勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴231年11月


第3節 歩兵中隊

 ダダダダッ!

 

 乾いた連射音が、演習場に響き渡った。

 

 機関銃の銃口から発射炎が走り、百数十メートル先の土手に立てられた標的の周囲で、土煙が跳ね上がる。

 

「射撃やめ!」

 

 石井琉人軍曹の号令で、射撃が止まった。

 

 機関銃の後ろに伏せていたロイ兵長が、ゆっくりと顔を上げた。

 

「ロイ、どうだ?」

 

「問題ありません。銃の状態も良好です」

 

 ロイはエルフの兵士だった。

 

 第3歩兵中隊に所属する機銃分隊の射手であり、長くこの機関銃を扱ってきた熟練兵である。

 

 その隣では、細身の若い兵士が弾帯を確認していた。

 

「サク、どうだ?」

 

 石井が声をかけると、若い兵士が勢いよく振り返った。

 

「はいっす! 問題ないっす!」

 

 サク二等兵。

 

 黒髪に褐色の肌。身長は百六十五センチほどで、ひょろりとした体つきをしている。

 

 十一月に訓練部隊から配属されたばかりの現地新兵だった。

 

 彼はロイの機銃助手を任されている。

 

「よし。じゃあ、次の弾帯を準備してくれ」

 

「了解っす!」

 

 サクは元気よく返事をすると、弾薬箱へ手を伸ばした。

 

 しかし、すぐに動きが止まった。

 

「……あれ?」

 

 ロイが隣から声をかける。

 

「どうした?」

 

「これ、さっきと違う向きになってるっす」

 

「それなら、一度確認してから扱え」

 

「はいっす!」

 

 サクは弾帯の状態を確かめ、改めて準備を始めた。

 

 その様子を見ていた石井が、小さく笑った。

 

「ロイ、どうだ? 新しい助手は」

 

「いいですね」

 

 ロイは即座に答えた。

 

「まだ慣れていませんが、教えたことをよく聞いてくれます」

 

「そうか」

 

「それに、失敗しても落ち込まずに次を覚えようとしますから」

 

 石井は頷いた。

 

 確かに、サクは明るかった。

 

 訓練で失敗しても、いつまでも引きずらない。

 

 注意されれば素直に聞く。

 

 わからないことがあれば、遠慮せずに質問する。

 

 そして、何をするにも元気よく返事をした。

 

 新兵としては、なかなか得難い性格だった。

 

「サク!」

 

「はいっす!」

 

「準備はできたか?」

 

「できたっす!」

 

「よし。次の射撃を始めるぞ」

 

「了解っす!」

 

 石井は笑みを浮かべながら、分隊の配置を確認した。

 

◇

 

 石井分隊は、機関銃を中心とする五名編成の分隊だった。

 

 分隊長の石井琉人軍曹。

 

 機関銃射手のロイ兵長。

 

 機銃助手のサク二等兵。

 

 そして、警戒と監視を担当するリース一等兵。

 

 本来はもう一名、弾薬運搬を担当する兵士がいるはずだった。

 

 しかし、その一名はまだ補充されていなかった。

 

 定員五名に対して、実員四名。

 

 それが現在の石井分隊である。

 

 機関銃は、撃つだけなら二名で扱える。

 

 ロイが射撃を担当し、サクが弾帯の補給や銃身交換などの補助を行う。

 

 石井が射撃を指揮し、リースが周囲の状況と着弾を確認する。

 

 しかし、問題は弾薬だった。

 

 機関銃は大量の弾薬を消費する。

 

 弾薬箱は重く、複数を運ぶとなれば相当な負担になる。

 

 本来なら弾薬運搬員が担う仕事を、誰かが兼任しなければならなかった。

 

「軍曹、次の射撃で準備していた弾薬がなくなります」

 

 リースが報告した。

 

「そうか。じゃあ、一度射撃を中断する」

 

 石井はロイへ声をかけた。

 

「ロイ、銃の安全を確認して待機だ。弾薬を持ってくる」

 

「了解しました」

 

「リース、俺と一緒に来い」

 

「了解です」

 

 二人は後方の弾薬集積場所へ向かった。

 

 石井が弾薬箱を一つ持ち上げる。

 

「……相変わらず重いな」

 

 リースも別の箱を抱えた。

 

「軍曹、弾薬運搬員の補充はまだですか?」

 

「希望は出してあるんだがな」

 

 石井は箱を抱え直した。

 

「どこの部隊も人員が足りん。すぐには難しいだろう」

 

「そうですか」

 

「まあ、しばらくは俺たちで何とかするしかないな」

 

 リースは苦笑した。

 

「軍曹が弾薬を運んでいる機銃分隊も、珍しいでしょうね」

 

「珍しいだろうな」

 

 石井も笑った。

 

「本来、分隊長は指揮に専念しないといけないんだが」

 

「でも、運ばないと撃てませんからね」

 

「そのとおりだ」

 

 二人は弾薬箱を運びながら、射撃位置へ戻った。

 

 少し離れた場所に、ロイとサクの姿が見える。

 

 ロイが機関銃の脇で何かを説明し、サクは熱心に頷いていた。

 

「あいつ、ずいぶん真面目に聞いてるな」

 

 石井が呟いた。

 

「ええ。いい新兵が来ましたね」

 

 リースが答えた。

 

「俺もそう思う」

 

 石井は小さく笑った。

 

 欠員がいることに変わりはない。

 

 しかし、補充された新兵が素直で意欲的なのは、何よりありがたかった。

 

◇

 

「サク、機銃助手の仕事で一番大切なことは何だと思う?」

 

 ロイが尋ねた。

 

 サクは少し考えた。

 

「弾を持ってくることっすか?」

 

「それもある」

 

 ロイは頷いた。

 

「だが、それだけじゃない。俺が射撃を続けられるようにすることだ」

 

「射撃を続けられるようにする……っすか?」

 

「ああ。弾薬の補給、弾帯の交換、それから銃身の交換だ」

 

 ロイは機関銃を指差した。

 

「機関銃は続けて撃つと、銃身が非常に熱くなる。長く使い続ければ、そのままにはしておけない」

 

「はいっす!」

 

「だから、俺が射撃を担当している間、おまえは弾薬の状態と銃身のことも気にしておく必要がある」

 

「なるほどっす」

 

「もちろん、最初から全部できなくてもいい。まずは一つずつ覚えていこう」

 

「頑張るっす!」

 

 ロイは笑った。

 

「よし。じゃあ、次は俺の動きをよく見ておけ」

 

 そこへ石井とリースが戻ってきた。

 

「弾薬を持ってきたぞ」

 

「ありがとうございます」

 

 ロイが答えた。

 

 サクは弾薬箱を見て、ぱっと顔を明るくした。

 

「軍曹殿! 自分も運べるっす!」

 

「そうだな」

 

 石井は箱を下ろした。

 

「だが、今日はロイの助手を覚えるのが先だ」

 

「了解っす!」

 

「それに、弾薬を運ぶからといって勝手に持ち場を離れられても困るからな」

 

「そうっすね!」

 

 石井は頷いた。

 

「よし。次は弾薬の交換と銃身交換も確認する。安全第一でいくぞ」

 

「了解!」

 

「はいっす!」

 

 全員が返事をした。

 

◇

 

 再び機関銃の射撃が始まった。

 

 ダダダダッ!

 

 ロイは短い連射を繰り返し、標的へ銃弾を送り込んでいく。

 

 サクはその隣で、弾帯の状態を確認していた。

 

 最初の頃は、弾薬の扱いに気を取られ、ロイの動きを見る余裕がなかった。

 

 しかし、何度か訓練するうちに、少しずつ周囲を見るようになっていた。

 

「サク、次の弾帯だ」

 

「はいっす!」

 

 ロイの指示を受け、サクが補助する。

 

 手つきはまだぎこちない。

 

 それでも、最初の頃のように慌てることは少なくなっていた。

 

「よし。いいぞ」

 

「はいっす!」

 

 ロイは小さく頷いた。

 

 射撃を繰り返すうちに、機関銃の銃身が熱を帯びてきた。

 

 ロイは石井へ報告した。

 

「軍曹、銃身を交換します」

 

「了解。射撃中断」

 

 射撃が止まった。

 

 ロイは機関銃の状態を確認すると、サクへ顔を向けた。

 

「サク、銃身交換だ」

 

「了解っす!」

 

 サクが予備銃身を準備する。

 

 しかし、初めての作業である。

 

 どこに手を置けばよいのか、少し迷っていた。

 

 ロイが声をかけた。

 

「熱いから注意しろ」

 

「了解っす!」

 

 サクは表情を引き締めた。

 

 加熱した銃身を直接触らないよう、ロイの指示に従って慎重に作業を進める。

 

 銃身を扱うための専用器具を使い、交換を終えた銃身を所定の場所へ収める。

 

 そして、予備銃身への交換作業を終えた。

 

「……ふう」

 

 サクは小さく息を吐いた。

 

「できたっす!」

 

 ロイは状態を確認した。

 

「ああ。問題ない」

 

 サクの顔が明るくなった。

 

「やったっす!」

 

「ただ、まだ少し時間がかかるな」

 

「もっと練習するっす!」

 

「そうだな。今は速さより確実さだ」

 

 石井も頷いた。

 

「そうだぞ、サク。慣れないうちから急いで怪我をするなよ」

 

「はいっす!」

 

 石井はその返事に笑った。

 

 サクは、本当に教えがいのある新兵だった。

 

 何か一つできるようになるたびに、心から嬉しそうな顔をする。

 

 失敗すれば素直に認め、次はできるようになろうとする。

 

 その明るさは、周囲の兵士たちにも伝わっていた。

 

 ロイも、指導することを楽しんでいるようだった。

 

◇

 

 数日後。

 

 石井分隊は、再び機関銃の射撃訓練を行っていた。

 

「射撃開始!」

 

 ダダダダッ!

 

 ロイの機関銃が短い連射を繰り返す。

 

 サクは射手の隣で、弾帯の状態を確認していた。

 

 最初の頃と比べると、その動きはずいぶん落ち着いてきていた。

 

 ロイが声をかける前に、次の弾帯へ目を向ける。

 

 必要な器具も、あらかじめ決められた位置に揃えてある。

 

「サク、次だ」

 

「了解っす!」

 

 サクはすぐに応じた。

 

 ロイがその様子を確認し、小さく頷く。

 

「いいぞ。だいぶ慣れてきたな」

 

「本当っすか!」

 

「ああ。最初は何度も手が止まっていたからな」

 

「もうあんまり迷わないっす!」

 

「そうだな。だが、油断はするなよ」

 

「了解っす!」

 

 少し離れた場所から二人の様子を見ていた石井も、満足そうに頷いた。

 

「ロイ、サクはどうだ?」

 

「いいですね。だいぶ動きがわかってきました」

 

「そうか」

 

「弾薬の交換も、以前ほど指示を出さなくてよくなりました」

 

 石井はサクへ声をかけた。

 

「おい、サク!」

 

「はいっす!」

 

「褒められてるぞ」

 

「えっ、本当っすか!」

 

 サクは嬉しそうにロイを見た。

 

 ロイが笑った。

 

「ああ。よくやっている」

 

「ありがとうっす!」

 

 その声があまりに大きかったので、少し離れた場所にいたリースまで振り返った。

 

「……元気だなあ」

 

 リースが笑った。

 

「本当にそうだな」

 

 石井も笑った。

 

 サクは、分隊に配属されてからずっとあの調子だった。

 

 朝の集合から訓練終了まで、よく動き、よく喋り、よく笑う。

 

 注意されても不機嫌にならない。

 

 むしろ、自分から教えてもらいに行く。

 

 ロイもリースも、すっかり彼を気に入っているようだった。

 

◇

 

 次の訓練では、銃身交換も以前より円滑に進むようになっていた。

 

 射撃を中断し、銃の安全を確認する。

 

 ロイがサクに声をかけた。

 

「サク、銃身交換だ」

 

「了解っす!」

 

「熱いから注意しろ」

 

「はいっす!」

 

 サクはすぐに必要な器具を確認した。

 

 以前は、指示されるたびに何を使うのか考えていた。

 

 しかし、今では交換の準備を始めるまでの迷いが少なくなっていた。

 

 作業そのものは、まだロイの確認を受けながら進めている。

 

 それでも、手順を忘れて立ち止まることはなくなった。

 

「よし。問題ない」

 

 ロイが確認した。

 

「できたっす!」

 

「うん。前よりずっといいぞ」

 

「やったっす!」

 

 サクは嬉しそうに笑った。

 

 その様子を見ていたリースが口を開いた。

 

「サク、銃身交換ができるようになって、そんなに嬉しいか?」

 

「もちろんっす!」

 

 サクは即答した。

 

「自分、ロイさんの役に立てるようになりたいっす!」

 

 その言葉に、ロイが少し驚いた顔をした。

 

「……そうか」

 

「はいっす!」

 

 サクは大きく頷いた。

 

「自分がちゃんとやれば、ロイさんが機関銃を撃てるっすから!」

 

 ロイは思わず笑った。

 

「そのとおりだ」

 

 そして、サクの肩を軽く叩いた。

 

「頼りにしているぞ」

 

「はいっす!」

 

 リースも笑った。

 

「こりゃ、いい助手になりそうですね」

 

 石井はそのやり取りを見ながら、静かに頷いた。

 

 技術はまだまだだった。

 

 だが、機銃助手として何を求められているのか、サクは少しずつ理解し始めていた。

 

 それが何より重要だった。

 

◇

 

 射撃訓練が終わると、今度は機関銃の清掃と整備だった。

 

 演習場の一角に敷かれた布の上で、ロイが機関銃の点検を行っている。

 

 サクはその隣に座り、清掃用具を揃えていた。

 

「サク、機関銃は撃ったら終わりじゃないぞ」

 

「はいっす!」

 

「撃った後の清掃と点検も、機銃助手の大切な仕事だ」

 

 ロイは部品の状態を確認しながら説明した。

 

「汚れが残ったままだと、次に使うとき問題が起きることがある」

 

「なるほどっす」

 

「だから、射撃が終わったら必ず点検する。異常があれば俺に報告しろ」

 

「了解っす!」

 

 サクは言われたとおり、担当する部分の清掃を始めた。

 

 最初は少し手間取っていたが、ロイの説明を聞きながら丁寧に作業を進めていく。

 

 しばらくして、サクが顔を上げた。

 

「ロイさん、ここはこれでいいっすか?」

 

 ロイが確認した。

 

「ああ。ただ、ここにまだ汚れが残っているな」

 

「あっ、本当っす!」

 

「よく見ておけ。細かいところも大切だ」

 

「了解っす!」

 

 サクはすぐに清掃をやり直した。

 

 その様子を見ていた石井が、リースに声をかけた。

 

「……いいな、あいつ」

 

「ええ」

 

 リースは頷いた。

 

「本当に素直ですね」

 

「ああ」

 

「しかも、教えてもらうのが好きみたいです」

 

 石井は笑った。

 

「兵隊としては、ありがたい性格だな」

 

「そうですね。ロイも楽しそうですよ」

 

 二人は機関銃のそばを見た。

 

 ロイが何か説明するたびに、サクが熱心に頷いている。

 

 時折、サクが妙な質問をしてロイを笑わせていた。

 

「あいつが来てから、少し雰囲気が変わりましたね」

 

 リースが言った。

 

「そうだな」

 

 石井も頷いた。

 

 もともと石井分隊は、仲が悪いわけではなかった。

 

 ただ、少人数で仕事を分担しているため、各自の負担が大きかった。

 

 射撃訓練でも、移動訓練でも、弾薬の補給でも、余裕がないことが多かった。

 

 そこへ、サクがやってきた。

 

 技術面では、まだ頼りない。

 

 しかし、よく働き、よく笑い、何でも覚えようとする。

 

 その存在が、分隊の雰囲気を明るくしていた。

 

「……いい新兵が来たな」

 

 石井は小さく呟いた。

 

「ええ。本当に」

 

 リースも同意した。

 

◇

 

 さらに数日が過ぎた。

 

 サクは、すっかり分隊の三人に馴染んでいた。

 

 朝、石井が集合をかければ真っ先に返事をする。

 

 ロイが機関銃の点検を始めれば、すぐに隣へ座る。

 

 リースが弾薬箱を整理していれば、自分から手伝おうとする。

 

 もっとも、何でも手伝えばよいというわけではない。

 

「サク、それはいいから、自分の仕事を先に終わらせろ」

 

 石井が注意すると、

 

「了解っす!」

 

 すぐに戻っていく。

 

 ロイに注意されても同じだった。

 

「サク、そっちじゃない」

 

「すみませんっす!」

 

「慌てるな。よく見てからやれ」

 

「はいっす!」

 

 叱られたことを気にする様子はない。

 

 次に同じ失敗をしないよう、真剣に覚えようとする。

 

 リースも、そんなサクをよく構うようになっていた。

 

「サク、昼飯はもう食べたのか?」

 

「まだっす!」

 

「じゃあ、一緒に行こう」

 

「いいんすか!」

 

「ああ。どうせ俺もこれからだからな」

 

「行くっす!」

 

 そんなやり取りが、すっかり日常になっていた。

 

 ロイも、サクを厳しく指導するだけではなかった。

 

 できるようになったことは、きちんと褒めた。

 

 失敗すれば理由を説明し、もう一度やらせる。

 

 サクがうまくできれば、自分のことのように喜んでいた。

 

 そのため、サクもロイによく懐いていた。

 

「ロイさん!」

 

「なんだ?」

 

「今日の銃身交換、昨日より上手くできたっすよね!」

 

「ああ。よくできていた」

 

「やったっす!」

 

 ロイは笑いながら、サクの頭を軽く小突いた。

 

「ただし、まだ完璧じゃないぞ」

 

「わかってるっす!」

 

 それを見た石井は、思わず笑った。

 

「……本当に、いい組み合わせになったな」

 

◇

 

 十一月下旬。

 

 石井分隊では、機関銃の射撃と弾薬補給を組み合わせた訓練が行われていた。

 

 ロイは射撃を担当し、サクが補助する。

 

 リースは周囲を監視し、石井は分隊全体を指揮する。

 

 射撃そのものは、以前よりずっと円滑になっていた。

 

 サクが弾帯の状態を確認し、ロイの動きに合わせて補助する。

 

 銃身交換も、以前のように手順を何度も確認する必要はなくなっていた。

 

 もっとも、作業の最後には必ずロイが確認する。

 

 その点は変わらなかった。

 

「よし。今日はここまでだ」

 

 石井が号令をかけた。

 

「射撃終了!」

 

「了解!」

 

「はいっす!」

 

 ロイとサクが返事をした。

 

 リースは使用した弾薬の記録を確認する。

 

 石井はその記録を受け取り、しばらく眺めていた。

 

「……弾薬の消費量は相変わらず多いな」

 

 リースが頷いた。

 

「機関銃ですからね」

 

「ああ」

 

 石井は苦笑した。

 

「やはり、もう一人は欲しいところだ」

 

 現在の四名では、弾薬運搬員の欠員を完全に補うことはできない。

 

 今日も石井とリースが交代で弾薬箱を運んでいた。

 

 実戦で移動を繰り返すことを考えれば、まだ課題は多かった。

 

 しかし、石井は以前ほど悲観していなかった。

 

 ロイは優秀な射手だった。

 

 リースも、周囲をよく見て、必要な仕事を確実にこなしている。

 

 そして、新しく加わったサクは、明るく素直で、覚えもよくなってきた。

 

 技術はまだ未熟だったが、日に日に成長している。

 

 何より、三人が互いに助け合っている。

 

「……まあ、何とかなるか」

 

 石井が呟いた。

 

 リースが顔を上げた。

 

「何がです?」

 

「分隊のことだ」

 

 石井は三人を見渡した。

 

「欠員はいるが、今の四人なら何とかやっていけそうだな」

 

 リースは笑った。

 

「そうですね」

 

「もちろん、人員の補充は引き続き要請するが」

 

「それはお願いします」

 

 リースが即答した。

 

 石井は思わず笑った。

 

「おまえも、弾薬運びはきついか?」

 

「そりゃそうですよ。軍曹だって重いでしょう?」

 

「当たり前だ」

 

 二人は顔を見合わせて笑った。

 

 そのとき、少し離れた場所からサクの声が聞こえた。

 

「軍曹殿!」

 

「なんだ!」

 

「機関銃の清掃、終わったっす!」

 

「ロイの確認は?」

 

「今、確認してもらったっす!」

 

 ロイが顔を上げた。

 

「問題ありません。今日はよくできていました」

 

「そうか!」

 

 石井は満足そうに頷いた。

 

「よし。サク、よくやった!」

 

「ありがとうっす!」

 

 サクは満面の笑みを浮かべた。

 

 石井はその顔を見ながら、改めて思った。

 

 いい新兵が来た。

 

 欠員の問題は、まだ解決していない。

 

 弾薬運搬の負担も、分隊長が指揮に専念できない問題も残っている。

 

 しかし、今の三人にサクが加わったことで、分隊は確実に良い方向へ向かっている。

 

 ロイは楽しそうに新兵を指導している。

 

 リースもサクを気に入り、何かと面倒を見ている。

 

 そしてサクは、そんな先輩たちを信頼し、懸命に仕事を覚えようとしている。

 

 石井にとって、それは何より心強いことだった。

 

「よし! 全員、片付けが終わったら集合!」

 

「了解!」

 

「はいっす!」

 

 ロイ、リース、サクの返事が響いた。

 

 四人だけの、小さな機銃分隊。

 

 定員には一名足りない。

 

 だが、石井は不思議と安心していた。

 

 兵隊は人数だけでは決まらない。

 

 もちろん、人員不足は放置できないし、戦場ではその一人が生死を分けることもある。

 

 それでも、今の四人なら、互いに足りないところを補いながらやっていける。

 

 少なくとも、その手応えは感じていた。

 

 石井は、笑いながら機関銃を片付けている三人を眺めた。

 

「……さて、明日も頑張るか」

 

 そう呟くと、彼も片付けを手伝うために歩き始めた。

 

 十一月の冷たい風が演習場を吹き抜けていく。

 

 新兵を迎えた石井分隊は、少しずつ、一つのまとまった分隊になろうとしていた。

 

◇

 

 夕食の時間。

 

 ベルノ連隊の兵営食堂は、大勢の兵士たちで賑わっていた。

 

 長い木製の食卓が何列も並び、兵士たちが食事を取りながら思い思いに話をしている。

 

 食事は、肉と野菜を煮込んだスープに黒パン、それに少量の芋料理だった。

 

 決して豪華ではないが、量は十分にあった。

 

 しかし、食堂の隅に集まった四人の日本人新兵は、あまり楽しそうではなかった。

 

 佐々木健。

 

 中村拓也。

 

 加藤真由。

 

 吉田麻衣。

 

 いずれも第20期の召喚者で、日本にいた頃から一緒に行動していた佐々木グループの面々だった。

 

 訓練部隊が解散し、それぞれの配属先で勤務するようになってからも、四人はこうして食堂に集まり、食事を取ることが多かった。

 

「……ったく、ふざけんなよ」

 

 佐々木がスプーンを乱暴に置いた。

 

「どうしたんだよ、健」

 

 向かいに座る中村が尋ねた。

 

「あの軍曹だよ。ナゲフとかいう奴」

 

 佐々木は不機嫌そうに答えた。

 

「朝から晩まで、いちいちうるせえんだよ」

 

「また怒られたのか?」

 

「怒られたっつうか、俺にだけやたら絡んでくるんだよ」

 

 佐々木は黒パンをちぎり、口へ放り込んだ。

 

「朝の点呼でちょっと遅れただけで怒鳴るし、銃の手入れがどうとか、軍服がどうとか、いちいち細けえんだよ」

 

「軍隊って、そういうもんじゃねえの?」

 

「だからって限度があるだろ」

 

 佐々木は吐き捨てるように言った。

 

「こっちは好きで兵隊になったわけじゃねえんだぞ」

 

 中村は頷いた。

 

「それはわかるわ。俺のところも似たようなもんだし」

 

 彼もスープをかき混ぜながら、不満そうな顔をしていた。

 

「朝は早えし、毎日走らされるし、銃持ってあっち行けこっち行けって、もう嫌になる」

 

「だろ?」

 

「しかも、やっと訓練部隊が終わったと思ったら、配属先でも訓練ばっかりだしな」

 

「そうなんだよ!」

 

 佐々木が身を乗り出した。

 

「四か月も訓練したんだぞ。それなのに、また最初から教え直しみたいなことやらされてよ」

 

「こっちの軍曹も、何かあるたびに『新兵だから』って言いやがる」

 

「ほんと、やってらんねえよな」

 

 二人は顔を見合わせて頷いた。

 

 その様子を見ていた加藤が、スプーンを置いた。

 

「私も、もう嫌」

 

 佐々木が顔を向けた。

 

「おまえのところもか?」

 

「訓練も嫌だけど、それよりシャワーよ、シャワー」

 

「シャワー?」

 

「そう。あれ、どうにかならないの?」

 

 加藤は露骨に嫌そうな顔をした。

 

「落ち着いて身体も洗えないんだけど」

 

 吉田が首を傾げた。

 

「そう?」

 

「そうよ。男どもが、私の身体を見てるんだから」

 

 加藤は不満そうに腕を組んだ。

 

「ほんと、最低」

 

 中村は少し呆れた顔をした。

 

「……そんなに見られてんのか?」

 

「見てるわよ。こっち向いてる奴、何人もいるし」

 

「たまたまじゃねえの?」

 

「そんなわけないでしょ!」

 

 加藤は即座に言い返した。

 

「拓也にはわかんないでしょうけど、女は気になるの!」

 

 実際のところ、加藤が思うほど周囲の兵士たちは彼女を気にしていなかった。

 

 帝国の兵士たちにとって、共同の洗い場は日常の一部だった。訓練を終えた後は、皆、自分の身体を洗って早く休みたいのである。

 

 しかし、加藤にはそうは思えなかった。

 

「だいたい、何なのよ、この国。日本じゃ考えられないことばっかり」

 

 加藤はスープを一口飲んだ。

 

「私はもう、あんなところ使いたくない」

 

「でも、洗わないわけにもいかないじゃん」

 

 吉田が言った。

 

「わかってるわよ、麻衣」

 

 加藤は不機嫌そうに答えた。

 

「だから嫌だって言ってるんじゃない」

 

 吉田は困ったように笑い、それ以上は何も言わなかった。

 

◇

 

「それによ」

 

 佐々木が再び口を開いた。

 

「俺が一番気に入らねえのは、岡田だよ」

 

「岡田?」

 

 中村が顔を上げた。

 

「あいつ、同じ分隊なんだろ?」

 

「ああ。修平の野郎、軍曹に気に入られてやがる」

 

 佐々木は舌打ちした。

 

「ナゲフの奴、岡田にはやたら優しいんだよ」

 

「へえ」

 

「こっちが何か間違えれば怒鳴るくせによ。岡田が何かやれば、すぐ褒めるんだぜ」

 

 実際には、ナゲフ軍曹が岡田を特別扱いしているわけではなかった。

 

 岡田修平は訓練にも真面目に取り組み、わからないことがあれば積極的に質問していた。

 

 現地兵との会話にも努め、語学教育で覚えた言葉を使って、佐々木にも説明しようとしていた。

 

 軍曹から指示されれば素直に従い、仕事も丁寧だった。

 

 当然、叱責されることは少ない。

 

 しかし、佐々木にはそれが面白くなかった。

 

「しかも、あいつ、いちいち俺にまで説教してくるんだぞ」

 

「何て?」

 

「軍曹の言うことを聞いた方がいいとか、ちゃんと返事した方がいいとか」

 

 佐々木は岡田の口調を真似た。

 

「『佐々木君、もう少し真面目にやった方がいいよ』だとよ」

 

 中村が笑った。

 

「ははっ。あいつ、いかにも言いそうだな」

 

「笑い事じゃねえよ」

 

 佐々木は顔をしかめた。

 

「何様のつもりだって話だろ。同級生のくせによ」

 

「まあ、委員長みたいな奴だしな」

 

「そういうところが気に入らねえんだよ」

 

 佐々木は吐き捨てた。

 

「それに、こっちの兵隊にもやたら愛想がいいんだよな。何か言われりゃ、すぐに返事して、手伝って、へらへら笑ってやがる」

 

「真面目なんだろ」

 

「真面目っつうか、媚び売ってるだけだろ」

 

 佐々木はそう決めつけた。

 

「軍曹もあいつを使って、俺にあれこれ言ってくるしよ」

 

 実際、岡田は現地兵と佐々木の間に入って、指示の意味を説明することもあった。

 

 まだ帝国の言葉に十分慣れていない佐々木にとって、本来ならありがたい存在のはずだった。

 

 しかし、佐々木は岡田が間に入ること自体を、自分が馬鹿にされているように感じていた。

 

「あいつも軍曹も、俺を見下してやがる」

 

 佐々木は不機嫌そうに呟いた。

 

「……ほんと、むかつくぜ」

 

 中村は頷いた。

 

「まあ、わかるわ。俺も、いちいち命令されんのは腹立つし」

 

「だろ?」

 

「日本だったら、あんな偉そうな奴の言うこと聞く必要ないのにな」

 

「そうなんだよ」

 

 佐々木は大きく頷いた。

 

「それがこっちじゃ、軍曹だか何だか知らねえけど、頭下げなきゃならねえ」

 

 加藤も口を挟んだ。

 

「私だって、毎日命令されてばっかりよ。少し休んでるだけで怒られるし」

 

「そうそう」

 

 中村が頷く。

 

「しかも、こっちは言葉だってまだ完璧じゃねえんだぞ」

 

「なのに、わからなかったら怒られるんだもんな」

 

 佐々木はスプーンを握り直した。

 

「こんな生活、いつまで続くんだよ」

 

 誰も答えなかった。

 

 食堂では、ほかの兵士たちが楽しそうに話している。

 

 食事を終えた者たちが席を立ち、次の兵士たちが入ってくる。

 

 しかし、四人のいる食卓だけは、不満ばかりが積み重なっていた。

 

◇

 

「ねえ」

 

 しばらく黙っていた吉田が、遠慮がちに口を開いた。

 

「でも、もう少ししたら慣れるんじゃない?」

 

 佐々木が顔を向けた。

 

「何にだよ」

 

「その……軍隊の生活に」

 

 吉田は曖昧に笑った。

 

「訓練部隊にいたときよりは、少し自由な時間もあるし」

 

「麻衣、おまえ本気で言ってんのか?」

 

「いや、そういうわけじゃないけど……」

 

「こんな生活に慣れたいのかよ」

 

 佐々木が言った。

 

 吉田は少し困った顔をした。

 

「……別に、そういう意味じゃないよ」

 

「じゃあ、何だよ」

 

「ううん。何でもない」

 

 吉田はスープに目を落とした。

 

 もともと、彼女は自分から強く意見を言う方ではなかった。

 

 佐々木や加藤が何かを言い始めると、結局はその流れに合わせてしまう。

 

 今回もそうだった。

 

「……まあ、私も嫌だけどね」

 

 小さくそう付け加えた。

 

「だろ?」

 

 佐々木は満足そうに頷いた。

 

「誰だって嫌なんだよ、こんな生活」

 

 中村も同意した。

 

「まったくだ」

 

 加藤は食べかけの黒パンを皿に戻した。

 

「日本に帰れるなら、すぐ帰りたいわ」

 

 その言葉に、四人はしばらく黙った。

 

 日本。

 

 学校。

 

 友達。

 

 家族。

 

 つい数か月前まで、当たり前だった生活。

 

 それが今では、遠い場所の出来事になっていた。

 

 召喚された自分たちが、日本に帰れないことは説明されている。

 

 それでも、納得できるかどうかは別の話だった。

 

 佐々木は食べ終えた皿を乱暴に押しやった。

 

「……やってられねえな」

 

 低い声で呟いた。

 

 中村が顔を上げた。

 

「何が?」

 

「こんな生活だよ」

 

 佐々木は周囲を見渡した。

 

 食堂には、軍服を着た兵士たちが大勢いる。

 

 誰もが自分たちの生活を当然のものとして受け入れているように見えた。

 

 佐々木には、それがひどく気に入らなかった。

 

「毎日毎日、朝から晩まで命令されてよ。何かありゃ怒鳴られる。自由もねえ」

 

 彼は声を落とした。

 

「……どっかでバッくれるか」

 

 中村は一瞬、佐々木の顔を見た。

 

 それから、薄く笑った。

 

「……そうだな。こんな生活、やってられねえわ」

 

 加藤が顔を上げた。

 

「えっ、何? 逃げるってこと?」

 

「そうだよ」

 

 佐々木が答えた。

 

「軍隊なんか辞めて、どっか行っちまえばいいんだよ」

 

 加藤は少し考えた。

 

「……それ、いいかも」

 

 そして身を乗り出した。

 

「どうやる?」

 

 吉田は黙って三人の顔を見ていた。

 

 冗談なのか、本気なのか。

 

 まだ、よくわからなかった。

 

 しかし、佐々木の表情は、先ほどまでの単なる愚痴とは少し違っていた。

 

 四人の食卓で、初めて具体的な逃亡の話が持ち上がった。

 

 食堂の喧騒は、相変わらず続いていた。

 

 彼らの会話に、周囲の兵士たちが特別な関心を向けることはなかった。

 

 少なくとも、このときはまだ。

 

◇

 

 夕食を終えた佐々木が宿舎へ戻ると、玄関の近くで数人の日本人兵士が立ち話をしていた。

 

 その中には、同じ分隊の岡田修平もいた。

 

 もう一人、見覚えのある顔がいる。

 

 仁川だった。

 

 日本では別のクラスだった男子生徒で、特に親しかったわけではない。

 

「……特殊部隊らしいぞ」

 

 仁川が話していた。

 

「特殊部隊?」

 

 岡田が聞き返した。

 

「ああ。高橋が配属されたところだよ。普通の歩兵じゃなくて、特殊な任務をやる部隊らしい」

 

「へえ。具体的には何をやるんだ?」

 

 岡田が尋ねると、近くにいた日本人の先輩兵士が口を開いた。

 

「俺たちもよく知らないんだわ。あそこ、他の部隊とほとんど接点がないんだよね」

 

「そうなんですか?」

 

「ああ。訓練も別だし、普段どこで何をしているのかも、よくわからん」

 

 仁川が感心したように頷いた。

 

「へえ。高橋、すごいところに配属されたんだな」

 

 その言葉を聞いて、佐々木が口を挟んだ。

 

「……高橋だろ?」

 

 三人が振り返った。

 

 佐々木は鼻で笑った。

 

「あいつ、弱虫じゃねえか。そんなところ行ったって、大したことできねえだろ」

 

 仁川が顔をしかめた。

 

「いや、高橋だって訓練はちゃんとやってただろ」

 

「だから何だよ」

 

「少なくとも、佐々木ほどひどくないだろう」

 

 言った瞬間、仁川はしまったと思った。

 

 別に喧嘩を売るつもりはなかった。

 

 ただ、佐々木が訓練中に何度も教官から叱責されていたことを思い出し、つい口にしてしまったのである。

 

「……なんだと?」

 

 佐々木の表情が変わった。

 

「いや、そういう意味じゃ……」

 

「なんだと、てめえ!」

 

 佐々木はいきなり仁川へ詰め寄った。

 

「おい、佐々木!」

 

 岡田が声を上げた。

 

 しかし、遅かった。

 

 ドガッ!

 

 佐々木の拳が仁川の頬を捉えた。

 

「うわっ!」

 

 仁川はよろめき、壁に背中をぶつけた。

 

「佐々木! やめろ!」

 

 岡田が慌てて間に入る。

 

「うるせえ! どけ!」

 

 佐々木は岡田を突き飛ばした。

 

「てめえ、もう一回言ってみろ!」

 

 仁川の胸ぐらを掴もうとした、そのときだった。

 

「何の騒ぎだ!」

 

 鋭い声が響いた。

 

 第2歩兵中隊のナゲフ軍曹だった。

 

 宿舎内の騒ぎを聞きつけ、廊下から出てきたのである。

 

 ナゲフは仁川の頬と、今にも殴りかかろうとしている佐々木を見た。

 

「佐々木! 何をしている!」

 

 帝国語で怒鳴った。

 

 しかし、興奮した佐々木は構わず日本語で怒鳴り返した。

 

「こいつが先に馬鹿にしてきたんだよ!」

 

 ナゲフには、佐々木が何を言っているのかわからなかった。

 

 ただ、自分の分隊の新兵が他の兵士を殴り、今も掴みかかろうとしていることだけは明白だった。

 

「やめろと言っている!」

 

 ナゲフが佐々木の前へ出た。

 

「うるせえな! 邪魔すんじゃねえ!」

 

 佐々木は相手が誰なのか確認する余裕もなく、日本語で怒鳴った。

 

 そして、なおも仁川へ向かおうとした。

 

 次の瞬間だった。

 

 ドゴッ!

 

 ナゲフの拳が佐々木の頬を打った。

 

「ぐあっ!」

 

 佐々木は大きくよろめき、その場に尻餅をついた。

 

 周囲が一瞬で静まり返った。

 

「立て!」

 

 ナゲフが命じた。

 

 佐々木は頬を押さえたまま、呆然と軍曹を見上げていた。

 

「立てと言っている!」

 

 ようやく佐々木が立ち上がった。

 

 ナゲフは厳しい表情で睨みつけた。

 

 しかし、それ以上手を出すことはなかった。

 

「岡田!」

 

「はっ!」

 

 岡田は慌てて姿勢を正した。

 

「何があった。説明しろ」

 

 岡田は帝国語で事情を説明し始めた。

 

「高橋という同期の兵士について話していたところ、佐々木が口を挟みました。それに仁川が言い返して、佐々木が殴りかかったんです」

 

「何を言い返した?」

 

「……佐々木の訓練態度についてです」

 

「それで殴ったのか?」

 

「はい」

 

 ナゲフは佐々木を見た。

 

 佐々木は不満そうな顔をしていたが、今度は黙っていた。

 

「先に手を出したのは佐々木で間違いないな?」

 

「はい。自分も止めようとしたんですが……」

 

 岡田は少し申し訳なさそうに答えた。

 

 ナゲフは仁川へ顔を向けた。

 

「おまえ、怪我は?」

 

「……大丈夫です」

 

 仁川も帝国語で答えた。

 

 頬は赤くなっていたが、立って話すことはできていた。

 

「そうか」

 

 ナゲフは腕を組んだ。

 

 そして、再び佐々木へ目を向けた。

 

「岡田、通訳しろ」

 

「はっ!」

 

「佐々木。貴様、自分が何をしたかわかっているのか?」

 

 岡田が日本語に訳した。

 

「佐々木君、自分が何をしたかわかっているのかって」

 

「……あいつが先に喧嘩売ってきたんだよ」

 

 佐々木が不満そうに答えた。

 

 岡田は少し困った顔をしながら、ナゲフへ伝えた。

 

「相手が先に挑発したと言っています」

 

 ナゲフは眉をひそめた。

 

「挑発されたら殴っていいのか?」

 

 岡田が訳す。

 

 佐々木は黙り込んだ。

 

 ナゲフは続けた。

 

「軍隊では、気に入らないことがあったからといって、勝手に仲間を殴っていいわけではない」

 

 岡田はその言葉を日本語に訳した。

 

「本来なら、営倉に入れられてもおかしくない行為だ」

 

 佐々木が顔を上げた。

 

「……営倉?」

 

 岡田が説明した。

 

「軍隊の留置施設だよ。軍紀違反をした兵士が拘禁される場所」

 

「……はあ?」

 

 佐々木は納得できない様子だった。

 

 たった一発殴っただけで、そこまでするのか。

 

 そんな表情を浮かべていた。

 

 ナゲフはしばらく佐々木を見ていた。

 

 それから、静かに息を吐いた。

 

「……だが、まだ配属されたばかりの新兵だ」

 

 岡田が訳す。

 

「軍隊の規律を、まだ十分に理解していないのかもしれん」

 

 ナゲフは仁川へ顔を向けた。

 

「おまえも、相手を不用意に挑発するような発言は慎め」

 

「……はい」

 

 仁川は頭を下げた。

 

 ナゲフは佐々木へ視線を戻した。

 

「今回は、ここで収める」

 

 岡田が訳すと、佐々木は少し驚いた顔をした。

 

「ただし、次はない」

 

 ナゲフの声が低くなった。

 

「再び同じことをすれば、正式な軍紀違反として処分する。わかったな?」

 

 岡田が伝えた。

 

「……わかったよ」

 

 佐々木は小さく答えた。

 

 ナゲフは岡田を見た。

 

「返事の仕方も教えておけ」

 

「はっ!」

 

 岡田が佐々木へ向き直った。

 

「佐々木君、軍曹に返事するときは、ちゃんと『了解しました』って言わないと」

 

「……ちっ」

 

 佐々木は小さく舌打ちした。

 

 それから、覚えたばかりの帝国語で答えた。

 

「……了解しました」

 

 ナゲフは頷いた。

 

「よし。全員、解散!」

 

 兵士たちは敬礼し、それぞれの部屋へ戻り始めた。

 

 佐々木も頬を押さえながら歩き出した。

 

 その背中を見送りながら、ナゲフは小さくため息をついた。

 

 配属されて、まだそれほど経っていない。

 

 それなのに、もう兵士同士の喧嘩を起こしている。

 

 言葉の問題もある。

 

 軍隊生活に慣れていないこともあるだろう。

 

 ナゲフは今回、新兵であることを考慮して、その場で収めることにした。

 

 しかし、佐々木の反抗的な態度には、少しばかり不安を覚えていた。

 

 単に軍隊の規律を理解していないだけなら、教えればよい。

 

 だが、理解したうえで従う気がないのなら、話は別だった。

 

 ナゲフは、佐々木が消えた廊下の奥をしばらく見つめていた。

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