IS〈インフィニット・ストラトス〉蒼穹の亡霊   作:右左右左右

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二章 観測者の影
第21話 残された接続


 午前九時四十七分。

 

「……朔、ここ分かるか?」

 

 休み時間になった途端、織斑一夏が教科書を持ってやってきた。

 

 雨宮朔は顔を上げる。

 

「どこ?」

 

「この計算。途中までは分かるんだけど、最後がどうしてこうなるのか分からなくてさ」

 

 差し出された教科書には、ISの姿勢制御に関する問題が載っていた。

 

 推進方向と機体の重心。

 

 それぞれにかかる力を整理し、姿勢の変化を求めるものだ。

 

 朔は問題文を読み、途中式に目を通した。

 

「……ここじゃないか?」

 

「え?」

 

「途中で符号が逆になってる」

 

 朔が指さすと、一夏は教科書へ顔を近づけた。

 

「……あ、本当だ」

 

「これ直せば、答えが合うと思う」

 

 一夏はもう一度計算し直した。

 

 数秒後、顔を上げる。

 

「おお、合った!」

 

「よかったな」

 

「助かった。ありがとう!」

 

 一夏は嬉しそうに笑った。

 

 その様子を、近くにいた篠ノ之箒が呆れたように見ていた。

 

「一夏。お前、昨日も同じところで間違えていなかったか?」

 

「……そうだっけ?」

 

「そうだ!」

 

 箒は腕を組んだ。

 

「千冬さんに指摘されただろう」

 

「あー……」

 

「まったく。少しは復習しろ」

 

「してるって!」

 

「その結果がこれか!」

 

 朔は二人のやり取りを眺めながら、教科書を閉じた。

 

 もう何度目になるだろう。

 

 一夏と箒が言い合いを始めると、周囲の生徒たちは大抵笑っている。

 

 誰も本気で止めようとしない。

 

 仲の良さを知っているからなのだろう。

 

「……朔?」

 

 シャルロット・デュノアが声をかけてきた。

 

「どうしたの?」

 

「いや」

 

 朔は小さく笑った。

 

「賑やかだなと思って」

 

「あはは。いつものことだよ」

 

「そうなんだろうな」

 

 窓の外では、六月の空が広がっていた。

 

 つい一週間ほど前まで、自分がこんな教室にいるとは考えていなかった。

 

 それでも、今はここに席がある。

 

 そのことが、少しずつ当たり前になってきていた。

 

     ◇

 

 二時間目が終わったあと。

 

「雨宮」

 

 教室を出ようとしていた朔に、織斑千冬が声をかけた。

 

「はい」

 

「少し時間はあるか?」

 

「大丈夫です」

 

「なら、ついてこい」

 

 千冬はそれだけ言い、廊下へ出た。

 

 朔は鞄から携帯端末を取り出し、その後を追った。

 

 昨夜の通信。

 

 あの男が最後に残した言葉。

 

 今日は、それを轡木十蔵へ見せるつもりだった。

 

 千冬にも、先に説明しておいた方がいい。

 

 そう考えていたところだった。

 

 案内されたのは、職員室の隣にある小さな応接室だった。

 

 千冬は扉を閉めると、朔へ向き直った。

 

「昨日、轡木さんから話を聞いた」

 

「……機体の引き渡しについてですか?」

 

「ああ。お前が学園に残る意思を示したこともな」

 

「はい」

 

「その判断は尊重する。ただし、問題が片づいたわけではないことは理解しているな?」

 

「分かっています」

 

 千冬は頷いた。

 

「よし。それで、今日は何か報告があるそうだな」

 

 朔は少し驚いた。

 

「……どうして分かったんですか?」

 

「朝、管理部門に連絡を入れただろう」

 

「ああ……」

 

 昨夜の通信内容について、確認の時間を取りたいと伝えていた。

 

 それが千冬にも共有されたのだろう。

 

「……昨日の夜、指示者から連絡が来ました」

 

「内容は?」

 

「機体の引き渡しを拒否したことについてです」

 

 朔は端末を操作した。

 

 保存しておいた通信記録を表示する。

 

「それと、昔の試験についても」

 

 千冬は画面へ視線を落とした。

 

 数秒後、表情が引き締まる。

 

 ――君は、あの試験で何が起きたのかを知らない。

 

 ――右側の推進器だけを調べても、答えは出ない。

 

 ――あのとき止められたのは、機体だけではない。

 

 千冬は最後まで読み、朔へ目を向けた。

 

「……これを送ってきたのは、以前からお前に指示を出していた人物か?」

 

「はい。いつもの通信経路です」

 

「発信者本人だと確認できるか?」

 

「……いいえ」

 

 朔は首を振った。

 

「同じ経路から届いてますけど、それだけです」

 

「そうか」

 

 千冬は端末へ視線を戻した。

 

「では、この内容が事実かどうかも分からんな」

 

「はい」

 

「それを理解したうえで、私に見せたんだな?」

 

「……そうです」

 

 千冬は静かに頷いた。

 

「分かった。轡木さんにも共有しよう」

 

 朔は端末をしまいかけた。

 

 だが、千冬がもう一度口を開いた。

 

「雨宮」

 

「はい」

 

「この文章を読んで、お前は何を考えた?」

 

 朔は少し迷った。

 

「……機体以外にも、何かあったんじゃないかって」

 

「具体的には?」

 

「分かりません」

 

 朔は正直に答えた。

 

「外部の計測装置かもしれないし、操縦者との接続かもしれない。それとも、全然違うことなのか……」

 

 千冬は黙って聞いていた。

 

「ただ、あの試験の記録が途切れているのは事実です」

 

「ああ」

 

「それで、俺自身も試験中断なんて覚えていない」

 

 朔は右手を見た。

 

 指先には、まだわずかな痺れが残っている。

 

「……だから、確かめたいんです」

 

 千冬はしばらく朔を見つめた。

 

「そうか」

 

 短い返事だった。

 

「ならば、順序を守れ。疑問があるからといって、確認もせずに機体を動かすなよ」

 

「はい」

 

「それと、記憶が曖昧だからといって、必ずしも何かをされたとは限らん。時間が経てば忘れることもある」

 

「……分かっています」

 

「よし」

 

 千冬は立ち上がった。

 

「授業に戻れ。こちらから轡木さんへ連絡しておく」

 

「ありがとうございます」

 

「礼はいい。次の授業に遅れるな」

 

「はい」

 

 朔は頭を下げ、部屋を出た。

 

 廊下へ戻ると、休み時間の賑やかな声が聞こえてきた。

 

 教室では、誰かが一夏を呼んでいる。

 

 朔は少しだけ息を吐いた。

 

 昨夜の言葉は、まだ頭から離れない。

 

 だが、今すぐ答えを出す必要はない。

 

 少なくとも、一人で抱え込む必要はなくなっていた。

 

     ◇

 

 午前十一時三十八分。

 

 IS学園の管理棟。

 

 轡木十蔵は、技術担当者から新しい報告を受けていた。

 

 机上の画面には、灰色のISが映った古い試験記録の静止画が表示されている。

 

「……警告表示の出所について、何か分かったか?」

 

 十蔵が尋ねた。

 

 女性技術者は画面を拡大した。

 

「確定ではありませんが、機体側の表示ではなく、試験設備側で合成された情報である可能性が高くなりました」

 

「根拠は?」

 

「映像の端に、撮影機材の状態表示と同じ書式の文字列があります。警告表示も、それと共通した形式で描画されているんです」

 

 隣の男性技術者が説明を引き継いだ。

 

「つまり、機体の操縦画面をそのまま記録したものではなく、外部の観測装置が取得した映像へ情報を重ねた可能性があります」

 

 十蔵は頷いた。

 

「……そうなると、推進器の近くに警告が出ていること自体には、大きな意味がないかもしれんな」

 

「はい。画面上の位置だけでは、異常の発生箇所を判断できません」

 

 女性技術者は別の資料を開いた。

 

「それと、雨宮君の手元に残っていた記録についても、調べ直しました」

 

「外部接続の件か?」

 

「ええ」

 

 画面に、以前確認された記録が表示される。

 

 ――外部接続、再確立。

 

 その前後には、機体状態に関する複数の情報が並んでいた。

 

「この記録形式ですが、外部設備との通信状態を機体側から管理していたものと考えられます」

 

「接続先は分かったか?」

 

「まだです。ただ、注目したい点があります」

 

 技術者は別の欄を指さした。

 

「再確立の直後には、通常の試験記録が再開されています。少なくとも、保存されている範囲では機体側の記録処理が続いていたように見えます」

 

「……機体全体が停止していたとは限らない、か」

 

「はい」

 

 十蔵は腕を組んだ。

 

 機体が完全に停止したのか。

 

 外部の計測装置だけが接続を失ったのか。

 

 それとも、試験を中断する操作が別に行われたのか。

 

 どれも、現時点では判断できない。

 

「操縦者との接続については?」

 

 十蔵が尋ねる。

 

 男性技術者は首を振った。

 

「そこが問題です」

 

「何だ?」

 

「保存されている記録には、操縦者の状態を直接確認できる情報がほとんどありません」

 

「……ほとんど?」

 

「起動時の適合確認はあります。ただ、試験の途中で操縦者に何が起きていたかを調べるには、情報が足りません」

 

 十蔵は黙った。

 

 機体の試験である以上、操縦者の状態も観測していた可能性は高い。

 

 しかし、その記録が朔の手元には残っていない。

 

 保存されなかったのか。

 

 別の設備で管理されていたのか。

 

 あるいは、意図的に切り離されたのか。

 

「……外部計測記録を探す必要があるな」

 

「はい。特に、操縦者の状態を確認するための計測系があったなら、その記録が重要になると思います」

 

 十蔵は頷いた。

 

「分かった。引き続き、元の試験設備を特定するための情報を整理してくれ」

 

「承知しました」

 

「ただし、外部へ照会する際は、雨宮君の個人情報や機体の詳細を不用意に出すな」

 

「はい」

 

 技術者たちが退出する。

 

 十蔵は机上の画面を見つめた。

 

 試験中断。

 

 外部接続、再確立。

 

 そして、残されていない操縦者の状態記録。

 

 問題は、機体だけではないのかもしれない。

 

 だが、まだ結論を出すには早すぎた。

 

     ◇

 

 昼休み。

 

「朔、今日も一緒に食べよう?」

 

 シャルロットに声をかけられ、朔は顔を上げた。

 

「ああ。いいよ」

 

「一夏たちも、先に行ってるみたい」

 

「分かった」

 

 二人は並んで廊下を歩き始めた。

 

 窓の外では、校庭を横切る生徒たちが見える。

 

 シャルロットはしばらく何も言わなかったが、やがて口を開いた。

 

「……朔」

 

「ん?」

 

「最近、何か忙しそうだね」

 

 朔は少し驚いた。

 

「そう見える?」

 

「うん。授業のあと、先生に呼ばれることも多いし」

 

「……まあ、いろいろ確認があって」

 

「ISのこと?」

 

 朔は少し考えた。

 

「ああ。それもある」

 

「そっか」

 

 シャルロットは、それ以上は尋ねなかった。

 

 代わりに、少し笑う。

 

「僕も前は、いろいろ事情があったから」

 

 朔は横を向いた。

 

 シャルロットが初めて学園へ来たとき、男子生徒として編入していたことは知っている。

 

 ただ、詳しい経緯を本人から聞いたわけではなかった。

 

「……そうだったな」

 

「うん」

 

 シャルロットは頷いた。

 

「だから、全部話さなくてもいいと思うよ」

 

 朔は黙って聞いていた。

 

「でも、困ったときは相談してね。僕に分かることなら、一緒に考えるから」

 

「……ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 シャルロットは笑った。

 

 その笑顔を見て、朔は少しだけ肩の力を抜いた。

 

「そういえば、シャル」

 

「何?」

 

「昨日のラピッド・スイッチの話、もう少し聞いてもいいか?」

 

「もちろん!」

 

 シャルロットの表情が明るくなる。

 

「どこが気になるの?」

 

「切り替えるとき、次に使う武装はいつ決めてる?」

 

「状況によるかな。相手の動きを見てから決めることもあるけど、切り替えたあとの動きまで考えておくことが多いよ」

 

「……なるほど」

 

「それと、何でも素早く切り替えればいいってわけじゃないんだ。機体の拡張領域には限りがあるから、何を搭載するかも大切だし」

 

「そうだな」

 

 朔は頷いた。

 

 自分の機体にも、武装の収納や呼び出しの機能はある。

 

 だが、シャルロットのように多彩な装備を連続して使い分ける戦い方とは違っていた。

 

「……勉強になるよ」

 

「ふふ。今度、訓練のときに見てみる?」

 

「いいのか?」

 

「うん。朔はまだ実技に参加できないでしょ? 見学なら大丈夫だと思うし」

 

「そうだな」

 

 朔は小さく笑った。

 

「じゃあ、そのときは頼む」

 

「任せて!」

 

 二人は食堂へ向かった。

 

 仕事の話でも、調査の話でもない。

 

 同じIS操縦者として、技術について話す。

 

 そんな時間も、朔には新鮮だった。

 

     ◇

 

 午後二時四十分。

 

 IS学園の管理棟に、外部からの回答が届いた。

 

 内容は、前日に提出された機体管理の委任状についてだった。

 

 十蔵は報告書に目を通し、眉をひそめた。

 

「……所属が確認できなかった?」

 

「はい」

 

 女性職員が答える。

 

「申請者が所属を申告していた会社へ、正式な窓口を通じて確認しました。その結果、現在の在籍者としては確認できないとの回答でした」

 

「過去の所属は?」

 

「調査中です。ただ、少なくとも今回の申請について、会社として委任を受けた事実はないそうです」

 

 十蔵は資料を閉じた。

 

「……そうか」

 

 これで、機体の引き渡し要求について、さらに一つ問題が増えた。

 

 申請者の署名。

 

 本人が否定した委任。

 

 そして、確認できない所属。

 

 偶然の手続きミスだけで説明するには、不自然な点が多い。

 

 だが、誰が何の目的で書類を提出したのか。

 

 そこまでは、まだ分からなかった。

 

「申請者本人への照会は?」

 

「提出された連絡先へ、追加の確認を求めています。ただ、今のところ回答はありません」

 

「分かった」

 

 十蔵は頷いた。

 

「今回の申請については、正式な権限が確認できない以上、受け付けない。それと、本人に無断で作成された可能性がある書類として、記録を保全しておけ」

 

「はい」

 

「雨宮君には、確認できた範囲を説明する」

 

「承知しました」

 

 職員が退出すると、十蔵は椅子の背にもたれた。

 

 代理人。

 

 指示者。

 

 機体の管理を求めてきた人物。

 

 その三つが、すべて同じ人間を指している保証はない。

 

 今の段階で、まとめて扱うべきではなかった。

 

 だが、誰かが雨宮朔の機体を学園から引き離そうとしていることは、確かだった。

 

「……さて」

 

 十蔵は静かに呟いた。

 

「次は、どう出るつもりだ」

 

     ◇

 

 午後四時十二分。

 

 授業を終えた朔は、管理棟の小会議室にいた。

 

 向かいには十蔵。

 

 少し離れた席に、千冬が座っている。

 

 机の上には、朔が昨夜受け取った通信記録が表示されていた。

 

「……なるほどねえ」

 

 十蔵は最後まで読み終えると、顔を上げた。

 

「雨宮君。君はこの文章を見て、何か思い出したことはあるかい?」

 

 朔は首を振った。

 

「いえ。特には」

 

「そうか」

 

「ただ、ずっと気になってることはあります」

 

「何だい?」

 

 朔は少し考えた。

 

「俺、あの試験が終わったあと、普通に説明を受けた記憶があるんです」

 

 千冬が顔を上げた。

 

「どんな説明だ?」

 

「機体の調整は予定どおり終わった、って」

 

「誰から?」

 

「……名前は覚えていません。でも、試験に立ち会っていた人です」

 

 朔は言葉を探した。

 

 白い照明。

 

 整備用の台。

 

 壁際に並んだ計測機器。

 

 思い出せるのは、断片的な光景だけだった。

 

「その人に、問題はなかったって言われたと思います」

 

 十蔵は静かに聞いていた。

 

「でも、あの画像には試験中断って出てる」

 

「……そうだね」

 

「それが、どうしても引っかかるんです」

 

 千冬が口を開いた。

 

「試験が一時的に中断され、その後に予定どおり終了した可能性もある」

 

「はい」

 

「お前の記憶が間違っているとは限らんし、相手の説明が嘘だったとも限らん。そこは分けて考えろ」

 

「……分かりました」

 

 十蔵は頷いた。

 

「それと、今日は技術担当者から新しい見解が出ている」

 

 朔が顔を上げる。

 

「何か分かったんですか?」

 

「以前の静止画に表示されていた警告は、機体そのものではなく、外部の観測装置が表示したものかもしれない」

 

「……外部の?」

 

「ああ。つまり、画像を見ただけでは、どこに問題が起きていたのか分からないんだ」

 

 朔は画面を見つめた。

 

「じゃあ、右側の推進器がおかしかったとは限らないんですね」

 

「そういうことだね」

 

「……あの男が言ってたことと、似てる」

 

 朔は呟いた。

 

 ――右側の推進器だけを調べても、答えは出ない。

 

 十蔵は頷いた。

 

「確かに、そう読める。ただ、相手が本当に当時の記録を知っているかどうかは、まだ確認できていない」

 

「はい」

 

「それから、君の手元にある記録では、試験中の操縦者の状態を調べる情報が足りないんだ」

 

 朔は顔を上げた。

 

「……俺の?」

 

「そう。機体の動作記録とは別に、操縦者の状態を確認するための記録が残っている可能性がある」

 

 朔は黙った。

 

 ISの操縦は、単に機体を手足で動かすだけではない。

 

 操縦者との接続。

 

 機体への意思の伝達。

 

 その過程では、通常の機械とは違う負荷がかかる。

 

 自分の右腕に残っている痺れも、先日の戦闘で強い負荷がかかったあとに現れたものだった。

 

 だが、それが昔の試験と直接関係しているかどうかは分からない。

 

「……その記録が見つかれば、何か分かりますか?」

 

「可能性はある。ただし、何も見つからないかもしれない」

 

 十蔵は率直に答えた。

 

「今は、当時の設備を特定するための情報を集めているところだよ」

 

「……分かりました」

 

 朔は頷いた。

 

 しばらく沈黙が続いた。

 

 それから、朔が口を開く。

 

「轡木さん」

 

「うん?」

 

「俺にも、できることはありますか?」

 

 十蔵は少し驚いた顔をした。

 

「……何か考えているのかい?」

 

「俺、試験に立ち会っていた人の顔は、少し覚えてるんです」

 

 千冬が目を向けた。

 

「名前は覚えていないのか?」

 

「はい。でも、当時の写真とか記録があれば、分かるかもしれません」

 

 十蔵は頷いた。

 

「それなら、一つ方法がある」

 

「何ですか?」

 

「まず、君の覚えている範囲を整理してみよう。無理に顔を思い出そうとする必要はない。施設の様子や、立ち会っていた人の人数でもいい」

 

「……それなら、できると思います」

 

「ありがとう」

 

 十蔵は穏やかに微笑んだ。

 

「ただし、今日はここまでにしよう。授業が終わったばかりだからね」

 

「……はい」

 

「それと、もう一つ報告がある」

 

 十蔵は別の資料を開いた。

 

「機体の引き渡しを求めてきた人物の所属について、正式な確認が取れなかった。少なくとも、申告された会社からの正規の申請ではないようだ」

 

 朔は眉をひそめた。

 

「……じゃあ、誰だったんですか?」

 

「そこは、まだ調査中だよ」

 

「そうですか……」

 

「ただ、今回の書類を根拠に機体を引き渡すことはない。それは変わらないから、安心しておくれ」

 

 朔は頷いた。

 

「……ありがとうございます」

 

 十蔵は資料を閉じた。

 

「それと、雨宮君」

 

「はい」

 

「調査を進めることと、君が普通に学校へ通うことは、両立させたいと思っている」

 

 朔は顔を上げた。

 

「……はい」

 

「だから、何もかも一度に片づけようとしなくていい。分かったことから、少しずつ進めよう」

 

 朔は、少しだけ笑った。

 

「……分かりました」

 

     ◇

 

 午後五時二十六分。

 

 朔が管理棟を出ると、夕方の空が広がっていた。

 

 遠くでは、訓練を終えたISがアリーナへ戻っている。

 

 しばらくその様子を眺めていると、背後から声がした。

 

「朔!」

 

 振り向く。

 

 一夏がこちらへ歩いてきていた。

 

「また管理棟か?」

 

「ああ」

 

「最近、よく呼ばれてるな」

 

「……自分から行ってることもあるけどな」

 

「そっか」

 

 一夏は朔の隣へ並んだ。

 

「で、今日はどうだった?」

 

「……少し進んだ」

 

「何が?」

 

「調べてること」

 

 一夏は頷いた。

 

「それならよかったじゃん」

 

 朔は小さく笑った。

 

「まだ、分からないことの方が多いけど」

 

「まあ、そういうもんだろ」

 

 一夏は気楽に言った。

 

「俺だって、ISのことなんて分からないことだらけだぞ」

 

「……それ、あまり自慢にならないと思う」

 

「自慢してないって!」

 

 二人は笑った。

 

 歩き始めると、一夏がふと思い出したように口を開いた。

 

「そういえば、シャルから聞いたぞ」

 

「何を?」

 

「今度、ラピッド・スイッチの訓練を見に来るんだって?」

 

「ああ。誘ってもらった」

 

「いいなあ」

 

「お前も見てるだろ?」

 

「見てるけど、実際にやるのは難しいんだよ」

 

 一夏は苦笑した。

 

「シャルみたいにはできないしさ」

 

「機体も違うからな」

 

「そうなんだよな」

 

 朔は少し考えた。

 

「……でも、お前の白式は白式で、強いところがあるだろ」

 

「そうか?」

 

「ああ。特に近接戦闘は」

 

 一夏は少し嬉しそうな顔をした。

 

「そう言ってもらえると、助かるな」

 

「ただ、相手に近づけなかったら厳しそうだけど」

 

「……やっぱりそうなるよな」

 

 朔は笑った。

 

 一夏も苦笑する。

 

 そんな話をしながら、二人は寮へ向かって歩いていった。

 

 今はまだ、朔は実機訓練へ参加できない。

 

 それでも、同じIS操縦者として話せることはある。

 

 戦場のことを知らなくても。

 

 過去の試験について何も知らなくても。

 

 そういう関係を築けるのだと、朔は少しずつ理解し始めていた。

 

     ◇

 

 同じ頃。

 

 日本から遠く離れた、地下の研究施設。

 

 薄暗い通路を、一人の職員が早足で歩いていた。

 

 手には、小型の記録端末を持っている。

 

 通路の先には、厳重に管理された区画があった。

 

 扉の前で認証を済ませると、職員は中へ入った。

 

 そこには、複数の監視画面が並んでいた。

 

「……どうした?」

 

 室内にいた男が尋ねる。

 

 職員は端末を差し出した。

 

「古い試験記録について、外部から照会が来ています」

 

 男は端末を受け取った。

 

「どの記録だ?」

 

「以前、閲覧制限をかけたものです」

 

 男の表情が変わった。

 

 画面には、短い管理情報が表示されている。

 

 試験の日付。

 

 識別番号。

 

 そして、記録の保管区分。

 

 男は、その識別番号を見つめた。

 

「……これか」

 

「はい」

 

 職員は頷いた。

 

「まだ詳細な情報を求められたわけではありません。ただ、古い試験設備の仕様について、複数の照会があったようです」

 

「照会元は?」

 

「確認中です」

 

 男は少し考えた。

 

「回答は保留しろ」

 

「……よろしいのですか?」

 

「ああ。関連する記録を勝手に動かすな」

 

「承知しました」

 

 職員が退出する。

 

 男は画面を見つめた。

 

 灰色のIS。

 

 試験中断。

 

 途切れた記録。

 

 そして、今になって始まった調査。

 

 男は静かに息を吐いた。

 

「……君は、どこまで知った」

 

 誰に聞かせるでもなく呟いた。

 

 端末を操作する。

 

 古い試験記録の一覧が表示された。

 

 機体の基本動作。

 

 推進器の試験。

 

 姿勢制御。

 

 操縦者との接続確認。

 

 その中に、一つだけ異なる管理区分の記録があった。

 

 男は、その項目で指を止めた。

 

 ――操縦者状態監視記録。

 

 ほかの試験記録とは別の保存領域に置かれている。

 

 男はしばらく画面を見つめた。

 

 そして、静かに呟いた。

 

「……まだ、あの部分には辿り着いていないか」

 

 その直後、別の端末から呼び出し音が鳴った。

 

 男は通信を開く。

 

『確認したいことがあります』

 

「何だ」

 

『学園側への対応についてです。機体の引き渡し要求が認められなかった以上、次の手を考える必要があるのでは?』

 

 男は少しだけ目を細めた。

 

「今は動くなと言ったはずだ」

 

『しかし、このままでは……』

 

「分かっている」

 

 男は言葉を遮った。

 

「だからこそ、余計なことをするな」

 

 通信の向こうが黙った。

 

「学園は機体の出所を調べている。だが、調査の対象が機体だけとは限らない」

 

『……では?』

 

「しばらく様子を見る。こちらから情報を増やす必要はない」

 

『承知しました』

 

 通信が切れた。

 

 男は再び、古い記録へ視線を戻した。

 

 操縦者状態監視記録。

 

 その項目を開こうとして、手を止める。

 

「……雨宮朔」

 

 少年の名前を呟く。

 

 かつて、自分の指示で動いていた少年。

 

 灰色のISを操り、紛争地帯を渡り歩いていた存在。

 

 その少年が今、学園で自分の過去を調べ始めている。

 

 男は画面を閉じた。

 

「……君が知りたいのは、あの機体のことだけではないんだろうな」

 

 静かな声だった。

 

     ◇

 

 午後九時四十六分。

 

 朔は寮の自室で、机に向かっていた。

 

 今日の授業で出された課題は、既に終わっている。

 

 机の端には、昨夜の通信記録を整理した資料が置かれていた。

 

 朔は、それをもう一度読み返した。

 

 ――右側の推進器だけを調べても、答えは出ない。

 

 ――あのとき止められたのは、機体だけではない。

 

「……何が止まったんだろうな」

 

《現時点では特定できません》

 

 補助AIが答える。

 

「そうだよな」

 

 朔は椅子の背にもたれた。

 

 今日、十蔵から説明されたことを思い出す。

 

 外部の観測装置。

 

 操縦者の状態記録。

 

 そして、機体側に残されていない情報。

 

 以前は、灰色のISに何かが起きたのだと思っていた。

 

 だが、もしかすると、それだけではないのかもしれない。

 

 試験に参加していた人間。

 

 その中には、自分も含まれている。

 

「……なあ」

 

《はい》

 

「昔の試験で、俺が途中で操縦をやめた記録って、あるか?」

 

《保存されている範囲では、操縦者による明示的な終了操作は確認できません》

 

 朔は眉をひそめた。

 

「じゃあ、誰かが止めたのか?」

 

《その可能性はあります。ただし、保存されている情報だけでは判断できません》

 

「……そっか」

 

 朔は端末を置いた。

 

 誰かが試験を止めた。

 

 それ自体は、特別なことではない。

 

 安全上の問題があれば、外部から中断させることもあるだろう。

 

 だが、何が起きたのか。

 

 どうして止めたのか。

 

 その説明を、自分は受けた覚えがない。

 

 朔は右手を開いた。

 

 指先の感覚は、まだ完全には戻っていない。

 

 あの試験と今の症状を結びつける証拠はない。

 

 それは分かっている。

 

 それでも、自分の身体について知らないことがあるというのは、気分のいいものではなかった。

 

《雨宮朔》

 

「……ん?」

 

《過去の試験記録について、追加で検索しますか?》

 

 朔は少し考えた。

 

 今すぐ調べたところで、新しい情報が見つかるとは限らない。

 

 それに、今日はもう遅い。

 

「……いや。今日はやめとく」

 

《了解しました》

 

「明日、轡木さんに相談してみる」

 

《承知しました》

 

 朔は端末を閉じた。

 

 窓の外では、学園の明かりが海に反射している。

 

 遠くの寮から、誰かの笑い声が聞こえた。

 

 明日も授業がある。

 

 一夏たちと会う。

 

 昼食を食べ、訓練を見学する。

 

 そして、分からないことを少しずつ調べていく。

 

 朔は立ち上がり、部屋の照明を落とした。

 

 自分の過去に何があったのか。

 

 まだ、答えは見つかっていない。

 

 だが、今は急ぐ必要もない。

 

 少なくとも、そう思っていた。

 

 ――その頃。

 

 遠く離れた地下施設では、古い試験記録の保管状態が再確認されていた。

 

 機体の動作記録。

 

 外部計測記録。

 

 そして、操縦者状態監視記録。

 

 それぞれ異なる管理区分で保管された情報。

 

 そのうち、操縦者状態監視記録だけが、当時の試験中断後にも計測を継続していた。

 

 だが、その事実を。

 

 雨宮朔は、まだ知らない。

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