IS〈インフィニット・ストラトス〉蒼穹の亡霊 作:右左右左右
午前七時五十一分。
雨宮朔は、寮の自室で制服の袖を整えていた。
白い生地に、黒と赤の装飾。
IS学園へ編入した当初は落ち着かなかった制服にも、少しずつ慣れてきた。
ただ、右腕の包帯だけは相変わらずだった。
「……そろそろ外せないかな」
《医療担当者から、包帯を外してよいという指示は出ていません》
「分かってるよ。言ってみただけ」
朔は苦笑した。
指先の痺れは、以前より軽くなっている。
それでも、完全には消えていない。
日常生活に大きな支障はないが、機体を展開すれば再び症状が強くなる可能性があった。
今は、医師の指示に従うしかない。
朔は鞄を持ち、部屋を出た。
廊下の向こうから、聞き慣れた声がする。
「おーい、朔!」
織斑一夏だった。
「おはよう」
「おはよう。今日、ちょっと早いな」
「たまたまだよ」
「そっか。じゃあ、一緒に行こうぜ」
「ああ」
二人は並んで歩き始めた。
寮の外へ出ると、六月の朝日が眩しかった。
通路には、教室へ向かう生徒たちの姿がある。
以前ほどではないが、朔と一夏が並んでいると、やはり視線が集まった。
「そういえば、昨日の訓練どうだった?」
一夏が尋ねた。
「面白かったよ。シャルのラピッド・スイッチは、やっぱりすごいな」
「だよな」
一夏は頷いた。
「俺なんか、武器を持ち替える前に相手に近づくことで精一杯だからさ」
「白式の武装構成じゃ、同じことはできないしな」
「そうなんだよ」
一夏は苦笑した。
「でも、見てると自分でもやってみたくなるんだよな」
「……気持ちは分かる」
朔は小さく笑った。
自分の灰色のISにも、拡張領域から武装を呼び出す機能はある。
だが、シャルロットのように連続して武装を切り替える戦い方は、ほとんどしてこなかった。
必要な武装を選ぶ。
使い終えたら収納する。
次の武装を呼び出す。
その一つ一つに、判断が必要だった。
「……いつか、俺も練習してみたいな」
朔が呟く。
「お、いいじゃん」
一夏が笑った。
「腕が治ったら、一緒に訓練しようぜ」
「……ああ」
朔は頷いた。
いつになるかは分からない。
だが、そういう約束をすること自体は、悪くなかった。
◇
午前十時二十二分。
一年一組では、ISの運用支援に関する授業が行われていた。
教卓に立つ織斑千冬が、前方の画面に図を表示する。
「ISの操縦者は、機体から得られる情報だけで判断しているわけではない。訓練や試験では、外部の設備から情報を受け取ることもある」
画面には、機体と地上の観測設備が描かれていた。
「特に開発段階では、機体の動作記録と操縦者の状態を別々に確認する場合がある」
朔は顔を上げた。
外部の観測設備。
昨日まで調べていた、過去の試験記録。
どうしても、それを思い出してしまう。
「……雨宮」
突然名前を呼ばれた。
「はい」
「外部から取得した情報と、機体自身の記録が食い違った場合、どうする?」
朔は少し考えた。
「……まず、どちらかが間違っていると決めつけないことだと思います」
「続けろ」
「記録を取った場所や、時刻がずれている可能性もあります。だから、何をどうやって記録したものなのか、確認する必要があると思います」
千冬は頷いた。
「そのとおりだ」
教室を見渡す。
「観測された数値が正しくても、それを解釈する側が間違えることはある。記録の一部だけを見て、全体を判断するな」
朔は席へ腰を下ろした。
その言葉は、今の自分にも当てはまる。
試験中断。
外部接続、再確立。
欠落した管理番号。
それらが何を示しているのか、まだ分からない。
そして、昨夜思い出した言葉。
――まだ、終わっていません。
もし、あれが本当に当時聞いたものなら。
誰が、何についてそう言ったのだろう。
朔は手元の教科書へ視線を落とした。
◇
昼休み。
「雨宮君、昨日の訓練を見ていたんですのよね?」
食堂で向かいの席に座ったセシリアが尋ねた。
「ああ。シャルの武装切替を見せてもらった」
「いかがでした?」
「すごかったよ。特に切り替えたあとの動きが」
朔は答えた。
「武装を変えるだけじゃなくて、移動方向まで変えていたから。対応する側は大変だろうな」
「ふふ。確かに、シャルロットさんの技術は見事ですわ」
セシリアは微笑んだ。
「ですが、わたくしのブルー・ティアーズも、そう簡単に近づかせるつもりはありませんわよ?」
「それは分かる」
朔は頷いた。
「セシリアの機体は、距離を取った状態で相手の動きを制限できるからな」
「まあ!」
セシリアの表情が明るくなった。
「よくご覧になっていますのね」
「昨日の訓練でも、射撃だけじゃなくて進路を塞ぐように動かしてただろ?」
「ええ。まさにそのとおりですわ」
セシリアは嬉しそうに頷いた。
その隣で、一夏が苦笑する。
「俺なんて、ブルー・ティアーズに何度苦労させられたことか……」
「一夏さん。それは、ご自身の不用意な接近にも原因があるのではなくて?」
「うっ……」
セシリアの言葉に、一夏が黙る。
箒が小さく頷いた。
「確かに。一夏は正面から突っ込みすぎる」
「箒まで!」
「事実だろう」
朔は思わず笑った。
だが、そのとき。
ラウラ・ボーデヴィッヒが口を開いた。
「雨宮」
「ん?」
「お前の機体は、どの距離での戦闘を得意としている?」
朔は少し考えた。
「……状況によるかな」
「どちらかといえば、だ」
「そうだな……」
灰色のIS。
手にした射撃武装。
拡張領域に収められた近接兵装。
背部の非対称推進器。
機体の構成を考えれば、距離を固定して戦うよりも、状況に合わせて位置を変えることが多かった。
「中距離から入ることが多いと思う。でも、相手との距離は結構変えるかな」
「ほう」
ラウラが目を細める。
「機動力を重視するのか?」
「そういうところはあると思う」
「ならば、いずれ手合わせしてみたいものだ」
「……腕が治ったらな」
「無論だ」
ラウラは短く頷いた。
「負傷している相手と戦っても、意味がない」
一夏が苦笑する。
「ラウラ、お前本当に訓練好きだな」
「当然だ。鍛錬は怠るべきではない」
「はいはい……」
「返事が軽いぞ、嫁」
「その呼び方はやめろって!」
いつものやり取りが始まった。
朔は笑いながら、食事を続けた。
その時間だけは、過去の記録について考えずにいられた。
◇
午後三時五十八分。
授業を終えた朔は、管理棟の小会議室にいた。
向かいには千冬。
そして、轡木十蔵が座っている。
机の上には、一枚の紙が置かれていた。
昨日、朔が思い出した試験施設の構造を整理するためのものだった。
「……じゃあ、始めようか」
十蔵が穏やかに言った。
「昨日、千冬先生へ話したことを、もう一度確認したいんだ」
「はい」
「覚えている範囲だけで構わないよ」
朔は頷き、紙に目を落とした。
中央に大きな四角を描く。
「……ここが試験室です」
その奥に、小さな通路を付け加えた。
「それで、たぶんこっちに別の出入口がありました」
「扉を通ったのは、試験の前か後か、覚えているか?」
十蔵が尋ねる。
「……後だったと思います」
「そうか」
「試験が終わって、機体を解除してから、誰かに案内された記憶があります」
千冬が口を開いた。
「その人物の顔は?」
「……はっきり覚えていません」
「服装は?」
「白っぽい服だったと思います。整備員なのか、医療関係の人なのかは分かりません」
朔は言葉を止めた。
頭の中に、昔の光景が浮かぶ。
白い壁。
細い通路。
天井の照明。
そして、扉の横にあった表示板。
「……この辺りに、部屋がありました」
朔は通路の途中へ、小さな四角を描いた。
十蔵が確認する。
「昨日は、表示に『観測』という文字があった気がすると話していたね」
「はい」
「今も、そう覚えている?」
「……そうですね。ただ、昨日よりはっきり思い出せたわけじゃないです」
「分かった」
十蔵は頷いた。
朔は鉛筆を置きかけた。
だが、ふと思い出す。
「……あと」
「うん?」
「そこを通ったとき、電子音が聞こえたんです」
千冬が顔を上げた。
「どんな音だ?」
「短い音が三回」
朔は指先で机を軽く叩いた。
トン、トン、トン。
「こんな間隔だったと思います」
十蔵は黙って聞いていた。
「それから、声が聞こえました」
「何と言っていた?」
朔は少し迷った。
昨日の夜。
突然、頭の中に浮かんだ言葉。
それを口にする。
「……『まだ、終わっていません』」
千冬の表情が変わった。
「誰が言った?」
「分かりません」
朔は首を振った。
「部屋の中から聞こえたと思うんです。でも、誰の声だったかまでは……」
「男性か、女性かは?」
「……それも、はっきりしません」
千冬は頷いた。
「分かった。続けろ」
朔は少し考えた。
「声が少し遠かった気がします」
「遠かった?」
「はい。扉の向こうから直接聞こえたのか、何かのスピーカーから聞こえたのか……そこも覚えてなくて」
十蔵は資料へ短く書き込んだ。
「それなら、両方の可能性を残しておこう」
「はい」
「ほかには?」
朔はしばらく考えた。
何か、もう一つ。
引っかかっているものがあった。
廊下。
電子音。
声。
そして、扉。
「……そうだ」
朔は紙に描いた通路を見た。
「その部屋の扉、少し開いていたと思います」
「中は見えたのか?」
「……ほんの少し」
朔は目を閉じた。
暗い室内。
光っている画面。
その前に座る人影。
ただ、顔までは見えない。
「……誰かが座っていました」
十蔵が顔を上げた。
「一人?」
「見えたのは一人だけです」
「そうか」
朔は頷いた。
「でも、声を出したのがその人だったかどうかは分かりません」
千冬が口を開く。
「それでいい。見えたものと、聞こえたものを無理につなげるな」
「はい」
朔は紙を見つめた。
以前より、少しだけ形になってきた記憶。
だが、そこに描かれたものが正しいかどうかは、まだ分からない。
「……これで何か調べられますか?」
朔が尋ねる。
十蔵は穏やかに頷いた。
「十分だよ」
「本当ですか?」
「ああ。少なくとも、調べる対象は増えた」
十蔵は紙を手に取った。
「君が思い出したことと、実際の設備記録が一致するかどうか。それを調べてみよう」
朔は小さく息を吐いた。
「……お願いします」
◇
午後五時十二分。
朔が帰ったあとも、十蔵と千冬は会議室に残っていた。
机の上には、朔の描いた簡易図が置かれている。
「……どう思う?」
十蔵が尋ねた。
千冬は腕を組んだ。
「記憶の正確性は、まだ判断できません。ただ、話している内容に無理なつながりはありませんでした」
「そうだな」
「少なくとも、思い出せない部分を作り話で埋めようとはしていません」
十蔵は頷いた。
「あの子も、そこは慎重に考えているようだ」
千冬は資料へ目を落とした。
「問題は、観測室です」
「ああ」
「試験室とは別の区画で、操縦者の状態を記録していた可能性がある」
「既存の情報だけでも、そう考える余地はある」
十蔵は頷いた。
「だが、まだ設備そのものを特定できていない」
「……そうですね」
そのとき、端末が短く鳴った。
十蔵が画面を確認する。
技術担当者からの報告だった。
「……ほう」
千冬が顔を上げる。
「何か?」
「以前照会していた記録形式について、回答が来た」
十蔵は資料を開いた。
表示されたのは、過去の試験設備で使用されていた記録管理方式に関する情報だった。
灰色ISそのものの記録ではない。
類似する外部観測設備の仕様資料だ。
「この形式では、機体の状態を記録する系統と、操縦者の状態を監視する系統が分けられていたそうだ」
千冬は資料へ目を向けた。
「別々に記録されるわけですね」
「ああ。機体の試験が中断されても、操縦者の安全確認を続けるために、監視系統だけ動かしておく運用があったらしい」
千冬の目が細くなる。
「……なるほど」
十蔵は頷いた。
「もちろん、雨宮君の試験施設で同じ方式が使われていたとは限らん」
「ええ」
「ただ、もし同じなら……」
十蔵は一度、言葉を止めた。
そして静かに続ける。
「機体の試験が終わったあとにも、操縦者の記録が残っていた可能性はある」
千冬は黙っていた。
それは、これまで調べてきた内容と矛盾しない。
試験中断。
外部接続の再確立。
そして、機体側には残されていない操縦者の状態記録。
「……『まだ、終わっていません』」
千冬が呟く。
十蔵は頷いた。
「あの言葉が何を指していたのか、少し考えやすくなったな」
千冬は資料を閉じた。
「ただし、偶然似た言葉を聞いただけかもしれません」
「そうだ」
十蔵は静かに答えた。
「だから、ここから先は実際の記録が必要になる」
◇
同じ頃。
日本から遠く離れた地下施設。
薄暗い部屋に、端末の光が浮かんでいた。
一人の男が、古い試験記録の管理画面を見つめている。
そこには、複数の項目が並んでいた。
機体動作記録。
推進器制御記録。
外部接続記録。
そして、操縦者状態監視記録。
男は最後の項目で指を止めた。
「……まだ残っているか」
画面には、保存状態が表示されている。
記録そのものは保管されていた。
だが、閲覧できる者は限られている。
男はしばらく画面を見つめていた。
そのとき、背後の扉が開いた。
「失礼します」
職員が入ってくる。
「何だ?」
「当時の担当者一覧について、確認したいことがあります」
男は振り向いた。
「……何があった?」
職員は端末を差し出した。
表示されたのは、古い試験施設の人員記録だった。
観測担当者。
医療担当者。
設備管理者。
そして、観測補助担当者。
「この人物です」
職員が、一つの項目を指さした。
「以前、現在の所属情報が確認できないと報告した者ですが」
「……ああ」
「追加の照合でも、異動先の記録が見つかりませんでした」
男は画面を見つめた。
「退職した可能性は?」
「あります。ただし、退職を示す正式な記録も確認できません」
「……そうか」
職員は続けた。
「当時の施設が閉鎖された際、管理記録の一部が別の保管区分へ移されたようです。こちらには、その後の情報が残っていません」
男は黙って聞いていた。
所在が分からない。
それだけなら、珍しいことではない。
施設が閉鎖され、人員が異動する。
契約が終了する。
記録の管理者が変わる。
そうした理由で、過去の職員の所在が追えなくなることはある。
だが、この人物については、もう一つ確認したいことがあった。
「……当日の勤務記録は?」
「残っています」
「最後に記録された作業は?」
職員は画面を操作した。
短い文章が表示される。
――観測補助業務。
――試験終了後、状態監視継続。
男の表情が、わずかに変わった。
「……この記録は、どこに保存されていた?」
「観測系統の運用記録です。機体側の管理記録とは別になっています」
男はしばらく黙った。
機体の試験が中断されたあと。
観測室では、操縦者の状態を監視し続けていた。
そのことを、当時の記録は示している。
ただし、何を確認するために継続していたのか。
いつ監視を終了したのか。
その詳細は、別の記録に残されていた。
「……これ以上、勝手に調べるな」
男が言った。
職員は顔を上げた。
「よろしいのですか?」
「ああ。関連する記録は保全しておけ。それ以上の照会は、私を通せ」
「承知しました」
職員が退出する。
男は画面へ視線を戻した。
観測補助担当者。
試験終了後も続いていた監視。
そして、今になって過去を調べ始めた雨宮朔。
「……君は、どこまで覚えている」
男は小さく呟いた。
返事はない。
画面の中には、古い記録だけが残されていた。
◇
午後六時三十四分。
IS学園の対外窓口に、一件の連絡が届いた。
差出人は、個人名義。
所属欄は空白だった。
用件は、過去の試験設備についての情報提供。
担当職員は、最初は一般的な問い合わせだと思った。
だが、本文を読み進めるうちに、表情が変わった。
――IS学園に在籍する男性操縦者について、確認したいことがあります。
――機体の所有権や管理権限を主張する意図はありません。
――私は、過去の試験設備に関する情報を持っています。
ここまでは、よくある情報提供の申し出にも見えた。
だが、最後の一文が違っていた。
――機体の試験が中断されたあとも、観測は続いていました。
職員は文章を読み直した。
機体の試験。
中断。
そして、観測の継続。
一般に公開されていないはずの内容だった。
少なくとも、学園側が正式に公表した情報ではない。
職員は迷わず、管理部門へ連絡を入れた。
◇
午後七時十二分。
十蔵は、対外窓口から転送された連絡を読んでいた。
向かいには、千冬が座っている。
「……差出人の身元は?」
千冬が尋ねた。
「まだ確認できていない」
十蔵は答えた。
「本人は、過去の試験設備について情報を持っていると主張している」
「信頼できますか?」
「現時点では何とも言えんな」
十蔵は資料を机へ置いた。
「ただ、気になるのはこの一文だ」
千冬も画面を見る。
――機体の試験が中断されたあとも、観測は続いていました。
千冬は眉をひそめた。
「……観測の継続」
「ああ」
「技術担当者が、今日説明していたことと似ていますね」
「そうだ」
十蔵は頷いた。
「もっとも、相手が本当に当時の関係者かどうかは別問題だ」
千冬は腕を組んだ。
「こちらの調査内容を、どこかで知った可能性もあります」
「そのとおりだ」
十蔵は資料を見直した。
今回の連絡には、ファイルが一つ添付されていた。
ただし、学園の情報管理担当者が隔離した状態で確認したところ、古い書式の記録表を撮影したような画像だったという。
まだ、その真正性は確認できていない。
「……画像の内容は?」
千冬が尋ねた。
十蔵は安全確認を終えた複製を表示した。
白い紙。
端に記された管理番号。
そして、いくつかの項目。
その中に、一つだけ読み取れるものがあった。
――観測系統 継続。
千冬の眼差しが鋭くなる。
「……これは」
「本物であれば、重要な手掛かりになる」
十蔵は答えた。
「だが、こちらから照会を返す前に、差出人の身元と資料の出所を確認する必要がある」
「雨宮には?」
「知らせるつもりだ」
千冬は頷いた。
「ただし、直接接触させるわけにはいきません」
「もちろんだ」
十蔵は静かに答えた。
「本人が何を知っているのか、誰のために接触してきたのか。そこが分からんうちは、会わせることはできない」
「……そうですね」
十蔵は窓の外を見た。
夜の学園。
遠くの海。
その向こうには、まだ姿の見えない相手がいる。
過去の試験について知っていると主張する人物。
機体の引き渡しを求めてきた者とは、目的が違うように見える。
だが、それが事実かどうかは、まだ分からなかった。
「……ようやく、向こうから声が届いたか」
十蔵が呟く。
千冬が顔を向けた。
「何か?」
「いや」
十蔵は資料を閉じた。
「今度は、こちらが確かめる番だということだ」
◇
午後八時五十六分。
朔は寮の自室で、机に向かっていた。
今日の課題は、既に終わっている。
机の端には、午後に作成した試験施設の簡易図が置かれていた。
主試験室。
奥へ続く通路。
そして、観測室らしい部屋。
朔はその図をしばらく見つめていた。
《本日の記憶整理について、追加する情報はありますか?》
「……いや。今のところは」
《了解しました》
朔は椅子の背にもたれた。
今日の話し合いで、思い出せることは一通り話したつもりだった。
だが、それでも肝心な部分は分からない。
自分は、あの試験で何をしたのか。
何が起きて、試験が中断されたのか。
そして、なぜそのことを覚えていないのか。
「……まだ、終わっていません」
朔は小さく呟いた。
昨日、思い出した言葉。
それが何を意味していたのか。
考えても、答えは出なかった。
そのとき、端末が短く振動した。
学園の管理部門からだった。
――雨宮君。
――過去の試験に関する情報提供の申し出がありました。
――詳細は確認中ですが、明日、相談の時間を設けたいと考えています。
朔は画面を見つめた。
「……情報提供?」
《学園からの連絡です。提供者の身元については記載されていません》
「……そうか」
少し考えてから、返信する。
――分かりました。明日、伺います。
送信。
朔は端末を机へ置いた。
これまで、試験についての情報は、ほとんど指示者から与えられたものだった。
あの男が何かを話さなければ、何も分からない。
そう思っていた。
だが、今度は違う。
別の誰かが、過去の試験について何かを知っているかもしれない。
それが本当なら。
あの男だけが、答えを持っているわけではない。
「……誰なんだろうな」
《現時点では不明です》
「そうだよな」
朔は小さく笑った。
焦っても仕方がない。
まずは、相手が誰なのかを確かめる。
話はそれからだ。
机の上の簡易図へ、もう一度視線を向ける。
観測室らしい部屋。
その中にいた人影。
そして、聞こえた声。
朔は鉛筆を手に取った。
部屋の横に、短い言葉を書き加える。
――声の主、不明。
それから、少し考えてもう一行。
――観測が続いていた可能性。
書き終えると、鉛筆を置いた。
今は、これでいい。
分からないことを、分からないまま残しておく。
以前なら、それがもどかしかった。
だが、今は少し違う。
いつか確かめるためには、曖昧なものを無理に決めつけない方がいい。
朔は紙を閉じた。
明日も授業がある。
一夏たちと顔を合わせる。
そして放課後には、新しい情報について話を聞くことになる。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
それでも。
自分の過去へ続く道が、少しだけ見えた気がしていた。
◇
同じ夜。
日本国内の、とある建物。
窓際の机に、一台の端末が置かれていた。
画面には、送信済みの連絡が表示されている。
――機体の試験が中断されたあとも、観測は続いていました。
その前に、一人の人物が座っていた。
照明を落とした室内。
机の上には、古い紙の資料が何枚か並んでいる。
そのうちの一枚には、見覚えのある管理番号が記されていた。
古い試験記録。
そして、別の紙には短い文字がある。
――観測補助。
その人物は、しばらく画面を見つめていた。
やがて、手元の資料を一枚取り上げる。
そこには、試験当日の時刻が並んでいた。
機体の試験中断。
外部計測の継続。
そして、その先。
まだ、誰にも提示していない記録。
人物は静かに息を吐いた。
「……ようやく、届いた」
小さな声だった。
机の端には、もう一枚の紙が伏せられていた。
裏返された紙の上部には、わずかに文字が透けている。
――操縦者状態監視。
その人物は紙を手に取った。
そして、独り言のように呟いた。
「……今度こそ、伝えないと」
返事をする者はいない。
窓の外には、夜の街が広がっていた。
かつて、灰色のISが試験を受けた日。
機体の試験は中断された。
だが、操縦者の観測は終わっていなかった。
その事実を知る人物が、今、IS学園へ接触を試みている。
それが雨宮朔にとって、救いとなるのか。
それとも、新たな問題を呼び込むのか。
まだ、誰にも分からなかった。