IS〈インフィニット・ストラトス〉蒼穹の亡霊   作:右左右左右

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第28話 翌日に残された記録

『一夏さん! そちらへ進んではいけませんわ!』

 

 セシリア・オルコットの声が、通信回線に響いた。

 

『えっ!?』

 

『前方の通路は、まだ避難が完了しておりません!』

 

 直後、白式が急制動をかけた。

 

 青白い推進光が揺らぎ、機体が空中で姿勢を立て直す。

 

 その眼前を、訓練用の敵機が横切った。

 

『うわっ、危ねえ!』

 

『一夏! 後ろ!』

 

 シャルロットの警告。

 

 白式が振り向く。

 

 だが、そこへ向けられた模擬射撃は、別方向から飛来した青い光によって遮られた。

 

 ブルー・ティアーズ。

 

 セシリアの遠隔誘導兵器だった。

 

『まったく! 少しは周囲をご覧になってくださいまし!』

 

『わ、悪い! 助かった!』

 

 観覧席でその様子を見ていた雨宮朔は、小さく息を吐いた。

 

「……危なかったな」

 

 隣に立つ篠ノ之箒が、腕を組んだまま頷く。

 

「ああ。一夏はどうしても、目の前の敵に集中しすぎる」

 

「でも、今のはセシリアの判断が早かった」

 

「……そうだな」

 

 箒は訓練区域へ視線を戻した。

 

 第三アリーナ。

 

 午後の合同戦術演習。

 

 今回の課題は、港湾施設の防衛だった。

 

 敵役として設定された複数の無人機が、施設への侵入を試みる。

 

 その間、施設内の作業員を模した移動目標が、安全区域へ向かって避難する。

 

 防衛側は、避難経路を維持しながら敵役を迎撃しなければならない。

 

 単に敵を撃破すればいいわけではない。

 

 その点が、今回の演習を難しくしていた。

 

「……雨宮」

 

 背後から声がした。

 

 振り向くと、織斑千冬が立っていた。

 

「はい」

 

「今の状況をどう見る?」

 

 朔は訓練区域へ視線を戻した。

 

 施設の北側には、セシリアのブルー・ティアーズ。

 

 東側には、シャルロットのラファール・リヴァイヴ・カスタムⅡ。

 

 そして、南側へ回り込もうとしている白式。

 

「……敵役は、南側へ逃げようとしてます」

 

「そうだな」

 

「でも、南側には避難経路がある。だからセシリアは、そっちへ行かせたくないんだと思います」

 

 千冬は頷いた。

 

「続けろ」

 

「それで、北側から射撃して進路を制限してる。ただ……」

 

「ただ?」

 

 朔は少し考えた。

 

「今の位置だと、セシリア自身が動きにくいです」

 

 箒が顔を向けた。

 

「……どういうことだ?」

 

「敵役が南側へ逃げようとしたら、セシリアは射撃で止めなきゃいけない。でも、同時に一夏の援護もしてる」

 

 朔は画面を指さした。

 

「遠隔誘導兵器の操作に集中してる間、セシリア本体の移動が遅れる可能性があると思う」

 

 千冬は何も言わなかった。

 

 朔は続けた。

 

「だから、どこかで位置を変える必要があるんじゃないかな」

 

 それは、先日セシリアと話し合った内容でもあった。

 

 最初の射撃位置。

 

 敵役の誘導方向。

 

 そして、予定していた第二の射撃位置。

 

 ただ、実際の訓練では、図面どおりに物事が進むとは限らない。

 

 敵役がどう動くのか。

 

 味方がどこにいるのか。

 

 その瞬間ごとに、判断しなければならない。

 

 千冬は静かに口を開いた。

 

「……では、どうするべきだ?」

 

 朔は一瞬、答えに迷った。

 

 セシリアに移動するよう伝えることはできる。

 

 だが、今は自分が指揮官というわけではない。

 

 あくまで見学者だ。

 

「……セシリアが決めることだと思います」

 

 千冬の眉がわずかに動いた。

 

「ほう」

 

「俺は訓練区域の中にいないので。こっちから見えてることと、向こうで見えてることが同じとは限りません」

 

 朔は答えた。

 

「だから、今の段階で俺が正解を決めるのは違うと思います」

 

 千冬は、しばらく朔を見ていた。

 

 そして、小さく頷いた。

 

「……悪くない答えだ」

 

 朔は少しだけ驚いた。

 

 千冬は訓練区域へ向き直る。

 

「だが、覚えておけ。情報を持つ者が判断材料を伝えることと、判断そのものを奪うことは違う」

 

「……はい」

 

「お前が今見つけた問題も、伝え方によっては役に立つ」

 

 朔は頷いた。

 

 その言葉を、頭の中で繰り返す。

 

 情報を伝えること。

 

 判断を奪うこと。

 

 似ているようで、違うものだった。

 

     ◇

 

 訓練区域では、セシリアが状況を確認していた。

 

『……一夏さん、南側の敵機は追わないでくださいまし』

 

『え? でも、このままだと逃げられるぞ!』

 

『構いませんわ。施設から離れるのであれば、無理に追撃する必要はありません』

 

 白式が進路を変える。

 

『……分かった!』

 

 セシリアは、表示された地図へ視線を向けた。

 

 敵役の位置。

 

 味方の機体。

 

 避難中の車両。

 

 そして、自分の射撃位置。

 

 先日、朔と図書室で話した内容を思い出す。

 

 相手をどこへ逃がすか。

 

 射線をどう確保するか。

 

 それだけではない。

 

 もし、相手が予想と違う方向へ動いたら。

 

 そのとき、どうするか。

 

『……シャルロットさん』

 

『何? セシリア』

 

『少しの間、北側の警戒をお願いできます?』

 

『うん。いいよ』

 

『ありがとうございます』

 

 セシリアは、遠隔誘導兵器の配置を変えた。

 

 すべてを敵機の追尾に使うのではない。

 

 一部を、施設の北側へ残す。

 

 敵役の移動可能な方向を制限しながら、自機を別の位置へ動かす。

 

『……あれ?』

 

 一夏の声が聞こえた。

 

『セシリア、どこ行くんだ?』

 

『射撃位置を変更しますの』

 

『位置を?』

 

『ええ。こちらの方が、次の敵機へ対応しやすいでしょう?』

 

 セシリアは高度を変えた。

 

 北西側の建物。

 

 先日、朔と相談して決めた第二の射撃位置だった。

 

 だが、移動の途中。

 

 敵役の一機が、突然進路を変更した。

 

 南側ではなく、北側へ。

 

『……っ!』

 

 セシリアの表情が引き締まる。

 

 予想とは違う動き。

 

 しかも、北側には自分の機体がいる。

 

 ここで強引に射撃すれば、十分な照準を取れない可能性があった。

 

『シャルロットさん!』

 

『分かってる!』

 

 ラファールが加速する。

 

 シャルロットは機体を敵役の進路へ回り込ませた。

 

 射撃。

 

 敵機の動きが止まる。

 

 その瞬間、セシリアが射撃位置へ到達した。

 

『……今ですわ!』

 

 ブルー・ティアーズから放たれた光が、敵役へ命中した。

 

 画面に撃破判定が表示される。

 

《敵役機体、行動不能》

 

 続けて、別の表示が現れた。

 

《施設内避難、完了》

 

 訓練区域に終了音が響く。

 

 セシリアは、ようやく息を吐いた。

 

『……何とか、なりましたわね』

 

『お疲れさま、セシリア』

 

 シャルロットが笑う。

 

『いやー、最後ちょっと焦ったな!』

 

 一夏の声に、セシリアは呆れたように答えた。

 

『一夏さんは、もう少し落ち着いていただきたいですわ』

 

『うっ……』

 

 そのやり取りに、観覧席から笑い声が漏れた。

 

 朔も小さく笑った。

 

 だが、今回の演習は、ただ成功しただけではなかった。

 

 図面上では成立していた作戦が、実際に動かしてみると、いくつもの問題を抱えていた。

 

 それを、セシリアたちは自分たちで修正した。

 

 朔は、そのことが何より印象に残っていた。

 

     ◇

 

 午後三時四十八分。

 

「……朔さん!」

 

 演習後、セシリアが足早に近づいてきた。

 

「お疲れさま、セシリア」

 

「ありがとうございます」

 

 セシリアは微笑んだ。

 

 だが、すぐに表情を改める。

 

「それで、いかがでした?」

 

「……何が?」

 

「今日の演習ですわ」

 

 朔は少し考えた。

 

「……よかったと思う」

 

「本当ですの?」

 

「ああ。途中で位置を変えた判断もよかったし、シャルとの連携も上手かった」

 

 セシリアは嬉しそうに頷いた。

 

「ふふ。ありがとうございます」

 

「ただ、最後はちょっと危なかったな」

 

 その言葉に、セシリアの表情が変わった。

 

「……やはり、そう思われます?」

 

「うん」

 

 朔は頷いた。

 

「第二の射撃位置へ移る途中で、敵役が北側へ動いたから」

 

「……ええ」

 

 セシリアは腕を組んだ。

 

「そこは、わたくしも反省していますわ」

 

「でも、シャルが対応できる位置にいたから助かった」

 

「そうですわね」

 

 少しの沈黙。

 

 やがて、セシリアが口を開いた。

 

「……先日、朔さんがおっしゃっていましたわね」

 

「何を?」

 

「一人ですべてを何とかしようとする必要はない、と」

 

 朔は思わず目を瞬いた。

 

「……そんなこと言ったっけ?」

 

「正確には、わたくしが申し上げたことですけれど」

 

 セシリアは少しだけ笑った。

 

「でも、今日の演習で、その意味がよく分かりましたわ」

 

 彼女は訓練区域へ視線を向けた。

 

「わたくし一人で敵機を追い続けていたら、きっと別の結果になっていました」

 

「……そうかもな」

 

「ですが、シャルロットさんがいて、一夏さんも別の方向を守っていたから、わたくしは位置を変えることができました」

 

 朔は頷いた。

 

「そうだな」

 

 セシリアは、少し照れくさそうに微笑んだ。

 

「……次は、もっと上手くやってみせますわ」

 

「期待してる」

 

「ふふ。当然ですわ!」

 

 そのとき、背後から声がした。

 

「朔! セシリア!」

 

 一夏だった。

 

 隣にはシャルロットもいる。

 

「二人で何話してたんだ?」

 

「今日の演習の反省」

 

 朔が答える。

 

「あー……」

 

 一夏は少しだけ顔をしかめた。

 

「俺もやった方がいいかな」

 

「当然ですわ!」

 

 セシリアが即答した。

 

「一夏さんは、特にです!」

 

「何で俺だけ!?」

 

「最初に避難経路へ入りかけたのは、どなたでした?」

 

「……俺です」

 

「それから、敵機を追おうとして進路を変えたのは?」

 

「……俺です」

 

「お分かりになりました?」

 

「……はい」

 

 シャルロットが笑いを堪えきれずに吹き出した。

 

 朔も思わず笑った。

 

 一夏は不満そうに二人を見た。

 

「お前らまで笑うなよ!」

 

「いや、ごめん」

 

 朔は笑いながら答えた。

 

「でも、今のはお前が悪いと思う」

 

「……味方がいねえ!」

 

 その声に、周囲の生徒たちも笑った。

 

 午後のアリーナには、いつもどおりの賑やかな空気が広がっていた。

 

     ◇

 

 午後四時二十六分。

 

 IS学園の管理棟。

 

 轡木十蔵は、三枝真帆から届いた新しい資料を確認していた。

 

「……これが、『翌日確認』の記録かい?」

 

「はい」

 

 向かいに座る職員が頷いた。

 

「三枝さんが保管していた作業記録の写しです。昨夜、追加で提供されました」

 

 机上の画面には、古い紙の画像が表示されている。

 

 試験の日付。

 

 設備管理番号。

 

 観測補助担当者の記録。

 

 そして、手書きの文字。

 

 ――翌日確認。

 

 十蔵は、その部分を見つめた。

 

「……これだけでは、何を確認する予定だったのか分からないね」

 

「はい。ただ、三枝さんからは、もう一つ情報が届いています」

 

 職員は別の画像を表示した。

 

 それは、先ほどの紙の裏面だった。

 

 上部に、短い管理番号が記されている。

 

「こちらです」

 

 十蔵は画面を見た。

 

 管理番号の末尾。

 

 そして、その下に記された項目。

 

 ――操縦者状態 再確認依頼。

 

 十蔵の表情が変わった。

 

「……なるほど」

 

「三枝さんは、この裏面について、当時はほとんど意識していなかったそうです」

 

「そうか」

 

 十蔵は資料を見つめた。

 

 表面には、翌日確認。

 

 裏面には、操縦者状態の再確認依頼。

 

 同じ紙に記されていることは、確かに気になる。

 

 だが、それだけで両者が同じ作業を指しているとは限らない。

 

「……管理番号を照合できるかい?」

 

 十蔵が尋ねる。

 

「はい。現在、確認を進めています」

 

 職員は答えた。

 

「ただし、正式な保管記録と一致するかどうかは、まだ分かりません」

 

 十蔵は頷いた。

 

「ならば、そこからだね」

 

「承知しました」

 

「それと、三枝さんへも確認しておこう。裏面の文字を見て当時の状況を思い出したのか、それとも、記録を読んで初めて意味を考えたのか」

 

「……分かりました」

 

 十蔵は資料を閉じた。

 

 記憶と記録。

 

 その二つは、似ているようで違う。

 

 記録に残された文字を見れば、当時の出来事を思い出すこともある。

 

 だが、そこへ現在の推測が混ざることもある。

 

 調査を進める以上、その違いは慎重に扱わなければならなかった。

 

     ◇

 

 午後五時十一分。

 

 朔は医療室で、担当医から新しい説明を受けていた。

 

「……三枝さんが、また資料を?」

 

「はい」

 

 担当医は頷いた。

 

「ただし、今日は医学的な診断についての話ではありません」

 

「……そうなんですか?」

 

「ええ。過去の記録について、管理番号を照合しているところなんです」

 

 朔は少し考えた。

 

「……管理番号?」

 

「あなたの試験後の状態確認に関する資料が、当時どのように扱われていたのかを調べています」

 

 担当医は端末を操作した。

 

 画面には、以前確認された資料目録が表示されている。

 

 ――操縦者状態監視経過。

 

 ――接続状態確認。

 

 ――試験後再確認に関する記録。

 

「これは、前にも見せてもらいました」

 

 朔が言った。

 

「そうですね」

 

 担当医は頷いた。

 

「今回、三枝さんの手元に残っていた作業記録に、この最後の項目と関係がありそうな記載が見つかりました」

 

「……再確認?」

 

「はい」

 

 朔は画面を見つめた。

 

 昨日から、ずっと気になっていた言葉だった。

 

 試験後の再確認。

 

 自分は、何かを確認される予定だったのか。

 

 それとも、実際に確認を受けていたのか。

 

「……先生」

 

「はい?」

 

「俺、その確認を受けた記憶がないんですけど」

 

 担当医は静かに頷いた。

 

「そうですね」

 

「でも、もし受けてたら、記録が残ってるかもしれないんですよね」

 

「可能性はあります」

 

 朔は少し考えた。

 

「……受けてない可能性も?」

 

「もちろんあります」

 

 担当医は答えた。

 

「予定されていた確認が中止になることもありますし、別の確認方法へ変更されることもあります」

 

「……なるほど」

 

「だから、まずは実施されたかどうかを確かめる必要があるんです」

 

 朔は頷いた。

 

 その説明は、よく理解できた。

 

 記録に『翌日確認』と書かれている。

 

 だからといって、自分が翌日に検査を受けたとは限らない。

 

 同じように。

 

 最終報告書に『異常なし』と書かれているからといって、何の問題もなかったとは限らない。

 

 言葉だけを見ても、その前後で何が起きたのかは分からない。

 

「……何だか、難しいですね」

 

 朔は小さく笑った。

 

 担当医も微笑んだ。

 

「そうですね。でも、今の段階で焦って答えを出す必要はありません」

 

「……はい」

 

 朔は頷いた。

 

 そのとき、担当医がもう一度画面へ目を向けた。

 

「……あら」

 

「どうかしました?」

 

「管理部門から、追加の照合結果が届いたようです」

 

 朔は顔を上げた。

 

 担当医は画面を確認する。

 

 少しの沈黙。

 

 そして、静かに口を開いた。

 

「……管理番号が、一部一致したそうです」

 

「……一致?」

 

「はい。三枝さんの作業記録に記されていた番号と、医療管理資料の目録にある番号です」

 

 朔は思わず身を乗り出した。

 

「じゃあ……」

 

「ただし、まだ完全な照合ではありません」

 

 担当医は続けた。

 

「同じ試験に関する資料である可能性は高まりましたが、同じ確認作業を指しているかどうかまでは、まだ判断できません」

 

 朔は頷いた。

 

「……分かりました」

 

 それでも、少しだけ胸が高鳴った。

 

 今まで別々に見えていた記録。

 

 その二つが、同じところへつながり始めている。

 

 少なくとも、そんな気がした。

 

     ◇

 

 午後六時三十二分。

 

 朔が医療室を出ると、廊下の向こうから一夏が歩いてきた。

 

「お、朔!」

 

「一夏」

 

「今帰りか?」

 

「ああ」

 

「じゃあ、一緒に食堂行こうぜ。シャルたちも待ってる」

 

「分かった」

 

 二人は並んで歩き始めた。

 

 窓の外では、夕日が海に反射している。

 

 六月の空は、少しずつ暗くなり始めていた。

 

「……なあ、朔」

 

 一夏が口を開いた。

 

「ん?」

 

「今日の演習、どうだった?」

 

「……よかったと思うよ」

 

「本当か?」

 

「ああ。セシリアもシャルも、途中で上手く判断してたし」

 

「……俺は?」

 

 朔は少し考えた。

 

「……勢いはよかった」

 

「それ、褒めてるのか?」

 

「一応」

 

「一応って何だよ!」

 

 朔は笑った。

 

 一夏も苦笑する。

 

 少しの間、二人は並んで歩いた。

 

 やがて、一夏が口を開いた。

 

「……でもさ」

 

「ん?」

 

「今日、ちょっと悔しかったんだよな」

 

 朔は顔を向けた。

 

「……何が?」

 

「俺、敵を倒すことばっかり考えてた」

 

 一夏は少しだけ視線を落とした。

 

「もちろん、施設を守るためなんだけどさ。でも、セシリアに止められなかったら、避難経路に入ってたかもしれない」

 

 朔は黙って聞いていた。

 

「……俺、まだ全然周りが見えてないなって」

 

 その言葉に、朔は少し考えた。

 

「……でも、止まれただろ」

 

「え?」

 

「セシリアに言われて、ちゃんと止まった」

 

 朔は答えた。

 

「それって、結構大事だと思う」

 

 一夏は少し驚いた顔をした。

 

「……そうか?」

 

「ああ」

 

 朔は頷いた。

 

「間違えそうになったとき、誰かの言葉を聞けるなら、次はもっと上手くできると思う」

 

 一夏は、しばらく黙っていた。

 

 それから、小さく笑った。

 

「……そっか」

 

「ああ」

 

「じゃあ、次はもう少し上手くやってみるか」

 

「期待してる」

 

 朔は笑った。

 

 そのとき、一夏が思い出したように口を開いた。

 

「そういえば、朔」

 

「何?」

 

「お前、今日セシリアと話してたとき、結構楽しそうだったな」

 

 朔は少し驚いた。

 

「……そう見えた?」

 

「ああ。何か、普通に笑ってたし」

 

「普通に笑うくらいするだろ」

 

「まあ、そうなんだけど」

 

 一夏は笑った。

 

「最初の頃より、ずいぶん学校に慣れたなって」

 

 朔は、少しだけ黙った。

 

 最初の頃。

 

 学園へ来たばかりの自分。

 

 誰と何を話せばいいのかも分からず、ただ指示された場所へ向かっていた。

 

 あの頃と比べれば、確かに変わったのかもしれない。

 

「……そうだな」

 

 朔は小さく笑った。

 

「少しは、慣れたと思う」

 

 一夏は嬉しそうに頷いた。

 

「そっか。ならよかった」

 

 その言葉を聞きながら、朔は夕暮れの通路を歩いた。

 

     ◇

 

 午後八時十二分。

 

 IS学園の管理棟。

 

 十蔵は、三枝から提供された資料と、医療管理部門の受領台帳を並べていた。

 

 向かいには、千冬が座っている。

 

「……管理番号が一致したのですか?」

 

 千冬が尋ねた。

 

「ああ。ただし、完全な一致ではない」

 

 十蔵は答えた。

 

「三枝さんの記録にある番号は、医療管理資料の目録に記された管理番号の一部と一致している」

 

「同じ試験に関するものと考えてよさそうですね」

 

「その可能性は高いね」

 

 十蔵は頷いた。

 

「だが、記録の内容まではまだ分からない」

 

 千冬は画面を見つめた。

 

 ――操縦者状態 再確認依頼。

 

 その文字が、静かに表示されている。

 

「……依頼、ですか」

 

「ああ」

 

「実施されたことを示す記録ではない」

 

「そういうことだね」

 

 十蔵は頷いた。

 

 少し間を置く。

 

「ただ、今回の照合で一つ分かったことがある」

 

 千冬が顔を上げる。

 

「何ですか?」

 

「当時、操縦者の状態について、別途確認を求める手続きが存在していた可能性が高い」

 

 千冬は腕を組んだ。

 

「……なるほど」

 

 十蔵は続けた。

 

「そして、その確認が行われたかどうかは、現在の資料だけでは分からない」

 

 千冬は静かに頷いた。

 

 以前から、問題になっていたこと。

 

 最終報告書には『異常なし』と書かれている。

 

 だが、その判断の根拠となる資料は、まだ確認できていない。

 

 さらに、試験後の再確認についても、実施状況が分からない。

 

「……確認すべきことが、また増えましたね」

 

 千冬が言った。

 

「そうだね」

 

 十蔵は小さく笑った。

 

「だが、今度は調べる場所が分かっている」

 

「……医療管理部門ですか」

 

「ああ」

 

 十蔵は頷いた。

 

「既に本人の同意も得ている。あとは、正式な手続きに従って確認を進めるだけだ」

 

 千冬は少し考えた。

 

「……轡木さん」

 

「何だい?」

 

「当時の医療担当者についても、並行して調べるべきでしょう」

 

 十蔵は顔を上げた。

 

「……そうだね」

 

「三枝さんは、最終報告書の判断に直接関わっていません。ならば、当時その判断を下した人物に確認する必要があります」

 

「そのとおりだ」

 

 十蔵は資料を閉じた。

 

「医療担当者と、試験全体の終了承認者。それぞれが何を確認したのか、整理しよう」

 

 千冬は頷いた。

 

「……はい」

 

 会議室に、短い沈黙が流れる。

 

 やがて、十蔵が窓の外へ視線を向けた。

 

 夜の学園。

 

 遠くの寮に、明かりが灯っている。

 

 今頃、雨宮朔は自室で明日の準備をしているのだろう。

 

 過去の試験を調べること。

 

 それは、少年自身が選んだ道だ。

 

 だが、調査の結果によっては、知りたくなかったことまで明らかになるかもしれない。

 

「……少しずつ、だな」

 

 十蔵が呟く。

 

 千冬は顔を向けた。

 

「何か?」

 

「いや」

 

 十蔵は小さく首を振った。

 

「本人が、そう望んでいるからね」

 

     ◇

 

 午後九時三十四分。

 

 朔は寮の自室で、机に向かっていた。

 

 今日の授業で出された課題は、既に終わっている。

 

 机の端には、セシリアと作成した戦術図が保存されていた。

 

 朔は、それをもう一度開いた。

 

 港湾施設。

 

 敵役の進路。

 

 射撃位置。

 

 そして、避難経路。

 

 今日の演習では、すべてが予定どおりに進んだわけではなかった。

 

 だが、セシリアたちは自分たちで状況を判断し、作戦を修正した。

 

 その結果、施設を守ることができた。

 

「……やっぱり、面白いな」

 

《何についてでしょうか?》

 

「戦術のこと」

 

 朔は答えた。

 

「考えたとおりにいかないところも含めて」

 

《予定外の事象に対応するためには、状況に応じた判断が必要です》

 

「そうだな」

 

 朔は頷いた。

 

 自分が知っていること。

 

 相手が知っていること。

 

 そして、実際に起きていること。

 

 そのすべてが一致するとは限らない。

 

 だからこそ、確認しながら判断する必要がある。

 

 今日の演習は、そんなことを改めて考えさせられるものだった。

 

 朔は戦術図を閉じた。

 

 次に、学園から届いた医療記録の調査状況を開く。

 

 ――操縦者状態 再確認依頼。

 

 その文字が、画面に表示される。

 

「……再確認、か」

 

 朔は呟いた。

 

 昔の試験。

 

 灰色のIS。

 

 試験中断の警告。

 

 そして、観測室。

 

 そのあとに、何かを確認する予定があった。

 

 少なくとも、そんな記録が残されている。

 

 だが、何を確認したのか。

 

 実際に確認したのか。

 

 その結果は、どうだったのか。

 

 まだ、分からない。

 

「……なあ」

 

《はい》

 

「昔の記録って、見つかると思うか?」

 

《現時点では、保存されている可能性が確認されています》

 

「……そうだな」

 

 朔は小さく笑った。

 

「でも、見つからないかもしれない」

 

《はい》

 

 朔は頷いた。

 

 それでも、調べることをやめるつもりはなかった。

 

 以前なら、誰かに言われるまま動いていた。

 

 過去について聞かされなければ、そのままにしていた。

 

 だが、今は違う。

 

 自分のことを、自分で知りたい。

 

 そのために、学園の人たちが協力してくれている。

 

 そして。

 

 自分には、ここで過ごす時間もある。

 

 一夏たちと話す。

 

 セシリアと戦術を考える。

 

 シャルロットの訓練を見学する。

 

 ラウラと意見を交わす。

 

 そんな日常が、少しずつ自分のものになっている。

 

 朔は端末を閉じた。

 

 窓の外には、夜のIS学園が広がっている。

 

 寮の明かり。

 

 静かな校舎。

 

 遠くの海。

 

 そして、その向こう側にある、自分の知らない過去。

 

 あの日、機体の試験は中断された。

 

 操縦者の観測は、その後も続けられていた。

 

 さらに、翌日には何かを再確認する手続きが予定されていた可能性がある。

 

 その事実は、少しずつ形になってきている。

 

 だが。

 

 誰が、何を確認しようとしていたのか。

 

 そして、それが実際に行われたのか。

 

 その答えは、まだ見つかっていない。

 

 朔は静かに目を閉じた。

 

 過去は変えられない。

 

 だが、過去に何があったのかを知ることはできるかもしれない。

 

 そのために、今は少しずつ前へ進むだけだった。

 

     ◇

 

 同じ頃。

 

 日本国内の、とある部屋。

 

 三枝真帆は、古い資料を机に広げていた。

 

 先ほど、IS学園から管理番号についての確認が届いた。

 

 自分が保管していた作業記録。

 

 その裏面に記されていた番号が、医療管理資料の目録と一部一致したという。

 

 三枝は、もう一度その紙を手に取った。

 

 ――翌日確認。

 

 ――操縦者状態 再確認依頼。

 

 そして、その下。

 

 小さな文字が残されていた。

 

 三枝は、紙を照明に近づけた。

 

「……これは」

 

 かすれた文字。

 

 以前は、ほとんど気にしていなかった部分だった。

 

 だが、今になって見ると、一つの項目として読める。

 

 ――結果票。

 

 その右側。

 

 小さな記号が付いていた。

 

 書類の受領を示すものなのか。

 

 単なる作業上の印なのか。

 

 そこまでは分からない。

 

 三枝は、しばらくその文字を見つめていた。

 

 もし、結果票が作成されていたのなら。

 

 再確認が実際に行われた可能性がある。

 

 だが、それだけで実施済みとは判断できない。

 

 結果票を作成する予定だっただけかもしれない。

 

 三枝は静かに息を吐いた。

 

「……まだ、ある」

 

 小さく呟く。

 

 あの日の記録は、完全に失われたわけではなかった。

 

 少なくとも、作成された可能性のある書類を示す手掛かりが残っている。

 

 三枝は端末を手に取った。

 

 IS学園へ、新しい連絡を送る。

 

 ――先ほどの作業記録について、追加で確認したい項目があります。

 

 ――再確認依頼の下に、「結果票」と読める記載が残されています。

 

 ――ただし、実際に結果票が作成されたことを示すものかどうかは不明です。

 

 送信。

 

 三枝は椅子の背にもたれた。

 

 古い試験施設。

 

 灰色のIS。

 

 そして、あの日観測室にいた少年。

 

 雨宮朔。

 

 彼が知ろうとしている過去は、まだすべて明らかになったわけではない。

 

 だが。

 

 あの日の試験が終わったあとにも、何かを確認する必要があった。

 

 そして、その確認結果を記録するための手続きが存在した可能性がある。

 

 三枝は目を閉じた。

 

 当時、自分が関わっていたのは観測補助だった。

 

 最終判断を下す立場ではなかった。

 

 それでも。

 

 あのとき確認が必要だと伝えたことだけは、今も覚えている。

 

「……今度こそ」

 

 小さく呟く。

 

 誰に聞かせるでもない声だった。

 

 机の上には、古い紙が残されていた。

 

 その片隅に記された、一つの文字。

 

 ――結果票。

 

 それが何を意味するのか。

 

 答えは、まだ見つかっていなかった。

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