IS〈インフィニット・ストラトス〉蒼穹の亡霊 作:右左右左右
午前七時四十二分。
少年は、窓の外を走る電車の音で目を覚ました。
薄いカーテンの隙間から朝日が差し込み、部屋の床に細長い光を落としている。見慣れない天井だったが、ここがどこなのか思い出すのに時間はかからなかった。
日本。
昨日到着したばかりの、指定された宿泊施設。
右手を開閉すると、指先にわずかな痺れが走った。昨日よりはましだが、まだ完全には回復していない。
《右上肢の状態を確認しますか?》
「起き抜けに健康診断か?」
《前回の測定から八時間以上経過しています》
「あとでいい」
《了解しました》
耳元の小型端末から、合成音声が途切れた。
少年は寝台から起き上がり、窓へ近づく。
住宅街の朝は、思っていた以上に賑やかだった。
通学鞄を背負った子供たちが角を曲がり、自転車に乗った会社員がその横を通り過ぎる。道路の向こうでは、店先のシャッターを開ける音がした。
昨夜、この街に着いたときには気づかなかった生活の気配がある。
何も特別なことは起きていない。
少なくとも、窓の外では。
机に置いた携帯端末が振動した。
少年は振り返る。
画面に表示されたのは、昨夜と同じ認証符号だった。
――午前九時。待機場所にて通信を確保せよ。
続いて、もう一行。
――外出は許可しない。
「……九時まで待てってことか」
《現在時刻は午前七時四十五分です》
「それは見れば分かる」
返事をしながら、少年は端末を机に戻した。
朝食を取る時間くらいはある。
冷蔵庫を開けると、飲料水と簡単な食料が用意されていた。
至れり尽くせり、とまでは言わない。
しかし、最低限の準備はされている。
誰かが昨日までにこの部屋を整えたのだろう。
少年は食料を取り出し、椅子に腰掛けた。
任務を与える側が、何を考えているのか。
それは相変わらず分からない。
ただ、今日になれば何かを説明するつもりではあるらしい。
それなら、今は待つしかなかった。
◇
午前九時。
少年は机の前に座り、携帯端末を起動した。
画面には認証待機中の文字が表示されている。
ほどなくして通信が接続された。
『予定どおり到着したようだな』
聞こえてきたのは、男の声だった。
音声は加工されており、年齢も判別しにくい。
「到着した。昨日、確認の連絡も入れた」
『確認している』
「だったら、そろそろ説明してもらおうか。何のために日本へ呼んだ?」
通信の向こうで、わずかな沈黙があった。
『新しい任務だ』
「それは分かってる。内容を聞いてるんだよ」
『まず、資料を見ろ』
画面に複数のファイルが表示された。
少年は一つ目を開く。
日本国内の地図。
その上に、いくつかの地点が印されていた。
次のファイルには、道路沿いの監視カメラから切り出したと思われる画像が並んでいる。
貨物車両。
倉庫の搬入口。
夜間に施設へ出入りする人影。
いずれも画質がよいとは言えず、所属を示すものも見当たらなかった。
「……輸送の監視か?」
『現段階では、そう考えてもらって構わない』
少年は画面をスクロールした。
いくつかの画像には、撮影時刻と位置情報が添えられている。
しかし、車両番号や企業名など、通常なら確認できるはずの情報が意図的に省かれていた。
「対象の説明がない」
『特定の物資が、国内の複数の拠点を経由して移動している可能性がある』
「何を運んでる?」
『不明だ』
「誰が?」
『それも確認できていない』
少年は思わず顔を上げた。
「……本気で言ってる?」
『少なくとも、現在渡せる資料ではそうなる』
「そんな状態で何を調べろって?」
『移動の実態だ。まずは記録にある拠点の周辺を確認し、車両と関係者の動きを調べてもらう』
少年は地図へ視線を戻した。
画像が示しているのは、少なくとも数日にわたる動きだった。
ある倉庫に入った車両が、別の日には離れた地点で確認されている。
同じ車両だと断定できるだけの情報はない。
だが、何らかのつながりを疑う根拠があるからこそ、こうして資料がまとめられているのだろう。
「……確証はないが、怪しいってわけか」
『そうだ』
「それなら現地の協力者を使えばいい」
『既に調べている。しかし、十分な結果は得られていない』
「だったら、なおさら俺を呼ぶ理由が分からない」
今度の沈黙は、先ほどより長かった。
『必要になった場合、通常の人員では対応できない事態が起こり得る』
少年は机に置いた右手へ目を向けた。
「ISか」
『可能性は否定できない』
「確認されたのか?」
『いや』
「……なら、推測だろ」
『現時点ではな』
少年は小さく息を吐いた。
少なくとも、あの山岳地帯の輸送車列と日本国内の動きが関係しているという説明はない。
画面上の資料にも、その二つを結びつける情報は見当たらなかった。
「前の任務とは?」
『今は切り離して考えろ』
短い答えだった。
「……そうかい」
少年はそれ以上追及しなかった。
聞いたところで、答えるつもりがないのなら同じことだ。
『なお、今回の任務には制限がある』
「昨日も散々見たよ」
『接触は最小限。武器の使用は禁止。ISの展開には事前承認を必要とする』
「襲われた場合は?」
『その場を離脱しろ。やむを得ない場合の自衛まで禁じるものではない』
「……随分と慎重だな」
『日本国内だからな』
男の言葉には、初めてわずかな強さが混じった。
『ここでは、お前の機体が一度姿を見せただけで、問題の規模が変わる』
少年は何も答えなかった。
灰色のISは、公式に所属を明かせる機体ではない。
その事実を改めて指摘されるまでもない。
『詳しい行動範囲と接触先は、追って送る。まずは受領した資料を確認しろ』
「一つ聞いていいか」
『何だ』
「この任務、誰が依頼した?」
通信の向こうは静かだった。
少年は続けた。
「前の任務も今回も、理由を隠して命令ばかりだ。せめて誰の都合で動かされてるのかくらい知りたい」
『今は知らせられない』
「……予想どおりだ」
『以上だ』
通信が切れた。
端末の画面には、日本国内の地図だけが残された。
少年は椅子にもたれ、しばらく天井を見上げていた。
《受領した資料の整理を開始しますか?》
「頼む」
《了解しました》
地図上の地点が、撮影日時ごとに色分けされていく。
少年はその動きを眺めながら、机の端に置いた水を飲んだ。
日本に戻ってきて最初の仕事は、正体の分からない輸送の調査。
相手の名前も、積荷の中身も分からない。
しかも、ISは使うなという。
「……面倒なことになったな」
《対象の移動経路を推定するには、追加情報が必要です》
「分かってる。まずは現場を見るしかない」
少年は地図へ視線を落とした。
指定された地点は、いずれも日本国内の一般的な物流施設として登録されている。
その中の一つだけ、少し気になる場所があった。
住宅街と商業地区の境界に位置する、小さな倉庫。
ほかの施設より目立たない。
だが、資料に添付された記録には、同じ時間帯の出入りが何度も残されていた。
少年はその地点を拡大した。
明確な異常があるわけではない。
それでも、最初に調べるならここだろう。
そう判断した。
◇
地下施設の搬送室では、作業が中断されていた。
大型の保護容器は、昨日から同じ位置に固定されたままだ。
再移送に必要な機材の準備は進んでいる。
しかし、肝心の移送先がまだ知らされていなかった。
「……これ以上は進められません」
技術者の一人が報告した。
受領担当の男は、作業記録から顔を上げた。
「何が不足している?」
「搬送時の管理条件です。容器側の供給装置は正常ですが、移送中にどの系統を維持する必要があるのか、仕様書に記載がありません」
「前回の輸送記録は?」
「参照権限がありません」
男は端末に目を落とした。
昨日から同じ問題が続いていた。
何を運ぶのか知らされない。
どこへ運ぶのかも知らされない。
そのうえ、保管に必要な情報まで伏せられている。
命令に従うことと、安全に作業を進めることが、両立しなくなりつつあった。
「必要な情報を要求する。準備はそこで止めろ」
「了解しました」
技術者が作業員たちへ指示を伝える。
男は通信端末を起動した。
「受領担当より報告。再移送に必要な管理条件が不足しています。現状のままでは作業を進められません」
『確認した』
「移送先と管理条件の提示を要請します」
『条件は後ほど通知する』
「その回答では準備ができません。供給系統の構成さえ分からない状態です」
短い沈黙。
やがて、通信の向こうから声が返ってきた。
『容器への操作は、現状維持に限定しろ。移送計画を見直す』
「……了解しました」
通信が切れた。
男は端末を閉じた。
少なくとも、今すぐ再移送することはなくなったらしい。
だが、それで問題が解決したわけではない。
男は作業室の中央にある容器へ目を向けた。
そこに何があるのかを知らないまま、正常な管理を求められている。
昨夜、この物資を守るために一機のISが投入された。
そして、別のISが襲撃した。
そこまでして運ばなければならないものが、今は自分たちの目の前に置かれている。
「……いつまで隠すつもりだ」
答える者はいなかった。
◇
昼を過ぎた頃、少年の端末に新しい指示が届いた。
――外出を許可する。
――指定地点での目視確認を実施せよ。
――対象への接触は禁止。
少年は画面を読み終えると、地図を開いた。
先ほど目を留めた倉庫とは別の場所だった。
市街地の外れにある、古い物流施設。
添付された画像を見る限り、建物は現在も使われているらしい。
「……最初はこっちか」
《移動経路を表示します》
画面に鉄道と徒歩を組み合わせた経路が示された。
少年は立ち上がり、上着を羽織った。
右腕の痺れは、まだ残っている。
だが、歩くことに問題はなかった。
部屋を出る前に、机の上の紙を一度だけ見た。
――ISの展開を禁止する。
昨日受け取った命令書だ。
今日の通信でも、同じことを念押しされた。
それほどまでに、機体を表に出されたくないらしい。
少年は紙を伏せ、扉へ向かった。
今回は戦闘ではない。
見るだけ。
少なくとも、命令上はそうなっている。
◇
物流施設の周辺には、午後の穏やかな空気が流れていた。
道路には配送用のトラックが行き交い、少し離れた交差点では信号待ちの車列ができている。
少年は施設の向かいにある歩道を歩いた。
正門には警備員が一人。
搬入口には二台の貨物車両。
外から見える限り、特別な警戒態勢が敷かれている様子はなかった。
少年は足を止めずに通り過ぎる。
端末の画面には、施設の見取り図が表示されていた。
倉庫の裏手に別の出入口がある。
しかし、そちらへ回り込むには住宅街を大きく迂回する必要があった。
《対象施設を確認しました》
「記録と比べてどうだ?」
《公開情報と外観に大きな相違はありません》
「そうか」
少年は次の角を曲がった。
建物を離れながら、道路沿いの様子を確かめる。
複数の監視カメラ。
古いフェンス。
搬入口へ続く道路。
どれも珍しいものではない。
今のところ、確かに不審な点はなかった。
そのときだった。
背後で、短いクラクションが鳴った。
振り返ると、施設の搬入口から一台の小型貨物車が出てくるところだった。
白い車体。
側面に企業名はない。
車両そのものに目立った特徴もない。
少年は何気なく視線を向けた。
運転席には男が一人。
助手席にも人影がある。
それだけなら、気に留める理由はなかった。
だが、車両が道路へ出る直前、搬入口の脇に立っていた警備員が小さく手を挙げた。
運転手は窓を開けなかった。
何かを確認することもなく、そのまま走り去る。
警備員は車を見送ると、すぐに建物の中へ戻った。
「……」
少年は携帯端末を取り出した。
資料にあった車両画像と見比べる。
同じ車かどうかは分からない。
色も形も、ごく一般的なものだ。
しかし、画像の中に、よく似た車両があった。
少年は撮影日時を確認した。
数日前の夕方。
場所は、別の物流施設。
画質が粗く、細部の照合はできない。
「……偶然かもしれないな」
《同一車両と判断できる情報は不足しています》
「分かってる」
少年は端末を閉じた。
ここで車を追えば、目視確認という命令の範囲を超える。
それに、似た車を見つけただけで追跡を始めるのは、判断として雑すぎる。
少年は施設の方へ一度だけ目を向けた。
白い貨物車は既に交差点の向こうへ消えている。
今は、見たものだけを報告すればいい。
そう決めて歩き出した。
◇
夕方。
指定された部屋へ戻ると、少年は確認した内容を端末へ入力した。
施設の外観。
車両の出入り。
警備員の配置。
そして、資料に似た車両が一台存在したこと。
ただし、最後の項目には注記を加えた。
――同一車両かは未確認。
報告を送信する。
返答はすぐに届いた。
――受領。
それだけだった。
「……感想くらいないのか」
《報告内容に明確な矛盾はありません》
「お前に聞いたんじゃない」
《了解しました》
少年は苦笑しかけ、すぐに表情を戻した。
今日は何も起きなかった。
正体不明のISも、武装車列も現れない。
日本へ戻って最初の仕事は、倉庫の前を歩き、出ていく車を一台見送っただけだった。
それでも、何も見つからなかったわけではない。
少なくとも、現地の状況は確認できた。
あとは次の指示を待つだけだ。
少年は窓際へ近づいた。
夕暮れの住宅街では、学生たちが連れ立って歩いている。
制服姿の少年少女。
笑いながら自転車を押す者。
買い物袋を提げて家路を急ぐ者。
その光景を眺めているうち、ふと、昔のことを思い出した。
自分にも、ああして帰る場所があった。
誰かと並んで歩いた記憶がある。
今では、ずいぶん遠い出来事に思えた。
少年は視線を落とした。
机の引き出しには、旅行鞄から取り出した一枚の写真が収められている。
まだ、見る気にはなれなかった。
携帯端末が短く振動した。
新しい指示だ。
――本日の監視任務は終了。
――明日、別件について説明する。
「……別件?」
少年は眉をひそめた。
今日の調査が終わったばかりだというのに、もう別の仕事が用意されているらしい。
続いて、画像ファイルが一件届いた。
開くと、日本の地図が表示された。
東京湾。
海岸線から海上へ延びる一本の鉄道路線。
その先に、人工島が描かれていた。
島には大きな施設があり、その周囲を海が取り囲んでいる。
少年は地図を拡大した。
画面の中央に、施設の名称が表示される。
――IS学園。
「……ここか」
少年はその文字を見つめた。
アラスカ条約に基づいて設置された、IS操縦者と関連技術者を育成する教育機関。
各国の代表候補生が集まり、一般の学校とは異なる国際的な立場に置かれている。
その名は知っていた。
しかし、自分がそこへ向かう理由には心当たりがない。
資料を下へ送る。
海上モノレールの路線図が添付されていたが、乗車券も入構許可証もない。
施設内の見取り図も、在籍者の名簿も送られていなかった。
少なくとも、今すぐ入れという命令ではないらしい。
「……で、何をさせたいんだ?」
《今回の資料には、具体的な行動指示が含まれていません》
「見れば分かる」
少年は画面を閉じかけ、手を止めた。
IS学園。
世界中から操縦者が集まる場所。
そこへ灰色のISを持つ自分が関われば、ただの物流施設を調べるのとは話が違う。
まして、学園には独自の規約と警備体制がある。
任務の説明もないまま近づいてよい場所ではなかった。
もう一度、画面の人工島へ目を向ける。
数秒後、追加の文章が表示された。
――現時点で学園への接触を許可しない。
――詳細は明日通知する。
「……だったら、最初からそう言えよ」
少年は端末を机に伏せた。
窓の外では、街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。
日本へ呼び戻された理由は、まだ分からない。
今朝与えられた監視任務と、IS学園の資料にどんな関係があるのかも。
それでも、明日になれば何かが動く。
少年はそう考え、窓のカーテンを閉じた。
東京湾に浮かぶ人工島。
その名が示されたことで、これまで輪郭のなかった次の任務に、初めて具体的な場所が与えられた。
だが、少年がそこへ足を踏み入れることになるのか。
それを決める事情は、まだ何一つ知らされていなかった。