連隊本部会議室
午後のベルノ連隊本部は、いつもより慌ただしかった。
会議室には大きな長机が置かれ、その周囲に各中隊長と各部署の責任者が集まっていた。
歩兵四個中隊の中隊長、ハンス・フォン・ローデ大尉、リュート・バルク大尉、ミラ・フォン・セイン中尉、レア・ノム大尉。
さらに砲兵中隊長のグスタ・レーン大尉、工兵中隊長のダリオ・ベル大尉、軍警中隊長のカール・ネス中尉、補給中隊長のロザ・ミル中尉らが席に着いている。
浸透偵察増強小隊長のヴァルター・エルフェン少佐も、すでに席についてコーヒーを飲んでいた。
その隣には、片足を義足にした男が座っている。
エイリッヒ・フォン・セイン少佐、四十九歳。
ベルノ伯爵家の譜代家臣の出身で、帝国歴225年の包囲壊滅事件を生き延びた数少ない古参士官の一人だった。
当時の戦闘で片足を失い、現在は義足を使用している。長距離の歩行が難しく、野外での部隊指揮には制約があった。
そのため、現在は連隊本部付きの士官として勤務している。
もっとも、実際には歩兵四個中隊の訓練、人事、軍紀などの調整を担当し、中隊長たちを監督する立場にあった。
第3中隊長のミラは、彼の異母妹である。
やがて廊下から足音が聞こえ、会議室の扉が開いた。
オリヴィエとアウレリアが入ってくる。
出席者たちが一斉に立ち上がった。
「ご苦労さま。皆さん、座ってちょうだい」
オリヴィエは穏やかに微笑み、連隊長の席へ向かった。
「よう、お嬢。今日も忙しそうだな」
エイリッヒが声をかけた。
「午前中は伯爵家の仕事だったのよ。午後はこっち。休む暇もないわ」
「伯爵様も大変だな」
「他人事みたいに言わないでちょうだい。あなたも少しは仕事を引き受けてよ」
エイリッヒは大げさに肩をすくめた。
「これでも働いてるんだぜ。もっとも、連隊本部の置物みたいなもんだがな」
「またそんなことを言って」
オリヴィエは呆れたように笑った。
「あなたがいなくなったら、誰が歩兵中隊長たちの面倒を見るのよ」
「そりゃ、お嬢だろ」
「冗談じゃないわ。私の仕事をこれ以上増やさないでちょうだい」
ヴァルターが横から口を挟んだ。
「そうだぜ、エイリッヒ。お前が辞めたら、遠征のたびに俺が留守番を押しつけられるかもしれねえだろ」
「お前も少しは俺の味方をしろよ」
「馬鹿言え。俺は前線に出る方が性に合ってるんだ」
「まったく、勝手な野郎だ」
古参二人のやり取りに、オリヴィエは小さく笑った。
一方、ほかの中隊長たちは静かに会議の開始を待っていた。
エイリッヒとヴァルターが連隊長を「お嬢」と呼ぶことには慣れていたが、その気安いやり取りに加わる者はいない。
やがてオリヴィエが席に着くと、室内の空気が引き締まった。
アウレリアが会議資料を広げる。
「それでは、会議を始めます」
オリヴィエは出席者たちを見渡した。
「本日の主な議題は、来年二月の戦線派遣についてです。ただし、その前に、先月の脱走事件に関する再発防止策を確認しておきたいと思います」
四人の歩兵中隊長が姿勢を正した。
事件の経緯や部隊側の対応については、すでに報告が終わっている。脱走した四人の処分も、軍事法廷によって決定していた。
今回は、各中隊で実施した改善対策についての報告である。
「では、ハンス大尉。お願いします」
「はい」
ハンスが立ち上がり、報告書を開いた。
「脱走事件を受け、歩兵四個中隊すべてで軍法の再教育を実施いたしました。特に脱走、軍務放棄、命令違反に関する規定を重点的に説明し、違反した場合の処罰についても再確認させております」
オリヴィエはうなずいた。
「全員に実施できたのね?」
「はい。勤務の都合で参加できなかった兵士についても、補講を済ませております」
「ご苦労さま」
続いてリュートが、日本人兵士への教育について補足した。
帝国共通語の理解が不十分な兵士には、日本語のできる者を補助につけ、説明後には質問を行って理解度を確認したという。
ミラとレアからは、点呼や所在確認の徹底、分隊長による兵士の行動把握について報告があった。
軍警中隊でも駐屯地の出入口での確認手順を見直し、巡回を強化していた。
いずれも、すでに実施されている対策だった。
オリヴィエは時折うなずきながら、報告を聞いていた。
「なるほど。各中隊とも、必要な措置は取っているようね」
最後にハンスが報告書を閉じた。
「以上でございます」
「ご苦労さま」
オリヴィエは微笑んだ。
だが、そのまま次の議題には移らなかった。
机の上に並べられた報告書を、もう一度めくっている。
アウレリアは隣で、その様子を静かに見守っていた。
「……一つ、聞いてもいいかしら?」
オリヴィエが顔を上げた。
「今回の脱走事件について、なぜ兵士たちが逃げようとしたのか、その原因は調べたの?」
四人の中隊長が顔を見合わせた。
ハンスが答えた。
「脱走した四名については、軍務に対する不満や規律への理解不足があったものと考えております」
「そう。それで、ほかの兵士たちについては?」
「……ほかの兵士、でございますか?」
「ええ。同じような不満を持っている兵士がいないか、調べたのかと聞いているの」
ハンスは少し考えた。
「各分隊長には、兵士の言動に注意するよう指示しております」
「具体的には?」
「命令への反抗や軍務を拒否するような発言があれば、速やかに報告させることにしております」
オリヴィエは黙った。
しばらくして、静かに報告書を閉じた。
「……つまり、不満の原因については、まだ調べていないのね?」
「はい。今後、各分隊長からの報告によって把握していく予定です」
「そう……」
オリヴィエは椅子の背にもたれた。
その表情は穏やかなままだったが、指先が机の上を軽く叩いている。
ヴァルターはコーヒーカップを口元へ運びながら、ちらりと彼女を見た。
そして、わずかに口元を緩めた。
長年の付き合いである。
オリヴィエが何を考えているのか、だいたい見当がついた。
エイリッヒも、何かを察したように腕を組んだ。
「……あのね」
オリヴィエが口を開いた。
「軍法を教えることも、点呼を厳しくすることも、必要なことだと思うわ」
四人の中隊長がうなずいた。
「でも、それだけで脱走が防げるのかしら?」
返事はなかった。
オリヴィエはしばらく待った。
誰も答えない。
彼女はもう一度、報告書に目を落とした。
「……ああ、もう!」
突然、オリヴィエが声を上げた。
四人の中隊長が驚いて顔を上げた。
「さっきから聞いてれば、何なのよ、その報告は!」
会議室が静まり返った。
「軍法を教えました、点呼を厳しくしました、見回りを増やしましたって! それで脱走がなくなると思ってるの?」
ハンスが慌てて姿勢を正した。
「い、いえ、連隊長。そのようなつもりでは――」
「じゃあ、どうして誰も根本的な問題に触れないのよ!」
オリヴィエは報告書を指で叩いた。
「兵士がどうして逃げたいと思ったのか、それを調べもしないで、何が再発防止策よ!」
先ほどまでとは、口調も表情もまるで違っていた。
「いい? 軍法を知らなかったから逃げたの? 点呼が甘かったから逃げたの? 違うでしょう!」
四人の中隊長は、ただ黙って聞いていた。
「今回の四人は、日本から突然召喚されてきた人間なのよ。自分から志願して帝国へ来たわけじゃないでしょう!」
オリヴィエは全員を見渡した。
「軍人になった以上、軍法を守る義務はあるわ。脱走が許されないことも当然よ。でも、それと兵士たちが今の生活に納得しているかどうかは、別の問題じゃない!」
彼女の声には、強い苛立ちがにじんでいた。
「何に困っているのか、何が不満なのか。そういうことを把握するのも、中隊長の仕事でしょう!」
リュートが口を開きかけたが、オリヴィエは続けた。
「それに、不満を言った兵士を問題人物として報告させるつもりなの? そんなことをしたら、誰も本当のことを言わなくなるわよ!」
会議室の空気は、すっかり変わっていた。
歩兵中隊長たちだけではない。
砲兵中隊長のグスタも、工兵中隊長のダリオも、突然変わった連隊長の様子に驚いていた。
補給中隊長のロザは、手元の書類から顔を上げたまま動かない。
普段のオリヴィエは、部下に対して丁寧で穏やかな口調を崩さない。
もちろん、訓練や軍務に厳しいことは知られていたが、ここまで遠慮なく問題点を指摘する姿を見た者は少なかった。
その時だった。
「ぶっ……はっはっはっは!」
ヴァルターが突然、大声で笑い始めた。
全員の視線が彼に集まった。
ヴァルターは腹を抱え、机を叩いて笑っている。
「はっはっは! とうとう我慢できなくなったか!」
「ちょっと、ヴァルター! 何がおかしいのよ!」
「いやあ、すまん! ずっと我慢してたからな、お嬢!」
笑いは止まらなかった。
「最初はずいぶんお上品に話してたじゃねえか! はっはっは!」
「もう! あんたは黙ってなさい!」
オリヴィエが睨みつけると、ヴァルターはますます笑い出した。
四人の中隊長は唖然としていた。
今まで彼らが知っていたオリヴィエは、礼儀正しく、穏やかな若い伯爵だった。
その彼女が、今ではすっかり別人のように見える。
しかも、ヴァルター少佐はその姿を見て大笑いしている。
エイリッヒは苦笑しながら口を開いた。
「まあ、落ち着け、お嬢。言ってることは間違ってねえんだから」
「私は落ち着いてるわよ!」
「そうか? まあ、いつもどおりではあるな」
「エイリッヒまで!」
ヴァルターが再び笑った。
「はっはっは! そうだ、それだよ! いつものお嬢だ!」
オリヴィエは二人を睨んだ。
しかし、やがて諦めたように息を吐いた。
「……もういいわ。今さら取り繕っても仕方ないものね」
彼女は椅子に座り直した。
アウレリアは笑みを浮かべながら、静かに書類を揃えていた。
エイリッヒが四人の中隊長に目を向けた。
「まあ、お嬢の言うとおりだな」
彼は椅子に深く腰掛けたまま、ゆっくりと言葉を続けた。
「お前たち、がんじがらめに監視を強くしても、反感を買うだけだぞ」
ハンスが顔を上げた。
「しかし少佐、脱走を防ぐためには、ある程度の監視強化も必要かと」
「そりゃそうだ。だが、何でもかんでも禁止して、四六時中見張ってりゃいいってもんじゃねえ」
エイリッヒは机の上の報告書を指で軽く叩いた。
「兵隊だって人間だ。息抜きぐらいさせてやれ」
四人は黙っていた。
「例えば二等兵の休日外出だ。今は禁止されてるだろう?」
「はい」
ミラが答えた。
「以前、休日に外出した新兵が帰営せず、そのまま脱走した事件があったためです」
「そうだ。それ以来、二等兵は休みの日でも自由に街へ出られなくなった」
エイリッヒは腕を組んだ。
「だが、何年も前の脱走事件を理由に、今の新兵まで全員閉じ込めておく必要があるのか?」
彼は周囲を見渡した。
「休みの日ぐらい街へ出て、買い物をしたり、うまいものを食ったりしたいだろう。酒場に行きたい奴だっている。そんな当たり前のことまで禁止して、兵士の不満を減らせると思うか?」
その言葉に、オリヴィエが勢いよく顔を上げた。
「そう! そういう意見が聞きたかったのよ!」
四人の中隊長が、またしてもびくりとした。
「あなたたちは頭が固すぎだわ。軍法を教える、監視を強くする、報告を徹底する。そればっかりじゃない!」
オリヴィエは四人を見渡した。
「兵士が不満を抱えたまま勤務することのないように、生活環境を改善するのも中隊長の仕事でしょう?」
ハンスが静かにうなずいた。
「……おっしゃるとおりです」
「二等兵の休日外出については、私も見直すべきだと思うわ」
軍警中隊長のカールが手を挙げた。
「連隊長、外出を許可する場合、帰営時刻や行動範囲については明確な規則を設ける必要があります」
「もちろんよ。何の制限もなく自由にさせるつもりはないわ」
オリヴィエは即答した。
「最初は下士官を同行させるとか、分隊単位で外出させるとか、方法はいくらでもあるでしょう?」
レアがうなずいた。
「それでしたら、試験的に実施することは可能だと思います」
「そうね。問題がなければ、徐々に条件を緩めればいいわ」
ほかの中隊長たちからも、帰営時刻の管理や同行者の責任について意見が出始めた。
それまでの重苦しい雰囲気が、少しずつ変わっていく。
オリヴィエは満足そうにうなずいた。
「ほら、ちゃんと考えれば意見が出るじゃない」
四人の中隊長は、少し気まずそうに顔を見合わせた。
その様子を見て、ヴァルターが再び笑い始めた。
「はっはっは! お嬢、もう勘弁してやれよ。あいつら、すっかり縮み上がってるじゃねえか!」
「何よ! 私は普通に話してるだけでしょう!」
「はっはっは! そうだな、いつもどおりだ!」
エイリッヒも苦笑した。
「まあ、これでお前たちもわかっただろう。お嬢はこういう連隊長なんだ」
「エイリッヒまで余計なことを言わないで!」
「悪い悪い」
少しも悪びれずに答えるエイリッヒを見て、オリヴィエは呆れたように息を吐いた。
それから改めて四人の中隊長に向き直った。
「とにかく、二等兵の休日外出については規則を見直します。エイリッヒ、あなたが中心になって案をまとめてちょうだい。歩兵中隊長と軍警中隊長も協力すること」
「了解した」
エイリッヒがうなずいた。
「それから、各中隊では兵士たちが何に困っているのか、改めて調べてください。軍法の再教育や警戒強化は継続して構いません。でも、それだけで対策が終わったと思わないこと」
「了解いたしました!」
四人の中隊長がそろって答えた。
オリヴィエはようやく満足そうな表情になった。
「よろしい。では、この件は以上とします」
アウレリアが手元の報告書をまとめ、新しい資料を取り出した。
会議室には紙をめくる音が響く。
四人の歩兵中隊長は、ようやく肩の力を抜いた。
だが、先ほどまでの穏やかな伯爵とはまるで違うオリヴィエの姿が、強く印象に残っていた。
ヴァルターはまだ口元に笑みを浮かべている。
オリヴィエはそれを横目で睨んだが、今度は何も言わなかった。
やがてアウレリアが資料の配布を終えた。
オリヴィエは全員を見渡した。
「それでは、次の議題に移ります」
出席者たちの表情が引き締まった。
「昨夜、帝都から戻ったマルティナより、来年二月の戦線派遣について報告がありました」
オリヴィエは机の上の資料を開いた。
「派遣先は中部戦線、第七軍団です。今回はベルノ連隊の全力出撃となります」
会議室が静まり返った。
「これより、遠征計画について協議します」