ベルノ伯爵邸
第1節 伯爵家の朝
十二月のベルノは、朝の冷え込みが厳しくなっていた。
伯爵邸の庭には薄く霜が降り、葉を落とした木々が冬の空に枝を伸ばしている。まだ日が昇って間もないため、屋敷の廊下には夜の冷気が残っていた。
オリヴィエ・フォン・ベルノは、いつもの時間に目を覚ました。
寝台から起き上がると、手早く寝具を整え、洗面を済ませる。衣服を身につけ、鏡の前で髪を整えるまで、使用人を呼ぶことはなかった。
伯爵の寝室としては、驚くほど質素な部屋だった。
大きな寝台と衣装棚、机、椅子。家具はいずれも実用的なもので、貴族の寝室にありがちな豪華な装飾品はほとんど見当たらない。
オリヴィエにとって、自分の身支度を自分でするのは当たり前のことだった。
十六歳で帝国士官学校に入学し、六年間の教育を受けた。その後は中央軍に配属され、司令部付き士官として三年間勤務した。
中央軍では中尉まで昇進している。
そして今年八月、父の負傷によりベルノ伯爵家を継ぎ、同時にベルノ連隊長となった。
現在、二十五歳である。
帝国貴族には、各家から最低一人を士官学校へ送る義務があった。また、領主には保有する軍隊の規模に応じた階級が与えられる。
騎士爵が率いる中隊なら大尉、伯爵が率いる連隊なら大佐、旅団を率いる場合は准将となる。
ただし、爵位を継げば軍人としての能力まで備わるわけではない。
オリヴィエ自身、そのことは十分理解していた。
弟のユルクは十九歳で、今も士官学校に在学中である。
オリヴィエは鏡の前で、背中まで伸びるピンクブロンドの髪を整えた。
「……よし」
服装を確かめると、部屋の扉を開けた。
廊下にはクララが待っていた。
長い黒髪に眼鏡をかけた、背の高い女性だった。整った顔立ちと落ち着いた物腰は、メイド長として屋敷を取り仕切る立場にふさわしいものだった。
クララはヴァルターの三人の妻の一人でもある。
「おはようございます、オリヴィエ様」
「おはよう、クララ」
「よくお休みになれましたか?」
「ええ。ぐっすり眠れたわ」
オリヴィエが廊下を歩き始めると、クララもその後に続いた。
「アウレリアは?」
「すでに食堂にいらっしゃいます。ヴァルターもご一緒です」
「ヴァルターも?」
オリヴィエは足を止め、クララを振り返った。
「昨日の件でからかいに来たのでしょう」
「そんなことないと思いますけど」
クララは穏やかに微笑んだ。
「どうせ筒抜けなんでしょ。あなたたち家族だし」
「まあ、お話はいたしました」
「ほらね」
オリヴィエは呆れたようにため息をついた。
クララは何も言わず、笑顔のまま食堂の扉を開けた。
食堂には、焼きたてのパンとコーヒーの香りが漂っていた。
窓際のテーブルでは、アウレリアとヴァルターがすでに朝食を取っている。
アウレリアは四十二歳。黒髪を長く伸ばした、すらりとした女性だった。
オリヴィエとは士官学校時代からの付き合いである。
入学以来、六年間の士官学校生活と三年間の中央軍勤務を共にしてきた。今では軍務だけでなく、伯爵としての仕事でも欠かすことのできない側近となっている。
「おはようございます、オリヴィエ様」
アウレリアが顔を上げた。
「おはよう、アウレリア」
「よう、お嬢。よく眠れたか?」
ヴァルターはコーヒーカップを片手に、いつもの調子で声をかけてきた。
オリヴィエは彼の向かいに腰を下ろした。
「ええ、おかげさまで。それで、朝から何の用なの?」
「何だよ。俺が朝飯を食いに来ちゃいけねえのか?」
「別にいいけど、何か言いたそうな顔をしてるじゃない」
ヴァルターはにやりと笑った。
「いやあ、昨日は立派だったそうじゃねえか」
「……やっぱり」
オリヴィエは額に手を当てた。
昨日、ベルノ連隊では脱走した四人の日本人兵士に対する軍事法廷が開かれていた。
脱走は帝国軍法における重大な犯罪である。
死刑もあり得る事件だったが、オリヴィエは軍法に認められた範囲で、四人に終身の国家奴隷刑を言い渡した。
「何が言いたいのよ」
「いや、お嬢らしい判断だったと思ってな」
「私は法に従って減刑権を行使しただけよ」
「そうだな。軍法を曲げたわけじゃねえ」
ヴァルターはコーヒーを一口飲んだ。
「だが、あの四人にとっちゃ命拾いだろうな」
「終身の国家奴隷刑なのよ。決して軽い処分じゃないわ」
「わかってるさ。だから、いい判断だったと思ってるんだよ」
オリヴィエは少し拍子抜けした。
「……本当に?」
「ああ」
「だったら最初からそう言いなさいよ」
「それじゃ面白くねえだろ」
ヴァルターが笑うと、アウレリアも小さく吹き出した。
「まったく、二人とも」
オリヴィエはむっとした顔でパンに手を伸ばした。
クララは三人のやり取りを聞きながら、温かい料理をテーブルに並べていく。
軍事法廷の話はそれで終わった。
朝食が進むにつれ、食堂にはいつもの穏やかな空気が戻ってきた。
「そういえば、クララ」
オリヴィエはパンを置いた。
「あなたの弟さん、今は領都役所に勤めているんだったわね?」
「はい。クライスのことでしょうか?」
「ええ。大学を卒業して、行政の仕事をしているって聞いたけど」
「現在は住民課に勤めております」
ベルノ領都役所は、旧エルディア王国の王宮を利用した行政機関だった。
ベルノ伯爵領の民政を担当し、住民登録や租税、公共事業など、領地の運営に関わる実務を取り扱っている。
「仕事はできるの?」
「弟のことですので、私から評価するのは難しいのですが……」
クララは少し考えた。
「真面目で、仕事もよくできると思います」
「そう。じゃあ、うちの家令をやってもらおうかしら」
ヴァルターがコーヒーカップを置いた。
「……お嬢、ちょっと待て」
「何よ?」
「いくら何でも、身内で固めすぎじゃねえか?」
オリヴィエは不思議そうに首を傾げた。
「どういうこと?」
「俺は少佐で、アウレリアは大尉。クララはメイド長だろ。そこへクララの弟まで家令にするっていうのか?」
「そうよ。何か問題でも?」
「お嬢、こうも身内で固めるのはどうなんですかね?」
ヴァルターは少し大げさに、改まった口調を作った。
「あんたたちに文句は言わせないわ。私は伯爵よ」
オリヴィエは即答した。
「そういう問題じゃねえだろ」
ヴァルターが呆れたように頭をかく。
隣で聞いていたアウレリアが、静かにカップを置いた。
「オリヴィエ様。家令でしたら、譜代家臣から登用するという方法もございますよ」
「譜代家臣ねえ……」
オリヴィエは少し考えた。
ベルノ伯爵家には、代々仕えてきた家臣たちがいる。
領都役所で行政を担当する者もいれば、軍人としてベルノ連隊に勤務する者もいた。現在の歩兵中隊長四名のうち二名も、そうした譜代家臣の出身である。
「でも、民政に詳しい人たちは、もう役所で重要な仕事をしているんでしょう?」
「はい。主要な役職には譜代家臣の方々が就いております」
「だったら、そこから引き抜くのも面倒じゃない」
オリヴィエはコーヒーを飲んだ。
「それに、家令には領都役所との連絡も任せたいの。役所の仕事を知っている人間なら、話も早いでしょう?」
「理屈はわかるがな」
ヴァルターはまだ納得していない様子だった。
「譜代の連中がどう思うかってことも考えろよ」
「めんどくさいのよ、貴族は」
アウレリアが苦笑した。
「オリヴィエ様も貴族なのですが」
「わかってるわよ。しかも伯爵でしょう? だから面倒なのよ」
クララが思わず笑った。
オリヴィエは彼女に向き直った。
「とにかく、一度クライスに会ってみたいわ。今日、時間を作れるか聞いてもらえる?」
「かしこまりました。弟に連絡いたします」
「お願いね」
ヴァルターは肩をすくめた。
「まったく、お嬢は昔からこうだからな」
「何よ?」
「一度決めたら、人の話を聞かねえ」
「ちゃんと聞いてるじゃない。聞いたうえで決めてるのよ」
「それが始末悪いんだよ」
アウレリアが声を立てて笑った。
食事が終わりに近づいた頃、ヴァルターが椅子の背にもたれた。
「しかし、お嬢は外面だけはいいよな」
「……どういう意味よ?」
「いや、連隊の連中がお嬢をどう思ってるか知ってるか?」
「さあ?」
「可憐でお優しい伯爵様、だそうだ」
ヴァルターは楽しそうに笑った。
オリヴィエは眉をひそめた。
「何よ。それのどこがおかしいの?」
「先日の砲兵中隊の訓練を思い出してな」
ヴァルターは、数日前に見た光景を話し始めた。
砲兵中隊では、百二十ミリ砲の陣地変換訓練が行われていた。
牽引車で砲を移動させ、新たな陣地に展開して射撃準備を整える。敵の対砲兵射撃を避けるためにも、重要な訓練だった。
その様子をオリヴィエが視察したのである。
「お嬢、あの時はずいぶんにこやかだったよな」
「そうだったかしら?」
「訓練を褒めてたじゃねえか。砲兵たちも喜んでたぜ」
「よく訓練されていたもの。当然でしょう?」
「で、その後だ。陣地変換にかかる時間をもっと短縮しろって、笑顔で要求してたよな」
オリヴィエは平然と答えた。
「できると思ったから言ったのよ」
「まあ、そうだろうな」
ヴァルターはうなずいた。
「問題は、あの笑顔で要求する内容だ。砲兵たち、最初は褒められて喜んでたのに、目標時間を聞いた途端、顔が引きつってたぞ」
「そんなに無茶なことは言ってないわよ」
オリヴィエは少し不満そうだった。
「敵に位置を知られた後、いつまでも同じ場所にいたら危険でしょう。できるだけ早く移動できるように訓練するのは当然じゃない」
「理屈は正しいんだよ」
ヴァルターは笑った。
「だから余計に面白いんだ。お嬢は本気でできると思ってるからな」
「実際、訓練すれば短縮できるはずよ」
オリヴィエは言い切った。
ヴァルターはコーヒーカップを置き、アウレリアに目を向けた。
「そのうち歩兵中隊長たちも知ることになるだろうな」
「何を?」
「お嬢の本性だよ」
「何よ、本性って!」
「今はまだ、若くて優しい伯爵様だと思ってる連中が多いからな」
ヴァルターは肩を揺らして笑った。
オリヴィエは呆れたように腕を組んだ。
「貴族なら外面を良くするのは当たり前じゃない。私は誰も騙してないわよ。失礼しちゃうわ」
ヴァルターは肩を揺らして笑った。
向かいに座るアウレリアも口元を緩めた。
「ですが、オリヴィエ様は中央軍でも評判がよかったですよ」
「ほら、ご覧なさい」
オリヴィエは得意そうに答えた。
「上官への報告も丁寧でしたし、会議での発言も的確でした。礼儀正しく、優秀な若い士官だと評価されていましたね」
「そうでしょう?」
「ただ、その後で私と二人になると、ずいぶん文句をおっしゃっていましたけれど」
「アウレリア!」
ヴァルターが大笑いした。
「はっはっは! やっぱりそうだったのか!」
「士官学校の頃から変わっていませんでしたから」
アウレリアも楽しそうだった。
「もう、二人とも!」
オリヴィエは頬を膨らませた。
クララは笑みを浮かべたまま、空になったカップにコーヒーを注いだ。
朝の食堂には、気心の知れた者たちの笑い声が響いていた。
窓から差し込む日差しが少しずつ強くなり、食堂の床を明るく照らし始めた。
ヴァルターが新しいコーヒーを飲みながら、思い出したように口を開いた。
「そういえば、お嬢。マルティナが今晩戻ってくるそうだ」
オリヴィエの表情が変わった。
「マルティナが?」
「ああ。昨日、連絡が来た。帝都から今日の夕方には帰れるらしい」
「ついに来たわね」
アウレリアもうなずいた。
「今回の派遣の件でしょうね」
マルティナはヴァルターの妻の一人であり、帝都との連絡を担当する士官だった。
軍務省との連絡や各種調整のため、帝都へ出張することも多い。
ベルノ連隊では、翌年の派遣に関する知らせが届くことを予想していた。
しかし、派遣先や具体的な日程については、まだ何も知らされていなかった。
「何か聞いてる?」
オリヴィエが尋ねた。
「いや。帰ってから報告するってことだけだ」
「そう。じゃあ、今晩ゆっくり聞きましょう」
オリヴィエはクララに目を向けた。
「クララ、今晩はマルティナもこちらで夕食を取れるようにしてちょうだい」
「かしこまりました」
少し考えてから、オリヴィエは続けた。
「そうだ。せっかくだからエルザも呼びましょう。娘たちも全員連れてきていいわよ」
ヴァルターが顔を上げた。
「おいおい、お嬢。全員か?」
「ええ、そうよ」
「嫁が三人、娘が五人だぞ?」
「知ってるわよ」
「娘たちはまだ小さいんだ。全員連れてきたら大騒ぎになるぜ」
「いいじゃない。にぎやかな方が楽しいわ」
オリヴィエは嬉しそうだった。
ヴァルターは困った顔でアウレリアを見たが、彼女は笑っているだけだった。
「俺の家は女ばっかりなんだぞ。男は俺一人なんだからな」
「だから何よ?」
「誰が娘たちの面倒を見ると思ってるんだ?」
「あなたでしょう?」
オリヴィエは当然のように答えた。
アウレリアが吹き出した。
「ふふっ。ヴァルターも大変ですね」
「笑い事じゃねえよ」
「クララもエルザもマルティナもいるじゃない。みんなで食事するんだから、何とかなるわよ」
オリヴィエは楽しそうに笑った。
「それに、たまには家族そろって夕食を取るのもいいでしょう?」
ヴァルターはしばらく考えた末、諦めたように肩をすくめた。
「……わかったよ。どうなっても知らねえからな」
「大丈夫よ。楽しみにしてるわ」
クララも嬉しそうに微笑んだ。
「では、夕食の準備を進めておきます」
「お願いね」
食事を終えたオリヴィエは、残っていたコーヒーを飲み干した。
伯爵に就任してからというもの、毎日のように新しい仕事が増えている。
連隊長としての軍務だけではない。領地の行政、伯爵家の運営、譜代家臣との付き合いまで、これまで経験したことのない仕事が次々と舞い込んでくる。
それでも、こうして気心の知れた者たちと朝食を囲む時間は、嫌いではなかった。
オリヴィエは席を立った。
「さて、今日も忙しくなりそうね」
アウレリアも立ち上がった。
「はい。まずは午前中の書類を片づけましょう」
「……やっぱり、そうなるわよね」
オリヴィエは苦笑した。
その横で、ヴァルターはまだ今晩の夕食のことを気にしているらしく、クララと娘たちの話をしていた。
食堂には、朝の明るい日差しが差し込んでいた。
ベルノ伯爵家の、いつもと変わらない朝だった。