勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴231年12月中旬~232年2月


第2節 収容施設

建物がいくつもある。

 

倉庫のようなものもあれば、長い宿舎のような建物もある。少し離れた場所には畑が広がり、その向こうには柵で囲われた牧草地が見えた。

 

馬もいる。

 

牛らしい姿もあった。

 

「……刑務所?」

 

麻衣は呟いた。

 

どうにも刑務所らしくない。

 

むしろ大きな農場に見えた。

 

馬車が建物の前で止まった。

 

全員が降ろされる。

 

別の馬車からも次々と人が降りてきた。

 

男。

 

女。

 

若い者。

 

年配の者。

 

三十人ほどになった。

 

職員たちが周囲を囲んでいる。

 

制服の腰には拳銃が下がっていた。

 

麻衣はそれを見て、逃げるという考えをすぐに捨てた。

 

そもそも逃げたところで、ここがどこなのかすら分からない。

 

職員の号令で男女が分けられた。

 

男たちは別の建物へ向かう。

 

麻衣は女たちの列について歩いた。

 

前を歩く女の背中を見ながら、なんとなく首元の番号を見る。

 

自分と同じような金属板が揺れている。

 

建物へ入った瞬間、鼻につく匂いがした。

 

薬品の匂いだった。

 

廊下は妙に清潔だった。

 

白い服を着た人間が何人もいる。

 

「病院……?」

 

医務室らしい。

 

そこで列が止まった。

 

男性職員が前に立ち、大声で何か命令した。

 

麻衣には分からない。

 

しかし、周囲の女たちは一斉に衣服を脱ぎ始めた。

 

「……え?」

 

麻衣だけが立ったままになった。

 

隣の女が上着を脱ぎ、衣類を箱の中へ入れている。

 

職員が麻衣を見た。

 

服を指す。

 

それから大きな箱を指した。

 

「全部?」

 

聞いても仕方がない。

 

もう一度、箱を指される。

 

麻衣は周囲を見回した。

 

誰も抵抗していない。

 

「……はいはい」

 

小さく呟いて、服を脱ぎ始めた。

 

着ていた服も、下着も、持っていたものも、全部箱の中へ入れる。

 

最後に残ったのは、高梨のメモだった。

 

麻衣は紙を持ったまま少し迷った。

 

職員が箱を指した。

 

「これも?」

 

当然、答えは分からない。

 

もう一度指される。

 

麻衣は折り畳まれた紙を見た。

 

ベルノの牢で、高梨が三日かけて作ってくれたものだった。

 

護送列車の中では、何度もこれを開いた。

 

この世界で唯一、意味の分かる文字が書かれている紙だった。

 

「……そっか」

 

麻衣はそれを箱へ入れた。

 

蓋が閉じられる。

 

その瞬間、ベルノから持ってきた最後のものまで取り上げられたような気がした。

 

衣類を預けた女たちは、二列に分けられていった。

 

麻衣は何も分からないので、とりあえず前の女についていった。

 

すると職員に肩を掴まれた。

 

「え?」

 

反対側を指される。

 

麻衣はそちらへ移った。

 

そこで初めて気づいた。

 

向こうの列には年配の女が多い。

 

五十歳を超えていそうな者もいる。

 

こちらは若い女ばかりだった。

 

「……何これ」

 

嫌な感じがした。

 

だが、その理由まではまだ分からなかった。

 

順番が来た。

 

診察室には白衣を着た男性医師がいた。

 

五十歳くらいだろうか。痩せた体つきで、眼鏡をかけている。

 

医師は麻衣に何か質問した。

 

「……分からない」

 

覚えた帝国共通語で答えた。

 

医師がもう一度聞く。

 

「分からない」

 

今度はちゃんと通じたらしい。

 

医師は近くの職員を呼び、麻衣の書類を指した。

 

職員が何か答える。

 

医師は書類と麻衣を交互に見て、それから小さく頷いた。

 

次の場所を指す。

 

そこには診察台があった。

 

形を見た瞬間、麻衣にも何のためのものか分かった。

 

「……産婦人科じゃん」

 

日本の病院でも、テレビなどで見たことがある。

 

嫌だった。

 

だが周囲を見ると、前の女も同じ診察を受けている。

 

逃げられる場所でもない。

 

麻衣は言われるまま診察台へ上がった。

 

医師は健康状態を調べ、女性職員が検査結果を書類に記入していった。

 

麻衣にとっては不安で落ち着かない検査だったが、彼らは終始事務的だった。

 

医師は特に麻衣を慰めることも、叱ることもしなかった。

 

本人が何を考えているかなど、気にしていないようだった。

 

しばらくして検査が終わった。

 

降りるよう促される。

 

麻衣はほっとして立ち上がった。

 

だが、まだ終わりではなかった。

 

次の部屋には椅子が並んでいた。

 

前にいる女が一人、座らされた。

 

職員がその頭を押さえ、鋏を動かし始める。

 

床に髪が落ちていった。

 

「あ、髪切るんだ」

 

一人。

 

また一人。

 

全員が短い髪にされていく。

 

麻衣の番になった。

 

椅子へ座らされ、髪を切られる。

 

肩の下まであった髪が、次々と床へ落ちていった。

 

「ちょっと、短すぎない?」

 

もちろん返事はない。

 

作業が終わり、鏡を渡された。

 

耳が出るほど短くなっていた。

 

「……うわ、誰これ」

 

思わず呟いた。

 

似合っているのかどうかも、よく分からない。

 

だが、職員は鏡を回収すると次の場所を指した。

 

今度は別の椅子だった。

 

前にいる女の額に、職員が何かを当てている。

 

女が顔をしかめた。

 

「何してるんだろ……」

 

一人。

 

また一人。

 

順番が進むにつれて、麻衣にも見えてきた。

 

女たちの額に、小さな印が残っている。

 

逆三角形。

 

入れ墨だった。

 

麻衣は無意識に自分の額へ手をやった。

 

後ろにはまだ女が並んでいる。

 

前には職員。

 

逃げ場はない。

 

やがて自分の番になった。

 

椅子へ座らされる。

 

額を固定された。

 

次の瞬間、細い痛みが走った。

 

「痛っ……」

 

思わず日本語が出た。

 

職員は気にも留めなかった。

 

作業が終わる。

 

麻衣は額に触れようとして、すぐ手を払われた。

 

触るな、ということらしい。

 

少し離れたところに小さな鏡があった。

 

通り過ぎるとき、麻衣は横目で自分の顔を見た。

 

額の中央に、小さな逆三角形がある。

 

首にはHF8501。

 

額には奴隷の印。

 

そこでようやく、麻衣は少しだけ思った。

 

――本当に奴隷になったんだ。

 

けれど、立ち止まって考える時間はなかった。

 

すぐ次の職員が、新しい服を麻衣へ差し出した。

 

下着と灰色がかった作業服だった。

 

麻衣は受け取った服を広げてみた。

 

飾りらしいものは何もなく、作業服にはポケットが二つあるだけだった。

 

サイズもぴったりというわけではない。

 

少し大きい。

 

「これ着ろってことね」

 

周りの女たちが次々と着替えているので、聞くまでもなかった。

 

下着をつけ、作業服に袖を通す。

 

着てきた服は戻ってこなかった。

 

あの箱の中には、高梨からもらったメモも入っている。

 

一瞬だけ箱のあった方向を振り返ったが、もう見えなかった。

 

「……まあ、覚えた単語もあるし」

 

自分に言い聞かせるように呟いた。

 

健康診断を終えた女たちは、十人ほどずつに分けられて別の建物へ連れていかれた。

 

外へ出ると、夕方になっていた。

 

海から吹いてくる風が少し冷たい。

 

建物と建物の間には幅の広い道があり、その向こうを荷馬車が通っていく。

 

遠くでは何人もの奴隷が畑から戻ってくるところだった。

 

額には、麻衣と同じ逆三角形。

 

「広いな……」

 

刑務所というより、小さな町のようだった。

 

ただし、どこを見ても高い塀が視界に入る。

 

そして門には武装した職員が立っている。

 

自由に出られない町。

 

そんな感じだった。

 

連れてこられた宿舎は、木造の細長い建物だった。

 

中には同じような扉がいくつも並んでいる。

 

麻衣たちは、そのうち一室へ入れられた。

 

「ここ?」

 

十台の寝台が並んでいた。

 

二段ベッドではない。

 

床から少し高くした木箱のような寝台が、壁沿いにずらりと置かれている。それぞれに小さな番号札がついていた。

 

麻衣は一つずつ確認した。

 

読める。

 

高梨に数字と文字を教えてもらっていて本当によかった。

 

「HF……八、五、〇、一……」

 

あった。

 

窓から三番目。

 

腰を下ろしてみる。

 

「硬っ」

 

板の上に薄い敷物を置いただけだった。

 

隣の女が麻衣を見て、何か言った。

 

「え?」

 

女は寝台を指して、もう一度何か言う。

 

分からない。

 

「ごめん。分かんない」

 

日本語で返した。

 

当然、女も困った顔をした。

 

しばらく二人で見つめ合ったあと、女は肩をすくめた。

 

麻衣も肩をすくめる。

 

それで会話は終わった。

 

「まあ、そのうちね」

 

麻衣は寝台へ仰向けになった。

 

天井の板が見える。

 

ここが自分の部屋になるらしい。

 

突然、建物のどこかで音が鳴った。

 

続いて放送が流れる。

 

帝国共通語だった。

 

もちろん、ほとんど分からない。

 

「今度は何?」

 

麻衣が起き上がると、部屋にいた女たちが一斉に立ち上がった。

 

ぞろぞろと外へ出ていく。

 

「待って、待って」

 

麻衣も慌てて後を追った。

 

廊下を歩きながら前の女に聞いてみる。

 

「食事?」

 

日本語。

 

通じるはずがない。

 

口に食べ物を運ぶ仕草をしてみた。

 

「これ?」

 

女が麻衣を見て、何か答えた。

 

その中に、高梨から習った単語があった。

 

食事。

 

「あ、やっぱりご飯なんだ」

 

麻衣が嬉しそうに言うと、女は意味が分からないまま笑った。

 

食堂は大きかった。

 

長い机が何列も並び、大勢の女が座っている。

 

職員の指示に従って列に並ぶ。

 

金属製の皿に料理が盛られていく。

 

煮た豆。

 

野菜。

 

黒っぽいパン。

 

少量の肉。

 

豪華ではない。

 

だが牢にいたときと比べれば、量はあった。

 

麻衣は空いている席へ座った。

 

向かいの女がパンをちぎって食べている。

 

麻衣も真似する。

 

「……硬い」

 

かなり噛まないといけない。

 

隣の女が何か言った。

 

別の女が笑う。

 

麻衣もつられて笑った。

 

「何がおかしいか分かんないけど」

 

それを聞いて、当然また何か言われる。

 

「分かんないって」

 

麻衣は笑いながら首を振った。

 

言葉はまったく通じない。

 

それでも牢の中よりは、不思議と息苦しくなかった。

 

食事が終わると、また放送が入った。

 

今度は全員が別の建物へ向かう。

 

「次は何よ」

 

麻衣もついていく。

 

中へ入って分かった。

 

シャワーだった。

 

「お風呂!」

 

少し嬉しくなった。

 

ところが、のんびりできるものではなかった。

 

何十人もの女が一斉に入り、空いた場所から身体を洗っていく。

 

一定時間が経つと職員が声をかけ、次の集団と交代する。

 

「早っ」

 

麻衣は慌てて髪を洗った。

 

短く切られた髪は、驚くほど簡単に洗えた。

 

「……これは楽かも」

 

隣の女が、もっと急げというような身振りをする。

 

「分かった、分かったって」

 

もちろん日本語で答える。

 

召喚される前なら、シャワーを浴びながらスマホを触って、長時間出てこないこともあった。

 

ここではそんなことはできない。

 

身体を洗う。

 

髪を洗う。

 

流す。

 

終わり。

 

「軍隊より忙しくない?」

 

誰にも通じない愚痴を言いながら外へ出た。

 

服と一緒にもらった小袋には、歯ブラシと小さな日用品が入っていた。

 

周囲が歯を磨き始めたので、麻衣も真似をした。

 

「はいはい。歯磨きね」

 

一日中、周囲の真似ばかりしている。

 

しかし、それで何とかなっていた。

 

宿舎へ戻ると、女たちはそれぞれ寝台に腰掛けて話を始めた。

 

笑い声も聞こえる。

 

誰かが身振りを交えて何かを話し、周囲が笑う。

 

麻衣には内容が分からない。

 

それでも、ここにいる女たちが四六時中怯えているわけではないことが、少し意外だった。

 

奴隷。

 

その言葉から想像していたものとは、どこか違う。

 

自由がないことは間違いない。

 

首輪もある。

 

額には消えない印まで入れられた。

 

職員は拳銃を持っている。

 

それでも夕食を食べ、シャワーを浴び、寝る前には女同士でくだらない話をして笑っている。

 

「……よく分かんないところだな」

 

麻衣は寝台に座って、その様子を眺めていた。

 

また放送が鳴った。

 

女たちが会話をやめる。

 

男性職員が入ってきた。

 

手に板と紙を持っている。

 

点呼だった。

 

最初の女が答える。

 

「一」

 

次。

 

「二」

 

「三」

 

麻衣は自分の順番が来ることに気づいた。

 

「四」

 

職員が一瞬こちらを見る。

 

麻衣は少し不安になった。

 

発音を間違えたかと思った。

 

しかし職員はそのまま次へ進んだ。

 

「五」

 

麻衣は小さく息を吐いた。

 

「通じた……」

 

点呼が終わる。

 

職員が部屋を出ると、外から鍵のかかる音がした。

 

間もなく照明が消えた。

 

暗くなった部屋で、麻衣は寝台へ横になった。

 

「……硬い」

 

さっきと同じ感想だった。

 

寝返りを打つ。

 

首輪が少し動いた。

 

額もまだじんじんしている。

 

今日はベルノでもない。

 

アウグステンでもない。

 

名前もよく分からない海辺の施設。

 

佐々木も中村も真由もいない。

 

高梨のメモもなくなった。

 

「母さん、何してるかな……」

 

久しぶりに母親のことを思い出した。

 

日本では夜になると母が仕事へ出て、自分が帰ってくるころには家にいないことが多かった。

 

麻衣も麻衣で遊び歩いていた。

 

何日か顔を合わせないことさえ珍しくなかった。

 

それなのに、今はどうしてか顔が浮かんだ。

 

「……寝よ」

 

考えても仕方がない。

 

麻衣は目を閉じた。

 

疲れていたのだろう。

 

硬い寝台だったが、思ったより早く眠りに落ちた。

 

◇

 

まだ外が暗いうちに、突然放送が鳴った。

 

麻衣は目を覚ました。

 

「……何時?」

 

当然、時計はない。

 

周囲を見ると、女たちはもう起き始めている。

 

「まだ暗いじゃん……」

 

毛布を頭まで被る。

 

日本にいたころなら、このまま二度寝していた。

 

学校へ行かなければならない日でも、母親が帰宅して眠っていれば起こす者はいなかった。

 

昼近くに目を覚まして、

 

――もう今から行っても仕方ないか。

 

それで終わりだった。

 

だが、ここでは終わらなかった。

 

隣の女が麻衣の肩を叩いた。

 

「……ん?」

 

女が起きろという仕草をする。

 

「あと五分……」

 

通じるわけがない。

 

再び放送。

 

今度は女が麻衣の毛布を引っ張った。

 

「分かったよ!」

 

麻衣は渋々起きた。

 

「学校より厳しい……」

 

顔を洗う時間も決められているらしい。

 

ぼんやりしながら周囲についていく。

 

点呼。

 

朝食。

 

昨日と同じ硬いパン。

 

麻衣はパンをちぎりながら欠伸をした。

 

向かいの女が笑って何か言う。

 

「眠いの。分かる?」

 

麻衣は両手を合わせて頬に当て、眠る仕草をした。

 

女が笑った。

 

それから帝国共通語で短い言葉を言った。

 

「……それ、眠い?」

 

麻衣が同じ言葉を真似する。

 

女は首を振った。

 

もう一度、ゆっくり言う。

 

麻衣も繰り返した。

 

今度は女が頷いた。

 

「眠い」

 

麻衣は覚えた言葉を何度か口の中で繰り返した。

 

高梨のメモはなくなった。

 

これからはこうやって覚えるしかないらしい。

 

朝食が終わると、また放送。

 

外へ出る。

 

広場に女たちが整列していた。

 

職員が壇上に立ち、何かを説明している。

 

麻衣は真面目そうな顔だけしていた。

 

何を言っているのかは一つも分からない。

 

「……これ、聞いてる意味ある?」

 

隣の女が麻衣を見た。

 

「何でもない」

 

やがて一人の男性職員が、奴隷の女を連れてこちらへ来た。

 

麻衣の前で止まる。

 

職員が何か言った。

 

「……私?」

 

自分を指さす。

 

職員が頷いた。

 

一緒に来た女を見る。

 

三十代半ばくらいだろうか。

 

身長は160センチほど。

 

金髪を短く切り揃え、目鼻立ちのはっきりした顔をしている。

 

髪型は他の奴隷たちと変わらない。

 

けれども、落ち着いた表情と、こちらを観察するような目つきには、どこか知的な印象があった。

 

首輪の金属板には、

 

XA1076。

 

とある。

 

麻衣は文字を一つずつ追った。

 

「エックス……エー……一〇七六」

 

女が怪訝な顔をした。

 

「ごめん。番号読んだだけ」

 

壇上の職員が大きな号令をかけた。

 

整列していた女たちが一斉に動き始める。

 

XA1076が麻衣を見た。

 

何か短く言い、手招きする。

 

「ついてこい?」

 

女がもう一度手招きした。

 

「はいはい。行きます」

 

麻衣は後を追った。

 

少し歩くと、馬の鳴き声が聞こえてきた。

 

「え?」

 

建物の角を曲がる。

 

厩舎だった。

 

何十頭もの馬がいる。

 

独特の臭いが鼻に入った。

 

「うわ……臭っ」

 

麻衣が鼻を押さえる。

 

XA1076が麻衣の顔を見て笑った。

 

「何笑ってんの」

 

女は何か言った。

 

意味は分からない。

 

だが、どうも馬の糞を掃除しろと言っているらしい。

 

道具を渡された。

 

「これ?」

 

XA1076が頷く。

 

床を指す。

 

「……マジ?」

 

もう一度指す。

 

麻衣は道具と床を交互に見た。

 

「私、馬なんか触ったことないんだけど」

 

XA1076には通じない。

 

結局、女が実際にやって見せた。

 

汚れた敷き藁を集める。

 

運ぶ。

 

新しいものを敷く。

 

水を替える。

 

餌を入れる。

 

「ああ、そういうことね」

 

麻衣も真似をした。

 

最初の一時間で嫌になった。

 

「腰痛い……」

 

しゃがみ込む。

 

XA1076が何か言う。

 

「休憩?」

 

違ったらしい。

 

立て、と手で示された。

 

「厳しいなあ」

 

渋々立つ。

 

少しすると男性職員がこちらを見る。

 

XA1076が小声で何か言った。

 

その言葉は分からなかったが、早く動け、という意味だけは伝わった。

 

「はいはい」

 

麻衣はまた藁を集め始めた。

 

昼になるころには汗だくだった。

 

放送が流れる。

 

XA1076が道具を置いた。

 

「ご飯?」

 

麻衣が口へ食べ物を運ぶ仕草をする。

 

XA1076が頷いた。

 

「やった」

 

意味は通じていないはずだが、XA1076も少し笑った。

 

食堂へ向かう途中、麻衣は女の横を歩いた。

 

「ねえ」

 

XA1076がこちらを見る。

 

麻衣は自分の胸を指した。

 

「麻衣」

 

「……?」

 

「麻衣。私」

 

もう一度、自分を指す。

 

「マイ」

 

XA1076は意味を理解したようだった。

 

だが、すぐ周囲を確認した。

 

少し離れたところを男性職員が歩いている。

 

女は首を横に振った。

 

自分の首輪を指す。

 

「XA1076」

 

「番号?」

 

女はもう一度、自分の番号を指した。

 

次に麻衣の首輪。

 

「HF8501」

 

そう発音した。

 

「ああ……名前じゃなくて番号で呼べってこと?」

 

意味は全部分からなくても、なんとなく察した。

 

「HF8501」

 

麻衣が自分を指す。

 

XA1076が頷いた。

 

麻衣は少し口を尖らせた。

 

「長いよ」

 

もちろん通じない。

 

「麻衣のほうが短いじゃん」

 

XA1076が何か返した。

 

麻衣には分からなかった。

 

それでも二人は並んで食堂へ向かった。

 

そんな生活が十日ほど続いた。

 

朝は放送で起こされる。

 

点呼を受ける。

 

朝食。

 

厩舎へ行く。

 

馬房を掃除し、餌を運び、水を替える。

 

昼食。

 

午後も仕事。

 

夕食。

 

シャワー。

 

点呼。

 

消灯。

 

最初の三日は、朝起きるたびに嫌になった。

 

四日目には諦めた。

 

一週間もすると、放送が鳴る少し前に目を覚ます日まで出てきた。

 

「……私、すごくない?」

 

ある朝、麻衣は一人で呟いた。

 

高校時代、五日連続で遅刻せず学校へ行った記憶すら怪しい。

 

それが今では十日間、一日も仕事を休んでいない。

 

もっとも、休むという選択肢そのものがないのだが。

 

XA1076とも、少しずつ意思疎通ができるようになっていた。

 

「水」

 

麻衣が桶を指す。

 

XA1076が発音を直す。

 

「水」

 

「水」

 

首を振られる。

 

「……違う?」

 

もう一度。

 

麻衣が真似する。

 

今度は頷いた。

 

「難しいんだよ、発音」

 

麻衣が文句を言う。

 

XA1076は意味も分からず笑う。

 

麻衣も笑った。

 

言葉が通じなくても、毎日一緒に仕事をしていると、なんとなく相手が何を言いたいのか分かるようになってくる。

 

仕事。

 

食事。

 

水。

 

馬。

 

朝。

 

夜。

 

痛い。

 

疲れた。

 

少しずつ言葉が増えていった。

 

十日ほど経った日の昼。

 

食事を終えた麻衣が厩舎へ戻ろうとすると、職員に呼び止められた。

 

首輪を確認される。

 

「HF8501」

 

今では自分の番号だけは、すぐ聞き取れる。

 

「はい」

 

帝国共通語で返事をする。

 

職員が手招きした。

 

「私?」

 

頷く。

 

XA1076を見る。

 

「仕事は?」

 

XA1076には日本語は分からない。

 

だが麻衣が厩舎を指すと、職員が首を横に振った。

 

別の方向を指す。

 

「……どこ行くんだろ」

 

麻衣は職員についていった。

 

見覚えのある建物が見えてきた。

 

医療施設だった。

 

ただし、最初の日に健康診断を受けた建物とは違う。

 

「また病院?」

 

どこか悪かっただろうか。

 

自覚症状はない。

 

建物の中へ入る。

 

廊下の椅子に何人か女が座っていた。

 

その一人を見て、麻衣は足を止めそうになった。

 

腹が大きい。

 

妊婦だった。

 

向こうにもいる。

 

こちらにもいる。

 

若い女が多かった。

 

「……あ」

 

麻衣は急に、高梨から聞いた話を思い出した。

 

軍事法廷のあとだった。

 

国家奴隷制度について説明を受けたとき、高梨も言いにくそうに話していた。

 

女性の国家奴隷は、本人の意思に関係なく妊娠させられる。

 

生まれた子供は国家育成院に送られ、そこで育てられる。

 

その話が頭の中に戻ってきた。

 

職員が部屋を指した。

 

中へ入る。

 

男性医師がいた。

 

入所した日に診察を担当した医師だった。

 

診察台もある。

 

麻衣はそれを見て、思わず職員を振り返った。

 

「……これ?」

 

職員が何か説明した。

 

麻衣には、ほとんど理解できなかった。

 

ただ、診察を受けるよう指示されていることは分かった。

 

「……また?」

 

男性医師は書類を確認している。

 

女性職員が準備を進めていた。

 

麻衣は診察台を見た。

 

そして、もう一度医師を見た。

 

「……まさかね」

 

小さく呟いた。

 

医師は麻衣の言葉など気にも留めず、職員に指示を出していた。

 

麻衣が何か尋ねようとしても、どう言えばいいのか分からなかった。

 

職員は短い言葉で次の指示を出すだけだった。

 

結局、麻衣は従った。

 

診察室の扉が閉じられた。

 

処置が終わり、麻衣は再び廊下へ出た。

 

思っていたより短い時間だった。

 

医師は何かの結果を記録し、次の書類を手に取っていた。

 

職員も淡々と片付けをしている。

 

麻衣は自分の腹に手を当てた。

 

当然、何も変わっていない。

 

「……よく分かんない」

 

何のために呼ばれたのだろう。

 

あれが、高梨の言っていた処置なのだろうか。

 

悲しいという感覚も、まだなかった。

 

怖いとも少し違った。

 

ただ、嫌なことをされたという感覚だけが残っていた。

 

それ以上に、何をされたのか分からないことが嫌だった。

 

職員が出口を指す。

 

「仕事戻るの?」

 

今度は厩舎の方向を指された。

 

「戻るんだ……」

 

麻衣は思わず苦笑した。

 

ほんの少し前まで馬房を掃除していた。

 

医務室へ連れてこられ、よく分からない処置を受け、それが終わればまた仕事。

 

あまりにも普通に一日が続いていく。

 

厩舎へ戻ると、XA1076がこちらを見た。

 

麻衣を指す。

 

それから医務室の方向を指した。

 

「うん。病院」

 

麻衣は覚えた帝国共通語を使った。

 

XA1076が何か質問する。

 

「分かんない」

 

麻衣は首を振った。

 

それから自分の腹を指し、医務室を指した。

 

XA1076の表情が少し変わった。

 

「……?」

 

XA1076は何か短く言った。

 

麻衣には、その言葉が分からなかった。

 

「何?」

 

もう一度聞く。

 

XA1076は麻衣の腹を指した。

 

それから両腕で、赤ん坊を抱くような仕草をした。

 

麻衣はしばらく、その手を見ていた。

 

「ああ……」

 

やっぱり。

 

高梨から聞いた話は、本当だったらしい。

 

麻衣は自分の腹に手を当てた。

 

まだ何も感じない。

 

「……そっか」

 

それだけ言った。

 

XA1076は何も言わず、麻衣に仕事道具を渡した。

 

麻衣も受け取った。

 

二人はまた、馬房の掃除を始めた。

 

◇

 

帝国歴232年1月。

 

年が明けた。

 

日本なら正月だった。

 

麻衣は厩舎で馬の餌を用意していた。

 

「明けましておめでとうございまーす」

 

日本語で馬に挨拶する。

 

馬は何も答えない。

 

当然だった。

 

「愛想ないなあ」

 

麻衣は餌を桶へ入れた。

 

馬はすぐに顔を突っ込んで食べ始めた。

 

「はいはい。ご飯の方が大事ですよね」

 

そんなことを言いながら、麻衣は次の馬房へ向かった。

 

この世界にも新年を祝う習慣はあるらしい。

 

食堂ではいつもより少し豪華な食事が出された。

 

職員たちも、何か挨拶を交わしていた。

 

けれども、日本の正月とはずいぶん違う。

 

お年玉もない。

 

初詣もない。

 

テレビもない。

 

友達からのメッセージも来ない。

 

「……そういえばスマホ、どうなったんだろ」

 

日本にいた頃なら、暇さえあればスマホを触っていた。

 

今では、その存在さえ忘れる日がある。

 

「慣れって怖いな……」

 

麻衣は小さく笑った。

 

一月の半ばになると、仕事にはすっかり慣れていた。

 

馬房の掃除も、餌の準備も、水桶の交換も、一人でできる。

 

XA1076も、以前ほど細かく指示しなくなった。

 

それでも言葉は少しずつ教えてくれた。

 

ある日、麻衣が馬に向かって日本語で話しかけていると、XA1076が不思議そうな顔をした。

 

「マイ?」

 

麻衣は振り返った。

 

「はい?」

 

XA1076が何か尋ねている。

 

麻衣は言葉を探した。

 

「日本語……」

 

XA1076は少し考えたあと、頷いた。

 

「ニホン?」

 

どうやら、日本という地名は知っているらしい。

 

「はい。日本」

 

麻衣が答えると、XA1076は何か長い言葉を話した。

 

麻衣にはほとんど理解できなかった。

 

「すみません。分かりません」

 

麻衣が首を横に振ると、XA1076は笑った。

 

それから馬を指さし、帝国共通語で名前を教えてくれた。

 

麻衣も真似をする。

 

今度は水桶。

 

次に干し草。

 

一つずつ言葉を覚えていく。

 

麻衣も日本語を教えてみた。

 

「くさ」

 

XA1076が不思議そうに繰り返す。

 

「クサ?」

 

「そう。草」

 

二人は顔を見合わせ、笑った。

 

そのとき、厩舎の入口から男性職員が入ってきた。

 

XA1076はすぐに仕事へ戻った。

 

麻衣も慌てて道具を持った。

 

男性職員は二人の作業を確認すると、そのまま奥へ歩いていった。

 

姿が見えなくなると、XA1076が麻衣を見た。

 

それから自分の胸を指さした。

 

何か短い言葉を言う。

 

「……え?」

 

もう一度。

 

「ニミス」

 

「ニミス?」

 

女性が頷いた。

 

自分を指さす。

 

「ニミス」

 

「……名前?」

 

麻衣は少し考えた。

 

それから笑った。

 

「ニミス!」

 

ニミスも笑った。

 

麻衣も自分の胸を指さした。

 

「マイ」

 

「マイ」

 

今度は、ちゃんと通じた。

 

麻衣は嬉しくなった。

 

「最初から教えてくれればよかったのに」

 

もちろん、その言葉は通じなかった。

 

けれども、ニミスは麻衣の表情を見て笑っていた。

 

その日から、職員がいないところでは、二人は互いを名前で呼ぶようになった。

 

一月の終わり頃だった。

 

麻衣は宿舎で着替えをしているとき、ふと気づいた。

 

生理が来ていない。

 

最後にいつ来たのだっただろう。

 

しばらく考える。

 

ベルノにいた頃は、そんなことを気にする余裕もなかった。

 

軍事法廷にかけられ、死刑を宣告され、国家奴隷となった。

 

その後は何日も列車に乗せられ、知らない場所へ連れてこられた。

 

正確な日付は思い出せなかった。

 

けれども、いつもの時期を過ぎていることだけは確かだった。

 

麻衣は寝台に腰を下ろした。

 

そして、十二月に医務室で受けた処置のことを思い出した。

 

あの診察室。

 

男性医師。

 

廊下にいた妊婦たち。

 

ニミスが赤ん坊を抱く仕草をしたこと。

 

「……やっぱり、あれがそうだったんだ」

 

麻衣は小さく呟いた。

 

高梨から説明されていた。

 

女性奴隷は強制的に妊娠させられる。

 

頭では分かっていたつもりだった。

 

けれども、実際に自分が妊娠するということまでは、考えられなかった。

 

麻衣は自分の腹に手を当てた。

 

何も感じなかった。

 

見た目も、いつもと変わらない。

 

「……本当に?」

 

まだ確信は持てなかった。

 

環境が変わったから、生理が遅れているだけかもしれない。

 

そう思いたかった。

 

けれども、どうしても十二月のことが頭から離れなかった。

 

麻衣はしばらく寝台に座っていた。

 

やがて、廊下から放送が聞こえてきた。

 

午後の作業時間だった。

 

「……仕事行かなきゃ」

 

麻衣は立ち上がった。

 

考えたところで答えは出ない。

 

今は厩舎へ行くしかなかった。

 

◇

 

二月の初め。

 

その日の夜、麻衣は物音で目を覚ました。

 

最初は誰かが寝返りを打っているのだと思った。

 

しかし、すぐに苦しそうな声が聞こえてきた。

 

「うう……」

 

部屋の奥だった。

 

同じ部屋で暮らしている、年配の女性だった。

 

その女性は、この施設に長くいる古株らしかった。

 

職員とも顔なじみのようで、部屋の女性たちからも頼りにされていた。

 

麻衣が入所したばかりの頃、寝台の使い方や洗濯物を置く場所などを身振りを交えて教えてくれたことがある。

 

名前も聞いていたが、麻衣にはうまく覚えられなかった。

 

それでも、会えば挨拶する程度の関係にはなっていた。

 

最近、その女性はあまり元気がなかった。

 

食事を残すことが多く、宿舎へ戻るとすぐに寝台へ横になっていた。

 

麻衣も少し気になっていたが、帝国共通語では体調を尋ねることさえ難しかった。

 

その女性が、今は寝台の上で身体を丸めていた。

 

隣の寝台の女性が起き上がり、何か話しかけている。

 

返事はなかった。

 

女性は寝台から起き上がろうとした。

 

だが、うまく身体を支えられなかったらしい。

 

鈍い音を立てて床に倒れた。

 

「えっ!」

 

麻衣も慌てて起き上がった。

 

同室の女性たちが次々と集まってくる。

 

誰かが廊下へ飛び出し、大きな声で職員を呼んだ。

 

麻衣は自分の寝台の前に立ったまま、どうしていいかわからなかった。

 

床に倒れた女性は、苦しそうに息をしていた。

 

顔色が悪く、額には汗が浮かんでいる。

 

やがて職員が二人やってきた。

 

男性職員と女性職員だった。

 

男性職員は倒れた女性の様子を確認すると、女性職員に何か指示した。

 

女性職員が廊下へ駆け出していく。

 

しばらくすると、医療鞄を持った男性医師が現れた。

 

五十歳ほどの、白衣を着た男だった。

 

麻衣はその顔を見て、入所時に診察を受けた医師だと気づいた。

 

男性職員二人が女性を抱え上げ、寝台へ戻した。

 

医師は脈を取り、聴診器を当て、瞳を確認した。

 

それから男性職員に何かを尋ねた。

 

職員は書類を開き、女性の識別番号を読み上げた。

 

医師は書類に目を通した。

 

何かを確認すると、短く頷いた。

 

それから医療鞄を開き、薬の入った小瓶と注射器を取り出した。

 

麻衣は少し安心した。

 

薬を使って治療してもらえるのだろう。

 

医師は女性に注射をした。

 

処置はすぐに終わった。

 

医師が器具を片付ける。

 

女性はしばらく苦しそうに息をしていた。

 

だが、やがて呼吸が静かになった。

 

「……?」

 

麻衣は首を傾げた。

 

薬が効いたのだろうか。

 

先ほどまで苦しそうにしていた女性が、今は静かに横になっている。

 

よかった。

 

そう思いかけた。

 

しかし、何かがおかしかった。

 

女性の胸が動いていない。

 

医師がもう一度、女性の首元に指を当てた。

 

しばらくそのまま待ち、静かに手を離した。

 

それから男性職員に何か告げた。

 

男性職員は頷き、手元の書類に記入した。

 

誰も慌てていなかった。

 

医師も、職員も。

 

まるで予定されていた仕事を終えたかのようだった。

 

麻衣は寝台の上の女性を見つめた。

 

動かない。

 

何度見ても、胸が上下していなかった。

 

「……え?」

 

小さく声が出た。

 

死んだのだろうか。

 

さっきまで生きていたのに。

 

医師は注射をした。

 

その直後に、女性は動かなくなった。

 

麻衣は医師を見た。

 

医師はもう女性を診ていなかった。

 

使った器具を鞄に戻し、男性職員に書類を渡していた。

 

そして、そのまま部屋を出ていった。

 

残された男性職員が、同室の女性たちに何か説明した。

 

麻衣にはほとんど理解できなかった。

 

ただ、職員が示した身振りから、全員が自分の寝台へ戻るよう命じられていることはわかった。

 

女性たちは黙って従った。

 

誰も大声を上げなかった。

 

泣き出す人もいなかった。

 

ただ、何人かは俯いていた。

 

麻衣も自分の寝台に戻った。

 

けれども、眠ることはできなかった。

 

少し離れた寝台には、まだ女性が横になっている。

 

身動き一つしない。

 

しばらくすると、男性職員二人が担架を持って戻ってきた。

 

女性の身体に布をかけ、そのまま担架へ移した。

 

二人がかりで廊下へ運び出していく。

 

麻衣はその様子を、寝台の上から見つめていた。

 

扉が閉まった。

 

部屋は静かになった。

 

麻衣は、女性が寝ていた場所へ目を向けた。

 

そこには乱れた寝具だけが残っていた。

 

さっきまで、あの人は生きていた。

 

苦しそうだったけれど、声を出していた。

 

それなのに、注射をされたあと、動かなくなった。

 

「……なんで?」

 

日本語で呟いた。

 

治療のための注射ではなかったのだろうか。

 

それとも、重い病気で、もう助からなかったのだろうか。

 

麻衣にはわからなかった。

 

ただ、あの注射を思い出すと、怖くなった。

 

翌朝。

 

いつものように点呼が行われた。

 

男性職員は一人ずつ首輪の番号を読み上げていった。

 

昨夜の女性の番号は呼ばれなかった。

 

寝台も空になっていた。

 

毛布は片付けられ、棚の番号札も取り外されていた。

 

まるで、最初から誰もいなかったようだった。

 

麻衣はその場所を見つめた。

 

昨日まで、確かにあの人はここで暮らしていた。

 

一緒に食事をし、部屋で眠り、ときには麻衣にも声をかけてくれた。

 

けれども、もういない。

 

同室の女性たちは、いつもどおり朝食へ向かう準備をしていた。

 

麻衣も遅れないように立ち上がった。

 

食堂では、いつもと同じ食事が出された。

 

パンとスープ。

 

茹でた野菜。

 

周囲では女性たちが話をしている。

 

昨日と何も変わらない。

 

麻衣はパンをちぎりながら、昨夜のことを考えた。

 

どうして、誰も驚かないのだろう。

 

長く一緒に暮らしていた人が死んだのに。

 

どうして、あんなに静かだったのだろう。

 

職員も、医師も、同室の女性たちも。

 

まるで、珍しいことではないようだった。

 

麻衣は急に怖くなった。

 

自分も病気になったら、あんな注射をされるのだろうか。

 

そう思うと、食べていたパンが喉を通らなくなった。

 

けれども、食事を残してはいけない。

 

麻衣は水を飲み、残りのパンを口に運んだ。

 

その日も、いつもどおり仕事があった。

 

厩舎へ行かなければならない。

 

ニミスが待っている。

 

厩舎では、ニミスがいつものように馬房を掃除していた。

 

麻衣が近づくと、手を上げた。

 

「マイ」

 

「おはよう」

 

覚えた帝国共通語で挨拶する。

 

ニミスが返事をした。

 

麻衣は少し迷った。

 

昨夜のことを聞いてみたかった。

 

「あのね……」

 

ニミスがこちらを見る。

 

麻衣は何とか言葉を探した。

 

「昨日。夜。女の人……」

 

そこまで言って、言葉が出なくなった。

 

死んだ。

 

注射。

 

病気。

 

知っている単語もあったが、どう組み合わせればいいのかわからない。

 

麻衣は仕方なく、寝台へ横になる仕草をした。

 

それから腕を指さした。

 

ニミスはしばらく麻衣を見ていた。

 

やがて、何かを理解したらしい。

 

表情が少し変わった。

 

短く何かを言った。

 

麻衣には意味がわからなかった。

 

「……何?」

 

もう一度尋ねた。

 

ニミスは首を横に振った。

 

それから、馬房を指さした。

 

仕事をしろということらしい。

 

「……分かったよ」

 

麻衣は少し不満だったが、道具を受け取った。

 

ニミスはそれ以上、昨夜のことを話そうとしなかった。

 

麻衣も、何度も尋ねることはできなかった。

 

それからしばらく、二人は黙って仕事をした。

 

馬たちは何も知らない。

 

いつものように餌を食べ、鼻を鳴らし、時々麻衣の服を引っ張ろうとする。

 

「ちょっと、やめてよ」

 

麻衣が馬の顔を押し戻す。

 

馬は構わず鼻を寄せてきた。

 

「もう!」

 

その様子を見て、ニミスが笑った。

 

麻衣もつられて笑った。

 

昨夜のことは、何もわからないままだった。

 

それでも、今日の仕事は続いていく。

 

◇

 

二月の下旬。

 

麻衣は定期的な健康診断のため、医務室へ呼び出された。

 

これまでにも何度か検査を受けていたので、特に珍しいことではなかった。

 

受付で番号を確認され、診察室へ案内される。

 

例の男性医師が書類を見ながら質問を始めた。

 

麻衣には半分ほどしか理解できなかったが、月経について尋ねられていることはわかった。

 

麻衣は首を横に振った。

 

「ありません」

 

覚えている帝国共通語で答える。

 

医師は頷き、書類に何かを書き込んだ。

 

その後、いくつかの検査が行われた。

 

結果が出るまで、麻衣は別の部屋で待つよう指示された。

 

しばらくすると、医師が戻ってきた。

 

男性職員と何か話している。

 

二人は書類を見ながら短いやり取りをしていた。

 

麻衣にはほとんど意味がわからなかった。

 

けれども、その中に聞き覚えのある言葉があった。

 

妊娠。

 

麻衣は顔を上げた。

 

医師は麻衣の方を向き、ゆっくりと言い直した。

 

「妊娠しています」

 

麻衣は聞き返した。

 

「私が……?」

 

医師は頷いた。

 

それから麻衣の腹部を指さした。

 

麻衣も自分の腹部に手を当てた。

 

何も感じなかった。

 

本当に、ここに子供がいるのだろうか。

 

医師は何か説明を続けたが、麻衣にはほとんど理解できなかった。

 

ただ、自分が妊娠していることだけはわかった。

 

そして、十二月に受けた処置が、やはりそのためのものだったのだと理解した。

 

「……本当だったんだ」

 

小さく呟いた。

 

医師は書類を確認し、何かを書き込んだ。

 

それから男性職員に渡した。

 

二人は麻衣のことを話しているらしい。

 

しかし、麻衣が会話に加わることはなかった。

 

何か意見を尋ねられることもない。

 

医師は最後に体調を確認すると、もう診察は終わりだというように手を振った。

 

麻衣は椅子から立ち上がった。

 

廊下へ出る。

 

窓から冬の空が見えた。

 

麻衣はしばらく立ち止まった。

 

「……私、妊娠したんだ」

 

日本語で言ってみた。

 

声に出すと、少しだけ現実味が増した。

 

けれども、やはり実感はなかった。

 

麻衣は自分の腹にもう一度手を当てた。

 

その日の午後、麻衣は厩舎へ戻った。

 

ニミスはいつものように馬房を掃除していた。

 

麻衣を見ると、手を止めて声をかけた。

 

「マイ、終わった?」

 

麻衣は頷いた。

 

「はい」

 

それから、何か言おうとした。

 

けれども言葉が出てこなかった。

 

ニミスが不思議そうな顔をする。

 

麻衣は腹部に手を当てた。

 

覚えている帝国共通語で、ゆっくりと話した。

 

「私……妊娠」

 

ニミスは麻衣を見た。

 

それから小さく頷いた。

 

何かを尋ねてきたが、麻衣には聞き取れなかった。

 

麻衣は首を横に振った。

 

「わかりません」

 

ニミスは少し考え、麻衣の肩に手を置いた。

 

それから短い言葉で何かを言った。

 

麻衣には意味がわからなかった。

 

けれども、声は穏やかだった。

 

麻衣は俯いた。

 

「私、まだ十六歳なのに……」

 

日本語で呟いた。

 

ニミスは黙っていた。

 

麻衣の言葉は理解できなかったはずだった。

 

それでも、何かを感じ取ったらしい。

 

ニミスは麻衣の背中を軽く叩いた。

 

しばらくして、厩舎の奥から馬が鼻を鳴らす音が聞こえた。

 

ニミスがそちらを振り返った。

 

餌の時間だった。

 

麻衣も顔を上げた。

 

いつもの仕事をしなければならない。

 

「行きます」

 

覚えた帝国共通語で言うと、ニミスは頷いた。

 

そのとき、厩舎の入口から男性職員が入ってきた。

 

ニミスを呼び、何か書類を渡している。

 

ニミスはそれを読み、麻衣の方を見た。

 

そして、職員と短く言葉を交わした。

 

職員が立ち去ると、ニミスは麻衣のところへ戻ってきた。

 

「マイ」

 

名前を呼ばれ、麻衣は顔を上げた。

 

ニミスは麻衣が持っていた水桶を受け取り、床に置いた。

 

それから、馬房の中にある小さな道具を指さした。

 

どうやら、掃除をするように言っているらしい。

 

「水は?」

 

麻衣が尋ねると、ニミスは首を横に振った。

 

自分を指さす。

 

「私」

 

それから麻衣を指さし、掃除道具を示した。

 

「マイ、こっち」

 

麻衣にも理解できた。

 

重い水桶を運ぶ仕事は、もうしなくていいらしい。

 

「……わかりました」

 

麻衣は頷いた。

 

ニミスは笑い、麻衣の肩を軽く叩いた。

 

翌日から、麻衣の仕事は少し変わった。

 

これまで担当していた重い水桶の運搬や、餌を大量に運ぶ仕事は、他の作業員が行うようになった。

 

麻衣は馬房の軽い掃除や、道具の片付け、馬の手入れなどを任された。

 

作業時間も少し短くなった。

 

ニミスは相変わらず忙しそうに働いていたが、麻衣が重い物を持とうとすると、すぐに止めに来た。

 

麻衣は何度か自分でできると伝えようとした。

 

けれども、ニミスは首を横に振るだけだった。

 

どうやら医務室から、仕事を軽くするよう指示されているらしい。

 

麻衣は少し申し訳なく思った。

 

その日も、ニミスが重い水桶を運んでいる。

 

麻衣は馬房の前に立ち、馬の毛並みを整えていた。

 

馬は気持ちよさそうに目を細めている。

 

「気持ちいい?」

 

麻衣は日本語で尋ねた。

 

馬は答えない。

 

当然だった。

 

それでも、麻衣は少し笑った。

 

「いいなあ、おまえは」

 

馬は鼻を鳴らした。

 

何も知らずに、毎日餌を食べ、眠り、人に世話をしてもらっている。

 

麻衣はふと、自分の腹部に手を当てた。

 

まだ、外から見てわかるほどの変化はない。

 

けれども、医師は確かに妊娠していると言った。

 

この先、どうなるのだろう。

 

子供が生まれたら、どうなるのだろう。

 

ベルノで高梨から聞いた説明を思い出す。

 

生まれた子供は国家育成院へ送られる。

 

自分が育てるわけではない。

 

そう聞かされていた。

 

けれども、今の麻衣にはまだ実感がなかった。

 

子供が生まれることも、その子供と別れることも、ずっと先の話のように思えた。

 

「マイ!」

 

ニミスの声がした。

 

振り返ると、ニミスが道具を片付けながら手を振っていた。

 

何か言っている。

 

麻衣は耳を澄ませた。

 

仕事が終わったらしい。

 

「はい!」

 

麻衣は返事をした。

 

手に持っていた道具を片付け、ニミスのところへ向かった。

 

二人は並んで厩舎を出た。

 

外はまだ寒かったが、十二月にここへ来た頃より、日差しが少しだけ暖かくなったように感じられた。

 

ニミスは歩きながら、何か話しかけてきた。

 

麻衣には半分ほどしか理解できなかった。

 

それでも、以前よりは随分聞き取れるようになっていた。

 

わからない言葉があると、ニミスはゆっくり言い直してくれる。

 

麻衣も覚えた言葉を使い、何とか返事をした。

 

時々、二人で笑うこともあった。

 

ここへ来てから二か月以上が過ぎていた。

 

もう、ベルノにいた頃の生活には戻れない。

 

真由たちがどこにいるのかもわからない。

 

そして、麻衣のお腹の中には、自分が望んだわけではない子供がいる。

 

それでも、毎日は続いていく。

 

朝になれば起きて、食事をし、厩舎へ向かう。

 

馬房を掃除し、馬の世話をする。

 

ニミスに新しい言葉を教えてもらい、ときには笑うこともある。

 

麻衣は隣を歩くニミスを見た。

 

この人がいてくれてよかった。

 

そう思った。

 

ニミスは麻衣の視線に気づき、不思議そうに首を傾げた。

 

「マイ?」

 

「なんでもない」

 

麻衣は日本語で答えた。

 

当然、ニミスには通じなかった。

 

それでも麻衣が笑うと、ニミスも笑った。

 

二人はそのまま、宿舎へ向かって歩いていった。

 

――第2節「収容施設」終――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

話はOKですが短文の連続で読みにくいです 言葉がわからなくて苦労している感じがとてもいいので、壊さないよう改稿してみてください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2m 14s考えました

 

 

整えて場面をつないで書き直した

 

 

 

筋立てと麻衣の軽口は残し、短い地の文をつないで読みやすく整えます。特に、言葉が通じず周囲の動きを真似する場面と、ニミスとの意思疎通が少しずつ進む過程は崩さず、場面のつながりや麻衣の心情を厚くします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『勇者連隊戦記』

外伝1 吉田麻衣

第2節 収容施設

帝国歴231年12月中旬~232年2月・改稿版

 

馬車が門をくぐると、麻衣は改めて施設の広さに驚いた。

 

敷地内にはいくつもの建物が並んでいた。大きな倉庫のようなものもあれば、長い宿舎のような建物もある。少し離れた場所には畑が広がり、その向こうには柵で囲われた牧草地が見えた。馬が何頭も放されており、さらに奥には牛らしい姿もある。

 

「……刑務所?」

 

麻衣は小さく呟いた。

 

どうにも刑務所らしくない。高い塀に囲まれていることを除けば、むしろ大きな農場に見えた。建物の間を荷馬車が行き交い、作業着姿の人々が忙しそうに働いている。畑から戻ってくる集団もあり、遠くでは馬の鳴き声が聞こえていた。

 

やがて馬車が大きな建物の前で停まった。

 

護送官に促されて降りると、別の馬車からも次々と人が降ろされてきた。男性も女性もおり、年齢もさまざまだった。全員が集められると、三十人ほどになった。

 

周囲には制服姿の職員が何人も立っている。腰には拳銃が下がっていた。

 

麻衣はそれを見て、逃げるという考えをすぐに捨てた。そもそも、逃げたところでここがどこなのかすら分からない。高い塀の向こうに何があるのかも知らなかった。

 

職員が大きな声で号令をかけた。

 

言葉はほとんど聞き取れなかったが、人々が動き始めたので、麻衣も周囲に合わせた。どうやら男女を分けているらしい。男性たちは別の建物へ向かい、女性たちは正面の建物へ入るよう指示された。

 

麻衣は前を歩く女性についていきながら、その首元を眺めた。

 

金属製の首輪には、自分と同じように識別番号が刻まれている。歩くたびに小さな金属板が揺れていた。

 

建物へ入った瞬間、鼻につく匂いがした。

 

薬品の匂いだった。

 

廊下は妙に清潔で、床も壁もよく手入れされている。白衣を着た人間が何人も行き来しており、部屋の中には見慣れない医療器具が置かれていた。

 

「病院……?」

 

どうやら医療施設らしい。

 

廊下の奥で列が止まった。前に立った男性職員が何かを説明しているが、麻衣にはさっぱり分からなかった。

 

ただ、周囲の女性たちが一斉に衣服を脱ぎ始めたので、何を命じられたのかは何となく理解できた。

 

「……え?」

 

麻衣だけが立ったままになった。

 

隣の女性はすでに上着を脱ぎ、大きな箱の中へ入れている。他の女性たちも次々と衣服を預け、職員の指示に従っていた。

 

男性職員が麻衣を見た。

 

麻衣の服を指さし、それから箱を指す。

 

「全部?」

 

当然、返事は分からなかった。職員はもう一度箱を指さした。

 

周囲を見回しても、抵抗している人はいない。麻衣も諦めて衣服を脱ぎ始めた。上着も下着も、身につけていたものはすべて箱へ入れられる。

 

最後に残ったのは、高梨からもらったメモだった。

 

麻衣は折り畳まれた紙を手にしたまま、少しためらった。

 

ベルノの牢で、高梨が三日かけて作ってくれたものだった。帝国共通語と日本語を並べて書いた簡単な会話の一覧で、護送列車の中でも何度も開いていた。

 

この世界で、唯一確実に意味の分かる文字が書かれている紙だった。

 

「……これも?」

 

男性職員に紙を見せると、やはり箱を指された。

 

麻衣はもう一度メモを見た。少しくたびれた紙の端には、高梨が書いてくれた日本語が残っている。

 

「……そっか」

 

小さく呟いて、メモを箱へ入れた。

 

職員が蓋を閉じる。

 

それだけのことだったが、ベルノから持ってきた最後のものまで取り上げられたような気がした。

 

衣服を預けた女性たちは、次に二つの列へ分けられた。

 

麻衣には指示が理解できなかったので、とりあえず前の女性についていった。ところが、職員に肩を掴まれて止められた。

 

「え?」

 

反対側を指さされる。

 

麻衣は慌ててそちらへ移ったが、並び直してから、ようやく違いに気づいた。

 

向こうの列には年配の女性が多かった。五十歳を超えていそうな人もいる。それに対して、こちらには若い女性ばかりが集められていた。

 

「……何これ」

 

何のために年齢で分けているのだろう。

 

理由は分からなかったが、何となく嫌な感じがした。

 

やがて麻衣の順番が来た。

 

診察室には五十歳くらいの男性医師がいた。痩せた体つきで眼鏡をかけており、机の上に積まれた書類を確認している。

 

医師は麻衣の首輪を見ると番号を読み上げ、何か質問してきた。

 

「……分からない」

 

麻衣は覚えた帝国共通語で答えた。

 

医師がもう一度尋ねる。

 

「分からない」

 

今度は通じたらしい。

 

医師は近くにいた女性職員を呼び、麻衣の書類を指さした。職員が何か答えると、医師は書類と麻衣を交互に見て、小さく頷いた。

 

それから診察台を指さした。

 

麻衣はその形を見て、思わず足を止めた。

 

「……産婦人科じゃん」

 

日本でもテレビなどで見たことがある。何のための診察台なのか、それくらいは分かった。

 

嫌だった。

 

だが、前の女性も同じ検査を受けていたし、ここには逃げられる場所などなかった。

 

麻衣は指示に従い、診察台へ上がった。

 

医師は健康状態を調べ、女性職員が検査結果を書類に記入していった。麻衣にとっては不安で落ち着かない検査だったが、二人とも終始事務的だった。

 

医師は特に麻衣を慰めることも、叱ることもしない。質問しても理解できないと分かると、それ以上説明しようとはせず、職員に短く指示を出すだけだった。

 

麻衣が何を考えているかなど、気にしていないようだった。

 

しばらくして検査が終わり、降りるよう促された。

 

麻衣はほっとして立ち上がったが、まだ手続きは終わっていなかった。

 

次の部屋には椅子が何脚も並び、職員たちが待っていた。

 

前にいる女性が椅子へ座らされると、職員がその髪を切り始めた。床には長い髪が次々と落ちていく。

 

「あ、髪切るんだ」

 

一人終わると、また次の女性が呼ばれる。どうやら全員が短く切り揃えられるらしい。

 

麻衣の番になった。

 

椅子へ座ると、職員が手早く櫛を入れ、鋏を動かし始めた。肩の下まで伸ばしていた髪が、ばさばさと床に落ちていく。

 

「ちょっと、短すぎない?」

 

当然、返事はない。

 

職員は髪の長さを揃えると、鏡を渡してきた。

 

耳が出るほど短くなっていた。

 

「……うわ、誰これ」

 

自分の顔なのに、何となく別人に見える。

 

似合っているのかどうかもよく分からなかったが、職員はすぐに鏡を回収し、次の場所へ行くよう指示した。

 

今度は別の椅子だった。

 

前に並んでいる女性の額に、職員が小さな器具を押し当てている。女性は一瞬顔をしかめたが、何も言わずに立ち上がった。

 

「何してるんだろ……」

 

順番が進むにつれて、麻衣にも見えてきた。

 

処置を終えた女性たちの額には、小さな逆三角形の印が残っている。

 

入れ墨だった。

 

麻衣は無意識に自分の額へ手をやった。

 

後ろにはまだ女性たちが並び、前には職員が待っている。今さら何か言ったところで、どうにもならない。

 

やがて自分の番になった。

 

椅子へ座らされ、額を固定される。

 

次の瞬間、細い痛みが走った。

 

「痛っ……!」

 

思わず日本語が出たが、職員は気にも留めなかった。

 

作業はすぐに終わった。

 

麻衣が額に触れようとすると、職員に手を払われた。触ってはいけないらしい。

 

通路の脇に小さな鏡が置かれていたので、通り過ぎるときに横目で覗いてみた。

 

額の中央に、逆三角形がある。

 

短く切られた髪の下で、その小さな印は妙にはっきりと見えた。

 

首にはHF8501。

 

額には奴隷の印。

 

そこでようやく、麻衣は少しだけ実感した。

 

――本当に奴隷になったんだ。

 

ベルノで宣告を受けたときにも、説明は聞いていた。それでも、どこか他人事のように感じていたのだと思う。

 

だが、今は違う。

 

鏡に映った自分の額には、消えない印がつけられている。

 

もっとも、立ち止まって考える時間など与えられなかった。すぐに次の職員がやってきて、新しい衣服を差し出したからだった。

 

灰色がかった作業服と下着だった。

 

飾りらしいものは何もなく、作業服にはポケットが二つついているだけだった。広げてみると、サイズも少し大きい。

 

「これ着ろってことね」

 

周囲の女性たちが次々と着替えているので、聞くまでもなかった。

 

作業服に袖を通し、襟元を整える。

 

着てきた服は戻ってこなかった。

 

あの箱には、高梨からもらったメモも入っている。

 

一瞬だけ箱が置かれていた方向を振り返ったが、もう見えなかった。

 

「……まあ、覚えた単語もあるし」

 

麻衣は自分に言い聞かせるように呟いた。

 

ないものは仕方がない。これからは、自分で何とかするしかなかった。

 

健康診断と登録を終えた女性たちは、十人ほどずつに分けられ、別の建物へ連れていかれた。

 

外へ出ると、もう夕方になっていた。

 

海から吹いてくる風が少し冷たい。建物の間には幅の広い道があり、その向こうを荷馬車が通っていく。遠くでは、畑仕事を終えたらしい人々が集団で戻ってくるところだった。

 

彼女たちの額にも、麻衣と同じ逆三角形があった。

 

「広いな……」

 

刑務所というより、小さな町のようだった。

 

ただし、どこを見ても高い塀が視界に入り、門には拳銃を下げた職員が立っている。

 

自由に出られない町。

 

麻衣には、そんな場所に思えた。

 

案内された宿舎は、木造の細長い建物だった。

 

中には同じような扉がいくつも並び、廊下には木の床板を踏む音が響いている。麻衣たちは、そのうちの一室へ入れられた。

 

「ここ?」

 

部屋には十台の寝台が並んでいた。

 

二段ベッドではない。床から少し高くした木箱のような寝台が壁沿いに置かれ、それぞれに小さな番号札がついていた。

 

麻衣は一つずつ確かめた。

 

文字と数字なら、何とか読める。

 

高梨に教えてもらっていて本当によかった。

 

「HF……八、五、〇、一……」

 

あった。

 

窓から三番目だった。

 

腰を下ろしてみる。

 

「硬っ」

 

板の上に薄い敷物を置いただけだった。ベルノの兵舎の寝台とは比べものにならない。

 

隣の女性が麻衣を見て、何か言った。

 

「え?」

 

女性は寝台を指さし、もう一度何か話しかけてくる。しかし、麻衣にはさっぱり分からなかった。

 

「ごめん。分かんない」

 

日本語で返してしまい、相手も困った顔をした。

 

しばらく二人で見つめ合ったあと、女性は肩をすくめた。

 

麻衣も肩をすくめる。

 

それで会話は終わった。

 

「まあ、そのうちね」

 

麻衣は寝台に仰向けになり、天井を見上げた。

 

木の板が何枚も並び、ところどころに節が見える。

 

ここが、これから自分の部屋になるらしい。

 

ふと、真由の顔が浮かんだ。

 

真由がいたら、今頃どんな文句を言っていただろう。

 

きっと寝台が硬いだの、服が可愛くないだの、散々文句を言っていただろう。

 

そんなことを考えて、麻衣は少し笑った。

 

しかし、隣にはもう真由はいなかった。

 

そのことを思い出すと、急に寂しくなった。

 

突然、建物のどこかで大きな音が鳴った。

 

続いて放送が流れる。

 

帝国共通語だったが、麻衣にはほとんど聞き取れなかった。

 

「今度は何?」

 

身体を起こすと、部屋にいた女性たちが一斉に立ち上がり、廊下へ出ていくところだった。

 

「待って、待って」

 

置いていかれては困る。麻衣も慌てて後を追った。

 

廊下を歩きながら、前にいた女性へ尋ねてみる。

 

「食事?」

 

当然、日本語は通じない。

 

麻衣は仕方なく、口へ食べ物を運ぶ仕草をしてみせた。

 

女性は麻衣を見て、何か答えた。その中に、高梨から習った単語があった。

 

食事。

 

「あ、やっぱりご飯なんだ」

 

嬉しくなって声を上げると、女性は言葉の意味が分からないまま笑った。

 

食堂は大きかった。

 

長い机が何列も並び、大勢の女性たちが座っている。職員の指示に従って列に並ぶと、金属製の皿へ次々と料理が盛られていった。

 

煮た豆に野菜、黒っぽいパン、それに少量の肉。

 

豪華とは言えないが、ベルノの牢で食べていたものと比べれば量はあった。

 

麻衣は空いている席へ座り、向かいの女性がパンをちぎっているのを見て、自分も真似をした。

 

「……硬い」

 

ずいぶん噛まなければならないパンだった。

 

隣の女性が何か言うと、別の女性が笑い出した。麻衣もつられて笑ったが、何がおかしいのかはまったく分からなかった。

 

「何がおかしいか分かんないけど」

 

そう言うと、また何か話しかけられる。

 

「だから、分かんないって」

 

麻衣は笑いながら首を振った。

 

言葉は通じない。それでも、牢の中にいたときよりは不思議と息苦しくなかった。

 

女性たちは普通に食事をし、隣同士で何かを話し、ときには声を上げて笑っていた。首輪さえなければ、どこかの工場の食堂にでもいるようだった。

 

食事が終わると、また放送が入った。

 

女性たちは席を立ち、ぞろぞろと別の建物へ向かい始める。麻衣も皿を返却すると、その後についていった。

 

「次は何よ」

 

建物へ入って、すぐに分かった。

 

シャワーだった。

 

「お風呂!」

 

思わず声が大きくなった。

 

ベルノから何日も護送されてきたので、身体を洗えるのは嬉しかった。ところが、期待したほどのんびりできるものではなかった。

 

何十人もの女性が一斉に入り、空いた場所から身体を洗っていく。一定の時間が経つと職員が声をかけ、次の集団と交代する仕組みらしい。

 

「早っ!」

 

麻衣は慌てて髪を洗った。

 

短く切られた髪は、驚くほど簡単に洗えた。

 

「……これは楽かも」

 

そう思っていると、隣の女性がもっと急げというような身振りをした。

 

「分かった、分かったって」

 

もちろん日本語で答える。

 

日本にいた頃なら、浴室へスマホを持ち込んで、長い時間出てこないこともあった。母親から早く出るように怒られても、適当に返事をするだけだった。

 

ここではそんなことはできない。

 

身体を洗う。

 

髪を洗う。

 

流す。

 

それで終わりだった。

 

「軍隊より忙しくない?」

 

誰にも通じない愚痴を言いながら、麻衣はシャワー室を出た。

 

支給された日用品の中には、歯ブラシや石鹸なども入っていた。周囲の女性たちが歯を磨き始めたので、麻衣も真似をする。

 

「はいはい。歯磨きね」

 

朝からずっと、周囲の真似ばかりしている。

 

けれども、それで何とかなっていた。

 

宿舎へ戻ると、女性たちはそれぞれ寝台に腰掛けて話を始めた。誰かが身振りを交えて何かを話し、周囲が笑う。別の女性がそれに言い返して、また笑い声が上がった。

 

麻衣には、何を話しているのかまったく分からなかった。

 

それでも、ここにいる女性たちが四六時中怯えているわけではないことが、少し意外だった。

 

奴隷。

 

その言葉から想像していたものとは、どこか違う。

 

自由がないことは間違いない。首輪もあるし、額には消えない印までつけられた。職員は拳銃を持っており、勝手に外へ出ることもできない。

 

それでも夕食を食べ、シャワーを浴び、寝る前には女同士でくだらない話をして笑っている。

 

「……よく分かんないところだな」

 

麻衣は寝台に腰掛け、そんな様子を眺めていた。

 

しばらくすると、再び放送が鳴った。

 

女性たちが会話をやめ、寝台の前へ戻っていく。

 

男性職員が部屋に入ってきた。手には板と紙を持っている。

 

どうやら点呼らしい。

 

最初の女性が何か答えた。

 

「一」

 

次の女性。

 

「二」

 

「三」

 

麻衣は、順番に数字を言っていることに気づいた。

 

自分は四番目だった。

 

「四」

 

職員が一瞬こちらを見た。

 

麻衣は少し不安になった。発音を間違えたのだろうか。

 

しかし職員は何も言わず、次の女性へ進んだ。

 

「五」

 

麻衣は小さく息を吐いた。

 

「通じた……」

 

たった数字一つだったが、それでも少し嬉しかった。

 

点呼が終わると職員が部屋を出ていき、外から鍵のかかる音がした。間もなく照明が消され、部屋は暗くなった。

 

麻衣は寝台へ横になった。

 

「……硬い」

 

昼間と同じ感想だった。

 

寝返りを打つと、首輪が少し動いた。額もまだじんじんしている。

 

ここはベルノでもない。

 

アウグステンでもない。

 

名前もよく分からない、海辺の収容施設だった。

 

佐々木も中村も真由もいない。高梨のメモもなくなった。

 

「母さん、何してるかな……」

 

久しぶりに母親のことを思い出した。

 

日本では、夜になると母親が仕事へ出かけ、自分が帰ってくる頃には家にいないことが多かった。麻衣も麻衣で遊び歩いていたので、何日か顔を合わせないことさえ珍しくなかった。

 

その頃は、母親が家にいないことを特に寂しいとも思わなかった。

 

むしろ、好き勝手にできて都合がいいくらいに考えていた。

 

それなのに、今はどうしてか顔が浮かんだ。

 

「……寝よ」

 

考えても仕方がない。

 

麻衣は目を閉じた。

 

疲れていたのだろう。硬い寝台だったが、思ったより早く眠りに落ちた。

 

◇

 

まだ外が暗いうちに、突然放送が鳴った。

 

麻衣は目を覚まし、しばらく天井を眺めていた。

 

「……何時?」

 

当然、時計などない。

 

周囲を見ると、同室の女性たちはもう起き始めている。

 

「まだ暗いじゃん……」

 

麻衣は毛布を頭まで被った。

 

日本にいた頃なら、このまま二度寝していたところだった。

 

学校へ行かなければならない日でも、母親が帰宅して眠っていれば起こす者はいなかった。昼近くに目を覚まし、もう今から行っても仕方ないかと思って、そのまま休んでしまうこともあった。

 

だが、ここではそうはいかなかった。

 

隣の女性が麻衣の肩を叩いた。

 

「……ん?」

 

起きろという仕草をしている。

 

「あと五分……」

 

通じるわけがない。

 

再び放送が鳴ると、今度は女性が麻衣の毛布を引っ張った。

 

「分かったよ!」

 

麻衣は渋々起き上がった。

 

「学校より厳しい……」

 

顔を洗う時間も決められているらしく、ぼんやりしていると周囲から置いていかれそうになる。

 

慌てて支度を済ませ、点呼を受け、朝食へ向かった。

 

昨日と同じ硬いパンをちぎりながら、大きな欠伸をする。

 

向かいの女性が笑って何か言った。

 

「眠いの。分かる?」

 

麻衣は両手を合わせて頬に当て、眠る仕草をしてみせた。

 

女性は笑うと、帝国共通語で短い言葉を教えてくれた。

 

「……それ、眠い?」

 

麻衣が同じ言葉を真似すると、女性は首を振った。もう一度ゆっくり発音してくれたので、麻衣も繰り返してみる。

 

今度は頷いてくれた。

 

「眠い」

 

麻衣は覚えた言葉を、何度か口の中で繰り返した。

 

高梨のメモはもうない。

 

これからは、こうやって覚えていくしかないらしい。

 

朝食が終わると、女性たちは広場へ集められた。

 

何十人もの女性が整列し、壇上に立った男性職員の話を聞いている。麻衣も周囲に合わせて姿勢を正し、真面目そうな顔をしていた。

 

もっとも、何を話しているのかは一つも分からなかった。

 

「……これ、聞いてる意味ある?」

 

隣の女性が麻衣を見た。

 

「何でもない」

 

麻衣は慌てて前を向いた。

 

やがて、一人の男性職員が作業着姿の女性を連れてやってきた。

 

二人は麻衣の前で立ち止まった。

 

職員が何か言う。

 

「……私?」

 

麻衣が自分を指さすと、職員は頷いた。

 

一緒に来た女性を見る。

 

三十代半ばくらいだろうか。身長は160センチほどで、金髪を短く切り揃えている。目鼻立ちがはっきりした顔には、どこか知的な雰囲気があった。

 

他の奴隷たちと同じ作業服を着ているが、落ち着いた様子で職員の話を聞いている。

 

首輪の金属板には、XA1076と刻まれていた。

 

麻衣は文字を一つずつ追った。

 

「エックス……エー……一〇七六」

 

女性が怪訝な顔をした。

 

「ごめん。番号読んだだけ」

 

当然、通じなかった。

 

壇上の職員が大きな号令をかけると、整列していた女性たちが一斉に動き始めた。

 

XA1076も麻衣を見て、何か短く言った。

 

それから手招きする。

 

「ついてこい?」

 

女性がもう一度手招きした。

 

「はいはい。行きます」

 

麻衣はその後を追った。

 

しばらく歩くと、馬の鳴き声が聞こえてきた。

 

「え?」

 

建物の角を曲がると、大きな厩舎が現れた。

 

中には何十頭もの馬がいて、馬房が左右にずらりと並んでいる。干し草と馬の糞が混ざった独特の臭いが鼻についた。

 

「うわ……臭っ!」

 

思わず鼻を押さえると、XA1076が麻衣の顔を見て笑った。

 

「何笑ってんの」

 

女性は何か言い返したが、意味は分からなかった。

 

それでも、どうやら仕事をするように言われているらしい。

 

大きな道具を渡された。

 

「これ?」

 

XA1076は頷き、馬房の床を指さした。

 

「……マジ?」

 

もう一度指される。

 

麻衣は道具と床を交互に見た。

 

「私、馬なんか触ったことないんだけど」

 

XA1076には通じない。

 

結局、女性が実際にやって見せた。

 

汚れた敷き藁を集め、手押し車へ積み込む。それを所定の場所へ運び、新しい藁を敷く。水を替え、餌を入れ、使った道具を片付ける。

 

「ああ、そういうことね」

 

やり方は分かった。

 

だが、実際にやってみると思ったより大変だった。

 

道具の扱いには慣れていないし、藁はうまく持ち上がらない。何度も同じ作業を繰り返しているうちに腰が痛くなり、最初の一時間で嫌になった。

 

「腰痛い……」

 

しゃがみ込むと、XA1076が何か言った。

 

「休憩?」

 

どうやら違ったらしい。

 

立て、という仕草をされた。

 

「厳しいなあ……」

 

麻衣は渋々立ち上がった。

 

少しすると、厩舎を巡回している男性職員がこちらを見た。

 

XA1076が小声で何か言った。

 

言葉は分からなかったが、早く仕事へ戻れという意味だけは伝わった。

 

「はいはい」

 

麻衣はまた藁を集め始めた。

 

昼になる頃には汗だくだった。

 

放送が流れると、XA1076が道具を置いた。

 

「ご飯?」

 

麻衣が口へ食べ物を運ぶ仕草をすると、女性は頷いた。

 

「やった!」

 

麻衣が嬉しそうに声を上げたので、XA1076も少し笑った。

 

食堂へ向かう途中、麻衣は女性の横を歩きながら、何とか名前を尋ねようとした。

 

「ねえ」

 

XA1076がこちらを見る。

 

麻衣は自分の胸を指さした。

 

「麻衣」

 

女性は首を傾げた。

 

「麻衣。私」

 

もう一度、自分を指さす。

 

「マイ」

 

今度は理解したらしい。

 

しかし、女性はすぐに周囲を確認し、首を横に振った。

 

そして、自分の首輪を指さす。

 

「XA1076」

 

「番号?」

 

女性はもう一度番号を指し、それから麻衣の首輪を指さした。

 

「HF8501」

 

そう発音した。

 

「ああ……名前じゃなくて番号で呼べってこと?」

 

全部は分からなくても、何となく察した。

 

麻衣も自分の首輪を指さして番号を読み上げると、女性は満足そうに頷いた。

 

「長いよ……」

 

麻衣は少し口を尖らせた。

 

「麻衣の方が短いじゃん」

 

XA1076が何か返したが、もちろん理解できなかった。

 

それでも二人は並んで食堂へ向かった。

 

そんな生活が十日ほど続いた。

 

朝は放送で起こされ、点呼を受け、食堂で朝食を済ませる。そこから厩舎へ向かい、馬房を掃除し、餌を運び、水を替える。昼食を挟んで午後も同じように働き、夕食のあとにはシャワーを浴びて、夜の点呼を受ける。

 

そして消灯。

 

毎日、ほとんど同じことの繰り返しだった。

 

最初の三日は、朝起きるたびに嫌になった。

 

四日目には諦めた。

 

一週間もすると、放送が鳴る少し前に目を覚ます日まで出てきた。

 

「……私、すごくない?」

 

ある朝、麻衣は一人で呟いた。

 

高校時代、五日連続で遅刻せず学校へ行った記憶すら怪しい。それが今では十日間、一日も仕事を休んでいない。

 

もっとも、休むという選択肢そのものがないのだが。

 

XA1076とも、少しずつ意思疎通ができるようになっていた。

 

「水」

 

麻衣が桶を指さす。

 

XA1076は首を振り、正しい発音を教えてくれる。

 

麻衣が真似をするが、また首を振られる。

 

「……違う?」

 

もう一度。

 

今度は何とか通じたらしい。

 

「難しいんだよ、発音」

 

麻衣が文句を言うと、XA1076は意味も分からず笑った。

 

麻衣もつられて笑う。

 

言葉が通じなくても、毎日一緒に仕事をしていると、何となく相手が何を言いたいのか分かるようになってくる。

 

仕事、食事、水、馬、朝、夜。

 

痛い、疲れた、終わった。

 

少しずつ、覚えている言葉も増えていった。

 

まだ長い会話はできなかったが、厩舎の仕事に必要な指示なら、何とか理解できるようになっていた。

 

施設へ来て十日ほど経った日の昼だった。

 

食事を終えた麻衣が厩舎へ戻ろうとすると、男性職員に呼び止められた。

 

首輪を確認される。

 

「HF8501」

 

今では自分の番号だけは、すぐに聞き取れる。

 

「はい」

 

帝国共通語で返事をすると、職員が手招きした。

 

「私?」

 

職員は頷いた。

 

麻衣はXA1076を見た。

 

「仕事は?」

 

厩舎の方を指さしてみたが、職員は首を横に振り、別の方向を示した。

 

「……どこ行くんだろ」

 

麻衣はXA1076に手を振り、職員についていった。

 

しばらく歩くと、見覚えのある建物が見えてきた。

 

医療施設だった。

 

ただし、最初の日に健康診断を受けた建物とは違う。

 

「また病院?」

 

どこか悪かったのだろうか。

 

自覚症状はない。

 

建物へ入ると、廊下には何人かの女性が座っていた。

 

そのうちの一人を見て、麻衣は思わず足を止めそうになった。

 

腹が大きい。

 

妊婦だった。

 

他にも何人か、同じような女性がいる。

 

若い女性が多かった。

 

「……あ」

 

麻衣は急に、高梨から聞いた話を思い出した。

 

軍事法廷のあとだった。

 

国家奴隷制度について説明を受けたとき、高梨は言いにくそうに話していた。

 

女性の国家奴隷は、本人の意思に関係なく妊娠させられる。

 

生まれた子供は国家育成院へ送られ、そこで育てられる。

 

そう聞かされていた。

 

けれども、あのときは何もかも現実味がなかった。死刑を免れたことだけで精一杯で、自分が実際に妊娠することなど、想像もできなかったのだ。

 

職員が診察室を指さした。

 

麻衣は中へ入った。

 

そこには入所時にも見た男性医師がいた。

 

診察台もある。

 

麻衣はそれを見て、思わず職員を振り返った。

 

「……これ?」

 

職員が何か説明した。

 

麻衣には、ほとんど理解できなかった。

 

ただ、これから医療上の処置を受けるらしいことは分かった。

 

「……また?」

 

医師は書類を確認している。

 

女性職員が準備を進めていた。

 

麻衣は診察台を見て、それから廊下の妊婦たちを思い出した。

 

「……まさかね」

 

誰にも通じない日本語で呟いた。

 

医師は麻衣の言葉など気にも留めず、職員に指示を出している。

 

何をするのか聞いてみたかったが、今の麻衣には、そのための言葉が分からなかった。

 

結局、麻衣は指示に従った。

 

処置が終わり、麻衣は再び廊下へ出た。

 

思っていたより短い時間だった。

 

医師は何かの結果を書類に記録し、すでに次の書類を手に取っている。職員も淡々と後片付けをしていた。

 

麻衣は自分の腹に手を当てた。

 

当然、何も変わっていない。

 

「……よく分かんない」

 

あれが、高梨の言っていた処置なのだろうか。

 

医師は何も説明してくれなかった。いや、説明はしていたのかもしれないが、麻衣には理解できなかった。

 

ただ、不快な処置だったことだけは確かだった。

 

悲しいという感覚も、まだなかった。

 

怖いとも少し違った。

 

それ以上に、何をされたのかはっきり分からないことが嫌だった。

 

職員が出口を指さす。

 

「仕事戻るの?」

 

今度は厩舎の方向を示された。

 

「戻るんだ……」

 

麻衣は思わず苦笑した。

 

ほんの少し前まで馬房を掃除していた。医務室へ連れてこられ、よく分からない処置を受け、それが終わればまた仕事。

 

あまりにも普通に一日が続いていく。

 

厩舎へ戻ると、XA1076がこちらを見た。

 

麻衣を指さし、それから医務室の方向を示した。

 

「うん。病院」

 

覚えた帝国共通語で答える。

 

XA1076が何か質問した。

 

「分かんない」

 

麻衣は首を振った。

 

それから自分の腹を指し、医務室の方向を指さした。

 

XA1076の表情が少し変わった。

 

「……?」

 

女性は何か短く言ったが、麻衣には聞き取れなかった。

 

「何?」

 

もう一度尋ねる。

 

するとXA1076は麻衣の腹を指さし、両腕で赤ん坊を抱くような仕草をした。

 

麻衣はしばらく、その手を見つめていた。

 

「ああ……」

 

やっぱり。

 

高梨から聞いた話は、本当だったらしい。

 

麻衣は自分の腹に手を当てた。

 

まだ何も感じない。

 

「……そっか」

 

それだけ言った。

 

XA1076は何も言わず、いつもの仕事道具を差し出した。

 

麻衣もそれを受け取った。

 

二人はまた、馬房の掃除を始めた。

 

◇

 

帝国歴232年1月。

 

年が明けた。

 

日本なら正月だった。

 

麻衣は厩舎で馬の餌を用意しながら、ふと思いついて挨拶してみた。

 

「明けましておめでとうございまーす」

 

もちろん日本語だった。

 

馬は何も答えない。

 

当然だった。

 

「愛想ないなあ」

 

麻衣が餌を桶へ入れると、馬はすぐに顔を突っ込んで食べ始めた。

 

「はいはい。ご飯の方が大事ですよね」

 

そんなことを言いながら、次の馬房へ向かう。

 

この世界にも新年を祝う習慣はあるらしい。食堂ではいつもより少し豪華な食事が出されたし、職員たちも何か挨拶を交わしていた。

 

けれども、日本の正月とはずいぶん違う。

 

お年玉もない。

 

初詣もない。

 

テレビもない。

 

友達からのメッセージも来ない。

 

「……そういえばスマホ、どうなったんだろ」

 

日本にいた頃なら、暇さえあればスマホを触っていた。学校へ行く途中も、友達と遊んでいるときも、家で寝転がっているときも、ほとんど手放すことがなかった。

 

それが今では、その存在さえ忘れる日がある。

 

「慣れって怖いな……」

 

麻衣は小さく笑った。

 

もっとも、スマホがあったところで使えるわけではない。

 

この世界には携帯電話の基地局などないし、充電する方法もないのだから。

 

それでも、ときどき無性に触りたくなる。

 

画面を開いて、誰かからメッセージが来ていないか確かめる。

 

そんな何でもないことが、今ではひどく遠い昔の出来事のように感じられた。

 

一月の半ばになると、麻衣は厩舎の仕事にもすっかり慣れていた。

 

馬房の掃除も、餌の準備も、水桶の交換も、一人でできる。XA1076も以前ほど細かく指示しなくなり、麻衣が間違えたときだけ手を止めて教えてくれるようになっていた。

 

相変わらず言葉は十分に通じないが、それでも毎日一緒に働いていると、何となく相手の考えていることが分かるようになってくる。

 

ある日、麻衣が馬に向かって日本語で話しかけていると、XA1076が不思議そうな顔をした。

 

「マイ?」

 

麻衣は振り返った。

 

「はい?」

 

女性が何か尋ねている。

 

麻衣は言葉を探した。

 

「日本語……」

 

XA1076は少し考えたあと、頷いた。

 

「ニホン?」

 

どうやら、日本という地名は知っているらしい。

 

「はい。日本」

 

麻衣が答えると、XA1076は何か長い言葉を話した。

 

麻衣にはほとんど理解できなかった。

 

「すみません。分かりません」

 

首を横に振ると、女性は少し笑い、馬房の中にいる馬を指さした。

 

それから帝国共通語で名前を教えてくれる。

 

麻衣も真似をする。

 

今度は水桶。

 

次に干し草。

 

一つずつ、言葉を覚えていく。

 

麻衣も日本語を教えてみた。

 

「くさ」

 

XA1076が不思議そうに繰り返す。

 

「クサ?」

 

「そう。草」

 

麻衣は干し草を持ち上げてみせた。

 

XA1076も真似をして、もう一度「クサ」と言う。

 

二人は顔を見合わせて笑った。

 

そのとき、厩舎の入口から男性職員が入ってきた。

 

XA1076はすぐに仕事へ戻り、麻衣も慌てて道具を手に取った。

 

職員は二人の作業を確認すると、そのまま奥へ歩いていった。

 

姿が見えなくなると、XA1076が麻衣を見た。

 

それから自分の胸を指さし、何か短い言葉を言った。

 

「……え?」

 

もう一度。

 

「ニミス」

 

「ニミス?」

 

女性が頷き、自分を指さした。

 

「ニミス」

 

「……名前?」

 

麻衣は少し考えたあと、嬉しそうに笑った。

 

「ニミス!」

 

ニミスも笑った。

 

麻衣も自分の胸を指さした。

 

「マイ」

 

「マイ」

 

今度は、ちゃんと通じた。

 

「最初から教えてくれればよかったのに」

 

もちろん、その言葉は通じなかった。

 

けれども、ニミスは麻衣の表情を見て笑っていた。

 

どうやら職員のいるところでは番号を使わなければならないが、奴隷同士で話すときには名前も使えるらしい。

 

その日から、二人は職員のいないところでは互いを名前で呼ぶようになった。

 

一月の終わり頃だった。

 

麻衣は宿舎で着替えをしているとき、ふと気づいた。

 

生理が来ていない。

 

最後にいつ来たのだっただろう。

 

麻衣は寝台に腰を下ろし、しばらく考えた。

 

ベルノにいた頃は、そんなことを気にする余裕もなかった。

 

逃亡して捕まり、軍事法廷にかけられ、死刑を宣告された。その後は何日も列車に乗せられ、知らない場所へ連れてこられた。

 

正確な日付は思い出せなかったが、いつもの時期を過ぎていることだけは確かだった。

 

「……あれ?」

 

麻衣は自分の腹に手を当てた。

 

そして、十二月に医務室で受けた処置のことを思い出した。

 

あの診察室。

 

男性医師。

 

廊下に座っていた妊婦たち。

 

ニミスが赤ん坊を抱く仕草をしたこと。

 

一つずつ思い出していくうちに、何となく答えが見えてきた。

 

「……やっぱり、あれがそうだったんだ」

 

麻衣は小さく呟いた。

 

高梨から説明されていた。

 

女性奴隷は、本人の意思に関係なく妊娠させられる。

 

頭では分かっていたつもりだった。

 

けれども、実際に自分が妊娠するということまでは、考えられなかった。

 

麻衣はもう一度腹に手を当てた。

 

何も感じなかった。

 

見た目もいつもと変わらない。

 

「……本当に?」

 

まだ確信は持てなかった。

 

環境が変わったせいで、生理が遅れているだけかもしれない。

 

そう思いたかった。

 

けれども、どうしても十二月の出来事が頭から離れなかった。

 

しばらく寝台に座っていると、廊下から放送が聞こえてきた。

 

午後の作業時間だった。

 

「……仕事行かなきゃ」

 

麻衣は立ち上がった。

 

考えたところで、答えは出ない。

 

今は厩舎へ行くしかなかった。

 

◇

 

二月の初め。

 

その日の夜、麻衣は物音で目を覚ました。

 

最初は誰かが寝返りを打っているのだと思った。しかし、すぐに苦しそうな声が聞こえてきた。

 

部屋の奥だった。

 

同じ部屋で暮らしている、年配の女性が寝台の上で身体を丸めていた。

 

その女性は、この施設に長くいる古株らしかった。

 

職員とも顔なじみのようで、部屋の女性たちからも頼りにされていた。麻衣が入所したばかりの頃には、寝台の使い方や洗濯物を置く場所などを、身振りを交えて教えてくれたことがある。

 

名前も聞いていたが、麻衣にはうまく覚えられなかった。

 

それでも、会えば軽く挨拶する程度の関係にはなっていた。

 

最近、その女性はあまり元気がなかった。

 

食事を残すことが多く、宿舎へ戻るとすぐに横になっていた。麻衣も少し気になっていたが、帝国共通語では体調を尋ねることさえ難しかった。

 

その女性が、今は苦しそうに息をしていた。

 

隣の寝台の女性が起き上がり、何か話しかけている。

 

返事はなかった。

 

女性は身体を起こそうとしたが、うまく支えられなかったらしい。鈍い音を立てて床に倒れた。

 

「えっ!」

 

麻衣も慌てて起き上がった。

 

同室の女性たちが次々と集まり、誰かが廊下へ飛び出して職員を呼んだ。

 

麻衣は自分の寝台の前に立ったまま、どうしていいか分からなかった。

 

床に倒れた女性は、苦しそうに息をしている。顔色は悪く、額には汗が浮かんでいた。

 

しばらくして職員が二人やってきた。

 

男性職員と女性職員だった。

 

男性職員は倒れた女性の様子を確かめると、女性職員に何か指示した。女性職員が廊下へ駆け出していく。

 

やがて、医療鞄を持った男性医師が現れた。

 

五十歳ほどの、白衣を着た男だった。

 

麻衣はその顔を見て、入所時に診察を受けた医師だと気づいた。

 

男性職員二人が女性を抱え上げ、寝台へ戻した。

 

医師は脈を取り、聴診器を当て、瞳を確認している。それから職員に何か尋ねた。

 

職員は書類を開き、女性の識別番号を読み上げた。

 

医師は書類に目を通すと、何かを確認して小さく頷いた。

 

それから医療鞄を開き、薬の入った小瓶と注射器を取り出した。

 

麻衣は少し安心した。

 

薬を使って治療してもらえるのだろう。

 

医師は女性に注射をした。

 

処置はすぐに終わった。

 

医師が器具を片付ける。

 

女性はしばらく苦しそうに息をしていたが、やがて呼吸が静かになった。

 

「……?」

 

麻衣は首を傾げた。

 

薬が効いたのだろうか。

 

先ほどまで苦しそうにしていた女性が、今は静かに横になっている。

 

よかった。

 

そう思いかけた。

 

しかし、何かがおかしかった。

 

女性の胸が動いていない。

 

医師がもう一度、女性の首元に指を当てた。

 

しばらくそのまま待ち、静かに手を離した。

 

それから男性職員に何か告げた。

 

職員は頷き、手元の書類に記入した。

 

誰も慌てていなかった。

 

医師も、職員も。

 

まるで予定されていた仕事を終えたかのようだった。

 

麻衣は寝台の上の女性を見つめた。

 

動かない。

 

何度見ても、胸が上下していなかった。

 

「……え?」

 

小さく声が出た。

 

死んだのだろうか。

 

さっきまで生きていたのに。

 

医師は注射をした。

 

その直後に、女性は動かなくなった。

 

麻衣は医師を見た。

 

医師はもう女性を診ていなかった。使った器具を鞄に戻し、男性職員に書類を渡している。

 

そして、そのまま部屋を出ていった。

 

残された男性職員が、同室の女性たちに何か説明した。

 

麻衣にはほとんど理解できなかったが、全員が自分の寝台へ戻るよう命じられていることだけは分かった。

 

女性たちは黙って従った。

 

誰も大声を上げなかった。

 

泣き出す人もいない。

 

ただ、何人かは俯いていた。

 

麻衣も自分の寝台に戻ったが、眠ることはできなかった。

 

少し離れた寝台には、まだ女性が横になっている。

 

身動き一つしない。

 

しばらくすると、男性職員二人が担架を持って戻ってきた。

 

女性の身体に布をかけ、そのまま担架へ移す。二人がかりで廊下へ運び出していった。

 

麻衣はその様子を、寝台の上から見つめていた。

 

扉が閉まると、部屋は静かになった。

 

女性が寝ていた場所には、乱れた寝具だけが残されている。

 

さっきまで、あの人は生きていた。

 

苦しそうだったけれど、声を出していた。

 

それなのに、注射をされたあと、動かなくなった。

 

「……なんで?」

 

日本語で呟いた。

 

治療のための注射ではなかったのだろうか。

 

それとも、重い病気で、もう助からなかったのだろうか。

 

麻衣には分からなかった。

 

ただ、あの注射を思い出すと、怖くなった。

 

翌朝。

 

いつものように点呼が行われた。

 

男性職員は一人ずつ首輪の番号を確認していったが、昨夜の女性の番号は呼ばれなかった。

 

寝台も空になっていた。

 

毛布は片付けられ、番号札も取り外されている。

 

まるで、最初から誰もいなかったようだった。

 

麻衣はその場所を見つめた。

 

昨日まで、確かにあの人はここで暮らしていた。

 

一緒に食事をし、部屋で眠り、ときには麻衣にも声をかけてくれた。

 

けれども、もういない。

 

同室の女性たちは、いつもどおり朝食へ向かう準備をしていた。

 

麻衣も遅れないように立ち上がった。

 

食堂では、いつもと同じ食事が出された。

 

硬いパンとスープ。

 

茹でた野菜。

 

周囲では女性たちが話をしている。

 

昨日と何も変わらない。

 

麻衣はパンをちぎりながら、昨夜のことを考えた。

 

どうして、誰も驚かないのだろう。

 

長く一緒に暮らしていた人が死んだのに。

 

どうして、あんなに静かだったのだろう。

 

職員も、医師も、同室の女性たちも。

 

まるで、珍しいことではないようだった。

 

麻衣は急に怖くなった。

 

自分も病気になったら、あんな注射をされるのだろうか。

 

そう思うと、食べていたパンが喉を通らなくなった。

 

けれども、食事を残してはいけない。

 

麻衣は水を飲み、残りのパンを口に運んだ。

 

その日も、いつもどおり仕事があった。

 

厩舎へ行かなければならない。

 

ニミスが待っている。

 

厩舎では、ニミスがいつものように馬房を掃除していた。

 

麻衣が近づくと、手を上げた。

 

「マイ」

 

「おはよう」

 

覚えた帝国共通語で挨拶する。

 

ニミスも返事をした。

 

麻衣は少し迷った。

 

昨夜のことを聞いてみたかった。

 

「あのね……」

 

ニミスがこちらを見る。

 

麻衣は何とか言葉を探した。

 

「昨日。夜。女の人……」

 

そこまで言って、言葉が出なくなった。

 

死んだ。

 

注射。

 

病気。

 

知っている単語もあったが、どう組み合わせればいいのか分からない。

 

麻衣は仕方なく、寝台へ横になる仕草をした。

 

それから腕を指さした。

 

ニミスはしばらく麻衣を見ていた。

 

やがて何かを理解したらしく、表情が少し変わった。

 

短く何かを言った。

 

麻衣には意味が分からなかった。

 

「……何?」

 

もう一度尋ねた。

 

しかし、ニミスは首を横に振り、馬房を指さした。

 

仕事へ戻れということらしい。

 

「……分かったよ」

 

麻衣は少し不満だったが、道具を受け取った。

 

ニミスはそれ以上、昨夜のことを話そうとしなかった。

 

麻衣も、何度も尋ねることはできなかった。

 

そのあとしばらく、二人は黙って仕事を続けた。

 

馬たちは何も知らない。

 

いつものように餌を食べ、鼻を鳴らし、ときどき麻衣の服を引っ張ろうとする。

 

「ちょっと、やめてよ」

 

麻衣が馬の顔を押し戻すと、馬は構わず鼻を寄せてきた。

 

「もう!」

 

その様子を見て、ニミスが笑った。

 

麻衣もつられて笑った。

 

昨夜のことは、何も分からないままだった。

 

それでも、今日の仕事は続いていく。

 

◇

 

二月の下旬。

 

麻衣は定期的な健康診断のため、医務室へ呼び出された。

 

これまでにも何度か検査を受けていたので、特に珍しいことではなかった。

 

受付で番号を確認され、診察室へ案内される。

 

例の男性医師が書類を見ながら質問を始めた。

 

麻衣には半分ほどしか理解できなかったが、月経について尋ねられていることは分かった。

 

麻衣は首を横に振った。

 

「ありません」

 

覚えている帝国共通語で答える。

 

医師は頷き、書類に何かを書き込んだ。

 

その後、いくつかの検査が行われた。

 

結果が出るまで、麻衣は別の部屋で待つよう指示された。

 

しばらくすると、医師が戻ってきた。

 

男性職員と何か話している。

 

二人は書類を見ながら短いやり取りをしていた。

 

麻衣にはほとんど意味が分からなかった。

 

けれども、その中に聞き覚えのある言葉があった。

 

妊娠。

 

麻衣は顔を上げた。

 

医師は麻衣の方を向き、ゆっくりと言い直した。

 

「妊娠しています」

 

麻衣は聞き返した。

 

「私が……?」

 

医師は頷いた。

 

それから麻衣の腹部を指さした。

 

麻衣も自分の腹部に手を当てた。

 

何も感じなかった。

 

本当に、ここに子供がいるのだろうか。

 

医師は何か説明を続けたが、麻衣にはほとんど理解できなかった。

 

ただ、自分が妊娠していることだけは分かった。

 

そして、十二月に受けた処置が、やはりそのためのものだったのだと理解した。

 

「……本当だったんだ」

 

小さく呟いた。

 

医師は書類を確認し、何かを書き込んだ。

 

それから男性職員に渡した。

 

二人は麻衣のことを話しているらしい。

 

しかし、麻衣が会話に加わることはなかった。

 

何か意見を尋ねられることもない。

 

医師は最後に体調を確認すると、もう診察は終わりだというように手を振った。

 

麻衣は椅子から立ち上がった。

 

廊下へ出る。

 

窓から冬の空が見えた。

 

麻衣はしばらく立ち止まった。

 

「……私、妊娠したんだ」

 

日本語で言ってみた。

 

声に出すと、少しだけ現実味が増した。

 

けれども、やはり実感はなかった。

 

麻衣は自分の腹にもう一度手を当てた。

 

その日の午後、麻衣は厩舎へ戻った。

 

ニミスはいつものように馬房を掃除していた。

 

麻衣を見ると、手を止めて声をかけた。

 

「マイ、終わった?」

 

麻衣は頷いた。

 

「はい」

 

それから、何か言おうとした。

 

けれども言葉が出てこなかった。

 

ニミスが不思議そうな顔をする。

 

麻衣は腹部に手を当てた。

 

覚えている帝国共通語で、ゆっくりと話した。

 

「私……妊娠」

 

ニミスは麻衣を見た。

 

それから小さく頷いた。

 

何かを尋ねてきたが、麻衣には聞き取れなかった。

 

麻衣は首を横に振った。

 

「分かりません」

 

ニミスは少し考え、麻衣の肩に手を置いた。

 

それから短い言葉で何かを言った。

 

麻衣には意味が分からなかった。

 

けれども、声は穏やかだった。

 

麻衣は俯いた。

 

「私、まだ十六歳なのに……」

 

日本語で呟いた。

 

ニミスは黙っていた。

 

麻衣の言葉は理解できなかったはずだった。

 

それでも、何かを感じ取ったらしい。

 

ニミスは麻衣の背中を軽く叩いた。

 

しばらくして、厩舎の奥から馬が鼻を鳴らす音が聞こえた。

 

ニミスがそちらを振り返った。

 

餌の時間だった。

 

麻衣も顔を上げた。

 

いつもの仕事をしなければならない。

 

「行きます」

 

覚えた帝国共通語で言うと、ニミスは頷いた。

 

そのとき、厩舎の入口から男性職員が入ってきた。

 

ニミスを呼び、何か書類を渡している。

 

ニミスはそれを読み、麻衣の方を見た。

 

そして、職員と短く言葉を交わした。

 

職員が立ち去ると、ニミスは麻衣のところへ戻ってきた。

 

「マイ」

 

名前を呼ばれ、麻衣は顔を上げた。

 

ニミスは麻衣が持っていた水桶を受け取り、床に置いた。

 

それから、馬房の中にある小さな道具を指さした。

 

どうやら、掃除をするように言っているらしい。

 

「水は?」

 

麻衣が尋ねると、ニミスは首を横に振った。

 

自分を指さす。

 

「私」

 

それから麻衣を指さし、掃除道具を示した。

 

「マイ、こっち」

 

麻衣にも理解できた。

 

重い水桶を運ぶ仕事は、もうしなくていいらしい。

 

「……分かりました」

 

麻衣は頷いた。

 

ニミスは笑い、麻衣の肩を軽く叩いた。

 

翌日から、麻衣の仕事は少し変わった。

 

これまで担当していた重い水桶の運搬や、大量の餌を運ぶ仕事は、他の作業員が行うようになった。麻衣は馬房の軽い掃除や道具の片付け、馬の手入れなどを任され、作業時間も少し短くなった。

 

ニミスは相変わらず忙しそうに働いていたが、麻衣が重い物を持とうとすると、すぐに止めに来た。

 

麻衣は何度か自分でできると伝えようとしたが、ニミスは首を横に振るだけだった。

 

どうやら医務室から、仕事を軽くするよう指示されているらしい。

 

麻衣は少し申し訳なく思った。

 

その日も、ニミスが重い水桶を運んでいる。

 

麻衣は馬房の前に立ち、馬の毛並みを整えていた。

 

馬は気持ちよさそうに目を細めている。

 

「気持ちいい?」

 

麻衣は日本語で尋ねた。

 

馬は答えない。

 

当然だった。

 

それでも、麻衣は少し笑った。

 

「いいなあ、おまえは」

 

馬は鼻を鳴らした。

 

何も知らずに、毎日餌を食べ、眠り、人に世話をしてもらっている。

 

麻衣はふと、自分の腹部に手を当てた。

 

まだ、外から見て分かるほどの変化はない。

 

けれども、医師は確かに妊娠していると言った。

 

この先、どうなるのだろう。

 

子供が生まれたら、どうなるのだろう。

 

ベルノで高梨から聞いた説明を思い出す。

 

生まれた子供は国家育成院へ送られる。

 

自分が育てるわけではない。

 

そう聞かされていた。

 

けれども、今の麻衣にはまだ実感がなかった。

 

子供が生まれることも、その子供と別れることも、ずっと先の話のように思えた。

 

「マイ!」

 

ニミスの声がした。

 

振り返ると、ニミスが道具を片付けながら手を振っていた。

 

何か言っている。

 

麻衣は耳を澄ませた。

 

仕事が終わったらしい。

 

「はい!」

 

麻衣は返事をした。

 

手に持っていた道具を片付け、ニミスのところへ向かった。

 

二人は並んで厩舎を出た。

 

外はまだ寒かったが、十二月にここへ来た頃より、日差しが少しだけ暖かくなったように感じられた。

 

ニミスは歩きながら、何か話しかけてきた。

 

麻衣には半分ほどしか理解できなかった。

 

それでも、以前よりは随分聞き取れるようになっていた。

 

分からない言葉があると、ニミスはゆっくり言い直してくれる。

 

麻衣も覚えた言葉を使い、何とか返事をした。

 

時々、二人で笑うこともあった。

 

ここへ来てから二か月以上が過ぎていた。

 

もう、ベルノにいた頃の生活には戻れない。

 

真由たちがどこにいるのかも分からない。

 

そして、麻衣のお腹の中には、自分が望んだわけではない子供がいる。

 

それでも、毎日は続いていく。

 

朝になれば起きて、食事をし、厩舎へ向かう。

 

馬房を掃除し、馬の世話をする。

 

ニミスに新しい言葉を教えてもらい、ときには笑うこともある。

 

麻衣は隣を歩くニミスを見た。

 

この人がいてくれてよかった。

 

そう思った。

 

ニミスは麻衣の視線に気づき、不思議そうに首を傾げた。

 

「マイ?」

 

「なんでもない」

 

麻衣は日本語で答えた。

 

当然、ニミスには通じなかった。

 

それでも麻衣が笑うと、ニミスも笑った。

 

二人はそのまま、宿舎へ向かって歩いていった。

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