IS〈インフィニット・ストラトス〉蒼穹の亡霊   作:右左右左右

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第20話 自分で選ぶ場所

 午前九時十二分。

 

 雨宮朔は、寮の自室で鞄の中身を整理していた。

 

 今日は日曜日。

 

 編入してから初めて、丸一日授業のない日だった。

 

 机の上には、まだ使い慣れない教科書が積まれている。

 

 窓を開けると、潮の匂いを含んだ風が入ってきた。

 

 遠くでは、休日の自主訓練に参加しているらしいISが飛んでいる。

 

 朔は少しの間、その姿を眺めていた。

 

《本日の予定を確認しますか?》

 

「頼む」

 

《学園から指定された予定はありません。午後の外出についても、現在申請されているものはありません》

 

「……本当に休みなんだな」

 

《はい》

 

 朔は思わず笑った。

 

 予定がない。

 

 ただそれだけのことが、妙に落ち着かなかった。

 

 以前は、待機している時間にも何かしらの指示があった。

 

 次の移動先。

 

 連絡を取る相手。

 

 準備しておく装備。

 

 何もなければ、それはそれで次の指示を待つ。

 

 だが、今は違う。

 

 今日は、何をしてもいいらしい。

 

 もっとも、学園の規則に従う範囲で、という条件はつくが。

 

「……何するかな」

 

 朔は椅子に腰を下ろした。

 

 そのとき、扉が軽く叩かれた。

 

「朔ー、起きてるか?」

 

 一夏の声だった。

 

「ああ。開いてる」

 

 扉を開けると、織斑一夏が顔を覗かせた。

 

「おはよう。今日、暇か?」

 

「今ちょうど、それを考えてた」

 

「じゃあ、ちょうどいいな」

 

 一夏は笑った。

 

「購買に行かないか? 昨日、見せ忘れたところがあるんだ」

 

「購買?」

 

「ああ。普通の文房具とか日用品だけじゃなくて、結構いろいろ売ってるんだぞ」

 

「……昨日も似たようなこと言ってなかったか?」

 

「昨日は途中までだっただろ」

 

「確かに」

 

 朔は頷いた。

 

 昨日は管理棟へ呼ばれ、機体の引き渡しを求める委任状について確認することになった。

 

 そのせいで、一夏に案内してもらう時間が短くなっていた。

 

「分かった。少し待ってくれ」

 

「おう」

 

 朔は鞄へ端末を入れた。

 

 休日の学園を、友人と歩く。

 

 そういう予定も悪くないと思った。

 

     ◇

 

 午前十時過ぎ。

 

 購買の前には、何人かの生徒が集まっていた。

 

 休日ということもあり、制服ではなく私服姿の生徒も多い。

 

 一夏は迷わず店内へ入っていった。

 

「ほら、こっち」

 

「……広いな」

 

「だろ?」

 

 棚には文房具や日用品が並び、その奥には菓子や飲み物、ちょっとした雑貨まで置かれている。

 

 朔は店内を一通り見渡した。

 

「……普通の店だな」

 

「そりゃ、購買だからな」

 

「いや、もっと特殊なものばっかり置いてあるのかと思ってた」

 

「ISの部品とか?」

 

「ああ」

 

 一夏は首を振った。

 

「そういうのは専門の施設があるだろ。ここは普通の購買だって」

 

「……それもそうか」

 

 朔は小さく笑った。

 

 店内を歩いていると、一夏が菓子の棚で足を止めた。

 

「そうだ。これ、結構うまいんだよ」

 

 手に取ったのは、小さな焼き菓子の袋だった。

 

「甘いものは好きか?」

 

「嫌いじゃない」

 

「じゃあ、試してみろよ」

 

 朔は値札を確認した。

 

「……これくらいなら、買ってみるか」

 

「そうこなくちゃな」

 

 二人が会計を済ませ、店を出ようとしたときだった。

 

「あら、一夏さん」

 

 聞き覚えのある声がした。

 

 セシリア・オルコットだった。

 

 その隣にはシャルロット・デュノアもいる。

 

「セシリア、シャル。おはよう」

 

「おはよう、一夏」

 

 シャルロットが手を振った。

 

「朔も一緒なんだね」

 

「ああ。案内してもらってた」

 

「ふふ、休日まで一緒だなんて、すっかり仲良しですわね」

 

 セシリアが微笑む。

 

 一夏は少し照れくさそうに頭をかいた。

 

「いや、朔はまだ学園に慣れてないだろ?」

 

「それはそうですけれど」

 

「僕はいいと思うよ」

 

 シャルロットが笑った。

 

「朔、楽しめてる?」

 

「うん。思ったより」

 

「よかった」

 

 その答えが嬉しかったのか、シャルロットは目を細めた。

 

 朔は袋の中の焼き菓子を見た。

 

「……そうだ。よかったら一つ食べるか?」

 

「えっ、いいの?」

 

「ああ。まだ開けてないけど」

 

「じゃあ、一つもらおうかな」

 

 朔が袋を開けると、シャルロットは礼を言って一つ取った。

 

 セシリアも興味深そうに覗き込む。

 

「わたくしも、よろしいかしら?」

 

「どうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

 一夏が笑った。

 

「おいおい、もう半分なくなりそうだぞ」

 

「……お前が勧めたんだろ」

 

「それはそうだけど!」

 

 四人の間に笑い声が広がった。

 

 ほんの数分の、何でもないやり取り。

 

 朔はその時間を、少しだけ心地よく感じていた。

 

     ◇

 

 午前十一時二十六分。

 

 学園の管理棟では、轡木十蔵が二枚の署名画像を見比べていた。

 

 一枚は、昨日提出された機体管理の委任状。

 

 もう一枚は、朔本人の許可を得て確認した、以前の移動手続きに関する書類だった。

 

「……同じ画像だというのか?」

 

 十蔵が尋ねた。

 

 向かいに座る技術担当者が頷いた。

 

「少なくとも、独立して手書きされた二つの署名とは考えにくいですね」

 

 画面には、重ね合わせた署名画像が表示されている。

 

 文字の形。

 

 筆圧による濃淡。

 

 最後の一画のかすれ。

 

 それだけではなかった。

 

「こちらをご覧ください」

 

 技術担当者が、署名の右下を拡大する。

 

「文字とは関係のない小さな汚れまで一致しています。画像処理によって同じ位置に重ねると、ほぼ完全に一致するんです」

 

 十蔵は眉をひそめた。

 

「移動手続き用の署名画像が、今回の委任状に流用された可能性が高いわけだな」

 

「はい。ただ、誰が流用したかまでは分かりません」

 

「当然だ」

 

 十蔵は頷いた。

 

「それと、画像が流用されていることだけで書類作成者の意図までは断定できん。だが、雨宮君自身が署名も委任も否定している以上、これを本人の同意の証拠として扱うわけにはいかないな」

 

「はい」

 

 技術担当者は画面を閉じた。

 

 昨日、機体の引き渡しを求めてきた人物。

 

 その提出書類に、過去の署名画像が使われている。

 

 ただの事務上の誤りなのか。

 

 それとも、本人の承諾を得たように見せかけるためのものなのか。

 

 どちらにしても、看過できることではなかった。

 

「書類の原本は?」

 

「まだ提出されていません」

 

「そうか」

 

 十蔵は短く答えた。

 

 そのとき、扉がノックされた。

 

「失礼します」

 

 入ってきたのは、織斑千冬だった。

 

「轡木さん。例の件について、確認したいことがあります」

 

「ああ。ちょうどいいところだ」

 

 十蔵は椅子を示した。

 

「今、雨宮君の署名について調べていたところだ」

 

 千冬は資料へ目を向けた。

 

「結果は?」

 

「過去の書類から画像を流用した可能性が高い。本人は委任を否定している」

 

「……そうですか」

 

 千冬の目が細くなった。

 

「では、機体の引き渡しは?」

 

「認めない。少なくとも、今回の申請を根拠にすることはできん」

 

「妥当でしょう」

 

 千冬は頷いた。

 

 それから、別の資料を差し出した。

 

「もう一つ、確認していただきたいことがあります」

 

「何だ?」

 

「雨宮が提出した過去の試験記録です。技術担当者から、追加の見解が出ました」

 

 十蔵は資料を受け取った。

 

 画面には、以前の静止画が表示されている。

 

 灰色のIS。

 

 試験中断の警告。

 

 そして、右側の推進器付近に重なっていた表示。

 

「映像の表示について、再検討したそうです」

 

 千冬が説明した。

 

「警告が出ている位置だけで、右側の推進器に異常があったとは言えない、と」

 

「……そうだな」

 

「ただ、今回の委任状には『推進制御系の異常』と明記されている」

 

 十蔵は静かに頷いた。

 

「つまり、あの書類を作った人物は、何らかの情報に基づいてそう書いたか、あるいは我々と同じように映像から推測した可能性がある」

 

「はい」

 

 千冬は腕を組んだ。

 

「どちらにしても、根拠となる記録を確認する必要があります」

 

「そのとおりだ」

 

 十蔵は資料を閉じた。

 

「委任状の作成者へ、記述の根拠を求めよう。ただし、先に雨宮君へ説明する」

 

 千冬は頷いた。

 

「私も同席します」

 

     ◇

 

 午後零時五十分。

 

 朔の端末に、学園から連絡が届いた。

 

 管理棟で確認したいことがあるという。

 

 朔は購買で買った菓子の残りを鞄へしまった。

 

「……またか」

 

 一夏が顔を向ける。

 

「何かあったのか?」

 

「例の件だと思う」

 

 朔は画面を見せずに答えた。

 

 一夏も、詳しいことは尋ねなかった。

 

「そっか。じゃあ、ここで解散か?」

 

「悪いな」

 

「いいって。どうせ夕飯には会うだろ?」

 

 朔は少し笑った。

 

「そうだな」

 

「何かあったら連絡しろよ」

 

「ああ」

 

 一夏は軽く手を振り、寮の方へ歩いていった。

 

 朔はその背中を見送った。

 

 そして、管理棟へ向かう。

 

 昨日、あの書類を見せられたときは、どうすればいいのか分からなかった。

 

 だが、今は少し違う。

 

 少なくとも、自分が何を嫌だと思っているのかは、はっきりしていた。

 

     ◇

 

 午後一時十四分。

 

「雨宮君。来てくれてありがとう」

 

 会議室に入ると、十蔵が穏やかな声で迎えた。

 

 その隣には千冬が座っている。

 

「失礼します」

 

 朔は向かいの席へ腰を下ろした。

 

「今日の話は、昨日の委任状についてだよ」

 

 十蔵は資料を差し出した。

 

「君が以前署名した書類と、今回提出された委任状を照合した。その結果、署名の画像が使い回された可能性が高いことが分かった」

 

「……やっぱり」

 

 朔は小さく呟いた。

 

 昨日見たときから、どこかで見覚えがあると思っていた。

 

 あの筆跡。

 

 最後の一画。

 

 今となっては、似ているというより、同じものだったのだろう。

 

「誰が作ったんですか?」

 

 朔が尋ねる。

 

「そこは、まだ分かっていない」

 

 十蔵は答えた。

 

「提出した人物の身元と、書類が作成された経緯を確認しているところだ」

 

「……そうですか」

 

「ただ、君が今回の委任に同意していないことは、はっきりしている」

 

 朔は顔を上げた。

 

「だから、学園としては、この書類による機体の引き渡しには応じない」

 

「……分かりました」

 

 千冬が口を開いた。

 

「雨宮。改めて確認する」

 

「はい」

 

「お前は、自分のISを外部の代理人へ引き渡すつもりがあるか?」

 

 朔は少し考えた。

 

 自分の機体。

 

 灰色の装甲。

 

 左右非対称の推進器。

 

 誰にも知られていないはずの、過去の試験記録。

 

 自分がそのすべてを理解しているわけではない。

 

 今の身体では、自由に動かすこともできない。

 

 それでも。

 

「……ありません」

 

 朔は答えた。

 

「少なくとも、何も説明しない相手には渡したくないです」

 

 千冬は頷いた。

 

「理由は?」

 

「俺の機体だからです」

 

 短い答えだった。

 

 だが、朔は続けた。

 

「……正確には、どういう経緯で俺のところへ来た機体なのかも分かっていません」

 

「……」

 

「だから、所有権がどうなっているのかも、ちゃんと確認しなきゃいけないと思います」

 

 十蔵が静かに聞いている。

 

「でも、今まで使ってきたのは俺です。あの機体で何が起きたのか、俺自身にも関係がある」

 

 朔は顔を上げた。

 

「それなのに、理由も聞かされずに渡せって言われても、納得できません」

 

 千冬は、しばらく朔の顔を見ていた。

 

「……分かった」

 

 それだけ答えた。

 

 十蔵が口を開く。

 

「雨宮君。こちらからも一つ、確認したいことがある」

 

「はい」

 

「君はこれから、どこで生活したい?」

 

 朔は思わず瞬きをした。

 

「……どこで?」

 

「ああ」

 

 十蔵は穏やかに頷いた。

 

「今回の件とは別に、君自身の気持ちを聞いておきたい」

 

 朔は黙った。

 

 IS学園。

 

 世界中から操縦者候補が集まる学校。

 

 普通の男子生徒なら、まず入ることはない場所。

 

 自分がここへ来たのは、元をたどれば指示者の都合だった。

 

 最初から、自分で選んだ道ではない。

 

 だが、入学してから何日かが過ぎた。

 

 教室で授業を受けた。

 

 食堂で昼食を食べた。

 

 一夏たちと話した。

 

 何でもない話をして、笑った。

 

 そんな時間が、確かにあった。

 

「……ここにいたいです」

 

 朔は答えた。

 

 十蔵は頷いた。

 

「そうか」

 

「まだ、分からないことは多いですけど」

 

 朔は続けた。

 

「今すぐどこかへ行っても、同じことになる気がするんです」

 

「同じこと?」

 

「結局、誰かに言われた場所へ行って、何をするのかも知らないまま待つことになる」

 

 少し間を置いた。

 

「……それは、もう嫌なので」

 

 会議室が静かになった。

 

 千冬は口を挟まなかった。

 

 朔は自分の右手へ視線を落とした。

 

 まだ、指先には痺れが残っている。

 

 何が原因なのか。

 

 いつ治るのか。

 

 それさえ、はっきりしていない。

 

 それでも、何もしないまま待つことはできる。

 

 だが、それだけでは何も変わらない。

 

「ここで、ちゃんと調べたいです」

 

 朔は顔を上げた。

 

「自分の機体のことも、昔の試験のことも。それから……」

 

 少しだけ言葉に詰まった。

 

「……普通に、学校へ通いたいです」

 

 十蔵の表情が和らいだ。

 

「……そうか」

 

 短い返事だった。

 

 だが、朔には十分だった。

 

 千冬が口を開く。

 

「雨宮」

 

「はい」

 

「学園へ残るなら、規則には従ってもらう。機体の無断展開は禁止。身体の状態についても、医師の指示を守れ」

 

「分かっています」

 

「それから、お前の機体については今後も調査する。出所が不明なまま、自由に運用させるわけにはいかん」

 

「はい」

 

「だが、本人の意思を無視して、外部へ引き渡すつもりもない」

 

 朔は千冬を見た。

 

「……ありがとうございます」

 

「礼はいい」

 

 千冬は腕を組んだ。

 

「お前は一年一組の生徒だ。それを忘れるな」

 

 朔は、少しだけ目を見開いた。

 

 そして、小さく頷いた。

 

「……はい」

 

     ◇

 

 会議が終わる少し前。

 

 十蔵は、もう一枚の資料を取り出した。

 

「雨宮君。過去の試験記録についても、確認しておきたいことがあるんだ」

 

「……はい」

 

「君が持っていた記録に、管理番号の欠落と、外部接続の再確立という項目があったね」

 

「ありました」

 

「技術者に調べてもらったところ、外部計測装置との接続を示している可能性があるそうだ」

 

 朔は顔を上げた。

 

「じゃあ、機体の通信が切れたってことじゃないんですか?」

 

「そこまでは言えない。試験設備側の計測が一時的に途切れた可能性もある」

 

「……なるほど」

 

 十蔵は頷いた。

 

「だから、当時の外部計測記録を探したい。もし残っていれば、君の手元にある記録と照合できるかもしれない」

 

「分かりました」

 

「ただし、そのためには、過去の試験に関する情報をもう少し確認する必要がある」

 

 朔は考えた。

 

 自分が知っていることは多くない。

 

 試験が行われた場所。

 

 立ち会っていた人物。

 

 機体の調整内容。

 

 覚えている部分はある。

 

 だが、すべてがはっきりしているわけではなかった。

 

「……俺に分かる範囲でよければ、話します」

 

 十蔵は頷いた。

 

「ありがとう。無理に思い出す必要はないよ」

 

「はい」

 

「それと、機体や補助システムの記録については、必要な範囲を君と相談して確認する。元のデータは、勝手に書き換えないようにしよう」

 

「分かりました」

 

 朔は答えた。

 

 少し前まで、自分の記録を他人に見せることには強い抵抗があった。

 

 今でも、すべてを渡すつもりはない。

 

 だが、調査に必要な部分を自分で選び、確認してもらうことはできる。

 

 それくらいなら、協力してもいいと思えた。

 

「……轡木さん」

 

「何だい?」

 

「一つ、お願いしてもいいですか」

 

「もちろん」

 

 朔は少し考えてから言った。

 

「調査で何か分かったら、俺にも教えてください」

 

 十蔵は真っ直ぐに朔を見た。

 

「……ああ」

 

 そして、静かに頷いた。

 

「約束しよう。ただし、確認できた事実と、まだ推測にすぎないことは分けて伝える」

 

「……それで十分です」

 

 朔は小さく笑った。

 

     ◇

 

 午後四時三十分。

 

 管理棟を出た朔は、海に面した遊歩道を歩いていた。

 

 六月の空は明るい。

 

 海風が、制服ではない薄手の上着を揺らした。

 

 休日の学園は、平日よりも少し静かだった。

 

 遠くのベンチには、談笑する生徒たちが座っている。

 

 どこかで、笑い声が聞こえた。

 

 朔は歩きながら、今日のことを考えていた。

 

 自分の名前を使った委任状。

 

 機体の引き渡し要求。

 

 そして、学園へ残るという選択。

 

 何かが劇的に変わったわけではない。

 

 過去の試験記録も、まだ調査中だ。

 

 右腕の痺れも消えていない。

 

 それでも、昨日までとは少し違う気がした。

 

「……朔!」

 

 聞き慣れた声がした。

 

 顔を上げると、一夏がこちらへ歩いてきていた。

 

「お、終わったか」

 

「ああ」

 

「結構かかったな」

 

「ちょっと、いろいろあって」

 

「そっか」

 

 一夏は隣に並んだ。

 

「腹減ってないか?」

 

「……まだ夕飯には早いだろ」

 

「いや、何か食べに行こうかなと思ってさ」

 

「お前、さっきも菓子食べてなかったか?」

 

「……よく覚えてるな」

 

「目の前で食べてただろ」

 

 一夏は苦笑した。

 

 朔も笑う。

 

 少しの間、二人は並んで歩いた。

 

 やがて、一夏が口を開いた。

 

「……何か、すっきりした顔してるな」

 

 朔は横を向いた。

 

「そうか?」

 

「ああ。昨日よりは」

 

 朔は少し考えた。

 

「……一つ、決めたことがあるんだ」

 

「何を?」

 

「ここに残ること」

 

 一夏は目を丸くした。

 

「……え?」

 

「いや、今すぐ出ていくつもりだったわけじゃないんだけど」

 

 朔は苦笑する。

 

「俺、ここに来たのも、自分で決めたわけじゃなかったから」

 

「……そっか」

 

「でも、今はもう少しここにいたいと思ってる」

 

 一夏は、しばらく朔を見ていた。

 

 それから、笑った。

 

「いいじゃん」

 

「……それだけ?」

 

「それだけって?」

 

「いや、もう少し何か言うのかと思った」

 

 一夏は首を傾げた。

 

「だって、朔がそう決めたんだろ?」

 

「……ああ」

 

「じゃあ、それでいいじゃないか」

 

 朔は足を止めた。

 

 一夏が振り向く。

 

「どうした?」

 

「……いや」

 

 朔は小さく笑った。

 

「お前って、本当に変わってるな」

 

「またそれかよ!」

 

「褒めてるんだって」

 

「絶対そうは聞こえないぞ!」

 

 二人は笑った。

 

 海風が、通路を吹き抜けていく。

 

 その風は、朔が以前いた場所のものとは違っていた。

 

 乾いた砂も、火薬の匂いも混じっていない。

 

 ただ、海の匂いがした。

 

     ◇

 

 午後七時五十分。

 

 学園長室では、轡木トメが書類を閉じたところだった。

 

 向かいには、十蔵が座っている。

 

「……雨宮君、残ることにしたのね」

 

 トメが静かに言った。

 

「ああ。本人の口から聞いた」

 

「そう」

 

 トメは少しだけ微笑んだ。

 

「よかったわ」

 

 十蔵は湯呑みを手に取った。

 

「まだ問題は山積みだがな」

 

「分かっているわ」

 

「機体の来歴は不明。代理権を主張する者の身元も確認できていない。過去の試験記録についても、調べるべきことが多い」

 

「ええ」

 

「それに、今回の委任状だ」

 

 十蔵は資料を見た。

 

「本人の過去の署名画像を流用した可能性が高い。少なくとも、正常な手続きとは言い難い」

 

 トメは眉をひそめた。

 

「本人の意思を確かめずに、機体を引き渡せと?」

 

「そういう要求だ」

 

「……困ったものね」

 

 トメは小さく息を吐いた。

 

「機体をどう扱うかという問題は、確かにある。でも、そのために本人を置き去りにしていいわけではないでしょう」

 

「そのとおりだ」

 

 十蔵は頷いた。

 

 トメは窓の外へ視線を向けた。

 

 寮の明かりが、海の向こうまで続いている。

 

「……あの子、学校には馴染めそう?」

 

「今のところはな。一夏君とも、うまくやっているようだ」

 

「そう」

 

「今日も、二人で学園を歩いていたらしい」

 

 トメの表情が和らいだ。

 

「それはよかった」

 

 十蔵も小さく笑った。

 

「本人にとっては、まだ戸惑うことの方が多いだろうがな」

 

「当然でしょうね」

 

 トメは湯呑みを置いた。

 

「でも、少なくともここでは、明日の授業のことを考えていられる」

 

 十蔵は黙って聞いていた。

 

「それが続くといいわね」

 

「……ああ」

 

 短い返事だった。

 

 だが、その声には確かな意思があった。

 

     ◇

 

 午後九時十七分。

 

 朔は寮の自室で、明日の時間割を確認していた。

 

 月曜日。

 

 通常授業。

 

 午後には戦術基礎の講義。

 

 実技への参加は、引き続き見学扱いだった。

 

《明日の予定を確認しました》

 

「ありがとう」

 

 朔は端末を机へ置いた。

 

 今日は、いろいろなことがあった。

 

 機体のこと。

 

 過去の書類。

 

 学園へ残るという選択。

 

 だが、不思議と疲れは少なかった。

 

 少なくとも、昨日のような落ち着かなさはない。

 

「……明日から、また授業か」

 

《はい》

 

「課題もあったな」

 

《提出期限は明後日です》

 

「……危なかった」

 

 朔は苦笑した。

 

 教科書を開こうとした、そのとき。

 

 端末が短く振動した。

 

 画面に表示されたのは、見覚えのある通信経路だった。

 

《指示者からの連絡です》

 

 朔の手が止まった。

 

「……来たか」

 

 通信内容を確認する。

 

 短い文章が表示されていた。

 

 ――学園からの回答を確認した。

 

 朔は眉をひそめた。

 

 やはり、あの男は機体の引き渡し要求について知っている。

 

 少なくとも、学園側が断ったことを把握しているようだった。

 

 続けて、次の文章が届く。

 

 ――君は、機体を引き渡すことを拒否したそうだな。

 

 朔は画面を見つめた。

 

 そして、短く返信した。

 

 ――ああ。

 

 数秒後。

 

 ――理由を聞こう。

 

 朔は少し考えた。

 

 以前なら、相手の意図を探ろうとしただろう。

 

 何を望んでいるのか。

 

 どんな答えなら納得するのか。

 

 だが、今は違った。

 

 自分の考えを、最初から決めている。

 

 ――理由も説明されないまま、機体を渡すつもりはない。

 

 送信。

 

 返事を待つ。

 

 しばらくして、文章が表示された。

 

 ――あの機体を学園へ置いておくことが、どれほど危険か分かっているのか。

 

 朔は画面を見つめた。

 

 危険。

 

 その言葉を、何度聞いただろう。

 

 危険だから動くな。

 

 危険だから聞くな。

 

 危険だから、説明はできない。

 

 そう言われてきた。

 

 だが、理由の分からない危険ほど、対処のしようがないものもない。

 

 朔は返信した。

 

 ――だったら、何が危険なのか教えてくれ。

 

 数秒後。

 

 ――今は話せない。

 

 朔は小さく息を吐いた。

 

「……やっぱりな」

 

《予想された回答と一致しています》

 

「そうだな」

 

 朔は画面へ向き直った。

 

 ――俺は学園に残る。

 

 送信。

 

 続けて、もう一つ。

 

 ――機体のことも、昔の試験のことも、ここで調べる。必要な情報があるなら、俺と学園に説明してくれ。

 

 返事はすぐには来なかった。

 

 数十秒。

 

 一分。

 

 朔は端末を机に置きかけた。

 

 そのとき、画面が光った。

 

 ――後悔することになるぞ。

 

 朔は短く息を吐いた。

 

 そして、返信した。

 

 ――それでも、自分で決めたい。

 

 送信。

 

 今度は、しばらく待っても返事がなかった。

 

 通信が終わったのだと思い、朔は画面を閉じようとした。

 

 だが、その直前。

 

 新しい文章が届いた。

 

 ――君は、あの試験で何が起きたのかを知らない。

 

 朔の指が止まった。

 

 さらに、一文。

 

 ――右側の推進器だけを調べても、答えは出ない。

 

「……何?」

 

 思わず声が漏れた。

 

 続けて文章が表示される。

 

 ――あのとき止められたのは、機体だけではない。

 

 そこで通信が途切れた。

 

 朔は画面を見つめたまま、動けなかった。

 

 右側の推進器。

 

 試験中断。

 

 欠落した記録。

 

 そして、今届いた言葉。

 

 あの男は、当時の試験について何かを知っている。

 

 少なくとも、そう思わせようとしている。

 

 だが、それが本当かどうかは分からない。

 

《通信が終了しました》

 

 補助AIの声がした。

 

 朔は一度、目を閉じた。

 

「……保存しておいてくれ」

 

《了解しました》

 

「あと、明日、轡木さんに見せる」

 

《通信内容を共有するのですか?》

 

「ああ」

 

 朔は頷いた。

 

「隠してても、何も変わらないから」

 

 端末を机へ置いた。

 

 机の上には、明日の授業で使う教科書が開かれている。

 

 過去の試験。

 

 灰色のIS。

 

 自分の右腕に残る痺れ。

 

 分からないことは、まだ多い。

 

 むしろ、今日の連絡で増えたくらいだった。

 

 それでも。

 

 朔は教科書を手に取った。

 

 今すぐ過去へ戻ることはできない。

 

 あの日、何が起きたのかを確かめるにも、時間が必要だ。

 

 だが、明日の自分がどこにいるのかは、もう決めている。

 

 IS学園。

 

 一年一組。

 

 織斑一夏たちと同じ教室。

 

 そこに、自分の席がある。

 

「……明日も、学校か」

 

 朔は小さく呟いた。

 

 その言葉が、少しだけ嬉しかった。

 

     ◇

 

 同じ頃。

 

 日本から遠く離れた、とある地下施設。

 

 窓のない部屋に、端末の光だけが浮かんでいた。

 

 一人の男が、通信の終了した画面を見つめている。

 

 そこには、短い文章が残されていた。

 

 ――それでも、自分で決めたい。

 

 男は、しばらく何も言わなかった。

 

 やがて、端末の画面を閉じる。

 

「……変わったな」

 

 小さな呟きだった。

 

 以前の少年なら、ここまで強く拒まなかっただろう。

 

 疑問を抱くことはあっても、最後には指示を受け入れていた。

 

 だが、今は違う。

 

 自分の判断で学園へ残り、過去の記録を調べようとしている。

 

 男は椅子から立ち上がった。

 

 部屋の奥には、複数の画面が並んでいる。

 

 その一つに、灰色のISの静止画が映っていた。

 

 古い試験施設で撮影されたものだ。

 

 左右非対称の推進器。

 

 青白い二眼式センサー。

 

 そして、表示された警告。

 

 ――試験中断。

 

 男はその画像を見つめた。

 

「……あれを知れば、君はどうする」

 

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 

 画面の隅には、古い試験記録の管理番号が表示されていた。

 

 だが、その詳細を示す領域は閉じられている。

 

 男は、それを開こうとはしなかった。

 

 しばらくして、別の端末が鳴った。

 

 短い通知。

 

 内容を確認すると、男は表情を変えずに答えた。

 

「……分かっている」

 

 通信の向こうから、低い声が返る。

 

『では、回収はどうする?』

 

 男は少しだけ間を置いた。

 

「今は動くな」

 

『よろしいのですか』

 

「ああ」

 

 男は、灰色の機体が映る画面へ視線を戻した。

 

「本人がどこまで辿り着くか、見ておく」

 

 通信が切れた。

 

 地下施設に、再び静寂が戻る。

 

 男は椅子へ腰を下ろした。

 

 かつて、自分の指示で動いていた少年。

 

 灰色のISを操り、戦場を渡り歩いていた存在。

 

 その少年が今、IS学園という場所で、自分の意思を持ち始めている。

 

 男は小さく息を吐いた。

 

「……雨宮朔」

 

 その名前を、静かに口にした。

 

 画面には、まだ灰色の機体が映っている。

 

 かつての試験記録。

 

 そこには、本人が知らない事実が残されていた。

 

 だが、男はまだ、それを明かすつもりはなかった。

 

     ◇

 

 翌朝。

 

 六月のIS学園。

 

 一年一組の教室には、いつもどおりの声が響いていた。

 

「一夏! 昨日の課題は終わったのか!」

 

「お、おう! ちゃんとやったぞ!」

 

「本当だろうな?」

 

「本当だって!」

 

 箒と一夏のやり取りに、周囲の生徒たちが笑っている。

 

 その近くでは、セシリアとシャルロットが授業の資料を確認していた。

 

 ラウラは席に座り、静かに教科書を読んでいる。

 

 扉が開いた。

 

「おはよう」

 

 朔が教室へ入ってくる。

 

 一夏が顔を上げた。

 

「お、朔。おはよう!」

 

「おはよう、一夏」

 

 シャルロットも手を振った。

 

「朔、おはよう」

 

「おはよう、シャル」

 

 セシリアが微笑む。

 

「おはようございます、朔さん」

 

「おはよう、セシリア」

 

 朔は自分の席へ向かった。

 

 机に鞄を置き、教科書を取り出す。

 

 周囲では、いつもどおりの会話が続いている。

 

 誰も、昨日の委任状のことなど知らない。

 

 過去の試験記録についても、まだほとんど知られていない。

 

 そして、自分が昨夜、誰と何を話したのかも。

 

 だが、それでよかった。

 

 すべてを話さなければ、ここにいてはいけないわけではない。

 

 誰かを信用することと、何もかも打ち明けることは違う。

 

 今は、少しずつでいい。

 

「……朔?」

 

 一夏が声をかけた。

 

「ん?」

 

「何か、機嫌よさそうだな」

 

 朔は少し驚いた顔をした。

 

「……そう見える?」

 

「ああ」

 

 一夏は笑った。

 

「何かいいことあったのか?」

 

 朔は少し考えた。

 

 昨日のこと。

 

 十蔵と千冬に話したこと。

 

 自分で決めたこと。

 

 そして、今こうして教室にいること。

 

「……まあ、少しだけ」

 

 そう答えると、一夏は嬉しそうに笑った。

 

「そっか。ならよかった」

 

 朔も小さく笑った。

 

 そのとき、教室の扉が開いた。

 

「全員、席に着け!」

 

 千冬の声が響く。

 

 生徒たちは慌てて席へ戻った。

 

 朔も姿勢を正し、前を向いた。

 

 教卓に立つ千冬。

 

 窓から差し込む朝の光。

 

 隣の席から聞こえる、一夏の小さなため息。

 

 すべてが、昨日までと変わらない。

 

 だが、朔にとっては一つだけ違っていた。

 

 ここへ来た理由は、自分で決めたものではなかった。

 

 けれど。

 

 ここに残る理由は、もう誰かの指示ではない。

 

 雨宮朔は、静かに教科書を開いた。

 

 戦場を渡り歩いた灰色の亡霊は、今、一人の生徒としてそこにいる。

 

 過去が消えたわけではない。

 

 追いかけてくるものも、まだある。

 

 それでも。

 

 自分で選んだ場所で、明日を迎えることはできる。

 

 そのことを、彼はようやく知り始めていた。

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