勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴231年11月


第4節 潜伏訓練

十一月も後半に入り、ベルノの山々はすっかり冬の装いに変わり始めていた。

 

平地ではまだ枯れ草が広がり、日中には幾分暖かさも感じられたが、山に入れば空気は一段と冷たくなる。落葉樹の多くは葉を落とし、林の中には夏の頃には見えなかった遠くの斜面まで見通せる場所が増えていた。朝には地面が白く霜に覆われ、日陰では昼を過ぎても凍った土が解けないことがある。

 

高橋亘一が浸透偵察増強小隊に配属されてから、しばらくが経っていた。

 

最初は戸惑うことばかりだった生活にも、少しずつ慣れてきている。毎朝の乗馬訓練では、ようやく一人で馬を動かせるようになり、歩かせたり止めたりする程度なら、アルノーに手綱を持ってもらう必要もなくなっていた。

 

もっとも、速く走らせるとなると話は別だった。馬の背中で身体が跳ね上がり、何度も姿勢を崩してはアルノーに笑われている。

 

エルフ語についても同じだった。

 

簡単な挨拶や、食事のときによく使う言葉は少しずつ覚えてきたものの、エレナたちが普通の速さで話し始めると、何を言っているのかさっぱりわからなくなる。特にミレーナは話し始めると早口になりがちで、高橋が困った顔をしていることに気づくまで、延々と話し続けることがあった。

 

それでも、四人で生活することには随分馴染んできた。

 

狭い部屋での共同生活も悪くない。アルノーは装備の手入れに几帳面で、ミレーナはよく喋り、エレナは二人の話を聞きながら笑っていることが多い。高橋がわからない言葉を尋ねれば、誰かが必ず帝国共通語で説明してくれた。

 

ただ、訓練については甘くなかった。

 

乗馬に射撃、体力訓練。さらに、これまでの新兵訓練では教わらなかった偵察や観測の基礎が加わり、高橋は毎日のように新しいことを覚えなければならなかった。

 

そんなある日の夕方、エレナが一枚の地図を持って部屋へ戻ってきた。

 

「高橋、明日から山に入るわよ」

 

高橋は寝台に腰かけ、エルフ語の単語を手帳に書き込んでいるところだった。

 

「山ですか?」

 

「ええ。五日間の行軍と潜伏訓練。今まで教えたことを、実際の地形を使って練習するの」

 

エレナは机に地図を広げ、アルノーとミレーナも呼び寄せた。

 

地図にはベルノ周辺の山岳地帯が描かれており、いくつかの地点に印がつけられていた。高橋はまだ地図を読むことに慣れていなかったが、等高線が密集している場所が多いことくらいはわかった。

 

「この地点から山に入って、指定された場所を順番に通過する。途中で何度か潜伏陣地を作って、周囲を観察する訓練をするわ」

 

「五日間、ずっと山の中ですか?」

 

「そうよ。もちろん夜もね」

 

高橋は思わず窓の外を見た。

 

夕暮れの空には薄い雲が広がり、窓ガラスの向こうでは木々が冷たい風に揺れている。

 

「寒そうですね……」

 

「寒いわよ」

 

エレナはあっさり答えた。

 

「でも、実際の任務で寒いから帰るなんて言えないでしょう? 今のうちに慣れておかないと」

 

アルノーも頷いた。

 

「装備の準備をしておけよ。特に防寒具は忘れるな。山の中じゃ夜の冷え込みが違うからな」

 

「はい」

 

高橋は返事をした。

 

エレナは地図を指で軽く叩いた。

 

「それから、今回は私たちが何でも教えるわけじゃないからね。自分で周囲を見て、考えてもらうことも多いわ」

 

「わかりました」

 

「大丈夫。最初から全部できるとは思ってないから」

 

エレナはそう言って微笑んだ。

 

高橋はその笑顔に少し安心したものの、五日間の山岳訓練が楽なものではないことだけは理解していた。

 

* * *

 

翌朝、四人はまだ日が昇りきらないうちに小隊の宿舎を出発した。

 

高橋は背嚢に食料と防寒具、毛布、携行品を詰め、G11小銃を肩にかけていた。アルノーとミレーナも同じように装備を整えているが、二人とも高橋より随分身軽に見える。

 

エレナは出発前に全員の装備を確認すると、先頭に立って歩き始めた。

 

山への道は、最初こそ馬車も通れるほど広かったが、しばらく進むと細い山道へと変わった。両側には落葉樹と針葉樹が混じった林が広がり、地面には枯れ葉が厚く積もっている。

 

朝の冷たい空気の中、四人の足音が続いた。

 

高橋は最初、普通の行軍と同じように歩いていた。

 

これまでの訓練でも何度も長距離を歩いてきたし、山道だからといって特別に難しいことがあるとは思っていなかった。

 

しかし、しばらくするとエレナが足を止めた。

 

「高橋。ちょっと待って」

 

「はい?」

 

「さっきから、足音が大きいわよ」

 

高橋は自分の足元を見た。

 

軍靴の下には枯れ葉が積もっている。

 

「そうですか?」

 

「そう。普通に歩くならそれでもいいけど、偵察のときは自分がどんな音を出しているか気にしないと」

 

エレナは高橋の横に立ち、少し先の地面を示した。

 

そこには枯れ葉の積もった場所と、土が露出した場所、苔に覆われた石が混じっていた。

 

「歩くときは、足元だけじゃなくて、その先も見るの。音の出る場所、滑りやすい場所、足を取られそうな場所。そういうものを見ながら進むのよ」

 

エレナは実際に数歩歩いてみせた。

 

高橋と同じ軍靴を履いているはずなのに、足音がずっと小さい。

 

「ずいぶん違いますね」

 

「慣れよ。最初はゆっくりでいいから、試してみて」

 

高橋は言われた通りに歩いてみた。

 

しかし、音を立てないことばかり考えていると、今度は周囲を見る余裕がなくなってしまう。

 

足元を確かめながら慎重に進んでいるうちに、エレナたちとの距離が開いてしまった。

 

「高橋、遅れてるわよ」

 

少し先でミレーナが笑っている。

 

「今行きます!」

 

高橋は慌てて歩く速度を上げたが、その途端に枯れ枝を踏んでしまった。

 

乾いた音が林の中に響いた。

 

アルノーが振り返った。

 

「今の音、結構遠くまで聞こえたぞ」

 

「すみません……」

 

「謝らなくていい。今は訓練だからな」

 

アルノーは笑った。

 

「それに、音を立てないことだけ考えてたら、今度は周りが見えなくなる。なかなか難しいだろ?」

 

高橋は素直に頷いた。

 

これまでの行軍訓練では、決められた距離を決められた時間内に歩くことが目的だった。しかし、ここでは違う。歩きながら周囲を見て、音を聞き、地形を確かめなければならない。

 

しかも、それらを同時に行う必要があるらしい。

 

エレナは再び歩き始めた。

 

「今日はゆっくり進むから、高橋も周囲を見ることを意識してね」

 

「はい」

 

高橋は返事をし、足元と前方を交互に見ながら歩き出した。

 

* * *

 

昼近くになり、四人は尾根の途中にある小さな平地へ到着した。

 

周囲には背の高い針葉樹が並び、地面には苔と枯れ葉が広がっている。少し先には斜面が落ち込んでおり、その向こうに別の尾根が見えた。

 

エレナは地図を取り出し、周囲の地形を確認した。

 

「ここが最初の指定地点ね」

 

高橋も地図を覗き込んだ。

 

「ここで休憩ですか?」

 

「少し休むけど、その前にやることがあるわ」

 

エレナは周囲を見回した。

 

「高橋、この場所でしばらく潜伏するとしたら、どこがいいと思う?」

 

突然尋ねられ、高橋は困ってしまった。

 

周囲には木がたくさんある。

 

木の陰なら、どこでも隠れられそうに思えた。

 

「ええと……あの大きな木の後ろとか?」

 

高橋は少し離れた場所にある太い針葉樹を指さした。

 

エレナはその木を見た。

 

「どうして?」

 

「木が大きいから、身体が隠れると思います」

 

「そうね。確かに身体は隠れるわ。でも、ほかの方向から見たらどうかしら?」

 

高橋は少し考えた。

 

エレナはアルノーに何かを話しかけた。

 

アルノーは頷くと、高橋が指さした木の後ろへ歩いていった。

 

そして、少し離れた場所に立った。

 

「高橋、こっちへ来て」

 

エレナに促され、高橋は斜面を少し下った。

 

そこから先ほどの木を見ると、アルノーの身体が思った以上にはっきりと見えた。

 

「あ……」

 

「わかる?」

 

「はい。こっちからだと見えますね」

 

「そう。自分が隠れたつもりでも、見る方向が変われば簡単に見つかることがあるの」

 

エレナは周囲を見渡した。

 

「特に山の中では、上から見られることも、下から見られることもあるわ。自分のいる場所だけじゃなくて、周りの地形を考えないとね」

 

高橋は頷いた。

 

訓練兵舎で教わった遮蔽物の使い方とは、少し違う考え方だった。

 

あちらは敵の射撃から身を守ることが主な目的だったが、こちらではそもそも見つからないことが重要になる。

 

エレナは、今度は倒木と低い灌木が集まった場所を示した。

 

「じゃあ、あそこはどう?」

 

高橋はその場所を眺めた。

 

確かに木の陰にはなっているが、先ほどの大木ほど身体を隠せそうには見えない。

 

「ちょっと狭そうですけど……」

 

「そうね。でも、周囲の草や倒木と一緒に見えるから、人がいることには気づきにくいでしょう?」

 

アルノーも戻ってきて、説明に加わった。

 

「隠れるっていうのは、何かの後ろに入るだけじゃないんだ。周りの景色の中で、目立たなくなることも大事なんだよ」

 

高橋はもう一度、倒木の周囲を見た。

 

確かに、何も知らずに遠くから眺めれば、ただの倒れた木と草むらにしか見えないかもしれない。

 

「なるほど……」

 

「じゃあ、実際に陣地を作ってみましょう」

 

エレナが言った。

 

四人はその場所へ移動し、周囲の地形を利用して潜伏場所を整え始めた。

 

アルノーとミレーナは慣れた手つきで作業を進めている。必要な場所だけを整え、周囲の枝や落ち葉をうまく利用して、遠くから見ても不自然にならないようにしていた。

 

高橋も手伝ったが、何をどこまで動かせばよいのか判断できず、何度もエレナに尋ねることになった。

 

「そこはそのままでいいわ。あまりきれいにしすぎると、かえって目立つから」

 

「はい」

 

「こっちは少しだけ整えましょう。中から外を見る場所が必要だから」

 

高橋は言われた通りに作業を続けた。

 

一時間ほどすると、四人が身を寄せて休める程度の潜伏場所ができあがった。

 

高橋は少し離れた場所から、それを眺めた。

 

さっきまで作業していた場所なのに、距離を取るとどこに人がいるのかわかりにくい。

 

「すごいですね……」

 

高橋が呟くと、エレナは少し笑った。

 

「これも慣れよ。何度もやっているうちに、自然にできるようになるわ」

 

「はい」

 

エレナは頷くと、今度は周囲の斜面を指さした。

 

「じゃあ、ここで周囲を観察してみましょうか」

 

* * *

 

午後は、四人で周囲を警戒する訓練になった。

 

エレナは地図を広げ、四人それぞれが観察する方向を割り振った。

 

「高橋はあっちの尾根を見て。アルノーは谷の方、ミレーナは後方。私は残りの方向を見るわ」

 

「はい」

 

「一人で全部を見る必要はないの。四人で分担すれば、広い範囲を見られるでしょう?」

 

高橋は頷いた。

 

これまでの訓練では、周囲を警戒しろと何度も言われてきた。しかし、実際に山の中で周囲を見渡してみると、視界に入るものが多すぎて、どこを見ればよいのかわからなくなる。

 

木々の間には無数の影があり、風で揺れる枝や草も絶えず動いている。遠くには斜面が幾重にも重なり、その隙間には小さな谷が入り込んでいた。

 

高橋は指定された尾根を眺めた。

 

最初は何も見つからなかった。

 

だが、しばらく見ているうちに、風で揺れる木の枝や草の動きにも違いがあることに気づいた。

 

何も変わらないように見える風景にも、実際には小さな変化が続いている。

 

「高橋、何か見える?」

 

エレナが小声で尋ねた。

 

「いえ、特には……」

 

「そう。じゃあ、そのまま見ていて」

 

高橋は再び尾根に目を向けた。

 

しばらくすると、遠くの木の間を何かが動いたように見えた。

 

「……あれ?」

 

高橋は目を凝らした。

 

小さな動物だった。

 

灰色の毛をした獣が、倒木の陰から姿を現し、すぐに林の中へ消えていった。

 

「あそこに動物がいました」

 

高橋が報告すると、エレナは頷いた。

 

「そう。どんな動物だった?」

 

「灰色で、小さかったです。犬よりは小さいと思います」

 

「どっちへ行った?」

 

「右の方です。あの木の向こうへ」

 

エレナは高橋が指さした場所を確認した。

 

「よく見てたわね」

 

高橋は少し嬉しくなった。

 

「でも、ただ見つけるだけじゃなくて、何を見たのか、どこへ行ったのかも伝えられるようになってね」

 

「はい」

 

「偵察では、自分が見たものを仲間に正確に伝えることが大切だから」

 

エレナはそう説明した。

 

高橋は頷き、再び周囲の観察を続けた。

 

日が傾き始めるまで、四人は交代しながら警戒を行った。

 

途中でエレナが観察する方向を変えたり、アルノーが高橋に見落としていた場所を指摘したりすることもあった。

 

高橋は最初、周囲を眺めるだけならそれほど疲れないだろうと思っていた。

 

しかし、実際にはそうではなかった。

 

長時間同じ場所で身を潜め、周囲の変化を見逃さないようにすることは、想像以上に集中力を必要とした。身体を動かしていないのに、夕方になる頃には頭がぼんやりしてきた。

 

エレナはそんな高橋の様子を見て、少し笑った。

 

「疲れた?」

 

「はい。思ってたより疲れますね」

 

「そうでしょう。何もしないで見てるだけって、結構大変なのよ」

 

高橋は頷いた。

 

確かに、その通りだった。

 

* * *

 

山の夜は、想像以上に寒かった。

 

日が沈むと林の中は急速に暗くなり、空気も一段と冷え込んだ。昼間はそれほど気にならなかった風も、じっとしていると容赦なく身体の熱を奪っていく。

 

四人は潜伏場所の中で簡単な夕食を済ませた。

 

火を使うわけにはいかないため、食事は冷たい携行食だった。高橋は硬いパンをかじりながら、訓練兵舎で食べていた温かいスープを思い出していた。

 

食事が終わると、エレナは夜間の警戒について説明した。

 

「今夜は二人ずつ交代で休むわ。高橋は私と一緒ね」

 

「はい」

 

「夜も周囲の音には気をつけて。昼間とは違って、見えないものが多いから」

 

高橋は頷いた。

 

夜の林は、昼間とはまったく違う場所のようだった。

 

木々の間には深い闇が広がり、少し離れた場所で枝が折れる音がすると、何かが近づいてきたのではないかと気になってしまう。風が枝を揺らす音も、時折聞こえる動物の鳴き声も、普段よりずっと大きく感じられた。

 

アルノーとミレーナが最初の警戒につき、高橋とエレナは毛布を広げて休むことになった。

 

高橋は防寒具を着込んだまま横になったが、地面から伝わってくる冷たさは予想以上だった。

 

しばらくしても身体が温まらず、思わず毛布を引き寄せる。

 

「寒い?」

 

隣からエレナが尋ねた。

 

「はい。結構寒いですね」

 

「まだ十一月だけど、山の夜は冷えるからね」

 

エレナはそう言うと、高橋の方へ身体を寄せた。

 

「ほら、もっとこっちに来て」

 

「え?」

 

「二人でくっついてた方が暖かいでしょう?」

 

高橋は少し戸惑った。

 

兵舎でも寝台が隣同士だったし、朝起きたらエレナに抱きつかれていたこともある。それでも、今度は起きている状態で身体を寄せることになる。

 

「でも……」

 

「遠慮しなくていいわよ。寒くて眠れなかったら、明日の訓練に差し支えるでしょう?」

 

エレナは当然のことのように答えた。

 

高橋は少し迷ったものの、寒さには勝てなかった。

 

「じゃあ……失礼します」

 

「はい、どうぞ」

 

エレナは小さく笑った。

 

二人で毛布を寄せ合うと、確かに一人でいるより暖かかった。

 

高橋はようやく身体の力を抜いた。

 

暗闇の向こうでは、アルノーとミレーナが周囲を警戒している。時折小さな物音が聞こえるものの、二人が慌てる様子はない。

 

高橋は目を閉じた。

 

今日は朝から歩き続け、陣地を作り、周囲を観察していた。

 

身体だけでなく頭も疲れていたらしい。

 

やがて、冷たい山の空気の中で、高橋は眠りについた。

 

* * *

 

二日目の朝。

 

高橋はエレナに肩を揺すられて目を覚ました。

 

「高橋、起きて。そろそろ出発するわよ」

 

「……はい」

 

身体を起こすと、周囲には白い霜が降りていた。

 

昨夜は途中で交代して警戒についたため、十分に眠れたという感じはしなかったが、それでも思っていたより身体は温まっていた。

 

エレナはすでに装備を整え、地図を確認している。

 

アルノーとミレーナも手早く荷物をまとめていた。

 

高橋は慌てて毛布を畳み、背嚢に収めた。

 

朝食を済ませると、四人は再び山道を歩き始めた。

 

二日目は、前日よりも険しい地形を進むことになった。

 

尾根を越え、谷へ下り、また別の斜面を登る。道と呼べるものがほとんどない場所もあり、足元には苔のついた石や倒木が多かった。

 

高橋は何度も足を滑らせそうになり、そのたびにアルノーから注意された。

 

「高橋、足元ばかり見るなよ」

 

「はい」

 

「前も見ろ。次にどこを通るか考えて歩け」

 

「わかりました」

 

言われた通りにしようとするのだが、足元を見なければ転びそうになり、前を見ていると今度は足を取られる。

 

それでも、昨日よりは少しずつ周囲を見る余裕ができていた。

 

途中でエレナが足を止め、遠くの斜面を指さした。

 

「高橋、あそこを見て」

 

高橋は指さされた方向を見た。

 

木々の間に、少し開けた場所がある。

 

「何か見える?」

 

「……特には」

 

「じゃあ、あの倒木の周りは?」

 

高橋は目を凝らした。

 

倒木の向こうには灌木が茂っている。

 

最初は何もおかしなところがないように見えたが、しばらく眺めていると、周囲と少し違う色の部分があることに気づいた。

 

「あそこだけ、草の色が違うような……」

 

「そうね」

 

エレナは頷いた。

 

「どうしてだと思う?」

 

高橋は考えた。

 

「誰かが動かしたとか?」

 

「その可能性もあるわね」

 

エレナは少し笑った。

 

「山の中では、何もないように見えても、人が通った跡が残っていることがあるの。枝が折れていたり、草が踏まれていたり、土が露出していたりね」

 

アルノーも説明に加わった。

 

「ただし、動物が通った跡かもしれない。何でも敵の仕業だと思い込むのもよくないぞ」

 

高橋は頷いた。

 

「だから、いろいろなものを見て判断するの」

 

エレナはそう言って、再び歩き始めた。

 

午後になると、四人は二つ目の指定地点に到着した。

 

そこは谷を見下ろす斜面の途中にあり、周囲には大きな岩と針葉樹が点在していた。

 

エレナは地図を確認すると、高橋に尋ねた。

 

「さて、ここではどこに潜伏するのがいいと思う?」

 

高橋は周囲を見回した。

 

昨日教わったことを思い出しながら、いくつかの場所を比べてみる。

 

太い木の後ろ。

 

大きな岩の陰。

 

倒木と灌木が集まった場所。

 

高橋はしばらく考えた後、斜面の途中にある岩と灌木の間を指さした。

 

「あそこはどうでしょう?」

 

エレナはその場所を眺めた。

 

「どうして?」

 

「岩で身体が隠れるし、周りの草もあるので、遠くからはわかりにくいと思います」

 

「うん。昨日よりよく考えてるわね」

 

エレナは満足そうに頷いた。

 

「じゃあ、あそこを使ってみましょうか」

 

四人は指定した場所へ移動し、潜伏陣地を作り始めた。

 

昨日よりも高橋に任される作業は多かった。

 

アルノーとミレーナは必要なところだけ手を貸し、エレナは高橋の作業を見守っていた。

 

高橋は何度かやり直しながらも、少しずつ周囲の地形に馴染むように陣地を整えていった。

 

作業を終えると、エレナは高橋を連れて少し離れた場所へ移動した。

 

「どう? 自分で作った場所、見つけられる?」

 

高橋は振り返った。

 

岩と灌木の間に、先ほどまで作業していた場所があるはずだった。

 

しかし、少し距離を取ると、意外なほどわかりにくかった。

 

「……思ったより見えないですね」

 

「そうでしょう?」

 

エレナは笑った。

 

「でも、完全に隠れたと思わないでね。見る場所が変われば、また違って見えるから」

 

高橋は頷いた。

 

昨日と同じ説明だったが、今日は少し意味がわかった気がした。

 

* * *

 

二日目の夜も、冷え込みは厳しかった。

 

四人は交代で周囲を警戒しながら休むことになった。

 

高橋は前日と同じようにエレナと毛布を寄せ合って横になった。

 

昨日ほど戸惑うことはなかった。

 

むしろ、山の夜がどれほど冷えるかを知った今では、エレナが近くにいてくれることがありがたかった。

 

「少し慣れた?」

 

エレナが小声で尋ねた。

 

「何がですか?」

 

「山での生活よ」

 

「……まだまだですね。歩くだけでも大変です」

 

「そうね。でも、昨日よりはずっとよかったわよ」

 

高橋は少し嬉しくなった。

 

「本当ですか?」

 

「ええ。足音も少し小さくなったし、周囲を見る余裕も出てきたと思うわ」

 

エレナはそう言って微笑んだ。

 

「でも、まだまだ覚えることは多いからね」

 

「はい」

 

高橋は頷いた。

 

遠くでは風が木々を揺らしている。

 

アルノーとミレーナが何かを小声で話していたが、エルフ語だったため内容はわからなかった。

 

高橋は暗闇の中で目を閉じた。

 

訓練兵舎にいた頃は、決められた時間に起き、決められた場所で訓練し、夜になれば暖かな兵舎へ戻っていた。

 

今は違う。

 

山の中で食事を取り、寒さに耐えながら眠り、夜中には交代で周囲を警戒する。

 

だが、不思議と嫌な気分ではなかった。

 

高橋はエレナの隣で、少しずつ眠りに落ちていった。

 

* * *

 

三日目になると、高橋は山の中での生活に少しずつ慣れてきていた。

 

朝、目を覚ましたときには身体のあちこちが痛んでいたが、前日ほどの疲労感はなかった。冷たい空気の中で装備を整え、朝食を取り、地図を確認してから出発するという一連の流れも、ようやく自然にできるようになってきた。

 

もっとも、アルノーやミレーナに比べれば、まだまだ動作は遅かった。

 

二人は短い時間で荷物をまとめ、周囲の様子を確認しながら出発の準備を終えてしまう。高橋が背嚢の紐を締め直している間に、ミレーナはすでに自分の装備を確認し終え、近くの木にもたれて待っていた。

 

「高橋、まだ?」

 

「もう少しです」

 

「慌てなくていいけど、もうちょっと手早くできるようにならないとね」

 

ミレーナは笑っていた。

 

アルノーも高橋の背嚢を見て、荷物の収め方についていくつか注意した。高橋は言われた通りに直しながら、荷物をただ入れればいいというものではないことを実感していた。

 

これまでの行軍訓練では、必要なものをすべて持って歩くことができれば、それで十分だった。しかし、山の中で何日も過ごすとなると、装備の置き方一つで作業のしやすさが変わってくる。

 

エレナはそんな高橋の様子を眺め、少し笑っていた。

 

「まあ、三日目にしては上出来よ。最初からアルノーたちと同じようにできるとは思ってないから」

 

「ありがとうございます」

 

「でも、今日は少し難しいことをやってもらうわよ」

 

高橋が顔を上げると、エレナは地図を広げた。

 

「この辺りには、私たち以外の班も訓練に入っているの。今日は、その班がどこに潜伏しているのか探してもらうわ」

 

「ほかの班ですか?」

 

「そう。向こうも私たちと同じように、見つからないようにしているはずよ」

 

高橋は地図に目を落とした。

 

周囲にはいくつもの尾根と谷が入り組んでおり、林が広がっている場所も多い。これだけ広い山の中から、隠れている人間を探し出すというのは、想像しただけでも難しそうだった。

 

「見つけられるでしょうか……」

 

「さあ、どうかしら」

 

エレナは少し楽しそうに答えた。

 

「でも、見つからなかったら、それはそれで勉強になるわ。どこにいるかわからない相手を探すのも、偵察の仕事だからね」

 

四人は装備を整え、山道を歩き始めた。

 

* * *

 

三日目の行軍は、これまでとは少し違っていた。

 

エレナは先頭を歩きながら、時折足を止めて周囲を観察していた。アルノーとミレーナも、いつも以上に静かだった。

 

高橋も昨日までに教わったことを思い出し、足音をできるだけ抑えながら歩いた。

 

落葉樹の林を抜け、針葉樹の密集した斜面を横切る。時折、木々の間から遠くの山並みが見えた。

 

山肌は茶色と暗い緑色が入り混じり、北側の斜面には薄く雪の残っている場所もあった。谷底には細い沢が流れ、遠くから水の音が聞こえてくる。

 

高橋は周囲を見回しながら、少しずつ山の風景にも違いがあることに気づき始めていた。

 

同じように見える林でも、木の密集している場所と、下草の多い場所では見通しが違う。岩の多い斜面と、落ち葉の積もった斜面でも、歩きやすさはまったく異なっていた。

 

しばらく進んだところで、エレナが足を止めた。

 

「高橋、あの向こうの斜面を見て」

 

高橋は指さされた方向へ目を向けた。

 

谷を挟んだ向こう側に、緩やかな斜面が広がっている。大きな倒木が何本もあり、その周囲には低い灌木が茂っていた。

 

「何か見える?」

 

高橋はじっと斜面を見つめた。

 

最初は何もわからなかった。

 

しかし、しばらく観察していると、倒木の近くにある草の一部が、周囲と少し違って見えることに気づいた。

 

「……あそこ、何か変ですね」

 

「どこ?」

 

高橋は指さした。

 

「大きな倒木の右側です。あそこだけ、草の向きが違うような気がします」

 

エレナは望遠鏡を取り出し、高橋が示した場所を確認した。

 

しばらく何も言わずに眺めていたが、やがて小さく頷いた。

 

「なるほどね」

 

エレナは望遠鏡をアルノーに渡した。

 

アルノーも同じ場所を確認する。

 

「……ああ、確かに」

 

ミレーナも興味深そうに覗き込んだ。

 

「よく見つけたわね、高橋」

 

高橋は少し驚いた。

 

「何かあるんですか?」

 

エレナは望遠鏡を受け取り、もう一度斜面を確認した。

 

「たぶん、あそこに誰かいるわ」

 

「本当ですか?」

 

「ええ。草の色だけじゃなくて、周囲の枝の位置も少し不自然ね」

 

高橋はもう一度、肉眼でその場所を見た。

 

言われてみれば、確かに何かがおかしい。

 

だが、そこに人間がいるとまではわからなかった。

 

「すごいですね。俺にはそこまでわかりません」

 

「高橋が最初に見つけたんでしょう?」

 

エレナは笑った。

 

「私は、その先を少し確かめただけよ」

 

アルノーも頷いた。

 

「目がいいっていうのは、本当に便利だな。俺なら、もう少し近づかないと気づかなかったかもしれん」

 

高橋は少し照れくさくなった。

 

エレナは地図を取り出し、発見した位置を記録した。

 

「じゃあ、今度はあそこに何人いるのか、どんな向きで周囲を見ているのか、もう少し観察してみましょう」

 

四人はその場に身を潜め、しばらく向こうの斜面を観察した。

 

時折、風が強く吹き、倒木の周囲の草が大きく揺れた。遠くでは鳥が鳴き、斜面の上を小さな動物が走り抜けていく。

 

高橋は一度見つけた場所から目を離さず、何か変化がないか注意していた。

 

やがて、倒木の陰で何かがわずかに動いたように見えた。

 

「……動いた」

 

高橋が小声で言うと、エレナも望遠鏡を覗き込んだ。

 

「ああ、見えたわ」

 

草の隙間から、ほんの一瞬だけ軍服らしい色が見えた。

 

すぐに隠れてしまったが、そこに人がいることは間違いなさそうだった。

 

「どうやら当たりね」

 

エレナは満足そうに頷いた。

 

「高橋、よく見つけたわ」

 

「ありがとうございます」

 

高橋は嬉しくなった。

 

射撃訓練では何度も褒められてきたが、偵察の訓練で褒められるのは初めてだった。

 

エレナは地図に印をつけると、アルノーたちにも周囲を確認させた。

 

「ただし、これで終わりじゃないわよ。あそこだけ見ていたら、別の方向を見落とすかもしれないでしょう?」

 

高橋は頷いた。

 

一つ何かを見つけると、どうしてもそこばかり気になってしまう。

 

しかし、相手が一人とは限らないし、別の場所にも潜伏しているかもしれない。

 

「見つけたものだけじゃなくて、周囲全体を見ることも忘れないでね」

 

「はい」

 

高橋はもう一度、周囲の山々を見渡した。

 

* * *

 

昼過ぎ、四人は別の尾根へ移動した。

 

途中でエレナが訓練に参加しているほかの班と連絡を取り、高橋たちが発見した潜伏位置が正しかったことを確認した。

 

高橋が見つけたのは、別の班が設営した偽装陣地だった。

 

「よかったわね、高橋。ちゃんと見つけられたわよ」

 

エレナが言うと、高橋は少し安心した。

 

「でも、偶然見つけただけかもしれません」

 

「最初はそれでもいいのよ。何かおかしいと思ったことが大事なんだから」

 

エレナはそう言って微笑んだ。

 

「ただ、これからは見つけられるだけじゃなくて、自分たちが見つからないようにすることも覚えないとね」

 

「はい」

 

アルノーが笑いながら口を挟んだ。

 

「今度は向こうに俺たちを探させてみるか?」

 

「それもいいわね」

 

ミレーナも楽しそうに頷いた。

 

高橋は二人の会話を聞きながら、少し複雑な気分になった。

 

せっかく他班の潜伏位置を見つけて喜んでいたのに、今度は自分たちが隠れる番になるらしい。

 

しかも、相手は何年も偵察の訓練を受けているエルフたちである。

 

簡単に見つからないようにするのは、相当難しそうだった。

 

その日の午後は、さらに別の指定地点まで移動し、新しい潜伏場所を設営した。

 

高橋は昨日までに教わったことを思い出しながら作業を進めた。アルノーとミレーナが時折手を貸してくれたが、エレナは基本的に高橋の判断を尊重し、必要なときだけ助言を与えていた。

 

完成した場所を少し離れた位置から確認すると、周囲の岩や木々に紛れ、思っていた以上に目立たなくなっていた。

 

「どう?」

 

エレナが尋ねた。

 

「昨日よりは、うまくできたと思います」

 

「そうね。かなりよくなったわ」

 

エレナは頷いた。

 

「じゃあ、今度はここで夜を過ごしましょう」

 

* * *

 

三日目の夜も、四人は交代で警戒についた。

 

昼間はそれほど寒くなかったが、日が沈むと急に気温が下がり、林の中には冷たい空気が溜まり始めた。

 

高橋は防寒具を着込み、毛布を広げた。

 

今夜もエレナと一緒に休むことになっていた。

 

「高橋、こっちに来て」

 

エレナが声をかけた。

 

高橋はもう驚かなかった。

 

最初の夜はずいぶん戸惑ったものだったが、山の寒さを経験すれば、互いに身体を寄せて暖を取ることが合理的なのはよくわかる。

 

高橋はエレナの隣に横になり、毛布をかけた。

 

「だいぶ慣れたわね」

 

エレナが笑った。

 

「そうですね。最初はびっくりしましたけど」

 

「何が?」

 

「いや、エレナさんにくっついて寝ることです」

 

高橋が正直に答えると、エレナは小さく笑った。

 

「そうだったの?」

 

「日本では、あんまりこういうことしないので」

 

「そうなのね」

 

エレナは少し考えるような顔をした。

 

「でも、寒いときは二人で寝た方が暖かいでしょう?」

 

「それはそうですね」

 

「だったらいいじゃない」

 

エレナは何でもないことのように答えた。

 

高橋は思わず苦笑した。

 

本当に、この人は細かいことを気にしないらしい。

 

しばらく二人は黙っていた。

 

周囲の林は暗く、遠くから風の音が聞こえてくる。アルノーとミレーナは少し離れた場所で警戒しており、時折小さな声で何かを話していた。

 

「高橋」

 

エレナが静かに声をかけた。

 

「はい」

 

「この三日間、どうだった?」

 

高橋は少し考えた。

 

「大変でした。でも、面白いです」

 

「面白い?」

 

「はい。今までの訓練とは全然違うので。歩くだけでも考えることが多いし、周りを見ているだけでも、いろいろ気づくことがあるんですね」

 

エレナは頷いた。

 

「そうね。偵察は、見たものをどう判断するかが大切だから」

 

高橋は今日見つけた他班の陣地を思い出した。

 

最初はただの草むらにしか見えなかった場所に、実際には兵士たちが隠れていた。

 

もしエレナに教わっていなければ、きっと気づかずに通り過ぎていただろう。

 

「高橋は目がいいから、きっといい偵察兵になれると思うわ」

 

エレナが言った。

 

「そうでしょうか」

 

「ええ。でも、目がいいだけじゃ駄目よ。自分が見たものを、ちゃんと理解できるようにならないとね」

 

「はい」

 

高橋は頷いた。

 

エレナは少し笑った。

 

「まあ、焦らなくていいわ。まだ来たばかりなんだから」

 

その言葉に、高橋は少し安心した。

 

今日で山に入って三日目。

 

明日も、明後日も訓練は続く。

 

まだ覚えることは山ほどあった。

 

高橋は目を閉じた。

 

山の夜は冷たかったが、隣にはエレナがいた。

 

しばらくすると、疲れからか、自然と眠りに落ちていった。

 

* * *

 

四日目の朝。

 

空には厚い雲が広がっていた。

 

前日まで時折見えていた青空はすっかり隠れ、山の上には冷たい風が吹いている。遠くの尾根は薄い霧に包まれ、視界も昨日までより悪かった。

 

高橋は防寒具の襟を立て、エレナたちと一緒に朝食を取った。

 

昨夜は交代で警戒についていたため、睡眠時間は短かった。それでも、三日前に比べれば身体の動きはずいぶんよくなっていた。

 

荷物をまとめる手つきも少し早くなり、アルノーから急かされることもなかった。

 

「お、今日は早いな」

 

アルノーが声をかけた。

 

「少し慣れてきました」

 

高橋が答えると、アルノーは満足そうに頷いた。

 

「そうだな。最初の頃よりずっといい」

 

ミレーナも笑った。

 

「でも、まだ山を歩くときは遅いけどね」

 

「それは……もう少し練習します」

 

高橋が苦笑すると、エレナも笑った。

 

「まあ、焦らなくていいわよ。今日は昨日より少し歩きにくいと思うから、足元には気をつけてね」

 

四人は装備を整え、再び山道を歩き始めた。

 

今日の予定は、いくつかの指定地点を通過した後、別の潜伏場所へ移動することだった。

 

林の中には昨日までの霜が残り、地面はところどころ凍っていた。高橋は足元に注意しながら、エレナたちの後を追った。

 

山の中は静かだった。

 

風が木々を揺らす音と、時折聞こえる鳥の鳴き声だけが、冷たい空気の中に響いている。

 

三日前なら、こうした静けさにも落ち着かなかっただろう。

 

しかし、今は少し違っていた。

 

高橋は周囲の地形を確かめながら歩き、時折立ち止まって遠くの斜面を観察するようになっていた。

 

エレナも、そんな高橋の様子を見て満足そうだった。

 

昼近くになり、四人は尾根の途中にある小さな平地へ到着した。

 

そこは周囲を針葉樹に囲まれた場所で、少し先には谷を見下ろせる岩場があった。

 

エレナは地図を取り出し、現在位置を確かめた。

 

「ここが今日の指定地点ね」

 

高橋も地図を覗き込んだ。

 

「今日はここで陣地を作るんですか?」

 

「そうね。その前に本部へ連絡を入れましょう。ミレーナ、無線の準備をお願い」

 

「わかった」

 

ミレーナは背負っていた装備を下ろした。

 

その中でもひときわ大きいのが、角張った金属製の無線機だった。頑丈な筐体にはいくつものつまみや端子が並び、運搬時に傷まないよう保護されている。

 

無線機は真空管式で、本体だけでもかなりの重量がある。さらに電源となる大型のバッテリーが必要で、山岳行軍では厄介な荷物の一つになっていた。

 

高橋は着任後の訓練で何度か無線機を扱ったことがあったが、まだ操作には慣れていなかった。

 

「やっぱり大きいですね」

 

「仕方ないわよ。これでも持ち運べるように作られているんだから」

 

ミレーナはそう答えながら、地面に無線機を据えた。

 

アルノーが運搬していたバッテリーを下ろし、接続を確認する。ミレーナはアンテナを伸ばし、無線機の電源を入れた。

 

真空管が十分に温まるまで、すぐには通信できない。

 

高橋はその様子を眺めていた。

 

日本で見た無線機とは随分違う。機材は大きく、重く、準備にも時間がかかる。しかも電池の消耗を考えれば、いつでも電源を入れっぱなしにしておくわけにもいかなかった。

 

しばらくすると、受信機からかすかな雑音が聞こえ始めた。

 

ミレーナは受話器を耳に当て、つまみを動かして周波数を合わせた。

 

「エレナ、つながったわよ」

 

エレナが無線機の前にしゃがみ、受話器を受け取った。

 

「こちらエレナ。小隊本部、応答願います」

 

短い雑音の後、無線機から低い男性の声が返ってきた。

 

ヴァルターだった。

 

エレナは現在位置を報告し、訓練が予定通り進んでいることを伝えた。

 

ところが、ヴァルターの返答を聞いた途端、その表情が変わった。

 

「……了解。もう一度お願いします」

 

無線機から雑音混じりの声が続いた。

 

エレナは地図を広げ直し、何かを確認した。

 

高橋はその様子を見ていたが、二人の会話はエルフ語だったため、内容がわからなかった。

 

アルノーとミレーナも、エレナの表情の変化に気づいていた。

 

やがて無線機から、ヴァルターの声が帝国共通語で聞こえてきた。

 

「エレナ、聞こえるか」

 

「はい。聞こえています」

 

「現在、連隊の全歩兵部隊が四十八時間の行軍訓練を実施している」

 

「はい」

 

一瞬、雑音が混じった。

 

そして、ヴァルターが続けた。

 

「その訓練中に、武装した脱走兵が発生した」

 

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