IS〈インフィニット・ストラトス〉蒼穹の亡霊   作:右左右左右

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第30話 奪われた署名

《警告。機体シールド残量、二十八パーセント》

 

 赤い警告表示が、視界の端で点滅した。

 

 正面から放たれた砲撃が、ビルの外壁を吹き飛ばす。

 

 砕けたコンクリートが宙を舞う中、青い訓練用の仮想機体が建物の陰へ滑り込んだ。

 

『逃がさんぞ、雨宮!』

 

「……別に、逃げてないんだけどな」

 

 雨宮朔は小さく呟いた。

 

 右側の表示には、敵機の位置。

 

 左側には、残り時間。

 

 そして、正面の立体映像には、黒いISが映っている。

 

 シュヴァルツェア・レーゲンを模した仮想機体。

 

 操縦者は、ラウラ・ボーデヴィッヒ。

 

 もっとも、今回の模擬戦では双方の機体性能が共通の訓練用設定に統一されている。

 

 専用機特有の武装や特殊能力は使用できず、勝敗を左右するのは操作者の戦術判断だった。

 

《敵機、接近》

 

 朔は機体を低く沈めた。

 

 次の瞬間、黒い機体が建物の角から飛び出してくる。

 

『そこだ!』

 

 砲口が向けられた。

 

 朔は加速した。

 

 ただし、敵の正面ではない。

 

 建物の外壁すれすれを抜け、ラウラの射線から外れる。

 

 砲撃が背後を通過した。

 

 続けて、朔は上昇。

 

 屋上を越える。

 

 その瞬間だった。

 

『甘い!』

 

 ラウラが先回りしていた。

 

 黒い機体が、朔の進路を塞ぐ。

 

 距離は近い。

 

 回避するには、少し遅い。

 

「……そう来るか」

 

 朔は笑った。

 

 そして。

 

 加速をやめた。

 

『何っ!?』

 

 予想外の急減速。

 

 ラウラの機体が、朔の前方を通り過ぎる。

 

 その一瞬。

 

 朔は機体の向きを変え、背後へ回り込んだ。

 

《射撃可能》

 

「もらった」

 

 引き金を引く。

 

 至近距離から放たれた模擬弾が、黒い機体の背中へ命中した。

 

《敵機シールド、ゼロ》

 

《模擬戦終了》

 

 映像が停止した。

 

 そして。

 

「……あ」

 

 現実の朔は、操作卓から左手を離した。

 

 目の前の画面には、大きく勝敗が表示されている。

 

 ――雨宮朔、勝利。

 

「おおおおっ!?」

 

 背後から、一夏の声が響いた。

 

「すげえ! 朔、お前ラウラに勝ったのか!?」

 

「……一応」

 

 朔は肩をすくめた。

 

 ここは第三アリーナに併設された戦術演習室。

 

 使用していたのは、ISの実機操縦ではなく、外部操作式の模擬戦システムだった。

 

 機体と操縦者の神経接続は行わない。

 

 画面と操作装置を使い、戦術判断や位置取りを検証するためのものだ。

 

 朔が使用したのも、学園の標準仕様に基づく訓練用仮想ISであり、かつて戦場で使用していた灰色のISではない。

 

 学園側は、灰色ISの詳細な性能を把握していないため、今回のシミュレーションにもその能力は反映されていなかった。

 

 実際のIS操縦とは、操作方法も反応速度も違う。

 

 それでも、相手の動きを読み、どう戦うかを考える訓練にはなる。

 

「……雨宮」

 

 向かい側の操作卓から、ラウラが立ち上がった。

 

 その表情は、少し不満そうだった。

 

「最後の急減速。最初から狙っていたのか?」

 

「途中から」

 

「……途中?」

 

「ああ」

 

 朔は画面を指さした。

 

「お前、俺が建物の角から出るたびに、次の移動先を読んで先回りしてただろ?」

 

「当然だ。逃走方向を予測するのは基本だからな」

 

「だから、最後も先回りしてくれると思った」

 

 ラウラの眉が動く。

 

「……私の予測を利用したということか」

 

「まあ、そういうこと」

 

 朔は頷いた。

 

 ラウラはしばらく黙っていた。

 

 やがて、口元を小さく歪める。

 

「……なるほど。面白い」

 

 そして、朔へ指を向けた。

 

「もう一戦だ」

 

「え?」

 

「今度は同じ手は通用せん」

 

「いや、授業終わるだろ」

 

「ならば放課後だ」

 

「……本気か?」

 

「当然だ」

 

 朔は苦笑した。

 

 その横から、シャルロットが顔を出す。

 

「でも、朔って本当に相手の動きを読むのが上手いね」

 

「……そうかな」

 

「うん。ラウラの進路をずっと見てたでしょ?」

 

 朔は少し考えた。

 

「相手が何をしたいのか考えてただけだよ」

 

「それが難しいんだって」

 

 シャルロットは笑った。

 

 一夏が画面を覗き込む。

 

「なあ、朔。今度俺ともやってくれよ!」

 

「いいけど……」

 

「よっしゃ!」

 

「ただし」

 

 背後から、鋭い声が響いた。

 

「それは授業が終わってからだ」

 

 一瞬で、その場が静かになった。

 

 織斑千冬だった。

 

「模擬戦の結果を確認するぞ。全員、席に戻れ」

 

「は、はい!」

 

 一夏が慌てて姿勢を正す。

 

 朔も操作卓の電源を落とした。

 

 その右手に、わずかな違和感が残る。

 

 指先の感覚は以前より戻ってきている。

 

 だが、完全ではない。

 

 今回の操作も、右手への負担を避けるため、ほとんど左手で行っていた。

 

 実際にISを操縦するとなれば、話は別だ。

 

 朔は自分の右手を見つめた。

 

 早く、戻りたい。

 

 そう思わないと言えば、嘘になる。

 

     ◇

 

「……雨宮」

 

 授業が終わったところで、千冬に呼び止められた。

 

「はい」

 

「今日の模擬戦についてだ」

 

「……何か問題がありました?」

 

「いや。結果そのものは悪くない」

 

 千冬は先ほどの映像を表示した。

 

 朔が急減速し、ラウラの背後へ回り込んだ場面。

 

「この動きは、実戦でも使ったことがあるのか?」

 

「……似たようなことなら」

 

 朔が答える。

 

「ただ、実機だったら相手の反応も違うと思います」

 

「そうだな」

 

 千冬は頷いた。

 

「今回の模擬戦は、あくまで戦術判断を比較するためのものだ。機体の実性能も、操縦者との適合状態も再現しきれていない」

 

「……はい」

 

「だが、相手の行動を誘導する考え方は評価できる」

 

 千冬は画面を消した。

 

「それと、もう一つ」

 

「何ですか?」

 

「お前の右腕について、担当医から経過報告が届いている」

 

 朔の表情が変わった。

 

「……先生から?」

 

「ああ。症状は少しずつ改善しているそうだ」

 

「はい」

 

「そこで、医療部門と相談した結果、段階的な復帰評価を始めることになった」

 

 朔は顔を上げた。

 

「……復帰評価?」

 

「まだ実機の操縦許可ではない」

 

 千冬は、はっきりと言った。

 

「まずは身体機能の確認と、機体を起動しない状態での操作手順の検証だ。結果によっては、実機の接続試験へ進めるかどうかを判断する」

 

「……本当ですか?」

 

「ああ」

 

 朔は思わず拳を握りかけた。

 

 だが、右手の感覚がまだ完全でないことを思い出し、力を緩める。

 

「……分かりました」

 

「勘違いするなよ」

 

 千冬は続けた。

 

「昔の試験記録がどうであれ、今の身体が安全に操縦できる状態でなければ許可は出さない」

 

「はい」

 

「急いで悪化させれば、復帰は遠のく。それを忘れるな」

 

「……分かっています」

 

 朔は頷いた。

 

 それでも、表情は少し明るくなっていた。

 

 ようやく、前へ進める。

 

 そう感じられたからだ。

 

 千冬は一瞬だけ目を細めた。

 

「……それから、雨宮」

 

「はい?」

 

「別件で、轡木さんがお前に話したいことがあるそうだ」

 

 朔の笑顔が、少しだけ消えた。

 

「……過去の記録ですか?」

 

「ああ」

 

 千冬は頷いた。

 

「今度は、少し事情が違う」

 

     ◇

 

 午後四時三十分。

 

 管理棟の小会議室。

 

 朔は、机に置かれた古い書類を見つめていた。

 

「……これが、移動の記録?」

 

 向かいに座る轡木十蔵が頷く。

 

「そうだよ」

 

 画面には、過去の試験施設で作成された移送手続きの写しが表示されていた。

 

 試験の日付。

 

 移動日時。

 

 移送先を管理する区分。

 

 そして、対象者の名前。

 

 ――雨宮朔。

 

「……俺の名前だ」

 

「ああ。以前見つかった再確認の結果票に記されていた管理番号と、こちらの移送記録が対応していることを確認できた」

 

 十蔵は画面を切り替えた。

 

 そこには、別の項目がある。

 

 ――移送理由:管理主体変更。

 

「……管理主体?」

 

 朔が尋ねた。

 

「この記録では、当時の試験施設から、別の管理主体へ君の身柄を引き継いだことになっている」

 

「……じゃあ、俺を移動させた人が分かったんですか?」

 

「移送の手続きを担当した組織については、記録が残っている。ただし、実際に君へ付き添った人物までは、まだ確認できていない」

 

 朔は頷いた。

 

 以前なら、そこで話が終わっていたかもしれない。

 

 だが、今回は違った。

 

 十蔵は、もう一つの書類を表示した。

 

「……問題は、こちらなんだ」

 

 朔は画面を覗き込んだ。

 

 そこには、短い文章が記されている。

 

 ――本人希望による移送。

 

「…………え?」

 

 朔の声が止まった。

 

 本人希望。

 

 つまり。

 

「……俺が、移動したいって言ったことになってる?」

 

 十蔵は頷いた。

 

「書類上は、そう記載されている」

 

「……そんなこと、覚えてない」

 

 朔は画面を見つめた。

 

 昔の試験。

 

 白い廊下。

 

 誰かに案内されて歩いた記憶。

 

 だが、自分から移動を希望した覚えはない。

 

「……俺、本当にそんなこと言ったんですか?」

 

「それは確認できない」

 

 十蔵は静かに答えた。

 

「記録にそう書かれていることと、君が実際に希望したことは別だからね」

 

「……はい」

 

 朔は小さく頷いた。

 

 そのとき。

 

 十蔵が画面を拡大した。

 

「それから、この書類には署名欄がある」

 

 そこには、確かに名前が記されていた。

 

 ――雨宮朔。

 

 そして、その横には、手書きの署名を取り込んだような画像がある。

 

 朔は、その形を見つめた。

 

「……俺の字?」

 

「君の署名として提出されているものだ」

 

「……でも」

 

 朔は首を傾げた。

 

「これ、どこかで……」

 

 十蔵は頷いた。

 

「覚えがあるかい?」

 

 朔は少し考えた。

 

 そして、顔を上げた。

 

「……前に見せてもらった委任状」

 

 十蔵の表情が変わる。

 

「そうだね」

 

 画面が切り替わった。

 

 以前、灰色のISの引き渡しを求めて提出された委任状。

 

 そこにも、朔の署名画像が使われていた。

 

 二つの署名が、並べて表示される。

 

 朔は息を呑んだ。

 

「……同じ?」

 

「画像の形状が非常によく一致している」

 

 十蔵が答えた。

 

「現在、原本の状態や画像の作成経緯を確認しているところだが、少なくとも同じ署名画像が使われた可能性は高い」

 

 朔は、しばらく黙っていた。

 

 古い移送記録。

 

 最近提出された委任状。

 

 その両方に、自分の署名がある。

 

 しかも、同じ画像が使われている可能性がある。

 

「……俺、あの委任状には署名してません」

 

「ああ。そう聞いている」

 

「昔の移送記録についても……正直、覚えてないです」

 

 十蔵は頷いた。

 

「だからこそ、どちらも本人が署名したものだと決めつけることはできない」

 

 朔は画面を見つめた。

 

 少しずつ、表情が険しくなる。

 

「……誰かが、俺の署名を使ったってことですか?」

 

「その可能性がある。ただし、まだ断定はできない。古い署名画像が、どのような目的で保存され、誰に利用されたのかを確認する必要がある」

 

 朔は黙った。

 

 だが、十蔵はそこで話を終わらなかった。

 

「……もう一つあるんだ」

 

「……何ですか?」

 

 十蔵は、移送記録の下部を表示した。

 

 ――受領管理契約番号。

 

 その番号の一部が、赤い枠で囲われている。

 

「この番号は、最近提出された機体引き渡しの委任状にも記載されていた」

 

 朔が顔を上げた。

 

「……同じ番号?」

 

「ああ。完全な管理履歴はまだ確認中だが、少なくとも二つの手続きには、同じ契約管理系統が関わっている可能性がある」

 

 朔は、もう一度書類を見た。

 

 昔の移送。

 

 灰色のISの引き渡し要求。

 

 自分の署名。

 

 そして、同じ管理番号。

 

 ここまで来れば、単なる偶然として片づけるのは難しい。

 

 それでも、誰が何のために関わったのかは、まだ分からない。

 

「……轡木さん」

 

「何だい?」

 

「俺、もう一度あの委任状を見せてもらえますか?」

 

 十蔵は頷いた。

 

「もちろん」

 

 朔は二つの書類を見比べた。

 

 しばらくして、口を開いた。

 

「……これ、変じゃないですか?」

 

「どこがだい?」

 

「昔の俺が、自分で移動したいって言ったことになってる」

 

「ああ」

 

「それで、今度は俺が機体を引き渡したいってことになってる」

 

 十蔵は黙って聞いていた。

 

「……どっちも、俺がそうしたいって決めたことになってるんですよね」

 

「書類上は、そうだね」

 

 朔は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……でも、俺は決めてない」

 

 声は静かだった。

 

 だが、はっきりしていた。

 

「少なくとも、今の委任状には同意してません」

 

 十蔵は頷いた。

 

「それは、君が以前から一貫して伝えていることだ」

 

「だったら……」

 

 朔は少し考えた。

 

「俺が同意してないってことを、正式に残せませんか?」

 

 十蔵の目が細くなった。

 

「……正式に?」

 

「はい」

 

 朔は書類を指さした。

 

「誰かが俺の名前で何かを決めようとしてるなら、俺は認めてないって、ちゃんと記録してほしいです」

 

 十蔵は、しばらく朔を見ていた。

 

 それから、穏やかに頷いた。

 

「……できるよ」

 

 朔の表情が変わる。

 

「本当ですか?」

 

「ああ。少なくとも、現在の引き渡し要求については、君の意思を明確に記録できる。必要な範囲で、相手方にも本人が委任を否認していることを通知できる」

 

「……お願いします」

 

 朔は即答した。

 

 千冬が口を開いた。

 

「雨宮」

 

「はい」

 

「それを行えば、相手はお前が過去の記録を調べていることに気づく可能性がある」

 

「……はい」

 

「それでもいいのか?」

 

 朔は少し考えた。

 

 あの指示者。

 

 灰色のIS。

 

 自分を移動させた人物。

 

 そして、今になって提出された委任状。

 

 何がつながっているのかは、まだ分からない。

 

 だが。

 

「……隠れてるだけじゃ、何も変わらないと思うので」

 

 朔は答えた。

 

「向こうが俺の名前を使うなら、俺も自分の名前で答えたいです」

 

 千冬は、わずかに口元を緩めた。

 

「……そうか」

 

 十蔵も頷いた。

 

「分かった。君の意思として、正式に記録しよう」

 

     ◇

 

 午後五時四十分。

 

 医療室。

 

「……結果は、前回より改善しています」

 

 担当医の言葉に、朔は顔を上げた。

 

「……本当ですか?」

 

「はい。運動機能については大きな問題が見られません。指先の感覚も、前回より改善が確認できています」

 

 朔は小さく息を吐いた。

 

「……よかった」

 

「ただし」

 

 担当医は続けた。

 

「まだ感覚の鈍さが残っています。現段階で、ISの実機操縦を許可できるわけではありません」

 

「……はい」

 

 朔は頷いた。

 

 予想していた答えだった。

 

 だが、以前とは少し違う。

 

 症状が改善している。

 

 そのことが、確認できた。

 

「今後は、負荷をかけない範囲で身体機能の確認を進めます。接続試験へ進めるかどうかは、その結果を見て判断します」

 

「……分かりました」

 

「焦らないこと。いいですね?」

 

「はい」

 

 担当医は頷いた。

 

「それから、雨宮君」

 

「何ですか?」

 

「今日、管理部門から過去の資料について連絡がありました」

 

 朔の表情が変わった。

 

「……移送記録ですか?」

 

「はい。ただ、今の右腕の症状と直接関係があるかどうかは、まだ分かりません」

 

「……そうですよね」

 

「それでも、当時の経過を確認することには意味があります」

 

 担当医は静かに言った。

 

「あなたが過去にどのような処置を受けたのか。それが分かれば、今後の診察にも参考になるかもしれません」

 

 朔は頷いた。

 

「……ありがとうございます」

 

 担当医は微笑んだ。

 

「こちらこそ。無理をせず、少しずつ進めていきましょう」

 

     ◇

 

 午後七時十五分。

 

 IS学園の管理棟。

 

 千冬は、十蔵から受け取った報告を確認していた。

 

「……本人の意思確認は済んだのですね」

 

「ああ」

 

 十蔵は頷いた。

 

「雨宮君は、現在提出されている委任状について、明確に同意を否認した」

 

「そうですか」

 

「それから、過去の移送記録についても、本人が署名したかどうかを確認する手続きを希望している」

 

 千冬は書類を見つめた。

 

 そこには、二つの署名画像が並べられている。

 

「……同じ画像が使われた可能性が高い、というのは厄介ですね」

 

「そうだね」

 

 十蔵は頷いた。

 

「ただ、まだ相手の身元も、当時の手続きの正当性も確認できていない。だから、まずは原本と作成履歴の保全を求める」

 

 千冬は小さく息を吐いた。

 

「……轡木さん」

 

「何だい?」

 

「これは、単なる機体の所有権の問題ではなくなってきています」

 

「……ああ」

 

 十蔵は頷いた。

 

「君も、そう思うかい?」

 

「はい」

 

 千冬は書類を閉じた。

 

「雨宮本人の意思が、過去にも現在にも、別の形で記録されている可能性があります」

 

 十蔵は黙っていた。

 

「しかも、その書類を利用して、今度は機体の引き渡しまで求めてきた」

 

 千冬の声が低くなる。

 

「……誰が何をしたのか、確認する必要があります」

 

「そうだね」

 

 十蔵は静かに答えた。

 

 そのときだった。

 

 机の端末が短く鳴った。

 

《新着連絡》

 

 十蔵は画面を開いた。

 

 内容を確認した瞬間、表情が変わる。

 

「……これは」

 

 千冬が顔を上げた。

 

「どうしました?」

 

 十蔵は端末を彼女へ向けた。

 

 そこには、学園の管理部門へ届いた新しい通知が表示されていた。

 

 ――灰色ISの保管に関する照会。

 

 ――申請代理人より、正式な面談を希望。

 

 ――機体の管理権限について説明を求める。

 

 千冬は目を細めた。

 

「……相手が動きましたか」

 

「そうらしい」

 

 十蔵は頷いた。

 

 面談の申し入れ。

 

 それ自体は、正式な手続きの範囲内だ。

 

 だが、その申請を行った相手は、既に本人が同意を否認している委任状を提出していた。

 

「……どうします?」

 

 千冬が尋ねた。

 

 十蔵は少し考えた。

 

 そして、静かに答える。

 

「まず、身元と権限を確認する。雨宮君本人の同意もないまま、機体を引き渡すことはできない」

 

「当然ですね」

 

「ただし」

 

 十蔵は画面を見つめた。

 

「向こうが正式な説明を求めるというなら、こちらも確認すべきことがある」

 

 千冬が頷いた。

 

「……過去の移送記録ですか」

 

「ああ」

 

 十蔵は端末を閉じた。

 

「誰が、どの権限で、雨宮君を試験施設から移動させたのか」

 

 少し間を置く。

 

「そして、なぜ今になって、同じ管理系統から機体の引き渡しを求めているのか」

 

 千冬の表情が引き締まる。

 

 窓の外には、夜の学園が広がっていた。

 

 寮の明かり。

 

 静かな校舎。

 

 遠くの海。

 

 その向こう側で、何者かが動き始めている。

 

 だが、今度は違う。

 

 雨宮朔は、もう誰かの指示を待つだけの少年ではない。

 

 自分の意思で、過去を調べることを選んだ。

 

 そして、自分の名前を勝手に使わせないと決めた。

 

 十蔵は、机上の書類へ視線を落とした。

 

 ――本人希望による移送。

 

 その文字が、静かに表示されている。

 

「……雨宮君」

 

 十蔵が小さく呟いた。

 

「君は、ようやく自分の意思で動き始めたんだね」

 

     ◇

 

 午後九時二十分。

 

 寮の自室。

 

 朔は、端末に表示された一枚の書類を見つめていた。

 

 今日、自分が提出した意思確認書。

 

 ――現在の機体引き渡し委任について、本人は同意していない。

 

 その下には、自分の名前が記されている。

 

 雨宮朔。

 

 今度は、自分で確認して、自分の意思で署名した。

 

「……これでいい」

 

《提出された意思確認書は、学園管理部門に受理されています》

 

「……ああ」

 

 朔は頷いた。

 

 窓の外では、夜の海が静かに広がっていた。

 

 昔の自分が、何を考えていたのか。

 

 どんな判断をしたのか。

 

 それは、まだ分からない。

 

 だが、今の自分が何を望んでいるのかは、分かる。

 

 誰かの所有物になりたいわけじゃない。

 

 誰かに決められた場所へ、黙って戻りたいわけでもない。

 

 自分の過去を知りたい。

 

 そして。

 

 自分の機体で、もう一度戦いたい。

 

 ただし、今度は誰かに命令されたからではない。

 

 自分で決めた理由のために。

 

 朔は右手を握った。

 

 まだ、わずかな違和感が残る。

 

 それでも、以前より動かしやすくなっていた。

 

「……早く治さないとな」

 

《現在、医療部門による段階的な復帰評価が予定されています》

 

「分かってる」

 

 朔は小さく笑った。

 

「無茶はしないよ」

 

 端末を閉じる。

 

 その瞬間、画面に新しい通知が表示された。

 

《学園管理部門より連絡です》

 

 朔は眉をひそめた。

 

「……こんな時間に?」

 

 通知を開く。

 

 そこには、短い文章が記されていた。

 

 ――雨宮君。

 

 ――本日、過去の移送手続きに関係する可能性のある相手方から、正式な面談の申し入れがありました。

 

 ――現在、身元と権限を確認しています。

 

 ――君に無断で面談や機体の引き渡しを進めることはありません。

 

 朔は、しばらくその文章を見つめていた。

 

「……来たか」

 

 小さく呟く。

 

 あの指示者とは別の人間かもしれない。

 

 あるいは、同じ組織の関係者なのかもしれない。

 

 まだ、分からない。

 

 だが、少なくとも。

 

 今まで書類の向こう側にしかいなかった相手が、表へ出てこようとしている。

 

 朔は端末を操作した。

 

 返信を入力する。

 

 ――分かりました。

 

 ――確認が取れたら、俺にも教えてください。

 

 送信。

 

 そして、少し考えてから、もう一文を加えた。

 

 ――俺自身のことなので、相手が誰なのか知りたいです。

 

 送信。

 

 朔は端末を置いた。

 

 自分が誰の管理下にいたのか。

 

 誰が移動を決めたのか。

 

 なぜ、その書類に自分の署名が使われているのか。

 

 今まで見えなかったものが、少しずつ形になり始めている。

 

 そして、もう一つ。

 

 実機へ戻るための道も、ようやく見え始めた。

 

 朔は窓の外へ目を向けた。

 

 遠くのアリーナに、まだ明かりが灯っている。

 

 今日、ラウラと戦った。

 

 本物のISではない。

 

 だが、久しぶりに自分から戦うことを楽しめた。

 

 その感覚は、悪くなかった。

 

「……次は」

 

 朔は小さく呟いた。

 

「本物で、やりたいな」

 

 その声は、夜の部屋に静かに溶けていった。

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