ベルノ伯爵邸
昼過ぎ、ベルノ伯爵邸。
冬の淡い日差しが執務室の窓から差し込み、机の上に積まれた書類を照らしていた。
オリヴィエは午前中に届いた報告書を片づけ、最後の一枚に署名をしていた。
伯爵に就任してからというもの、軍務とは別に領地や伯爵家に関する書類が増えていた。領地の行政は領都役所が担当しているとはいえ、伯爵本人の判断を必要とする案件も少なくない。
「……これで午前中の分は終わりね」
オリヴィエがペンを置くと、隣で書類を整理していたアウレリアが顔を上げた。
「お疲れさまでした。午後の分も届いておりますが」
「今は聞きたくないわ」
オリヴィエは椅子の背にもたれた。
アウレリアが微笑んだところで、扉を軽く叩く音がした。
「どうぞ」
「失礼いたします」
クララが一人の男を伴って入ってきた。
男は三十代前半ほどで、中肉中背。背丈は姉のクララよりも少し低かった。髪型も服装も地味で、役所の事務職員と聞けば誰もが納得するような風貌だった。
ただし、室内に入ってきた足取りに迷いはなかった。
「オリヴィエ様、弟のクライスです」
クララが紹介すると、男は一歩前に出て丁寧に頭を下げた。
「お初にお目にかかります。伯爵様、クライスと申します」
「よろしく、クライス。どうぞ座って」
オリヴィエは執務机から離れ、応接用の椅子を勧めた。
クララが紅茶を用意する間、クライスは背筋を伸ばして座っていた。多少緊張しているようだったが、落ち着いた様子で伯爵の言葉を待っている。
「クララから事情は聞いてる?」
「はい。私を家令にとのお話だと聞いております」
「そう。ずいぶん急な話で驚いたでしょう?」
「正直に申し上げれば、驚きました。しかし、大変光栄なお話だと思っております」
クライスは大学を卒業し、現在はベルノ領都役所の住民課で働いていた。
領都役所は、旧エルディア王国の王宮を転用した建物に置かれている。かつて王族が暮らした建物では、今では大勢の役人たちが住民登録や租税、公共事業など、領地の行政を取り扱っていた。
クライスは大学で行政学や財務を学び、その学歴によって兵役を免除されていた。役所でも事務処理能力を評価され、人口台帳の管理などを担当している。
もっとも、平民の出身である。
ベルノ伯爵領の行政機関では、主要な役職の多くを伯爵家の譜代家臣やその一族が占めていた。能力によってある程度の昇進はできても、その先となると簡単ではない。
「大学では行政学を学んだのよね?」
「はい。財務についても一通り学んでおります」
「今の仕事は住民課だったかしら」
「はい。人口台帳の管理や各種届出の処理を担当しております」
オリヴィエはうなずいた。
「それなら、領都役所の仕事には詳しいのね」
「自分の担当する業務については、十分理解しているつもりです」
「いいわね」
オリヴィエは紅茶のカップを手に取った。
「単刀直入に聞くけど、うちの家令をやってみる気はある?」
「ぜひ、お引き受けしたいと考えております」
返事は早かった。
オリヴィエは少し驚いたように眉を上げた。
「あら、ずいぶん即答ね。クララから話を聞いたのはいつ?」
「今朝です。姉からお話を聞きまして、急いで参りました」
「仕事は大丈夫だったの?」
「はい。上司に事情を説明して、休暇をいただきました」
クライスは丁寧な口調を崩さなかったが、その表情には期待が浮かんでいた。
伯爵家の家令となれば、屋敷の管理だけでなく、領都役所との連絡や調整にも携わることになる。
領地の行政を知る彼にとって、自分の能力を生かせる仕事だった。
「ところで、あなたには家族がいるんでしょう?」
「はい。妻と子供が一人おります」
「奥さんには相談したの?」
「いえ、まだです。帰宅してから話すつもりでおります」
オリヴィエはカップを置いた。
「それなのに、もう引き受けるつもりなの?」
「はい。このようなお話をいただける機会は、二度とないかもしれませんので」
クライスは迷わず答えた。
「もちろん、家族にはきちんと説明いたします。しかし、私自身はぜひ挑戦したいと考えております」
オリヴィエはしばらく彼を眺めていた。
地味で目立たない風貌とは裏腹に、なかなか思い切りのよい男らしい。
「あなた、見かけによらず野心家なのね」
「……否定はいたしません」
クライスは少し照れたように笑った。
「いいわ。私はそういう人、嫌いじゃないわよ」
オリヴィエも笑った。
隣に座るアウレリアが、手元の書類に目を落とした。
「ただし、クライス。家令は伯爵家の内情を扱う役職です。行政の知識があるだけでは務まりませんよ」
「はい。承知しております」
「領都役所との連絡も重要な仕事になりますが、伯爵家の使用人たちをまとめる必要もあります」
クライスは真剣な表情でうなずいた。
「その点については、姉から学ばせていただきたいと考えております」
クララが静かに紅茶を置いた。
「厳しく指導しますよ」
「……それは覚悟してるよ、姉さん」
姉弟のやり取りに、オリヴィエが笑った。
「それなら安心ね」
オリヴィエは改めてクライスに向き直った。
「でも、家族にはちゃんと相談しなさい。それと、今の仕事を辞めるには手続きが必要でしょう?」
「はい。所長にも正式にお話しする必要がございます」
「こちらからも話を通すわ。まずは家令見習いとして働いてもらいましょう」
「ありがとうございます、伯爵様」
クライスは深々と頭を下げた。
「ただし、クララの弟だからといって特別扱いはしないわよ。仕事ができなければ、それまでだから」
「もちろんです」
「期待してるわ」
オリヴィエは微笑んだ。
話がまとまると、クライスはもう一度丁寧に礼を述べ、クララに案内されて執務室を後にした。
扉が閉まると、オリヴィエは満足そうに椅子の背にもたれた。
「なかなか面白い人ね」
「意欲は十分にあるようですね」
アウレリアが答えた。
「見た目は地味だけど、思ったより野心家みたい」
「伯爵家の家令となれば、本人にとっては大きな出世でしょうから」
「そうね。本人もそれがわかってる。だから即答したのよ」
オリヴィエは机の上に置かれた書類を手に取った。
アウレリアは少し考えてから口を開いた。
「ただ、領都役所との調整は必要ですね。優秀な職員を突然引き抜かれるとなれば、所長も困るでしょう」
「そうね。話はしないといけないわね」
「それに、譜代家臣の方々への説明も必要になるかもしれません」
オリヴィエは顔をしかめた。
「またその話?」
「家令は伯爵家の重要な役職ですから」
「わかってるわよ」
オリヴィエは書類を机に置いた。
「でも、家令は私の家の仕事をする人間よ。誰を雇うかは私が決めるわ」
アウレリアは小さく微笑んだ。
「承知いたしました、伯爵様」
「……何よ、その言い方」
「いえ。いかにもオリヴィエ様らしいと思いまして」
「もう、あなたまで」
オリヴィエは苦笑した。
窓の外では、冬の弱い日差しが伯爵邸の庭を照らしていた。
午後の仕事はまだ残っている。
オリヴィエは再び書類に手を伸ばした。
夕方になると、伯爵邸の食堂はいつになくにぎやかになった。
ヴァルターの家族が招かれていたのである。
ヴァルターには三人の妻と五人の娘がいる。
長女は十四歳のリミネ。マルティナの娘で、母親譲りの落ち着いた雰囲気を持つ純血エルフだった。その妹は十歳。
エルザの娘は九歳と五歳。こちらも純血エルフである。
そして、クララの娘は六歳のハーフエルフだった。
五人の娘たちは、普段とは違う大きな食堂に興味津々だった。
年少の娘たちは椅子に座っては立ち上がり、年長の姉たちに注意されている。
食卓には温かな料理が次々と運ばれ、焼いた肉や野菜の香りが広がっていた。
「だから言っただろ、お嬢。さわがしくなるって」
ヴァルターが苦笑した。
「いいじゃない。子供が大勢いると楽しいわ」
オリヴィエは満足そうだった。
「お父さん、こっちに座って!」
末の娘がヴァルターの袖を引っ張った。
「わかった、わかった。ちょっと待て」
「ほら、ヴァルター。呼ばれてるわよ」
「まったく、どこに座っても誰かに文句を言われる」
その言葉にエルザが笑った。
「普段からもう少し娘たちの相手をしてあげればいいんですよ」
「十分してるだろうが」
「足りないそうですよ」
「誰が言ってるんだ?」
「全員です」
ヴァルターは天井を仰いだ。
オリヴィエとアウレリアが声を立てて笑った。
普段、部下たちを厳しく指導するヴァルター少佐も、家庭ではすっかり娘たちに振り回されていた。
そこへ、玄関の方から人の声が聞こえてきた。
しばらくして食堂の扉が開き、マルティナが姿を現した。
帝都から戻ったばかりだった。
長旅の疲れが多少見えるものの、服装を整え、きちんとした姿勢で室内に入ってくる。
「ただいま戻りました。オリヴィエ様」
マルティナは丁寧に一礼した。
「お帰りなさい、マルティナ。長旅だったでしょう」
「はい。おかげさまで無事に戻ることができました」
彼女は食堂に集まった家族を見渡した。
「本日は私どもの家族までお招きいただき、ありがとうございます」
「いいのよ。たまにはみんなで食事をしましょう」
「ですが、伯爵家のお食事に家族全員でお邪魔することになるとは思っておりませんでしたので……」
マルティナは少し恐縮した様子だった。
連絡将校として帝都との折衝を担当する彼女にとって、オリヴィエは正式な報告を行う相手でもある。
夫のヴァルターが幼い頃からオリヴィエと親しいとはいえ、その立場を忘れることはなかった。
「私が呼んだんだから、気にしないで。今日は仕事の話は後にしましょう」
「ありがとうございます」
ようやくマルティナが表情を緩めた。
「お母さん、お帰りなさい」
リミネが立ち上がり、母親を迎えた。
「ただいま、リミネ。みんなに迷惑をかけていなかった?」
「大丈夫。ちゃんとしてたわ」
その横から十歳の妹が顔を出した。
「お母さん、お土産は?」
「ちゃんとあるわよ。でも、まずはご挨拶でしょう?」
「はーい」
ヴァルターが笑った。
「お前が帰ってきてくれて助かったぜ。俺一人じゃ収拾がつかねえ」
「あなた、エルザもクララもいるでしょう?」
「だから俺の味方がいねえんだよ」
マルティナも思わず笑った。
やがて全員が席に着き、夕食が始まった。
食卓には、子供たちの話し声が絶えなかった。
上の娘たちが学校の話をしているかと思えば、下の娘たちは料理の取り合いで騒いでいる。
クララも今夜ばかりはメイド長としての仕事をほかの使用人に任せ、家族と一緒に食事を楽しんでいた。
オリヴィエは賑やかな食卓を眺めながら、楽しそうに料理を口に運んでいた。
食事が進んだところで、アウレリアが隣に座るリミネに声をかけた。
「リミネ、もう十四歳になるのですね。進学を考えていると聞きましたが?」
「はい。もう少し勉強を続けたいと思っています」
リミネは少し緊張した様子で答えた。
「何を勉強したいのですか?」
「まだ決めていません。でも、いろいろなことを学んでみたいんです」
「それはいいことですね」
アウレリアは微笑んだ。
純血エルフであるリミネには、まだ十分な時間があった。
人間とは成長や寿命の尺度が異なるエルフは、三十歳から四十歳ほどになるまで軍務に就かず、学業や仕事を続けることも認められていた。
「焦って決める必要はありません。まずは自分が何に興味を持っているのか、いろいろ学んでみることです」
「はい」
リミネは素直にうなずいた。
「アウレリア様は、士官学校に入る前から軍人になるつもりだったんですか?」
「ええ。ですが、最初から何もかも決めていたわけではありませんよ」
「士官学校って、どんなところだったんですか?」
リミネが興味深そうに身を乗り出した。
アウレリアが答えようとしたところで、向かいに座っていたオリヴィエが口を挟んだ。
「大変だったわよ。六年間も規則だらけの生活なんだから」
「オリヴィエ様」
アウレリアが苦笑した。
「でも、お二人とも卒業されたんですよね?」
「もちろんよ。私なんて成績も悪くなかったんだから」
オリヴィエは得意そうに答えた。
ヴァルターが横から口を挟んだ。
「お嬢、また自慢か?」
「事実を言っただけよ」
「はいはい」
リミネは二人のやり取りを見て、くすくすと笑った。
マルティナが娘に声をかけた。
「リミネ、あまりアウレリア様を質問攻めにしないのよ」
「構いませんよ。進学の相談なら、いつでも聞きますから」
「ありがとうございます、アウレリア様」
リミネは嬉しそうに頭を下げた。
その一方で、食卓の反対側では五歳と六歳の娘たちが、どちらがヴァルターの隣に座るかでもめ始めていた。
「お父さん、こっち!」
「さっきはそっちにいたでしょ!」
「おいおい、喧嘩するな。飯くらいゆっくり食わせてくれ」
ヴァルターが困った顔で二人をなだめている。
オリヴィエはその様子を見て笑った。
「ふふっ。やっぱり呼んでよかったわ。楽しいじゃない」
「お嬢は見てるだけだからな」
「そうね。じゃあ、今度は私が隣に座ってあげようかしら」
幼い娘たちは嬉しそうに顔を上げた。
「伯爵様、ほんと?」
「ええ。食事が終わったら一緒にお話ししましょう」
ヴァルターは肩をすくめた。
「まったく。お嬢まで甘やかすんだからな」
食堂には、家族の笑い声が響いていた。
伯爵邸でこれほど大勢が食卓を囲むことは、そう多くない。
オリヴィエは温かな室内を見渡しながら、しばし軍務も領政も忘れて夕食を楽しんだ。
夕食が終わり、子供たちは別室へ移っていった。
エルザとクララも娘たちの様子を見に行き、食堂には静けさが戻った。
オリヴィエたちは小さな応接室へ場所を移した。
暖炉には新しい薪がくべられ、赤い炎が室内を暖めていた。
テーブルにはコーヒーが用意されている。
席に着いたのはオリヴィエ、アウレリア、ヴァルター、そしてマルティナの四人だった。
先ほどまでの賑やかな雰囲気とは違い、室内には落ち着いた空気が流れていた。
「さて、マルティナ。帝都での話を聞かせてもらえる?」
オリヴィエが切り出した。
マルティナは姿勢を正し、持参した書類をテーブルに広げた。
「はい。今回の遠征について、軍務省から得られた情報をご報告いたします」
先ほどまでの母親としての表情から、連絡将校の顔に戻っていた。
「まず、召集時期は来年二月です」
「二月ね。思ったより早いわ」
オリヴィエはカップを置いた。
「はい。そして派遣先は中部戦線となります」
その言葉に、ヴァルターがわずかに眉を動かした。
「中部か……」
低い声だった。
マルティナは書類に目を落として続けた。
「要求されている戦力は連隊規模です。つまり、ベルノ連隊の全力出撃となります」
「全部隊ということね」
「はい。歩兵、砲兵、それに各支援部隊を含めた連隊全体の派遣が求められています」
オリヴィエはアウレリアに目を向けた。
「これは大仕事になるわね」
「そうですね。連隊全体を動かすとなれば、輸送だけでも相当な準備が必要です」
アウレリアはすでに手元の書類に目を走らせていた。
兵員だけではない。火砲、牽引車、弾薬、糧食。連隊が動くとなれば、そのすべてを運ばなければならない。
ヴァルターが腕を組んだ。
「で、どこの指揮下に入るんだ?」
「第七軍団です。軍団隷下の師団に編入されることになります」
「第七軍団か」
ヴァルターは短くつぶやいた。
「師団の指揮下に入るってことは、俺たちだけで勝手に動けるわけじゃねえな」
「当然でしょう」
オリヴィエが答えた。
「中央軍の指揮系統に入る以上、作戦命令には従うわ」
「そりゃそうだがな。どんな師団長の下につくかで、ずいぶん話が変わるぜ」
マルティナがうなずいた。
「編入先の師団については、正式な命令書で通知される予定です。作戦目的についても、現時点では知らされておりません」
「なるほどね」
オリヴィエは差し出された書類を手に取った。
二月の召集。
中部戦線への派遣。
第七軍団の指揮下に入り、ベルノ連隊の全力を投入する。
それだけでも、準備すべきことは山ほどあった。
「……六年前も中部戦線だったわね」
オリヴィエが静かに言った。
一瞬、沈黙が流れた。
帝国歴225年。
旧ベルノ旅団が中部戦線で包囲され、壊滅的な被害を受けた事件である。
当時のベルノ部隊は旅団として編成されていたが、大きな損害を受け、現在のベルノ連隊へと縮小再編された。
多くの将兵が命を落とし、生き残った古参兵もわずかだった。
ヴァルターは、その戦いを経験した数少ない生存者の一人だった。
彼はしばらく暖炉の火を見つめていた。
「ああ。だが、今度はあの時とは違う」
静かな声だった。
「そうでなくちゃ困るわ」
オリヴィエも落ち着いた口調で答えた。
アウレリアは二人の様子を見ながら、書類を揃えた。
「オリヴィエ様。各中隊の訓練計画を見直す必要がありますね」
「ええ。新兵たちのこともあるし」
七月に召喚された第20期の日本人たちは、十一月に基礎訓練を終えたばかりだった。
八月から合流した現地新兵も同様である。
各中隊への正式配属は済んでいるものの、実戦部隊としてはまだ経験が足りない。
ヴァルターが口を開いた。
「問題は、その新兵たちだな。まだ基礎訓練を終えたばかりだ。二月まで三か月もねえぞ」
「わかってるわ」
オリヴィエはうなずいた。
「だからこそ、残された時間を無駄にはできないわね」
アウレリアが続けた。
「連隊全体の輸送計画も必要です。兵員、車両、砲、補給物資。それに鉄道輸送の調整もあります」
「そうね。明日にでも連隊本部で会議を開きましょう」
オリヴィエはマルティナに向き直った。
「ほかに軍務省から何か聞いている?」
「現段階では以上です。詳細については正式命令を待つようにとのことでした」
「わかったわ。ご苦労さま、マルティナ」
「ありがとうございます」
マルティナは書類をまとめた。
ヴァルターが大きく息を吐いた。
「しかし、連隊まるごとか。久しぶりの大仕事になりそうだな」
「そうね」
オリヴィエは窓の外に目を向けた。
厚いカーテンの隙間から、冬の夜の暗さが見えていた。
二月まで、あと二か月足らず。
「せっかく新しい連隊を作り始めたところなのに、もう実戦投入とはね」
オリヴィエは少し苦笑した。
「でも、正式な命令が来るまで何もしないわけにはいかないわ。今からできる準備を進めましょう」
アウレリアがうなずいた。
「承知いたしました」
ヴァルターは立ち上がり、肩を軽く回した。
「さて、俺も小隊の連中に話を通しておくか」
「まだ正式な命令ではないんだから、余計な混乱は起こさないでよ」
「わかってるよ、お嬢」
ヴァルターは笑った。
「その辺は心得てるさ」
マルティナも立ち上がった。
「それでは、私は失礼いたします」
「ええ。今日は家族とゆっくり過ごしてちょうだい」
オリヴィエは微笑んだ。
「ありがとうございます」
マルティナは丁寧に頭を下げた。
やがて、ヴァルターたちは娘たちを連れて帰っていった。
先ほどまで子供たちの声で賑わっていた伯爵邸は、すっかり静かになっていた。
オリヴィエとアウレリアは応接室に残り、テーブルの上の書類を整理していた。
暖炉の火は小さくなり、室内には時計の音が静かに響いていた。
アウレリアが書類を揃えながら口を開いた。
「そういえば、オリヴィエ様。高梨伍長が戻りました」
「高梨? 中央政府の地方派出所から?」
「はい。今日の午後に帰着して、私のところへ報告に来ました」
「そう。四人の様子はどうだった?」
「全員と面会できたそうです。ご命令どおり、国家奴隷省の職員との通訳を行い、帝国共通語の授業も始めたとのことです」
中央政府エルディア地方派出所には、帝国中央政府の各省庁の地方出先部署が集まっている。
国家奴隷省の担当部署もその一つだった。
高梨伍長は、軍事法廷で終身国家奴隷刑を言い渡された四人の日本人と面会し、職員との意思疎通を助けるよう、オリヴィエから命じられていた。
さらに、わずか三日間ではあるが四人が今後の生活で必要とする帝国共通語の教育も担当することになっている。
「そう。問題なく進められそう?」
「はい。職員側も日本語がわかる者がいることで助かっているようです」
オリヴィエはうなずいた。
「それならよかったわ。それで、高梨自身はどうなの?」
「やはり今回の件は気にしているようです。自分が教育に携わった日本人たちですから」
「そうでしょうね……」
オリヴィエはコーヒーカップを手に取ったが、中身が冷めていることに気づき、そのままテーブルへ戻した。
アウレリアは少し間を置いてから続けた。
「それから、高梨伍長から、オリヴィエ様に感謝をお伝えしてほしいと頼まれました」
「私に?」
「はい。四人の命を助けていただいたこと、それに彼らの教育に携わる機会を与えていただいたことを、大変ありがたく思っているそうです」
オリヴィエは少し考えてから答えた。
「別に感謝されるようなことはしてないわよ。法に従って減刑権を行使したまでよ」
「高梨伍長にとっては、それだけではないのでしょう」
「そう……」
オリヴィエは暖炉の火に目を向けた。
昨日の軍事法廷で、自分は四人の命を奪わない判断をした。
しかし、終身国家奴隷刑が重い処罰であることに変わりはない。
彼らの自由は失われ、これから先の人生は国家の管理下に置かれる。
「まあ、気持ちはありがたく受け取っておくわ。高梨にもそう伝えてちょうだい」
「承知いたしました」
「それと、あの四人の罪まで高梨が背負う必要はないわ。あなたからも、ちゃんと言ってあげて」
「はい。そのことも話しております」
アウレリアは静かにうなずいた。
「私も日本人の受け入れ責任者でしたから、今後も相談には乗るつもりです」
「ええ。お願いね」
オリヴィエは椅子の背にもたれた。
「高梨は真面目な子だから、いろいろ考えてしまうでしょうし」
「そうですね。私の方でも様子を見ておきます」
窓の外では、冷たい風が庭の木々を揺らしていた。
オリヴィエはしばらく何も言わず、暖炉の火を眺めていた。
昨日の軍事法廷で、四人の処分は決まった。
しかし、それですべてが終わったわけではない。
国家奴隷となった彼らにも、帝国での生活は続いていく。
そして、彼らを教育してきた高梨にも、まだ果たすべき仕事が残されていた。
やがてオリヴィエは、テーブルに残された書類へ目を向けた。
「……まったく、伯爵って本当に忙しいわね」
アウレリアが微笑んだ。
「まだ始まったばかりですよ」
「そうなのよねえ」
オリヴィエも苦笑した。
「しかも、来年は連隊ごと遠征でしょう? ますます忙しくなるじゃない」
「はい。準備は早めに進める必要がありますね」
「わかってるわよ」
オリヴィエは立ち上がり、軽く伸びをした。
「でも、今日はもう休みましょう。明日からまた仕事が山積みなんだから」
「そうですね」
アウレリアも書類をまとめ、立ち上がった。
暖炉の火が、二人の影を壁に映していた。
賑やかな夕食から始まった夜は、いつしか静けさに包まれていた。
翌日からは、来年の遠征に向けた準備が本格的に始まる。
伯爵家の仕事も、連隊長としての仕事も、オリヴィエを待っていた。