IS〈インフィニット・ストラトス〉蒼穹の亡霊   作:右左右左右

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第29話 記録が示した空白

 午前八時二十三分。

 

「……それで、一夏さん」

 

「はい」

 

「昨日の演習で、わたくしが何度注意したか覚えていらっしゃいます?」

 

「……三回?」

 

「五回ですわ!」

 

 一年一組の教室に、セシリア・オルコットの声が響いた。

 

 織斑一夏は、何とも言えない表情で頭をかく。

 

「いや、でもさ。最後はちゃんと敵を倒しただろ?」

 

「結果だけの問題ではありません!」

 

 セシリアは腰に手を当てた。

 

「施設の防衛が目的なのですから、周辺への被害を考えずに突撃しては本末転倒ですわ!」

 

「……はい」

 

 珍しく素直に頷いた一夏を見て、近くの席にいたシャルロット・デュノアが笑った。

 

「一夏、昨日は結構危なかったもんね」

 

「シャルまで……」

 

「でも、最後はちゃんと連携できたし、次はもっと上手くできると思うよ」

 

「……だよな!」

 

「だから、次は最初から周りを見ようね」

 

「結局そこかよ!」

 

 周囲から笑い声が上がる。

 

 雨宮朔も、その様子を見ながら小さく笑っていた。

 

「……朔」

 

 隣から声がした。

 

 篠ノ之箒だった。

 

「お前は昨日の演習、どう思った?」

 

「……昨日の?」

 

「ああ。セシリアの戦術についてだ」

 

 朔は少し考えた。

 

「よかったと思うよ」

 

「……そうか」

 

「ただ、予想と違う動きをされたときの対応は、まだ改善できそうだった」

 

 箒が頷いた。

 

「確かにな。最後はシャルロットの援護がなければ、対応が遅れていたかもしれん」

 

「でも、それも含めて連携だろ?」

 

 朔は答えた。

 

「一人で全部できる必要はないし」

 

「……なるほど」

 

 箒は少し考え込んだ。

 

 そのとき、一夏がこちらへ顔を向けた。

 

「朔! お前まで俺を責めるのか!?」

 

「……何でそうなる?」

 

「だって、さっきからみんな昨日のことばっかり言うんだぞ!」

 

 朔は思わず笑った。

 

「いや、俺はセシリアの話してただけだけど」

 

「……そうなのか?」

 

「そうだよ」

 

 シャルロットが横から口を挟む。

 

「一夏、ちょっと被害妄想が入ってない?」

 

「おい!」

 

 再び笑い声が広がった。

 

 朔は、その光景を眺めた。

 

 つい最近まで、自分はここにいなかった。

 

 誰かと授業の話をしたり、訓練の反省をしたり。

 

 そんな日常とは、無縁の場所にいた。

 

 だが、今は違う。

 

 ここには、自分の席がある。

 

 そして、こうして声をかけてくれる人間がいる。

 

「……雨宮」

 

 不意に名前を呼ばれた。

 

 教室の入口に、織斑千冬が立っていた。

 

「はい」

 

「少し来い」

 

 朔は顔を上げた。

 

「……今ですか?」

 

「ああ。始業まで時間はある」

 

「分かりました」

 

 立ち上がると、一夏が心配そうに顔を向けた。

 

「また何かあったのか?」

 

「……分からない」

 

 朔は小さく肩をすくめた。

 

「すぐ戻るよ」

 

 そう言って、教室を出た。

 

     ◇

 

 廊下を少し歩いたところで、千冬が足を止めた。

 

「雨宮。昨日の医療記録の件だ」

 

 朔の表情が変わった。

 

「……結果票ですか?」

 

「ああ」

 

 千冬は頷いた。

 

「三枝真帆さんが見つけた記載について、保管先から新しい回答があった」

 

「……何か分かったんですか?」

 

「詳しい内容は、医療担当者から説明を受けろ。私から勝手に話すべきものではない」

 

「……はい」

 

「ただし、本人に確認できる資料が届いたそうだ」

 

 朔は思わず息を止めた。

 

「……本当に?」

 

「ああ」

 

 千冬は続けた。

 

「放課後、医療室で説明を受けることになる。それまで通常の授業を受けろ」

 

「……分かりました」

 

「それと」

 

 千冬は、朔の右腕へ目を向けた。

 

「資料に何が書かれていても、今の身体の状態については担当医の判断に従え」

 

「はい」

 

「勝手に試そうなどとは考えるなよ」

 

 朔は苦笑した。

 

「……そんなことしませんよ」

 

「ならいい」

 

 千冬は短く答えた。

 

 そして、教室へ向かって歩き始めた。

 

 朔もその後に続く。

 

 結果票。

 

 試験翌日の再確認。

 

 それらが何を意味しているのか。

 

 ようやく、確かめられるかもしれない。

 

 そう思うと、胸の奥が落ち着かなかった。

 

     ◇

 

 午前十一時五十八分。

 

 IS学園の管理棟。

 

 轡木十蔵は、医療部門の担当者と資料を確認していた。

 

 画面には、古い記録の写しが表示されている。

 

 ――操縦者状態再確認・結果票。

 

 これまで探していた資料だった。

 

「……現物の確認が取れたんだね」

 

 十蔵が尋ねる。

 

「はい」

 

 担当者が頷いた。

 

「現在の保管機関が、該当する資料を確認しました。管理番号も、以前の受領台帳と一致しています」

 

「内容については?」

 

「本人に関係する部分について、担当医が閲覧できるようになりました」

 

 十蔵は頷いた。

 

 何度も照会を重ね、ようやく資料そのものへ辿り着いた。

 

 だが、担当者の表情は明るくなかった。

 

「……何か問題があるのかい?」

 

「はい」

 

 担当者は画面を切り替えた。

 

「結果票は存在していました。ただし、記載されていた内容が、当初想定していたものと異なります」

 

「……というと?」

 

 担当者は、資料の一部を指さした。

 

 そこには、短い文字が記されていた。

 

 ――翌日再確認。

 

 ――実施区分:未実施。

 

 十蔵の目が細くなる。

 

「……未実施?」

 

「はい」

 

 担当者は頷いた。

 

「少なくとも、この施設で予定されていた翌日の再確認については、実施されなかったと記録されています」

 

 十蔵は黙った。

 

 これまでの調査では、試験後に何らかの確認が行われた可能性を探っていた。

 

 だが、今確認されたのは、その逆だった。

 

 確認する予定はあった。

 

 しかし、当該施設では実施されなかった。

 

「……理由は?」

 

 十蔵が尋ねる。

 

 担当者は資料の下部を表示した。

 

 そこには、手書きの短い記載が残されていた。

 

 ――対象者移動につき、当施設での実施なし。

 

 十蔵は、しばらくその文章を見つめていた。

 

「……対象者が移動した?」

 

「そのようです。ただし、移動先で改めて確認されたかどうかは、この資料からは分かりません」

 

「……そうか」

 

 十蔵は腕を組んだ。

 

 試験中断。

 

 操縦者の状態監視。

 

 再確認の依頼。

 

 そして、実施されなかった翌日の確認。

 

 その理由は、対象者の移動。

 

 ここまで来て、ようやく一つの事実が見えてきた。

 

 少なくとも、予定されていた再確認の一つは、実施されないまま終わっていた。

 

「……移動の記録は残っているかい?」

 

「別の管理番号が記載されています」

 

「確認できる?」

 

「照会は可能です。ただし、そちらは医療記録ではなく、当時の施設運用に関する資料のようです」

 

 十蔵は頷いた。

 

「分かった。正式な手続きを確認してくれ」

 

「承知しました」

 

 担当者が退出する。

 

 十蔵は、机上の資料を見つめた。

 

 ――対象者移動につき、当施設での実施なし。

 

 これまでの疑問が、少しだけ形を変えた。

 

 なぜ記録が見つからないのか。

 

 それだけではない。

 

 なぜ、確認を終えていない段階で、対象者は別の場所へ移動したのか。

 

 そして。

 

 誰が、その移動を決めたのか。

 

     ◇

 

 昼休み。

 

「……朔、今日あんまり食べてないね」

 

 シャルロットの声に、朔は顔を上げた。

 

「……そうか?」

 

「うん。さっきから、ほとんど進んでないよ」

 

 朔は自分の皿を見た。

 

 確かに、いつもより食事が残っていた。

 

「……ちょっと考え事してた」

 

「そっか」

 

 シャルロットは頷いた。

 

 その向かいにいた一夏が、心配そうに口を開く。

 

「腕のことか?」

 

「……それもある」

 

 朔は少し考えた。

 

「放課後、昔の記録について説明を受けることになってるんだ」

 

「……そうなのか」

 

 一夏は頷いた。

 

「何か分かったのか?」

 

「まだ、聞いてない」

 

「そっか」

 

 少しの沈黙。

 

 朔は箸を置いた。

 

 すると、隣からセシリアが声をかけてきた。

 

「朔さん」

 

「ん?」

 

「午後の授業が終わったら、少しお時間はあります?」

 

「……今日は、放課後に予定があって」

 

「あら。そうでしたの」

 

 セシリアは少し考えた。

 

「では、また別の日にいたしましょう」

 

「……何かあった?」

 

「昨日の演習について、もう少し検討したいことがありまして」

 

 セシリアは微笑んだ。

 

「朔さんに、またご意見を伺いたかったのですわ」

 

 朔は少し驚いた。

 

「……俺に?」

 

「ええ」

 

「……別に、そんなに詳しいわけじゃないけど」

 

「ですが、わたくしとは違う視点から考えてくださいますもの」

 

 セシリアは当然のように答えた。

 

「それが参考になるのです」

 

 朔は少し黙った。

 

 自分の過去を調べること。

 

 それは、今の自分にとって重要だった。

 

 だが、セシリアと戦術について考える時間も、同じくらい大切にしたかった。

 

「……じゃあ、明日はどう?」

 

 朔が尋ねる。

 

 セシリアの表情が明るくなった。

 

「ええ! もちろんですわ!」

 

「よかった」

 

 朔は小さく笑った。

 

 そのとき、一夏が口を開いた。

 

「……なあ、朔」

 

「何?」

 

「俺も参加していいか?」

 

「別にいいけど」

 

「よし!」

 

 だが、セシリアがすぐに口を挟んだ。

 

「一夏さん」

 

「ん?」

 

「参加されるのであれば、昨日の演習についての反省点を、きちんと整理してきてくださいまし」

 

「……え?」

 

「まさか、何も考えていらっしゃらないのでは?」

 

「い、いや! ちゃんと考えてるって!」

 

「でしたら、明日確認いたしますわ」

 

「……はい」

 

 シャルロットが笑った。

 

 朔も思わず笑う。

 

 昼休みの食堂。

 

 いつもどおりの会話。

 

 その時間が、少しだけ朔の気持ちを軽くした。

 

     ◇

 

 午後四時十四分。

 

 IS学園の医療室。

 

 朔は、担当医の向かいに座っていた。

 

 机上の端末には、一枚の古い記録が表示されている。

 

「……これが、結果票ですか?」

 

 朔が尋ねた。

 

「はい」

 

 担当医は頷いた。

 

「正式な保管先から、あなたに関する部分を確認できるようになりました」

 

 朔は画面を見つめた。

 

 ――操縦者状態再確認・結果票。

 

 そこには、以前から調べていた管理番号が記されていた。

 

 試験の日付。

 

 操縦者の識別情報。

 

 そして、確認予定日。

 

「……翌日になってる」

 

 朔が呟いた。

 

「そうですね」

 

 担当医は頷いた。

 

「試験の翌日に、状態を再確認する予定があったようです」

 

「……それで、結果は?」

 

 担当医は少しだけ間を置いた。

 

「雨宮君。まず、こちらを見てください」

 

 画面の一部が拡大される。

 

 ――実施区分:未実施。

 

 朔の表情が変わった。

 

「……未実施?」

 

「はい」

 

「……じゃあ、検査はしなかったんですか?」

 

「少なくとも、この施設で予定されていた翌日の再確認は、実施されていません」

 

 朔は画面を見つめた。

 

 担当医は続ける。

 

「ただし、別の施設で確認された可能性までは否定できません。その記録は、まだ見つかっていませんから」

 

「……そうですか」

 

 朔は頷いた。

 

 少し考えてから、尋ねる。

 

「……何で実施しなかったんですか?」

 

 担当医は、資料の下部を表示した。

 

 そこには、短い文章が記されていた。

 

 ――対象者移動につき、当施設での実施なし。

 

 朔は、しばらく動かなかった。

 

「……移動?」

 

「はい」

 

 担当医は静かに頷いた。

 

「この記録では、翌日の確認を行う前に、対象者が施設の外へ移動したことになっています」

 

 朔は画面を見つめた。

 

 昔の試験。

 

 白い廊下。

 

 観測室。

 

 そして、誰かに案内されて歩いた記憶。

 

 それらが、頭の中に浮かんだ。

 

「……俺が、ですか?」

 

「記録上は、そうなっています」

 

 朔は少しだけ息を吐いた。

 

「……覚えてない」

 

 小さな声だった。

 

「試験が終わったあと、別の場所へ移動したことは覚えてます。でも……」

 

 言葉が止まる。

 

 どこへ行ったのか。

 

 誰と一緒だったのか。

 

 その部分は、はっきりしなかった。

 

 担当医は静かに待っていた。

 

 朔は、少し考えてから口を開いた。

 

「……先生」

 

「はい」

 

「俺、あのとき何か問題があったんですよね?」

 

 担当医は慎重に答えた。

 

「試験中断後に、状態の再確認が必要と判断されたことは、これまでの資料からうかがえます」

 

「……はい」

 

「ただし、具体的にどのような問題があったのか、どの程度のものだったのかは、まだ判断できません」

 

 朔は頷いた。

 

「……それなのに、移動したんですか?」

 

「そう記録されています」

 

「……何で?」

 

 担当医は首を振った。

 

「そこまでは、この資料からは分かりません」

 

 朔は黙った。

 

 再確認が必要だった。

 

 だが、翌日の確認は行われなかった。

 

 その理由は、対象者の移動。

 

 そして、自分には、その移動についてはっきりした記憶がない。

 

「……これって」

 

 朔は小さく呟いた。

 

「俺が、勝手に出ていったってことなんですか?」

 

 担当医はすぐに首を振った。

 

「いいえ。そう判断することはできません」

 

 朔は顔を上げた。

 

「この資料には、移動があったことしか記されていません。本人の希望だったのか、誰かの判断だったのかは分からないんです」

 

「……そうですか」

 

「それから、当時の記憶が曖昧だからといって、何か特別な異常があったと決めつけることもできません」

 

 朔は静かに頷いた。

 

 担当医は続けた。

 

「大切なのは、今確認できる事実と、まだ分からないことを分けることです」

 

「……はい」

 

「そして、現在の右腕の症状については、引き続き今の診察結果をもとに判断します」

 

 朔は少しだけ笑った。

 

「……やっぱり、実技はまだ駄目ですよね」

 

「はい」

 

 担当医は即答した。

 

 朔は苦笑した。

 

 だが、今はその答えが少しだけありがたかった。

 

 少なくとも、今の自分については、きちんと説明してもらえる。

 

 それだけでも、昔とは違っていた。

 

     ◇

 

 午後五時二十七分。

 

 管理棟の小会議室では、朔と千冬、十蔵が向かい合っていた。

 

 机の上には、先ほどの結果票が表示されている。

 

「……移動の記録を調べたいです」

 

 朔が言った。

 

 十蔵は頷いた。

 

「そう言うと思っていたよ」

 

「……いいんですか?」

 

「もちろん。君自身に関する記録だからね」

 

 十蔵は画面を操作した。

 

「ただし、今回の資料から分かったことを、もう一度整理しておこう」

 

 朔は頷いた。

 

「はい」

 

「まず、試験中断後に操縦者の状態確認が続けられていたこと」

 

「……はい」

 

「次に、翌日の再確認が予定されていたこと」

 

 朔は頷く。

 

「そして、その再確認は、少なくとも当該施設では実施されなかった」

 

「……移動したから」

 

「そうだね」

 

 十蔵は続けた。

 

「ただし、別の場所で確認されたかどうかは不明だ。だから、そこも調べる必要がある」

 

 朔は静かに頷いた。

 

 千冬が口を開いた。

 

「雨宮」

 

「はい」

 

「お前は、当時の移動について何か覚えているか?」

 

 朔は少し考えた。

 

「……試験が終わったあと、誰かに案内されて通路を歩いたことは覚えています」

 

「それは以前にも聞いたな」

 

「はい」

 

「施設の外へ出たところは?」

 

 朔は首を振った。

 

「……はっきり覚えていません」

 

「そうか」

 

 千冬は頷いた。

 

 朔は続けた。

 

「でも、誰かに連れていかれたような気はします」

 

「……気がする?」

 

「はい。自分で行き先を決めた覚えがないので」

 

 千冬は少し考えた。

 

「それだけで、誰かに連れ出されたとは判断できんぞ」

 

「……分かっています」

 

「ただ、当時の移動に関する記録を確認する理由にはなる」

 

 朔は顔を上げた。

 

 千冬は続けた。

 

「お前が覚えていないからではない。実際に移動が記録されているからだ」

 

「……はい」

 

 十蔵が頷いた。

 

「そのとおりだね」

 

 そして、別の資料を表示する。

 

「実は、結果票には移動に関する管理番号も記されているんだ」

 

 朔の表情が変わった。

 

「……管理番号?」

 

「ああ」

 

 十蔵は画面の下部を指さした。

 

「医療記録とは別に、施設運用側で管理されていた移動手続きらしい」

 

「……じゃあ」

 

 朔は身を乗り出した。

 

「誰が移動を決めたのか、分かるかもしれない?」

 

「可能性はある」

 

 十蔵は頷いた。

 

「ただし、まだ資料を確認していない。そこは期待しすぎないようにね」

 

「……分かりました」

 

 朔は静かに息を吐いた。

 

 これまで、自分は機体のことばかり調べていた。

 

 試験中断。

 

 推進器の異常。

 

 外部接続。

 

 そして、操縦者の状態確認。

 

 だが、今になって新しい疑問が生まれた。

 

 あの試験のあと。

 

 自分は、どこへ行ったのか。

 

 そして。

 

 誰が、その行き先を決めたのか。

 

「……轡木さん」

 

「何だい?」

 

「俺、調べたいです」

 

 朔は顔を上げた。

 

「機体のことも大事ですけど……あのとき、自分がどういう扱いを受けていたのかも知りたい」

 

 十蔵は静かに朔を見ていた。

 

 それから、頷いた。

 

「……分かった」

 

 短い返事だった。

 

 だが、その声には確かな意思があった。

 

「できる範囲で、確認していこう」

 

「……ありがとうございます」

 

 朔は小さく頭を下げた。

 

     ◇

 

 午後六時四十一分。

 

 寮へ向かう途中、朔は一夏と顔を合わせた。

 

「お、朔!」

 

「一夏」

 

「今帰りか?」

 

「ああ」

 

「今日はどうだった?」

 

 朔は少し考えた。

 

「……分かったことがある」

 

「おお。よかったじゃん」

 

 一夏は笑った。

 

 だが、朔の表情を見ると、少しだけ真顔になった。

 

「……あんまり、いい話じゃなかった?」

 

 朔は足を止めた。

 

「……悪い話かどうかも、まだ分からない」

 

「そっか」

 

 一夏は頷いた。

 

 少しの沈黙。

 

 朔は、ゆっくりと歩き始めた。

 

 一夏も隣に並ぶ。

 

「……なあ、一夏」

 

「ん?」

 

「お前、昔のことって、どのくらい覚えてる?」

 

 一夏は少し考えた。

 

「昔って、子供の頃?」

 

「ああ」

 

「……結構覚えてることもあるけど、全部じゃないな」

 

「そうか」

 

「何で?」

 

 朔は少し迷った。

 

「……俺、昔どこへ行ったのか、よく覚えてない時期があってさ」

 

 一夏は黙って聞いていた。

 

「それで、今になって、その頃の記録が見つかって」

 

「……そっか」

 

「自分が何をしてたのか、ちゃんと知ってたつもりだったんだけど」

 

 朔は小さく息を吐いた。

 

「……案外、知らないことが多かったみたいだ」

 

 一夏は少し考えた。

 

「……でもさ」

 

「ん?」

 

「今から調べることはできるんだろ?」

 

 朔は頷いた。

 

「……ああ」

 

「だったら、調べればいいんじゃないか?」

 

 朔は思わず笑った。

 

「……簡単に言うな」

 

「いや、だって」

 

 一夏は肩をすくめた。

 

「知らないことがあるなら、知ればいいだろ?」

 

「……まあ、そうだけど」

 

「それに、全部分からなくてもさ」

 

 一夏は少しだけ笑った。

 

「今のお前が、ここにいることは変わらないだろ?」

 

 朔は足を止めた。

 

 一夏が振り向く。

 

「……どうした?」

 

「……いや」

 

 朔は小さく笑った。

 

「お前って、本当に変わってるな」

 

「またそれかよ!」

 

「褒めてるんだって」

 

「絶対そうは聞こえないぞ!」

 

 二人は笑った。

 

 夕暮れの学園。

 

 遠くのアリーナでは、訓練を終えたISが戻っていく。

 

 その光景を眺めながら、朔は少しだけ考えた。

 

 過去の記録。

 

 試験の中断。

 

 そして、知らないままになっていた移動。

 

 まだ分からないことは多い。

 

 だが、今の自分には、調べる方法がある。

 

 そして、協力してくれる人間もいる。

 

 それだけでも、以前とは違っていた。

 

     ◇

 

 午後九時十七分。

 

 朔は寮の自室で、机に向かっていた。

 

 今日の授業で出された課題は、既に終わっている。

 

 机の上には、今日確認した結果票の説明資料が表示されていた。

 

 ――翌日再確認。

 

 ――実施区分:未実施。

 

 ――対象者移動につき、当施設での実施なし。

 

 朔は、その文章を何度も読み返した。

 

「……移動、か」

 

《該当する移動先については、現在の保存データから特定できません》

 

「分かってる」

 

 朔は小さく息を吐いた。

 

 昔の試験が終わったあと。

 

 自分は別の場所へ移動した。

 

 少なくとも、記録にはそう残されている。

 

 だが、誰が決めたのか。

 

 どこへ行ったのか。

 

 なぜ、再確認を受けなかったのか。

 

 その答えは、まだ分からない。

 

 朔は、しばらく画面を見つめていた。

 

 そして。

 

「……なあ」

 

《はい》

 

「指示者との通信経路、まだ使えるか?」

 

《過去に使用した通信経路への送信は可能です。ただし、相手が受信する保証はありません》

 

「……そうか」

 

 朔は少し考えた。

 

 あの男。

 

 自分へ指示を出していた人物。

 

 灰色のISについて、何かを知っている相手。

 

 そして、過去の試験についても、意味ありげな言葉を送ってきた。

 

 ――あのとき止められたのは、機体だけではない。

 

 朔は端末を操作した。

 

 短い文章を入力する。

 

 ――あの試験の翌日、俺はどこへ移動した?

 

 送信。

 

 しばらく待つ。

 

 返事はない。

 

 朔は画面を見つめた。

 

 数十秒。

 

 一分。

 

 それでも、返事はなかった。

 

「……まあ、そうだよな」

 

《返信は確認できません》

 

「分かってる」

 

 朔は端末を閉じかけた。

 

 だが、その直前。

 

 画面が短く振動した。

 

《新しい通信を受信しました》

 

 朔の指が止まった。

 

「……来たか」

 

 画面を開く。

 

 そこには、短い文章が表示されていた。

 

 ――君は、なぜ今になってそれを聞く?

 

 朔は眉をひそめた。

 

 返事を入力する。

 

 ――当時の記録が見つかった。

 

 送信。

 

 続けて、もう一つ。

 

 ――翌日の再確認を受ける予定だったのに、俺は施設を移動している。誰が決めた?

 

 返事を待つ。

 

 今度は、少し時間がかかった。

 

 やがて、画面が光る。

 

 ――その記録を、誰から手に入れた?

 

 朔は小さく息を吐いた。

 

「……やっぱり、そっちか」

 

 情報の出所。

 

 誰が調べているのか。

 

 あの男が知りたがるのは、いつもそういうことだった。

 

 朔は返信した。

 

 ――答える必要はない。

 

 送信。

 

 続けて、もう一つ。

 

 ――俺が聞いてるのは、あのとき誰が俺を移動させたのかってことだ。

 

 しばらく沈黙が続いた。

 

 朔は、画面を閉じずに待った。

 

 やがて。

 

 新しい文章が表示された。

 

 ――君は、私が最初から君を預かっていたと思っているのか?

 

 朔の表情が変わった。

 

「……何?」

 

 文章を読み直す。

 

 最初から。

 

 君を預かっていた。

 

 それは、どういう意味なのか。

 

 朔は返信した。

 

 ――どういうことだ?

 

 数秒後。

 

 返事が届いた。

 

 ――その試験が行われた頃、君が誰の管理下にいたのかを調べろ。

 

 朔は画面を見つめた。

 

 誰の管理下にいたのか。

 

 そんなことを、今まで考えたことはなかった。

 

 自分が灰色のISを使っていたこと。

 

 あの男から指示を受けていたこと。

 

 そして、各地を移動していたこと。

 

 それらは覚えている。

 

 だが、その関係がいつ始まったのか。

 

 どのような手続きを経て、自分があの男の指示を受けるようになったのか。

 

 そこまでは、はっきりしなかった。

 

 朔は、ゆっくりと返信した。

 

 ――あんたは、あの試験に関わってなかったのか?

 

 送信。

 

 返事が届く。

 

 ――その質問への答えと、君を施設から移動させた人物が誰かという問題は別だ。

 

 朔は眉をひそめた。

 

「……また、はぐらかすのか」

 

 続けて文章が届いた。

 

 ――ただ、一つだけ言っておく。

 

 朔は画面を見つめた。

 

 数秒後。

 

 最後の文章が表示された。

 

 ――君をあの施設から連れ出したのは、私ではない。

 

 朔は、しばらく動かなかった。

 

 それが本当なのか。

 

 あるいは、責任を避けるための嘘なのか。

 

 今の自分には判断できない。

 

 だが、もし本当なら。

 

 あの試験のあと、自分を別の場所へ移した人物がいる。

 

 そして、その人物は。

 

 今まで自分が指示を受けていた男とは、別の人間だったことになる。

 

「……保存しておいてくれ」

 

《了解しました》

 

 朔は端末を机へ置いた。

 

 今日、初めて確認した結果票。

 

 そこには、翌日の再確認が行われなかったことが記されていた。

 

 その理由は、対象者の移動。

 

 そして今。

 

 自分の指示者は、その移動を行った人物ではないと主張している。

 

 何が本当なのかは、まだ分からない。

 

 だが、少なくとも。

 

 自分が知らないままになっているのは、機体のことだけではなかった。

 

 あの試験が終わったあと。

 

 自分は、誰の判断で、どこへ向かったのか。

 

 そして、その人物は。

 

 なぜ、再確認が予定されている段階で、自分を施設の外へ移したのか。

 

 朔は窓の外を見た。

 

 夜のIS学園。

 

 遠くの海。

 

 そして、その向こう側にある、知らない過去。

 

 いつか誰かが教えてくれるのを待つつもりはない。

 

 自分で確かめる。

 

 そのために、今はここにいる。

 

 朔は静かに息を吐いた。

 

 ――俺は、誰からあの機体を渡されたんだ?

 

 これまで、考えようともしなかった問いだった。

 

 その答えを知ることが。

 

 灰色のISの過去を解き明かす、次の手掛かりになるのかもしれなかった。

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