IS〈インフィニット・ストラトス〉蒼穹の亡霊 作:右左右左右
午前七時四十三分。
雨宮朔は、寮の洗面台の前で右手を開いた。
指を一本ずつ曲げる。
親指。
人差し指。
中指。
薬指。
小指。
動きに問題はない。
握り込む力も、日常生活で困るほど弱くなっているわけではなかった。
ただ、指先に残る感覚だけが、どうにもはっきりしない。
「……昨日と変わらないな」
《右上肢の自覚症状について、記録しますか?》
「ああ。いつもと同じで」
《了解しました》
耳元から返ってくる補助システムの声を聞きながら、朔は右手を下ろした。
昨日、初めて話をした女性。
三枝真帆。
かつて灰色のISが試験を受けた施設で、観測補助を担当していた人物。
彼女は言った。
試験中断後も、操縦者の状態監視は続いていたと。
そして、右上肢の測定値に通常とは異なる変化があったと。
それが今の症状と関係しているのかは分からない。
だが、一度気になり始めると、普段なら気にしないような感覚まで意識してしまう。
「……考えすぎか」
《現在の症状と過去の試験の因果関係は、確認されていません》
「分かってる」
朔は苦笑した。
制服の袖を整える。
白い生地。
黒と赤の装飾。
包帯を巻いた右手。
鏡に映るのは、どこから見ても学生だった。
少なくとも、以前のように戦場で機体を動かしている人間には見えない。
それが、少し不思議だった。
鞄を持ち、部屋を出る。
今日も授業がある。
そして放課後には、右腕の再診が予定されていた。
◇
「朔、おはよう!」
寮の廊下へ出ると、一夏が待っていた。
「おはよう」
「今日はちょっと早いな」
「目が覚めたから」
「そっか」
一夏は笑いながら隣に並んだ。
二人で寮を出る。
朝の空気は少し湿っていた。
梅雨の時期だけあって、空には薄い雲が広がっている。
「そういえば、今日の午後って医療室に行くんだっけ?」
一夏が尋ねた。
「ああ。右腕の検査」
「まだ痺れるのか?」
「少しな」
「……そうか」
一夏は少しだけ表情を曇らせた。
「早く治るといいんだけどな」
「そうだな」
朔は頷いた。
少しの間、二人は黙って歩いた。
やがて、一夏が口を開く。
「……なあ、朔」
「ん?」
「検査って、やっぱり嫌なもんなのか?」
朔は顔を向けた。
「何で?」
「いや、俺だったらちょっと緊張するかなって」
「……まあ、好きではないな」
「だよな」
「でも、今の状態が分からない方が困るから」
一夏は頷いた。
「そっか」
それから、少し笑った。
「じゃあ、今日は無理しないようにな」
「お前、最近そればっかりだな」
「仕方ないだろ。お前、油断すると何でも自分でやろうとするし」
朔は一瞬、言葉に詰まった。
「……そんなことないと思うけど」
「あるって」
「……そうか?」
「ああ」
一夏は自信満々に頷いた。
朔は小さく笑った。
自分では、そんなつもりはなかった。
だが、誰かにそう見えているのなら。
少しくらいは、気をつけた方がいいのかもしれない。
◇
午前十時二十一分。
一年一組では、ISの安全管理に関する授業が行われていた。
教卓に立つ織斑千冬が、前方の画面を操作する。
「今日は、実機運用中に異常が発生した場合の対応について説明する」
画面に、ISの基本構造が表示された。
操縦者。
装甲。
推進機構。
そして、機体の制御系統。
「ISには絶対防御が存在する。だが、それを理由に操縦者の安全管理を軽視していいわけではない」
千冬は教室を見渡した。
「シールドエネルギーの管理、機体の状態確認、操縦者の体調。どれか一つでも問題があれば、訓練を中断する判断が必要になる」
朔は顔を上げた。
試験中断。
昨日聞いた言葉が、自然と頭に浮かんだ。
「織斑」
「はい!」
「訓練中、機体に異常がないにもかかわらず、操縦者が体調不良を訴えた場合はどうする?」
一夏は少し考えた。
「……訓練を中断します」
「そのあとは?」
「安全な場所へ移動して、身体の状態を確認します」
「そうだ」
千冬は頷いた。
「機体が正常だからといって、操縦者まで正常とは限らん」
朔は静かにその言葉を聞いていた。
機体の試験は中断された。
だが、操縦者の監視は続いていた。
ならば。
あのとき、何を確認しようとしていたのだろう。
「雨宮」
千冬の声がした。
「はい」
「お前なら、どう判断する?」
朔は一瞬考えた。
「……機体と操縦者、両方を確認します」
「理由は?」
「機体に問題がなくても、操縦者に負担がかかっている可能性があります。逆に、操縦者が大丈夫だと言っていても、機体側に異常があるかもしれないので」
千冬は頷いた。
「そうだな」
朔は続けた。
「それと……中断した理由は、ちゃんと記録しておくべきだと思います」
教室が少し静かになった。
千冬が朔を見る。
「なぜだ?」
「あとから同じ問題が起きたとき、原因を調べられるようにするためです」
朔は答えた。
「何も残ってなかったら、本当に問題がなかったのか、それとも見つけられなかっただけなのか、分からないので」
千冬はしばらく朔を見つめた。
そして、静かに頷いた。
「……そのとおりだ」
それ以上は何も言わなかった。
だが、朔には分かった。
千冬も、今の話を過去の試験と結びつけて聞いていたのだろう。
◇
昼休み。
「雨宮君、午後は医療室へ行かれるそうですわね」
食堂で向かいに座ったセシリアが尋ねた。
「ああ。右腕の検査」
「その後、お加減はいかがですの?」
「前よりは良くなってると思う」
「それなら、少し安心ですわ」
セシリアは微笑んだ。
「ですが、焦りは禁物ですわよ?」
「分かってる」
朔が答えると、隣にいたシャルロットも頷いた。
「そうだよ。朔はまだ見学だけなんだから、ちゃんと治してからにしようね」
「……みんな、同じこと言うな」
「だって心配だから」
シャルロットは当然のように答えた。
朔は少しだけ目を丸くした。
その横で、一夏が笑う。
「ほらな。俺だけじゃないだろ?」
「……そうだな」
朔は苦笑した。
そのとき、食堂へ新しい声が響いた。
「あっ、一夏!」
鳳鈴音だった。
一年二組の彼女は、こちらへ近づいてくると、空いている席に腰を下ろした。
「今日、放課後暇?」
「悪い。今日は朔のことで、ちょっと予定があるんだ」
「朔の?」
鈴音が顔を向ける。
「何かあるの?」
「医療室へ行くだけだよ」
朔が答えた。
「ああ、腕の怪我ね」
「うん」
鈴音は少し考えた。
「だったら、ちゃんと診てもらいなさいよ。ISって、無茶した分だけ何とかなるようなものじゃないんだから」
「……ありがとう」
「別に、お礼を言われるようなことじゃないわよ」
鈴音はそう言って、すぐに一夏へ向き直った。
「それより一夏! あんた、昨日頼んだこと忘れてないでしょうね?」
「えっ?」
「……まさか」
「いや、覚えてるって!」
「じゃあ何だったか言ってみなさいよ!」
一夏が言葉に詰まる。
シャルロットが笑いを堪え、セシリアは呆れたようにため息をついた。
朔も小さく笑った。
自分の右腕のことばかり考えていたせいか。
こうした何でもないやり取りが、今日はいつも以上にありがたく感じられた。
◇
午後三時四十六分。
IS学園の医療室。
朔は診察用の椅子に座っていた。
担当医が、これまでの診察記録を確認している。
「雨宮君。前回の診察から、症状に変化はありましたか?」
「痺れは少し軽くなったと思います」
「痛みは?」
「普段はありません。無理に動かさなければ大丈夫です」
「分かりました」
担当医は頷いた。
まず、腕の動きを確認する。
肘を曲げる。
手首を動かす。
指を一本ずつ開閉する。
いずれも、大きな問題は見られなかった。
「動きは保たれていますね」
担当医は記録を取りながら続けた。
「次は感覚を確認します。左右で違いがあれば、教えてください」
「はい」
柔らかい素材が、指先に軽く触れた。
左手。
次に右手。
「……こっちの方が、少し鈍いです」
朔が答える。
担当医は場所を変え、同じ確認を繰り返した。
手の甲。
指先。
手首の周辺。
「ここは?」
「……分かります」
「こちらは?」
「少し分かりにくいです」
担当医は頷いた。
診察は慎重に進められた。
しばらくして、一通りの確認が終わる。
「今のところ、前回と比べて明らかな悪化は見られません」
担当医が説明した。
「運動機能にも大きな問題は認められません。ただ、感覚の鈍さは残っています」
「……そうですか」
「以前より改善している可能性はありますが、まだ完全に回復したとは言えませんね」
朔は頷いた。
「ISの操縦は?」
「もう少し待ちましょう」
即答だった。
「機体を展開したときに症状が強くなった経緯があります。日常生活で問題が少ないからといって、高い負荷に耐えられるとは限りません」
「……分かりました」
担当医は診察記録を閉じかけた。
そのとき、朔が口を開いた。
「……先生」
「はい?」
「昔の試験記録について、何か聞いてますか?」
担当医は頷いた。
「学園の管理部門から、当時の資料が見つかる可能性があるとは聞いています」
「……そのときも、右腕に何かあったみたいなんです」
「そうですね」
担当医は慎重に答えた。
「ただし、当時の資料がまだ十分ではありません。測定値に変化があったという証言だけでは、それが何を意味していたのか判断できません」
朔は黙って聞いていた。
「今の症状が、過去の試験によるものかどうかも分かりません」
「……はい」
「でも、当時の医療記録が残っているなら、確認する価値はあります」
担当医は穏やかに続けた。
「何を測定していたのか。異常と判断した理由は何か。そして、その後どのような確認が行われたのか」
「……なるほど」
「大切なのは、記録に何が書かれているかだけではありません。どういう方法で確認したかも重要なんです」
朔は少し考えた。
「……じゃあ、異常なしって書かれていても、それだけじゃ分からない?」
担当医は頷いた。
「そのとおりです。何について異常がないと判断したのか、確認しなければなりません」
朔は顔を上げた。
昨日、三枝から聞いた話。
最終報告書には、異常なしと記されていたという。
だが。
その言葉が、何を対象にした判断だったのか。
自分はまだ知らない。
「……ありがとうございます」
朔は小さく頭を下げた。
◇
午後四時二十八分。
診察を終えた朔は、管理棟の小会議室へ向かっていた。
昨日の面談について、十蔵から追加の説明があるという。
扉を開けると、十蔵と千冬が待っていた。
「やあ、雨宮君。診察は終わったかい?」
「はい」
「腕の具合はどうだった?」
「悪くはなってないそうです。でも、まだ操縦は駄目だって」
十蔵は頷いた。
「そうか。無理はしないようにね」
「はい」
朔が席に着くと、千冬が口を開いた。
「雨宮。今日は昨日の証言について、追加で確認できたことがある」
「……三枝さんの話ですか?」
「ああ」
十蔵が端末を操作した。
画面に、二枚の資料が表示される。
どちらも古い試験記録の写しだった。
「三枝さんから、昨日の資料より広い範囲を写した画像が届いたんだ」
「……原本ですか?」
「いや。あくまで本人が保管していた紙の控えを撮影したものだよ。正式な原本との照合は、まだできていない」
朔は頷いた。
十蔵は一枚目を表示した。
――機体動作試験 中断。
――操縦者状態 再確認要。
――外部観測 継続。
昨日、三枝から見せられた内容と同じだった。
「これは、試験中断直後の状態を記録したものだと説明されている」
十蔵が言う。
「そして、こちらが後日提出された報告書の写しだ」
画面が切り替わった。
別の書式。
整然と並んだ項目。
その中に、問題の文字があった。
――総合判定 異常なし。
朔は眉をひそめた。
「……本当に書いてある」
「ああ」
十蔵は頷いた。
「ただし、ここからが重要なんだ」
画面の下部を拡大する。
そこには、小さな欄が設けられていた。
――操縦者状態確認。
その右側。
――別紙参照。
「……別紙?」
朔が尋ねる。
「そう。総合判定の詳細について、別の資料を参照するよう記されている」
千冬が口を開いた。
「問題は、その別紙が今のところ確認できていないことだ」
「……じゃあ」
朔は画面を見つめた。
「異常なしっていうのは、何を確認した結果なのか分からない?」
「そういうことだ」
千冬は頷いた。
「少なくとも、これだけで操縦者の安全確認が完了していたと判断することはできん」
十蔵が続けた。
「三枝さんも、この別紙の内容については知らないそうだ」
「……そうですか」
朔は資料へ視線を落とした。
再確認要。
異常なし。
二つの判断。
そして、その間にあるはずの記録。
そこが、まだ見つかっていない。
「……この別紙を探すんですね」
朔が尋ねる。
十蔵は頷いた。
「そのつもりだよ」
◇
「もう一つ、気になる点がある」
千冬が言った。
朔が顔を上げる。
「何ですか?」
「確認者の署名だ」
画面の一部が拡大された。
報告書の下部。
作成者。
確認者。
そして、承認者。
いくつかの欄に、文字が記されている。
しかし、操縦者の状態確認に関する欄だけは、判読できる署名がなかった。
「……空欄?」
朔が呟いた。
「少なくとも、今確認できる写しではそう見える」
千冬が答えた。
「ただし、原本も空欄だったとは限らん。画像の状態が悪く、読み取れないだけかもしれない」
十蔵も頷いた。
「だから、今の段階で誰かが確認を怠ったと決めつけることはできない」
「……分かりました」
朔は画面を見つめた。
「でも、調べれば分かるかもしれないんですよね」
「ああ」
十蔵は答えた。
「当時の医療担当者か、正式な記録を保管している機関に確認する必要がある」
朔は少し考えた。
「……三枝さんは、医療担当者の名前を知ってるんですよね」
「記録を確認すれば分かるかもしれない、と話していたね」
「その人に、話を聞くことはできますか?」
十蔵は頷いた。
「所在が確認できれば、正式な方法で問い合わせるつもりだよ。ただし、相手にも守秘義務や事情がある。すぐに話が聞けるとは限らない」
「……そうですよね」
朔は小さく頷いた。
千冬が腕を組む。
「雨宮」
「はい」
「お前は、今回の資料を見てどう思った?」
朔は少し考えた。
「……まだ、分からないことが多いと思いました」
「そうだな」
「でも」
朔は画面を見つめた。
「異常なしって書かれてるからって、本当に何もなかったとは限らないんですね」
千冬は頷いた。
「そのとおりだ」
十蔵も静かに続けた。
「逆に、途中で再確認が必要だったからといって、最後まで異常が残っていたとも限らない」
「……はい」
「大切なのは、その間に何が行われたのかを確かめることだね」
朔は深く頷いた。
「……分かりました」
しばらく沈黙が続いた。
そして、朔が口を開く。
「轡木さん」
「うん?」
「もし、その別紙が見つかったら」
朔は少しだけ言葉を探した。
「……俺にも見せてもらえますか?」
十蔵は頷いた。
「もちろん。医療情報として適切な確認をしたうえで、君に関する部分は説明するよ」
朔は小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
◇
午後五時二十分。
管理棟を出ると、空には薄い雲が広がっていた。
朔はしばらく立ち止まり、右手を見つめた。
指先の痺れ。
日常生活では、ほとんど気にならない。
だが、完全には消えていない。
それが、いつから始まっていたのか。
今まで、朔は深く考えたことがなかった。
先日の戦闘で強い負荷がかかったこと。
そのあと症状が出たこと。
それは覚えている。
だが、過去にも同じようなことが起きていたのなら。
自分の知らない原因が、どこかにあるのかもしれない。
「……朔!」
背後から声がした。
振り向くと、一夏が歩いてきていた。
「一夏」
「おう。今帰りか?」
「ああ」
「医療室はどうだった?」
「前よりは良くなってるみたい。でも、まだ実技は駄目だって」
「そっか」
一夏は頷いた。
「まあ、焦らなくていいんじゃないか?」
「……そうだな」
朔は小さく笑った。
一夏が隣へ並ぶ。
「そういえば、今日の課題やったか?」
「一応」
「……早いな」
「お前は?」
「……これから」
朔は思わず笑った。
「まあ、そうだと思った」
「何だよ、それ!」
「いや、何となく」
一夏は不満そうな顔をした。
「だったら、今日も少し教えてくれよ」
「……いいけど」
「助かった!」
朔は肩をすくめた。
「でも、ちゃんと自分で考えろよ」
「分かってるって!」
その言葉に、朔はもう一度笑った。
何でもない会話。
いつもどおりの帰り道。
それが、今日は少しだけ心地よかった。
◇
午後七時四十分。
IS学園の管理棟。
十蔵は、技術担当者と医療部門から提出された確認事項を読み返していた。
机の上には、三枝が提供した二枚の資料が表示されている。
再確認要。
異常なし。
そして、別紙参照。
問題の中心は、その別紙だった。
試験中断後、操縦者の安全確認が続けられた。
それ自体は、通常の安全管理としても説明できる。
だが、その確認結果がどこに記録されたのか。
そこが分からない。
「……別紙の管理番号は?」
十蔵が尋ねる。
向かいに座る女性職員が答えた。
「報告書の下部に、一部だけ確認できます。ただし、末尾が不鮮明です」
「保管先の手掛かりにはなるか?」
「可能性はあります。少なくとも、当時の資料で使用されていた管理番号の形式とは一致しています」
十蔵は頷いた。
「ならば、その番号から照会を進めよう」
「承知しました」
職員は資料を閉じかけた。
だが、何かに気づいたように手を止める。
「……轡木さん」
「何だ?」
「この別紙参照の欄ですが」
画面の一部を拡大する。
そこには、小さな文字列が残っていた。
――操縦者接続状態。
十蔵の目が細くなった。
「……接続状態?」
「はい」
職員は頷いた。
「医療関係の情報だけでなく、ISとの接続に関する確認も含まれていた可能性があります」
十蔵は黙った。
機体の試験は中断された。
だが、操縦者の観測は続いていた。
そして、最終報告書には異常なしと記載されている。
その根拠となる別紙には、操縦者の接続状態に関する情報が含まれていたかもしれない。
「……なるほど」
十蔵は静かに呟いた。
以前、指示者から届いた言葉。
――あのとき止められたのは、機体だけではない。
その意味は、まだ分からない。
ただ、調査すべき対象が少しずつ絞られてきたことは確かだった。
「この部分は、医療担当者と技術担当者の両方に確認させよう」
十蔵が言った。
「どちらか一方だけで判断できる内容ではなさそうだ」
「承知しました」
職員は頷いた。
◇
同じ頃。
日本国内の、とある部屋。
三枝真帆は、机の上に広げた古い資料を整理していた。
IS学園へ提供した記録。
その写しを、もう一度確認する。
機体動作試験。
操縦者状態。
外部観測。
そして、最終報告。
すべて、当時の施設で使用されていた書式だった。
だが、そこには一つだけ、どうしても気になることがあった。
「……この欄」
三枝は、古い報告書を指でなぞった。
操縦者の状態確認。
別紙参照。
その下に記されていた、小さな管理番号。
三枝は、記憶をたどった。
あの日、試験中断後の記録を提出したとき。
観測室の責任者から、追加の資料を求められた。
右上肢の測定結果。
外部監視の継続記録。
そして、接続状態に関する確認結果。
そこまでは覚えている。
だが、そのあと。
誰が最終的な判断を下したのか。
それを、三枝は直接見ていなかった。
「……そうだった」
小さく呟く。
医療担当者。
観測担当者。
そして、もう一つ。
試験全体の終了を判断する責任者がいた。
あの報告書には、その人物の承認が必要だったはずだ。
三枝は古い書類を一枚取り上げた。
そこには、当時の確認経路が記されている。
観測補助。
観測責任者。
医療確認。
そして、試験終了承認。
三枝は最後の項目で指を止めた。
「……この人が」
資料には、承認担当者の欄があった。
だが、手元の控えでは名前が判読できなかった。
代わりに、部署を示す略号だけが残っている。
三枝は少し考えたあと、端末を手に取った。
学園へ、追加の連絡を送る。
――最終報告書について、一つ思い出したことがあります。
――操縦者の状態確認とは別に、試験全体の終了承認を行う担当者がいました。
――当時の承認記録が残っていれば、判定が変更された経緯を確認できる可能性があります。
送信。
三枝は小さく息を吐いた。
当時、自分が関わっていたのは観測補助だった。
試験を中断する判断も、再開する判断も、自分が下したわけではない。
最終報告の内容についても、決定権はなかった。
だが、そのことを理由に、疑問を持たなかったわけではない。
「……今度こそ、ちゃんと確認しないと」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
◇
午後九時十八分。
朔は寮の自室で、今日の診察記録を確認していた。
右腕の状態。
感覚の鈍さ。
運動機能。
そして、ISの操縦制限。
大きな変化はない。
だが、少しずつ回復している可能性はある。
それは、悪い知らせではなかった。
《本日の診察内容を保存しました》
「ありがとう」
朔は端末を机へ置いた。
今日、初めて見た報告書。
異常なし。
その言葉が、頭から離れなかった。
「……なあ」
《はい》
「昔の俺って、そんなに問題なかったのかな」
《当時の医療記録が確認できていないため、判断できません》
「……そうだよな」
朔は小さく笑った。
分からない。
それが、今の答えだった。
だが、少なくとも。
何を調べればいいのかは、少しずつ見えてきている。
過去の試験。
操縦者の状態監視。
そして、最終報告に添付されていたはずの別紙。
「……見つかるといいな」
《該当資料の探索は、学園側で進められています》
「ああ」
朔は頷いた。
それから、机の上の教科書を閉じた。
明日も授業がある。
一夏たちと会う。
そして、またいつもどおりの一日が始まる。
それは、過去を調べることとは別の、大切な時間だった。
朔は照明を落とした。
窓の外には、夜の学園が広がっている。
遠くの海に、月明かりが反射していた。
灰色のIS。
中断された試験。
異常なしと記された報告書。
そして、まだ見つかっていない確認記録。
そのどれもが、雨宮朔の過去につながっている。
だが、今の彼が知っていることは、まだわずかだった。
それでも。
以前のように、誰かから与えられる答えを待つだけではない。
自分で確かめるために、少しずつ前へ進んでいる。
朔は静かに目を閉じた。
あの試験が本当に終わったのは、いつだったのか。
そして。
誰が、何をもって「異常なし」と判断したのか。
その答えは、まだ見つかっていない。