その日の午前中、ベルノ連隊では新兵訓練部隊の解散式が行われた。
七月に召喚された第20期の日本人新兵と、途中から合流した現地新兵たち。
彼らは基礎訓練を終え、それぞれの配属先へ向かうことになった。
砲兵中隊へ配属された新兵たちも、教官に引率されて中隊本部前の広場へと移動してきた。
しかし、そこに並べられていたものを見て、新兵たちは思わず足を止めた。
百二十ミリ榴弾砲が四門。
巨大な砲身と頑丈な砲架は、まだ真新しい塗装に覆われている。
十月に納入されたばかりの新しい砲だった。
さらに、その隣には見慣れない車両が四両並んでいた。
小柄で、ずんぐりとした車体。
左右には幅広い履帯が取り付けられ、車体前部には土砂を押し出すための大きなブレードが装備されている。
帝国製の小型全装軌式牽引車だった。
ベルノ連隊では初めて導入された車両である。
「……なんだ、あれ」
新兵の一人が呟いた。
「戦車じゃないよな?」
「ブルドーザーみたいだけど、ずいぶん小さいな」
「後ろの大砲を引っ張るんじゃないか?」
日本人新兵たちは興味深そうに眺めていた。
一方、現地新兵たちには履帯で走る車両そのものが珍しかった。
帝国には自動車も装軌式車両も存在するが、石油資源が希少なため、その数は限られている。
地方領軍であるベルノ連隊では、輸送も砲牽引も依然として馬匹が主力だった。
その中に、機械式の牽引車が四両も並んでいる。
新兵たちが驚くのも無理はなかった。
◇
中隊本部の二階。
窓から広場を見下ろしていたグスタ・レーン大尉は、小さく息を吐いた。
「……いよいよだな」
隣に立つダリオ・ベル大尉が頷いた。
「ああ。ようやく新兵が来た」
グスタは砲兵中隊長、ダリオは工兵中隊長である。
二人とも、ここ数か月は通常の中隊業務に加えて、新しい砲兵運用の準備に追われていた。
始まりは八月だった。
新しくベルノ伯爵となったオリヴィエ・フォン・ベルノ大佐が、砲兵中隊の大幅な増強を決定したのである。
百二十ミリ榴弾砲四門の追加購入。
小型全装軌式牽引車四両の導入。
そして、複数の陣地を使い分ける機動的な砲兵運用。
購入の決定は早かった。
しかし、その後の準備は容易ではなかった。
オリヴィエは何度も二人を伯爵邸へ呼び、打ち合わせを重ねてきた。
砲の編成。
牽引車の運用。
予備陣地の構築。
道路の整備。
弾薬の輸送。
砲兵と工兵の連携。
検討しなければならない課題は、いくらでもあった。
会議にはアウレリア・アル・エルディア大尉も同席し、予算や資材、必要な人員の確認を行っていた。
オリヴィエは、いつも穏やかだった。
二人の説明を丁寧に聞き、わからないことがあれば質問する。
『砲を移動させている間、前線の歩兵はどうなるのかしら?』
『雨が降った後でも、同じ道路を使えるの?』
『牽引車は四両しかないけれど、八門の砲をどう動かすつもり?』
『夜間にも移動する必要が出てくるでしょう。その準備は、どの段階から始めるのがよいかしら?』
どれも、もっともな質問だった。
答えられなければ、次の会議までに調べてくるしかない。
答えれば、そこからまた新しい課題が見つかる。
そうして会議を重ねるたびに、二人の机には新しい計画書と図面が積み重なっていった。
十月に砲と牽引車が納入されてからは、さらに忙しくなった。
牽引車の操作訓練。
砲との接続試験。
ブレードによる整地作業。
予備陣地の選定。
そして、新兵受け入れ後の訓練計画。
グスタは何度計画書を書き直したのか、途中から数えるのをやめていた。
「……準備だけで、随分と仕事をした気がするな」
グスタが呟いた。
「まったくだ」
ダリオは苦笑した。
「うちの連中も、新しい牽引車の扱いを覚えるだけで苦労したぞ」
「こっちも同じだ。砲を牽引できることは確認したが、それを使って何度も陣地を移動するとなれば、また話は別だ」
「しかも、今までの四門だけじゃない」
「ああ。新しい四門が加わって、八門だからな」
グスタは窓の外へ目を向けた。
整列を始めた新兵たちが、砲と牽引車を珍しそうに眺めている。
「……あの連中に、一から教えるんだぞ」
ダリオも新兵たちを見下ろした。
「まあ、最初は砲の扱いを覚えるところからだろう」
「そうだ。すぐに陣地変換の速度を求めるつもりはない」
グスタは腕を組んだ。
「まずは安全に砲を扱えるようにする。それから移動だ。夜間訓練など、その先の話だな」
「ああ。昼間にまともに動かせないうちから、暗闇でやらせるわけにもいかん」
二人は頷き合った。
その点については、オリヴィエとも何度も話し合っていた。
目標は高く設定する。
だが、訓練には順序がある。
新兵を急がせて事故を起こせば、それこそ本末転倒だった。
そのとき、扉が叩かれた。
「失礼します。連隊長閣下がお見えです」
二人は慌てて姿勢を正した。
ほどなくして、オリヴィエがアウレリアを伴って入ってきた。
「おはようございます、二人とも」
「閣下!」
二人が敬礼する。
オリヴィエは柔らかな笑顔で答礼した。
「いよいよ今日からね」
「はっ!」
「ここまで、ずいぶん準備をしていただいたわ。本当にありがとう」
彼女は窓の外へ目を向けた。
新しい砲と牽引車。
そして、配属されたばかりの新兵たち。
「ようやく、皆さんが揃ったのね」
その声は嬉しそうだった。
「これからは訓練の成果を見せていただけるのね」
「はっ。まずは新兵の慣熟を優先し、段階的に進める計画です」
グスタが答えた。
「ええ。それがよいと思うわ」
オリヴィエは満足そうに頷いた。
「急がせて怪我をさせては意味がありませんもの」
そして二人へ微笑みかけた。
「三か月もかけて準備していただいたのですもの。きっと、よい中隊になるわね」
「……はっ!」
「私は、あなたたちなら立派な砲兵中隊を作ってくれると信じているの」
グスタとダリオは、思わず背筋を伸ばした。
その言葉には少しの嫌味もなかった。
心から二人を信頼していることが伝わってくる。
だからこそ、重かった。
「それでは、新兵の皆さんにご挨拶してきましょう」
オリヴィエはそう言って立ち上がった。
グスタが先に立ち、広場へ案内する。
ダリオはその後ろを歩きながら、小声で囁いた。
「……ずいぶん期待されているな」
「……ああ」
「頑張れよ」
「おまえもだぞ」
ダリオは黙った。
そうだった。
これから始まる新しい砲兵訓練には、工兵中隊も深く関わるのである。
◇
「気をつけ!」
曹長の号令が広場に響いた。
新兵たちは一斉に姿勢を正した。
そして、中隊本部から姿を現した女性を見て驚いた。
「……あれ?」
一人の日本人新兵が小声を漏らした。
「さっきの伯爵様じゃないか?」
「……本当だ」
「解散式で挨拶してた人だよな?」
つい先ほど、訓練部隊の解散式で新兵たちの前に立っていた連隊長だった。
あれから、まだそれほど時間は経っていない。
まさか配属先でも、再び伯爵本人が出迎えてくれるとは思っていなかった。
現地新兵たちも驚いていた。
連隊長が訓練部隊の解散式に出席すること自体は、それほど珍しいことではない。
しかし、その直後に個別の中隊を訪れ、配属されたばかりの新兵を改めて歓迎するなど、普通は考えられなかった。
しかも、オリヴィエは連隊長であると同時に、ベルノ伯爵その人なのである。
古参兵たちの間にも、わずかな緊張が走った。
オリヴィエは、そんな周囲の反応を気にする様子もなく、新兵たちの前に立った。
「皆さん、またお会いしましたね」
柔らかな声が響いた。
「先ほどは解散式、お疲れさまでした」
オリヴィエはにこやかに微笑んだ。
「今日は、砲兵中隊に配属された皆さんを、改めて歓迎したくて参りました」
彼女は背後に並ぶ四門の砲を指差した。
「皆さんの後ろにあるのは、先月納入されたばかりの百二十ミリ砲です」
新兵たちが改めて砲を眺めた。
「これまでベルノ連隊には四門の百二十ミリ砲がありました。この四門が加わって、全部で八門になりました」
小さなどよめきが起こった。
「私は、これから砲兵中隊を大幅に増強していくつもりです」
オリヴィエは穏やかな表情のまま続けた。
「これからのベルノ連隊では、砲兵が戦闘の主力になります」
その言葉に、グスタ大尉がわずかに姿勢を正した。
「歩兵の皆さんは、最前線で敵と戦います。敵の砲撃を受け、時には多数の敵兵を相手にしなければなりません」
オリヴィエは新兵たちを見渡した。
「ですが、私は歩兵だけに戦わせるつもりはありません」
その声が、少しだけ強くなった。
「敵が攻めてくれば、皆さんの砲撃で食い止める。味方が進撃するときは、その前に立ちはだかる敵を皆さんの砲撃で排除する」
彼女は一度、言葉を切った。
「砲兵は、ただ後ろから大砲を撃つだけの兵科ではありません」
そして、はっきりと言った。
「前線で戦う歩兵を守る、剣になるのです」
新兵たちは静まり返っていた。
「そのために、新しい砲と牽引車を用意しました。そして、それを扱う皆さんをお迎えしました」
オリヴィエは再び柔らかな笑顔に戻った。
「もちろん、最初から上手にできるとは思っていません。これから覚えることはたくさんあるでしょう」
彼女はグスタへ視線を向けた。
「でも、皆さんには頼りになる中隊長と先輩たちがいます。困ったことがあれば、遠慮なく相談してください」
グスタは敬礼した。
その顔には、なんとか平静を保とうとする努力が見られた。
「厳しい訓練になると思いますが、どうか頑張ってください」
オリヴィエは新兵たちへ深く頷いた。
「皆さんに期待します」
号令が響き、新兵たちは一斉に敬礼した。
オリヴィエが答礼する。
その姿を見つめる新兵たちの表情には、緊張とともに感激の色が浮かんでいた。
伯爵自らが歓迎してくれたのである。
しかも、先ほどの解散式に続いて二度目だった。
それだけ自分たちに期待してくれている。
新兵たちには、そう感じられた。
一方、グスタ大尉の心境は少々異なっていた。
三か月かけて準備した訓練計画。
新しい砲。
新しい牽引車。
そして、まだ何も知らない新兵たち。
これらを使って結果を出すのは、自分なのである。
隣に立つダリオが、小声で囁いた。
「……グスタ」
「なんだ」
「顔色が悪いぞ」
「……おまえもな」
二人は前を向いたまま、静かに息を吐いた。
準備の三か月が終わった。
いよいよ、新しい砲兵中隊の訓練が始まるのだった。
◇
翌朝。
砲兵演習場には、早朝から号令が響いていた。
「砲員、集合!」
「配置につけ!」
新兵たちは古参兵の指示に従い、それぞれの砲へ向かった。
水野香織二等兵も、その中にいた。
身長百五十八センチ。
黒髪を後ろでまとめ、丸眼鏡をかけた小柄な女性だった。
日本では数学教師をしていたが、今では帝国軍の二等兵である。
「水野先生、こちらです」
声をかけてきたのは、木田哲夫一等兵だった。
木田も日本から召喚された兵士で、水野より一年先輩にあたる。
砲兵中隊で一年ほど勤務しているが、まだ経験豊富な兵士というわけではなかった。
「木田さん、よろしくお願いします」
「こちらこそ。私もまだ覚えることばかりですから、一緒に頑張りましょう」
木田は少し照れたように笑った。
その二人を、分隊長のカール・ベッカー伍長が呼び寄せた。
ベッカーはベルノ出身の現地兵で、砲兵中隊に長く勤務する下士官だった。
「おまえたち、まずは砲の基本操作から覚えてもらう」
「はい!」
「木田、おまえも追加された砲の扱いはまだ十分ではないな?」
「はい。基本操作は教わっておりますが、まだ慣れておりません」
「よし。水野と一緒に確認しろ」
ベッカーは砲の脇に置かれた模擬弾を指差した。
「まずは装填作業だ」
木田が水野に声をかけた。
「先生、こちらを持ってみてもらえますか?」
「はい」
「かなり重いですから、気をつけてください」
水野は腰を落とし、模擬弾を両手で抱えた。
「んっ……!」
予想以上に重かった。
持ち上がらないわけではない。
しかし、腕が引っ張られ、背中にまで力が入る。
「お、重いですね……」
「そうでしょう。私も最初は驚きました」
木田は手を添えた。
「腕だけで持ち上げると腰を痛めますから、足の力も使ってください」
「なるほど……」
水野は慎重に模擬弾を下ろした。
「これを何発も運ぶんですね」
「そうです。戦闘では、撃つだけ運ぶことになります」
「……大変ですね」
木田は苦笑した。
「ええ。私も最初は、こんなに体力を使う仕事だと思っていませんでした」
そこへベッカーの声が響いた。
「木田! 水野! 話はそこまでだ! 次の模擬弾を運べ!」
「はい!」
二人は慌てて作業に戻った。
午前中は、模擬弾の運搬と装填手順を繰り返した。
砲弾を運ぶ。
装填位置へ渡す。
安全を確認する。
再び次の模擬弾を運ぶ。
単純な作業だったが、繰り返すうちに腕が重くなってくる。
水野は額に汗を浮かべながら、ようやく休憩時間を迎えた。
「……疲れました」
思わず呟いた。
木田も隣に腰を下ろした。
「……そうですね、先生」
彼も肩で息をしていた。
「木田さんも疲れたんですか?」
「ええ。最近は私も訓練ばかりですから」
「そうなんですね」
「それに、これからは砲を動かす訓練も始まります」
水野は顔を上げた。
「……この大きな砲を?」
「はい。牽引車で引っ張って、別の陣地へ移動するんです」
木田は砲を見上げた。
「……私も、まだ慣れていないんですけどね」
水野は少し不安になった。
◇
最初の数日間、新兵たちはひたすら砲の基本操作を繰り返した。
砲の構造。
器具の名称。
安全確認の手順。
装填作業。
砲の清掃と点検。
覚えることは山ほどあった。
グスタは訓練計画を細かく分け、各分隊長に新兵の習熟状況を報告させた。
扱いに慣れていない作業は、何度でも確認する。
手順を覚えていなければ、次へ進ませない。
その方針は徹底されていた。
しばらくすると、砲の撤収と移動準備が訓練に加わった。
「砲身、移動位置へ!」
「器具を確認しろ!」
「牽引具、準備!」
ベッカーの号令が響いた。
兵士たちは慌ただしく動き始めた。
砲を射撃状態から移動状態へ戻す。
必要な器具を収納する。
牽引装置を接続する。
その一つひとつに、決められた手順があった。
しかし、新兵たちはすぐに混乱した。
「木田! そっちじゃない!」
「はい!」
「その器具はまだ使う!」
「了解!」
木田が慌てて引き返す。
水野も器具を抱えて右往左往していた。
「水野! そこで止まるな!」
「す、すみません!」
「慌てるな! 順番を確認しろ!」
「はい!」
ベッカーは作業を止めさせた。
「全員、聞け! 急ぐ必要はない! まず正しい手順を覚えろ!」
砲員たちは姿勢を正した。
「勝手に判断して器具を動かすな。担当がわからなければ確認しろ。速さを競うのは、その後だ!」
「了解!」
それから改めて作業が始まった。
最初は撤収の手順だけを繰り返す。
次に、牽引具の接続を確認する。
それができるようになってから、ようやく牽引車を使った移動へ進んだ。
四両しかない牽引車は、すべての砲で同時に使えるわけではなかった。
各砲が順番に牽引訓練を行い、待機している砲員たちは器具の点検や手順の確認を続けた。
実際に砲が動き始めると、水野は思わず見入ってしまった。
牽引車のエンジンが低い音を立て、履帯がゆっくりと回る。
その後ろを、巨大な百二十ミリ砲が引かれていく。
「……動くんですね」
水野が呟いた。
隣の木田も頷いた。
「ええ。大したものですよね」
しかし、感心していられたのも束の間だった。
砲が別の陣地へ到着すると、今度は据え付け作業が始まったのである。
「配置につけ!」
ベッカーの号令が響いた。
「射撃準備!」
水野と木田は慌てて動き始めた。
覚えたばかりの作業を、今度は逆の順序で行う。
それだけのことが、思いのほか難しかった。
訓練が終わる頃には、二人ともすっかり疲れ切っていた。
「……木田さん」
「はい、先生」
「私、砲兵ってもっと計算する仕事だと思ってました」
木田は苦笑した。
「計算もしますよ。射撃諸元や弾道修正など、数学を使う仕事も多いんです」
水野の顔が少し明るくなった。
「私、数学なら得意なんです」
「そうでしたね。先生は数学を教えていらしたんですよね」
「はい」
「それなら、射撃指揮の仕事も向いているかもしれませんね」
木田は少し考えた。
「ただ、私たちもまずは砲の扱いを覚えないといけませんから」
「……そうですね」
二人は目の前の巨大な砲を見上げた。
まだまだ、覚えることは山ほどありそうだった。
◇
新兵が配属されて十日ほどが経った。
砲兵中隊では、撤収と移動準備に要する時間を記録するようになっていた。
最初のうちは、作業の速さを評価するためではなかった。
何に時間がかかっているのか。
どの手順で失敗が多いのか。
それを調べるためだった。
「三十一分二十秒!」
記録係の声が響いた。
ベッカー伍長は作業記録を受け取り、渋い顔をした。
「……昨日より遅いな」
砲員たちは肩で息をしていた。
「途中で何かあったか?」
「牽引具の準備に時間がかかりました!」
「それだけか?」
「……器具を探していました」
ベッカーは眉をひそめた。
「またか」
砲員たちは黙っていた。
作業手順は少しずつ覚えてきた。
しかし、実際に動いてみると、思わぬところで時間を失っていた。
使う器具がすぐに見つからない。
別の兵士が持っていってしまう。
片付けた場所が前回と違う。
担当する兵士が変わると、器具の並べ方まで変わっていた。
昼間なので、探せば見つかる。
しかし、そのたびに作業が止まってしまう。
「……休憩!」
ベッカーが命じた。
兵士たちは砲の脇に腰を下ろした。
水野は手袋を外し、赤くなった手のひらを眺めた。
「……痛い」
思わず呟いた。
隣に座った木田も、疲れた様子で腕を揉んでいた。
「先生、大丈夫ですか?」
「はい。でも、腕が重くて……」
「私もです」
木田は苦笑した。
「一年前の基礎訓練を思い出します」
「木田さんも、こんなに大変だったんですか?」
「いえ。今回は別の意味で大変です。私も砲をこんなに何度も動かしたことはありませんから」
水野は、地面に置かれた器具を見た。
「……木田さん」
「はい?」
「さっき、何を探していたんですか?」
「牽引具の準備に使う器具です」
「最初は、どこにあったんですか?」
「砲の右側だったと思います」
「でも、今日は左側にありましたよね」
「……そうですね」
木田は少し考えた。
「使う人によって置く場所が違うのかもしれません」
「だったら、置く場所を決めておけばいいんじゃないでしょうか」
「……ああ」
木田は頷いた。
「それなら、毎回探さなくて済みますね」
水野は地面に指で簡単な図を描いた。
砲の位置。
器具を置く場所。
兵士が動く範囲。
「例えば、こんな感じです」
木田はその図を覗き込んだ。
「なるほど……」
「ただ、私にはまだ、どこに何を置けば使いやすいのかわからないんです」
「それなら、分隊長に聞いてみましょう」
「そうですね」
木田は立ち上がった。
「先生、せっかく考えてくださったんですから、相談してみましょう」
◇
その日の夕方。
ベッカー伍長は部下たちを砲の周囲に集めた。
「今日の訓練で気づいたことがあれば言ってみろ」
兵士たちは顔を見合わせた。
「中隊長からも指示が出ている。作業の遅れがどこで起きているのか、現場で確認しろとのことだ」
最初に口を開いたのは木田だった。
「伍長殿。器具の置き場所を統一した方がいいと思います」
「置き場所か?」
「はい。使う人によって位置が違うので、探す時間がかかっています」
ベッカーは腕を組んだ。
「一応、置く場所は決まっているはずだぞ」
「はい。ただ、砲ごとに少し違いますし、片付ける人によっても違っているようです」
「……確かにな」
水野も手を上げた。
「伍長殿、よろしいでしょうか?」
「なんだ、水野」
「配置を図にしておけば、覚えやすいと思うんです」
「図?」
「はい」
水野は手元の紙を広げた。
そこには、砲を上から見た簡単な配置図が描かれていた。
砲の位置を中心に、使用する器具と収納場所が記されている。
「作業を始める前に、必要なものをこの位置に揃えておけば、探す時間が減ると思います」
ベッカーは図を覗き込んだ。
「……ほう」
「それと、片付けるときにも同じ位置へ戻すようにすれば、次の訓練でも迷わなくなると思うんです」
別の兵士が口を開いた。
「確かに、砲ごとに位置が違うのは困ります」
「俺もそう思います」
「それなら、使う順番も決めた方がいいんじゃないでしょうか」
次々と意見が出てきた。
ベッカーはそれを一つずつ聞いていた。
「……なるほどな」
水野の図に目を落とす。
「悪くない。だが、この位置で本当に作業しやすいかは、実際に試さないとわからん」
「はい」
「よし。明日、配置を変えて試してみよう」
兵士たちの表情が明るくなった。
しかし、ベッカーはすぐに付け加えた。
「ただし、勝手に決めるな。分隊ごとに別の配置になったら、かえって混乱する。まずは俺の分隊で試験する」
「了解しました!」
「それと、片付ける位置を決めるだけでは駄目だぞ。誰が確認するのかも決めなければならん」
ベッカーは部下たちを見渡した。
「作業が終わったら、担当者が器具の数と位置を確認する。これを徹底する」
「はい!」
「今は昼間だから、多少置く場所が違っても見つけられる。だが、いずれ夜間にも砲を動かすことになるんだ」
ベッカーは砲を指差した。
「そのときになってから、慌てて覚えるつもりか?」
「いいえ!」
「なら、今のうちに身体に覚え込ませろ!」
兵士たちは一斉に返事をした。
こうして、ベッカー分隊では器具の配置を統一する試みが始まった。
◇
翌日から、訓練の様子が少し変わった。
砲の周囲に器具を置く場所が決められ、誰が準備し、誰が片付けるのかも明確になった。
しかし、すぐに新しい問題が見つかった。
器具が多く、一度に運ぶには手間がかかる。
収納する箱の中で、小さな器具が重なってしまう。
さらに、移動時に取り外して保護する必要がある照準器などの精密な装備は、乱暴に扱えない。
特に照準器は、単に取り外して運べばよいものではなかった。
専用の保護具を使い、損傷を防がなければならない。
しかし、砲の撤収を繰り返す訓練では、保護、運搬、再装着という作業が予想以上に手間取った。
「……先生、そちらをお願いします」
「はい!」
水野は照準器の収納を手伝いながら、慎重に手を動かした。
「これ、取り扱いに気を使いますね」
「そうですね。落としたら大変ですから」
木田も緊張した表情だった。
近くで見ていたベッカーが声をかけた。
「おい、二人とも。急ぐ必要はないぞ」
「はい!」
「精密器具は慎重に扱え。時間を縮めるために壊したら意味がない」
「了解しました!」
作業が終わると、ベッカーは記録を確認した。
「……ここも改善の余地があるな」
木田が尋ねた。
「収納の方法でしょうか?」
「そうだ。移動のたびに保護するのは当然だが、もっと扱いやすい方法があるかもしれん」
水野も口を開いた。
「毎回、同じ順番で作業できるようになれば、早くなると思います」
「それもあるな」
ベッカーは少し考えた。
「よし。武器科に相談してみよう」
◇
その数日後。
砲兵中隊の演習場へ、二人の兵士がやってきた。
一人は現地出身の軍曹。
もう一人は、日本人の若い一等兵だった。
「……あれ?」
水野は相手の顔を見て驚いた。
「篠沢君?」
若い兵士が振り返った。
「あ、水野先生」
篠沢遊馬一等兵だった。
第18期の日本人召喚者で、武器科に所属している。
「先生、砲兵中隊だったんですね」
「ええ。篠沢君は、今日はどうしたんですか?」
「こちらから器具の改良依頼があったので、現物を確認しに来ました」
篠沢は隣の軍曹へ顔を向けた。
「軍曹殿、こちらが水野先生です」
「ほう」
軍曹は水野を見た。
「私は武器科のリーデル軍曹だ。今日は砲の器具について話を聞きに来た」
「水野香織二等兵です!」
水野が慌てて敬礼する。
リーデルは答礼した。
「ベッカー伍長はいるか?」
「はい。呼んでまいります」
木田が答えた。
やがて、ベッカーがやってきた。
「お待たせしました。ベッカー伍長です」
「武器科のリーデル軍曹だ。改良依頼を受けたので、現物を確認したい」
「ありがとうございます」
「それで、何を改良したいんだ?」
ベッカーは砲の脇へ二人を案内した。
「こちらです」
そこには、取り外し可能な照準器と、その保護具が置かれていた。
リーデルは一通り確認した。
「……なるほど」
保護具を手に取り、蓋や固定部分を調べる。
「これ自体が壊れているわけではないな」
「はい。ただ、陣地変換を繰り返すと、収納と取り出しに時間がかかるんです」
「そうか」
リーデルは頷いた。
「実際の作業を見せてもらえるか?」
「はい」
ベッカーが木田と水野へ顔を向けた。
「二人とも、普段どおりにやってみろ」
「了解しました!」
木田と水野は、照準器の取り外しと収納作業を始めた。
リーデルは黙って見ていた。
篠沢は手帳を取り出し、手順と所要時間を書き込んでいく。
作業が終わると、リーデルが尋ねた。
「今の作業で、どこが一番やりにくい?」
木田は少し考えた。
「収納するときです。きちんと固定できているか、何度も確認する必要があります」
「確認は必要だぞ」
「はい。それはわかっているんですが……」
木田は少し困った顔をした。
「もう少し、固定されたことがわかりやすければと思いまして」
「なるほど」
リーデルは保護具を眺めた。
「確かに、目で確認しなければわかりにくい部分があるな」
水野も口を開いた。
「あの、よろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「保護具に入れる位置も、毎回少しずつ迷うんです」
「ほう」
「正しい位置に置かないと蓋が閉まらないので、置き直すことがあります」
リーデルは頷いた。
「それなら、内部の保持材を見直せるかもしれんな」
篠沢が手帳に書き込んだ。
「軍曹殿、照準器の向きと収納位置を一定にする、ということですね」
「ああ。ただし、器具に無理な力がかからないようにしなければならん」
リーデルは照準器を指差した。
「これは精密な装備だ。扱いやすくなっても、保護性能が落ちては意味がない」
「はい」
ベッカーが頷いた。
「こちらも、そこは譲れません」
「そうだろうな」
リーデルは少し笑った。
「だから、まず一つ試してみよう」
「試作品ですか?」
木田が尋ねた。
「そうだ。保護具の内側を改良したものを一つ用意する。おまえたちに使ってもらって、問題がないか確認する」
篠沢が頷いた。
「軍曹殿、寸法を確認します」
「ああ。記録しておけ」
篠沢は測定を始めた。
その横で、水野が興味深そうに覗き込んでいる。
「篠沢君、こういう仕事もするんですね」
「ええ。最近は砲兵中隊からの依頼が増えているんです」
「そうなんですか?」
「新しい砲と牽引車が入ったでしょう。いろいろ調整が必要みたいで」
水野は感心したように頷いた。
「大変ですね」
「先生たちも大変そうですけどね」
篠沢は水野の手を見た。
手袋を外した指先には、訓練でできた小さな傷があった。
「……ずいぶん頑張ってるみたいですね」
「毎日、へとへとですよ」
水野は苦笑した。
篠沢も笑った。
「では、少しでも使いやすいものを作らないといけませんね」
◇
その頃、工兵中隊でも新しい訓練が始まっていた。
砲兵中隊が陣地変換を繰り返すには、移動先となる予備陣地が必要になる。
そのため、工兵中隊は演習場の各所で道路整備と陣地構築を進めていた。
小型全装軌式牽引車の前部に取り付けられたブレードは、地面をならし、土砂を移動させる作業に役立っていた。
しかし、実際に使ってみると、工兵たちにも新しい問題が見えてきた。
機械で大まかに土砂を動かすことはできる。
だが、砲を据える場所の仕上げや排水溝の整備には、人の手が必要だった。
しかも、砲兵側は次々と予備陣地を使って訓練したがる。
工兵側としては、作業の途中で砲を入れられると困ることもあった。
「……まったく、忙しいな」
神宮哲夫兵長が、測量器具を片付けながら呟いた。
「ほんとね」
隣にいた岩島みゆき兵長も苦笑した。
二人は第16期の日本人召喚者で、工兵中隊に所属している。
今年七月からの語学教育訓練にも何度も付き合っていたため、第20期の日本人新兵たちには顔なじみが多かった。
その日の作業を指揮していたのは、オットー・クライン伍長だった。
ベルノ出身の現地下士官で、工兵中隊の作業班を率いている。
「神宮! 岩島!」
「はい!」
「次の予備陣地の確認に行くぞ!」
「了解!」
三人は作業用の図面を持ち、少し離れた場所へ向かった。
そこでは、砲兵中隊が翌日以降に使う予定の予備陣地が整備されていた。
砲を据える場所はほぼ完成していたが、周囲の地面にはまだ水が溜まりやすい箇所があった。
「……ここだな」
クラインは地面を見た。
「雨が降ると、この辺りに水が集まる」
神宮が頷いた。
「排水溝をもう少し延ばした方がよさそうですね」
「ああ。砲を据える場所まで水が流れ込んでは困る」
岩島は図面を確認した。
「でも、この辺りには砲の設置位置を示す杭がありますよ」
クラインは地面を見渡した。
確かに、砲兵中隊が打ち込んだ標識杭が数本立っている。
「……工事をするなら、少し邪魔だな」
神宮が言った。
「砲兵側に確認しますか?」
「そうだな」
クラインは頷いた。
「作業を始める前に連絡しておこう」
だが、この予備陣地をめぐる連絡は、思ったほど簡単ではなかった。
工兵側の図面では、まだ整備中の陣地となっている。
一方、砲兵側の訓練予定表には、すでに使用する日付が記されていた。
しかも、工事の進み具合によって作業場所が変わるたびに、どちらが確認するのか明確に決まっていなかったのである。
この小さな行き違いが、数日後、大きな騒ぎになることを、まだ誰も知らなかった。
◇
十一月も半ばを過ぎた、ある日の午後。
砲兵中隊と工兵中隊による合同訓練が行われていた。
その日の訓練は、主陣地から予備陣地への移動だった。
砲兵は砲の撤収と牽引準備を行う。
工兵は移動経路の確認と、予備陣地での誘導を担当する。
実際に砲を動かすのは、まだ一部の砲だけだった。
新兵たちが操作に十分慣れていないため、無理に全砲を動かすことはしていない。
それでも、砲兵と工兵が一緒に訓練するだけで、問題は次々と見つかった。
「牽引車、前進!」
「ゆっくりだ!」
工兵の誘導を受け、牽引車が予備陣地へ入ってくる。
その後ろを、巨大な百二十ミリ砲がゆっくりと引かれていた。
ベッカー伍長は予定された設置位置へ向かい、標識杭を確認しようとした。
「……ん?」
足を止めた。
そこにあるはずの杭が見当たらない。
周囲を見渡すと、少し離れた場所に抜かれた杭がまとめて置かれていた。
「……誰だ?」
ベッカーは眉をひそめた。
「誰が杭を抜いた!」
周囲の兵士たちが振り返った。
近くにいた工兵が答えた。
「排水工事のためです!」
「何だと?」
「昨日、排水溝を掘ったときに、一時的に移動させました!」
ベッカーは杭を拾い上げた。
「一時的だと? なら、元に戻しておけ!」
「工事の途中だったんです!」
「それなら、なぜ使用する前に知らせなかった!」
声が大きくなった。
そこへ、クライン伍長が駆け寄ってきた。
「何を騒いでいる!」
ベッカーはクラインへ顔を向けた。
「クライン伍長! 砲の設置位置を示す杭が抜かれている!」
「ああ。昨日の排水工事だ」
「勝手に動かされては困る!」
「勝手ではない! 砲兵中隊には連絡してある!」
「聞いていないぞ!」
「中隊本部へ報告した!」
「俺のところには来ていない!」
二人は互いに詰め寄った。
ベッカーは杭を掲げた。
「これがどこに立っていたかわかるのか!」
「工事前の図面に記録してある!」
「なら、なぜ戻していない!」
「まだ工事が終わっていないからだ!」
「それなら使える陣地じゃないだろう!」
「だから、工事中だと言っている!」
二人の声がますます大きくなった。
周囲の兵士たちは困り果てていた。
牽引車は止まったままだった。
砲兵たちは砲をどこへ据えればよいのかわからず、指示を待っている。
少し離れた場所でその様子を見ていた水野が、小さく呟いた。
「……大変なことになってますね」
木田も顔をしかめた。
「……そうですね」
そこへ、神宮と岩島がやってきた。
「……まずいな」
神宮が呟いた。
「二人とも、かなり怒ってるわね」
岩島も困った顔をしていた。
神宮はクラインの方へ歩き出そうとしたが、そのときベッカーが声を荒らげた。
「おまえら工兵は、砲のことを何も考えていないのか!」
クラインの表情が変わった。
「何だと!」
彼は一歩前へ出た。
「こっちはおまえらのために、何日も道路と陣地を作っているんだぞ!」
「だったら、使えるように作れ!」
「もう一度言ってみろ!」
クラインがベッカーの胸元へ手を伸ばした。
ベッカーも相手の腕を払いのける。
「伍長殿!」
神宮が慌てて駆け寄った。
「やめてください!」
岩島も二人の間へ入ろうとした。
そのときだった。
「どうなさったの?」
柔らかな女性の声が響いた。
その場にいた兵士たちが、一斉に振り返った。
そこには、オリヴィエが立っていた。
隣にはアウレリア。
そして、視察に同行していたグスタとダリオの姿もあった。
グスタの顔から、すっと血の気が引いた。
ダリオも硬直した。
よりによって連隊長の目の前で、砲兵と工兵の下士官が掴み合い寸前の喧嘩を始めたのである。
「閣下!」
グスタが慌てて前へ出ようとした。
しかし、オリヴィエは軽く手を上げた。
「大丈夫よ、グスタ大尉」
そして、静かに二人の伍長へ近づいた。
「お二人とも、まずは手を離していただけるかしら?」
二人は慌てて距離を取った。
「も、申し訳ありません!」
「失礼いたしました!」
オリヴィエは二人の顔を見た。
その表情は穏やかだったが、いつものような笑顔ではなかった。
「お二人とも下士官なのでしょう?」
「はっ!」
「部下の皆さんが見ている前で、掴み合いになるのは感心しないわね」
二人は黙って頭を下げた。
「事情は伺います。でも、その前に落ち着いてちょうだい」
「……はい」
ベッカーとクラインは姿勢を正した。
オリヴィエは周囲を見渡した。
動きを止めた牽引車。
待機している砲兵たち。
地面に置かれた標識杭。
そして、掘りかけの排水溝。
「何があったのかしら?」
彼女はベッカーへ目を向けた。
「あなたから聞かせてちょうだい」
「はっ!」
ベッカーは事情を説明した。
砲兵中隊が予定していた予備陣地へ到着したところ、砲の設置位置を示す杭が抜かれていたこと。
そのため、砲を据える場所がわからなくなったこと。
そして、工兵側から事前の連絡を受けていなかったこと。
オリヴィエは最後まで黙って聞いていた。
「なるほど」
次にクラインへ顔を向けた。
「あなたは、どうして杭を抜いたの?」
「はっ! 昨日の排水工事で、一時的に撤去いたしました!」
「排水工事?」
「はい。この陣地は雨が降ると水が溜まりやすく、砲を据える場所まで水が流れ込む恐れがありました。そのため排水溝を掘っておりました」
「そうなのね」
「砲兵中隊本部には、工事の予定を報告しております!」
オリヴィエは頷いた。
「では、工事をしていたこと自体は、連絡してあったのね」
「はい!」
彼女はグスタへ顔を向けた。
「グスタ大尉。その報告は届いていたのかしら?」
「……確認いたします」
グスタは副官に命じ、工兵からの連絡記録を持ってこさせた。
しばらくして、報告書が見つかった。
確かに、工兵中隊から排水工事の予定が報告されていた。
しかし、そこには工事の開始日と予定される作業内容が記されているだけだった。
いつまで陣地を使用できないのか。
砲兵がいつから使用してよいのか。
工事に伴って標識杭を撤去すること。
それらについては、明確に記されていなかった。
グスタは報告書を読み終えると、静かに息を吐いた。
「……閣下。工事の予定は受け取っておりました」
「そう」
「しかし、使用可能な状態かどうかの確認は行われておりませんでした」
ダリオも頷いた。
「工兵側では、工事が完了してから報告するつもりでした」
「なるほど」
オリヴィエは二人を交互に見た。
「では、砲兵は使えると思っていたけれど、工兵はまだ使わせるつもりがなかったのね」
「……そのとおりです」
二人の中隊長は頷いた。
「そうなのね」
オリヴィエは少し考えた。
それから、ベッカーとクラインへ顔を向けた。
「お二人とも、それぞれのお仕事には理由があったのね」
二人は黙って頷いた。
「砲兵は決められた位置に砲を据えようとした。工兵は、雨が降っても使える陣地にしようとした」
オリヴィエは地面の標識杭を見た。
「どちらも必要な仕事だわ」
そして、静かに続けた。
「でも、連絡が行き届いていなかったことと、喧嘩をしたことは別のお話ね」
二人は背筋を伸ばした。
「部下の皆さんの前であのような態度を取ったことについては、それぞれの中隊長にきちんと報告してください」
「はっ!」
「それから、これだけは覚えておいてちょうだい」
オリヴィエは二人を見つめた。
「あなたたちは、同じ連隊の兵士なのよ」
その声は、静かだった。
「砲兵のために工兵が陣地を作る。工兵が作った陣地を砲兵が使う。どちらが欠けても、この砲は戦えないでしょう?」
二人は黙って頷いた。
「なら、仲良くお仕事をしていただきたいわ」
そこでようやく、オリヴィエは少しだけ微笑んだ。
「よろしいかしら?」
「はい!」
二人は揃って返事をした。
ベッカーがクラインへ向き直った。
「……悪かった。頭に血が上った」
クラインも頭を下げた。
「こちらこそ、悪かった。標識杭を撤去することは、直接知らせるべきだった」
二人は互いに敬礼した。
オリヴィエは満足そうに頷いた。
「それでいいわ」
そして、グスタとダリオへ顔を向けた。
「ところで、お二人にお願いがあるのだけれど」
「はっ!」
二人が同時に姿勢を正した。
「これまでの打ち合わせでは、砲兵と工兵が予備陣地を共同で使うことになっていたわね」
「はい」
「でも、工事が終わった陣地を、いつ、誰が確認して引き渡すのかまでは決めていなかったのかしら?」
グスタが答えた。
「……その点については、明確な手順を定めておりませんでした」
「そう」
オリヴィエは頷いた。
「では、この機会に決めていただけるかしら」
そして、穏やかな声で続けた。
「せっかく皆さんが一生懸命に作ってくださった陣地ですもの。安全に、気持ちよく使っていただきたいわ」
「承知しました!」
「それから、現場で気づいたことも聞いてあげてね。図面だけではわからないことが、きっとあるでしょうから」
「はい!」
オリヴィエは満足そうに微笑んだ。
「よろしくお願いしますね」
そして、アウレリアとともに歩き始めた。
その後ろ姿を見送りながら、ダリオが小さく呟いた。
「……グスタ」
「なんだ」
「助かったな」
「ああ」
「……しかし、また仕事が増えたぞ」
「陣地の引き渡し手順か」
「そうだ」
グスタは小さくため息をついた。
「……まったく、あの方は実に上品だ」
ダリオが苦笑した。
「そうだな」
「誰も怒鳴らず、必要なことは全部おっしゃる」
「しかも、言っていることは全部正しい」
二人は顔を見合わせた。
そして、揃って小さくため息をついた。
◇
翌日から、砲兵中隊と工兵中隊の合同作業は少しばかり様子が変わった。
まず、予備陣地の使用に関する手順が整理された。
工兵が陣地を整備する。
作業が完了したら、工兵の下士官が確認する。
その後、砲兵の下士官が現地を確認し、必要な修正があれば伝える。
両者が確認を終えてから、初めて訓練に使用する。
工事中の陣地を使う必要がある場合は、双方の下士官が立ち会って使用範囲を決めることになった。
図面も共通のものを使用するようになった。
道路。
排水溝。
砲を据える位置。
標識杭。
それらの位置を一枚の図面で確認できるようにする。
神宮と岩島も、クライン伍長の指示を受けて作業に加わった。
「……これで、少しはわかりやすくなったな」
神宮が図面を広げながら言った。
「そうね」
岩島も頷いた。
「でも、現地で確認しないと駄目なところはまだ多いわね」
「だな」
そこへ、水野と木田がやってきた。
「神宮さん、岩島さん」
水野が声をかけた。
「あら、先生」
岩島が振り返った。
「今日はどうしたの?」
「ベッカー伍長から、こちらの陣地を確認してくるように言われまして」
「ああ、そうなのね」
神宮は図面を見せた。
「ちょうどよかった。砲を据える位置について、砲兵側の意見を聞きたかったんだ」
木田が図面を覗き込んだ。
「ここですか?」
「ああ。少し地面が傾いているんだ」
水野も周囲を見渡した。
「確かに、こちら側が少し低くなっていますね」
「そうなんだ。砲を据えるには、もう少し整地した方がいいかもしれない」
木田は少し考えた。
「分隊長に確認してみます」
「ああ。頼む」
岩島は水野へ笑いかけた。
「先生も、少しずつ砲兵らしくなってきたわね」
「そうですか?」
「ええ。最初に会った頃は、軍服もまだ着慣れていなかったのに」
水野は苦笑した。
「今でも、毎日へとへとですよ」
「それは私たちも同じよ」
岩島は肩をすくめた。
「新しい牽引車が来てから、工兵も仕事が増えっぱなしだから」
神宮も頷いた。
「道路を作って、陣地を整備して、また別の陣地へ行く。最近はそんな毎日だ」
木田が尋ねた。
「でも、牽引車があると、やっぱり仕事は楽になるんですか?」
「土を動かす仕事は、ずいぶん楽になったな」
神宮が答えた。
「ただし、細かいところは結局、人の手で直さないといけない」
岩島も頷いた。
「それに、機械があるからって、仕事の量まで減るわけじゃないのよね」
水野は思わず笑った。
「……それ、砲兵も同じです」
四人は顔を見合わせた。
そして、揃って苦笑した。
◇
同じ頃、武器科では照準器の保護具の試作品が完成していた。
リーデル軍曹は、篠沢を伴って再び砲兵中隊を訪れた。
「ベッカー伍長、頼まれていたものを持ってきたぞ」
「ありがとうございます!」
リーデルは改良した保護具を地面に置いた。
外見は以前と大きく変わっていなかった。
しかし、内部の保持材が改められ、照準器を決まった向きに収めやすくなっていた。
閉じる際の確認も、以前よりわかりやすくなっている。
「まずは使ってみてくれ」
リーデルが言った。
「ただし、雑に扱っていいという意味ではないぞ」
「承知しました」
ベッカーは木田と水野を呼んだ。
「二人とも、試してみろ」
「はい!」
木田と水野は、慎重に照準器を収納した。
以前より迷うことが少なかった。
「……あ」
水野が声を上げた。
「これ、入れる向きがすぐにわかりますね」
「そうだろう?」
リーデルが頷いた。
「内部の形を少し変えたんだ」
木田も確認した。
「取り出すときも、前より扱いやすいです」
「よし」
リーデルは篠沢へ顔を向けた。
「記録しておけ」
「はい」
篠沢が手帳に書き込んだ。
水野は改良された保護具を眺めた。
「……すごいですね」
リーデルが笑った。
「大したことはしていないさ」
そして、照準器を指差した。
「大切なのは、砲兵が何に困っているのかを教えてくれることだ。俺たちは実際の作業を全部知っているわけじゃないからな」
ベッカーが頷いた。
「今後も気づいたことがあれば、相談させていただきます」
「ああ。遠慮なく言ってくれ」
リーデルは少し考えた。
「ただし、正式な依頼は中隊長を通してくれよ。こっちも仕事の順番があるからな」
「承知しました」
篠沢が横から笑った。
「先生、これで少しは楽になりますね」
「ええ。ありがとうございます」
水野は微笑んだ。
「でも、これで訓練が楽になるかどうかは、まだわかりませんけど」
篠沢は首を傾げた。
「どうしてですか?」
「だって、少し早くできるようになったら、また次の訓練が始まるんでしょう?」
木田も隣で頷いた。
「……そうなんですよね」
篠沢は二人の顔を見た。
そして、思わず笑ってしまった。
◇
十一月の終わり。
砲兵中隊では、訓練の成果が少しずつ表れ始めていた。
最初は何度も手順を確認しなければならなかった新兵たちも、今では基本的な操作を覚え始めている。
砲の撤収と牽引準備も、以前より円滑になっていた。
何より、兵士たち自身が作業の無駄に気づくようになった。
器具を探す時間。
作業の順番を確認する時間。
担当者がわからず、互いに指示を待つ時間。
それらを少しずつ減らしていく。
ベッカー分隊では、器具の配置と担当が明確になり、訓練の準備や片付けにも無駄が少なくなっていた。
他の分隊でも、同じような工夫が始まっていた。
ただし、すべての砲で同じ成果が出ているわけではなかった。
新兵の習熟には差がある。
作業の得意不得意もある。
同じ手順でも、砲員の組み合わせが変われば時間がかかることがあった。
それでも、以前のようにただ繰り返すだけの訓練ではなくなっていた。
失敗したら、原因を考える。
原因がわかれば、改善する。
改善したら、もう一度試す。
そんな習慣が、少しずつ中隊全体へ広がっていた。
◇
その日の午後。
グスタは中隊本部で、訓練記録を確認していた。
そこへ、オリヴィエがアウレリアを伴って訪れた。
「こんにちは、グスタ大尉」
「閣下!」
「訓練の様子を見せてもらいに来たの。少しお時間をいただけるかしら?」
「もちろんです」
オリヴィエは机の上に並べられた記録を眺めた。
「ずいぶん細かく記録しているのね」
「はい。各砲の作業時間と、問題になった点をまとめております」
「見せていただいてもいい?」
「どうぞ」
オリヴィエは書類を手に取った。
作業時間は少しずつ短くなっていた。
初めの頃は三十分以上かかっていた砲でも、最近では二十分台前半で撤収と牽引準備を終えることがあった。
もちろん、まだ安定しているわけではない。
しかし、進歩していることは明らかだった。
「……素晴らしいわ」
オリヴィエは嬉しそうに微笑んだ。
「皆さん、ずいぶん上達したのね」
「はい。まだ目標には届きませんが、改善は進んでおります」
「それで十分よ」
オリヴィエは頷いた。
「最初から完璧にできるとは思っていませんもの」
彼女は別の記録を見た。
「それに、作業が早くなっただけではないのね」
「はい。器具の配置や役割分担も見直しております」
「そう」
オリヴィエは満足そうに微笑んだ。
「皆さんが自分で工夫してくださっているのね」
グスタは頷いた。
「特に、現場の兵士たちから出された改善案が役立っております」
「それは素晴らしいわ」
オリヴィエは窓の外へ目を向けた。
演習場では、新兵たちが砲の清掃を行っていた。
「皆さん、よく頑張ってくださっているのね」
彼女は静かに言った。
そして、グスタへ顔を向けた。
「ところで、兵士の皆さんの体調はどうかしら?」
グスタは少し表情を引き締めた。
「疲労が蓄積している者もおります。訓練予定を調整し、休養を取らせております」
「そう。それなら安心ね」
オリヴィエは頷いた。
「訓練で身体を壊してしまっては、せっかく覚えたことも役に立たなくなるもの」
「はい」
「それに、慣れないうちは無理をしない方がいいわ。夜間訓練も、まだ始めなくてよいと思うの」
「承知しております」
「まずは昼間に、確実に動けるようになってもらいましょう」
オリヴィエは書類を閉じた。
「それから、工兵中隊との連携も改善したそうね」
「はい。予備陣地の使用手順を統一いたしました」
「よかったわ」
オリヴィエは嬉しそうに微笑んだ。
「先日のような喧嘩も、これで減るかしら」
グスタは少し苦笑した。
「……そう願っております」
オリヴィエも小さく笑った。
「私もよ」
そして、椅子から立ち上がった。
「ここまで、本当によく頑張ってくださったわ」
「恐縮です」
「どうぞ、皆さんにも伝えてちょうだい。私はとても嬉しく思っている、と」
「はっ!」
グスタは敬礼した。
オリヴィエは答礼すると、アウレリアとともに退室した。
その後ろ姿を見送りながら、グスタは静かに息を吐いた。
ようやく、少しばかり成果が認められた気がした。
だが、机の上には十二月の訓練計画が置かれている。
冬季の陣地構築。
積雪時の道路整備。
低温時の牽引車の運用。
それらについては、すでに八月以来の会議で検討していた。
いよいよ、その準備を始めなければならない時期が近づいていた。
「……まだまだ先は長いな」
グスタは小さく呟いた。
◇
同じ日の夕方。
水野は砲の清掃を終え、砲架の脇に腰を下ろしていた。
木田も隣に座っている。
「……疲れましたね」
水野が呟いた。
「……そうですね、先生」
木田は空を見上げた。
夕焼けに染まった雲の向こうで、鳥の群れが飛んでいる。
「でも、今日はうまくいきましたね」
「ええ。少しずつですけど、覚えてきた気がします」
水野は微笑んだ。
「木田さんも、ずいぶん動きが早くなりましたよね」
「そうですか?」
「はい。最初の頃より、迷わなくなった気がします」
木田は少し照れたように笑った。
「……そう言ってもらえると嬉しいです」
そして、目の前の百二十ミリ砲を見上げた。
「私、最近ようやく、この仕事が少しわかってきた気がします」
「そうなんですか?」
「はい。今までは、砲を撃つことばかり考えていました」
木田は砲身を眺めた。
「でも、砲を撃つためには、こんなにいろいろな仕事が必要なんですね」
水野も頷いた。
「本当にそうですね」
「道路を作る人がいて、砲を動かす人がいて、器具を整備してくれる人がいる」
木田は小さく笑った。
「私たちが一人で頑張っても、どうにもならないことばかりです」
「……そうですね」
水野は砲を見上げた。
巨大な砲身が、夕焼けの空に向かって伸びている。
その砲を動かすために、大勢の兵士が働いていた。
砲兵。
工兵。
武器科。
そして、その仕事を支える下士官たち。
自分たちは、その中のほんの一部分を担当しているに過ぎない。
水野は、ようやくそのことを実感し始めていた。
「……木田さん」
「はい?」
「私たち、少しは砲兵らしくなりましたかね?」
木田は少し考えた。
「……どうでしょう」
そして苦笑した。
「まだまだじゃないでしょうか」
「……ですよね」
二人は顔を見合わせて笑った。
そのとき、遠くから声が響いた。
「各分隊長、集合!」
ベッカー伍長が立ち上がり、中隊本部の方へ歩いていった。
水野と木田は、その後ろ姿を見送った。
しばらくして、ベッカーが戻ってきた。
「明日の予定を伝えるぞ」
兵士たちが集まる。
「明日の午前中は休養だ。午後から通常訓練を再開する」
その言葉に、新兵たちの表情が明るくなった。
水野も思わず顔を上げた。
「……午前中、お休みなんですね」
「ええ、先生」
木田が笑った。
「少しゆっくりできそうですね」
「よかった……!」
水野は心底ほっとしたように笑った。
木田も力なく微笑んだ。
「私も、明日は少し寝られそうです」
「木田さん、今日はちゃんと寝てくださいね」
「先生もですよ」
「はい!」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑顔には、久しぶりに少しだけ余裕が戻っていた。
しかし、二人ともまだ知らなかった。
十二月には、冬の寒さに備えた新しい訓練と準備が始まることを。
そして、工兵中隊の兵士たちがすでに、雪道の整備と凍結した地面の掘削方法について、頭を悩ませ始めていることを。
ベルノの冬は、もうすぐそこまで来ていた。