勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴231年12月


第5節 最後の三日間

ベルノの街に、冬が訪れていた。

 

十二月に入ると朝の冷え込みは一段と厳しくなり、街路樹はすっかり葉を落としていた。石畳の隙間には白い霜が残り、数日前に降った雪も、建物の北側や日陰の路地にはまだ薄く積もっている。

 

街を行き交う人々は厚手の外套を着込み、商店の軒先には暖房用の薪が積まれていた。荷馬車の御者たちも手袋をはめ、吐く息を白くしながら馬を進ませている。

 

その街の官庁街に、エルディア地方中央政府派出所があった。

 

帝国中央政府が設置した地方行政機関であり、ベルノ伯爵領だけでなく、周辺の子爵領や男爵領、騎士爵領なども管轄している。

 

広い敷地には複数の石造りの建物が並び、内務省、財務省、産業省、法務省、鉄道省など、中央政府の各省庁が地方事務所を置いていた。

 

正面の門には帝国の紋章が掲げられ、その向こうには石畳の中庭が広がっている。朝から領民や商人、各領地から派遣された役人たちが出入りしており、行政棟の窓口には順番を待つ人々の姿があった。

 

税務関係の書類を抱えた商人、中央政府への報告書を運ぶ役人など、訪れる者の用件はさまざまだった。

 

その敷地の奥に、国家奴隷省の事務所と一時収容施設が設けられていた。

 

一般の行政施設とは別の区域になっており、高い石塀と鉄製の門で区切られている。収容区画の出入口には警備員が配置され、職員であっても許可なく立ち入ることはできなかった。

 

ここは、エルディア地方で国家奴隷刑を受けた者を一時的に収容し、中央直轄地の収容施設へ移送するための中継施設だった。

 

帝国の国家奴隷は、すべて中央政府の直轄地にある収容施設へ集められ、そこで労働に従事する。地方の領地に奴隷を配置して労働させる制度はなく、この派出所でも収容者が作業に従事することはなかった。

 

収容者の管理や施設の維持、荷物の運搬などは、国家奴隷省の職員や雇用された作業員が担当していた。

 

軍事法廷が開かれた翌朝、高梨梓伍長は中央政府派出所を訪れていた。

 

連隊本部から発行された書類を手に、行政棟の受付へ向かう。

 

「ベルノ連隊の高梨伍長です。日本人四名の通訳業務で参りました」

 

受付の職員は書類を確認すると、軽く頷いた。

 

「ああ、昨日の軍事法廷の件ですね。国家奴隷省から連絡を受けています」

 

職員は登録簿に必要事項を記入し、案内役を呼んだ。

 

「収容区画へご案内します」

 

「お願いします」

 

高梨は職員に続き、行政棟の奥へ向かった。

 

一般の窓口が並ぶ賑やかな廊下を抜け、渡り廊下を通って別の建物へ進む。途中には各省庁の執務室があり、扉の脇には名称を記した表示板が掲げられていた。

 

やがて、通路の先に鉄製の門が見えてきた。

 

ここから先が国家奴隷省の収容区画だった。

 

職員が門番に書類を提示すると、鉄門が開かれた。

 

一般の行政区域とは異なる、静かな中庭が現れた。左右には一時収容棟や医務棟が並び、中央の通路では職員たちが書類や物資を運んでいる。

 

奥の建物からは、収容者の人数を確認する職員の声が聞こえてきた。別の職員は護送用の書類を抱え、医務棟へ向かって歩いている。

 

高梨はその光景へ一度だけ目を向けると、案内の職員についていった。

 

「日本人四名は、現在こちらで収容しています」

 

案内の職員が説明した。

 

「男性二名は負傷しているため医務棟に、女性二名は一般収容棟に入っています」

 

「傷の状態はどうでしょうか?」

 

「医官によれば、回復は順調です。短い距離なら歩行できますが、長時間の移動にはまだ補助が必要とのことです」

 

高梨は頷いた。

 

十一月に拘束された際、佐々木と中村はそれぞれ太腿を撃たれていた。軍事法廷が開かれるまでに傷はある程度回復していたものの、まだ完全に治ったわけではない。

 

「護送は明後日の朝を予定しています。それまでに収容手続きと今後の処遇について説明を済ませたいのですが、四名とも帝国共通語の理解が十分ではないようでして」

 

職員は少し困った表情を浮かべた。

 

「簡単な指示なら通じるのですが、行政上の説明となると、ほとんど理解できないようです」

 

「そうでしょうね。三か月ほど語学訓練を受けていますが、四人とも成績はあまりよくありませんでした」

 

「なるほど。それでは、通訳をお願いできるのは助かります」

 

「承知しました」

 

高梨はそう答えた。

 

最初に案内されたのは医務棟だった。

 

扉を開けると、消毒薬の匂いが鼻をついた。

 

室内には鉄製の寝台が並び、窓際には小さな机と医療器具が置かれている。冬の弱い日差しが白い壁を淡く照らし、窓の下には暖房用のストーブが据えられていた。

 

奥の寝台には、中村拓也が腰掛けていた。

 

その隣には佐々木健がいる。

 

二人とも国家奴隷省から支給された簡素な衣服を着ており、脚にはまだ包帯が巻かれていた。

 

高梨が入ってくると、中村がすぐに顔を上げた。

 

「……高梨教官!」

 

佐々木もこちらを見た。

 

「何だよ。また来たのか」

 

「二人とも、具合はどう?」

 

高梨は寝台の近くへ歩み寄った。

 

中村は左脚を見下ろした。

 

「まだ痛いですけど、前よりはだいぶよくなりました」

 

「歩けるようにはなった?」

 

「少しなら。でも、長く歩くと痛くなるんで、杖を使ってます」

 

「佐々木さんは?」

 

佐々木は不機嫌そうに答えた。

 

「俺だって同じだよ。もう歩けるって言ってんのに、あんまり歩くなってうるせえんだ」

 

「傷が開いたら困るでしょう。医官の指示には従ってください」

 

「わかってるよ」

 

佐々木は面倒くさそうに顔を背けた。

 

高梨は椅子を引き寄せ、二人の前へ腰を下ろした。

 

「今日は、これからのことを説明しに来ました」

 

中村が顔を上げた。

 

「……本当に俺ら、奴隷になったんですか?」

 

「ええ。昨日、軍事法廷で刑が確定しました」

 

高梨は静かに答えた。

 

「あなたたちは軍籍を失い、現在は国家奴隷省の管理下に置かれています」

 

中村は自分の服を見下ろした。

 

「……そうですか」

 

「明後日の朝には、ベルノを離れることになります。それまでに、こちらの職員から収容手続きや今後の生活について説明があります」

 

佐々木が口を挟んだ。

 

「で、どこへ連れていかれるんだよ」

 

「まず帝都へ向かいます。その先の配属については、国家奴隷省が決定します」

 

「俺らの行き先も勝手に決めるのかよ」

 

「そうです」

 

佐々木は舌打ちした。

 

「ふざけんなよ。勝手に召喚して、勝手に軍隊に入れて、今度は奴隷かよ」

 

高梨は黙って聞いていた。

 

「大体、何で俺らがこんな目に遭わなきゃならねえんだよ。軍隊が嫌で逃げただけじゃねえか」

 

佐々木は不満を吐き出すように続けた。

 

「死刑だの奴隷だの、大げさなんだよ。何も悪いことしてねえとは言わねえけど、ここまでされる筋合いはねえだろ」

 

高梨はしばらく佐々木を見ていた。

 

そして、静かに口を開いた。

 

「……佐々木さん。一つ、話しておきたいことがあります」

 

「何だよ」

 

「以前のベルノ伯爵の時にも、脱走事件があったの」

 

佐々木は顔を上げた。

 

中村も高梨へ目を向ける。

 

「脱走したのは日本人だったわ。私の同級生だったの」

 

高梨は一度、窓の外へ目を向けた。

 

冬の弱い日差しが窓枠に反射し、その向こうでは葉を落とした木々が風に揺れていた。

 

「軍隊が嫌になって逃げたの。でも、結局捕まってしまった」

 

中村が尋ねた。

 

「……その人、どうなったんですか?」

 

「銃殺されたわ」

 

高梨は淡々と答えた。

 

「捕まって、すぐにね。軍事法廷も開かれなかった」

 

二人は黙った。

 

「前の伯爵は部下の面倒見もよくて、公平な人だった。でも、軍紀違反には非常に厳しかったの。帝国軍法では、逃亡兵に対して指揮官命令で銃殺することが認められているから、法廷を開く必要もなかった」

 

佐々木は顔をしかめた。

 

「……ひでえ話だな」

 

「ええ」

 

高梨は小さく頷いた。

 

「でも、それだけじゃないの」

 

中村が顔を上げた。

 

高梨は二人を見渡した。

 

「その処刑を命じられたのは、私たちだったのよ」

 

「……は?」

 

佐々木は高梨を見た。

 

「どういうことだよ」

 

「同級生に、同級生を処刑させたの」

 

高梨は静かに答えた。

 

「脱走した兵士と同じ学校にいた日本人が、銃殺隊に選ばれたのよ」

 

中村は目を見開いた。

 

「……そんな」

 

高梨は少し間を置いた。

 

そして、二人をまっすぐに見た。

 

「私も、その一人だったわ」

 

佐々木は口を開きかけた。

 

高梨は続けた。

 

「私も引き金を引いたのよ」

 

病室が静まり返った。

 

廊下では職員が荷車を押しており、車輪が石の床を転がる音が聞こえていた。ストーブの中では薪が小さく爆ぜている。

 

「……嘘だろ」

 

ようやく佐々木が口を開いた。

 

「自分の同級生を撃ったのかよ」

 

「ええ」

 

高梨は頷いた。

 

「命令だったから。私たちは軍人で、命令に従う義務があったの」

 

「でも……」

 

佐々木は何か言いかけたが、言葉が続かなかった。

 

中村が恐る恐る尋ねた。

 

「……その人も、俺らみたいに逃げただけだったんですか?」

 

「そうよ。軍隊が嫌になって逃げたの。それだけで、死刑になるには十分だった」

 

中村は青ざめた顔で佐々木を見た。

 

佐々木も、高梨を見つめたまま黙っている。

 

軍事法廷で死刑を言い渡されたとき、二人は強く反発していた。

 

誰かを殺したわけでもない。敵に寝返ったわけでもない。ただ、嫌になった軍隊から逃げただけだ。

 

それで死刑になるなど、考えられなかった。

 

自分たちは不当に重い罰を受けているのだと思っていた。

 

しかし、高梨が話しているのは、実際に起きた出来事だった。

 

同じ日本から召喚され、同じように軍隊へ入り、逃亡した兵士が処刑されている。しかも、その処刑を同級生たちが命じられていた。

 

中村は自分の左脚へ目を落とした。

 

包帯の下には、高橋に撃たれた傷がある。

 

あの山の中で、もし銃弾が脚ではなく、胸や頭に当たっていたら。あるいは、追跡に来た兵士たちが最初から自分たちを射殺するつもりだったら。

 

今こうして高梨と話していることもなかっただろう。

 

「……俺ら、本当に殺されるところだったんですね」

 

中村が呟いた。

 

高梨は頷いた。

 

「そうよ」

 

佐々木は俯いたまま、何も言わなかった。

 

高橋に撃たれたことは、今も腹立たしかった。しかし、自分たちが逃亡したという理由だけで殺される可能性があったことを、今になってようやく実感し始めていた。

 

あの山で、四人とも死んでいたかもしれない。あるいは、拘束された後にそのまま銃殺されていたかもしれない。

 

昨日の軍事法廷では、死刑判決を聞いてもなお、どこか現実の出来事ではないように感じていた。

 

だが、高梨の同級生は本当に処刑されている。その高梨が、今、自分たちの目の前に座っていた。

 

佐々木は、自分がしたことの重さを初めて考えた。

 

これまで軍隊の命令など、適当に聞き流していればいいと思っていた。

 

嫌なら逃げればいい。捕まっても、何とかなる。

 

そう考えていた。

 

しかし、この世界ではそうではなかった。

 

軍隊から逃げるという行為は、それだけで命を奪われてもおかしくないほど重大な罪だったのである。

 

「……そうかよ」

 

佐々木は小さく呟いた。

 

その声には、いつもの勢いがなかった。

 

高梨は二人の様子を見て、静かに続けた。

 

「今回、オリヴィエ伯爵は軍事法廷を開いて、あなたたちの話を聞いたうえで減刑権を行使したわ。私は正直、驚いたの」

 

中村が顔を上げた。

 

「……そうだったんですか」

 

「ええ。国家奴隷刑も決して軽い刑ではないけれど、少なくとも命は助かった。私の同級生には、その機会さえなかったのよ」

 

高梨はそう言って、しばらく黙っていた。

 

佐々木も中村も、何も言わなかった。

 

過去の処刑が正しかったのかどうか、高梨は口にしなかった。ただ、自分もその場に立ち、引き金を引いた。その事実だけは変わらなかった。

 

やがて、高梨は鞄から紙と筆記具を取り出した。

 

「さて、これから少し勉強をしてもらいます」

 

中村が顔を上げた。

 

「……勉強、ですか?」

 

「ええ。帝国共通語の復習よ」

 

高梨は紙を二人の前へ置いた。

 

「向こうで何かあっても、私は助けに行けません。だから、せめて自分で助けを求められるようになってほしいの」

 

中村はゆっくりと頷いた。

 

「……わかりました」

 

佐々木はしばらく黙っていた。

 

そして、顔を背けたまま答えた。

 

「……わかったよ」

 

高梨はそれ以上、過去の話を続けなかった。

 

紙を広げ、最初の言葉を書き始めた。

 

午後になると、高梨は加藤真由と吉田麻衣の収容室を訪れた。

 

女性用の収容区画は、医務棟から二つ廊下を隔てた場所にあった。

 

厚い木製の扉の向こうには、簡素な寝台が二つ並んでいる。壁には小さな棚が取り付けられ、窓には鉄格子がはめられていた。部屋そのものは清潔だったが、家具は最低限のものしかなかった。

 

加藤は寝台に座り、膝を抱えていた。吉田は窓際の椅子に腰掛け、外を眺めている。

 

扉が開くと、二人は同時に振り返った。

 

「あっ、高梨教官!」

 

加藤が立ち上がった。

 

吉田も顔を明るくした。

 

「先生!」

 

久しぶりに日本語の通じる相手が現れたことで、二人の表情が少し和らいだ。

 

高梨は室内に入り、職員に許可を得て椅子へ座った。

 

「二人とも、具合はどうですか?」

 

「身体は別に何ともないけど……」

 

加藤は部屋を見回した。

 

「ここ、ずっと鍵が掛かってるんです。外にも出してもらえないし、何を言ってるのか全然わかんないし」

 

吉田も頷いた。

 

「食事とか、身体の検査とか、何か説明してくれるんですけど、途中からわからなくなっちゃって……」

 

「そうでしょうね」

 

高梨は頷いた。

 

「ベルノを離れるまで、私が通訳を担当します。わからないことがあれば聞いてください」

 

加藤はほっとしたように息を吐いた。

 

「よかった……」

 

しかし、すぐに顔を曇らせた。

 

「ねえ、高梨教官。本当にあたしたち、奴隷なんですか?」

 

「そうです」

 

高梨は静かに答えた。

 

「昨日の判決で、国家奴隷刑が確定しました」

 

「でも、何かの間違いじゃないんですか? あたしたち、誰も殺してないし……」

 

加藤は言葉を続けようとしたが、高梨は首を横に振った。

 

「判決は確定しました。私には変えることはできません」

 

加藤は唇を噛んだ。

 

吉田が小さな声で尋ねた。

 

「……私たち、ずっとここにいるんですか?」

 

「いいえ。明後日にベルノを離れます」

 

「どこへ行くんですか?」

 

「まず帝都へ向かいます。その後の配属先は、国家奴隷省が決めます」

 

「……四人、一緒じゃないんですか?」

 

高梨は少し間を置いた。

 

「別々になる可能性があります」

 

吉田の顔が曇った。

 

「……そんな」

 

加藤も顔を上げた。

 

「ちょっと待ってよ。健も拓也も別なの?」

 

「配属先がどうなるかは、まだわかりません。ただ、四人が必ず一緒にいられるという保証はありません」

 

二人は黙り込んだ。

 

逃亡するときには、そんなことを考えてもいなかった。

 

山を越えて街へ着けば、また四人で自由に暮らせるものだと思っていた。しかし、今は同じ建物にいても、男二人とは別の場所に収容されている。

 

帝都へ向かった後には、もう会えなくなるかもしれなかった。

 

高梨は少し待ってから、鞄から紙を取り出した。

 

「二人にも帝国共通語の復習をしてもらいます」

 

加藤は顔をしかめた。

 

「……ええ? また勉強?」

 

「そうです」

 

「もう軍隊じゃないんだから、いいじゃないですか」

 

高梨は首を横に振った。

 

「軍隊にいたときより、必要になるかもしれませんよ」

 

加藤は何か言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。

 

吉田は机の上に置かれた紙を見た。

 

「……先生、何を覚えればいいんですか?」

 

「まずは、自分のことを説明する言葉。それから、相手の指示がわからないときに使う言葉です」

 

高梨は筆記具を取り、最初の一文を書き始めた。

 

翌朝、エルディア地方中央政府派出所の中庭には、薄く霜が降りていた。

 

敷地内では早くから職員たちが仕事を始め、各省庁の事務所へ向かう役人や、書類を運ぶ使いの者が行き交っている。一般の行政棟では窓口の準備が進み、遠方の領地から訪れた商人たちが受付の前に集まり始めていた。

 

その一方で、奥にある国家奴隷省の収容区画では、朝の点呼と食事の配給が終わったところだった。

 

高梨が到着したのは、その少し後だった。

 

この日は国家奴隷省の職員の許可を得て、四人を同じ部屋に集めてもらうことになっていた。

 

医務棟から佐々木と中村が連れてこられ、加藤と吉田も職員に付き添われて入室した。

 

久しぶりに四人が顔を合わせた。

 

「健!」

 

加藤が声を上げた。

 

佐々木は杖をつきながら椅子へ腰を下ろした。

 

「……おう」

 

「脚、大丈夫なの?」

 

「まだ痛えけどな。少しなら歩けるようになった」

 

中村も椅子へ座った。

 

「俺も同じだよ。長く歩くとまだ痛むけど」

 

吉田が二人を見た。

 

「でも、よくなってきたんだね」

 

「ああ」

 

中村が答えた。

 

四人はしばらく近況を話していたが、以前のように大声で笑い合うことはなかった。

 

軍事法廷での出来事が、まだ頭から離れなかったのである。

 

やがて、高梨が黒板の前に立った。

 

「では、始めましょう」

 

佐々木は椅子にもたれた。

 

「本当に授業するんだな……」

 

「もちろんです」

 

高梨は黒板に帝国共通語で短い文章を書き、その下に日本語の意味を添えた。

 

「今日は、これから必要になる言葉を中心に覚えてもらいます」

 

最初に書いたのは、簡単な三つの文章だった。

 

「わかりません」

 

「もう一度お願いします」

 

「ゆっくり話してください」

 

高梨は一つずつ帝国共通語で発音し、四人に繰り返させた。

 

最初に中村が声を出し、続いて吉田が発音する。加藤は少し面倒くさそうにしていたが、何度か繰り返すうちに覚え始めた。

 

佐々木も小さな声で発音した。

 

高梨はその発音を直した。

 

「佐々木さん、もう一度」

 

「……わかってるよ」

 

そう言いながら、佐々木はもう一度繰り返した。

 

以前なら、ここで文句を言っていただろう。しかし、今日は違った。高梨が発音を直すと、不機嫌そうな顔をしながらも言われたとおりに繰り返していた。

 

その様子を見て、中村が少し驚いたような顔をしていた。

 

高梨は特に何も言わず、次の言葉へ進んだ。

 

身体の状態を伝える言葉。

 

痛いです。

 

具合が悪いです。

 

医官を呼んでください。

 

水をください。

 

手を貸してください。

 

一つずつ意味を説明し、何度も繰り返させた。

 

「特に佐々木さんと中村さんは、痛みを伝える言葉を覚えてください。移動中に傷の状態が悪くなったら、自分で知らせなければなりません」

 

中村は真剣な顔で頷いた。

 

「わかりました」

 

佐々木も、このときは文句を言わなかった。

 

昨日の夜、脚の痛みを職員へ伝えようとしたが、うまく通じなかったことを思い出していた。何度説明しても理解してもらえず、結局、身振りで訴えるしかなかったのである。

 

高梨はさらに、職員からよく使われる短い指示を教えた。

 

立つ。

 

座る。

 

待つ。

 

こちらへ来る。

 

動かない。

 

荷物を持つ。

 

四人に発音させながら、実際の動作と組み合わせて意味を確認していった。

 

昼前になると、加藤が大きく息を吐いた。

 

「疲れた……。こんなに勉強したの、久しぶりなんだけど」

 

中村が苦笑した。

 

「訓練のときより真面目にやってるもんな」

 

「だって、覚えないと困るんでしょ?」

 

加藤はそう言って、高梨の方を見た。

 

高梨は頷いた。

 

「ええ。これからは私が通訳してあげられませんから」

 

吉田は配られた紙を見つめていた。

 

「……先生、これ、持っていってもいいですか?」

 

「職員に確認してみます。持っていけるなら、必要な言葉をまとめてあげます」

 

吉田は少し安心したように笑った。

 

「ありがとうございます」

 

昼食後、四人は国家奴隷省の事務室へ案内された。

 

広い部屋には机が整然と並び、壁際には分厚い台帳を収めた書棚が設けられていた。

 

窓の外には中庭が見え、職員たちが翌日の護送に向けて書類や物資を運んでいた。別の領地から到着した軍警が受付で書類を提出し、国家奴隷省の職員と収容者の引き渡しについて確認している姿も見えた。

 

この派出所では、各領地から送られてきた受刑者を一時的に収容し、中央直轄地の施設へ送り出していた。国家奴隷刑を受けた者が、この地方で労働を命じられることはなかった。

 

室内には数人の職員が待っていた。

 

高梨も通訳として同席した。

 

担当職員は四人を着席させると、机の上に一冊の書類を広げた。

 

「これから、国家奴隷としての登録と、今後の処遇について説明します」

 

高梨が日本語へ訳した。

 

佐々木が顔をしかめた。

 

「登録って何だよ。もう裁判は終わったんだろ」

 

「裁判とは別の手続きです」

 

高梨は答えた。

 

「これからは軍人ではなく、国家奴隷として管理されることになるので、そのための登録が必要になります」

 

担当職員は四人の名前と判決記録を照合し、台帳へ記入を始めた。

 

書類には、氏名、年齢、元の所属部隊、健康状態などが記載されている。

 

職員はそれらを一通り確認すると、四人へ目を向けた。

 

「まず、国家奴隷の身分について説明します」

 

高梨が通訳した。

 

「国家奴隷は、帝国政府の管理下に置かれます。居住地、労働内容、移動については国家奴隷省の指示に従わなければなりません」

 

四人は黙って聞いていた。

 

「地方の領地に配置されることはなく、中央政府の直轄地にある収容施設で生活し、指定された労働に従事することになります」

 

高梨はその内容も訳した。

 

中村が顔を上げた。

 

「じゃあ、ベルノで働くんじゃないんですか?」

 

「そうです。ここは移送までの一時収容施設です」

 

高梨が答えると、中村は落胆したように肩を落とした。

 

ベルノの街には、同じ日本から召喚された兵士たちがいる。

 

しかし、これから自分たちが送られる場所には、知り合いなど誰もいないかもしれなかった。

 

担当職員は説明を続けた。

 

「また、国家奴隷刑には原則として解放の制度がありません。今後は自由民としての権利を失い、政府が指定する施設で生活することになります」

 

中村が顔を上げた。

 

「……ずっと、ですか?」

 

高梨は職員へ確認した。

 

「刑の執行に期限は設けられていません」

 

職員が答えた。

 

高梨はその言葉を日本語へ訳した。

 

「原則として、一生です」

 

中村は俯いた。

 

加藤も何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。

 

担当職員は次の書類を取り出した。

 

「続いて、身体管理について説明します」

 

高梨がその言葉を訳すと、四人は顔を上げた。

 

「身体管理?」

 

加藤が尋ねた。

 

担当職員は、特に声の調子を変えることなく続けた。

 

「男性の国家奴隷については、移送先施設で去勢処置が施されます。処置は医官の管理下で行われ、健康状態に問題がある場合は、医官の判断によって実施時期が調整されます」

 

高梨は一瞬だけ言葉を止めた。

 

そして、内容を省略せずに訳した。

 

「男性は、移送先の施設で去勢されます。二人は脚の傷があるので、医官が状態を確認してからになるそうです」

 

佐々木は眉をひそめた。

 

「……は?」

 

中村も顔を上げた。

 

「去勢って……何ですか?」

 

高梨は二人を見た。

 

「生殖能力を失わせる処置です」

 

しばらく、誰も口を開かなかった。

 

最初に声を上げたのは佐々木だった。

 

「ちょっと待てよ! そんな話、聞いてねえぞ!」

 

高梨がその発言を通訳すると、職員は書類の該当箇所へ目を落とした。

 

「国家奴隷省の規則に定められた処置です。男性の国家奴隷には、原則として実施されます」

 

「ふざけんなよ! 勝手にそんなことしていいのかよ!」

 

佐々木は立ち上がろうとしたが、右脚に痛みが走り、椅子へ座り直した。

 

隣にいた中村も青ざめていた。

 

「……本当に、やるんですか?」

 

高梨は職員へ確認した。

 

返ってきた答えを、そのまま伝えた。

 

「そうです。本人の希望で拒否することはできません」

 

中村は椅子にもたれ、両手で顔を覆った。

 

軍事法廷で死刑を言い渡されたときも、二人は大きな衝撃を受けた。しかし、死刑が減じられ、国家奴隷刑になったと聞いたときには、少なくとも生きていられると安堵していた。

 

その後に何が待っているのか、具体的には考えていなかったのである。

 

佐々木は何か言おうとしたが、口を開いたまま言葉を失った。

 

担当職員は書類をめくり、説明を続けた。

 

「次に、女性の国家奴隷についてです」

 

加藤と吉田が顔を上げた。

 

「女性については、移送先施設で医官による健康状態の確認を行います。その後、国家の人口政策に基づき、本人の意思にかかわらず、器具を用いた処置によって妊娠が義務づけられます」

 

高梨は職員の顔を見た。

 

職員は、四人に説明が伝わるのを待っている。

 

高梨は加藤と吉田へ向き直った。

 

「女性は、施設に到着して健康診断を受けた後、専用の器具を使った処置で妊娠させられます。本人が望まなくても、拒否することはできません」

 

加藤は一瞬、何を言われたのかわからない様子だった。

 

「……え?」

 

吉田も高梨を見つめていた。

 

「妊娠……?」

 

高梨は頷いた。

 

「そうです」

 

「ちょっと待ってよ!」

 

加藤が声を上げた。

 

「あたしたち、そんなことまでしなきゃならないの?」

 

担当職員は高梨の通訳を聞くと、書類の該当箇所を示した。

 

「国家奴隷省の制度です。本人の意思によって免除されるものではありません」

 

高梨はその言葉を訳した。

 

加藤は顔をしかめた。

 

「そんなの嫌に決まってるじゃん! 何であたしたちが子供を産まなきゃならないのよ!」

 

吉田も震える声で尋ねた。

 

「……先生、本当なんですか?」

 

高梨は吉田を見た。

 

「ええ。国家奴隷省の制度として定められています」

 

吉田は両手を膝の上で握りしめた。

 

担当職員は、四人の反応を待ってから説明を続けた。

 

「なお、国家奴隷から生まれた子供は奴隷とはなりません。出産後は国家育成院が引き取り、自由民として養育されます」

 

高梨がその言葉を訳した。

 

加藤は顔を上げた。

 

「……子供は?」

 

「国家育成院で育てられます」

 

「じゃあ、自分で育てることもできないの?」

 

高梨は職員に確認した。

 

そして、首を横に振った。

 

「国家が引き取って育てる制度です。母親が自由に引き取ることはできません」

 

加藤は口を閉じた。

 

吉田は俯いたまま動かなかった。

 

窓の外からは、職員たちが荷物を運ぶ声が聞こえていた。別の机では事務員が書類を整理しており、紙をめくる乾いた音が響いている。

 

四人にとっては、昨日まで想像もしていなかった話だった。

 

しかし、目の前の職員たちは、決められた行政手続きを進めているだけだった。

 

担当職員は説明が伝わったことを確認すると、次の書類を取り出した。

 

「身体管理に関する説明は以上です。具体的な日程については、移送先施設で通知されます」

 

高梨はその言葉を訳した。

 

しかし、四人から返事はなかった。

 

その後、国家奴隷としての登録手続きが進められた。

 

担当職員は台帳を確認し、四人それぞれに管理番号を割り当てた。そして、壁際の棚から小さな箱を四つ取り出した。

 

箱の中には、金属製の首輪が収められていた。

 

表面は滑らかに加工され、正面には数字と文字が刻まれている。内側には薄い当て材が取り付けられ、後部には専用の器具で固定する金具が設けられていた。

 

装飾品ではなく、身分を識別するための器具だった。

 

職員は首輪について説明した。

 

原則として常時装着すること。

 

本人が勝手に取り外してはならないこと。

 

故意の破損は重大な違反として処罰されること。

 

高梨は一つずつ日本語へ訳した。

 

しかし、四人はほとんど反応しなかった。

 

最初に佐々木が呼ばれた。

 

職員が登録番号を読み上げ、別の職員が首輪に刻まれた番号を確認する。

 

佐々木は言われるままに椅子へ座り、首輪を装着された。

 

固定具が閉じられる小さな音が、静かな事務室に響いた。

 

佐々木は首元へ手を伸ばした。

 

指先に触れたのは冷たい金属だった。

 

以前の佐々木なら、ここで大声を上げていただろう。しかし、今は何も言わなかった。

 

次に中村が呼ばれ、同じように首輪を装着された。

 

中村はしばらく首元を触っていたが、やがて手を下ろした。

 

加藤も職員の前に立ち、首輪を装着された。

 

最後に吉田が呼ばれた。

 

職員は書類を確認し、首輪を取り出した。

 

高梨が登録番号を読み上げる。

 

「吉田麻衣。登録番号、HF8501」

 

吉田はその番号を小さく繰り返した。

 

「……HF8501」

 

職員が首輪を装着した。

 

金具が閉じられると、吉田はゆっくりと首元へ手を伸ばした。

 

指先で金属の表面をなぞる。

 

そこには、今読み上げられた番号が刻まれていた。

 

「先生……」

 

「何?」

 

「これからは、名前じゃなくて番号で呼ばれるんですか?」

 

高梨は職員の説明を確認したうえで答えた。

 

「国家奴隷省の記録や管理では、その番号が使われます。日常でも番号で呼ばれることが多くなると思います」

 

吉田は俯いた。

 

「……そうですか」

 

四人の登録が完了すると、職員は台帳に記入し、首輪の装着状況と番号に間違いがないことを確認した。

 

国家奴隷としての登録は、これで終わりだった。

 

夕方、四人は再び授業に使っていた部屋へ集められた。

 

高梨は残りの時間を使い、帝国共通語の復習を続けるつもりだったが、四人とも昼間の説明が頭から離れない様子だった。

 

机の上には練習用の紙が広げられていた。しかし、誰も積極的に声を出そうとせず、窓の外を眺めたり、自分の首元に触れたりしていた。

 

外では夕日が中庭の石畳を赤く染め、建物の間には長い影が伸び始めていた。遠くから荷車の音が聞こえ、廊下では職員たちが仕事を終える準備をしている。

 

やがて、加藤が口を開いた。

 

「……ねえ、高梨教官」

 

「何?」

 

「さっきの話、本当に全部決まってるんですか?」

 

高梨は頷いた。

 

「ええ。国家奴隷省の職員が説明したとおりです」

 

「……何とかならないんですか?」

 

「私には、どうすることもできません」

 

高梨は静かに答えた。

 

「私は通訳として来ています。制度を変更する権限はありません」

 

加藤は唇を噛んだ。

 

「……そうですか」

 

中村が顔を上げた。

 

「高梨教官」

 

「はい」

 

「俺ら、あのとき逃げなきゃ……」

 

中村は途中で言葉を止めた。

 

高梨は何も言わずに待っていた。

 

「……こんなことには、ならなかったんですよね」

 

その言葉に、佐々木も顔を上げた。

 

やがて、高梨が頷いた。

 

「そうね。少なくとも、今ここにいることはなかったでしょう」

 

中村は俯いた。

 

佐々木はしばらく黙っていたが、やがて小さく呟いた。

 

「……俺が逃げようって言ったんだよな」

 

加藤が顔を向けた。

 

「健……」

 

「おまえらも賛成したけど、最初に言い出したのは俺だ」

 

佐々木は自分の脚を見下ろした。

 

「街まで行けば何とかなるって……」

 

その先は続かなかった。

 

四人は、山の尾根からベルノの街を見つけたときのことを思い出していた。

 

あのときは、誰もが嬉しそうに笑っていた。

 

もう軍隊には戻らなくていい。

 

街へ行けば自由になれる。

 

そんなことを話しながら、沢の近くでのんびり昼食を取っていた。

 

自分たちが軍事法廷で死刑を言い渡されるなど、考えてもいなかった。

 

まして、その先に今聞かされたような処遇が待っているとは、想像すらしていなかった。

 

吉田が小さく声を出した。

 

「……帰りたい」

 

加藤が顔を向けた。

 

吉田は俯いたまま続けた。

 

「……日本に帰りたいよ……」

 

誰も答えられなかった。

 

高梨も何も言わなかった。

 

この世界に召喚された人間が、日本へ戻る方法は知られていない。そして目の前の四人は、すでに国家奴隷として登録されている。

 

高梨はしばらく待った。

 

やがて、机の上に置かれた練習用の紙を手に取った。

 

「……もう少しだけ、勉強しましょう」

 

四人が顔を上げた。

 

「向こうでは、私が通訳することはできません。だから、少しでも言葉を覚えておいてほしいの」

 

高梨は黒板に短い文章を書いた。

 

「助けてください」

 

そして、その下に帝国共通語を記した。

 

「この言葉は、必ず覚えてください」

 

四人は黙って黒板を見つめていた。

 

高梨はゆっくりと発音した。

 

しばらくして、中村がそれを繰り返した。続いて吉田が声を出し、加藤も少し遅れて発音した。

 

最後に佐々木が、低い声で同じ言葉を繰り返した。

 

高梨は頷いた。

 

「そう。それでいいです」

 

高梨はさらに幾つかの表現を復習させた。相手に話を聞いてもらう言葉、医官を呼んでもらう言葉、自分が理解できないことを伝える言葉。昨日と同じ内容も多かったが、何度も繰り返すうちに、四人の発音は少しずつ正確になっていった。

 

授業が終わる頃には窓の外も暗くなり始め、廊下には夕食を運ぶ職員たちの足音が響いていた。

 

高梨は黒板の文字を消し、四人へ向き直った。

 

「今日はここまでです。明日の朝は護送の準備があるから、これで最後の授業になります」

 

吉田が顔を上げた。

 

「……最後なんですね」

 

「ええ」

 

高梨は頷いた。

 

「短い間だったけれど、みんな、よく頑張りました」

 

その言葉を聞いて、四人は何とも言えない表情になった。

 

新兵訓練の頃なら、授業が終わることを喜んでいただろう。しかし、今は授業が終わるということが、高梨と別れることを意味している。

 

それが、四人には寂しく感じられた。

 

高梨は四人を収容室へ送り届けた後、国家奴隷省の事務室を訪れた。

 

机の上には、翌日の護送に関する書類が置かれている。四人はベルノ駅から鉄道で帝都へ運ばれ、中央の収容施設で今後の配属手続きを受ける予定だった。

 

高梨は護送担当の職員へ、一つ頼み事をした。

 

「四人に、簡単な帝国共通語のメモを持たせたいのですが」

 

職員は顔を上げた。

 

「メモですか?」

 

「はい。日本語と帝国共通語を併記したものです。護送中に必要になりそうな言葉だけを書いておきたいのです」

 

職員は少し考えた。

 

「内容を確認させてもらえますか?」

 

高梨は鞄から準備していた紙を取り出した。

 

そこには、短い文章が整然と並べられていた。水を求める言葉、医官を呼んでもらう言葉、身体の痛みを伝える言葉、相手の話が理解できないときに使う言葉などが、日本語と帝国共通語で併記されている。

 

それぞれの文章には、日本語で読み方も添えられていた。

 

職員は一通り目を通した。

 

「なるほど。確かに、これなら役に立つでしょうね」

 

「四人とも、まだ十分に帝国共通語を話せません。特に負傷している二人は、身体の状態を伝えられなければ困ると思います」

 

職員は頷いた。

 

「わかりました。護送中の所持を許可しましょう。到着後は、そちらの職員が内容を確認することになります」

 

「ありがとうございます」

 

高梨は小さく頭を下げた。

 

そして、四人分のメモを鞄へしまった。

 

三か月教えても十分に身につかなかった帝国共通語を、わずか二日で覚えさせることなどできない。

 

それでも、この紙があれば、自分の意思を伝える手がかりにはなるだろう。

 

高梨はそう考えていた。

 

護送の日の朝、ベルノには冷たい霧が出ていた。

 

街の屋根は薄い白色に包まれ、遠くの建物は輪郭がぼやけて見える。通りにはまだ人影が少なく、荷物を積んだ馬車が石畳を踏む音だけが静かに響いていた。

 

エルディア地方中央政府派出所では、早朝から職員たちが護送の準備を進めていた。

 

正面の行政棟はまだ窓口を開いていなかったが、敷地の奥にある国家奴隷省の収容区画では、すでに多くの職員が動き始めている。

 

職員たちは収容者の人数と登録番号を照合し、護送書類や医官の診断書を確認していた。負傷者については移動中の注意事項も引き継がれ、護送担当者が必要な補助具を準備している。

 

高梨が収容区画を訪れると、四人はすでに出発の準備を終えていた。

 

佐々木と中村は、まだ長い距離を歩けないため車椅子に乗っていた。加藤と吉田は、その後ろに並んでいる。

 

四人とも国家奴隷省から支給された簡素な衣服を着ており、首元には金属製の首輪が取り付けられていた。

 

高梨は四人の前へ歩み寄った。

 

「おはようございます」

 

中村が顔を上げた。

 

「高梨教官……」

 

加藤も口を開いた。

 

「今日、出発なんですよね」

 

「ええ。これからベルノ駅へ向かいます。まず帝都まで鉄道で移動する予定です」

 

高梨は四人を見渡した。

 

「帝都に到着してからは、国家奴隷省の中央施設で手続きが行われます。そこから先は、職員の指示に従ってください」

 

佐々木が顔をしかめた。

 

「帝都って、結構遠いんだろ?」

 

「ええ。ベルノからは五百キロほどあります」

 

「……そんなにかよ」

 

中村も少し驚いた顔をした。

 

吉田が小さく尋ねた。

 

「先生……四人とも一緒に行けるんですか?」

 

「帝都までは一緒です。ただ、その先は別々になる可能性があります」

 

吉田は俯いた。

 

加藤も何も言わなかった。

 

高梨は鞄から四枚の紙を取り出した。

 

「これを渡しておきます」

 

四人が顔を上げた。

 

「帝国共通語のメモです。日本語と帝国共通語を並べて書いてあります」

 

中村が紙を受け取った。

 

「……ありがとうございます」

 

「国家奴隷省の許可を取ってあります。護送中は持っていて構いません」

 

加藤も紙を受け取った。

 

「これ、先生が書いたんですか?」

 

「ええ。二日間で覚えた言葉を中心にまとめました」

 

吉田は紙に書かれた文章を、一つずつ目で追った。

 

何度も練習した言葉が並んでいる。

 

「……ありがとうございます」

 

高梨は四人を見渡した。

 

「向こうへ行ったら、わからないことがたくさんあると思います。そのときは、まず自分が何を言われているのかわからないことを伝えてください」

 

四人は黙って聞いていた。

 

「それから、身体の具合が悪いときは我慢しないこと。特に佐々木さんと中村さんは、まだ脚の傷が治っていません」

 

中村は頷いた。

 

「はい」

 

佐々木も小さく答えた。

 

「……わかったよ」

 

「首輪についても、昨日説明されたことを守ってください。何かあれば、自分でどうにかしようとせず、職員に伝えること」

 

加藤が首元へ手を伸ばし、ゆっくりと頷いた。

 

高梨は少し表情を和らげた。

 

「それから、覚えた言葉を忘れないでくださいね」

 

中村が苦笑した。

 

「頑張ります」

 

加藤も小さく笑った。

 

「こんなところでも勉強なんですね」

 

「そうよ」

 

高梨も微笑んだ。

 

「でも、これからは試験のためじゃないから」

 

加藤は何も答えなかった。

 

そのとき、職員が近づいてきた。

 

「高梨伍長。出発の準備が整いました」

 

「わかりました」

 

高梨は四人へ向き直った。

 

「そろそろ時間ね」

 

中村が顔を上げた。

 

「……高梨教官」

 

「何?」

 

「三日間、ありがとうございました」

 

高梨は小さく頷いた。

 

「ええ」

 

加藤も頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

吉田は涙を浮かべていた。

 

「先生……本当にありがとうございました」

 

高梨は吉田の肩へそっと手を置いた。

 

「頑張ってね」

 

最後に佐々木が口を開いた。

 

「……高梨」

 

「何ですか?」

 

佐々木は少し言葉に詰まった。

 

そして、顔を背けるようにしながら言った。

 

「……世話になったな」

 

高梨は一瞬、驚いたような表情になった。

 

新兵訓練中、佐々木から礼を言われた記憶などほとんどなかった。いつも反抗的で、何を教えても文句を言い、軍隊の規則を馬鹿にしていた生徒だった。

 

その佐々木が、今は小さな声で礼を言っている。

 

高梨は穏やかに頷いた。

 

「ええ」

 

そして、四人へ言った。

 

「……生きてなよ」

 

それ以上は何も言わなかった。

 

国家奴隷省の収容区画を出ると、四人は職員に付き添われ、中央政府派出所の正門へ向かった。

 

石畳の通路は冷え切っており、建物の陰にはまだ霜が残っていた。行政棟ではすでに窓口業務が始まり、書類を抱えた領民や商人、各領地から訪れた役人たちが忙しそうに行き交っている。

 

正門の脇には、二頭の馬に牽かれる護送馬車が待っていた。

 

車体は頑丈な木製で、側面には小さな窓が設けられている。窓には鉄格子が取り付けられ、後部には外側から施錠する扉があった。

 

護送職員は四人の登録番号を確認すると、順番に馬車へ乗るよう指示した。

 

最初に加藤と吉田が乗り込んだ。

 

車内には向かい合わせの長椅子が設けられていた。座席の下には小さな荷物を置く場所があり、床には滑り止めの板が張られている。

 

二人が奥へ座ると、続いて佐々木と中村が職員の補助を受けて乗せられた。

 

「いてて……もう少しゆっくりやってくれよ」

 

佐々木が顔をしかめた。

 

職員は言葉の意味こそ理解できなかったが、負傷した脚を見て慎重に身体を支えた。中村も向かい側へ腰を下ろし、脚をできるだけ楽な位置へ伸ばした。

 

四人が乗り終わると、護送担当の職員が人数と登録番号を確認した。

 

高梨は馬車の後部から少し離れた場所に立っていた。

 

吉田が窓から顔を向けた。

 

「……先生!」

 

高梨は顔を上げた。

 

吉田が小さく手を振った。

 

加藤もそれに気づき、同じように手を振る。

 

中村も顔を向け、佐々木は座席に腰掛けたまま一度だけ高梨を見た。

 

高梨は軽く手を上げた。

 

そして、四人の姿を静かに見つめていた。

 

護送職員が馬車の扉を閉めた。

 

重い木製の扉が閉じられ、外側から金属の錠が掛けられる音が響いた。

 

御者が手綱を取り、馬に出発を促す。

 

車輪がゆっくりと回り始めた。

 

四人を乗せた護送馬車は、中央政府派出所の正門を抜け、ベルノの街へと出ていった。

 

高梨はその場に立ち、馬車の姿が通りの向こうへ消えるまで見送って

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