第1節 追跡命令
『……行軍訓練中に、逃亡兵が発生した』
無線機の受話器から、ヴァルター少佐の低い声が聞こえてきた。
エレナは木の根元に広げていた地図から顔を上げた。
「逃亡兵?」
『そうだ。新兵四名。男二名、女二名だ。武装している可能性が極めて高い』
受話器からは、絶えず小さな雑音が聞こえていた。時折、風に揺れる木々のざわめきがそれに重なる。
十一月の山林は、日中でも冷え込んでいた。
広葉樹の大半はすでに葉を落とし、林床には茶色く変色した落ち葉が厚く積もっている。木々の間から差し込む日差しは弱く、朝方に降りた霜が日陰にはまだ残っていた。
エレナ班は、そんな山中で潜伏訓練を続けていた。
高橋は倒木の陰に伏せ、周囲を観察していたが、無線機から聞こえてきた言葉に顔を上げた。
逃亡兵。
しかも、武装している可能性が高いという。
エレナは受話器を耳に押し当て直した。
「逃亡した場所は?」
『連隊の行軍訓練区域内だ。現在、詳細を確認している。そちらの訓練区域に入る可能性がある』
「了解」
『現在の訓練を中止し、逃亡兵の追跡に移れ。街へ向かっている可能性が高い。周辺の地形を考えれば、そちらの区域を通過することも十分考えられる』
「わかった。発見した場合は拘束する?」
『可能ならば拘束しろ。ただし、相手は武装している可能性が極めて高い』
ヴァルターは一度言葉を切った。
『遭遇した場合、射殺を許可する』
エレナの表情がわずかに引き締まった。
「了解。発見したら連絡する」
『頼む。ほかの部隊にも捜索命令を出している。こちらからも情報が入り次第知らせる』
「わかった」
『以上だ』
通信が終わった。
エレナが受話器を置くと、隣にいたミレーナが無線機の操作に取りかかった。
栗色の髪を耳にかけ、大きな目を細めながら、手慣れた動作で機器の接続を確認している。
無線機は真空管式の大型のもので、本体だけでもかなりの重量があった。電源用のバッテリーも大きく、運搬には相応の負担がかかる。
ミレーナは電源を切り、機器の状態を確かめた。
「撤収する?」
「ええ。移動するわ」
エレナは地図を広げ直した。
少し離れた場所で周囲を警戒していたアルノーが、二人の様子に気づいて近づいてきた。
長身の彼は、低く伸びた枝を避けながら岩陰へ入った。少し赤みを帯びた金髪が、木漏れ日の下で淡く光る。
「何かあった?」
「逃亡兵の捜索命令よ」
エレナは地図から顔を上げずに答えた。
「新兵四名。男二人、女二人。全員武装していると考えて行動するように、とのこと」
アルノーの整った顔に、わずかに険しい表情が浮かんだ。
「逃亡兵か。面倒なことになったな」
「そうね」
「武器は?」
「詳細は不明。でも武装している可能性は極めて高いそうよ。遭遇した場合の射殺許可も出ている」
「なるほど」
アルノーは短く答えると、エレナの隣にしゃがみ込んだ。
「それで、どこを探す?」
エレナは地図の一角を指さした。
「まず、現在地から西側の尾根へ向かいましょう。あそこなら南側の谷を見渡せるはずよ」
アルノーは地図を覗き込んだ。
「この辺りか」
「そう。街へ向かっているらしいけど、逃亡した場所がまだはっきりしていないから、まずは人が通りそうな場所を確認するしかないわね」
「街道に出ようとしているなら、いくつか通り道は限られるな」
「ええ。ただ、山に慣れていない新兵なら、どこを歩いているかわからないけど」
アルノーは軽く肩をすくめた。
「そりゃそうだ」
エレナは地図を折り畳み、立ち上がった。
「じゃあ、出発しましょう」
高橋も倒木の陰から身体を起こした。
「エレナ」
「なに?」
「さっきの無線ですけど……射殺してもいいってことですよね?」
エレナは高橋を見た。
「そうよ」
「……逃亡兵を、ですか?」
「ええ。ただし、射殺を許可されたということで、必ず撃ち殺せという命令じゃないわ。できれば生きたまま捕まえる。でも、武装した相手だから危険はある」
「はい」
「高橋は、私の指示があるまで発砲しないで。いい?」
「わかりました」
エレナは頷いた。
「それと、相手が新兵だからといって油断しないこと。銃を持っていれば、訓練を受けたばかりの兵士でも人を殺せるわ」
その声は、普段と変わらず穏やかだった。
高橋は小さく頷いた。
逃亡兵という言葉は、これまでの訓練でも何度か聞いている。
帝国軍では、無断離隊は重大な軍紀違反だった。特に武器を持ったまま逃亡する行為は、極めて重い罪として扱われる。
教官たちも、そのことは繰り返し説明していた。
だが、高橋にとっては、どこか遠い話だった。
自分が逃亡するつもりなどなかったし、実際に逃亡兵を追跡することになるとも思っていなかった。
その相手に、銃を向けるかもしれない。
そう考えると、胸の奥に落ち着かないものが生まれた。
「高橋、大丈夫?」
エレナが尋ねた。
「はい。大丈夫です」
「そう。じゃあ行きましょう」
エレナは軽く微笑んだ。
「アルノーが先頭。高橋は私の後ろ。ミレーナは最後尾でお願い」
「了解」
三人が答えた。
ミレーナが無線機を片づけ終えると、アルノーがバッテリーを背負い直した。
高橋も小銃の負い革を直し、弾薬を確認した。
手にしているのは、篠沢から譲り受けたG11だった。
それまで使用していた支給銃とは違い、篠沢が使っていたこの小銃には、同じく彼から受け取ったスコープが取り付けられている。
高橋はスコープの取り付けに緩みがないことを確かめ、レンズの保護蓋を閉じた。
篠沢から受け取って以来、射撃訓練でも使っている銃だった。
手に馴染み始めてはいたが、今日は少し違って感じられた。
これまでは的に向けて撃っていた。
しかし、今度は人間に向けることになるかもしれない。
高橋は小銃を肩に掛け直した。
「準備できました」
「よし。行きましょう」
エレナはそう言うと、アルノーに先行するよう合図した。
四人は山林の中を西へ向かった。
先頭を歩くアルノーは、時折立ち止まって地形を確認しながら進んでいた。
エレナはその十数メートル後ろを歩き、さらに高橋、ミレーナが続く。
林の中は静かだった。
時折、遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。
風が吹くと頭上の枝が揺れ、残っていた枯れ葉が一枚、また一枚と地面へ落ちていく。
足元には落ち葉が厚く積もっていた。
その下には湿った土や木の根が隠れており、うっかりすると足を取られる。
ところどころに露出した岩は苔に覆われ、日陰では表面が濡れて滑りやすくなっていた。
高橋は慎重に足を運んだ。
四日間の山岳訓練で多少は慣れたものの、まだエレナたちのようには歩けなかった。
彼らはほとんど足音を立てずに進んでいる。
高橋が同じ場所を歩くと、どうしても落ち葉を踏む音が大きくなった。
前を歩いていたエレナが振り返った。
「高橋、もう少し静かに」
「はい」
「足を高く上げすぎないで。地面を確かめながら置くようにして」
「わかりました」
高橋は言われたとおりに歩いてみた。
しかし、今度は足元に気を取られ、周囲への注意がおろそかになる。
エレナはその様子を見て、小さく笑った。
「難しいでしょう?」
「はい。足元を見ていると、前が見られなくなります」
「最初はみんなそうよ。慣れれば自然にできるようになるわ」
「そうでしょうか」
「そうよ。私だって最初からできたわけじゃないんだから」
エレナはそう言って、再び前を向いた。
高橋は少し意外に思った。
エレナが山中を歩く姿は、実に自然だった。
倒木を越えるときも、急な斜面を下りるときも、ほとんど迷うことがない。
足元を確認しながら、同時に周囲にも目を配っている。
高橋には、それがどうしてできるのか不思議だった。
浸透偵察小隊に配属されてから、まだ日が浅い。
高橋は、これまでの基礎訓練とはまったく違う技術を次々と教えられていた。
足音を立てずに歩くこと。
地形に合わせて身体を隠すこと。
遠くの人影を見つけること。
夜間に方角を失わず移動すること。
どれも説明を聞けば簡単そうに思える。
しかし、実際にやってみると、思うようにはいかなかった。
「止まれ」
前方からアルノーの声がした。
短いエルフ語だった。
高橋はすぐに足を止めた。
アルノーが片手を上げている。
全員がしゃがみ込み、周囲を確認した。
少し先には、倒木が斜面を横切るように倒れていた。
その向こう側は、地面が急に下っている。
アルノーは慎重に近づき、斜面を覗き込んだ。
しばらくして振り返る。
「大丈夫。下りられる」
エレナが頷いた。
「了解。高橋、足元に気をつけて」
「はい」
四人は再び移動を始めた。
斜面を下ると、風が弱くなった。
尾根の上とは違い、谷間には湿った空気が溜まっている。
腐葉土の匂いが強く、木々の根元には苔が厚く生えていた。
小さな沢が流れているらしく、遠くからかすかな水音が聞こえてくる。
高橋は周囲を見回した。
似たような木々がどこまでも続いている。
地図がなければ、どちらがベルノの方向なのかさえわからなかった。
まして、こんな場所を一人で歩くことなど考えられない。
「……逃亡兵って、こんな山の中を歩いているんですかね」
高橋は小声で尋ねた。
エレナは前を向いたまま答えた。
「さあ、どうかしら。でも、街へ向かおうとしているなら、山を抜ける必要があるでしょうね」
「道を知っているんでしょうか?」
「知らないんじゃない?」
エレナはあっさり答えた。
「え?」
「だって新兵でしょう。この辺りの山を詳しく知っているとは思えないわ」
「そうですよね」
「もしかしたら、道に迷っているかもしれないわね」
エレナの言葉に、高橋は周囲を見回した。
確かに、自分一人なら簡単に迷ってしまいそうだった。
エレナが続けた。
「もっとも、逃亡兵のことだから、どこへ向かっているのかは本人たちに聞いてみないとわからないけど」
「……そうですね」
「まずは見つけることよ」
エレナはそう言って、少し歩調を速めた。
最初の尾根に到達したのは、無線連絡から一時間ほど経った頃だった。
尾根の上には大きな岩がいくつも露出していた。
木々の間隔も広く、場所によっては遠くの谷まで見渡せる。
アルノーは岩の陰に身を伏せ、双眼鏡で南側の斜面を観察した。
エレナもその隣にしゃがみ込んだ。
高橋は少し離れた岩陰から、割り当てられた方向を見ていた。
谷底には細い沢が流れていた。
その両側には針葉樹が密集し、ところどころ広葉樹が混じっている。
広葉樹の多くは葉を落としていたが、それでも幹や枝が重なり合い、見通しは決してよくなかった。
斜面には大小の岩が転がり、倒木もいくつか見える。
人間が一人や二人隠れたところで、簡単には見つからないだろう。
高橋は双眼鏡をゆっくり動かした。
木の根元。
岩の陰。
倒木の周囲。
訓練で教えられたように、目立たない場所を重点的に観察する。
しかし、人影は見つからなかった。
しばらくして、アルノーが双眼鏡を下ろした。
「見える範囲にはいないな」
「そうね」
エレナも頷いた。
「少し西へ移動しましょう」
アルノーが地図を覗き込んだ。
「次の谷か?」
「ええ。あちらの方が街道へ出やすい地形になっているわ」
「了解」
高橋は双眼鏡をしまった。
再び歩き始めようとしたところで、アルノーが足を止めた。
「……待って」
エレナが振り返った。
「どうした?」
アルノーは足元を見ていた。
落ち葉の積もった地面に、わずかに黒い土が露出している。
アルノーは片膝をつき、周囲の落ち葉を慎重に調べ始めた。
「足跡がある」
エレナが近づいた。
高橋も少し離れたところから覗き込む。
湿った土の上に、靴底の模様が残っていた。
「軍靴ね」
エレナが言った。
「ああ。新しいな」
アルノーは足跡の周囲を調べた。
少し離れたところにも、同じような跡がある。
さらにその先では、枯れた下草が踏み倒されていた。
「複数いるな」
アルノーは立ち上がり、数歩進んだ。
そして再びしゃがみ込んだ。
「こっちにもある」
エレナが近づく。
「何人?」
「少なくとも三人。四人かもしれない」
アルノーは靴底の跡を指さした。
「大きさが違う。少なくとも三種類はあるな」
「なるほど」
「それに、あまり慣れた歩き方じゃない」
「どういうこと?」
アルノーは地面を示した。
「落ち葉をずいぶん踏み荒らしている。枝も折っているし、足跡もかなり深い。山歩きに慣れた連中なら、もう少し歩きやすい場所を選ぶ」
エレナは周囲を見回した。
「急いでいたのかしら」
「それはわからない。ただ、ここを通ったのは間違いない」
高橋も足跡を覗き込んだ。
確かに、軍靴の跡がある。
しかし、それが三人分なのか四人分なのか、あるいはいつつけられたものなのかは、まったくわからなかった。
「アルノー、これって新しいんですか?」
高橋が尋ねた。
「ああ」
アルノーは落ち葉を一枚持ち上げた。
「見てみろ。この葉は裏返ったままだろう」
「はい」
「それに、踏まれた土がまだ乾いていない。少なくとも何日も前の足跡じゃない」
「なるほど……」
「もっとも、天気や地面の状態によって変わるから、これだけで時間まではわからないけどな」
アルノーはそう言って、葉を元の場所へ戻した。
エレナが地図を取り出した。
「方向は?」
「西へ向かっている」
「それなら、次の谷へ続いているかもしれないわね」
「ああ」
アルノーは足跡の続く方向を見た。
「追ってみよう」
「お願い」
エレナは高橋とミレーナを振り返った。
「ここからは少し慎重に進むわよ」
「了解」
二人が答えた。
ミレーナは背負っていた無線機の負い革を直し、周囲を見回した。
「本当に四人だったら、当たりかもしれないね」
「そうね」
エレナは頷いた。
「でも、まだ決まったわけじゃないわ。ほかの訓練部隊の足跡かもしれないし」
アルノーが立ち上がった。
「それじゃ、行くぞ」
四人は再び移動を始めた。
足跡を追い始めてから、移動速度は遅くなった。
アルノーは数十メートル進むたびに立ち止まり、地面を確認していた。
落ち葉の厚い場所では足跡が見えなくなる。
岩場に出れば、靴底の跡は完全に途切れてしまう。
それでもアルノーは、折れた小枝や踏み倒された草を見つけ、進む方向を判断していた。
時折、エレナと短い言葉を交わす。
二人の会話はエルフ語だった。
高橋には、単語をいくつか聞き取るのが精一杯だった。
ただ、エレナが身振りで方向を示したり、アルノーが地面を指さしたりするため、何をしているのかはある程度理解できた。
高橋は周囲を警戒しながら、その後をついていった。
山中はますます薄暗くなっていた。
曇り空の下、針葉樹の密集した場所では、まだ午後だというのに夕方のような暗さを感じる。
林床には黒っぽい腐葉土が広がり、ところどころに苔むした岩が顔を出していた。
風が止むと、周囲は驚くほど静かになった。
自分たちの足音と、装備がわずかに触れ合う音だけが聞こえる。
そんな中、突然近くの灌木が揺れた。
高橋は反射的にそちらを向いた。
小銃を持つ手に力が入る。
しかし、飛び出してきたのは小さな鳥だった。
鳥は低い枝をかすめるように飛び去り、すぐに木々の向こうへ消えた。
「……鳥か」
高橋は小さく息を吐いた。
前を歩いていたエレナが振り返った。
「びっくりした?」
「はい。ちょっと」
「ふふ。そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
「でも、逃亡兵がいるかもしれないんですよね」
「そうね」
エレナは頷いた。
「だから、周囲を見るのは大事。でも、何にでも驚いていたら疲れてしまうわ」
「はい」
「音の種類を覚えるの。鳥の羽音と人間が歩く音は違うでしょう?」
高橋は少し考えた。
「……そう言われれば」
「慣れれば、だんだんわかるようになるわよ」
エレナはそう言って、再び歩き始めた。
高橋はその後ろ姿を見ながら、少し感心していた。
追跡任務の最中でも、エレナは普段と変わらない。
必要な指示を出し、ときには冗談を言い、こうして新兵の自分に訓練の続きを教えてくれる。
だが、周囲を見る目だけは鋭かった。
高橋が気づかないような小さな物音にも、すぐに反応する。
その落ち着きが、今の高橋にはありがたかった。
しばらく進むと、細い沢に出た。
幅は数メートルほど。
水は澄んでおり、底の小石まで見えている。
両岸には大小の石が転がり、倒木が一本、沢を斜めに横切っていた。
アルノーが足を止めた。
「ここを渡ったようだな」
エレナが近づく。
「わかる?」
「向こう岸の落ち葉が乱れている。それに、この石を見て」
アルノーが指さした石の表面には、黒っぽい泥が付着していた。
「誰かが踏んだ跡だ」
「なるほど」
アルノーは沢の向こう側を確認した。
「足跡も続いている」
「じゃあ、渡りましょう」
四人は慎重に沢を渡った。
水面からは冷たい空気が漂い、流れる水が石の間で小さな白い泡を立てていた。
高橋は濡れた石に足を置き、滑らないように気をつけた。
対岸へ渡ると、再び斜面が続いていた。
アルノーは足跡を確認しながら進んでいく。
その後ろを、エレナたちが追った。
やがて、斜面の上方に明るい空が見えてきた。
尾根が近い。
木々の間隔も広くなり、地面には大きな岩が増えていた。
アルノーが立ち止まった。
「この先だな」
エレナも地図を取り出した。
「そうね。あの尾根を越えれば、次の谷が見えるはずよ」
アルノーは頷いた。
「足跡もそっちへ向かっている」
「じゃあ、慎重に行きましょう」
エレナは高橋を振り返った。
「高橋、ここからは静かにね」
「はい」
「それと、尾根の上に立たないこと。向こう側から姿が見えてしまうから」
「了解しました」
エレナは小さく頷いた。
「よし」
四人は身を低くし、尾根へ向かって進んだ。
尾根の上部には大きな岩がいくつも並んでいた。
岩の間には背の低い灌木が生え、地面には枯れた草が倒れ込んでいる。
針葉樹の枝が低く伸び、その下には日陰が広がっていた。
先頭のアルノーが片手を上げた。
全員が停止する。
アルノーはしゃがみ込み、ゆっくりと岩の陰へ移動した。
そのまま双眼鏡を取り出し、尾根の向こう側を観察する。
エレナも少し離れた場所から谷を覗き込んだ。
高橋は岩の陰で待っていた。
風が吹いた。
木々の枝が揺れ、落ち葉が乾いた音を立てて転がっていく。
高橋は肩に掛けていたG11を身体の横へ引き寄せた。
銃身が岩に触れないように注意しながら、負い革の位置を直す。
銃の上には、篠沢から譲り受けたスコープが取り付けられている。
高橋は無意識にその取り付け部分へ目を向けた。
射撃訓練では、遠くの標的を覗くたびに世話になっている。
だが、今はまだ使う必要がなかった。
しばらくして、アルノーがエレナに向かって小さく手招きした。
エレナが近づく。
二人は双眼鏡を覗きながら、短い言葉を交わしていた。
高橋には聞き取れなかった。
しかし、エレナの表情が変わったことはわかった。
彼女はしばらく谷を観察した後、高橋の方を振り返った。
「高橋、こっちへ」
「はい」
高橋は身を低くしたまま、エレナの隣へ移動した。
「静かにね」
「はい」
エレナは岩の陰に伏せるように指示した。
高橋もその隣に伏せた。
尾根の向こう側には、広い谷が横たわっていた。
谷底には細い沢が流れ、その両側には比較的平坦な場所が続いている。
斜面には針葉樹が多く、ところどころ大きな岩が露出していた。
沢の近くには倒木が何本か横たわり、その周囲だけは木々がまばらになっている。
高橋は双眼鏡を構えた。
「右の方を見て」
エレナが小声で言った。
高橋は双眼鏡を動かした。
「大きな岩があるでしょう?」
「はい」
「その少し下。倒木が横になっているところ」
高橋は焦点を調整した。
灰色の大きな岩。
その下に、太い倒木が一本横たわっていた。
周囲には枯れ草が広がり、比較的見通しがよかった。
最初は何も見えなかった。
しかし、双眼鏡を少し右へ動かしたとき、人影が目に入った。
「あ……」
高橋は思わず小さく声を漏らした。
「見つけた?」
エレナが尋ねた。
「はい。人がいます」
「何人?」
高橋は双眼鏡を動かした。
倒木に腰掛けている者が一人。
その隣に、地面へ座り込んでいる者がいた。
少し離れた木の陰にも、人影が見える。
高橋は慎重に数えた。
「一人、二人……三人……」
そのとき、木の幹の向こうからもう一人が姿を現した。
「四人です」
「そう」
エレナは頷いた。
「男二人、女二人ね」
アルノーも隣で観察していた。
「ああ。人数は一致している」
高橋は双眼鏡を覗き続けた。
距離はおよそ七百メートル。
四人とも帝国軍の制服を着ているようだった。
一人は倒木に腰掛けたまま、何かを話している。
その隣に座った人物は、足を投げ出していた。
少し離れたところにいる二人は、地面に置いた荷物を調べているようだった。
時折、一人が立ち上がって周囲を見回している。
しかし、特に警戒している様子はない。
高橋は双眼鏡の焦点を調整した。
それでも顔までははっきり見えなかった。
制服の色や体格はわかる。
しかし、誰なのかを判断できるほどではない。
「武器は?」
エレナが小声で尋ねた。
アルノーはしばらく観察していた。
「男の一人が何か長いものを持っているように見えるが……木の陰でよくわからない」
「女二人は?」
「今のところ確認できないな」
エレナは頷いた。
「そう。まだ武装しているかどうかは不明ね」
高橋も双眼鏡を動かした。
確かに、四人いる。
男二人、女二人。
軍服を着ている。
足跡の方向も一致している。
だが、それだけだった。
あの四人が本当に逃亡兵なのか、まだ断定はできない。
「……あの人たちでしょうか?」
高橋が小声で尋ねた。
エレナは双眼鏡を下ろさずに答えた。
「可能性は高いわね」
アルノーも頷いた。
「足跡の方向も合っている。少なくとも、確認する必要はあるな」
「そうね」
エレナはしばらく四人を観察していた。
高橋も再び双眼鏡を構えた。
谷間の四人は、何かを話しながら休息を続けている。
風が吹くと、彼らの周囲の枯れ草が揺れた。
時折、誰かが身振りを交えて話しているようだった。
遠くから見ている限り、ごく普通の兵士たちだった。
高橋は双眼鏡を下ろし、肉眼で同じ場所を見た。
木々の間に、わずかな空間が見えるだけだった。
そこに四人がいると知っていても、双眼鏡がなければ見逃してしまいそうだった。
七百メートル。
射撃場では、ずいぶん遠い距離だと思っていた。
しかし、こうして実際の山中で見ると、意外なほど近くにも感じられる。
高橋は傍らに置いたG11へ視線を落とした。
使い慣れ始めた銃だった。
篠沢から譲り受けたスコープも、射撃訓練では何度も覗いている。
だが、その照準の先に生身の人間がいるところを、高橋はまだ想像できなかった。
エレナが静かに口を開いた。
「……見つけたわね」
アルノーが頷いた。
「ああ。四人だ」
エレナは双眼鏡を下ろし、周囲の地形を確認した。
そして再び谷へ目を向けた。
「まずは、もう少し様子を見ましょう」
高橋は頷いた。
岩の陰に身を伏せたまま、四人は谷間の兵士たちを監視し続けた。
眼下では、何も知らない四人が休息を続けている。
薄曇りの空から弱い日差しが差し込み、谷底を流れる沢の水面が、木々の間でかすかに光って