勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴231年12月初旬~12月中旬


外伝01 吉田麻衣
第1節 護送


ベルノ駅の構内に入ったところで、馬車が停まった。

 

車輪の軋む音が消えると、代わりに蒸気機関車の汽笛が聞こえてきた。どこか遠くで金属を打ち鳴らす音が響き、大勢の人々が行き交うざわめきも聞こえてくる。

 

吉田麻衣は馬車の中から外を覗こうとしたが、窓には鉄格子が取り付けられており、駅舎の一部しか見えなかった。

 

「降りろ」

 

護送官が扉を開け、帝国共通語で命じた。

 

佐々木健が最初に立ち上がり、続いて中村拓也、加藤真由、そして麻衣の順に馬車を降りた。

 

十二月のベルノはすっかり寒くなっていた。馬車から降りた途端、冷たい風が首筋に入り込む。

 

麻衣は思わず肩をすくめた。

 

そのとき、首に巻かれた金属製の輪が冷たく感じられた。

 

国家奴隷省の職員によって取り付けられた首輪だった。

 

表面には識別番号が刻まれている。

 

HF8501。

 

それが、これからの自分を表す番号なのだという。

 

麻衣は手錠のかかった両手を少し持ち上げ、首輪に触れようとした。

 

「おい、麻衣。触らない方がいいぞ」

 

中村が小声で言った。

 

「高梨さんも言ってただろ。壊そうとしたら重罰だって」

 

「うん。わかってる」

 

麻衣は慌てて手を下ろした。

 

高梨梓伍長。

 

日本にいた頃は同じ学校の先輩だったという女性は、この数日間、毎日のように収容区画を訪れてくれた。

 

帝国共通語を教え、これからの生活について説明し、わからないことがあれば職員に尋ねてくれた。

 

最後に渡された小さな紙も、麻衣の上着のポケットに入っている。

 

日本語と帝国共通語を並べて書いた、簡単な会話の一覧だった。

 

『水をください』

 

『具合が悪いです』

 

『便所に行きたいです』

 

『言葉がわかりません』

 

そんな言葉がいくつも書かれていた。

 

護送中に限って所持を認められたものだった。

 

高梨は最後に言った。

 

「向こうに着けば、必要な言葉は教えてもらえると思う。でも、それまではこれを使って。わからないことがあったら、無理にわかったふりをしないでね」

 

そのときは、麻衣も何とか笑って礼を言うことができた。

 

だが、今になって思う。

 

本当に、もう会えないのだろうか。

 

高梨だけではない。ベルノで知り合った日本人たちとも、もう会うことはないのかもしれない。

 

そんな考えが頭に浮かんだが、麻衣はすぐに打ち消した。

 

今はまだ、そこまで考えたくなかった。

 

「こっちだ」

 

護送官に促され、四人は駅舎の脇にある通路へ連れていかれた。

 

一般の乗客が利用する改札とは別の場所だった。

 

駅構内には何本もの線路が並び、旅客列車や貨物列車が停車していた。荷物を積み下ろす作業員の姿もあり、遠くでは兵士たちが貨車に資材を積み込んでいる。

 

麻衣はそれらを眺めながら、奇妙な気持ちになった。

 

ほんの数か月前まで、ここは自分たちの生活する街だった。

 

訓練場があり、兵舎があり、食堂があった。

 

初めて実弾を撃ったときのことも、真由と一緒に配属先の発表を喜んだことも覚えている。

 

あの頃は、軍隊での生活がこれから何年も続くのだと思っていた。

 

少なくとも、こんな形でベルノを離れることになるとは考えていなかった。

 

「おい、俺たちはこっちだってよ」

 

佐々木の声で我に返った。

 

通路の先で、護送官が二つの方向を指示していた。

 

男性と女性を分けるらしい。

 

「え、別々なの?」

 

真由が声を上げた。

 

護送官が何か説明したが、早口で麻衣には聞き取れなかった。

 

ただ、男女を別々に収容するということだけは理解できた。

 

「なんだよ。ここまで一緒だったんだから、同じところでいいだろ」

 

佐々木が不満そうに言った。

 

「どうせ帝都までだろ」

 

中村はそう言って、佐々木の腕を軽く叩いた。

 

「向こうに着いたらまた会えるって」

 

「わかってるよ」

 

佐々木は面白くなさそうに答えた。

 

真由が麻衣の腕に触れた。

 

「行こう、麻衣」

 

「うん」

 

二人は男性たちと別れ、女性用の護送車両へ向かった。

 

振り返ると、佐々木と中村はすでに別の扉から車両に乗り込もうとしていた。

 

「健! 拓也!」

 

真由が呼びかけた。

 

佐々木が振り返る。

 

「なんだよ!」

 

「帝都でまたね!」

 

「ああ!」

 

中村も片手を上げようとしたが、手錠が邪魔になったらしく、少しだけ腕を持ち上げた。

 

麻衣も小さく手を振った。

 

護送車両は、普通の客車とはまったく異なる造りだった。

 

片側には護送官が通るための細い通路があり、その反対側に鉄格子で仕切られた収容区画が並んでいる。

 

一つの区画には六人分の寝台が用意されていた。

 

上下三段の寝台が向かい合わせに設置され、その間の狭い空間には便器が一つ置かれている。

 

便器の周囲には簡単な目隠しがあったが、個室というほどのものではなかった。

 

「うわ……」

 

真由が顔をしかめた。

 

「ここで寝るの?」

 

麻衣も返事ができなかった。

 

兵舎では大勢で寝泊まりしていたが、少なくとも一人ずつ寝台があり、便所やシャワーは別の場所にあった。

 

それに比べると、この車両はあまりにも狭かった。

 

護送官が麻衣の首輪を確認した。

 

「HF8501」

 

番号を読み上げ、手元の書類と照合する。

 

それから寝台を指さした。

 

「ここだ」

 

麻衣は示された寝台に目を向けた。

 

寝台の端にも、同じ識別番号が記されている。

 

自分の名前ではなく、番号だった。

 

「麻衣、ここでいいんじゃない?」

 

真由が隣の寝台を指さした。

 

「私、こっちみたい」

 

「うん……」

 

二人は言われた場所に腰を下ろした。

 

護送官が手錠を外すと、鉄格子の扉が閉められた。

 

金属の錠がかけられる音が響く。

 

真由はしばらく扉を見つめていた。

 

「……本当に牢屋だね」

 

「そうだね」

 

「私たち、犯罪者なんだよね」

 

麻衣は答えられなかった。

 

逃亡を企て、軍から逃げ出した。

 

そのときには銃も持っていた。佐々木と中村がそれぞれ携行していた銃は、捕まったときに取り上げられている。

 

軍事法廷では死刑を宣告された。

 

ベルノ伯爵の減刑によって命は助かったものの、その代わりに国家奴隷となった。

 

すでに説明は受けている。

 

国家奴隷には一般市民のような自由はなく、帝国中央政府の管理下で生涯働くことになる。

 

衣食住や医療は保障されるが、自分の意思で施設を離れることはできない。

 

そして、男女それぞれに異なる処遇が待っていた。

 

男性は去勢される。

 

女性は本人の意思とは関係なく、強制的に妊娠させられる。

 

ベルノの収容区画で、国家奴隷省の職員は高梨を通してそう説明した。

 

その説明を受けたとき、四人とも顔色を失っていた。

 

麻衣は、あのときのことを思い出したくなかった。

 

「ねえ、麻衣」

 

真由が声を落とした。

 

「私たち、本当に一生ここで暮らすのかな」

 

「……わかんない」

 

「いつか出してもらえるんじゃないかな。何年か真面目に働けばさ」

 

「そうだといいけど……」

 

麻衣は曖昧に答えた。

 

高梨は、はっきりと言っていた。

 

国家奴隷の刑には、原則として釈放がない。

 

死刑を減刑された代わりに、生涯にわたって国家の管理を受けるのだと。

 

真由もそれは聞いている。

 

それでも、まだ信じられないのだろう。

 

麻衣自身も同じだった。

 

七月にこの世界へ来たとき、自分たちは勇者として召喚されたのだと説明された。

 

日本人には帝国市民としての権利が与えられ、軍役を果たせば生活も保障される。

 

実際、兵舎の生活はそれほど悪いものではなかった。

 

毎日の訓練は厳しかったが、食事は十分にあり、シャワーも使えた。休日には仲間と過ごす時間もあった。

 

あのまま軍隊に残っていれば、どうなっていたのだろう。

 

麻衣はそんなことを考えた。

 

けれども、今さら答えの出ないことだった。

 

しばらくすると、列車がゆっくりと動き始めた。

 

車輪が線路の継ぎ目を通るたび、規則的な音が響く。

 

窓の外ではベルノ駅の建物が少しずつ後ろへ流れていった。

 

麻衣は寝台から立ち上がり、鉄格子のついた小さな窓へ近づいた。

 

駅の建物が遠ざかっていく。

 

見慣れた街並みも、やがて見えなくなった。

 

「さよなら、ベルノ……」

 

自分でも聞き取れるかどうかという小さな声だった。

 

真由は何も言わなかった。

 

ただ、麻衣の隣に立って、同じように窓の外を見ていた。

 

帝都アウグステンまでは、およそ一日かかった。

 

列車は途中で何度か停車したが、麻衣たちが車両から出ることは許されなかった。

 

食事は護送官が運んでくれた。

 

硬いパンと温かなスープ、それに簡単な煮込み料理だった。

 

量は十分にあり、味も悪くなかった。

 

水を求めれば飲ませてもらえたし、具合が悪くないかと尋ねられることもあった。

 

護送官たちは必要以上に話しかけてこなかったが、乱暴に扱うこともなかった。

 

それがかえって麻衣には不思議だった。

 

彼らは自分たちを憎んでいるわけでも、哀れんでいるわけでもない。

 

ただ、決められた仕事をしているだけなのだ。

 

夜になると、真由は寝台に横になったまま何度も寝返りを打っていた。

 

「眠れない?」

 

麻衣が尋ねた。

 

「うん。麻衣は?」

 

「私も」

 

「ねえ、日本に帰れないのかな」

 

突然の言葉だった。

 

麻衣はしばらく考えた。

 

この世界に召喚されたとき、日本には元の自分がそのまま残っていると教えられた。

 

ここにいる自分たちは、日本で暮らしていた人間の複製なのだという。

 

だから、帰る場所というものが存在しない。

 

それでも、真由の言いたいことはわかった。

 

自分たちが知っている日本の生活に戻りたいのだ。

 

学校に通って、友達と遊んで、休日には買い物に出かける。

 

そんな、何でもない生活に。

 

「帰りたいね」

 

麻衣は答えた。

 

「うん……」

 

真由はそれきり黙ってしまった。

 

やがて、寝台の向こうから小さな寝息が聞こえてきた。

 

麻衣も目を閉じた。

 

けれども、なかなか眠ることはできなかった。

 

翌日、列車は帝都アウグステンに到着した。

 

窓の外に広がる景色は、ベルノとは比べものにならないほど大きな都市だった。

 

何本もの線路が複雑に入り組み、巨大な駅舎や倉庫が並んでいる。

 

貨物列車が次々と行き交い、遠くには煙突から黒い煙を上げる工場も見えた。

 

「すごいね……」

 

麻衣が呟くと、真由も頷いた。

 

「本当に大きな街だね」

 

二人はしばらく窓の外を眺めていた。

 

やがて護送官がやってきた。

 

鉄格子が開かれ、二人の手首に再び手錠がかけられた。

 

車両から降りると、駅の構内には大勢の人々が行き交っていた。

 

旅行用の鞄を持った人々、子供を連れた家族、商人らしい男たち。

 

その間を、制服姿の鉄道職員が忙しそうに歩いている。

 

麻衣は久しぶりに普通の人々の生活を見たような気がした。

 

ただし、彼らと自分たちの間には、はっきりとした違いがあった。

 

麻衣たちは首輪をつけ、手錠をかけられていた。

 

通りかかった人々の何人かが、こちらに視線を向けた。

 

しかし、ほとんどの人はすぐに目を逸らし、そのまま通り過ぎていった。

 

護送官に連れられ、二人は駅の外に停まっていた馬車へ乗せられた。

 

そこで、佐々木と中村の姿が見えた。

 

二人は別の馬車に乗せられるところだった。

 

「健! 拓也!」

 

真由が声を上げた。

 

佐々木が振り返った。

 

「おう! またあとでな!」

 

「うん!」

 

中村も手錠のかかった腕を少し持ち上げた。

 

麻衣も小さく手を振った。

 

しかし、それ以上話すことはできなかった。

 

二人を乗せた馬車が先に動き出したからだった。

 

馬車が向かったのは、帝都の拘置所だった。

 

高い塀に囲まれた大きな建物で、門には武装した警備員が立っていた。

 

中庭には何台もの護送馬車が停まっている。

 

どうやら、他の場所からも囚人が運ばれてきているらしい。

 

麻衣と真由は建物の中へ連れていかれた。

 

受付では国家奴隷省の職員が書類を確認し、一人ずつ首輪の番号を読み上げていた。

 

麻衣も番号を確認され、女性用の収容区画へ案内された。

 

廊下の途中には鉄格子の扉がいくつもあり、それぞれに警備員が立っている。

 

男性用の収容区画は別の場所にあったが、移送される囚人が建物の外へ出るには、女性用収容区画の前を通る造りになっていた。

 

案内された部屋には六人分の寝台が並んでいた。

 

幸い、真由とは同じ部屋だった。

 

「よかった。一緒だね」

 

真由が言った。

 

「うん」

 

麻衣も少し安心した。

 

部屋の入口は鉄格子になっており、廊下の様子がよく見えた。

 

「健たちはどうしてるかな」

 

麻衣が尋ねると、真由は肩をすくめた。

 

「さあ。でも、同じ建物のどこかにいるんじゃない?」

 

「そうだね」

 

「どうせ、また列車に乗るときに会えるでしょ」

 

真由は気楽そうに言った。

 

麻衣も、そうだろうと思った。

 

拘置所に入って最初の朝。

 

麻衣と真由は朝食を終え、部屋で過ごしていた。

 

廊下の向こうから足音が聞こえてきた。

 

見ると、男性職員に連れられた囚人が一人、こちらへ歩いてくる。

 

首輪をつけ、手錠をかけられていた。

 

「……あれ?」

 

真由が顔を上げた。

 

「健じゃない?」

 

麻衣も鉄格子に近づいた。

 

間違いなかった。

 

佐々木健だった。

 

「健!」

 

真由が声をかけた。

 

佐々木は驚いたように振り返った。

 

「おお、真由! 麻衣もいるのか!」

 

「どこ行くの?」

 

「知らねえ。移送だってよ」

 

佐々木は面倒くさそうに答えた。

 

「もう行っちゃうの?」

 

麻衣が尋ねた。

 

「ああ。俺は今日みたいだ」

 

佐々木はそう言って、二人の顔を見た。

 

「おまえらは?」

 

「まだ何も言われてない」

 

真由が答えた。

 

「そうか」

 

佐々木は少し考えたようだった。

 

「まあ、向こうでも何とかなるだろ」

 

いつもの強気な口調だった。

 

だが、顔には少し不安そうな様子があった。

 

職員が先へ進むよう促した。

 

佐々木は二人を見た。

 

「じゃあな。元気でやれよ」

 

「健もね!」

 

真由が答えた。

 

「健、またね!」

 

麻衣も声をかけた。

 

「ああ!」

 

佐々木は手錠のかかった両手を少し持ち上げ、そのまま職員について歩いていった。

 

廊下の奥で鉄格子の扉が開く。

 

佐々木はその向こうへ消えていった。

 

「……行っちゃったね」

 

麻衣が呟いた。

 

「うん。でも、またどこかで会えるでしょ」

 

真由はそう言って、自分の寝台に戻った。

 

麻衣も頷いた。

 

まだ、このときは本当にそう思っていた。

 

翌日。

 

昼食を終えてしばらくした頃、また廊下から足音が聞こえてきた。

 

男性職員に連れられて歩いてきたのは、中村拓也だった。

 

「あっ、拓也!」

 

今度は麻衣が先に気づいた。

 

中村が顔を上げる。

 

「おお、麻衣。真由もいるのか」

 

真由も鉄格子の前へやってきた。

 

「拓也も移送?」

 

「ああ。今日だってさ」

 

「健は昨日行ったよ」

 

真由が言った。

 

「知ってる。俺と同じ部屋だったからな」

 

中村は肩をすくめた。

 

「昨日、先に連れていかれた」

 

「そっか……」

 

麻衣は少し寂しくなった。

 

佐々木も、中村も、別々の場所へ送られる。

 

四人で一緒にいることは、もうできないのだろうか。

 

「ねえ、拓也。みんな別々なのかな」

 

麻衣が尋ねた。

 

「どうだろうな。行き先なんて何も聞いてねえし」

 

中村は少し笑った。

 

「まあ、飯も出るし寝る場所もあるんだろ。何とかなるって」

 

いつもの軽い口調だった。

 

だが、麻衣には中村も不安なのではないかと思えた。

 

職員が何か声をかけた。

 

中村は振り返り、頷いた。

 

「じゃあ、俺も行くわ」

 

「拓也、元気でね!」

 

真由が言った。

 

「おう。おまえらもな」

 

中村は麻衣を見た。

 

「麻衣も、真由がいなくなったらちゃんと自分でやれよ」

 

「もう、何それ!」

 

真由が笑った。

 

麻衣も少し笑った。

 

「うん。頑張る」

 

「じゃあな」

 

中村はそう言って、職員について歩き始めた。

 

「拓也、またね!」

 

麻衣が声をかける。

 

中村は振り返り、手錠のかかった両手を少し持ち上げた。

 

そして、そのまま廊下の奥へ消えていった。

 

「……拓也も行っちゃった」

 

麻衣は鉄格子の向こうを見つめた。

 

真由が隣に立った。

 

「そうだね」

 

二人はしばらく黙っていた。

 

昨日は佐々木。

 

今日は中村。

 

明日は誰なのだろう。

 

麻衣は急に不安になった。

 

三日目の朝。

 

いつものように点呼が行われた。

 

女性職員が書類を確認し、一人ずつ番号を読み上げている。

 

その中に、真由の番号があった。

 

「……私?」

 

真由は立ち上がった。

 

職員は頷き、移送の準備をするよう指示した。

 

「え、もう行くの?」

 

麻衣は思わず尋ねた。

 

「みたいだね」

 

真由は少し困ったように笑った。

 

「麻衣は?」

 

「まだ呼ばれてない……」

 

「そっか」

 

真由は自分の寝台を振り返った。

 

もっとも、片付けるほどの荷物はなかった。

 

衣服も寝具も拘置所の備品で、個人的な持ち物などほとんどない。

 

やがて職員が戻ってきて、真由に手錠をかけた。

 

「じゃあ、私、先に行くね」

 

真由が言った。

 

「待って。私も一緒じゃないの?」

 

麻衣は職員に尋ねた。

 

しかし、職員は首を横に振った。

 

真由だけだという。

 

「そんな……」

 

麻衣は真由を見た。

 

「私たち、別々なの?」

 

「そうみたい」

 

真由も少し不安そうだった。

 

二人は七月に召喚されてから、ずっと一緒だった。

 

訓練も、部隊への配属も、逃亡したときも。

 

捕まってからも、軍事法廷に立ったときも、ベルノから帝都までの護送列車でも一緒だった。

 

それなのに、ここで別々になるという。

 

「真由……」

 

麻衣の目から涙がこぼれた。

 

「もう、泣かないでよ」

 

真由が困ったように笑った。

 

「私まで泣きそうになるじゃん」

 

「だって……」

 

「ほら、またどこかで会えるかもしれないし」

 

「本当に?」

 

「わかんないけどさ」

 

真由は少し考えたあと、明るい声で言った。

 

「大丈夫だって。麻衣もちゃんとご飯食べなよ。嫌なことあるとすぐ食べなくなるんだから」

 

「うん……」

 

「それから、わからないことがあったらちゃんと聞くんだよ。黙ってないでさ」

 

「うん……」

 

「もう、泣かない!」

 

真由はそう言ったが、その目にも涙が浮かんでいた。

 

職員が出発を促した。

 

真由は最後にもう一度、麻衣の顔を見た。

 

「じゃあね、麻衣。元気でね!」

 

「真由も!」

 

麻衣は泣きながら答えた。

 

真由は手錠のかかった両手を少し持ち上げた。

 

麻衣も手を振り返した。

 

そして真由は職員に連れられ、廊下の向こうへ歩いていった。

 

鉄格子の扉が閉まる。

 

金属製の錠がかけられる音が響いた。

 

麻衣はしばらく、その扉を見つめていた。

 

真由の姿はもう見えなかった。

 

麻衣は自分の寝台に腰を下ろした。

 

向かい側には、真由が使っていた寝台があった。

 

さっきまで、そこに真由がいた。

 

毎日、日本語で話していた。

 

ベルノでも、護送列車でも、この拘置所でも。

 

真由がいたから、何とか我慢できていた。

 

麻衣は部屋の中を見回した。

 

他にも女性たちはいる。

 

けれども、誰一人として知っている人はいなかった。

 

日本語で話せる相手もいない。

 

佐々木も、中村も、真由もいなくなった。

 

「……私、一人になっちゃった」

 

小さく呟いた。

 

今までは、誰かがいた。

 

佐々木が文句を言い、中村が適当に相槌を打ち、真由が二人に言い返していた。

 

麻衣はその隣で笑っていた。

 

自分から何かを決めることは、あまりなかった。

 

誰かが決めてくれたことについていけばよかった。

 

けれども、これからは違う。

 

何をするにも、自分で考えなければならない。

 

知らない場所へ連れていかれ、知らない人たちの中で暮らしていかなければならない。

 

麻衣は真由の寝台を見つめた。

 

「……真由」

 

名前を呼んでみた。

 

当然、返事はなかった。

 

麻衣は毛布を引き寄せ、顔を埋めた。

 

涙が止まらなかった。

 

それまでにも何度も泣いた。

 

死刑を宣告されたときも、ベルノを離れたときも怖かった。

 

けれども、今はそれまでとは違っていた。

 

本当に、一人ぼっちになってしまった。

 

そのことが、何よりも怖かった。

 

四日目の朝。

 

点呼のため、男性職員が部屋に入ってきた。

 

一人ずつ番号を確認していく。

 

「HF8501」

 

麻衣は顔を上げた。

 

「はい」

 

職員は書類を確認し、廊下へ出るよう指示した。

 

麻衣の番だった。

 

手錠をかけられ、拘置所の受付へ連れていかれた。

 

そこで移送先を確認された。

 

職員は書類を見ながら、何か説明している。

 

麻衣にはほとんど理解できなかった。

 

ただ、西へ向かう列車に乗るということだけはわかった。

 

「ファバー……?」

 

ベルノで高梨から聞いた地名を口にすると、職員は頷いた。

 

どうやら間違っていないらしい。

 

そのまま建物の外へ連れ出された。

 

中庭には護送馬車が待っていた。

 

麻衣は馬車に乗せられ、帝都アウグステンの駅へ向かった。

 

駅に着くと、西方行きの護送列車へ案内された。

 

佐々木も、中村も、真由もいなかった。

 

麻衣は一人で車両へ乗り込んだ。

 

護送車両は、ベルノから乗ってきたものとほとんど同じ造りだった。

 

片側に護送官用の通路があり、反対側には鉄格子で仕切られた六人用の収容区画が並んでいる。

 

向かい合わせに設置された三段寝台と、中央の便器。

 

麻衣はもう驚かなかった。

 

自分の番号を確認し、指示された寝台に腰を下ろした。

 

同じ区画には、すでに三人の女性がいた。

 

いずれも麻衣より年上に見えた。

 

一人は二十代くらい、残りの二人は三十代から四十代ほどだろうか。

 

三人とも首輪をつけていた。

 

麻衣が入ってくると、少しだけ顔を上げたが、特に話しかけてくることはなかった。

 

麻衣も何も言えず、寝台に座っていた。

 

やがて列車が動き始めた。

 

窓の外では、帝都の巨大な駅舎がゆっくりと遠ざかっていく。

 

今度は、見送ってくれる人もいなかった。

 

麻衣はポケットから高梨のメモを取り出した。

 

何度も折り畳んだせいで、紙の端が少し傷んでいる。

 

そこには日本語と帝国共通語が並んでいた。

 

高梨が一つずつ、丁寧に書いてくれたものだった。

 

麻衣は日本語の部分を指でなぞった。

 

この紙も、収容施設に到着すれば回収されると聞いている。

 

そうなれば、日本語で書かれたものは何も残らなくなる。

 

麻衣はしばらくメモを眺め、それから丁寧に折り畳んでポケットにしまった。

 

帝都アウグステン。

 

佐々木健、中村拓也、加藤真由、そして吉田麻衣。

 

四人はこの街から、それぞれ別々の場所へ送られた。

 

この先、再び顔を合わせることはなかった。

 

西方への旅は長かった。

 

列車は何度も停車し、そのたびに人や荷物が乗り降りした。

 

二日目には新たに二人の女性が収容区画へ入り、六人分の寝台がすべて埋まった。

 

麻衣は他の女性たちと少しずつ話をするようになった。

 

もっとも、まだ帝国共通語を十分に理解できないため、会話らしい会話にはならなかった。

 

名前を尋ねられれば答える。

 

何歳かと聞かれれば、数字で答える。

 

聞き取れないときには首を傾げ、相手にゆっくり話してもらう。

 

それでも、長い説明になると何を言っているのかさっぱりわからなかった。

 

あるとき、年配の女性が麻衣に何かを尋ねた。

 

聞き取れたのは、どこから来たのかという意味の言葉だけだった。

 

「……日本人です」

 

麻衣は覚えている帝国共通語で答えた。

 

「勇者?」

 

女性が聞き返した。

 

その言葉ならわかる。

 

麻衣が頷くと、女性は少し驚いた顔をした。

 

それから何か話しかけてきたが、麻衣にはほとんど理解できなかった。

 

「すみません。わかりません」

 

麻衣は高梨に教わった言葉を使った。

 

女性は少し考えたあと、ゆっくりと何かを言った。

 

それでも麻衣には意味がわからなかった。

 

結局、女性は困ったように笑い、麻衣の肩を軽く叩いた。

 

麻衣も小さく笑い返した。

 

それ以上、話は続かなかった。

 

旅の途中、麻衣は窓の外を眺めることが多くなった。

 

帝都を離れると、周囲には広大な農地が広がっていた。

 

小さな村や町を通り過ぎ、森を抜け、ときには大きな川を渡った。

 

途中の駅では、農作物を積み込む貨車や、家畜を運ぶ車両を見かけた。

 

この世界にも、普通の人々の暮らしがある。

 

農民が畑を耕し、商人が商品を運び、子供たちが駅の近くで遊んでいる。

 

そんな景色を見ていると、自分が国家奴隷として護送されていることを一瞬忘れそうになった。

 

だが、首を動かすたびに金属の輪が肌に触れる。

 

その感触が、現実を思い出させた。

 

夜になると、麻衣は寝台に横になり、天井を眺めた。

 

真由は今頃、どこにいるのだろう。

 

佐々木と中村は、無事に目的地へ着いただろうか。

 

高梨は、もういつもの仕事に戻っているのだろうか。

 

ベルノの兵舎では、同じ頃に誰かが食堂で夕食を食べているかもしれない。

 

自分たちがいた場所では、何事もなかったように毎日が続いているのだろう。

 

そんなことを考えると、胸が苦しくなった。

 

けれども、いつまでも泣いているわけにはいかなかった。

 

同じ区画の女性たちは、誰も泣いていない。

 

黙って食事をし、眠り、護送官の指示に従っていた。

 

麻衣も少しずつ、同じように振る舞うようになった。

 

言われたことをする。

 

わからなければ尋ねる。

 

食事が出れば食べ、眠れるときには眠る。

 

それだけで一日は過ぎていった。

 

帝都を出発して五日ほどが過ぎた頃、窓の外の景色が変わり始めた。

 

森が少なくなり、平坦な土地が広がるようになった。

 

遠くには低い丘が連なり、その向こうに灰色の空が見えている。

 

やがて、窓の外に広い水面が見えてきた。

 

「海……?」

 

麻衣は思わず呟いた。

 

隣の女性が何か話しかけ、窓の外を指さした。

 

麻衣には言葉の意味がわからなかったが、目の前に広がっているのが海であることはわかった。

 

日本にいた頃、家族と海へ遊びに行ったことを思い出した。

 

夏休み。

 

砂浜。

 

波の音。

 

そんな記憶が突然浮かび、麻衣はしばらく窓の外を見つめていた。

 

しかし、列車が向かっているのは海水浴場ではなかった。

 

西海岸の港湾都市ファバー。

 

その近郊にある国家奴隷省の収容施設が、麻衣の移送先だった。

 

やがて列車は大きな駅に到着した。

 

ここまでの旅を共にした女性たちも、順番に手錠をかけられ、車両から降ろされた。

 

麻衣も番号を確認され、護送官に従った。

 

駅では、他の列車から移送されてきた国家奴隷たちが待っていた。

 

男性も女性もいる。

 

若い者もいれば、かなり年配に見える者もいた。

 

全員が首輪をつけ、護送官の指示に従って整列していた。

 

麻衣たちを含めると、三十人ほどになった。

 

人数の確認が終わると、一行は駅の外へ連れ出された。

 

そこには大型の護送馬車が何台も待機していた。

 

麻衣は女性たちと一緒に馬車へ乗せられた。

 

馬車は駅を離れ、郊外へ向かって走り始めた。

 

沿道には小さな農家や畑が点在していたが、やがて建物は少なくなっていった。

 

しばらく進むと、前方に長い塀が見えてきた。

 

高い石造りの塀だった。

 

周囲の畑や道路とは明らかに異なる、巨大な施設を取り囲んでいる。

 

塀の向こうには、いくつもの建物の屋根が見えた。

 

大きな宿舎らしい建物。

 

倉庫。

 

煙突のある施設。

 

さらに奥には農地が広がっているようだった。

 

麻衣は鉄格子越しにそれらを眺めた。

 

「ここ……?」

 

隣の女性が頷いた。

 

それから何か短い言葉を口にした。

 

麻衣には意味がわからなかったが、女性が目の前の施設を指さしていることはわかった。

 

ここが目的地なのだろう。

 

馬車は大きな門の前で停まった。

 

門の両側には警備員が立っており、護送官から書類を受け取ると、一人ずつ番号を確認していった。

 

「HF8501」

 

麻衣の番号が呼ばれた。

 

「はい」

 

返事をすると、職員が書類に印をつけた。

 

やがて門が開かれた。

 

中には広い敷地があり、道路の両側にいくつもの建物が並んでいた。

 

少し離れたところには、作業着姿の人々が歩いている。

 

その全員が首輪をつけていた。

 

麻衣は思わず自分の首元に触れた。

 

ここにいる人たちは、みんな自分と同じなのだ。

 

馬車がゆっくりと門をくぐった。

 

麻衣はポケットに入れた高梨のメモを確かめた。

 

まだ、そこにある。

 

小さな紙の感触に、少しだけ安心した。

 

ここが、これから自分の暮らす場所になる。

 

いつまでなのかと考えかけて、麻衣はやめた。

 

期限などないのだ。

 

ベルノで説明されたとおりなら、ここでの生活は死ぬまで続く。

 

麻衣は一度だけ、後ろを振り返った。

 

門の向こうには、ここまで走ってきた道路が見えていた。

 

だが、その景色もすぐに閉ざされた。

 

重い門がゆっくりと閉じられていく。

 

金属が噛み合う低い音が響いた。

 

吉田麻衣、十六歳。

 

帝国歴231年12月中旬。

 

彼女の国家奴隷としての生活は、こうして始まった。

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