翌朝、高橋亘一は何かが身体に触れている感覚で目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗く、部屋の中には朝の冷たい空気が漂っていた。廊下の向こうからは誰かが歩く足音が聞こえ、遠くでは馬のいななく声もしている。訓練兵舎にいた頃なら、そろそろ起床の号令がかかる時間だった。
高橋はぼんやりと天井を眺め、身体を動かそうとした。
ところが、うまく動けない。
誰かの腕が自分の身体に回されていた。
「……え?」
顔を横に向けると、すぐ隣にエレナの顔があった。
昨夜、寝台がほとんど密着していることには気づいていたが、まさか眠っている間に抱きつかれるとは思わなかった。エレナは隣の寝台から身を寄せるような格好で、片腕を高橋の背中に回している。
高橋はしばらく状況を理解できずにいた。
(なんで……?)
昨日初めて会ったばかりの班長である。しかも相手は女性だ。訓練兵舎では男女が同じ部屋で寝起きしていたとはいえ、寝台の間には多少の間隔があった。
これでは、ほとんど同じ寝台で寝ているようなものだった。
「エレナさん……?」
高橋が小声で呼びかけると、エレナは少し身じろぎした。
「……ん……」
しかし、目を覚ます様子はない。
どうしたものかと困っていると、向かいの寝台から声がした。
「おはよう、高橋」
顔を上げると、アルノーがすでに起きていた。寝台の端に腰かけ、軍服の上着に袖を通している。
「お、おはようございます」
高橋が答えると、アルノーは二人の様子を見て小さく笑った。
「エレナ、またやってるのか」
その声で、ミレーナも目を覚ましたらしい。毛布の中から顔を出し、こちらを見て笑い始めた。
「あら、高橋。ずいぶん仲良くなったのね」
「いや、そういうわけじゃ……」
高橋は慌てて否定した。
アルノーは呆れたように肩をすくめた。
「エレナ、起きろ。新入りが困ってるぞ」
ようやくエレナが目を開けた。
「……おはよう」
寝ぼけた声でそう言った後、自分が高橋に抱きついていることに気づいたらしい。
「あら?」
エレナは少し考えるような顔をしてから、腕を離した。
「ごめんなさい、高橋。寝相が悪いのよ、私」
「そ、そうなんですか」
「寝台がくっついてると、ついね」
エレナは特に恥ずかしがる様子もなく、起き上がって髪を整え始めた。
高橋は何と答えればよいのかわからなかった。
ミレーナはまだ笑っている。
「高橋、これからは気をつけた方がいいわよ。エレナ、寝てるときは結構無防備だから」
「ミレーナ、余計なこと言わないの」
エレナが笑いながら注意した。
そのやり取りを聞いて、高橋はようやく少し落ち着いた。
どうやら、エレナにとっては大したことではないらしい。こちらの生活では、寝台が近いことも、こうした出来事も、いちいち騒ぎ立てるようなものではないのだろう。
それにしても、初日からこれである。
(なんか、すごいところに来たな……)
高橋はそんなことを思いながら、毛布を畳み始めた。
* * *
朝の身支度を終えると、エレナは高橋たちを連れて宿舎の外へ出た。
十一月の朝は冷え込んでいた。まだ低い位置にある太陽が林の向こうから差し込み、草地には白い霜が残っている。建物の屋根からは薄く煙が立ち上り、厩舎の方からは馬の蹄が地面を叩く音が聞こえていた。
小隊本部の前にある広場には、すでに大勢のエルフ兵士が集まっていた。
高橋はその光景を見て、少し驚いた。
昨日は数人ずつしか見かけなかったが、こうして全員が集まると、それなりの人数になる。五十名ほどの兵士たちは、それぞれの班ごとに集まって話をしており、時折笑い声が上がっていた。
全員がエルフだった。
人間とは違う長い耳を持ち、髪の色も容貌もさまざまだが、どの兵士も落ち着いた雰囲気をしている。年齢は外見からはわからないものの、若い兵士ばかりではないことは高橋にも感じられた。
訓練兵舎で見てきた新兵たちとは、ずいぶん雰囲気が違っていた。
広場に集まっている兵士たちは、軍服こそ同じだが、互いに気軽に話しかけ、階級を気にする様子もない。日本人の新兵たちが教え込まれてきた、整然と並んで号令を待つ軍隊の姿とは少し違って見えた。
もっとも、それぞれが勝手にしているわけではなかった。班ごとに自然と集まり、誰かが声をかければすぐに動けるような、長年の習慣が感じられた。
「高橋、こっちよ」
エレナが声をかけた。
高橋は背筋を伸ばして後に続いた。
アルノーとミレーナも一緒だった。三人は周囲の兵士たちにエルフ語で挨拶しながら、自分たちの班が並ぶ場所へ向かっていく。
その途中、何人かの兵士が高橋に目を向けた。
初めて見る人間が珍しいのだろう。だが、特別に騒ぐ者はいなかった。軽く手を上げる者や、エレナに何かを尋ねる者がいる程度だった。
高橋は、そのたびに頭を下げていた。
やがて広場の前方にヴァルター少佐が姿を現した。
昨日は机に向かっていたが、今日は軍服の上に防寒用の上着を羽織っている。背の高さと広い肩幅は離れた場所からでもよく目立ち、顔の傷痕も朝の光の中では一層はっきりと見えた。
ヴァルターが前に立つと、それまで会話していた兵士たちは自然と口を閉じた。
誰かが大声で号令をかけたわけではない。それでも、広場にいた全員の視線が小隊長へと向けられた。
ヴァルターは小隊員たちを見渡し、短く朝の連絡事項を伝え始めた。
エルフ語だった。
高橋には何を言っているのか、まったく理解できなかった。
周囲の兵士たちは時折頷き、何人かは手帳に何かを書き込んでいる。どうやら今日の訓練や当番について説明しているらしい。
高橋は困ったようにエレナを見た。
エレナはその視線に気づくと、小さく微笑んだ。
「あとで説明するから、今は聞いてるだけでいいわよ」
「はい」
高橋は少し安心した。
しばらくして、ヴァルターがこちらに目を向けた。
「高橋、前へ」
今度は帝国共通語だった。
突然名前を呼ばれ、高橋は慌てて姿勢を正した。
「はい!」
「こちらへ来い」
高橋はエレナに促され、兵士たちの前へ進み出た。
五十名近いエルフたちの視線が、一斉に自分へ向けられる。
訓練中に大勢の前で報告をしたことは何度もあったが、今まで日本人が一人も配属されたことのない部隊で、全員から注目されるのはさすがに緊張した。
ヴァルターは高橋が隣に立つのを確認すると、小隊員たちに向き直った。
「今日から新しい隊員が加わる。第20期の勇者、高橋亘一二等兵だ。日本人で、この小隊への配属は初めてになる」
ヴァルターは帝国共通語でそう説明した後、同じ内容をエルフ語でも伝えた。
兵士たちの間に、わずかなざわめきが起こった。
「勇者か」
「日本人が来るとはね」
「若いな」
そんな声がエルフ語で交わされていたが、高橋には聞き取れなかった。
その中で、少し離れた位置に並んでいた四人の女性兵士たちも、高橋を眺めていた。
フリーダ・ベルガーを班長とする、フリーダ班の四人だった。
落ち着いた様子のフリーダの隣には、リーナ・フォルストとゾフィー・ハルトマンが並び、その横にイルマ・ケルナーが立っていた。
四人にとっても、日本人の新兵が配属されるのは初めてのことだった。しかし、特別な感慨があるわけではない。今までエルフだけで構成されていた小隊に、少し毛色の違う兵士が入ってきた。その程度の関心だった。
イルマは、高橋をじっと見ていた。
周囲が小声で話している間も、特に何かを言うわけではなく、少しぼんやりした表情で高橋の顔を眺めている。
そして、突然エルフ語で呟いた。
「かわいい」
思ったことを、そのまま口にしたような声だった。
ところが、朝の連絡事項を聞いていた広場はすでに静かになっていたため、その一言は思いのほかよく響いた。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、周囲から大きな笑い声が上がった。
「はははは!」
「イルマ、いきなりそれか!」
「確かに若いけどね!」
リーナは腹を抱えて笑い、ゾフィーは呆れたように額に手を当てていた。フリーダも笑いをこらえきれず、口元を押さえている。
イルマだけは、どうして周囲がこんなに笑っているのかわからないという顔をしていた。
「だって、かわいいでしょう?」
その返事で、さらに笑い声が大きくなった。
近くの班にも笑いが広がり、何事かと振り返った者までつられて笑い始めた。
高橋は完全に取り残されていた。
(……え? 何?)
誰かが何かを言ったことはわかった。
しかし、エルフ語だったため、何と言ったのかさっぱり理解できない。
しかも、なぜか大勢の兵士たちが笑っている。
高橋は困ったように周囲を見回した。
(俺、何か変なことしたかな……)
自分の軍服を見下ろしてみたが、特におかしなところはない。敬礼の仕方を間違えたわけでもなさそうだった。
ヴァルターも苦笑していた。
「まったく、朝から元気な連中だな」
そう言って片手を上げると、笑い声は少しずつ収まっていった。
ヴァルターは高橋の方を向いた。
「高橋。簡単に挨拶しろ」
「は、はい!」
高橋は改めて姿勢を正した。
「高橋亘一二等兵です。本日からお世話になります。まだ何もわかりませんが、一生懸命頑張ります。よろしくお願いします!」
訓練中に教わった通り、声を張って挨拶した。
今度は誰も笑わなかった。
何人かが頷き、軽く手を上げている。エルフ語で声をかける者もいたが、やはり意味はわからなかった。
ヴァルターは満足そうに頷いた。
「高橋はエレナ班に配属する。言葉についてはまだエルフ語がわからんから、しばらくは帝国共通語を使ってやってくれ。教育についてはエレナに任せる」
「了解」
エレナが返事をした。
ヴァルターは続けて、今日の訓練についていくつか指示を出した後、小隊員たちを解散させた。
集まっていた兵士たちは、それぞれの班ごとに動き始めた。笑いながら話している者もいれば、早速装備の準備へ向かう者もいる。
高橋がエレナのところへ戻ると、ミレーナがまだ笑っていた。
「高橋、いきなり人気者になっちゃったわね」
「え? 何がですか?」
「気にしなくていいわよ」
エレナも笑っていた。
「みんな悪気があるわけじゃないから」
「はあ……」
高橋は何とも納得できない返事をした。
少し離れたところでは、フリーダ班の四人が歩き出していた。
リーナはまだイルマに何かを言って笑っており、ゾフィーは二人を急かしている。フリーダはそんな三人を眺めながら、いつものことだとでも言いたげに肩をすくめた。
イルマは最後に一度だけ高橋の方を見たが、特に声をかけることもなく、そのまま仲間たちと歩いていった。
高橋にとっては、名前も知らないエルフの女性だった。
向こうにしても、今日から入ってきた日本人の新兵というだけのことである。
特別な出来事というほどのものではなかった。
ただ、高橋には一つだけ気になることが残った。
(結局、何て言われたんだろう……)
エレナたちが笑っているところを見ると、悪口ではなさそうだった。
しかし、聞き返すのも何となく恥ずかしく、高橋はそのまま班の仲間たちについて歩き出した。
* * *
朝食を済ませると、高橋たちは厩舎へ向かった。
小隊の食堂は訓練兵舎のものより小さかったが、朝食は確かにおいしかった。焼きたてのパンに温かいスープ、卵料理までついている。昨日ミレーナが自慢していたのも、あながち大げさではなかったようだ。
食事中も周囲ではエルフ語が飛び交っていたが、エレナたちは高橋に話しかけるときだけ帝国共通語に切り替えてくれた。高橋は何となく申し訳なく感じたものの、今はそうしてもらうしかなかった。
厩舎に近づくにつれ、干し草と馬の匂いが強くなってきた。
木製の大きな建物の中には何頭もの馬が並び、兵士たちが飼葉を与えたり、馬体にブラシをかけたりしている。外には柵で囲まれた運動場があり、その奥には林へ続く道が見えていた。
高橋は昨日もここを通ったが、今日は中へ入って馬を扱うことになる。
「さて、高橋。乗馬の経験はないんだったな」
アルノーが声をかけた。
「はい。日本でも乗ったことはありません」
「そうか。じゃあ、まずは馬に慣れるところからだな」
アルノーは一頭の栗毛の馬を引いてきた。
高橋は近くで見て、改めてその大きさに驚いた。馬の背中は思ったより高く、太い首と力強い脚を持っている。鼻先からは白い息が漏れ、時折耳を動かしながら周囲の音を確かめていた。
「ほら、近づいてみろ」
アルノーに促され、高橋はおそるおそる馬のそばへ歩み寄った。
馬は大きな目で高橋を見た。
その目が思っていたより穏やかだったので、少し安心した。
「急に動くなよ。こいつも知らない相手には警戒するからな」
「はい」
「まずは首のあたりを撫でてみろ」
高橋は言われた通りに手を伸ばした。
馬の毛は想像していたより硬く、身体からは温かさが伝わってきた。
馬は特に嫌がる様子もなく、ゆっくりと首を動かした。
「よし。大丈夫そうだな」
アルノーは頷いた。
少し離れたところでは、エレナとミレーナが自分たちの馬の準備をしていた。二人とも慣れた手つきで馬具を確認し、鐙の長さを調整している。
その様子を見て、高橋は自分がまた一つ、まったく知らない世界に入ってきたのだと感じた。
日本では馬を見る機会などほとんどなかった。まして、馬に乗って移動するなど考えたこともない。
しかし、この世界では軍隊の移動手段として馬が当たり前に使われている。
「高橋、馬に乗る前に覚えることがある」
アルノーは手綱を持ちながら説明を始めた。
「まず、馬を怖がらせないことだ。こっちが慌てると、馬も落ち着かなくなる。それから、馬の世話は自分でできるようになってもらう」
「世話ですか?」
「そうだ。飼葉を与えて、身体を手入れして、蹄も確認する。馬だって生き物だからな。乗りっぱなしというわけにはいかん」
高橋は頷いた。
これまでの訓練でも銃の手入れは徹底して教わってきた。馬も同じように、普段から手入れをしなければならないのだろう。
もっとも、銃と違って馬には意思がある。
そこが一番難しそうだった。
アルノーは馬具の名称や扱い方を一通り説明すると、実際に馬を引いて歩くよう高橋に指示した。
最初は手綱を引く加減もわからず、馬の方が先に歩き出してしまうこともあった。高橋が慌てて追いかけると、アルノーが笑いながら注意する。
「走るな、走るな。馬に合わせるんじゃなくて、こっちが落ち着いて歩け」
「はい!」
高橋は少し顔を赤くしながら、もう一度やり直した。
何度か繰り返すうちに、ようやく馬と並んで歩けるようになってきた。
アルノーはそれを確認すると、今度は馬に乗る準備を始めた。
「じゃあ、乗ってみるか」
「はい」
高橋は返事をしたものの、馬の背中を見上げて少し不安になった。
近くで見ると、やはり高い。
アルノーが乗り方を実演してみせた。
鐙に足をかけ、身体を持ち上げると、あっという間に馬の背中に収まってしまう。動作には無駄がなく、まるで椅子に腰かけるような自然さだった。
「簡単そうに見えますね」
高橋が言うと、アルノーは笑った。
「慣れればな。最初は誰でも苦労する」
高橋も教えられた通りに鐙へ足をかけた。
しかし、思ったように身体が持ち上がらない。
ようやく馬の背中に乗れたと思ったら、今度は身体が傾いてしまった。
「おっと!」
アルノーが支えてくれたおかげで落ちずに済んだが、高橋は思わず馬の首にしがみつきそうになった。
「力を入れすぎだ。もっと自然に座れ」
「自然にって言われても……」
「ははは。まあ、最初はそんなもんだ」
少し離れた場所からミレーナの笑い声が聞こえてきた。
「高橋、大丈夫?」
「なんとか……」
「落ちないようにね!」
「ミレーナ、あんまりからかわないの」
エレナが笑いながら注意した。
高橋は何とか姿勢を整え、馬の背中に座り直した。
地面が思った以上に遠い。
しかも、馬が少し身体を動かすだけで、こちらも一緒に揺れる。
「じゃあ、ゆっくり歩かせるぞ」
アルノーが手綱を取った。
馬が一歩踏み出した瞬間、高橋の身体が揺れた。
「うわっ!」
「大丈夫だ。落ち着け」
アルノーは笑っていた。
高橋は必死に姿勢を保ちながら、馬の動きに合わせようとした。
歩いているだけなのに、想像以上に難しい。
背中が上下に揺れ、少し油断すると身体が左右に傾く。アルノーの指示に従って力を抜こうとするのだが、気がつけばまた身体が硬くなってしまう。
何度も同じことを注意されながら、運動場をゆっくりと回った。
しばらくすると、ようやく馬の動きに少しだけ慣れてきた。
「そうだ。その調子だ」
アルノーが頷いた。
「最初にしては悪くないぞ」
「ありがとうございます」
高橋は少し安心した。
しかし、その直後に馬が首を振り、高橋はまた慌ててしまった。
アルノーは声を上げて笑った。
「まだまだだな」
午前中の訓練は、そんな調子で続いた。
最後にはアルノーがすぐ横を歩く状態で、馬をゆっくり進めたり止めたりすることができるようになったが、それでも一人で乗り回せるようになるには、まだ時間がかかりそうだった。
馬から下りたとき、高橋は思わず大きく息を吐いた。
「疲れた……」
歩いていたのは馬の方なのに、なぜか自分まで全身を使ったような疲労感があった。
その様子を見て、エレナが笑った。
「どうだった?」
「思ってたよりずっと難しいです」
「そうでしょう。でも、慣れると便利よ。遠くまで移動するときは、馬があるとずいぶん楽だから」
ミレーナも頷いた。
「それに、何日も歩くよりいいわよ」
高橋は昨日エレナが話していた、数日間戻らない偵察訓練のことを思い出した。
なるほど、馬に乗れなければ話にならないわけだ。
「明日もやるんですか?」
高橋が尋ねると、アルノーが当然という顔で答えた。
「もちろん。しばらくは毎日だな」
高橋は少し遠い目をした。
どうやら乗馬訓練は、これから当分続くらしかった。
* * *
昼食を終えると、高橋たちは射撃場へ向かった。
午前中の乗馬訓練で疲れた身体には、昼食後の休憩がありがたかった。高橋は食堂でいつもより多めに食事を取り、少し休んでからエレナたちと装備を整えた。
射撃場は兵舎からさらに離れた場所にあった。
林を抜けると、緩やかな起伏のある広い草地が現れ、その向こうには低い丘陵が続いている。射撃場はその地形を利用して造られており、手前に射撃位置、奥の斜面に標的が設置されていた。
秋も終わりに近づいた草地は黄色く枯れ、ところどころに残った背の高い草が風に揺れている。雲の切れ間から差し込む日差しは弱く、遠くの丘の上には薄い霞がかかっていた。
射撃場にはすでに何人かの兵士がいた。
それぞれ銃の点検をしたり、標的の状態を確認したりしている。小隊の兵士たちは訓練の準備にも慣れているらしく、特に大きな声で指示を出す者がいなくても、自然と作業が進んでいた。
エレナは射撃位置の近くに荷物を下ろすと、高橋を呼んだ。
「高橋、今日はまず射撃を見せてもらうわ。訓練成績ではかなりいい数字が出ているけど、実際にどんな撃ち方をするのか確認したいの」
「はい」
「いつも通りでいいからね。変に意識しなくていいわよ」
高橋は頷き、持ってきたG11小銃を取り出した。
七月に初めて銃を渡されたときは、その重さにも、発射したときの反動にも驚いたものだった。だが、三か月以上の訓練を経た今では、銃を構える動作にも随分慣れていた。
高橋は弾薬を確認し、射撃位置に腹ばいになった。
エレナはその少し横に腰を下ろし、望遠鏡を用意している。アルノーとミレーナは後ろから高橋の様子を見ていた。
「最初は三百メートルからいきましょう」
エレナが言った。
「はい」
「標的は正面、三百メートル。準備できたら撃っていいわよ」
高橋は銃床を肩につけ、照準を合わせた。
標的は遠くにあるが、見えないほどではない。
これまでの訓練でも何度も同じような距離を撃ってきた。高橋は呼吸を整え、照準が落ち着くのを待ってから引き金を引いた。
乾いた銃声が響き、肩に反動が伝わった。
エレナは望遠鏡を覗き込んだ。
「命中」
高橋は次の弾を装填した。
数発の射撃が続いたが、弾は安定して標的に命中していた。
エレナは望遠鏡から目を離し、少し感心したように高橋を見た。
「なるほど。確かに上手ね」
ミレーナも興味深そうに身を乗り出した。
「本当に上手いわね。訓練成績がいいって聞いてたけど、思ってた以上だわ」
アルノーは高橋の銃の構え方を見ていた。
「大したもんだ。撃つときに余計な動きが少ないな」
高橋は少し照れくさくなった。
「ありがとうございます」
「でも、まだ三百メートルだからね」
エレナはそう言って笑った。
「次は五百メートル。少し距離を延ばしてみましょう」
高橋は頷いた。リアサイトの距離を調整する。
五百メートルになると、標的はかなり小さく見えた。それでも、高橋には標的の輪郭がはっきりと見えている。
エレナはその様子を横で観察していた。
高橋は特別に速く撃つわけではない。むしろ、一発ごとに慎重に照準を合わせ、十分に落ち着いてから引き金を引いている。
だが、迷いが少なかった。
遠くの標的を見失ったり、照準を合わせ直すために長く時間をかけたりすることがほとんどない。
射撃訓練を終えたばかりの新兵としては、かなり珍しいことだった。
数発の射撃を終えると、エレナは改めて高橋の訓練成績表を見た。
「視力がいいっていうのは本当みたいね」
「そうなんですか?」
「ええ。普通はこの距離になると、標的をはっきり見るだけでも苦労するものよ。それなのに、高橋はほとんど迷わず照準を合わせてる」
アルノーも頷いた。
「目だけじゃないな。銃の扱いにも無駄が少ない。射撃そのものに向いてるんだろう」
ミレーナは少し楽しそうに笑った。
「エレナ、いい新兵が来たじゃない」
「そうね」
エレナは高橋を見た。
「でも、これからもっと覚えてもらうことはあるわよ」
高橋は頷いた。
自分が射撃を得意としていることは、訓練の途中から何となく自覚していた。教官からも褒められることが多かったし、遠くの標的がほかの新兵よりよく見えることもわかっていた。
しかし、ここに来てからの反応は少し違っていた。
エレナたちは、射撃成績がいいことだけでなく、どうして命中するのかを細かく見ているようだった。
「高橋。今度はもう少し遠くを撃ってみましょうか」
エレナが言った。
そのときだった。
「おーい、高橋!」
聞き慣れた日本語が聞こえてきた。
高橋が振り返ると、射撃場の入口から一人の日本人兵士が歩いてくるところだった。
武器科の篠沢遊馬だった。
手には細長い銃のケースを持ち、肩には工具の入った鞄をかけている。
「篠沢さん?」
「おう。やっぱりここにいたか」
篠沢は高橋のところまで来ると、エレナたちに帝国共通語で挨拶した。
「武器科の篠沢です。こいつの射撃を見に来ました」
「エレナ・ヴァルデンよ。何か用事?」
エレナが尋ねると、篠沢は持ってきたケースを軽く叩いた。
「ちょっと試してもらいたい銃がありましてね」
篠沢は近くの台にケースを置き、留め具を外した。
中には一丁のG11小銃が収められていた。
高橋はその銃を見て、少し首を傾げた。
「G11ですよね?」
「ああ。おまえが使ってるのと同じG11だ。ただし、こいつはちょっと違う」
篠沢は銃を取り出した。
銃身や機関部の形は、これまで使ってきたG11とほとんど変わらない。しかし、機関部の上には小型の光学照準器が取り付けられていた。
「スコープ付きですか?」
「そうだ。おまえ、遠距離射撃が得意なんだろ?」
「まあ、訓練ではそう言われましたけど」
「だったら、これを使ってみろ」
篠沢は銃を高橋に渡した。
高橋は受け取り、慎重に構えてみた。
スコープを覗くと、遠くの標的が大きく見える。これまでの照門と照星を使う照準とは、まったく違う感覚だった。
「すごいですね、これ」
「そうだろ。ただ、スコープがあるからって必ず当たるわけじゃないぞ。銃そのものの精度も大事だからな」
篠沢はそう言って、銃の機関部を指さした。
「こいつは第3中央工廠製のG11だ」
「第3中央工廠?」
「ああ。同じG11でも、製造している工廠によって微妙に出来が違うんだ。設計は同じでも、加工精度や銃身の仕上がりに差が出る」
高橋は銃を眺めた。
軍隊に入るまでは、同じ型式の銃なら性能も同じだと思っていた。しかし、篠沢の説明によれば、実際にはそう単純ではないらしい。
「第3中央工廠は、帝国内でも特に加工精度が高い工廠だ。今あるG11の中じゃ、ここの製品が一番精度がいいと言われてる」
篠沢は少し得意そうだった。
「もちろん、全部が全部同じじゃないけどな。この銃はその中でも出来のいいものを選んである。武器科で確認した限りじゃ、なかなかいい銃だぞ」
エレナも興味を示した。
「なるほど。それで、スコープを取り付けたのね」
「ええ。遠距離射撃に向いた銃を用意したかったんです。高橋なら違いがわかるかもしれませんからね」
篠沢は高橋の方を向いた。
「どうだ。撃ってみるか?」
「はい」
高橋は頷いた。
* * *
まずは新しい銃に慣れるため、比較的近い標的から射撃を始めた。
スコープを使った射撃は、これまでのG11とは少し勝手が違った。目を置く位置がずれると標的が見えにくくなり、最初は銃を構え直すこともあった。
篠沢は高橋の横に立ち、照準器の扱い方を説明した。
「目を近づけすぎるなよ。反動でぶつけるぞ」
「はい」
「それから、照準器の目盛りも確認しろ。距離が変われば、その分だけ調整が必要になる」
高橋は説明を聞きながら、何度か銃を構え直した。
やがてスコープを覗く位置が安定してくると、標的がはっきりと見えるようになった。
高橋は呼吸を整え、引き金を引いた。
銃声が響いた。
エレナが望遠鏡を覗き込む。
「命中。いいところに当たってるわ」
続けて数発撃つと、着弾は狭い範囲にまとまっていた。
篠沢は満足そうに頷いた。
「よしよし。いい感じだな」
「確かに、さっきの銃より安定してますね」
高橋が言うと、篠沢は嬉しそうに笑った。
「そうだろ。銃身の出来がいいと、弾の散らばり方が小さくなるんだ。もちろん、撃つ人間の腕も必要だけどな」
エレナは望遠鏡で着弾位置を確かめながら、少し考えていた。
高橋の射撃が安定していることは、すでにわかっている。
だが、どこまで遠くの標的を狙えるのか。
それは、まだ試していなかった。
「高橋。もう少し距離を延ばしてみましょう」
エレナが言った。
「はい」
「次は七百メートル」
高橋は遠くの斜面へ目を向けた。
七百メートルの標的は、肉眼ではかなり小さく見える。しかし、スコープを覗けば輪郭を確かめることができた。
高橋は照準器を調整し、銃を構え直した。
風が草地を吹き抜けている。
近くではそれほど強く感じられなかったが、遠くの斜面では枯れ草が大きく揺れていた。
「少し右から風が来てるわね」
エレナが言った。
高橋は顔を上げた。
「風ですか?」
「そう。距離が延びると、風の影響が大きくなるの。銃がどれだけ正確でも、弾はまっすぐ飛ぶだけじゃないから」
エレナは望遠鏡を覗いた。
「少し補正が必要ね。今の風なら、照準を少しずらしてみて」
高橋は言われた通りに照準を合わせた。
「準備できました」
「じゃあ、撃って」
高橋は引き金を引いた。
銃声が響き、少し遅れて遠くの標的付近に着弾の兆候が見えた。
エレナは望遠鏡を覗いたまま、頷いた。
「命中。いいわね」
ミレーナが思わず声を上げた。
「本当にすごいわね、高橋!」
アルノーも感心したように頷いた。
「大したもんだ。七百メートルでも当てるか」
高橋は少し嬉しくなった。
自分が得意とする射撃で、こうして班の仲間たちに認めてもらえるのは素直に嬉しかった。
しかし、エレナはまだ満足していないようだった。
望遠鏡から目を離すと、さらに遠くの斜面を見つめた。
「篠沢さん、この銃なら、もう少し遠くまで狙えるかしら?」
篠沢は腕を組んだ。
「銃の精度としては、まだ試す価値はあると思いますよ。ただ、距離が遠くなると風の影響も大きいですからね」
「そうね」
エレナは高橋の方を見た。
「高橋。千メートル、試してみる?」
高橋は思わず聞き返した。
「千メートルですか?」
「ええ」
高橋は射撃場の奥へ目を向けた。
一キロメートル。
言葉にすると簡単だが、実際にその距離を見渡すと、途方もなく遠く感じられた。
斜面に設置された標的は、肉眼では小さな点にしか見えない。
「当たるでしょうか……」
高橋が呟くと、エレナは少し笑った。
「やってみないとわからないわね。でも、高橋なら狙えると思うわ」
篠沢も頷いた。
「せっかくいい銃を持ってきたんだ。試してみる価値はあるだろ」
高橋は少し考えてから答えた。
「わかりました。やってみます」
* * *
千メートルの射撃位置。
高橋は地面に腹ばいになり、G11を構えた。
先ほどまでと違い、射撃場の奥にある標的は肉眼ではほとんど確認できなかった。スコープを覗くと、ようやくその形がはっきりと見える。
標的の背後には低い丘があり、その手前には枯れ草の生えた広い斜面が続いている。
風が吹くたびに、草地の色が波のように変わって見えた。
エレナは高橋の隣に伏せ、望遠鏡を据えた。
その表情は、先ほどまでとは少し違っていた。
穏やかな笑顔は消え、遠くの標的をじっと見つめている。
「高橋、聞いて」
「はい」
「この距離になると、風の影響がかなり大きいわ。近くの風と、標的の近くの風が同じとは限らないから」
高橋は頷いた。
エレナは遠くの草地を眺め、時折顔を上げて周囲の風を確かめていた。
「私が風を読むから、指示に従って」
「わかりました」
高橋はスコープを覗いた。
照準の中に、遠くの標的が浮かんでいる。
距離は千メートル。
今まで撃ったことのない距離だった。
篠沢は少し後ろで、二人の様子を見守っていた。アルノーとミレーナも口を閉じ、高橋の射撃を見つめている。
高橋は呼吸を整えた。
まずは銃を安定させ、照準が大きく動かないようにする。
スコープの中では、標的がわずかに揺れて見えた。
高橋は自分の呼吸に合わせて銃が動いていることに気づき、もう一度姿勢を整えた。
「落ち着いて」
エレナの声が聞こえた。
「慌てなくていいわ。風が落ち着くのを待ちましょう」
高橋は頷いた。
遠くの草地では、枯れ草が右へ左へと揺れている。
エレナは望遠鏡を覗きながら、風の変化をじっと観察していた。
高橋には、ただ風が吹いているようにしか見えなかった。
しかし、エレナには何かが見えているらしい。
「あの斜面を見て。手前の草はまだ揺れてるけど、標的の近くは少し落ち着いてきてるでしょう?」
高橋はスコープ越しに遠くを見た。
確かに、標的の周囲では草の揺れ方が変わってきている。
「はい」
「もう少し待って」
エレナは落ち着いた声で言った。
高橋は引き金に指をかけたまま、じっと待った。
これまでの射撃訓練では、自分が標的を見て、自分の判断で撃っていた。
だが、今は違う。
エレナが遠くの風を読み、その指示に従って高橋が撃つ。
初めて経験する、二人で行う射撃だった。
「照準、もう少し左」
エレナが指示した。
高橋はわずかに銃を動かした。
「そう。そのまま」
風が少し弱まった。
遠くの草地の揺れが、ゆっくりと小さくなっていく。
エレナは望遠鏡から目を離さなかった。
高橋も照準を動かさず、静かに待った。
周囲では誰も話していなかった。
聞こえるのは、風が草を揺らす音だけだった。
そして、エレナが短く言った。
「今!」
高橋は引き金を引いた。
G11の銃声が射撃場に響いた。
肩に反動が伝わり、スコープの中の景色が一瞬跳ね上がった。
高橋はすぐに銃を落ち着かせ、標的を見直した。
遠くの斜面にある標的は、相変わらず小さく見えている。
当たったのかどうかは、わからなかった。
エレナは望遠鏡を覗いたまま、じっと着弾を確認していた。
数秒の沈黙が流れた。
やがて、遠くの監的壕から命中を知らせる旗が上がった。
「……命中」
エレナが呟いた。
「当たったわ」
その声には、少し驚きが混じっていた。
「本当に当たったの?」
ミレーナが思わず声を上げた。
アルノーも遠くの標的を見つめていた。
「千メートルだぞ……」
篠沢はしばらく何も言わなかった。
そして、ゆっくりと笑い始めた。
「はは……やるじゃねえか、高橋」
高橋は銃を構えたまま、呆然としていた。
千メートル。
本当に当たったらしい。
「高橋!」
エレナが嬉しそうに声をかけた。
高橋が顔を向けると、エレナは満面の笑みを浮かべていた。
「すごいわね! 初めてで千メートルに当てるなんて!」
「いえ……エレナさんが教えてくれたからです」
高橋は正直に答えた。
自分一人だったら、風の影響などほとんど考えずに撃っていただろう。あの距離では、いくら標的が見えていても命中させることは難しかったはずだった。
エレナは少し驚いた顔をした後、嬉しそうに笑った。
「そうね。二人で当てたのよ」
アルノーも頷いた。
「射手と観測手か。なるほど、いい組み合わせかもしれんな」
ミレーナは高橋の肩を軽く叩いた。
「高橋、すごいじゃない! これからが楽しみね」
高橋は少し照れくさくなり、何と答えればよいのかわからなかった。
篠沢はG11を受け取り、銃の状態を確かめていた。
「銃の方も問題なさそうだな。いいデータが取れた」
篠沢は満足そうだった。
「第3中央工廠製を選んで正解だったな。もちろん、銃がいいだけじゃ千メートルには当たらねえけど」
そう言って高橋の方を見た。
「おまえ、なかなか面白い射手になりそうだぞ」
高橋は少し困ったように笑った。
自分としては、ただ言われた通りに撃っただけだった。
エレナはもう一度、遠くの標的を見た。
千メートル先。
風を読み、射撃のタイミングを合わせ、射手に指示を出す。それはエレナにとって、これまで何度も繰り返してきた仕事だった。
しかし、その指示にここまで正確に応えられる新兵が来るとは思っていなかった。
エレナは高橋の方を向いた。
「高橋。これから一緒に頑張りましょうね」
「はい!」
高橋は大きく頷いた。
十一月の冷たい風が、射撃場を吹き抜けていった。
遠くの丘陵には午後の淡い日差しが差し込み、枯れ草の斜面が金色に輝いている。
高橋は改めて千メートル先の標的を見た。
あんなに遠くにあるものに、自分の撃った弾が命中した。
それも、自分一人ではなく、エレナの指示があったからこそできたことだった。
昨日まで、高橋はこの小隊がどんな部隊なのかさえ知らなかった。
朝には馬に乗るだけで精一杯だったし、エルフ語もまったくわからない。覚えることは山ほどある。
それでも、今は少しだけ、この部隊でやっていけるような気がしていた。
高橋は隣にいるエレナを見た。
エレナはまだ遠くの標的を眺め、何かを考えているようだった。
高橋は小さく息を吐き、もう一度射撃場の向こうへ目を向けた。
新しい仲間たち。
新しい訓練。
そして、初めて経験した観測手との射撃。
浸透偵察小隊での生活は、まだ始まったばかりだった。