第1節 新伯爵の決断
少し話は戻る。
新しいベルノ伯爵が就任して、三日が過ぎていた。
ベルノ伯爵邸の執務室では、朝から何人もの士官が出入りしていた。
新伯爵となったオリヴィエ・フォン・ベルノ大佐は、同時にベルノ連隊の連隊長でもある。
伯爵としての領地経営と、連隊長としての軍務。
その両方が、彼女の肩にかかっていた。
もっとも、本人はそれほど忙しそうには見えなかった。
机の上に積まれた書類を一つずつ確認し、必要なものに署名する。
わからない点があれば担当者を呼び、丁寧に説明を求める。
彼女はいつも穏やかで、声を荒らげることもなかった。
しかし、その質問はなかなか鋭かった。
「……では、現在の砲兵中隊の装備について、もう一度説明していただけるかしら?」
オリヴィエが顔を上げた。
彼女の前には、三人の人物が座っていた。
砲兵中隊長のグスタ・レーン大尉。
工兵中隊長のダリオ・ベル大尉。
そして、兵器や車両の取引を扱う商人、ヴェルナーである。
オリヴィエの隣には、アウレリア・アル・エルディア大尉が控えていた。
長い黒髪に赤い瞳を持つ、背の高いエルフの女性だった。
彼女は会議の記録と、必要な予算の確認を担当していた。
「はっ」
グスタが答えた。
「現在、砲兵中隊の主力は百二十ミリ榴弾砲四門です」
「そうね」
「そのほかに小口径の砲もありますが、遠距離からの火力支援は、この四門に大きく依存しております」
オリヴィエは頷いた。
「四門では、十分ではないのでしょう?」
「……十分とは申せません」
グスタは少し考えてから答えた。
「歩兵が防御する正面を支援するだけなら、ある程度の効果は期待できます。しかし、複数の地点で同時に戦闘が発生した場合、火力が不足します」
「なるほど」
オリヴィエは机の上の地図を見た。
そこには、ベルノ連隊が担当する戦線と、主要な陣地の位置が記されていた。
「では、四門増やしたらどうなるかしら?」
グスタが顔を上げた。
「……四門、ですか?」
「ええ。全部で八門にするの」
グスタはしばらく考えた。
「火力は大幅に増加します。射撃任務を分担することもできますし、必要に応じて集中射撃を行うことも可能です」
「それなら、そうしましょう」
オリヴィエはあっさりと言った。
グスタは一瞬、言葉を失った。
「……閣下?」
「百二十ミリ砲を四門追加します。ヴェルナーさん、手配できるかしら?」
ヴェルナーは姿勢を正した。
「もちろんでございます。ただし、砲本体だけでなく、予備部品や砲兵器材も必要となります」
「ええ。必要なものを一緒に揃えてください」
オリヴィエは微笑んだ。
「砲だけあっても、使えなければ意味がありませんもの」
ヴェルナーは頷いた。
「承知いたしました。手配を急げば、十月には納入できる見込みです」
「それなら、ちょうどよいわね」
オリヴィエはアウレリアへ顔を向けた。
「十一月には新兵が配属されるのでしょう?」
「はい。現在の訓練部隊が解散し、各中隊へ正式に配属される予定です」
「では、新しい砲を扱う人員も、そのときに増やせるわね」
グスタは小さく息を吐いた。
砲が増えるのはありがたい。
しかし、新しい砲と新兵が同時に来るということは、それだけ訓練も必要になるということだった。
それでも、火力を増強できる機会を逃すわけにはいかない。
「……承知いたしました。受け入れと訓練の計画を作成いたします」
「よろしくお願いしますね」
オリヴィエは嬉しそうに頷いた。
◇
「ところで、砲はどのように移動させているのかしら?」
オリヴィエが尋ねた。
グスタが答えた。
「基本的には馬匹による牽引です」
「そうなのね」
「砲自体が重量物ですので、移動には相応の時間がかかります。また、道路状態にも左右されます」
オリヴィエは地図を見た。
「では、撃った後、すぐに別の陣地へ移ることは難しいのね」
「……現状では、容易ではありません」
グスタは答えた。
「砲を射撃位置から移動状態へ戻す必要がありますし、牽引の準備にも時間がかかります」
そこでヴェルナーが口を開いた。
「閣下。それでしたら、一つご提案がございます」
「あら、何かしら?」
「小型の装軌式牽引車でございます」
ヴェルナーは持参した資料を机の上に広げた。
そこには、小柄で頑丈そうな車両の図面が描かれていた。
車輪ではなく、左右に幅広い履帯が取り付けられている。
「砲や荷車を牽引するための車両です。戦車のような装甲も武装もございませんが、不整地での牽引に適しております」
グスタが身を乗り出した。
「……これで百二十ミリ砲を牽けるのか?」
「はい。条件にもよりますが、十分な牽引能力がございます」
ヴェルナーは説明を続けた。
「通常の車輪式車両に比べて速度は高くありません。しかし、履帯によって接地圧が分散され、未舗装道路や軟弱地盤でも比較的安定して走行できます」
ダリオも資料を覗き込んだ。
「……なるほど。工兵でも使えそうだな」
「そうなの?」
オリヴィエが尋ねた。
ダリオは頷いた。
「はい。車体前部に排土用のブレードを取り付けられるなら、土砂の移動や簡単な整地作業にも利用できます」
ヴェルナーが答えた。
「その仕様もご用意できます」
「それは便利ね」
オリヴィエは微笑んだ。
「砲兵が使わないときには、工兵のお仕事にも使えるのね」
ダリオは少し考えた。
「ただし、工兵で使用する場合には、砲兵側との運用調整が必要になります」
「そうね」
オリヴィエは頷いた。
「四門の砲を増やすのですもの。移動するための車両も必要だわ」
そして、ヴェルナーへ顔を向けた。
「こちらも四両、購入しましょう」
グスタとダリオが同時に顔を上げた。
「四両ですか?」
「ええ」
オリヴィエは穏やかに答えた。
「八門の砲に対して四両では、もちろん足りないでしょう。でも、まずは四両で運用を始めてみましょう」
彼女は二人を見た。
「砲兵と工兵の両方で使えるよう、計画を考えていただけるかしら?」
「……はっ!」
二人は揃って答えた。
グスタは新しい砲の訓練計画を考えていた。
ダリオは、装軌式牽引車を使って陣地を整備する方法を考え始めていた。
しかし、二人が想像していた以上に、オリヴィエの考えは先へ進んでいた。
◇
「それから、もう一つお願いがあるの」
オリヴィエが地図へ視線を戻した。
「はい」
グスタが答えた。
「新しい砲を、いつも同じ場所から撃つのは避けたいの」
彼女は地図の上に指を置いた。
「一度砲撃したら、敵にもこちらの位置を知られる可能性があるでしょう?」
「はい」
「それなら、次は別の場所から撃てばよいのではないかしら」
グスタは頷いた。
「砲兵陣地を複数用意し、必要に応じて移動させるということでしょうか」
「ええ」
オリヴィエは微笑んだ。
「そうすれば、敵も簡単には反撃できなくなるでしょう?」
「理屈の上では、そのとおりです」
グスタは慎重に答えた。
「ただし、陣地を移すたびに射撃の準備が必要になります。新しい陣地の位置を正確に把握し、事前に射撃に必要な資料を整えておかなければなりません」
「そうね」
「また、移動先まで砲を運べる道路も必要です」
そこでダリオが口を開いた。
「道路の整備は、工兵中隊の仕事になりますな」
オリヴィエは頷いた。
「お願いできるかしら?」
「承知しました。ただ、陣地の数が増えれば、その分だけ工事も必要になります」
「ええ。ですから、今のうちに計画を立てていただきたいの」
彼女は地図を見渡した。
「砲を置く場所だけではなく、そこへ行くための道も必要でしょう。雨が降っても使えるようにしておかなければならないわね」
グスタとダリオは顔を見合わせた。
言っていることは正しかった。
しかし、必要となる仕事の量が、次第にはっきりしてきた。
「それから、夜間にも砲を移動させる必要が出てくると思うの」
オリヴィエが続けた。
「暗い中で安全に移動するには、今から準備しておいた方がよいでしょう?」
「はい。夜間移動には特別な訓練が必要になります」
グスタが答えた。
「新兵が配属された後、まずは基本操作を習熟させ、それから段階的に訓練を進めたいと考えます」
「ええ。それがよいと思うわ」
オリヴィエは満足そうに頷いた。
「急いで事故を起こしては意味がありませんもの」
彼女はダリオへ顔を向けた。
「道路や陣地についても、昼間と夜間では使い勝手が違うでしょうね」
「はい。通路の幅や曲がり角、地面の状態なども確認する必要があります」
「では、その点も考えておいていただけるかしら」
「承知しました」
ダリオは頷いた。
その隣で、グスタが静かに息を吐いた。
砲の購入だけでは終わらない。
牽引車の導入。
砲兵陣地の増設。
移動経路の整備。
新しい射撃計画。
新兵の訓練。
そして、将来の夜間運用。
考えなければならないことは、山ほどあった。
しかも、牽引車は貴重な燃料を必要とする。
無制限に走らせることはできない。
四両を砲兵と工兵でどのように使い分けるのかも、決めなければならなかった。
だが、オリヴィエの考えには無理がなかった。
一つひとつの課題を整理し、できるところから進めていけばよい。
そういう話だった。
「では、グスタ大尉、ダリオ大尉」
オリヴィエが二人へ顔を向けた。
「これから何度か、お二人と打ち合わせをさせてくださいね」
「はっ!」
「新しい砲と牽引車が到着するまでに、できる準備は済ませておきましょう」
二人は姿勢を正した。
「承知いたしました!」
オリヴィエは嬉しそうに微笑んだ。
「よろしくお願いしますね」
◇
会議の終わりに、アウレリアが予算書を差し出した。
「オリヴィエ様。購入費用の概算です」
「ありがとう」
オリヴィエは書類を受け取り、金額を確認した。
さすがに安い買い物ではなかった。
百二十ミリ榴弾砲四門。
関連する器材と予備部品。
小型全装軌式牽引車四両。
さらに、導入後には燃料や整備費用も必要になる。
アウレリアは少し心配そうな表情だった。
「かなりの金額になります」
「そうね」
オリヴィエは頷いた。
「伯爵家の支出としても、決して小さくはありません」
「ええ。わかっているわ」
オリヴィエはしばらく書類を見ていた。
そして、ペンを手に取った。
「でも、必要なものなのでしょう?」
「……はい」
「なら、購入しましょう」
彼女は迷うことなく書類に署名した。
アウレリアは、少し驚いたように主人の顔を見た。
「よろしいのですか?」
オリヴィエは顔を上げた。
その表情は、いつもと変わらず穏やかだった。
「死んだら金の心配はできなくなるわ」
そう言って、微笑んだ。
グスタもダリオも、思わず姿勢を正した。
オリヴィエは署名した書類をヴェルナーへ渡した。
「十月の納入を楽しみにしていますね」
「承知いたしました。責任をもって手配いたします」
ヴェルナーは深く頭を下げた。
会議は、それで終わった。
砲兵中隊の増強。
装軌式牽引車の導入。
複数の砲兵陣地を使用する新しい運用。
それらの準備が、正式に動き始めた。
もっとも、グスタとダリオにとっては、これからが本当の仕事の始まりだった。
伯爵邸を出た二人は、しばらく無言で歩いていた。
「……グスタ」
ダリオが口を開いた。
「なんだ」
「大変なことになったな」
「ああ」
グスタは短く答えた。
「しかし、悪い話ではない」
「それはそうだ」
二人は顔を見合わせた。
新しい砲が四門。
新しい牽引車が四両。
地方領軍であるベルノ連隊にとって、これほどの装備増強は簡単に実現できるものではなかった。
だからこそ、期待に応える必要がある。
「……十一月まで忙しくなりそうだな」
ダリオが呟いた。
「間違いない」
グスタも頷いた。
二人はそれぞれの中隊へ戻るため、歩き始めた。
ベルノ連隊の砲兵改革は、こうして静かに始まった。