IS〈インフィニット・ストラトス〉蒼穹の亡霊 作:右左右左右
日本の空は、よく晴れていた。
空港の窓から差し込む午後の日差しが、磨かれた床に白い光を落としている。
到着ロビーには、旅行者を出迎える人々の姿があった。名前の書かれた札を掲げる者、再会した家族と抱き合う者、電話越しに現在地を伝える者。
その人波を、一人の少年が通り抜けていく。
小さな旅行鞄を左手に提げ、歩調は一定。周囲へ必要以上に目を向けることもない。
長袖の下では、右腕に巻かれた包帯が皮膚を圧迫していた。
痛みは昨夜より和らいでいる。
だが、指先を握り込むと、まだ鈍い痺れが残っていた。
耳に装着した小型端末から、合成音声が届く。
《予定経路との照合を完了しました》
「分かった」
《指定された連絡手段は、現在使用可能です》
少年は歩きながら携帯端末を取り出した。
画面には、空港から市街地へ向かう交通機関の案内が表示されている。
昨夜届いた指示は、日本へ移動すること。
その後、出発直前に新しい連絡が一件だけ加わった。
――到着後、指定の連絡手段を確認せよ。
それだけだった。
誰に会うのか。
どこへ向かうのか。
何のために呼び戻されたのか。
肝心なことは、何一つ説明されていない。
「……相変わらずだな」
小さく呟き、ロビーの端で足を止めた。
端末に保存された連絡先を開く。
番号も名前も表示されない。接続先を識別するのは、短い認証符号だけだった。
通信を開始する。
呼び出し音は鳴らなかった。
数秒後、画面に一行の文字が現れる。
――到着を確認。
続いて、別の文章が表示された。
――本日中に指定の宿泊施設へ移動せよ。
添付されていたのは、市街地にある建物の所在地と、入室に必要な認証情報だった。
少年は画面を見つめた。
「……それだけ?」
《追加の指示はありません》
「聞いてない」
端末を閉じ、再び歩き始める。
建物の所在地は確認した。
移動に問題はない。
ただ、ここまで細かく道順を指定する一方で、目的について何も知らせないやり方には、いい加減慣れたくもなかった。
外へ出ると、乾いた風が頬を撫でた。
山岳地帯で浴びた冷たい雨とは、まるで違う空気だった。
少年は一瞬だけ空を見上げ、それから駅へ向かう人の流れに加わった。
◇
地下施設の隔壁が閉じると、外の物音はほとんど聞こえなくなった。
壁際に並ぶ計測機器が、一定の間隔で小さな動作音を立てている。
白衣を着た技術者は、作業卓に置いた端末へ視線を落とした。
昨夜の襲撃を経て搬入された輸送物。
その外部検査を担当するよう命じられたのは、つい先ほどのことだった。
作業室の中央には、大型の保護容器が固定されている。
厚い外殻。
複数の固定金具。
封印部分には、開閉の痕跡がないことを確認するための小さな検知器が取り付けられていた。
容器の内部は見えない。
技術者に与えられた権限も、内部を開くところまでは及んでいなかった。
「外装に損傷なし。封印状態も正常……」
検査結果を順に入力する。
外部温度。
供給電力。
振動の履歴。
搬送中に記録された数値には、特筆するほどの変化はなかった。
それでも、技術者は画面を閉じなかった。
ある項目だけ、表示が灰色のまま残されていたからだ。
内部状態。
数値の代わりに記されているのは、閲覧権限がないことを示す文字だけだった。
「……これで検査しろと言われてもな」
背後から声がした。
「何か問題でも?」
振り返ると、作業室の入口に男が立っていた。
白衣ではない。
襟元まで留めた暗色の服を着ており、首から下げた認証票には氏名が記載されていなかった。
「内部データが閲覧できません。外装と封印に異常がないことは確認しましたが、それ以上は判断できません」
「それで十分だ」
「しかし、輸送中に襲撃があったと聞いています。外側に損傷がなくても、内部で何かが起きている可能性は――」
「内部の確認は別の担当者が行う」
男は技術者の言葉を遮った。
「あなたの仕事は、受領時の状態を記録することだけだ」
技術者は口を閉じた。
従うべき命令なのは分かっている。
だが、内容が分からない物体を検査しながら、その安全性を判断することさえ許されないというのは、研究施設として奇妙だった。
「……了解しました」
端末へ最後の項目を入力する。
――外部検査完了。
――封印維持。
――内部状態、未確認。
報告を送信すると、男は一度だけ頷いた。
「作業を終了してくれ」
技術者は計測器の電源を落とした。
退出する直前、中央の保護容器を振り返る。
搬入されたときと何も変わっていない。
冷たい外殻も、固定金具も、無機質な表面も。
ただ一つ、気になっていることがあった。
検査用の電源を切った後も、容器に接続された別系統の供給装置だけは稼働を続けていたのだ。
あの装置が何を維持しているのか。
尋ねるべきではない。
そう判断し、技術者は部屋を出た。
◇
室内には、男が一人残された。
保護容器を挟んだ反対側の壁に、監視用の端末が設置されている。
男は認証票を読み取り装置へ近づけた。
先ほどまで灰色だった項目が、いくつか使用可能に変わる。
ただし、内部状態を示す情報は依然として表示されなかった。
代わりに、新しい指示が届いていた。
――現状を維持。
――指定時刻まで開封を禁止する。
――追加の移送準備を開始せよ。
「……また動かすのか」
男は表示された指示を読み返した。
昨夜、輸送車列が襲撃された。
その後、計画を変更して一台だけをここへ運び込んだ。
ようやく搬入を終えたというのに、今度は次の移送準備だという。
この施設が最終目的地ではなかったことになる。
男は通信を開いた。
「受領担当より確認。追加移送の対象は、今回搬入された物資で間違いないか」
『現時点では、その前提で準備しろ』
「移送先は?」
『後ほど通知する』
「護衛については、こちらで手配を?」
『不要だ。別途指示する』
通信の相手は、そこで一度言葉を切った。
『それと、今後の移送計画に関する情報は、施設内でも共有範囲を限定しろ』
「了解しました」
通信が切れる。
男は保護容器へ目を向けた。
詳しい事情を知らされていないのは、現場の輸送員だけではない。
受領を担当する自分ですら、何をどこへ運ぶのか分からない。
それほどの秘密が、この箱の中にある。
男は新しい移送計画の準備項目を開いた。
何も記入されていない行が、画面いっぱいに並んでいる。
出発時刻、未定。
輸送経路、未定。
護衛編成、未定。
その中で、ひとつだけ確定している項目があった。
――開封禁止。
男はしばらくその文字を見つめていた。
◇
駅を出た頃には、空が夕暮れの色に変わり始めていた。
人通りの多い道路を避け、少年は住宅街へ続く道を歩いていた。
目的地は、駅から少し離れた場所にある小さな建物だった。
外観に特徴はない。
古びた外壁。
一階に並ぶ郵便受け。
入口の脇には、管理会社の名前が書かれた控えめな看板。
周囲の建物と比べても、特別目立つところはなかった。
少年は入口の認証装置へ端末をかざした。
短い電子音が鳴り、扉の鍵が外れる。
建物の中に人の気配はなかった。
案内された部屋へ向かい、もう一度認証を行う。
室内に入ると、窓の外から街の生活音がかすかに聞こえた。
机と椅子。
小さな寝台。
最低限の調理設備。
机の上には、封をしたままの薄い封筒が一通置かれていた。
「……これか」
旅行鞄を床に置く。
まず室内を一通り確認し、扉の鍵を掛けた。
封筒を手に取る。
宛名はない。
差出人の名前もない。
中に入っていたのは、折り畳まれた一枚の紙だった。
――到着後、外部への接触を控えること。
――次の指示があるまで待機。
その下に、短い注意書きが続く。
――ISの展開を禁止する。
少年は紙を見つめた。
「……そこまで書くか」
まだ右腕の負荷は抜けきっていない。
何より、人目のある場所でISを展開する理由などなかった。
それでも、わざわざ禁止事項として明記されている。
日本へ呼び戻した側は、少なくともこちらがISを運用できる状態にあることを把握している。
当然といえば当然だ。
だが、その一方で、ここへ来た理由は依然として説明されていなかった。
「……待て、ね」
少年は紙を机へ置いた。
耳元の端末から、再び合成音声が届く。
《右上肢の負荷を考慮すると、休養を推奨します》
「そのつもりだよ」
《本日の移動予定は終了しています》
「助かる」
上着を脱ぎ、寝台の端へ腰掛ける。
部屋は静かだった。
窓の向こうでは、遠くを走る電車の音が聞こえる。
誰かの笑い声。
自転車のベル。
夕食の支度でもしているのか、開いた窓から食器の触れ合う音が混じった。
どこにでもある、日本の夕方だった。
少年は伏せていた顔を上げた。
かつて知っていた街と、同じ匂いがする。
そう思った。
もっとも、それを確かめるには外を歩いてみるしかない。
そして、今は接触を控えろと命じられている。
「……近くにいるんだろうか」
無意識に、そんな言葉が漏れた。
誰のことなのか、端末に説明するつもりはなかった。
合成音声も、その問いには反応しなかった。
しばらくして、携帯端末が振動した。
新しい連絡が届いている。
――明日、詳細を伝える。
短い文章だった。
少年は画面を確認し、すぐに端末を伏せた。
「……明日、か」
ようやく、待機の終わりが見えた。
だが、何のための待機なのかは、まだ分からない。
少年は右手をそっと開いた。
指先には、微かな痺れが残っている。
少なくとも、明日までには少しでも動くようにしておきたかった。
◇
地下施設では、夜間の作業が始まっていた。
技術者たちは保護容器を移動させるための設備を点検し、搬送用の固定具を準備している。
容器そのものには触れていない。
開封を禁じる指示は、現在も有効だった。
作業室の監視端末に、一件の通知が表示される。
――供給状態、正常。
続いて、別の表示が現れた。
――内部状態、閲覧不可。
受領担当の男は、その二行を見つめた。
正常と判断されているのは、あくまで外部から確認できる供給状態だけだ。
内部が本当に無事なのか。
そこに何が収められているのか。
自分には分からない。
それでも、次の移送準備は進んでいく。
男は作業記録へ時刻を入力した。
画面には、未完了の項目がまだいくつも残されていた。
そして、その中の一つにだけ、新しい文字が追加される。
――移送先情報、受信待機中。
山岳地帯で起きた襲撃は、輸送を止められなかった。
目的地を変え、経路を変え、それでも箱は運ばれていく。
一方、日本へ到着した少年には、翌日までの待機が命じられていた。
それぞれに与えられた命令。
知らされない目的。
そして、まだ姿を見せない次の行き先。
夜は、静かに更けていった。