IS〈インフィニット・ストラトス〉蒼穹の亡霊 作:右左右左右
午前八時十七分。
「なあ、朔。今日の放課後って空いてるか?」
教室へ向かう途中、織斑一夏が声をかけてきた。
雨宮朔は隣を歩く一夏へ顔を向ける。
「今のところは。何かあるのか?」
「シャルが今日、武装切替の訓練をするらしいんだよ」
「ああ」
朔は思い出した。
昨日の昼休み。
シャルロット・デュノアから、ラピッド・スイッチの訓練を見に来ないかと誘われていた。
「見学させてもらう約束だった」
「だったら、俺も一緒に行っていいか?」
「俺に聞かれても」
「そりゃそうか」
一夏は笑った。
「じゃあ、シャルに聞いてみる」
「お前も練習するのか?」
「いや、今日は見学かな。白式じゃ、シャルみたいに何種類も武器を使えるわけじゃないし」
「……確かに、武装構成が違うからな」
白式は、近接戦闘に特化した機体だ。
その象徴ともいえるのが、雪片弐型。
シールドエネルギーを消費して特殊な攻撃を行う単一仕様能力《零落白夜》を持つ。
強力な能力である反面、扱い方を間違えれば、こちらの防御力まで失いかねない。
「でも、参考にはなると思うよ」
朔が言う。
「武器を切り替える速さだけじゃなくて、相手の動かし方も見られるから」
「相手の動かし方?」
「ああ。次に何を使うか分からなければ、相手も対応しにくいだろ」
「……なるほど」
一夏は少し考えたあと、頷いた。
「そういう見方もあるのか」
「まあ、実際に使ってるシャルに聞いた方が早いと思うけど」
「だな」
二人が教室へ入ると、既に何人かの生徒が席についていた。
「おはよう、二人とも」
シャルロットが笑顔で手を振る。
「おはよう、シャル」
「おう。シャル、ちょっといいか?」
「何?」
「今日の訓練、俺も見学していいか?」
「もちろん!」
シャルロットは嬉しそうに頷いた。
「僕も一夏に見てもらいたかったし」
「お、そうなのか?」
「うん。一夏には、まだ覚えてほしいことがいっぱいあるからね」
「……何か怖い言い方だな」
朔は思わず笑った。
その声に気づいたのか、近くの席にいた箒が顔を上げる。
「何の話だ?」
「今日の放課後、シャルの訓練を見に行くんだ」
一夏が答えた。
「……お前、昨日の反省は終わったのか?」
「え?」
「昨日、千冬さんに指摘された姿勢制御の問題だ」
「あー……」
「まさか、忘れていたのか?」
「い、いや! ちゃんと覚えてるぞ!」
「なら、帰ってから説明してもらおう」
「……はい」
朔は横を向いた。
笑いを堪えるためだった。
だが、箒はそれを見逃さなかった。
「雨宮。お前も笑っていないで、一夏に教えてやってくれ」
「……分かった」
「朔まで巻き込むなよ、箒!」
「元はといえば、お前が復習を怠るからだろう!」
始業前の教室に、いつもの言い合いが響いた。
朔は自分の席へ向かいながら、小さく笑った。
どうやら今日も、賑やかな一日になりそうだった。
◇
午後三時二十二分。
第三アリーナの観覧席には、朔と一夏のほかに、箒とセシリアの姿もあった。
訓練区域では、シャルロットが機体の展開を終えたところだった。
オレンジ色を基調とした装甲。
腕部と脚部を覆う大型の装備。
背部には、推進機構が展開されている。
ラファール・リヴァイヴ・カスタムⅡ。
拡張領域の容量に優れ、多彩な武装を運用できる機体だ。
「今日は武装の切り替えを中心に練習するよ」
通信越しにシャルロットの声が響く。
『まずは基本動作からね』
訓練区域の正面に、複数の標的が展開された。
固定されたもの。
左右へ移動するもの。
そして、一定の間隔で出現と消失を繰り返すもの。
シャルロットは最初の標的へ向けて射撃を始めた。
短い連射。
命中を示す光が灯る。
次の瞬間、手にしていた武装が姿を消した。
続いて、別の射撃武装が展開される。
その間、機体の移動は止まらない。
右へ回り込みながら射撃。
標的が消えると同時に、再び武装を切り替える。
次に現れたのは近接武装だった。
「……速いな」
朔が呟いた。
昨日、訓練を見学したときにも感じたことだった。
だが、今日は武装切替だけを意識して見ることができる。
装備の収納。
次の武装の呼び出し。
そして、攻撃姿勢への移行。
それらが一つの動きとしてつながっていた。
「すごいですわね」
隣でセシリアが口を開いた。
「シャルロットさんの武装運用は、やはり見事ですわ」
「……ああ」
朔は頷いた。
「切り替える瞬間に、ほとんど迷いがない」
「そうなのか?」
一夏が尋ねる。
「俺には、ただすごく速いようにしか見えないんだけど」
朔は訓練区域を指さした。
「ほら、あそこ」
「ん?」
「今、シャルは標的が移動する前に武装を変えた」
一夏が目を凝らす。
「……あ、本当だ」
「標的が動いてから対応するんじゃなくて、次に必要になる武装を先に選んでるんだと思う」
箒が頷いた。
「確かに。攻撃が終わってから切り替えているわけではないな」
「それに、切り替えている間も進路を変えてる」
朔は続けた。
「相手からすれば、武器が変わるだけじゃなくて、攻撃される方向まで変わることになる」
一夏は感心したように息を吐いた。
「……なるほどな」
そのとき、訓練区域からシャルロットの声が響いた。
『次は、もう少し速くするよ!』
訓練システムが新しい標的を展開する。
シャルロットは高度を上げた。
射撃武装を呼び出し、第一目標へ連射。
直後、武装を収納。
新たな武装を展開する。
その動作が、ほとんど途切れることなく繰り返された。
そして三つ目の標的が現れた瞬間。
短い電子音が鳴った。
ピッ、ピッ、ピッ。
訓練システムが標的の切り替えを知らせる音だった。
その音を聞いた瞬間。
朔の表情が変わった。
「…………」
何かが、頭の奥に引っかかった。
聞いたことがある。
似たような音を。
だが、どこで?
アリーナの光景が、わずかに遠のく。
代わりに浮かんだのは、白い壁だった。
天井に埋め込まれた照明。
床に引かれた黄色い線。
そして、ガラス越しに見える人影。
『……準備、できています』
誰かの声。
低い電子音。
それから――。
「……っ」
朔は右手を握りかけた。
指先に、鈍い痺れが走る。
慌てて力を抜く。
「朔?」
一夏の声で、意識が現実へ戻った。
「……ああ」
「どうした? 顔色悪いぞ」
朔はゆっくり息を吐いた。
「いや……ちょっと、思い出したことがあって」
「思い出したこと?」
「昔のこと」
一夏は心配そうに朔を見た。
「腕、大丈夫か?」
「ああ。機体を動かしたわけじゃないし」
朔は右手を軽く開いた。
痺れは、いつもと大きく変わらない。
だが、今の反応が気になった。
自分でも、何に驚いたのか分からなかったからだ。
「……少し休む?」
箒が尋ねた。
「大丈夫。ありがとう」
朔はそう答え、もう一度訓練区域へ目を向けた。
シャルロットは、次の標的へ武装を切り替えている。
訓練そのものに異常はない。
ただの電子音。
ただの切り替え合図。
それだけだった。
なのに、どうして。
あの試験施設のことを思い出したのだろう。
◇
午後四時十分。
訓練が終わると、シャルロットが観覧席へやってきた。
「みんな、どうだった?」
「すごかったぞ、シャル!」
一夏が真っ先に答える。
「やっぱり、あんなに速く武器を切り替えられるのはすごいな」
「ありがとう」
シャルロットは笑った。
「でも、まだ練習しないといけないところもあるんだよ」
「そうなのか?」
「うん。最後の方、少し切り替えが遅れちゃったから」
朔は顔を上げた。
「……三つ目の標的のところ?」
「え?」
シャルロットが驚いた。
「分かった?」
「最後の射撃に移る前、一瞬だけ進路が変わったから」
「ああ……」
シャルロットは苦笑した。
「あそこ、次に使う武装を迷ったんだ」
「そうだったのか」
「本当は、もう少し早く決めるつもりだったんだけどね」
一夏は二人を見比べた。
「……よく分かるな、朔」
「たまたまだよ」
朔は肩をすくめた。
だが、シャルロットは首を振った。
「ううん。普通に見てるだけだと、あそこは分かりにくいと思う」
「……そうか?」
「うん」
シャルロットは少し考えたあと、笑った。
「朔って、相手の動きをよく見てるんだね」
「……癖みたいなものかな」
それは本当だった。
武装の向き。
推進器の動き。
次に移動する方向。
そうしたものを見ていないと、判断が間に合わない。
以前いた場所では、それが生き残るために必要だった。
だが、ここでは違う。
同じ技術を、誰かの訓練を見て学ぶために使える。
それが少し不思議だった。
「……ねえ、朔」
シャルロットが声を落とした。
「さっき、何かあった?」
朔は少し驚いた。
「……どうして?」
「途中で、一夏が心配そうにしてたから」
一夏が横から頷いた。
「実際、ちょっと顔色悪かったぞ」
「……そうか」
朔は少し考えた。
「昔の試験のことを、急に思い出したんだ」
「試験?」
「俺の機体の」
シャルロットは、それ以上すぐには聞かなかった。
朔は続けた。
「訓練中に鳴った電子音が、昔聞いた音に似てた気がして」
「……そっか」
「まだ、はっきり思い出せたわけじゃないけど」
シャルロットは頷いた。
「無理しないでね」
「ああ」
「それに、今日の見学が負担になるなら、次からは別の方法でもいいから」
朔は小さく笑った。
「いや。今日の訓練は面白かったよ」
「本当?」
「ああ。また見せてほしい」
シャルロットの表情が明るくなる。
「もちろん!」
その横で一夏が笑った。
「じゃあ、今度は俺も実機で参加するかな」
箒が即座に口を開いた。
「その前に、今日の復習を終わらせろ」
「……まだ覚えてたのかよ!」
「当然だ!」
また始まった言い合いに、周囲から笑い声が漏れる。
朔も小さく笑った。
だが、頭の片隅では。
先ほど浮かんだ白い壁と、ガラス越しの人影が消えずにいた。
◇
午後五時二十六分。
寮の自室へ戻った朔は、机の上に端末を置いた。
《本日の訓練見学について、記録を整理しますか?》
「いや。その前に、ちょっと調べたいことがある」
《何でしょうか》
「昔の試験施設について」
端末の画面が切り替わる。
以前確認した記録の一覧が表示された。
試験開始。
基本動作。
推進器の作動確認。
そして、途中で番号が飛んでいる管理記録。
「……なあ」
《はい》
「あの試験のとき、俺が入った施設の見取り図って残ってるか?」
《保存データを検索します》
数秒の沈黙。
《施設の正式な見取り図は確認できません》
「そうか」
《ただし、試験開始前に取得された限定的な環境情報が残っています》
朔は顔を上げた。
「環境情報?」
《試験区域内で記録された機器の配置情報です。施設全体の構造を示すものではありません》
「見せてくれ」
画面に簡単な配置図が表示された。
中央に機体の試験位置。
その周囲に、いくつかの設備。
壁面の一部。
そして、外部との接続位置。
「……こんな感じだったな」
朔は画面を見つめた。
試験用の広い空間。
白い壁。
奥に設けられた観測用の窓。
確かに、記憶にある光景と似ている。
だが、何かが足りなかった。
「……あれ?」
《どうしましたか?》
「こっちに、扉がなかったか?」
朔は画面の右側を指さした。
そこには、壁面の一部しか表示されていない。
《現在の記録からは、扉の有無を確認できません》
「……そうか」
朔は目を閉じた。
昔の記憶を、少しずつたどる。
試験が始まる前。
整備用の台に座っていた自分。
正面には灰色のIS。
近くでは、技術者たちが作業をしていた。
ガラス越しには、何人かの人影が見えていた。
そこまでは覚えている。
それから。
誰かが、自分に声をかけた。
『……こちらへ』
白い服を着た人物だった。
女性だったような気もする。
だが、顔ははっきりと思い出せない。
その人物に案内されて、通路を歩いた。
試験室の奥へ。
そこで――。
「……あ」
朔は目を開いた。
「扉……あった」
《位置を記録しますか?》
「ああ」
朔は画面の右側を指さした。
「ここの奥。普通の出入口とは別に、もう一つ通路があった」
《記録しました》
「確か……試験が終わったあと、そこを通ったんだ」
朔は小さく呟いた。
試験室へ入ったときとは、違う通路だった。
狭い廊下。
白い壁。
天井の照明。
そして、途中にあった扉。
朔は眉をひそめた。
「……何て書いてあった?」
《該当する文字情報は、保存データにありません》
「分かってる。ちょっと考えさせてくれ」
朔は椅子の背にもたれた。
頭の中に、古い光景が浮かんでいる。
通路の途中。
扉の横に、小さな表示板があった。
文字は、確か――。
「……観測」
朔は呟いた。
《観測、ですか?》
「ああ。そんな文字があった気がする」
その先が、どうしても思い出せない。
監視室だったのか。
観測室だったのか。
あるいは、まったく違う名前だったのか。
そこまでは分からない。
だが、一つだけ確かに覚えていることがあった。
「……中に、誰かいた」
《確認できる記録はありません》
「うん。俺の記憶だけだ」
朔は頷いた。
通路を歩いているとき。
閉じかけた扉の向こうから、声が聞こえた。
何かの指示だった。
試験についての話だったと思う。
それ以上は、曖昧だった。
朔は額に手を当てた。
「……何て言ってたんだ?」
思い出そうとする。
だが、言葉がつながらない。
聞こえたのは短い会話だった。
誰かが何かを尋ね、別の誰かが答えていた。
それだけだった。
「……駄目だな」
《記憶の再現は、必ずしも正確ではありません》
「ああ。分かってる」
朔は端末へ視線を戻した。
「今の話、メモしておいてくれ」
《了解しました》
「ただし、俺の記憶だけだって分かるように」
《未確認の記憶情報として保存します》
「頼む」
朔は静かに息を吐いた。
これまで、試験室のことばかり考えていた。
機体が置かれていた場所。
推進器の確認。
試験中断の警告。
だが、施設には別の部屋があった。
そこにいた人間が、何をしていたのか。
今まで、考えたこともなかった。
◇
翌朝。
織斑千冬は、職員室で朔からの連絡を確認していた。
――過去の試験施設について、思い出したことがあります。
――相談できる時間をいただけないでしょうか。
千冬は時計を見た。
始業まで、まだ少し時間がある。
ちょうどそのとき、廊下を歩いていた朔の姿が見えた。
「雨宮」
声をかける。
朔が振り向いた。
「はい」
「連絡は見た。少し時間はあるか?」
「大丈夫です」
「なら、こちらへ来い」
千冬は職員室の奥にある応接スペースへ向かった。
朔もその後に続く。
「それで、何を思い出した?」
千冬が尋ねた。
朔は端末を取り出し、昨日作成した簡単な配置図を表示した。
「試験室に、別の出入口があった気がするんです」
「別の出入口?」
「はい。試験が終わったあと、俺はそこを通ったと思います」
千冬は画面へ目を向けた。
「ここか?」
「そうです」
朔は頷いた。
「その先の廊下に、観測室みたいな部屋があったと思うんです」
「思う?」
「……はっきりとは覚えてません」
朔は正直に答えた。
「扉の表示に、観測って文字があった気がします。でも、正確な名前までは分からなくて」
千冬は頷いた。
「ほかには?」
「その部屋の中に、人がいました」
「何人だ?」
「……そこまでは分かりません。声が聞こえただけなので」
「何を話していた?」
朔は首を振った。
「それも、まだ思い出せません」
千冬は資料を見つめた。
試験室とは別の観測室。
そこへ続く通路。
そして、内部にいた人物。
どれも、現時点では朔の記憶にすぎない。
だが、調査する価値はある。
「雨宮」
「はい」
「思い出したことは、今のように整理しておけ」
「……はい」
「見たもの、聞いたもの、それから推測したこと。この三つは混ぜるな」
朔は頷いた。
「分かりました」
「記憶が曖昧なら、曖昧なままでいい。無理に答えを作ろうとするな」
「……はい」
千冬は端末を閉じた。
「轡木さんへ伝えておく。施設の構造を調べる手掛かりになるかもしれん」
「ありがとうございます」
朔は頭を下げた。
千冬は立ち上がる。
「それと、右腕の具合はどうだ?」
「変わりません。昨日も少し痺れましたけど、すぐに落ち着きました」
「訓練を見ているときか?」
「はい」
「無理はするなよ」
「分かっています」
「よし。では、教室へ戻れ」
「はい」
朔は端末をしまい、応接スペースを出た。
廊下を歩きながら、少しだけ考える。
自分が覚えていることは、まだ少ない。
だが、それでも調べる手掛かりにはなるらしい。
今まで、思い出せないことばかり気にしていた。
だが、覚えていることも確かにある。
それを、一つずつ整理していけばいい。
◇
午前十一時五十分。
IS学園の管理棟。
十蔵は、千冬から共有された資料を確認していた。
机上の画面には、朔が作成した試験施設の簡易配置図が表示されている。
「……別の通路か」
十蔵が呟く。
向かいに座る男性技術者が頷いた。
「はい。ただし、現時点では本人の記憶によるものです」
「分かっている」
十蔵は図を見た。
試験室。
外部計測系との接続。
そして、記録に残されていない別の通路。
「一般的な試験施設でも、主試験室と観測室が別になっていることは珍しくないな」
「そうですね」
「ただ、雨宮君の手元には、操縦者の状態を示す記録がほとんど残っていない」
技術者が頷いた。
「もし別の観測室が存在していたなら、そちらで記録を管理していた可能性があります」
「……そうか」
十蔵は静かに考えた。
以前から問題になっていた、試験中断の警告。
機体側の記録に残された、外部接続の再確立。
そして、指示者が送ってきた言葉。
――あのとき止められたのは、機体だけではない。
これらを同じ出来事として扱っていいかどうかは、まだ分からない。
だが、調査すべき対象は少しずつ明確になってきていた。
「……まずは、施設の構造を確認することだな」
十蔵が言った。
「試験室と観測室が分かれていたかどうか。その点から調べよう」
「承知しました」
「それと、過去の施設に関する資料が見つかっても、雨宮君にいきなり写真を見せるな」
技術者が顔を上げた。
「理由を伺っても?」
「先に本人が覚えていることを記録しておきたい。あとから見た情報と、元々の記憶が混ざると困る」
「なるほど」
「本人を急がせる必要もない」
十蔵は資料を閉じた。
「まだ身体の回復途中だからな」
技術者は頷いた。
十蔵は窓の外へ目を向けた。
遠くのアリーナでは、数機のISが訓練を行っている。
その中に、雨宮朔の灰色の機体はない。
今は、それでいい。
機体を動かさなくても、調べられることはある。
そして、少年自身が何かを思い出したということは、無理に機体を展開させるよりも重要な手掛かりになるかもしれなかった。
◇
昼休み。
「朔、今日も管理棟に行くのか?」
一夏が尋ねた。
「いや。今日は特に予定ないよ」
「お、そうなのか」
「ああ」
「じゃあ、放課後ちょっと付き合わないか?」
「何に?」
「箒に、昨日の復習をしろって言われてさ」
朔は思わず笑った。
「……まだ終わってなかったのか?」
「いや、終わってるんだけど、説明してみろって言われるんだよ」
「なるほど」
「それで、朔にも聞いてほしいんだ」
「俺に?」
「ああ。変なところがあったら、教えてくれないか?」
朔は少し考えた。
「いいよ」
「助かる!」
一夏は嬉しそうに笑った。
その横で、箒が腕を組む。
「一夏。雨宮に頼るのは構わんが、自分で考えることを忘れるなよ」
「分かってるって」
「本当だろうな?」
「本当だよ!」
朔は苦笑した。
「……二人とも、仲いいな」
「なっ!?」
箒の顔が赤くなる。
「ま、またお前はそういうことを!」
「え?」
一夏は首を傾げた。
朔はそれ以上何も言わず、食事に手をつけた。
この二人のことは、まだよく分からない。
だが、こうして話していると、どこか安心する。
昨日のように過去の記憶が突然浮かんでも。
今日のように、その内容がはっきりしなくても。
この教室へ戻ってくれば、いつもどおりの会話がある。
それが、今の朔にはありがたかった。
◇
同じ日の夕方。
日本から遠く離れた地下施設。
古い記録を保管する区画では、数名の職員が端末を操作していた。
その奥に、一人の男が立っている。
「……対象となる記録は?」
男が尋ねた。
職員は画面を切り替えた。
「こちらです」
表示されたのは、古い試験施設の内部構造だった。
中央に主試験室。
その周囲に、整備用の通路。
そして、主試験室とは別に設けられた観測区画。
男は画面を見つめた。
「……まだ残っていたか」
「はい。設備自体は現在使用されていませんが、当時の施設図面は保管されています」
職員が頷いた。
「ただし、操縦者状態監視記録については、別の管理区分にあります」
「分かっている」
男は短く答えた。
職員は画面を拡大する。
主試験室から伸びる通路。
その先に、小さな観測区画があった。
「こちらが当時の観測室です」
男は頷いた。
そこは、機体の動作を確認するための場所ではなかった。
少なくとも、それだけを目的とした設備ではない。
試験中の操縦者の状態を、外部から確認するための区画だった。
「……この部屋にいた職員は?」
男が尋ねた。
「当時の担当者一覧があります」
「出してくれ」
画面が切り替わる。
複数の名前が表示された。
技術担当者。
医療担当者。
観測担当者。
その中に、一人だけ、現在の所属情報が確認できない人物がいた。
男の視線が止まる。
「……この者は?」
「当時の記録では、観測補助を担当しています。ただし、試験終了後の異動先が確認できません」
男はしばらく黙っていた。
「最後に確認されたのは、いつだ?」
「当該試験の終了後です。それ以降の記録はありません」
「……そうか」
男は画面を閉じた。
職員が尋ねる。
「この人物について、追加の調査を行いますか?」
男は少し考えた。
「いや。今は必要ない」
「承知しました」
職員が退出する。
男は一人、端末の前に残った。
古い試験施設。
灰色のIS。
そして、試験室とは別に存在した観測区画。
当時、その部屋で何が行われていたのか。
それを知る人間は、多くない。
男は小さく息を吐いた。
「……まさか、そこまで思い出すとはな」
独り言だった。
画面の端には、雨宮朔の名前が表示されている。
少年は、過去の試験について調べ始めている。
しかも、機体そのものではなく、当時の施設について。
男は静かに呟いた。
「……君は、あの部屋に誰がいたのか覚えているのか」
答える者はいなかった。
◇
午後九時十五分。
朔は寮の自室で、机に向かっていた。
今日の授業で出された課題は終わっている。
机の上には、昨日作成した試験施設の簡易配置図が表示されていた。
主試験室。
奥へ続く通路。
そして、記憶の中にあるもう一つの部屋。
「……ここなんだよな」
朔は画面を見つめた。
昨日、思い出した光景。
白い壁。
細い廊下。
扉の横にあった表示板。
その文字を、もう一度思い出そうとする。
だが、やはりはっきりしなかった。
《記憶の整理を続けますか?》
補助AIが尋ねた。
「……いや」
朔は首を振った。
「今日はもういい」
《了解しました》
端末を閉じかける。
そのとき。
ふと、別のことを思い出した。
廊下を歩いているとき。
部屋の中から聞こえた声。
その前に、何か音がしていた。
短い電子音。
三回。
ピッ、ピッ、ピッ。
朔は顔を上げた。
「……あ」
《どうしましたか?》
「昨日、訓練中に聞いた音……」
シャルロットの武装切替訓練。
三つ目の標的が現れる直前。
訓練システムが鳴らした電子音。
それが、昔の試験施設で聞いた音と似ていた。
だから、急に記憶が浮かんだのかもしれない。
「……そうか」
朔は小さく呟いた。
あの音が鳴ったあと。
扉の向こうで、誰かが何かを言った。
朔は目を閉じた。
白い廊下。
天井の照明。
そして、閉じかけた扉。
その向こうから聞こえた声。
『……まだ、終わっていません』
朔の目が開いた。
「……え?」
言葉が、頭の中に残っていた。
誰が言ったのかは分からない。
何について話していたのかも分からない。
ただ、その一言だけが妙にはっきりしていた。
まだ、終わっていません。
「……何が?」
《何についてでしょうか?》
朔は首を振った。
「分からない」
少し考えてから、端末を操作した。
「今の言葉も、記録しておいてくれ」
《了解しました》
「ただし、これも俺の記憶だけだ。実際に聞いた言葉と同じかどうかは分からない」
《未確認の記憶情報として保存します》
「……頼む」
朔は椅子の背にもたれた。
昔の試験。
灰色のIS。
試験中断の警告。
そして、機体が止まったあとにも残されていたらしい、別の記録。
それらが一つにつながるかどうかは、まだ分からない。
だが、少なくとも。
あの試験室には、自分が知らないことが残されている。
それは、以前よりもはっきりしてきた。
朔は窓の外を見た。
学園の明かりが、遠くの海に反射している。
明日も授業がある。
一夏たちと会う。
シャルロットの訓練を見た感想も、もう少し話したい。
その一方で、調べなければならないこともある。
「……少しずつ、か」
朔は小さく笑った。
答えを急いでも、記憶が戻るとは限らない。
だからこそ、今は覚えていることを大切にする。
それだけだった。
朔は端末を閉じた。
窓の外では、夜のIS学園が静かに眠り始めていた。
その下で、少年はまだ知らない。
自分が通ったあの廊下の先に、確かに観測室が存在していたことを。
そして、その部屋にいた人物の一人が、現在の記録から姿を消していることを。
灰色の亡霊が残した過去は、機体だけに刻まれていたわけではなかった。