IS〈インフィニット・ストラトス〉蒼穹の亡霊 作:右左右左右
雨は、まだ止まなかった。
崩落した斜面から濁った水が流れ落ち、山道に散らばった岩石の間を縫っていく。
停止した十台の車両。
その周囲では、武装した人員たちが慌ただしく動き回っていた。
道路の復旧状況を確認する者。
破損した兵装を点検する者。
負傷者の有無を調べる者。
ほんの数十分前まで静かだった山道は、今や小規模な戦場のような有様だった。
その上空に、一機のISが浮かんでいる。
白を基調とした装甲。
胸部と肩部を彩る赤い装甲板。
左右対称に展開された大型推進翼のうち、右側の一部には深い損傷が刻まれていた。
右腕に装備されていた長砲身も、途中から切断されている。
《右側推進器、出力低下》
《主兵装、使用不能》
《シールドエネルギー残量、六十二パーセント》
「……しつこい」
女性操縦者は警告表示を閉じた。
損傷状況など、既に把握している。
問題はそこではなかった。
灰色のISを取り逃がした。
輸送車列を襲撃した正体不明の機体。
その性能は、彼女が事前に想定していた範囲を明らかに超えていた。
高出力の主砲を回避する加速性能。
こちらの射線を外しながら距離を詰める機動。
そして、短い交戦時間の中で推進翼と主兵装を無力化した精密な攻撃。
単純に装備の性能だけで説明できるものではない。
操縦者も、相当な腕を持っている。
「……厄介ね」
女は眼下へ視線を向けた。
輸送車両は四台とも停止したままだ。
少なくとも、外観上は無事に見える。
彼女は通信回線を開いた。
「車列の状況を報告」
短い間を置いて、男の声が返ってきた。
『先頭車両、走行不能。護衛車両の複数で兵装が損傷。負傷者は確認中』
「輸送車は?」
『四台とも外装への直接攻撃は確認されていません。封印も維持しています』
「内部の状態は?」
『外部計測値に異常なし。ただし、封印内部は確認していません』
「了解。周辺警戒を継続する」
『敵機の追跡は?』
「していない」
それだけ答えて通信を切った。
眼下にいる者たちが、どこまで積荷の内容を知らされているのか。
それを彼女が確かめる理由はなかった。
彼女自身、輸送車両の中身について詳細な説明を受けていない。
与えられた任務は、指定された輸送車列を護衛すること。
そして、妨害する存在を排除すること。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
女は右側推進翼の出力を慎重に調整する。
主兵装を失い、機動性能も低下している。
それでも、この場を離れるわけにはいかない。
あの灰色のISが戻ってくる可能性は、まだ残されていた。
◇
装甲車両の内部には、焦げた電子機器の臭いが漂っていた。
輸送部隊の現場責任者は、手元の端末に表示された損害報告を見つめていた。
道路の崩落。
護衛車両の損傷。
予定経路の使用不能。
護衛ISの主兵装喪失。
決して軽い被害ではない。
しかし、輸送車両への直接攻撃は確認されていなかった。
「……最悪だけは免れたか」
男は暗号通信を起動した。
画面には、数字と記号を組み合わせた宛先が表示される。
組織名はない。
相手の所在地も分からない。
そもそも、男自身がこの輸送任務の全容を知らされていなかった。
指定された車両を目的地まで運ぶ。
積荷を開封しない。
必要以上の記録を残さない。
余計な質問をしない。
彼に与えられている命令は、それだけだった。
「輸送班より報告。襲撃を受け、全車両が停止している」
『確認した』
「襲撃者は所属不明のISです。護衛機が迎撃しましたが、敵機は離脱しました」
『積荷は?』
「四台とも封印を維持。外部計測に異常はありません」
『開封した車両はあるか』
「ありません」
『それでいい』
男はわずかに眉をひそめた。
「予定経路は崩落によって使用不能です。輸送車両自体は走行できますが、目的地への到達には迂回が必要になります」
『現行の輸送計画を中止する』
「中止、ですか?」
『代替指示を送る。それまでは現場を維持しろ』
「了解しました」
通信が切れた。
男は端末を下ろした。
相手が最も気にしていたのは、襲撃者の正体でも、損害の規模でもなかった。
積荷の封印。
その一点だった。
「……中身を見られる方が困る、か」
小さく呟いてから、男はすぐに考えるのをやめた。
知る必要のないことを知って、得をした経験はない。
ただ一つ、確かなことがある。
今夜の襲撃は、これで終わったとは限らない。
男は通信機を取った。
「全部隊へ。現配置を維持。警戒を緩めるな」
◇
ベルナー少佐は、暗転した通信画面を見つめていた。
上官への報告を終えてから、まだそれほど時間は経っていない。
独自調査の禁止。
映像記録の提出。
関係者への守秘命令。
そして、最後に告げられた言葉。
――君は何も見なかった。
「……見なかったことにしろ、か」
苦々しい声が漏れる。
現場にいた自分たちが、起きたことを忘れられるはずもない。
だが、軍人である以上、命令を無視するわけにもいかなかった。
「少佐」
若い通信士が声をかけた。
「何だ」
「第三観測班から報告です。灰色のISは依然として確認できません。白と赤のISは車列上空に留まっています」
「了解。観測班を下げろ」
「……撤収ですか?」
「ああ」
通信士は一瞬だけ言葉に詰まった。
「監視対象の車列は、まだ動いていませんが」
「それでもだ」
ベルナーはモニターを閉じた。
「これ以上の監視と追跡は行わない。収集した記録を提出したら、全部隊撤収する」
「了解しました」
青年が通信機へ向き直る。
ベルナーは最後に一度だけ、保存されていた映像へ目を向けた。
崩落した道路。
武装を破壊された装甲車両。
白と赤のIS。
そして、そのすべての原因となった灰色の機体。
灰色のISは、なぜ輸送車両を直接攻撃しなかったのか。
強奪が目的だったのなら、なぜ積荷を奪わずに撤退したのか。
破壊が目的だったのなら、なぜ護衛車両の兵装ばかりを狙ったのか。
分からない。
何一つ、確かな答えは得られていなかった。
「……いったい何を運んでいたんだ」
ベルナーは報告書の末尾に一文を追加した。
――輸送物の詳細、および襲撃機の目的は不明。
それが、現時点で書けるすべてだった。
やがて、移動指揮車両の機器が一つずつ停止していく。
雨に濡れた偽装用の覆いが外され、撤収準備が始まった。
ベルナーは山の方角を振り返った。
あの場所には、まだ何かが残っている。
そんな気がしてならなかった。
しかし、それを確かめる権限は、もう自分にはない。
「……撤収する」
短い命令を残し、少佐は指揮車両へ乗り込んだ。
◇
開いた旅行鞄の中に、衣類が几帳面に畳まれていた。
薄暗い部屋。
窓の外では、雨が細く降り続いている。
一人の人物が、左手で荷物を整理していた。
右腕には、まだ包帯が巻かれている。
《右上肢の神経負荷が残留しています》
「……分かってる」
人物は鞄の中に小さな端末を収めた。
画面には、日本への移動経路と出発予定時刻が表示されている。
指示されたのは、指定された場所へ向かうこと。
到着後の具体的な行動については、まだ何も知らされていなかった。
「……相変わらず、説明が足りないな」
《新規の指示は受信していません》
「そうか」
端末を閉じる。
机の片隅に、一枚の写真が伏せて置かれていた。
人物はしばらくそれを見つめていた。
やがて、そっと手を伸ばす。
写真を裏返すことなく、鞄の内側へしまった。
留め具を閉じようとしたとき、右手の指先に鈍い痛みが走った。
「……っ」
思わず動きを止める。
《警告。右上肢への負荷を検知》
「大丈夫だ」
《回復には安静が必要です》
「分かってるって」
左手で留め具を閉じた。
部屋を見回す。
机。
椅子。
必要最低限の家具。
長く暮らしていた場所ではない。
ここへ戻ってくる予定もなかった。
人物は上着を羽織り、鞄を持ち上げた。
扉の前で、わずかに足を止める。
日本。
その言葉には、任務の行き先という以上の意味があった。
かつて訪れた場所。
そして、二度と会うことはないと思っていた人物のいる場所。
「……さて」
小さく呟く。
「どうなることやら」
扉が静かに閉まった。
◇
夜明けが近づいていた。
雨脚は弱まり、山の稜線が薄い灰色に浮かび上がり始めている。
崩落した道路では、作業員たちが土砂の撤去を進めていた。
もっとも、復旧にはまだ相当な時間が必要だった。
輸送部隊の現場責任者は、届いたばかりの指示を確認していた。
――代替輸送計画を実施。
――指定車両のみ先行移送。
――残余車両は現場待機。
男は目を細めた。
「……一台だけ?」
四台の輸送車両はいずれも走行可能だった。
しかし、指示された車両番号は一つしかない。
男は暗号通信を開いた。
「確認したい。指定車両のみの移送で間違いないか」
『間違いない』
「残りの三台は?」
『現場待機。別途指示する』
「護衛ISの配置は?」
『現場を維持させろ』
「先行車両には随伴させないのですか?」
『不要だ』
短い返答だった。
それ以上の説明はない。
通信が切れた。
男は画面に表示された車両番号を見つめた。
なぜ、一台だけなのか。
なぜ、護衛ISを残すのか。
そして、なぜ今になって輸送計画を変更したのか。
質問したところで答えは返ってこないだろう。
「……指定車両を移送する」
男は部下に命じた。
「残り三台は現場で待機。先行車両には走行可能な護衛車両を付けろ」
「了解。移動経路は?」
「来た道を戻り、北側の分岐から迂回する」
部下は思わず顔を上げた。
「北側ですか? 当初の目的地とは反対方向になりますが」
「目的地が変更された。それ以上は聞くな」
「……了解しました」
作業員たちが動き始める。
指定された輸送車両の周囲に、複数の人員が集まった。
車体の点検。
封印の確認。
通信機器の作動試験。
そして、護衛車両の配置変更。
やがて、一台の輸送車両が残る三台から離れた。
走行可能な装甲車両が、その前後につく。
先頭車両がゆっくりと方向を変えた。
崩落地点を避けるように、来た道を引き返していく。
その上空では、白と赤のISが周囲を警戒していた。
女性操縦者は、離れていく車両を視界の端で捉えていた。
だが、追いかけようとはしなかった。
彼女に与えられた命令は、現場の警戒を継続すること。
移動する車両を護衛することではない。
「……了解」
誰に聞かせるでもなく呟く。
右側推進翼の損傷表示が、再び視界に浮かんだ。
女はそれを閉じ、残された三台の輸送車両へ視線を戻した。
その間にも、先行車列は山道を進んでいく。
やがて、北側へ延びる分岐路へと姿を消した。
◇
照明を落とした一室。
壁一面のモニターに、複数の映像が映し出されていた。
停止した輸送車列。
損傷した白と赤のIS。
そして、雨の夜空を駆け抜ける灰色の機体。
椅子に腰掛けた人物は、最後の映像を何度も再生していた。
灰色のISが加速する。
白と赤のISが砲口を向ける。
次の瞬間、灰色の機体は射線の外側へ回り込み、右側推進翼へ攻撃を加えていた。
「……速いな」
人物が呟く。
背後に立つもう一人が答えた。
「護衛機は主兵装と右側推進器を損傷。操縦者は生存しています」
「輸送物は?」
「封印に異常なし。指定車両の移送も開始されています」
「そうか」
人物は映像を切り替えた。
灰色のISが輸送車両へ降下する場面。
右腕の射撃兵装を収納し、左腕から刃を展開している。
その直後、白と赤のISが接近し、灰色の機体は輸送車両から離れた。
「……ここだな」
映像を停止する。
「この機体について、何か分かったか?」
「現時点では不明です。型式、所属、操縦者ともに特定できていません」
「コアは?」
「実機を確保していないため、解析できていません」
人物は画面を見つめた。
既存の機体と一致しない外観。
そして、通常の射撃管制では捉えきれない加速。
厄介な相手であることは間違いない。
だが、気になるのは戦闘能力だけではなかった。
灰色のISは、装甲車両の兵装を破壊した。
それでいて、四台の輸送車両には直接攻撃を加えていない。
何かを探していたのか。
あるいは、輸送物を無傷で手に入れようとしていたのか。
現状の記録だけでは判断できなかった。
「……目的は不明、か」
「追跡を続けますか?」
「可能な範囲でな」
人物は椅子の背にもたれた。
「少なくとも、こちらに敵意を持つISが一機存在することは分かった」
「護衛機の追加配備は?」
「それも検討しろ。ただし、今回の件を必要以上に広めるな」
「了解しました」
背後の人物が退室する。
一人になった室内で、画面の前の人物は再び映像を再生した。
灰色のISが加速する。
その姿は、ほんの一瞬で視界から消えた。
「……蒼穹の亡霊、か」
どこかで使われ始めたその呼称を、人物は小さく口にした。
そして、画面を切り替える。
そこには、北側の山道を進む一台の輸送車両が映し出されていた。
先頭を走る装甲車。
後続する輸送車。
その後ろを警戒する護衛車両。
積荷の内容を示す表示はない。
ただ、移送先を示す暗号化された座標だけが、画面の端に浮かんでいた。
人物は静かに目を細めた。
灰色のISが何を狙っていたのか。
その答えを知らないままでも、輸送を進めることはできる。
そして、今回の襲撃によって変更された計画が、どのような結果をもたらすのか。
それを知る者は、まだ限られていた。
夜明けの山道を、一台の輸送車両が進んでいく。
その中身を知らないまま、護衛する者たちを乗せて。
誰にも見届けられなかったわけではない。
ただ、それを見ていた者のほとんどは、何が運ばれているのかを知らなかった。
そして、その車両が向かう先も。
秘密は、まだ箱の中にあった。