奴じゃないだろ?
朔は少しだけ笑った。
「……そうだな」
誰に聞かせるでもなく答える。
まだ、すべてを信用しているわけではない。
この学園にも、知らないことは多い。
自分の過去が、ここでの生活にどんな影響を与えるのかも分からない。
それでも。
少なくとも、今日一日は悪くなかった。
雨宮朔は照明を落とした。
紛争地帯での任務でも、秘密施設での試験でもない。
IS学園の一年一組。
そこに、彼の席が一つ用意されている。
その事実が、今は少しだけ嬉しかった。