IS〈インフィニット・ストラトス〉蒼穹の亡霊 作:右左右左右
午前七時三十八分。
雨宮朔が寮の部屋を出ると、廊下の向こうから聞き慣れた声がした。
「お、朔。おはよう!」
「……おはよう、一夏」
織斑一夏はいつもどおりの笑顔で手を振った。
編入して四日目。
最近では、こうして一緒に教室へ向かうことが当たり前になりつつある。
「今日、朝から何かあるのか?」
「何かって?」
「いや、さっきから端末の通知が多くてさ」
朔はポケットから携帯端末を取り出した。
画面には、学園内の連絡網を通じて届いた通知がいくつも並んでいる。
そのほとんどが、同じ話題だった。
――二人目の男性IS操縦者について。
――新しい男子生徒の専用機は、所属不明の新型機らしい。
――既存の467基とは別のコアが使われているという噂も。
「……何だ、これ」
一夏が画面を覗き込んだ。
「あー……」
「知ってるのか?」
「さっき箒からも聞いた。何か、変な噂が広まってるらしい」
「変な噂って……これ、俺のことだろ」
「そうみたいだな」
朔は画面を見つめた。
別のコア。
新型機。
所属不明。
情報の一部は事実だった。
だが、そこから先は勝手な憶測だ。
「……いつの間に、こんな話になったんだ?」
「俺のときも似たようなことはあったぞ」
一夏が苦笑する。
「最初なんて、俺が何でISを動かせるのか、みんな好き勝手に予想してたからな」
「……そうなのか」
「ああ。まあ、俺にも理由なんて分からないんだけど」
一夏は肩をすくめた。
朔はしばらく端末を見ていたが、やがて画面を閉じた。
「……面倒だな」
「だろ?」
「お前、よく平気でいられるな」
「慣れたっていうか……気にしても仕方ないしな」
一夏はそう言って笑った。
「それに、変な噂を一つずつ否定してたら、授業を受ける時間がなくなるぞ」
「……確かに」
朔も小さく笑った。
しかし、笑って済ませられない部分もあった。
自分がISを動かせること。
それが学園内で知られているのは、仕方がない。
だが、灰色の機体についての情報は、まだほとんど公開されていないはずだった。
どこまで知られているのか。
そして、誰が話したのか。
その点だけは、気になった。
◇
午前八時二十九分。
一年一組の教室は、いつも以上に騒がしかった。
「雨宮君!」
朔が席へ向かおうとすると、女子生徒の一人が近づいてきた。
「ちょっと聞いてもいい?」
「……何?」
「雨宮君のISって、すごい新型なんでしょ?」
「誰から聞いたんだ?」
「学園の掲示板で見たんだけど」
別の女子生徒が口を挟む。
「新しいコアが使われてるって本当?」
朔は思わず眉をひそめた。
「……そんな話、誰が?」
「えっ、違うの?」
「俺はそんなこと言ってない」
朔は落ち着いて答えた。
「機体のことは、まだ確認中だから。噂になってることが全部正しいとは限らないよ」
「そっか……」
「ごめん、変なこと聞いて」
「いや、別に」
女子生徒たちは少し残念そうにしながら離れていった。
その様子を見ていたシャルロットが、朔の席へ近づいてくる。
「大変そうだね」
「……思ったより」
「僕も最初はいろいろ聞かれたから、ちょっと分かるよ」
シャルロットは苦笑した。
「でも、新しいコアっていうのは変な話だね」
「ああ」
「ISの機体構成が新しくても、コアまで新しく作られたとは限らないからね」
朔は頷いた。
世界に存在するISコアは、467基。
その制約は、自分の機体にも当てはまるはずだった。
少なくとも、朔はそう理解している。
だが、自分の機体がそのうちのどれを使用しているのか。
そこまでは知らされていなかった。
「……知らないって、面倒だな」
「え?」
「自分の機体のことなのに、答えられないことが多くてさ」
シャルロットは少し考えた。
「……そうだね」
それ以上、機体のことを尋ねてはこなかった。
代わりに、机の上の教材へ視線を向ける。
「今日の授業、昨日の続きだよ。資料は持ってきた?」
「ああ。ちゃんとある」
「じゃあ、分からないところがあったら聞いてね」
「助かる」
シャルロットは微笑み、自分の席へ戻っていった。
朔は鞄から教材を取り出した。
噂については気になる。
だが、今は授業が始まる。
それもまた、今の自分がやるべきことだった。
◇
午前十時四十五分。
IS学園の管理棟。
轡木十蔵は、部下から渡された報告書に目を通していた。
「……学園外でも話題になり始めているのか」
「はい。現在のところ、匿名の投稿が中心です」
女性職員が答える。
「内容は?」
「二人目の男子生徒がIS学園へ編入したというものです。IS操縦者であることにも触れていますが、情報源は確認できていません」
「写真や映像は?」
「現時点で確認できた投稿にはありません。学園の外部から見える範囲での目撃談や、伝聞による情報が多いようです」
十蔵は報告書を閉じた。
「……公表前に広まること自体は、予想できたことだ」
IS学園には多くの生徒がいる。
朔の存在は、既に一年一組を中心として学園内で知られていた。
男性操縦者がもう一人いる。
その話題を完全に閉じ込めておくのは、現実的ではない。
しかし、問題は情報の内容だった。
「機体の識別情報や、検証施設の詳細が外へ出ている形跡は?」
「まだ確認できていません」
「ならば、噂と機密情報の流出は分けて扱う」
「承知しました」
「学生の私的な会話まで無理に止める必要はない。だが、撮影記録や医療情報、機体の管理情報は別だ。必要な保護は徹底しろ」
「はい」
十蔵は机の上に置かれた別の資料へ手を伸ばした。
先日の実機検証に関する調査報告だった。
「例の保守用端末については?」
「進展がありました」
職員は新しい資料を開いた。
「施設側から、端末の使用履歴と作業記録の追加提出がありました」
「それで?」
「問題の時刻に、保守作業の届け出はありませんでした」
十蔵の眼差しが鋭くなった。
「……つまり、予定外のアクセスだったということだな」
「はい。さらに、端末の一時保存領域へデータを書き出した履歴も見つかっています」
「内容は確認できたか?」
「記録の一部だけです。少なくとも、雨宮君の実機検証に関する概要データが含まれていた可能性があります」
「外部への持ち出しは?」
「そこまでは分かっていません。書き出された記録が、その後どう扱われたのかは調査中です」
十蔵は黙って資料を読んだ。
保守用の認証情報。
予定外の時刻。
検証データへのアクセス。
そして、一時保存領域への書き出し。
単なる設備点検とは考えにくい。
だが、まだ断定はできなかった。
「この認証情報は、誰に発行されていた?」
「施設の保守を担当する外部会社です。ただ、実際の使用者は特定できていません」
「会社側の管理記録は?」
「照合を依頼しています」
十蔵は頷いた。
「分かった。証拠の保全を優先しろ。使用者が判明するまでは、特定の人物を疑うな」
「はい」
「それと、本人へ伝える内容を整理しておいてくれ」
女性職員が顔を上げた。
「雨宮君へ、ですか?」
「ああ。本人に関係する記録だ。調査の進展を隠す理由はない」
十蔵は資料を閉じた。
「ただし、余計な憶測まで伝える必要はない。確認できた事実だけだ」
「承知しました」
職員が退出すると、十蔵は窓の外へ目を向けた。
六月の空。
遠くの訓練施設では、数機のISが飛行している。
学園の中は、いつもと変わらない。
だが、その外側では、既に何かが動き始めていた。
◇
昼休み。
「なあ、朔」
食堂の席に着いた一夏が声をかけた。
「何?」
「お前、さっきからあんまり食べてないけど、大丈夫か?」
朔は自分の皿を見た。
まだ半分ほど残っている。
「……ちょっと考え事してた」
「噂のことか?」
「まあ、それもある」
一夏は箸を止めた。
「気になるよな」
「お前も、こういうの経験したんだろ?」
「そりゃもう」
一夏は苦笑した。
「俺の場合、最初から世界中に知られてたからな」
「……そうだったな」
「だから、何をしても目立つし、勝手にいろんなこと言われるし」
朔は黙って聞いていた。
「でも、慣れたっていうより、周りが助けてくれたんだと思う」
「周り?」
「ああ。箒とか、セシリアとか、シャルとか。まあ、いろいろ大変なこともあるけどさ」
朔は思わず笑った。
「大変そうなのは、見てれば分かる」
「だろ?」
一夏も笑った。
そのとき、向かいの席から声がした。
「一夏さん」
セシリアだった。
「わたくしたちが大変だとおっしゃいました?」
「いや、そういう意味じゃ……」
「では、どういう意味ですの?」
一夏の表情が困ったものになる。
その隣では、箒が腕を組んでいた。
「日頃から余計なことを言うからだ」
「箒まで!」
「自業自得だ」
シャルロットが口元を押さえて笑う。
「まあまあ。朔が困っちゃうよ」
「……いや、俺は別に」
朔は肩をすくめた。
少なくとも、この場の話題が自分の機体から離れたことには助けられた。
そのとき、ラウラが口を開いた。
「雨宮」
「ん?」
「お前の機体について、変な噂が出ているようだな」
「……ああ」
「新しいコアが使われている、などという話だ」
「俺も見た」
ラウラは少し考えた。
「事実か?」
「……分からない」
朔は正直に答えた。
「少なくとも、俺は新しいコアが作られたなんて聞いてない」
「そうか」
「でも、自分の機体のコアがどれなのかも知らないんだ」
ラウラは朔を見つめた。
「……それは、問題だな」
「分かってる」
朔は頷いた。
ラウラの言葉は率直だった。
だが、責めるような口調ではない。
「兵器を扱う者が、自分の装備について知らないことが多すぎるのは危険だ」
「……そうだな」
「もっとも、お前が知らされていないのであれば、責任は別のところにあるのかもしれんが」
朔は顔を上げた。
ラウラは表情を変えなかった。
「まずは、知ることだ」
短い言葉だった。
朔は小さく頷いた。
「……ああ」
◇
午後三時四十分。
朔は学園の医療室で、右腕の状態を確認してもらっていた。
指先の痺れ。
握力。
腕の動き。
前回と比べ、大きな悪化は認められなかった。
「少しずつ回復しているようですね」
医療担当者が言った。
「ただし、ISの展開によって症状が強くなったことがありますから、まだ操縦は控えてください」
「はい」
「無理に動かさなければ、日常生活は続けられると思います」
「分かりました」
朔は袖を下ろした。
怪我が治っていく。
それ自体は、嬉しいことだった。
だが、完全に回復するまでには、まだ時間が必要らしい。
医療室を出ると、携帯端末に新しい通知が届いていた。
――雨宮君。少し時間はあるかい?
送信者は、轡木十蔵。
朔は返信した。
――はい。これから向かいます。
◇
午後四時十分。
管理棟の小会議室で、朔は十蔵と向かい合っていた。
「こんにちは、雨宮君。腕の具合はどうだい?」
「少しずつ良くなってるそうです」
「それはよかった」
十蔵は穏やかに頷いた。
「今日は、君に知らせておきたいことがあってね」
「……例の調査ですか?」
「ああ」
十蔵は資料を机に置いた。
「先日の実機検証で使った施設について、追加の記録が見つかったんだ」
「何か分かったんですか?」
「検証データへアクセスした端末から、記録を書き出した形跡があった」
朔は黙った。
十蔵は続けた。
「ただし、誰が操作したのか、どこへ持ち出されたのかはまだ分かっていない。君の代理人との関係も、確認できていない」
「……そうですか」
「今のところ、分かったのはそこまでだ」
朔は資料へ視線を落とした。
小さな画面。
数字。
端末の記録。
何かが動いていたことは分かる。
だが、肝心な部分はまだ見えない。
「……俺の検証結果って、そんなに欲しいものなんですかね」
朔は呟いた。
十蔵は少し考えた。
「男がISを動かせるという事実は、それだけで大きな意味を持つ」
「……一夏も、そうなんですよね」
「ああ。彼も、そのことで多くの人間から注目されてきた」
十蔵は静かに言った。
「だが、君の場合はもう一つ問題がある」
「機体ですか」
「そうだ。出所の分からないISを、男性が操縦している。その二つが重なっている」
朔は頷いた。
「……それで、どうすればいいんですか?」
「まず、君自身の情報をどう扱うか、慎重に考えることだね」
十蔵は資料を閉じた。
「それから、外部からの問い合わせには、学園を通して対応してほしい。少なくとも、相手の身元が確認できないうちは」
「分かりました」
「君の代理人についても、引き続き確認する。何か連絡があれば教えておくれ」
「はい」
朔は少し迷った。
それから、口を開いた。
「……轡木さん」
「何だい?」
「前に、試験記録のことを千冬先生に相談したんですけど」
「ああ。聞いているよ」
「あの件、何か分かりましたか?」
十蔵は静かに頷いた。
「まだ、記録の出所までは分かっていない。ただ、技術者たちがいくつか気になる点を見つけている」
「……気になる点?」
「以前提出された映像と、君が持っていた静止画の間には、時間の隔たりがある。それ自体は、前に伝えたとおりだね」
「はい。二十四秒」
「そうだ。ただし、二十四秒間の映像が意図的に消されたと断定できたわけではない」
朔は頷いた。
「同じ試験の記録かどうかも、まだ完全には確認できていないんですよね」
「ああ。そのとおりだ」
十蔵は、少しだけ表情を引き締めた。
「ただ、次に調べるべきことは見えてきた」
「何ですか?」
「映像に表示されている警告が、どの装置から出されたものなのかということだ」
十蔵は机上の端末を操作した。
画面に、あの静止画が映し出される。
灰色のIS。
右側の推進器付近に表示された赤い警告。
そして、試験中断の文字。
「機体内部の警告なのか、試験設備側の表示なのか。それによって意味が変わる」
朔は画面を見つめた。
「……なるほど」
「もし設備側の表示なら、機体の異常そのものを示しているとは限らない。逆に、何らかの理由で試験を中断したことを、外部の監視装置が表示した可能性もある」
「……つまり、まだ原因は分からない」
「そういうことだ」
十蔵は端末を閉じた。
「ただ、君が覚えていることと、記録に残っていることが食い違っている。そこは調べる価値がある」
朔は少し考えた。
「……俺の持ってる記録も、もう一度調べてみます」
「何か手掛かりがあるのかい?」
「分かりません。でも、俺の補助システムには、昔の記録が一部残っているんです」
十蔵が顔を上げた。
「そうか」
「映像は残ってないんですけど、記録の並び方くらいなら確認できるかもしれません」
「それなら、無理のない範囲で調べてみるといい。ただし、出所の分からないデータを学園の設備へ接続するのは避けてくれ」
「分かっています」
十蔵は穏やかに微笑んだ。
「何か見つかったら、また教えておくれ」
「はい」
◇
夕方。
朔は寮へ戻る途中、一夏と顔を合わせた。
「お、朔。どこ行ってたんだ?」
「管理棟。ちょっと話があって」
「そっか」
一夏は頷いた。
「そういえば、今日の夕飯どうする?」
「食堂に行くつもりだけど」
「じゃあ一緒に行こうぜ」
「いいよ」
二人は並んで歩き始めた。
夕方の学園。
校舎から寮へ向かう生徒たち。
遠くの訓練施設では、ISがゆっくりと高度を下げている。
朔はその光景を眺めた。
「……一夏」
「ん?」
「お前さ」
「うん」
「自分がISを動かせる理由って、気にならないのか?」
一夏は少し驚いた顔をした。
「……そりゃ、気になるよ」
「そうか」
「でも、考えても分からないしな」
一夏は苦笑した。
「最初は、何で俺だけなんだろうって思ったこともあったけど」
朔は黙って聞いていた。
「今は、こうして学校に通って、みんなと一緒にいられるし。それでいいかなって」
「……そういうものか」
「朔は気になるのか?」
「……ああ」
朔は頷いた。
「俺の場合、知らないことが多すぎるから」
一夏はしばらく考えた。
「……そっか」
それから、少し笑った。
「じゃあ、分かるところから調べればいいんじゃないか?」
「簡単に言うな」
「いや、難しく考えても仕方ないだろ?」
朔は一夏を見た。
そして、小さく笑った。
「……お前らしいな」
「何だよ、それ」
「褒めてる」
「本当か?」
「ああ」
二人は笑いながら、寮へ向かって歩いていった。
◇
午後八時二十七分。
寮の自室。
朔は携帯端末を机に置き、以前の試験記録を呼び出していた。
《指定された記録を検索します》
「頼む」
《過去の試験に関する保存データを確認します》
画面に、いくつかの記録が表示される。
試験開始時刻。
機体の基本状態。
通信接続の記録。
それから、操作履歴。
朔は順番に目を通した。
大半は、以前にも確認した内容だった。
機体の調整。
基本動作の確認。
推進器の作動試験。
そして、試験終了。
ただ、その途中に不自然な部分があった。
「……ここ」
《どの項目ですか?》
「記録番号」
朔は画面を拡大した。
一つ前の項目。
次の項目。
記録された時刻は、大きく離れていない。
しかし、管理番号が連続していなかった。
「……飛んでるな」
《確認しました。保存されている項目の間に、複数の管理番号の欠落があります》
「これ、前からあったのか?」
《現在の保存データにおいて確認できます。ただし、欠落が生じた時期は特定できません》
朔は眉をひそめた。
管理番号が飛んでいる。
それだけなら、記録が部分的に保存されなかった可能性もある。
だが、問題は位置だった。
欠落しているのは、機体の基本試験が終わる直前。
以前の映像が途切れていた時間帯に近い。
「……偶然か?」
《現時点では判断できません》
「だよな」
朔は少し考えた。
「この部分、削除されたかどうか分かるか?」
《保存形式の仕様が完全には確認できません。欠落した項目が元から存在していたのか、保存後に削除されたのかは断定できません》
「……分かった」
朔は画面を閉じかけた。
そのとき、一つの項目が目に留まった。
欠落した管理番号の直後。
通信状態に関する短い記録が残っている。
――外部接続、再確立。
「……再確立?」
朔は画面へ顔を近づけた。
《外部システムとの接続が、当該時点で再確立されたことを示す記録と考えられます》
「ってことは、その前に切れてたのか?」
《その可能性があります。ただし、どの外部システムとの接続かは、この項目だけでは確認できません》
朔は椅子の背にもたれた。
試験記録の欠落。
その直後の接続再確立。
そして、別の映像に表示されていた試験中断の文字。
一つ一つは、まだ確かな証拠ではない。
だが、無関係だと決めつけることもできなかった。
「……これ、千冬先生にも見せた方がいいな」
《記録の共有範囲を確認しますか?》
「いや。まず、元のデータをそのまま保存しておいてくれ」
《了解しました》
「あと、書き換えが起きないように、複製を作っておいて」
《保存済みデータの複製と整合性確認情報を作成します》
朔は頷いた。
以前なら、こうした記録を誰かに見せようとは思わなかった。
だが、今は違う。
少なくとも、調べようとしている人間がいる。
自分の身体に何が起きていたのか。
その答えを得るためなら、協力する理由は十分にあった。
◇
同じ夜。
IS学園の管理棟で、十蔵は一件の連絡を受けていた。
学園への外部問い合わせを扱う部署からだった。
「……代理人を名乗る人物?」
『はい。雨宮朔君の保護と機体の管理について、学園側の対応状況を確認したいとのことです』
「氏名と所属は?」
『一応、申告されています。ただし、本人確認はまだ完了していません』
「連絡先は?」
『先方から指定がありましたが、正式な所属先との照合が必要です』
十蔵は机に置かれた資料を見た。
雨宮朔の代理人。
本人との関係が明確ではない人物。
これまで学園へ何度か連絡してきた相手なのか。
あるいは、別の人間なのか。
今の段階では判断できない。
「本人確認が済むまで、情報は渡すな」
『承知しました』
「それと、雨宮君本人に確認を取る。代理人だと名乗れば、誰でも情報を得られるわけではないからな」
『はい』
「問い合わせの記録は残しておけ。連絡方法も含めてだ」
『分かりました』
通信が切れた。
十蔵は静かに息を吐いた。
男子生徒がもう一人増えた。
ただそれだけの話ではない。
彼を知ろうとする者。
利用しようとする者。
そして、何かを隠そうとしている者。
そのすべてが、同じ場所へ目を向け始めている。
十蔵は学園の夜景を見た。
「……さて、どう動くつもりだ」
誰に向けたわけでもない言葉だった。
机の上には、雨宮朔の名前が記された資料が置かれている。
その少年は今、寮の一室で明日の授業の準備をしているはずだった。
だが、学園の外では、彼の日常を静かにしておこうとしない人間たちが動き始めていた。
◇
朔は机の上の端末を見つめていた。
保存された記録。
抜けている管理番号。
外部接続、再確立。
まだ何も分からない。
それでも、これまでとは違った。
少なくとも、調べるべき場所が見えてきた。
「……あの二十四秒」
《はい》
「何もなかったなら、記録が残っててもおかしくないよな」
《通常の保存処理であれば、記録が残ることは考えられます。ただし、保存仕様や障害の有無によって異なります》
「……まあ、そうだよな」
朔は小さく笑った。
簡単に答えが出るとは思っていない。
だが、今度は途中でやめるつもりもなかった。
明日、千冬へ報告する。
必要なら、技術者にも調べてもらう。
自分に分かることと、分からないことを分けて考える。
それが今できる、最も確かな方法だった。
朔は端末を閉じた。
窓の外には、静かな学園が広がっている。
夜の校舎。
寮の明かり。
遠くの海。
その景色を眺めながら、朔は思った。
ここへ来る前は、明日の予定を立てることさえ難しい日もあった。
今は、明日やるべきことがある。
それは、過去を調べるためだけではない。
授業を受ける。
一夏たちと話す。
普通の生徒として、ここで生活する。
その時間を守るためにも、自分の周囲で何が起きているのかを知らなければならない。
「……今度こそ、な」
朔は照明を落とした。
紛争地帯で正体不明のISとして活動していた少年は、今、IS学園の生徒になっている。
その事実は、まだ世界の誰もが知るものではない。
だが、少しずつ広がり始めた波紋は、確実に学園の外へ届いていた。