翌朝も、東京は蒸し暑かった。
校門をくぐる頃には、高橋の額にうっすらと汗が滲んでいた。古い校舎の外壁は朝日を受けて白く照り返している。黒ずんだコンクリートの補修跡、くすんだ窓枠、厚い塗装の手すり。いつもと変わらない学校の風景だった。
ただし、この日の校内は朝から妙に落ち着かなかった。
「なあ、聞いたか?」
教室へ入るなり川崎が声を潜めた。
「何?」
「生徒会長が事故で死んだって」
「……え?」
高橋は鞄を下ろす手を止めた。
「篠沢先輩?」
「そう。昨日の夕方、交通事故に遭ったらしい」
「嘘だろ」
「俺もまだ噂で聞いただけだけどさ。朝からみんなその話してる」
高橋は昨日のことを思い出した。廊下ですれ違った篠沢遊馬。三年生の生徒会長で、学校行事のたびに壇上に立つ人だった。明るく落ち着いた話し方が印象に残っている。
「昨日、普通に学校にいたよな」
「いたよ。だからびっくりしてるんだろ」
近くでは岡田修平が、サッカー部の仲間と深刻な顔で話していた。井上と山田も普段より静かだった。
始業前、水野香織が教室に入ってきた。いつもの丸眼鏡をかけていたが、表情が硬かった。
「皆さん、おはようございます。今日は予定どおり全校集会を行います。詳しいお話は、集会で校長先生からあります」
その言葉で、噂が単なる噂ではないことを誰もが悟った。
やがて移動の指示が出た。生徒たちは廊下に並び、体育館へ向かった。
古い体育館には夏の熱気がこもっていた。天井の換気扇が低い音を立て、窓の外では蝉が鳴いている。学年ごとに整列した生徒たちは、いつもより口数が少なかった。
壇上に校長が立つ。
「皆さんに、悲しいお知らせがあります」
体育館が静かになった。
「三年生の生徒会長、篠沢遊馬君が、昨日夕方、交通事故で亡くなりました」
誰かが小さく息を呑んだ。
高橋の隣で川崎が俯いた。周囲からも驚きと戸惑いの声が漏れたが、すぐに静まった。
校長は篠沢が学校のために尽くしてきたことを話し、全員で黙祷を捧げるよう告げた。
高橋は目を閉じた。
昨日まで元気だった人が、今日はもういない。
そんなことが本当に起こるのだと思った。
黙祷が終わり、校長が再び話し始めた。
その途中だった。
周囲の音が、ふいに遠くなった。
蝉の声。換気扇の唸り。校長の声。隣に立つ生徒の衣擦れ。
すべてが、耳の奥へ吸い込まれていくようだった。
「……え?」
高橋は顔を上げた。
足元が揺れたような気がした。
次の瞬間、視界が白くなった。
何かが身体を通り抜けるような、不思議な感覚があった。
そして――。
冷たいものが、頭に落ちてきた。
「……雨?」
高橋は目を開いた。
体育館の天井がなかった。
代わりに見えたのは、低く垂れ込めた灰色の雲だった。そこから大粒の雨が落ちている。
足元には、濡れた石が広がっていた。
体育館ほどの広さがある、平らな一枚岩。周囲には石段と砂利道があり、さらに外側には見慣れない建物が並んでいる。
高橋は茫然と立ち尽くした。
「何だ、ここ……」
悲鳴が上がった。
「きゃああっ!」
「ちょっと、服が!」
「何これ!?」
高橋は自分の身体を見下ろした。
制服がない。
シャツもズボンも、下着さえも消えていた。靴も靴下もない。鞄も財布も携帯電話もない。
周囲の生徒たちも同じだった。
突然現れた冷たい雨の中で、全員が何も身につけず、慌てて身体を隠している。
「うわっ、何で裸なんだよ!」
川崎が叫んだ。
「知らねえよ!」
井上も慌ててしゃがみ込んだ。
山田は空を見上げ、何かを言いかけたが、女子生徒の悲鳴にかき消された。
水野香織も生徒たちの間にいた。着ていた服だけでなく、丸眼鏡も消えていた。目を細めて周囲を見回したが、離れた生徒の表情がよく見えない。
「みんな落ち着いて! 怪我してる人いない!?」
水野は必死に呼びかけた。
「先生、どうなってるんですか!」
「わからないけど、まず怪我してる人を確認して!」
伊藤千尋が女子生徒たちに声をかけ、できるだけ互いを隠すように集まらせていた。佐々木健と中村拓也は腹立たしそうに怒鳴り、加藤真由は吉田麻衣の手を引いていた。
高橋は周囲を見回した。
見覚えのある一年生たち。担任や教師の姿はほとんど見えず、水野だけが生徒たちの間を動き回っている。
すぐには人数など数えられなかったが、ここに現れたのは、高校生と教師を合わせて二百人ほどだった。後に第20期召喚者として登録される人数も、合計二百名だった。
石の広場の外側には、軍服姿の男たちがいた。
雨具を着込み、肩には長い銃を下げている。岩盤の周囲を一定の間隔で取り囲み、何かを叫んでいた。
高橋には一言も理解できなかった。
英語でも中国語でも、聞いたことのある外国語でもない。
兵士の一人が手を上げ、こちらへ近づこうとした生徒を制止した。銃口は向けられていないが、通してはもらえそうになかった。
「……軍隊?」
井上が呟いた。
「何で軍隊がいるんだよ」
川崎の声が震えた。
雨が肩を打ち、石が足の裏から体温を奪っていく。誰かが泣き、誰かが怒鳴り、誰かが名前を呼び続けていた。
高橋はもう一度空を見上げた。
東京の蒸し暑い夏空は、どこにもなかった。
見知らぬ土地の冷たい雨が、いつまでも降り続いていた。