十一月の山は、すでに冬の気配を帯びていた。
広葉樹の多くは葉を落とし、森の中には枯れ葉が厚く積もっている。ところどころに残る針葉樹の緑が、灰色がかった山肌の中で目立っていた。
冷たい風が木々の間を吹き抜けるたびに、乾いた枝が擦れ合い、足元の落ち葉が小さく舞い上がった。
その森の中を、四人の若者が歩いていた。
佐々木健、中村拓也、加藤真由、吉田麻衣。
四人とも日本から召喚された第20期の兵士であり、四十八時間行軍訓練の途中で部隊を離れた逃亡兵だった。
先頭を歩いているのは佐々木だった。
肩には軍から支給されたG11小銃を掛け、背中には食料や水筒を詰めた背嚢を背負っている。その後ろを中村が歩き、さらに加藤と吉田が続いていた。
「おい、拓也。地図、合ってるんだろうな?」
佐々木が振り返った。
中村は立ち止まり、折り畳んだ地図を広げた。
「多分な。この尾根を越えれば、ベルノの街が見えるはずなんだけど」
「多分って何だよ」
「俺だって初めて来る場所なんだから、仕方ないだろ」
中村は顔をしかめた。
地図には山道や河川、集落の位置が記されていたが、四人とも読図の成績がよかったわけではなかった。
訓練中に教わった基本的な地図の読み方を思い出しながら、現在地を確かめているにすぎない。
「ねえ、まだ歩くの?」
後ろから加藤が声を上げた。
「もう足が痛いんだけど」
「もう少しだろ。頑張れよ」
佐々木が答える。
「そのもう少しって、さっきから何回言ってると思ってんの?」
「うるせえな。じゃあ、ここで休んでろよ」
「何よ、その言い方!」
加藤は不満そうに佐々木を睨んだ。
吉田が慌てて間に入った。
「まあまあ、真由。もうちょっと頑張ろうよ。街に着いたら休めるんだし」
「……麻衣がそう言うなら、もう少し歩くけど」
加藤は大きくため息をつき、再び歩き始めた。
四人はすでに、かなりの距離を歩いていた。
行軍訓練中に部隊を離れた直後は、誰かに発見されるのではないかと何度も後ろを振り返っていた。しかし、森の奥へ進んでも追っ手らしい姿は見えず、次第に緊張も薄れていた。
その代わりに、疲労が目立つようになっていた。
訓練中なら行軍路も休憩時間も決められており、先導する兵士について歩けばよかった。しかし、今は違う。自分たちで地図を確認し、進む方向を決めなければならなかった。
途中、何度か道を間違えた。
地図に記された道らしいものが見つからず、斜面を登ってみたものの、行き止まりになって引き返したこともあった。沢を渡る場所を探して遠回りし、背丈ほどもある藪を抜けなければならない場所もあった。
中村は何度も地図を広げ、そのたびに周囲の山の形や沢の流れる方向を確認していた。
しかし、地図の上では簡単に見える移動も、実際の山中では思うように進まなかった。
斜面を一つ越えれば目指す方向へ近づけると思っても、その向こうに深い谷があれば迂回しなければならない。木々が密集した場所では見通しが利かず、現在地の確認さえ難しかった。
佐々木は、そのたびに中村へ文句を言った。
中村も最初のうちは言い返していたが、やがて面倒になったのか、黙って地図を見るようになった。
それでも、四人は進み続けていた。
ベルノの街へ着けば、軍隊から離れて自由に暮らせる。
その期待だけが、疲れた身体を動かしていたのである。
昼前、四人は一度足を止めた。
加藤が肩に掛けた小銃を持ち直し、うんざりした顔をしていた。
「ねえ、この銃、もういらなくない?」
佐々木が振り返った。
「何でだよ」
「だって重いんだもん。街に入ったら、こんなの持って歩けないでしょ?」
「そりゃそうだけどよ」
「それに、もう軍隊に戻るつもりないんだから、持っててもしょうがないじゃん」
加藤は小銃を地面に下ろした。
吉田も頷いた。
「私も、もう持ちたくないな……」
二人とも、訓練中は小銃を持って歩くことに慣れていた。
しかし、足場の悪い山中では、肩に掛けた小銃が枝に引っ掛かったり、斜面を下るときに身体の動きを妨げたりしていた。
背嚢だけでも重いというのに、さらに銃を持ち続けることが嫌になっていたのである。
「じゃあ、置いていけばいいだろ」
佐々木はあっさりと言った。
中村が少し顔をしかめた。
「でも、軍から支給された銃だぞ」
「だから何だよ。もう戻らねえんだから、関係ねえだろ」
加藤はその言葉を聞くと、小銃を抱えて道から少し離れた茂みへ入った。
吉田も少し迷っていたが、結局、同じように銃を下ろした。
二人は携行していた弾薬もまとめて置き、枝や落ち葉の陰へ押し込んだ。
加藤は肩を回し、大きく伸びをした。
「ああ、楽になった!」
吉田もほっとした顔をしていた。
「本当に全然違うね」
一方、佐々木と中村は小銃を手放さなかった。
「俺らは持っていこうぜ。山の中で何が出るかわかんねえし」
佐々木が言うと、中村も頷いた。
「そうだな。野生動物が出るかもしれないし」
二人はG11小銃を肩に掛け直した。
女二人が武器を捨てたのも、男二人が武器を持ち続けたのも、深く考えた末の判断ではなかった。
必要だと思えば持ち、邪魔になれば捨てる。
それだけのことだった。
軍から支給された武器や弾薬をどう扱うべきかについては、訓練中に何度も教わっていた。しかし、四人ともすでに軍隊を離れたつもりでいたため、その規則を守ろうという意識はほとんどなかった。
装備を捨てることも、武装したまま逃亡を続けることも、後に自分たちの立場をさらに悪くするとは考えていなかったのである。
再び歩き始めると、加藤と吉田の足取りは少し軽くなった。
二人は先ほどまでより元気になり、街に着いたら何をしたいか話し始めた。
佐々木はその様子を見て、呆れたように笑った。
「おまえら、銃がなくなっただけで随分元気になったな」
「だって、本当に重かったんだもん」
加藤が答えた。
吉田も笑った。
「これなら、もう少し歩けそう」
四人は再び、尾根へ向かって登り始めた。
昼前になって、四人はようやく尾根の上へ出た。
それまで周囲を覆っていた木々が途切れ、視界が一気に開けた。
「おい!」
先頭を歩いていた佐々木が声を上げた。
「見ろよ!」
中村が顔を上げた。
「……おお!」
山の向こうには、広い平野が広がっていた。
緩やかな丘陵の間を道路が走り、その周囲には農地や小さな集落が点在している。遠くには、まとまった市街地が見えた。
建物の屋根が幾重にも重なり、中心部には周囲より背の高い石造りの建物が集まっている。その外側には住宅地や倉庫が広がり、街から延びる道路が周辺の農村へ通じていた。
ベルノだった。
人口およそ五万人。
旧エルディア王国の王都であり、現在はベルノ伯爵領の行政、商業、軍事の中心となっている都市だった。
エルディア地方では最大の街だが、帝都アウグステンのような巨大都市ではない。市街地は比較的まとまっており、中心部から離れると建物は次第に少なくなり、その先には畑や牧草地が広がっていた。
街の向こうには、さらに広い平野が続いていた。
そして、ずっと遠くに青灰色の水面が見えた。
エルディア湖だった。
ベルノ市は湖岸から約十五キロ内陸に位置しており、湖畔には人口一万人ほどの小都市エルデがある。ベルノとエルデは道路や鉄道で結ばれ、湖を利用した物資の輸送も行われていた。
ただし、四人にはそのような地理的な知識はなかった。
尾根から見える街がベルノであり、そこが自分たちの目指していた場所だということだけが重要だった。
「やった!」
加藤が声を上げた。
「街だ! 本当に街が見えた!」
吉田も嬉しそうに笑った。
「よかったあ……!」
それまでの疲れが、一瞬だけ吹き飛んだようだった。
四人は尾根の上から、しばらく街を眺めていた。
「結構でけえ街なんだな」
佐々木が感心したように言った。
中村も頷いた。
「これだけ大きければ、何か仕事もあるんじゃないか?」
「だろ? 俺の言ったとおりじゃねえか」
佐々木は得意そうに笑った。
加藤も街を見つめていた。
「お店とか、いっぱいあるのかな」
「あるんじゃない? あれだけ建物があるんだし」
吉田が答えた。
「服とかも買いたいよね。もう軍服なんか着たくないし」
「それ!」
加藤は笑った。
「あと、お風呂にも入りたい。ゆっくり寝られるところも欲しいな」
四人は、街へ着いてからの生活について話し始めた。
最初に何を食べようか。
どこに泊まろうか。
仕事は何をしようか。
そんな話が次々と出てきた。
しかし、誰も具体的な答えを持っていなかった。
宿泊費がいくら必要なのかも知らず、仕事の探し方もわからない。帝国共通語も簡単な会話ができる程度で、商店や役所で複雑な話をする自信などなかった。
日本人が街へ入って、すぐに仕事を見つけられるのかもわからなかった。
そもそも、四人は軍服を着ており、男二人は小銃まで携行している。
その格好で街へ入ったら、周囲からどう見られるのか。
誰も、そのことについては深く考えていなかった。
目の前にベルノの街が広がっている。
ただそれだけで、四人は自分たちが自由になれると確信していた。
「ま、何とかなるだろ」
佐々木が言った。
中村も頷いた。
「そうだな。ここまで来たんだから」
加藤は笑顔で吉田の肩を叩いた。
「もう少しだね、麻衣」
「うん!」
吉田も笑った。
十一月の空はよく晴れていた。
遠くの平野には薄い霞がかかっていたが、ベルノの街並みは十分に見渡せた。
四人はしばらく街を眺めた後、尾根を下り始めた。
正午頃、四人は尾根から少し下ったところに流れる沢へたどり着いた。
水は澄んでおり、岩の間を音を立てながら流れている。沢の周囲には背の低い木々が生え、落ち葉に覆われた地面には、ところどころ苔むした岩が顔を出していた。
木々の隙間からは、先ほど尾根の上で見つけたベルノの街が遠くに見えている。
四人は沢の近くに腰を下ろし、昼食を取ることにした。
佐々木と中村は小銃を手の届く場所へ置き、背嚢から保存食を取り出した。
加藤は沢の水で手を洗い、吉田は靴を脱いで足の状態を確かめていた。
「痛そうだな、それ」
中村が吉田の足を見た。
「うん。ちょっと豆ができちゃって」
「街まで、まだ結構歩くぞ」
「わかってる。でも、もう少しだから」
吉田は靴を履き直した。
加藤は保存食を取り出すと、岩の上に腰掛けた。
「もう、軍隊のご飯も食べなくていいんだよね」
「街に行けば店くらいあるだろ」
佐々木が答えた。
「何かうまいもの食いてえな」
「お金は?」
中村が尋ねた。
佐々木は保存食を口に運びながら肩をすくめた。
「仕事を見つけりゃいいだろ」
「すぐ見つかるのかな」
「知らねえよ。でも、あれだけ大きな街なんだから何かあるだろ」
加藤が笑った。
「健って、ほんと適当だよね」
「うるせえな」
佐々木はそう言いながらも、機嫌は悪くなさそうだった。
四人は昼食を取りながら、ベルノでの生活を思い描いていた。
まずは宿を探そう。
軍服は早く着替えたい。
少し休んだら仕事を探せばいい。
自分たちがどれほど無計画な状態にあるのか、誰も気にしていなかった。
それほどまでに、街が見えたことによる安心感は大きかったのである。
しばらくすると、佐々木が口を開いた。
「それにしても、今頃大騒ぎだろうな」
「何が?」
中村が尋ねた。
「俺らがいなくなったことだよ。分隊長たち、今頃どうしてんだろうな」
「ああ……確かに怒ってるだろうな」
中村は苦笑した。
加藤も笑った。
「あたしたちの分隊長も、絶対怒ってるよね」
「もう戻るつもりないんだから、関係ねえだろ」
佐々木は肩をすくめた。
「まあ、それもそうか」
中村はそう答えると、残っていた保存食を口に運んだ。
四人にとって、脱走した後の部隊がどうなっているかは、もはや大した関心事ではなかった。
自分たちがいなくなれば捜索くらいは行われるだろうが、いつまでも山の中を探し回ることはないだろう。
佐々木はそう考えていた。
中村も、そこまで大掛かりな捜索になるとは思っていなかった。
軍隊に戻るつもりはないのだから、分隊長に叱られることもない。
そんな程度の認識だった。
話題はすぐに、街での生活へ戻った。
加藤と吉田は、どんな店があるのかを楽しそうに話している。
中村は、街へ入る前に軍服をどうするか考えていた。
佐々木は、働くにしても軍隊のように朝から晩まで命令される仕事だけは嫌だと言っていた。
四人とも、追跡部隊が動いていることを真剣に考えていなかった。
昼食を終えると、佐々木は背嚢を枕代わりにして地面へ横になった。
「少し休もうぜ。ここまで来れば、もう大丈夫だろ」
中村も木にもたれかかった。
「そうだな。まだ昼だし、少しくらい休んでも平気だろ」
加藤も沢の近くに座り直した。
「賛成。もう足が疲れちゃった」
吉田も頷き、背嚢から水筒を取り出した。
沢の水音が、木々の間に響いていた。
十一月の冷たい風がときおり吹き抜けるものの、昼の日差しが当たる場所は比較的暖かかった。
先ほどまで歩き続けていたこともあり、身体を休めるにはちょうどよかった。
四人はそれぞれ思い思いの姿勢で休んでいた。
佐々木は仰向けになり、木々の間から見える空を眺めている。
中村は地図を折り畳み、背嚢の中へしまった。
加藤と吉田は並んで座り、街へ着いたら最初に何をしようかと、小さな声で話していた。
「ねえ、麻衣」
「何?」
「街に着いたらさ、まずお風呂入りたいよね」
「うん。私も」
「それから、ちゃんとしたベッドで寝たい」
「そうだね」
吉田は笑った。
加藤も笑い返した。
二人にとって、目の前の山を下りることは、軍隊生活から解放されることを意味していた。
厳しい訓練も、早朝の点呼も、分隊長からの指示も、もう受けなくていい。
そんなことを考えるだけで、気分が軽くなった。
少し離れたところでは、佐々木が目を閉じていた。
「健、寝るなよ」
中村が声をかけた。
「寝てねえよ。ちょっと休んでるだけだ」
「まあ、あんまり長く休むなよ」
「わかってるって」
佐々木は面倒くさそうに答えた。
中村もそれ以上は何も言わず、木にもたれて目を閉じた。
四人の近くには、佐々木と中村のG11小銃が置かれていた。
佐々木の銃は背嚢の脇に、中村の銃は倒木に立てかけられている。
どちらも、手を伸ばせば届く場所だった。
山の中で野生動物に遭遇したときのために持ってきた武器だったが、ここまで一度も使う機会はなかった。
これから先も、使うことはないだろう。
二人とも、そう思っていた。
尾根の向こうには、ベルノの街が見えた。
あと少し歩けば、そこへたどり着ける。
四人は、ようやく軍隊から逃げ切れたのだと信じていた。
そして、自分たちの姿がすでに監視されていることにも、気づいていなかった。