IS〈インフィニット・ストラトス〉蒼穹の亡霊 作:右左右左右
山道を進む三台の車両は、夜明けの薄明かりの中に溶け込むように走っていた。
先頭と最後尾を固める装甲車。
その間を、一台の輸送車両が進んでいる。
昨夜まで十台で構成されていた車列は、既に二つに分かれていた。
目的地も、経路も違う。
ただ一つ、変わっていないことがある。
積荷の正体を知る者が、車列の中にはいないということだった。
「第二分岐を通過。予定経路に異常なし」
先頭車両の運転席で、助手席の男が通信機へ報告した。
『了解。周囲の警戒を継続』
「了解」
通信を切る。
男は窓の外へ視線を向けた。
先ほどまで降っていた雨は、ようやく上がり始めていた。
しかし、山道には濃い霧が残っている。
視界は悪い。
そのうえ、昨夜は正体不明のISによる襲撃を受けたばかりだ。
警戒を緩められる状況ではなかった。
「……本当に大丈夫なのか?」
運転手が口を開いた。
「何がだ」
「護衛のISを置いてきたことだよ」
助手席の男は答えなかった。
昨夜、灰色の機体が見せた戦闘能力。
護衛車両の対空兵装は、ほとんど役に立たなかった。
あれが再び現れれば、自分たちの武装で対処できるとは思えない。
「命令だ」
「それは分かってるが……」
「なら、余計なことは考えるな」
運転手が口を閉じる。
助手席の男は、バックミラー越しに輸送車両を確認した。
車体には損傷がない。
封印も維持されている。
何を積んでいるのかは知らない。
そもそも、知ることを許されていなかった。
それでも、あの車両を守るために自分たちがここにいることだけは確かだった。
男は通信機を手に取った。
「後続車、状況を報告」
『異常なし。距離を維持している』
「了解」
通信を切ろうとしたとき、別の音声が割り込んだ。
『先行車列、応答せよ』
初めて聞く声だった。
「こちら先行車列。識別を要求する」
『認証情報を送信する』
端末に短い符号が表示された。
照合結果は正常。
男は眉をひそめた。
「認証を確認。用件は?」
『予定経路を変更する。次の分岐を西へ進め』
「西?」
男は地図に目を落とした。
その先には、整備状況の分からない旧道が延びている。
「確認したい。事前に受けた指示では北側の中継地点へ向かうはずだが」
『変更された』
「理由は?」
『必要ない』
短い返答。
そして、通信が切れた。
男はしばらく端末を見つめていた。
認証は正しかった。
だが、予定にない指示を受けるのは、これが初めてではない。
昨夜の襲撃以降、命令は何度も変更されている。
しかも、そのたびに説明はなかった。
「……どうする?」
運転手が尋ねた。
助手席の男は、地図上の分岐点を見つめた。
「西へ向かう」
「了解」
装甲車が緩やかに進路を変える。
後続の輸送車両も、それに続いた。
誰も知らなかった。
自分たちが向かう先に、何が待っているのかを。
◇
「……整備には、どれくらいかかる?」
白と赤のISの操縦者は、眼下の地上班へ通信を送った。
『主兵装の交換は、現地設備では不可能です。右側推進器も部品交換が必要になります』
「応急処置は?」
『出力制限下での飛行は可能です。ただし、再交戦は推奨できません』
「……そう」
女性は短く答えた。
予想していた回答だった。
右側推進翼の損傷。
主兵装の切断。
どちらも、その場で簡単に修理できるものではない。
特に、右腕の長砲身は機体の主力兵装だ。
その喪失は、戦闘能力の大幅な低下を意味していた。
《右側推進器、出力制限中》
《高機動戦闘は非推奨》
「分かってるわよ」
女性は警告を閉じた。
灰色のISとの戦闘を思い出す。
あの加速。
予測しにくい進路変更。
そして、こちらの機体に必要な機能を正確に狙った攻撃。
相手の攻撃は、ただ速いだけではなかった。
主砲を切断された瞬間、自分は敵機への有効な反撃手段を大きく失った。
右側推進翼への損傷も同じだ。
左右の推力が崩れれば、機体の得意とする高速旋回は制限される。
敵は、それを短時間で見抜いたのか。
あるいは、最初から機体の構造を知っていたのか。
「……まさかね」
女性は小さく呟いた。
この機体について、外部に知られている情報は多くないはずだった。
少なくとも、昨日まで彼女はそう考えていた。
だが、灰色のISが見せた攻撃の正確さを思うと、その確信が揺らぐ。
機体の性能に頼りすぎていたのかもしれない。
それとも、相手がそれほどの操縦者だったのか。
答えは出なかった。
そのとき、通信が入った。
『護衛機へ。新しい指示を伝達する』
「どうぞ」
『現場の警戒任務を継続。輸送車両三台を現在地に留め置く』
「了解」
『指定された交代要員が到着するまで、配置を維持せよ』
「交代要員の到着予定は?」
『未定』
女性はわずかに目を細めた。
昨夜から続く警戒任務。
損傷した機体。
そして、到着時刻の分からない交代要員。
状況は決して良いとは言えない。
だが、通信の相手に不満をぶつけても意味はなかった。
「了解。配置を維持する」
通信が切れる。
女性は眼下の輸送車両へ視線を落とした。
三台。
どれも同じような外観をしている。
残された車両の中に、何があるのか。
自分が守っているものの正体すら、詳しくは知らない。
それでも、守れと命じられた以上、ここを離れるわけにはいかなかった。
「……面倒な仕事ね」
呟きは、誰にも届かなかった。
◇
空港のロビーには、出発を待つ人々が行き交っていた。
スーツケースを引く旅行者。
携帯端末を操作するビジネスマン。
眠そうに椅子へ座る子供。
どこにでもある、ごく普通の光景だった。
その中を、一人の人物が歩いていた。
目立たない色の上着。
手には小さな旅行鞄。
右腕の包帯は、長袖の下に隠されている。
《搭乗手続きの予定時刻まで、残り二十三分》
耳元の小型端末から、合成音声が響いた。
「……分かってる」
人物は声を潜めて答えた。
《右上肢の状態に変化はありません》
「それも分かってる」
《長時間の移動による疲労に注意してください》
「……お前、少し黙っていられないのか?」
《必要な情報を通知しています》
「そうかい」
短く答え、端末を操作する。
音声通知が停止した。
ようやく静かになった耳元で、空港の案内放送が流れている。
人物は出発案内の表示へ目を向けた。
日本。
その文字を見ても、今さら特別な感情は湧かなかった。
少なくとも、表情には出なかった。
ただ、胸の奥には、説明しにくい何かが残っていた。
何年も前の記憶。
忘れたつもりでいた場所。
そして、会うことはないと思っていた人物。
その顔が、ふと脳裏をよぎる。
「……まだ、いるのかな」
誰に向けた言葉でもなかった。
人物は小さく息を吐き、視線を戻した。
日本へ行けば、何かが変わるのだろうか。
それとも、今までと同じことを繰り返すだけなのか。
答えは分からない。
だが、今回の移動には一つだけ奇妙な点があった。
到着後の指示が、まだ届いていないのだ。
移動経路と出発時刻だけが指定されている。
誰と接触するのか。
どこへ向かうのか。
何をするのか。
それらについては、何も知らされていなかった。
「……相変わらずだな」
人物は小さく呟いた。
そのとき、携帯端末が振動した。
新しいメッセージ。
差出人は表示されない。
短い文章だけが、画面に浮かんでいた。
――到着後、指示された連絡手段を確認せよ。
それだけだった。
「……了解」
人物は画面を閉じた。
やがて、搭乗開始を知らせる案内放送が流れる。
旅行鞄を持ち直し、人々の列へ向かった。
そこにいる誰も知らない。
今、目の前を歩いている人物が、昨夜の山岳地帯でISを操っていたことを。
そして、その人物が向かう先で、やがて世界を騒がせる一人の少年と出会うことになるということも。
◇
西へ向かった車列は、舗装の途切れた旧道を進んでいた。
道路の両側には、長い間手入れされていない樹木が生い茂っている。
山の向こうから朝日が差し込み、霧の中に細い光の筋を作っていた。
「……本当にこの道で合ってるのか?」
運転手が不安げに尋ねる。
「指示どおりだ」
助手席の男は地図を確認した。
目的地までの距離は、あと数キロメートル。
しかし、その先にある施設について、詳細な情報は与えられていなかった。
旧道の終点。
地図上では、既に使用されていない倉庫群が表示されている。
何年も前に閉鎖された施設だ。
少なくとも、公開されている記録では。
「……誰もいない場所に運んで、どうするつもりなんだ」
「知るか」
助手席の男は短く答えた。
そのとき、前方に建物が見えた。
低いコンクリート塀。
錆びついた門。
壁面の一部が崩れかけた、古い倉庫だった。
しかし、門の前には二人の人影が立っていた。
どちらも武装している。
しかも、建物の外観とは不釣り合いなほど新しい通信機器を装備していた。
「……到着か」
先頭車両が速度を落とす。
門の前で停車すると、武装した男の一人が近づいてきた。
助手席の男は窓を開ける。
「識別を」
門番は短く告げた。
端末を差し出す。
認証情報の照合。
数秒後、表示が緑色に変わった。
「確認した。中へ進め」
門が開く。
装甲車がゆっくりと敷地内へ入った。
続いて輸送車両。
最後尾の装甲車が門を通過すると、重い金属音を立てて扉が閉じた。
敷地の奥には、想像していたよりも大きな建物があった。
古い倉庫の陰に隠れるように、地下へ続く搬入口が設けられている。
「……こんな施設があったのか」
助手席の男は思わず呟いた。
輸送車両が搬入口の前で停止する。
待機していた作業員たちが、すぐに車両へ集まった。
現場責任者と思われる男が歩み寄る。
「ここから先はこちらで引き継ぐ」
「積荷の引き渡し確認は?」
「こちらで行う」
「封印を開けずに?」
「問題ない」
男は端末を差し出した。
そこには、引き渡し完了を示す認証画面が表示されている。
助手席の男は一瞬だけ躊躇した。
だが、命令に逆らう理由もなかった。
「……了解」
認証が完了する。
輸送車両の後部へ、作業員たちが集まった。
装甲扉が開く。
ただし、内部の積荷を覆う遮蔽容器は、そのままだった。
助手席の男が確認できたのは、大型の固定具と、灰色の保護容器の一部だけだった。
その後、作業員たちは輸送車両を地下搬入口へと誘導していった。
重い扉が開き、車両がゆっくりと奥へ進む。
扉が閉まる直前。
男は、内部の壁に取り付けられた設備へ目を向けた。
古い倉庫には不釣り合いな、真新しい大型の冷却装置。
複数の電力ケーブル。
そして、厳重な隔壁。
「……何なんだ、ここは」
誰も答えなかった。
数秒後、地下搬入口の扉が完全に閉じた。
輸送は、完了した。
少なくとも、男に与えられた任務は。
◇
同じ施設の地下深く。
照明に照らされた通路を、白衣の人物が歩いていた。
その手には、小型の端末が握られている。
端末には、搬入完了を知らせる通知が表示されていた。
――指定物資、受領。
――外装および封印に異常なし。
――内部確認、未実施。
白衣の人物は表示を読み終えると、通路の奥へ視線を向けた。
その先には、厚い隔壁があった。
扉の上部には、赤い警告灯。
内部からは、低い機械音が聞こえている。
人物は壁の認証装置に端末を近づけた。
短い電子音。
認証完了。
隔壁の鍵が解除される。
だが、扉を開く前に、通信が入った。
『搬入物の状態は?』
「外部確認では異常ありません。これから内部検査を行います」
『封印は維持しているな』
「はい」
『検査は規定の手順で実施しろ。独断で開封するな』
「了解しました」
通信が切れた。
白衣の人物は端末を下ろした。
隔壁の向こうに何があるのか。
詳しいことは知らされていない。
ただ、この施設で扱われる物資の中には、通常の研究設備では管理できないものがある。
それだけは知っていた。
人物はゆっくりと息を吐いた。
「……また、厄介なものを運び込んだな」
隔壁が開く。
冷たい空気が通路へ流れ出した。
そして、人物は室内へ足を踏み入れた。
背後で、重い扉が閉まる。
その音が消えると、地下施設には再び機械の低い駆動音だけが残った。