ベルノ伯爵邸
翌朝、ベルノの空は薄い雲に覆われていた。
十二月の冷たい風が伯爵邸の庭木を揺らし、屋敷の煙突からは白い煙が立ち上っている。玄関前の石畳には薄く霜が降り、使用人たちが滑らないよう砂をまいていた。
オリヴィエは執務室で、午後に予定されている連隊本部の会議資料に目を通していた。
昨夜、帝都から帰還したマルティナの報告によって、翌年二月の中部戦線派遣が明らかになった。
今日は午後から各中隊長と各部署の責任者を集め、連隊全体の派遣準備について協議することになっている。
兵員、装備、輸送、補給。連隊の全力を動かすとなれば、確認すべき事項は山ほどあった。
「二月まで、あと二か月もないのよね」
オリヴィエは書類をめくりながら、独り言のようにつぶやいた。
隣の机ではアウレリアが、各中隊から提出された兵員数や装備の報告を整理していた。
「正式な派遣命令はまだですが、準備は進めておいた方がよいでしょうね」
「ええ。特に新兵たちの訓練は急がないと」
オリヴィエは報告書に目を落とした。
今年七月に召喚された日本人たちは、ようやく各中隊への配属を終えたばかりだった。現地新兵も含め、実戦経験のない兵士が少なくない。
その時、執務室の扉が叩かれた。
「どうぞ」
クララが入ってきた。
「オリヴィエ様、ベルノ領都役所のワーレン所長がお見えになりました」
「あら、もう来たの?」
オリヴィエは顔を上げた。
昨日、クライスを家令に迎える件について、領都役所へ連絡を入れていた。所長には改めて相談するつもりだったが、まさか翌朝すぐに訪ねてくるとは思っていなかった。
「応接室にお通ししてあります」
「わかったわ。すぐに行くから、お茶をお願い」
「かしこまりました」
クララが退出すると、オリヴィエは手元の書類を閉じた。
「ワーレン所長ねえ……」
「ご存じなのですか?」
アウレリアが尋ねた。
「もちろん。父の代から領都役所を仕切っている人だもの」
オリヴィエは立ち上がりながら、少し考えた。
「ただ、直接じっくり話す機会はあまりなかったわね」
「優秀な方だと聞いております」
「ええ。父もそう言ってたわ」
オリヴィエは執務室の扉へ向かった。
「でも、交渉では絶対に油断するなって」
アウレリアはその言葉に、わずかに眉を上げた。
応接室には、大柄な男が座っていた。
ワーレン所長である。
五十代半ばほどの年齢で、背も高いが、それ以上に横幅があった。厚い胸板と突き出た腹、大きな手。仕立てのよい濃灰色の服を身につけているものの、その巨体は椅子をずいぶん窮屈そうに見せていた。
顔つきもなかなか迫力がある。
太い眉に鋭い目、肉付きのよい頬。事情を知らない者が見れば、物語に登場する悪徳貴族と勘違いしてもおかしくない風貌だった。
だが、実際にはベルノ伯爵家に長く仕えてきた譜代家臣の一人である。
爵位こそ持たないものの、代々伯爵家に仕える地方貴族の家柄であり、現在はベルノ領都役所の所長として民政を取り仕切っていた。
その仕事ぶりは堅実で、役人たちからの信頼も厚い。
オリヴィエが入室すると、ワーレンは椅子から立ち上がった。
「これは伯爵様。本日はお忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます」
大きな身体を折り曲げ、丁寧に頭を下げる。
「おはよう、ワーレン。こちらこそ、急にお願いして悪かったわね」
「いえいえ。伯爵様からのお話とあれば、何をおいても参上いたします」
「そんな大げさな話じゃないわ。どうぞ座って」
オリヴィエが向かいの椅子に腰を下ろすと、ワーレンもゆっくりと座った。
アウレリアはオリヴィエの隣に着席した。
クララが紅茶を運んできたが、ワーレンは彼女を見ると、わずかに口元を緩めた。
「クララ殿もお変わりなく」
「おかげさまで。所長もお元気そうで何よりです」
「はっはっは。身体だけは丈夫なものでしてな」
ワーレンは大きな腹を軽く叩いた。
クララは微笑みながら一礼し、部屋を退出した。
扉が閉まると、ワーレンは改めてオリヴィエへ向き直った。
「さて、伯爵様。本日はクライスの件と伺っておりますが」
「ええ。昨日、本人とも話したの。なかなか優秀そうな人ね」
「優秀ですとも」
ワーレンは即答した。
「大学を出てから住民課で働いておりますが、仕事は正確で、覚えも早い。書類の扱いも丁寧ですし、住民への対応も申し分ありません」
「ずいぶん評価しているのね」
「実際に仕事ができる男ですからな。私としても重宝しております」
ワーレンは紅茶を一口飲んだ。
「ですから、伯爵様が家令にとお考えになるのも理解できます」
オリヴィエはうなずいた。
「伯爵家の仕事だけじゃなくて、領都役所との連絡も任せたいの。役所の仕組みを知っている人の方が、何かと都合がいいでしょう?」
「まったく、そのとおりでございます」
ワーレンは深くうなずいた。
領都役所は旧エルディア王国の王宮を利用した大きな行政機関である。
かつて王族が暮らしていた建物には、現在では大勢の役人が勤務し、ベルノ伯爵領の民政を取り仕切っていた。
住民登録、租税、公共事業、各種の許認可など、仕事は多岐にわたる。
伯爵が領地のすべてを直接管理するわけではない。
そのため、伯爵家と領都役所との連絡や調整を担当する家令は、重要な役割を持っていた。
クライスのように役所の内情を理解している人間が家令になれば、双方にとって便利になることは間違いなかった。
「ただ、伯爵様」
ワーレンはそこで言葉を切った。
「一つ、気になることがございます」
「何かしら?」
「メイド長の弟を家令に据えるというのは、いささか身内で固めすぎではございませんかな?」
オリヴィエは眉を上げた。
ワーレンは落ち着いた口調で続けた。
「ヴァルター少佐はメイド長の夫であり、伯爵様の古くからの側近です。アウレリア大尉も同様。そして今回、さらにメイド長の弟を家令に迎えられるとなれば、譜代家臣の中には気にする者も出てくるかもしれません」
オリヴィエは紅茶のカップを置いた。
昨日の朝、ヴァルターからも似たようなことを言われたばかりだった。
「でも、クライスの能力には問題ないのでしょう?」
「もちろんでございます。それは私が保証いたします」
「それならいいじゃない。私が必要としているのは、仕事のできる家令よ」
「おっしゃることは理解しております」
ワーレンは少しも慌てなかった。
「ただ、能力のある者を選ぶことと、周囲を納得させることは、必ずしも同じではございませんので」
オリヴィエはしばらく男の顔を見つめた。
太い眉の下の目が、穏やかにこちらを見返している。
その時、父の言葉が頭をよぎった。
父は戦傷によって車椅子生活となり、今年八月に伯爵位と連隊長職を退いた。
オリヴィエが爵位を継ぐにあたって、父からはさまざまな助言を受けていた。その中には、譜代家臣たちについての話もあった。
『ワーレンは手強いぞ。仕事はできるし、ベルノ家への忠誠心もある。だが、交渉では決して油断するな』
あの時、父はどこか愉快そうに笑っていた。
オリヴィエは小さく息をついた。
「……なるほどね」
ワーレンは何も言わず、次の言葉を待っていた。
「でも、私はクライスを家令に迎えたいわ。もちろん、あなたのところで重要な仕事をしていることは理解してる。だから、引き継ぎについては相談するつもりよ」
「ありがたいお言葉です」
ワーレンは満足そうにうなずいた。
「実は、そのことでお願いがございます」
「何?」
「クライスが現在担当している業務の引き継ぎに、三か月ほどお時間をいただきたいのです」
「三か月?」
オリヴィエは思わず聞き返した。
「それは長すぎるわ」
「しかし伯爵様、住民課の仕事は日々発生いたします。人口台帳の管理もございますし、簡単に代わりを立てられるものではございません」
ワーレンは困ったような顔をした。
「彼を失うことは、私どもにとっても痛手なのです」
「それはわかるけど、こちらも早く仕事を覚えてもらいたいのよ」
オリヴィエは少し考えた。
「一か月で何とかならない?」
「一か月ですか……」
ワーレンは腕を組み、しばらく考え込んだ。
その大きな身体が椅子に沈み込み、革張りの座面が小さく音を立てた。
「……なかなか厳しいお話ですな」
「無理かしら?」
「いえ、無理とは申しません」
ワーレンはゆっくりとうなずいた。
「伯爵様がそこまでお望みでしたら、私の責任で何とかいたしましょう」
「本当に?」
「はい。ただし、一か月後から伯爵邸での勤務を増やし、役所の仕事も並行して引き継がせる形でお願いいたします。正式な異動については、引き継ぎの進み具合を見て決めさせていただければ」
「ええ。それで構わないわ」
「ありがとうございます」
ワーレンは丁寧に頭を下げた。
オリヴィエはその様子をじっと見つめていた。
クライスが家令になれば、領都役所にとっても利点がある。
ワーレンは当然、それを理解しているはずだった。
にもかかわらず、彼は最初に縁故人事への懸念を示し、続いて引き継ぎ期間の難しさを説明した。
そして最後には、伯爵の希望に応える形で譲歩した。
オリヴィエは思わず笑みを浮かべた。
「ところで所長」
「はい、何でございましょう?」
「あなたに貸し一つでいいのかしら?」
ワーレンは一瞬、目を丸くした。
そして、満面の笑みを浮かべた。
「いえいえ、とんでもございません。私はただ、伯爵様のお役に立ちたいだけでございます」
「そう?」
「はい。しかし、そう思っていただけるのであれば、今後もよいお付き合いができるかと存じます」
ワーレンは大きな腹を揺らして笑った。
「いやはや、なかなか伯爵様は聡明でいらっしゃいますな」
「あまり褒められた気はしないわね」
オリヴィエが苦笑すると、ワーレンは愉快そうに声を上げた。
「はっはっは。これは失礼いたしました」
その笑いには、先ほどまでの交渉中とは違う、心からの喜びがあった。
ワーレンは長年、前伯爵に仕えてきた。
領地の行政を預かる立場として、伯爵家への忠誠を尽くしてきたつもりである。
しかし、それと交渉を簡単に済ませることとは別だった。
伯爵家にとって必要な人材を譲るなら、その事実を今後の関係にも生かしたい。
そう考えるのは、行政を預かる者として当然のことだった。
若い新伯爵は、その意図をすぐに理解してくれた。
それが嬉しかったのである。
士官学校を卒業し、中央軍で勤務してきたとはいえ、オリヴィエが伯爵となってから、まだ数か月しか経っていない。
領主としての経験はこれから積んでいくことになるだろう。
だが、少なくとも相手の考えを理解するだけの聡明さは備えているらしい。
ワーレンは、長年仕えてきた前伯爵のことを思い出していた。
戦傷によって車椅子生活となり、伯爵位を娘に譲った前伯爵。
その娘が、今では自分の交渉の意図を即座に見抜くまでになっている。
前伯爵がこのやり取りを聞いたら、きっと愉快そうに笑うだろう。
ワーレンはそんなことを考えながら、満足そうにうなずいた。
「それでは伯爵様。クライスの件は、責任を持って進めさせていただきます」
「ええ。よろしくお願いするわ」
「こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします」
ワーレンは立ち上がり、大きな身体を折り曲げて一礼した。
アウレリアも立ち上がり、丁寧に挨拶を返した。
クララが迎えに来ると、ワーレンはもう一度頭を下げ、応接室を後にした。
その表情は、来訪した時以上に満足そうだった。
玄関の扉が閉まる音が遠くから聞こえてきた。
オリヴィエは椅子の背にもたれ、大きく息をついた。
「……狸親父ね」
アウレリアが思わず笑った。
「確かに手強い方ですね。味方ならば頼もしいですが」
「味方だから厄介なのよ。言ってることは正しいし、ちゃんと協力もしてくれるんだもの」
オリヴィエは腕を組んだ。
「しかも、あの人、最初から反対する気なんてなかったのよ」
「そうでしょうね。クライスが家令になれば、領都役所との連絡も円滑になりますから」
「ええ。それを全部わかったうえで、私にお願いさせたんだもの」
アウレリアは微笑んだ。
「ですが、最後はずいぶん嬉しそうでしたね」
「私が考えを見抜いたから?」
「はい。あの方にとっては、それが何より嬉しかったのでしょう」
オリヴィエは少し考えた後、苦笑した。
「まったく、父が手強い男だって言ってた意味がよくわかったわ」
「前伯爵様も、長年あの方とお付き合いされていましたからね」
「そうね。でも、ああいう人が領都役所を仕切ってくれているなら安心だわ」
「私もそう思います」
オリヴィエは残っていた紅茶を飲み干した。
「さて、クライスの件も片づいたし、そろそろ連隊本部に行きましょうか」
アウレリアは壁の時計を見た。
「午後は各中隊長と各部署の責任者を集めた会議です。そろそろ準備をいたしましょう」
「そうだったわね」
オリヴィエは立ち上がった。
昨夜判明した中部戦線への派遣について、各部隊の責任者と具体的な準備を協議する必要がある。
民政の仕事を片づけたと思えば、今度は軍務である。
「まったく、伯爵って忙しいわ」
アウレリアは微笑みながら、書類を抱えて後に続いた。
伯爵邸の車寄せには、一台の軍用バイクが置かれていた。
側車を備えた、いわゆるサイドカーである。
オリヴィエが個人で所有するものだった。
帝国ではガソリンが貴重であり、一般的な移動手段には馬車が使われている。自動車やバイクは軍でも決してありふれたものではなく、ベルノの街で見かけることは少なかった。
まして、サイドカー付きの軍用バイクを私物として所有する者など、ほとんどいない。
オリヴィエは手袋をはめると、慣れた様子で運転席にまたがった。
アウレリアは側車のパッセンジャーシートに腰を下ろす。
「今日は少し冷えるわね」
オリヴィエが空を見上げた。
「十二月ですからね」
アウレリアは膝の上に書類鞄を置いた。
オリヴィエがエンジンを始動すると、低い排気音が伯爵邸の車寄せに響いた。
「じゃあ、行くわよ」
「はい」
オリヴィエはアクセルを軽く開き、ゆっくりとバイクを発進させた。
ベルノ伯爵邸は、連隊駐屯地に隣接している。
徒歩でも通える距離ではあるが、駐屯地の広い敷地を移動することまで考えれば、バイクの方がはるかに早い。
冬の冷たい空気を切りながら、サイドカーは伯爵邸の門を抜けた。
向かう先はベルノ連隊本部。
午後からは、来年の戦線派遣に向けた本格的な協議が始まる。