第1節 夏休み前の教室
夏休みまで、あと一日。
東京都内にあるその高校は、お世辞にも新しい学校とは言えなかった。黒ずんだコンクリートの外壁には何度も補修した跡が残り、窓枠の塗装はところどころ剥げていた。廊下の床板には長年の傷が刻まれ、階段の手すりは塗り重ねられた塗料で妙に厚くなっている。
七月の朝から蒸し暑かった。校庭の木では蝉が鳴き、窓を開けた教室には生ぬるい風が入ってくる。天井の扇風機が頼りなげに回っていた。
「なあ高橋、夏休みどうすんの?」
声をかけてきたのは川崎だった。
高橋亘一は、自分の席で鞄を下ろしながら肩をすくめた。
「別に。家でゲームしてると思う」
「お前、毎年それじゃね?」
「毎年って、まだ高校一年だろ」
「ああ、そうだった」
川崎が笑った。
高橋は十六歳。背丈は百七十センチほどで、目立つ容姿でも、何か特別な才能を持っているわけでもない。成績は平均より少し上。中学ではバドミントン部にいたが、高校ではまだ部活を決めていなかった。自転車で通学し、帰宅すればゲームをする。自分では、ごく普通の高校生だと思っていた。
そこへ井上翔太が、いつもの山田直樹を連れてやってきた。
「高橋、夏休み、朝霞に行かないか?」
「朝霞?」
「自衛隊の広報イベント。装備展示があるらしいんだ」
小太りの井上は、軍事関係の話になると途端に饒舌になる。戦車の型式から小銃の口径まで、聞いてもいないことを延々と話し続ける男だった。
「俺は夏コミだな」と山田。
「お前、そればっかりじゃん」
「井上こそ自衛隊ばっかりだろ」
「実物の装備を見るのとアニメ見るのじゃ違うだろ」
「どっちも趣味だろ!」
高橋と川崎は顔を見合わせて笑った。二人の言い争いは、いつものことだった。
そのとき教室の扉が開いた。
「はい、皆さん。席についてくださーい」
数学教師の水野香織だった。
二十二歳の新任教師で、小柄な身体に大きな胸、丸い眼鏡がよく似合う。まだ学生のような雰囲気が残っており、男子生徒の中には「水野ちゃん」と呼ぶ者もいた。
「お、水野ちゃんだ」
川崎が小声で呟いた。
「声、大きいって」
「いや、今日もかわいいなと思って」
後ろの席の男子が、水野の胸の大きさについて下世話な冗談を言った。別の男子が笑い、女子生徒たちは冷たい目を向けた。
「男子、くだらない話してないで席について!」
伊藤千尋の甲高い声が飛んだ。
クラス委員長の千尋は成績がよく、教師からの信頼も厚い。言うべきことははっきり言うため、男子たちからは少し恐れられていた。
「はいはい、委員長」
「返事は一回!」
「はーい」
また笑い声が上がる。
水野は教卓に教材を置くと、眼鏡の位置を直した。
「そこ、静かにしましょうね。今日は夏休み前の確認問題をやります。難しくありませんから」
「先生、夏休みなんだから授業やめません?」
「まだ夏休みじゃありません!」
水野が少し頬を膨らませると、教室に笑いが広がった。
高橋はノートを開いた。授業はいつもどおり進んだ。黒板に書かれる数式、チョークの音、眠そうな生徒たち。水野は途中で計算を間違え、生徒に指摘されると真っ赤になって書き直した。
「先生、そこ符号が違います」
「あ、本当だ。ありがとう、伊藤さん」
「先生、大丈夫ですかー」
「大丈夫です! 新米なので緊張することもあるんです!」
誰かが笑い、また授業が続いた。
水野は今年採用されたばかりだった。学校の学年主任である広瀬先生が、授業から生徒指導まで何かと面倒を見てくれているらしい。廊下で二人が話している姿を高橋もよく見かけた。
昼休みになった。
高橋が弁当を食べ終えて教室へ戻ろうとしたとき、廊下の角で声をかけられた。
「おい、高橋」
佐々木健だった。
隣には中村拓也がいた。佐々木はクラスでも目立つ不良グループの中心で、気に入らない生徒に絡んでは楽しんでいた。中村はいつも佐々木に付き従い、弱いと見れば一緒になって威張る。中学時代から絡まれてる相手であった。
「ちょっと来いよ」
「……何?」
「いいから」
人気の少ない階段の踊り場まで連れて行かれたところで、佐々木は高橋の胸ぐらを掴んだ。
「お前、金持ってるだろ」
「持ってないよ」
「嘘つくなよ。財布出せ」
「いや、困るって」
「いいから出せって!」
佐々木の手に力がこもった。抵抗すれば殴られるかもしれない。高橋は仕方なく財布を取り出した。
中村が横から覗き込む。
「何だ、あるじゃん」
佐々木は財布から千円札を二枚抜き取った。
「ちょっと、それ……」
「ちょっと借りるわ、気が向いたら返してやるから」
「やめてくれよ」
「うるせえな。文句あるのか?」
佐々木に睨まれ、高橋は口を閉じた。
「最初から素直に出せばいいんだよ」
佐々木は笑いながら中村と去っていった。
廊下に一人残された高橋は、しばらく財布を見つめた。二千円。夏休みに使おうと思っていた金だった。
「……最悪」
小さく呟いて教室へ戻ると、川崎がすぐに気づいた。
「どうした? 顔、暗いぞ」
「佐々木に金取られた」
「またかよ。先生に言えって」
「言ってどうなるんだよ」
「少なくとも、黙ってたらまたやられるぞ」
高橋は答えなかった。川崎の言うことは正しいと思う。ただ、その後の仕返しまで考えると、なかなか踏み切れなかった。金で済めばまだいいかもと思いつつも、じわりと腹ただしさを感じる。
放課後、教室に残って鞄をまとめていると、水野が声をかけてきた。
「高橋君、帰らないの?」
「今、帰ります」
「そう。明日は全校集会だから、遅刻しないでね」
「はい」
水野は高橋の顔を少し覗き込んだ。
「何か元気ない? 具合でも悪い?」
「いえ、大丈夫です」
「そう? 困ったことがあったら先生に言ってね」
その真面目な口調に、高橋は一瞬、昼休みのことを話そうかと思った。
けれども、結局言葉は出なかった。
「ありがとうございます。じゃあ、失礼します」
「はい。気をつけて帰ってね」
校舎を出ると、夕方になっても暑さが残っていた。高橋は駐輪場で自転車の鍵を外し、家へ向かって走り出した。
明日は全校集会。ようやく夏休みになる。
井上は自衛隊の催しを楽しみにし、山田はアニメのイベントに浮かれている。川崎は部活と遊びの予定で忙しいらしい。高橋には大した予定もなかったが、それでも長い休みが待ち遠しかった。
誰にとっても、いつもと変わらない夏の一日だった。
翌日、自分たちの身に何が起こるのか。
このとき、知っている者は誰もいなかった。