IS〈インフィニット・ストラトス〉蒼穹の亡霊 作:右左右左右
東京湾の海上に、朝日が反射していた。
IS学園の対外窓口では、始業間もない時間から一件の照会について協議が行われていた。
「……男性のIS操縦者、ですか」
報告書を受け取った女性職員が、確認するように呟いた。
向かいに座る対外窓口の担当者は頷いた。
「正確には、操縦経験があると申告している男性です。能力を裏付ける記録は、まだ提出されていません」
「織斑一夏とは別人なのね」
「本人確認書類上は、そうなっています」
上席の女性職員は報告書の次の頁を開いた。
候補者の氏名と学歴。
提出された本人確認資料。
連絡を行ってきた代理人に関する情報。
形式上は、一人の少年の編入を相談する書類だった。しかし、ISの操縦経験があるという申告によって、通常の編入案件では済まなくなっている。
「仮に事実なら、保護についての協議が必要になるわね」
「はい。一夏君の前例もあります」
担当者は答えた。
「ただし、先に確かめなければならないことがあります。男性であることと、ISを起動できること。それから、申告されている操縦経験が本人のものかどうかです」
「使用した機体については?」
「形式も管理者も不明です。代理人には照会していますが、回答はありません」
上席の女性職員は眉をひそめた。
ISは、誰もが自由に入手できる機械ではない。
コアの数は限られ、各国の管理する機体にも、それぞれの来歴がある。操縦者の保護と、機体そのものの取扱いは、同じ手続きで決められることではなかった。
「本人との面談を進めましょう。代理人の説明だけで判断するのは危険よ」
「既に確認を求めています」
「それと、男性操縦者であることが確認された場合、保護措置が必要になる可能性は、本人にも説明しておいて」
「承知しました」
担当者は資料を閉じた。
学園に入るかどうかを、単純な進路希望だけで決められるとは限らない。
その一方で、何の説明もないまま少年を受け入れ、その後の扱いまで外部の組織に委ねるわけにもいかなかった。
まずは、直接話を聞く。
その方針だけは、二人の間で一致していた。
◇
少年が学園からの通知を受け取ったのは、朝食を終えた直後だった。
机に置いた携帯端末が振動する。
――候補者本人との事前面談を希望します。
――初回面談は遠隔通信で実施します。
――本人確認および申告内容の説明をお願いします。
少年は椅子に座り直した。
「……やっと話が進んだか」
《面談の候補時刻が三件提示されています》
「見せてくれ」
画面に時刻が並んだ。
最も早いものでも、翌日の午後だった。
少年はその一つを選択し、返信欄を開いた。
だが、送信する前に別の通信が入った。
見慣れた認証符号。
日本へ来る前から使用している、あの回線だった。
「……今度は何だ」
通話を接続する。
『学園からの通知は確認したな』
「ああ。明日、面談できるらしい」
『その前に、申告内容を確認しておく必要がある』
「昨日も言ってたな」
『提出書類と説明が食い違えば、余計な疑念を招く』
少年は画面を見つめた。
「……それで?」
『面談で尋ねられる内容について、こちらから資料を送る』
数秒後、端末に新しいファイルが届いた。
開くと、これまでの経歴に関する記述が並んでいた。
学歴。
居住歴。
過去に受けた訓練。
ISの操縦経験。
ただし、最後の項目には具体的な機体名が記されていなかった。
「……ずいぶん都合よく省いてあるな」
『開示する必要のない情報は伏せている』
「向こうは、操縦した証拠を出せって言ってるんだぞ?」
『必要な検証方法については調整する』
「方法が決まってないのに、操縦経験だけ申告したのか」
『先に事前照会を行う必要があった』
「……そうかい」
少年は資料の続きを読んだ。
書かれていることのすべてが嘘というわけではない。
しかし、重要な時期が抜けていた。
何をしていたのか。
どこにいたのか。
誰と行動していたのか。
それらを省けば、当然、実際とは違う人物像になる。
「これを、そのまま話せって?」
『不用意な情報開示は避けろ』
「それは分かる。でも、質問されたことに答えないなら、審査が止まるだけだろ」
『回答できない内容は、回答を保留すればいい』
「保留する理由も説明しなきゃならないんじゃないか?」
返事はなかった。
少年はファイルを閉じた。
「……なあ。俺を学園に入れたいんだよな?」
『そうだ』
「だったら、ちゃんと話を通してくれ。俺の名前と経歴を使う以上、何を書いて出したのかくらい、俺にも全部見せてほしい」
『お前の安全を考えている』
「なら、なおさらだ」
少年は言葉を続けた。
「公的に能力を確認されたら、保護される可能性が高いんだろ。その先で困るのは俺だ。誰かが書いた説明に、ずっと合わせて生きるわけにはいかない」
通信の向こうが静かになった。
しばらくして、男の声が返ってくる。
『……開示可能な記録については、再確認する』
「頼むよ」
『ただし、機体の詳細はまだ話すな』
「理由は?」
『来歴を説明できる状況ではない』
少年は右手へ目を落とした。
包帯の下には、まだわずかな痺れが残っている。
「……俺のISなんだけどな」
『だからこそ、慎重に扱う必要がある』
「分かってるよ。勝手に持ち込むつもりもない」
少年は少し間を置いた。
「でも、向こうが何を確認したいのかは、ちゃんと聞く。そのうえで、答えられることは俺が答える」
『……了解した』
通話が切れた。
少年はしばらく端末を見つめていた。
学園に入ることを拒否できるかどうか。
その問題は、まだ先にある。
まず、自分がISを操縦できるという事実を、どのように証明するのか。
そこで何を話すのか。
少なくとも、それくらいは自分で把握しておきたかった。
◇
同じ日の午後。
IS学園の対外窓口には、少年から面談時刻を選択した返信が届いていた。
担当の女性職員は認証情報を確認し、予定表へ登録する。
続いて、面談で扱う質問項目を整理した。
本人確認。
現在の学籍。
ISを操縦した時期と場所。
使用した機体についての申告。
操縦能力を証明する資料の有無。
どれも、避けて通れない項目だ。
そのとき、上席の女性職員から内線が入った。
『面談の日程は決まった?』
「はい。明日の午後を予定しています」
『候補者本人と直接つながる回線なのかしら』
「指定された端末を使用します。ただし、本人であることは面談時に確認します」
『分かったわ。代理人が同席を求めてきても、本人の回答と混同しないようにしてちょうだい』
「承知しています」
『それから、本人へ説明する内容を一つ追加してほしいの』
「何でしょうか」
『男性IS操縦者であると確認された場合、保護の必要性を含めた協議が始まる可能性があることよ』
担当者は頷いた。
「既に準備しています」
『本人が入学を希望しなかった場合も、保護の必要性とは分けて考えることになるわ』
「はい」
通信が切れる。
担当者は質問項目の最後に、説明事項を付け加えた。
――操縦能力確認後の取扱いについて。
――保護措置と教育機会の検討について。
――使用機体の管理に関する確認について。
その三つは、似ているようで別の問題だった。
少年の身柄をどう守るか。
学園で教育を受けることになるのか。
使用したISを、誰の管理下に置くのか。
一つが決まれば、残りも自動的に決まるわけではない。
担当者は画面を閉じた。
明日の面談で、すべてが明らかになるとは思っていない。
それでも、少なくとも今よりは前へ進めるはずだった。
◇
夕暮れの住宅街に、学校帰りの生徒たちの声が響いていた。
少年は窓際に立ち、その姿を眺めていた。
制服を着た男女が、何かを話しながら並んで歩いている。
自転車を押す者。
寄り道の相談をする者。
どこにでもある日常の光景だった。
《明日の面談予定を確認しますか?》
「もう見た」
《通信環境の事前確認を推奨します》
「それはやっておこうか」
少年は机へ戻り、端末の設定画面を開いた。
映像。
音声。
認証方法。
必要な項目を一つずつ確認する。
途中で、右腕に鈍い痛みが走った。
「……っ」
《右上肢への負荷を検知しました》
「大丈夫だ」
《連続した操作を避けてください》
「分かってる」
少年は左手に端末を持ち替えた。
学園側が操縦能力の確認を求めていることは分かる。
ただ、今の身体で高出力機動を行うつもりはなかった。
まして、見知らぬ相手の前で、何の安全確認もなくISを展開するわけにはいかない。
「……実機を見せろって言われたら、どうするかな」
《現在の身体状態では、高負荷を伴う操縦は推奨されません》
「だよな」
《操縦能力の確認方法については、学園側との協議が必要です》
「分かってる。そこは明日聞く」
少年は端末を机に戻した。
そのとき、引き出しが少し開いていることに気づいた。
中には、一枚の写真がある。
日本へ戻る際、鞄の奥にしまって持ってきたものだ。
少年は引き出しを閉じようとして、手を止めた。
しばらく迷った後、写真を取り出す。
裏返すと、そこには見覚えのある風景が写っていた。
昔の、自分にとって当たり前だった場所。
今では、ずいぶん遠くなってしまった場所。
少年は写真を眺めた。
学校へ通う。
誰かと同じ教室で過ごす。
授業が終われば、家へ帰る。
そんなことを、以前は特別だと思ったこともなかった。
「……今さら、か」
呟いて、写真を机へ伏せる。
明日の面談で何を聞かれるかは分からない。
聞かれたくないこともあるだろう。
それでも、何も知らない相手が、提出された書類だけで自分を判断するのは避けたかった。
少なくとも、話せることは自分で話そう。
少年はそう考えた。
◇
夜。
東京湾に浮かぶIS学園では、翌日の面談に向けた最終確認が行われていた。
担当の女性職員は、通信回線の接続試験を終え、面談資料を整理していた。
候補者の氏名は、既に提出されている。
写真付きの本人確認資料もある。
しかし、その名前と、ISを操縦したという申告を結びつける客観的な記録は、まだない。
織斑一夏の存在が知られている今、男性がISを動かせる可能性を、頭から否定することはできない。
だが、申告だけで事実と認めることもできなかった。
「……明日、ですね」
担当者は資料を閉じた。
面談の目的は、少年を問い詰めることではない。
まず本人の話を聞く。
申告された事実を整理する。
必要な検証方法を検討する。
そして、もし男性操縦者であることが確認されたなら、その先の保護について協議を始める。
それが、今できる最も確実な進め方だった。
◇
同じ夜、少年の端末に新しい連絡が届いた。
――面談前の申告内容確認について。
――追加資料を送付する。
差出人は、いつもの認証符号だった。
少年は添付されたファイルを開く。
そこには、以前より詳しい経歴が記載されていた。
だが、すべてが明らかになったわけではない。
特定の期間は依然として空欄で、ISに関する記述も最小限にとどめられていた。
少年は画面を下へ送った。
最後の頁には、面談時の注意事項が並んでいる。
――未承認の情報は開示しないこと。
――機体の名称および来歴については回答を保留すること。
少年はその一文を見つめた。
「……名前まで?」
《機体情報の開示に制限が設定されています》
「見れば分かる」
端末を閉じかけ、少年はもう一度文章を確認した。
機体の名前。
開発された場所。
これまでの運用記録。
それらを明かせば、簡単には収まらない騒ぎになるかもしれない。
だから、何でも話せばいいとは思わない。
だが、学園側が確認を求めているのは、単なる好奇心からではない。
ISを動かせるという申告。
その裏付けがなければ、話は進まない。
少年は返信欄を開いた。
しばらく考えてから、短い文章を入力する。
――資料は確認した。
――開示できない情報があることは理解している。
――ただし、学園側から必要な説明を求められた場合、回答を保留する理由についても確認したい。
送信。
返答はなかった。
少年は端末を伏せた。
明日、自分の名前を名乗ることになる。
それだけで何かが変わるとは思わない。
だが、これまで画面の向こうにいた人間と、初めて顔を合わせて話すことになる。
学園へ入ることになるのか。
保護されるのか。
自分のISをどう扱われるのか。
まだ決まっていないことばかりだった。
少年は窓の外へ目を向けた。
街の灯りが、遠くまで続いている。
この国へ戻ってから、何度も見た夜景だった。
その向こうには、東京湾がある。
さらにその先には、IS学園の人工島がある。
少年は静かに息を吐いた。
「……明日は、少し面倒そうだな」
《面談開始時刻の前に通知します》
「頼む」
《了解しました》
合成音声が途切れた。
部屋には、再び静けさが戻る。
少年は伏せていた写真を引き出しへ戻し、明日のために端末を充電器へ接続した。
まだ何も決まっていない。
けれど、自分に関することを、自分の口で説明する。
そのための準備だけは、終えておきたかった。