午後になり、高橋亘一は荷物をまとめて訓練兵舎を出た。
三か月以上暮らした兵舎を離れるのは、思っていた以上にあっけなかった。身の回りの物はそれほど多くなく、支給された衣類や日用品を背嚢に詰め、毛布を丸めれば、それでほとんどの荷物が収まってしまう。
日本から持ってきた私物は一つもない。そもそも七月に召喚されたとき、高橋たちは全員、何も身につけていない状態でこの世界に現れたのだ。今持っているものは、すべて帝国から支給されたものか、こちらに来てから手に入れたものだった。
昼食を終えた新兵たちは、それぞれの配属先へ向かう準備を始めていた。兵舎の廊下には荷物を抱えた者たちが行き交い、あちこちから別れの挨拶が聞こえてくる。第1中隊へ向かう川崎と井上は、すでに荷物をまとめて出発していた。山田も第4中隊へ向かい、いつも四人で使っていた寝台の周囲はすっかり静かになっている。
高橋は最後にもう一度、自分が使っていた寝台を見た。
毛布を片づけた寝台には何も残っていない。隣の寝台も空になっており、いつもなら聞こえてくる井上たちの話し声もなかった。
少し寂しい気もしたが、いつまでもここにいるわけにはいかなかった。
背嚢を担ぎ直し、渡された配属通知書と施設の略図を確かめると、高橋は兵舎を後にした。
浸透偵察小隊の施設は、一般の歩兵中隊の兵舎からかなり離れた場所にあった。
高橋はまず連隊本部のある区域へ向かった。これまでの訓練でも何度か通ったことのある場所だが、そこから先はまったく知らない区域になる。略図によれば、連隊本部の建物を過ぎ、倉庫や厩舎の並ぶ一角を抜け、さらに林に沿って進んだ先に目的の施設があるらしい。
連隊本部の周辺には、石造りの事務棟や木造の倉庫が並んでいた。建物の間には砂利を敷いた道が通り、荷物を積んだ馬車が時折行き来している。重そうな荷車を引く馬の蹄が石畳を打つ音や、御者が馬に声をかける声が聞こえ、厩舎の近くでは干し草と馬特有の匂いが漂っていた。
帝国軍では物資の運搬も、砲の牽引も、その多くを馬に頼っている。最初の頃は軍隊なのに馬車ばかり走っていることが不思議だったが、今では高橋も見慣れた光景になっていた。
本部区域を抜けると、人通りは急に少なくなった。歩兵中隊の兵舎から聞こえていた号令や駆け足の足音も遠ざかり、代わりに風が木々の枝を揺らす音が聞こえるようになった。
十一月の午後の日差しは弱く、林の陰に入ると途端に空気が冷たく感じられた。
高橋は略図と周囲の地形を交互に見比べながら歩いた。
「確か、この先だったよな……」
何度か道を間違えそうになったものの、やがて林の向こうに建物が見えてきた。
そこは二階建ての木造建築で、ほかの兵舎と比べるとずいぶん新しく見えた。外壁の木材にはまだ明るい色が残っており、屋根や窓枠もしっかりしている。少なくとも、これまで暮らしていた訓練兵舎より新しい建物であることは間違いなさそうだった。
建物の前には小さな広場があり、端には訓練用と思われる木製の障害物が置かれていた。その向こうには別の平屋建ての建物がいくつか並び、さらに奥には木々の茂る一角が見える。
敷地の端には厩舎もあり、柵で囲まれた場所に数頭の馬がつながれていた。
高橋は入口の横に掲げられた小さな表示板を確認した。
浸透偵察増強小隊。
配属通知書に書かれた名称と同じだった。
「ここか……」
想像していたよりも、ずいぶん普通の建物だった。
特殊な任務を行う部隊だと聞いていたので、もっと物々しい施設を想像していたのだが、見たところ新しい兵舎と大した違いはない。強いて言えば、一般の歩兵中隊からずいぶん離れており、周囲に人が少なく、妙に静かなことくらいだった。
高橋は背嚢を背負い直すと、入口へ向かった。
* * *
建物の扉を開けると、細長い廊下が奥へと続いていた。
床板はまだ新しく、壁や窓枠もきれいに整えられていた。壁にはいくつかの掲示板が設けられ、当番表らしい紙や訓練日程が貼り出されている。高橋はその文字を読もうとしたが、帝国共通語とは違う見慣れない文字が並んでいることに気づいた。
(なんだ、これ……)
七月から帝国共通語を勉強してきたが、こんな文字は習ったことがなかった。
高橋が掲示板を眺めていると、廊下の奥から二人の兵士が歩いてきた。
どちらもエルフだった。
一人は女性で、もう一人は男性らしい。二人とも軍服を着ているが、歩兵中隊で見かける兵士たちより装備が簡素に見えた。女性の方は何かを話しながら書類を指さし、男性はそれに短く返事をしている。
しかし、高橋には二人の会話がまったく理解できなかった。
帝国共通語ではない。
そのことに戸惑っているうちに、二人は高橋の前までやってきた。
女性兵士が足を止め、不思議そうに高橋を見た。
「……新兵?」
今度は帝国共通語だった。
「あ、はい!」
高橋は慌てて姿勢を正した。
「本日付で浸透偵察小隊に配属されました、高橋亘一二等兵です!」
そう言って敬礼すると、女性兵士は少し驚いたような顔をした。
「ああ、今日来るっていう日本人ね」
女性兵士は高橋の顔を眺め、それから背嚢に目を向けた。
「小隊本部に出頭するんでしょう?」
「はい」
「それなら廊下の突き当たり。右側の部屋よ。小隊長もいると思うから」
「ありがとうございます!」
高橋がもう一度敬礼すると、女性兵士は軽く手を振って歩き出した。
二人は高橋の横を通り過ぎると、再び聞き慣れない言葉で会話を始めた。
高橋はその後ろ姿を見送りながら、少し不安になった。
どうやら、ここでは帝国共通語以外の言葉が日常的に使われているらしい。
それも、かなり普通に。
(エルフ語ってやつなのかな……)
高橋は廊下の奥へ向かった。
突き当たりの右側には、ほかより少し大きな扉があった。横の表示板には帝国共通語で小隊本部と書かれている。
高橋は扉の前で背筋を伸ばし、軽く深呼吸してからノックした。
「入れ」
低い声が聞こえた。
「失礼します!」
高橋は扉を開け、室内へ足を踏み入れた。
部屋は思っていたより広く、中央には大きな机が置かれていた。机の上には何枚もの地図と書類が広げられ、壁際には書棚や鍵のついた保管箱が並んでいる。窓の近くには小さな暖房器具があり、室内には紙とインク、そしてわずかに油の混じった匂いが漂っていた。
奥の机には、一人のエルフの男性が座っていた。
高橋はその姿を見た瞬間、思わず足を止めそうになった。
大きい。
座っていてもわかるほど肩幅が広く、軍服の上からでも鍛えられた身体つきが見て取れる。顔にはいくつもの古い傷痕があり、右耳の一部にも銃弾によるものらしい傷が残っていた。
銀髪を短く整えたその男性は、机の上の書類から顔を上げ、高橋をじっと見た。
鋭い目つきだった。
怒っているわけではないのだろうが、ただ見られているだけで妙な緊張を覚える。
(この人が小隊長か……)
石井軍曹の話していた、背が高くて傷だらけの少佐。
おそらく間違いない。
高橋は慌てて姿勢を正した。
「本日付で浸透偵察小隊に配属されました、高橋亘一二等兵です!」
敬礼して報告すると、男性は書類を机に置いた。
「高橋亘一だな」
「はい!」
「ヴァルター・エルフェン少佐だ。この小隊を指揮している」
ヴァルターは椅子から立ち上がった。
高橋は改めて、その身体の大きさに驚いた。身長だけでなく、肩幅も胸板も厚い。顔の傷痕と相まって、これまで見てきた軍人たちとは少し違う迫力があった。
ヴァルターは高橋を上から下まで一通り眺め、それから机の前に置かれた椅子を指さした。
「まあ、座れ。荷物はそこに置いていい」
「はい」
高橋は背嚢を下ろし、少し緊張しながら椅子に腰を下ろした。
ヴァルターも向かいに座り、机の上にあった一冊の書類を開いた。
「訓練成績は見させてもらった」
書類には高橋の名前と、これまでの訓練成績が記載されているらしかった。
ヴァルターは数枚の紙をめくりながら、時折高橋の顔に目を向けた。
「射撃成績が随分いいな」
「ありがとうございます」
「特に遠距離射撃だ。教官の報告では、目標の識別能力がほかの新兵よりかなり高いそうだが」
「はい」
「視力検査でも、相当いい数字が出ているな。日本では何か特別なことをしていたのか?」
「いえ、特には何もしていません」
高橋は正直に答えた。
日本では、ごく普通の高校生だった。射撃など経験したこともなかったし、軍隊について詳しかったわけでもない。
視力がいいことは自覚していたが、それが特別な能力だと思ったこともなかった。
ヴァルターは頷くと、書類をもう一枚めくった。
「体力は平均程度か。行軍と障害物訓練も、特に問題はないようだな」
「はい」
「帝国共通語の成績は……まあ、三か月にしては悪くない」
ヴァルターはそう言って書類を閉じた。
「ところで、高橋。おまえはこの小隊がどういう部隊か知っているか?」
「いえ、詳しくは知りません。石井軍曹から、敵陣に入り込んで偵察をする部隊だと聞きました」
「石井?」
ヴァルターは少し考えるような表情をした。
「第3歩兵中隊の石井軍曹か」
「はい」
「ああ、あの日本人か。確か第15期だったな」
高橋は少し驚いた。
石井軍曹のことを知っているらしい。
「石井軍曹をご存じなんですか?」
「顔と名前くらいはな。直接話したことはほとんどないが」
ヴァルターは何でもないことのように答えた。
「この小隊は、通常の歩兵とは少し任務が違う。敵の前線を越えて情報を集めることもあれば、敵の動きを観測して砲兵に情報を送ることもある。場合によっては、特定の目標を狙撃することもある」
高橋は黙って聞いていた。
ヴァルターは机の上に広げられていた地図を指で軽く叩いた。
「歩兵中隊なら、中隊全体で行動することが多い。だが、我々は違う。少人数で行動することが基本だ。四人から五人で一つの班を組み、必要に応じてそれぞれ独立して動く」
「四人から五人ですか?」
「そうだ。少人数で敵の近くまで行く以上、見つからないことが何より重要になる。銃を撃つより、撃たずに帰ってくる方が難しいこともある」
ヴァルターは淡々と話していた。
その口調には、特別な任務を誇るような響きはなかった。単に、自分たちが普段行っている仕事を説明しているだけなのだろう。
「おまえは射撃の成績がいい。それに目もいい。偵察や狙撃の適性があるかもしれん」
「はい」
「ただし、射撃が上手いだけでは役に立たん。自分の目で見たものを正しく判断し、それを仲間に伝えられなければ意味がない。そこはこれから覚えてもらう」
ヴァルターはそう言うと、部屋の入口の方へ目を向けた。
「エレナ」
高橋は少し驚いて振り返った。
いつの間にか、入口の近くに一人の金髪の女性が立っていた。
身長は高橋よりもかなり高く、細身だが姿勢がよく、軍服の着こなしにも無駄がなかった。長い耳を持つエルフの女性で、落ち着いた表情をしている。
年齢はよくわからなかった。日本人の感覚では若い女性にも見えるが、エルフは人間より長命だと教わっている。外見だけで年齢を判断することはできないらしい。
女性はヴァルターに向かって何かを言った。
高橋には理解できない言葉だった。
ヴァルターも同じ言葉で短く答えた後、高橋の方へ向き直った。
「紹介しよう。エレナ・ヴァルデン伍長だ。おまえがこれから所属する班の班長になる。うちの最古参だ」
「はい!」
高橋は立ち上がり、敬礼した。
「高橋亘一二等兵です。よろしくお願いします!」
エレナはその様子を見て、少し微笑んだ。
「エレナ・ヴァルデンよ。よろしくね、高橋」
帝国共通語だった。
声は落ち着いており、発音もはっきりしている。
高橋は少し安心した。
ヴァルターは高橋の訓練成績表をまとめ、エレナに手渡した。
「エレナ。こいつをおまえの班に入れる。欠員の補充だ」
「わかりました」
エレナは書類を受け取り、ざっと目を通した。
「射撃成績、いいですね」
「ああ。特に目がいいらしい。使えるかどうかは、おまえが判断してくれ」
「はい」
エレナは高橋の方を見た。
「高橋、これから私の班で訓練を受けてもらうわ。わからないことも多いと思うけど、遠慮しないで聞いてね」
「はい。よろしくお願いします」
「それから、ひとつ」
エレナは少し笑った。
「この小隊では、普段は階級で呼ばなくていいの。私のこともエレナでいいから」
「え?」
高橋は思わず聞き返した。
軍隊に入ってからというもの、上官を階級で呼ぶことは徹底して教え込まれてきた。それが、いきなり名前で呼んでいいと言われても、すぐには馴染めない。
「エレナ伍長、ではなくてですか?」
「そう。エレナでいいわ」
エレナは当たり前のことのように答えた。
ヴァルターも特に異議を唱える様子はなかった。
「この小隊では、そういう決まりになっている。公式の報告や他部隊とのやり取りは別だがな」
ヴァルターが説明した。
「少人数で行動する部隊だ。普段から必要以上に堅苦しくする必要はない」
「わかりました」
高橋は頷いたものの、まだ少し戸惑っていた。
ヴァルターはそんな高橋の様子を見て、わずかに笑った。
「まあ、そのうち慣れる。エレナ、あとは頼む」
「はい」
エレナは訓練成績表を抱え、高橋の方へ向き直った。
「じゃあ、高橋。まずは宿舎へ案内するわ。荷物を持ってきて」
「はい!」
高橋は背嚢を担ぎ直し、ヴァルターに敬礼した。
「失礼します!」
ヴァルターは軽く頷くと、再び机の上の書類に目を落とした。
高橋はエレナの後について部屋を出た。
* * *
小隊本部を出ると、エレナは建物の裏手へ向かった。
高橋は少し早足でその後を追った。
建物の裏には、思っていたより広い敷地があった。木造の宿舎がいくつか並び、その間には砂利道が通っている。端には洗濯物を干す場所があり、別の建物の前では数人の兵士が装備の整備をしていた。
どの兵士もエルフだった。
高橋が珍しそうに周囲を見回していると、エレナが振り返った。
「どうしたの?」
「あ、いえ。思ったより普通の兵舎なんだなと思って」
「そう?」
エレナは少し笑った。
「何か特別なものを想像してた?」
「まあ、ちょっと……」
「残念だけど、普通の軍隊の兵舎よ。寝る場所があって、食事をする場所があって、装備を置く場所があるだけ」
エレナは歩きながら周囲の建物を指さした。
「あっちが食堂。その隣が倉庫。奥にあるのが装備の整備をする建物ね。訓練場は、この先の林を抜けたところにもあるわ」
高橋は説明された方向へ目を向けた。
建物の奥には、背の高い木々が密集している。林の入口には細い道があり、地面には何度も人が通ったような跡が残っていた。
「ここで訓練するんですか?」
「ここでもするけど、もっと遠くへ行くこともあるわ。何日も戻らないことだってあるから」
「何日も?」
「そうよ。偵察の訓練は、兵舎の近くだけじゃできないもの」
エレナは特に大変そうな様子もなく答えた。
高橋は背嚢の肩紐を握り直した。
これまでの訓練でも野外で寝泊まりすることはあったが、数日間も続くとなると話は違う。しかも、偵察ということは、ただ歩くだけでは済まないのだろう。
二人は敷地の端にある厩舎の前を通りかかった。
柵の向こうには何頭もの馬がつながれており、一人の兵士がブラシを使って馬の身体を手入れしていた。別の兵士は飼葉を運んでいる。馬たちは時折首を振り、蹄で地面を掻いていた。
「馬が多いんですね」
高橋が言うと、エレナは頷いた。
「私たちは移動に馬を使うことが多いからね。徒歩で移動することもあるけど、遠くまで行くときは馬がないと不便なのよ」
「そうなんですか」
高橋は馬たちを眺めた。
基礎訓練では何度も行軍を行ったが、乗馬の訓練は受けていない。日本でも馬に乗った経験などなかった。
エレナはそんな高橋の様子を見て、少し笑った。
「高橋、馬に乗ったことはある?」
「いえ、一度もありません」
「そう。じゃあ、明日から覚えないとね」
「え?」
「最初の訓練は乗馬よ。馬に慣れるところから始めることになるわ」
高橋は思わず厩舎の方を見た。
馬は近くで見ると思っていた以上に大きい。これまで訓練で何度も見かけてはいたが、自分がその背中に乗るとは考えたこともなかった。
「乗馬ですか……」
「そう。乗れないと移動のたびに困るでしょう?」
エレナは当然のことのように答えた。
「最初から上手に乗れなくても大丈夫よ。まずは馬の扱い方から教えるから」
高橋は頷いた。
どうやら明日からの訓練は、これまでとはまったく違うものになりそうだった。
二人が再び歩き始めると、向こうから三人のエルフ兵士がやってきた。
三人ともエレナの姿を見ると声をかけた。
エルフ語だった。
エレナも同じ言葉で返事をし、何かを説明しているらしい。三人の視線が一斉に高橋へ向けられた。
高橋は思わず背筋を伸ばした。
一人が高橋に向かって軽く手を上げたが、何と言われたのかはわからない。
とりあえず頭を下げると、三人は笑いながら歩いていった。
「今、何て言ったんですか?」
高橋が尋ねると、エレナは少し面白そうに笑った。
「今日来た日本人かって聞かれたの。そうだって答えたら、よろしくって」
「そうだったんですか」
「みんな、あなたが来ることは知ってるわよ。うちの小隊に日本人が配属されるのは初めてだから」
高橋は少し気恥ずかしくなった。
自分が思っている以上に、周囲から注目されているらしい。
「それにしても、さっきから皆さん、何語で話しているんですか?」
「エルフ語よ」
エレナは当然のように答えた。
「ここでは普段、みんなエルフ語で話しているの」
「帝国共通語じゃないんですか?」
「帝国共通語も話せるわ。私たちもちゃんと教育を受けているから。でも、エルフ語は私たちの母国語なの。やっぱり普段はそっちの方が楽なのよ」
エレナはそう言って微笑んだ。
「考えてみれば、高橋だって日本人同士なら日本語で話すでしょう?」
「はい。そうですね」
「それと同じよ。帝国共通語で話せないわけじゃないけど、エルフ同士なら自然にエルフ語になるの」
高橋は納得した。
確かに、川崎や井上たちと話すときは、わざわざ帝国共通語を使ったりしない。訓練中は別として、普段の会話では日本語を使う方がずっと楽だった。
エルフたちも同じなのだろう。
しかし、そこで一つ問題があることに気づいた。
「もしかして、俺も覚えないといけないんですか?」
「もちろん」
エレナはあっさりと答えた。
高橋は思わず足を止めそうになった。
「……また語学訓練ですか?」
「そうなるわね」
エレナは高橋の反応を見て、声を出して笑った。
「大丈夫よ。最初から全部覚えろなんて言わないから。少しずつでいいの」
そう言われても、高橋にとっては大問題だった。
帝国共通語を覚えるだけでも、毎日のように単語を書き取り、教官から発音を直され、ようやく簡単な会話ができるようになったところなのだ。
まさか、部隊に配属された途端にもう一つ言語を覚えることになるとは思っていなかった。
「でも、皆さん帝国共通語が話せるんですよね?」
「もちろん。高橋と話すときは帝国共通語を使うわよ。でも、私たち三人が話していることも、わからないと不便でしょう?」
「それは、まあ……」
「だから、少しずつ覚えてくれればいいの。最初はよく使う言葉だけでも十分よ」
エレナはそう説明した。
「それに、一緒に任務をするようになったら、お互いの言葉がわからないと困るからね。普段から慣れておいた方がいいと思うわ」
高橋は頷いた。
言われてみれば、その通りだった。
偵察中に仲間が何を言っているのかわからなければ、まともに行動することさえできない。
「わかりました。頑張ります」
「うん。最初は大変だと思うけど、私たちも手伝うから」
エレナはそう言って微笑んだ。
* * *
宿舎は、小隊本部から少し歩いた場所にあった。
外見はほかの建物と同じく、まだ比較的新しい木造の平屋だった。長い廊下の左右に部屋が並び、廊下の窓からは午後の日差しが差し込んでいる。
建物の中は比較的静かだったが、どこかの部屋から話し声が聞こえ、別の部屋では誰かが笑っている。時折、床板を踏む足音や扉を開け閉めする音も響いていた。
エレナは廊下を進み、一つの部屋の前で立ち止まった。
「ここよ」
扉を開けると、そこには四人用の部屋があった。
「……あれ?」
高橋は思わず声を漏らした。
部屋は想像していたよりも小さかった。
入口は部屋の中央にあり、左右に二台ずつ寝台が配置されている。同じ側の寝台は互いに密着するほど近く、中央に人が通れる程度の空間を残しているだけだった。
壁際には小さな棚があり、衣類や日用品が整然と収められていた。部屋の奥には窓が一つあり、その下には簡素な机と椅子が置かれている。
それだけで、部屋の大部分が埋まっていた。
「どうしたの?」
エレナが振り返った。
「あ、いえ。思ったより小さい部屋だなって」
「そう? 四人で使うには十分だと思うけど」
エレナは不思議そうな顔をした。
高橋は改めて室内を見回した。
確かに部屋は狭い。寝台の間もほとんど空いていないし、荷物を広げる場所もあまりなさそうだった。
しかし、これまでの訓練兵舎は大勢の新兵が同じ広い部屋で寝起きしていた。夜になっても誰かが話していたり、廊下を人が行き来していたりして、落ち着かないことも多かった。
それに比べれば、四人だけの部屋というのは随分静かそうだった。
(まあ、四人部屋ならちょっと得した気分だな……)
高橋はそんなことを考えた。
少なくとも、大人数の兵舎よりは落ち着いて眠れそうだった。
「入って」
エレナに促され、高橋は部屋へ足を踏み入れた。
室内には二人のエルフがいた。
一人は寝台に腰かけて何かの書類を読んでおり、もう一人は棚の前で衣類を整理していた。
エレナが声をかけると、二人は顔を上げた。
やはりエルフ語だった。
高橋には何を話しているのかわからなかったが、二人の視線が自分に向けられたので、紹介されているのだろうと察した。
「高橋、紹介するわ」
エレナは帝国共通語に切り替えた。
「こちらがアルノー・ケルヴァン兵長。こっちがミレーナ・セリス上等兵。二人とも、これから同じ班で行動する仲間よ」
「高橋亘一二等兵です。よろしくお願いします!」
高橋は姿勢を正し、敬礼した。
二人は一瞬顔を見合わせた後、アルノーが先に口を開いた。
「アルノーだ。よろしく」
落ち着いた声だった。
アルノーは高橋を一通り眺めると、少し笑った。
「そんなに固くならなくていい。ここでは普通にしてくれ」
続いてミレーナが立ち上がった。
「私はミレーナ。よろしくね、高橋」
ミレーナは明るい表情で高橋に近づいてきた。
「日本人って聞いてたから、どんな人が来るのかと思ってたけど、思ったより若いのね」
「ええと……はい」
高橋は少し返事に困った。
自分としては、日本では高校一年生だったのだから、若いと言われれば確かにその通りだった。だが、エルフの年齢は見た目ではわからない。目の前のミレーナが何歳なのかも想像がつかなかった。
「ミレーナ、あんまり質問攻めにしないでね。高橋は今来たばかりなんだから」
エレナが笑いながら言った。
「わかってるって。ちょっと気になっただけよ」
ミレーナはそう答え、再び棚の前へ戻った。
エレナは部屋の右側にある寝台を指さした。
「高橋、あなたの寝台はここよ」
「はい」
指定されたのは、右側に並んだ二台のうち、空いている方だった。
「隣は私が使ってるから、何かわからないことがあったら聞いてね」
「えっ、エレナさんの隣ですか?」
「そうよ」
エレナは何でもないことのように答えた。
高橋は二台の寝台を見比べた。
ほとんど隙間がない。
隣の寝台の毛布に手が届きそうな距離だった。
男女が同じ部屋で寝起きすることには、もう慣れているつもりだった。訓練兵舎でも男女の区別なく生活していたし、シャワー室だって共用だった。
それでも、初めて会った女性の班長と、これほど近い場所で寝ることになるとは思っていなかった。
もっとも、エレナはまったく気にしていない様子だった。
高橋は、ここで変に意識しても仕方がないと思い直した。
「わかりました。よろしくお願いします」
「うん。荷物はその棚に入れていいわよ」
高橋は背嚢を下ろし、指定された寝台へ近づいた。
腰を下ろすと、木製の枠がわずかに軋んだ。
訓練兵舎の寝台と大して変わらない。
ただ、周囲にいるのは初めて会ったエルフたちだった。
エレナは高橋の訓練成績表を机の上に置くと、椅子に腰かけた。
「さて、高橋。まずは少し説明しておくわね」
高橋は慌てて立ち上がろうとしたが、エレナに手で制された。
「座ったままでいいわよ」
「はい」
エレナは微笑み、アルノーとミレーナにも声をかけた。二人もそれぞれ近くの寝台に腰を下ろした。
「この班は私を含めて四人。これからは基本的に、この四人で訓練も任務も行うことになるわ。もちろん、任務によってはほかの班と一緒になることもあるけどね」
高橋は頷いた。
「それから、さっきも話したけど、この小隊では普段からエルフ語を使っているの。高橋にはこれから覚えてもらうことになるわ」
「はい」
「帝国共通語なら私たちも話せるから、最初はそれで構わない。でも、訓練中に使う言葉から少しずつ覚えていってほしいの」
エレナはそう言って、机の上に置かれていた紙を一枚取った。
そこには、高橋が先ほど廊下の掲示板で見たものと同じ、見慣れない文字が並んでいた。
「これがエルフ語の文字。帝国共通語とは文字の形も違うから、最初は読むのも大変だと思うわ」
高橋は紙を受け取った。
複雑な曲線や、細い線を組み合わせたような文字が並んでいる。
まったく読めなかった。
「……最初からですか」
高橋が思わず呟くと、ミレーナが笑った。
「大丈夫、大丈夫。私たちだって帝国共通語を覚えたんだから、高橋にもできるわよ」
アルノーも頷いた。
「最初は聞いて覚える方が早いだろうな。文字は少しずつでいい」
エレナは二人の言葉に頷き、高橋の方を見た。
「それに、エルフ語だけ覚えればいいというわけじゃないからね。これから偵察のやり方も、野外での行動も、装備の扱いも覚えてもらうことになるわ」
「それから乗馬もね」
ミレーナが付け加えた。
高橋は思わず顔を上げた。
「やっぱり、乗馬も必要なんですね」
「もちろん。ここに来る途中、厩舎を見たでしょう?」
「はい」
「私たちは遠くまで移動することが多いから、馬に乗れないと困るのよ」
アルノーも頷いた。
「歩くより馬の方が速いしな。装備を持って移動するときも便利だ」
高橋は少し遠い目をした。
三か月以上の基礎訓練を終え、ようやく一人前の兵士に近づいたつもりでいた。
ところが、ここへ来てみれば、何も知らない新兵に戻ったような気分だった。
そんな高橋の様子を見て、エレナは少し笑った。
「そんな顔しなくても大丈夫よ。誰だって最初は何も知らないんだから」
「そうですよね……」
「それに、高橋には射撃の才能があるって聞いてるわ。ヴァルターも期待してるみたいだし」
「そうなんですか?」
「ええ。あの人がわざわざ新兵の訓練成績を確認していたんだから、少なくとも興味はあるんでしょうね」
エレナは書類に目を向けた。
「でも、射撃が上手いからって、すぐに任務へ出せるわけじゃない。まずは私たちと一緒に行動できるようになってもらわないと」
「はい。頑張ります」
高橋がそう答えると、エレナは満足そうに頷いた。
「じゃあ、今日は荷物を片づけて、宿舎の場所を覚えるところまでにしましょう。明日の朝からは乗馬の訓練を始めるわ」
「はい」
「最初はアルノーについて、馬の扱い方を覚えてもらうことにするから」
アルノーは高橋に向かって軽く頷いた。
「よろしくな。まずは馬に慣れるところからだ」
「はい。よろしくお願いします」
エレナは笑顔を見せた。
「それから、名前の呼び方も少しずつ慣れてね。私たちも高橋のことは高橋って呼ぶから」
「はい。エレナ……さん」
高橋が少しぎこちなく答えると、ミレーナが笑い出した。
「さん、だって」
「いいじゃない。最初なんだから」
エレナも笑っていた。
アルノーまで口元を緩めている。
高橋は少し恥ずかしくなったが、不思議と嫌な気分ではなかった。
初めて会ったばかりの人たちだったが、少なくとも怖い人たちではなさそうだった。
* * *
その後、高橋は自分の荷物を片づけ始めた。
支給された衣類を棚に収め、日用品を整理し、毛布を寝台の上に広げる。持ってきたものが少ないため、作業はすぐに終わってしまった。
アルノーは向かいの寝台で装備の手入れを始め、ミレーナは机に向かって何かを書いている。エレナは訓練成績表を読みながら、ときどき二人に声をかけていた。
室内には穏やかな時間が流れていた。
窓の外では、ほかの班の兵士たちが何かを話しながら歩いている。遠くから笑い声が聞こえ、廊下では誰かが扉を閉める音がした。
高橋は寝台に腰を下ろし、改めて部屋を見回した。
今日から、ここが自分の生活する場所になる。
四人部屋。
エルフ三人と、日本人一人。
部屋は狭いが、訓練兵舎のように大勢が一緒に生活しているわけではない。寝台も自分専用で、棚も一人分が割り当てられている。
隣にはエレナの寝台がぴったりと並んでいるが、それさえ慣れてしまえば、案外快適に暮らせるかもしれなかった。
ただ、一つだけ大きな問題があった。
これまでの訓練兵舎では、周囲の日本人たちと日本語で話すことができた。わからないことがあれば川崎や井上に聞くこともできたし、水野先生も近くにいた。
だが、ここには知っている人間が一人もいない。
しかも、普段の会話はエルフ語だという。
目の前では、エレナとミレーナが何かを話していた。
時折笑い声が上がり、アルノーも会話に加わっている。
高橋には、何一つ理解できなかった。
三人の表情から、楽しい話をしているのだろうということだけはわかる。
高橋が黙ってその様子を眺めていると、エレナがこちらに気づいた。
「どうしたの、高橋?」
「あ、いえ。何を話してるのかなと思って」
「明日の朝食のことよ。ミレーナが、ここの食堂はほかの兵舎より料理がいいって自慢してたの」
「だって、本当なんだもの」
ミレーナが帝国共通語で答えた。
「明日の朝、楽しみにしててね」
「はい」
高橋は思わず笑った。
どうやら、軍隊の食堂について話すことは、日本人もエルフも大して変わらないらしい。
少しだけ、気持ちが楽になった。
エレナはそんな高橋を見ながら、穏やかな口調で言った。
「高橋。最初は言葉がわからなくて大変だと思うけど、遠慮しなくていいからね。わからなかったら、何度でも聞いて」
「はい。ありがとうございます」
「でも、なるべく早く覚えてね」
エレナは最後にそう付け加えた。
「みんな、普段はエルフ語の方が楽だから。高橋も一緒に話せるようになった方が楽しいでしょう?」
「はい」
高橋は改めて頷いた。
これから覚えることは山ほどある。
射撃、偵察、野外行動、乗馬、そしてエルフ語。
三か月以上かけてようやく帝国共通語を覚えたばかりなのに、また最初から言葉を勉強しなければならない。
それだけではない。
明日からは馬にも乗らなければならないのだ。
高橋は机の上に置かれたエルフ語の文字を眺め、思わず小さく溜息をついた。
その様子を見ていたミレーナが、また笑った。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。私たちが教えてあげるから」
アルノーも顔を上げた。
「まずは明日の朝、ちゃんと起きられることだな。それから馬の世話だ」
「馬の世話もするんですか?」
「当然だろ。乗るだけじゃ駄目だからな」
アルノーが何でもないことのように答えた。
高橋は、また一つ覚えることが増えた気がした。
「そうね。まずは馬と仲良くなるところから始めましょうか」
エレナまで笑い出した。
高橋もつられて笑った。
窓の外では、十一月の夕日が少しずつ傾き始めていた。淡い日差しが床に細長い影を落とし、部屋の中にはエルフたちの穏やかな話し声が響いている。
言葉はまだわからない。
だが、少なくともここでやっていけそうな気はした。
高橋は支給された小さな手帳を取り出すと、空いているページを開いた。
帝国共通語を覚えたときにも使っていた、単語を書き留めるための手帳だった。
これからは、ここにエルフ語を書き込むことになるのだろう。
高橋は白いページをしばらく眺めてから、机の上の紙に目を向けた。
まずは文字から覚えなければならない。
そして明日の朝には、馬に乗る訓練が始まる。
高橋はもう一度窓の外に目を向けた。
遠くから、馬のいななく声が聞こえてきた。
新しい部隊での生活は、どうやら想像していた以上に覚えることが多そうだった。