西海岸の夏は、ベルノに比べるとずいぶん過ごしやすかった。
海から吹いてくる風は少し湿っていたが、暑さを和らげてくれる。収容施設の周囲では畑の作物が青々と育ち、牧草地では牛や馬がのんびりと草を食べていた。
吉田麻衣は、作業場の窓からその景色を眺めていた。
「……いい天気だなあ」
そう呟いてから、目の前の仕事へ戻る。
机の上には大量の紙が積まれていた。決められた場所に糊をつけ、折り畳んで封筒にする仕事だった。完成した封筒は十枚ずつ重ね、百枚になったところで紐で束ねる。
単純な仕事だが、数が多い。
「マイ、手が止まってるわよ」
隣から声がした。
「分かってるって」
麻衣は帝国共通語で答えた。
発音は少しおかしいかもしれないが、今では日常会話ならほとんど困らなくなっていた。
隣に座っているのはニミスだった。
金髪を短く切り揃えた、四十歳に近い女性である。身長は160センチほど。目鼻立ちのはっきりした知的な顔立ちは、初めて会った頃からほとんど変わっていない。
二人とも灰色の作業服を着ており、首には識別番号の刻まれた金属製の首輪があった。
麻衣はHF8501。
ニミスはXA1076。
額の中央には、同じ逆三角形の刺青がある。
麻衣がここへ来てから、三年半ほどが過ぎていた。
「ねえ、ニミス。これ、あと何枚?」
「あなたの分は三百枚」
「えーっ、まだそんなにあるの?」
「さっき四百枚って言ったでしょう。そこから百枚作ったんだから、あと三百枚よ」
「計算はできるってば」
麻衣は口を尖らせた。
「じゃあ、仕事を続けなさい」
ニミスは笑いながら、自分の封筒を重ねた。
麻衣も仕方なく、次の紙を手に取った。
本来なら、二人とも厩舎で働いているはずだった。
しかし、現在は事情が違っていた。
麻衣は妊娠中で、来月には出産を予定している。すでに腹はかなり大きくなっており、以前のように馬房を掃除したり、重い水桶を運んだりすることはできなかった。
ニミスも同じだった。
もっとも、彼女の場合は今回が六度目の出産になるという。
二人は医務室から軽作業を命じられ、ここ一か月ほど封筒作りを続けていた。
「それにしても、よく飽きないよね」
麻衣が言った。
「何が?」
「封筒。毎日毎日、同じものばっかり」
「馬の糞を片付けるよりいいでしょう?」
「それはそうだけど」
「じゃあ文句を言わない」
「ニミスって、時々うちの学校の先生みたい」
「それは褒めてるの?」
「さあ?」
麻衣が笑うと、ニミスも小さく笑った。
二人は再び封筒を折り始めた。
麻衣は今年で二十歳になっていた。
日本にいた頃の自分から考えれば、随分と大人になったことになる。
もっとも、今でも自分が大人になったという実感はあまりなかった。
毎朝決められた時間に起き、点呼を受け、食事をして仕事へ向かう。夕方には作業を終え、シャワーを浴び、夕食のあとにもう一度点呼を受ける。
そんな生活を何年も続けているうちに、時間の感覚はずいぶん曖昧になっていた。
休日はある。
体調が悪ければ医務室で診てもらえるし、妊娠中は仕事も軽くなる。食事も十分に出され、必要な衣服や日用品も支給されていた。
ただし、施設の外へ出ることはできない。
手紙を自由に出すこともできず、他の収容施設へ移された知人の消息を調べることもできなかった。
麻衣の首輪は、四年前と同じものだった。
時々、寝る前に指で触れてみる。
金属の輪は、今ではほとんど気にならなくなっていた。
最初の頃は、首を動かすたびに違和感があった。
今では、外すことができるという発想さえ浮かばない。
それが少し怖いと思うこともあった。
「マイ、また考え事?」
ニミスが声をかけた。
「うん。ちょっと昔のこと」
「日本?」
「そう」
麻衣は頷いた。
「日本にいた頃はさ、毎朝学校へ行くのが嫌だったんだよね。よく遅刻してたし、休んじゃうこともあったし」
「学校を?」
「うん」
「もったいないわね」
「そうかなあ」
「勉強できるうちに勉強しておかないと、後で困るものよ」
「ニミスって、やっぱり先生みたい」
「あなたが勉強嫌いだっただけでしょう」
「それは否定しない」
麻衣が笑うと、ニミスも笑った。
今では二人の会話に、ほとんど不自由はなかった。
もちろん、難しい言葉になると麻衣には分からないこともある。特に法律や政治の話になると、ニミスに何度も説明してもらわなければならなかった。
それでも、最初の頃に比べれば大した進歩だった。
施設へ来たばかりの頃は、食事の時間さえ分からず、周囲の人間について歩くことしかできなかったのだから。
「そういえば、ニミスって学校に行ってたの?」
何となく尋ねた。
「行ってたわよ」
「どこ?」
「帝都大学」
麻衣は手を止めた。
「……大学?」
「そうよ」
「帝都の?」
「帝都大学って言ったでしょう」
「えっ、すごいじゃん!」
麻衣は思わず声を上げた。
近くの作業員がこちらを見たので、慌てて声を落とす。
「大学出てるの?」
「卒業したわよ」
「へえ……」
麻衣は改めてニミスの顔を見た。
確かに、初めて会ったときから何となく頭のよさそうな人だとは思っていた。
帝国共通語の教え方も上手だったし、数字の計算も早い。施設から渡される書類も、職員に聞かなくても大抵は理解していた。
だが、大学を卒業しているとは思わなかった。
「何を勉強してたの?」
ニミスが説明した。
しかし、麻衣には聞き慣れない単語がいくつも出てきた。
「……ちょっと待って。今の、何?」
「法律よ。国の決まりについて勉強していたの」
「ああ、法律!」
ようやく理解できた。
「じゃあ、ニミスって弁護士だったの?」
「違うわ。大学を卒業しただけ」
「でも、すごいね」
「そうでもないわよ」
ニミスは平然と答え、封筒を一枚折った。
麻衣は少し考えた。
ずっと気になっていたことがあった。
ニミスは、どうして国家奴隷になったのだろう。
ここで暮らしている女性たちは、さまざまな罪を犯している。窃盗や詐欺で捕まった者もいれば、重い犯罪で死刑を宣告され、国家奴隷に減刑された者もいる。
麻衣自身も、その一人だった。
けれども、ニミスの過去については、詳しく聞いたことがなかった。
「ねえ、ニミス」
「何?」
「どうしてここに来たの?」
ニミスは手を止めた。
「犯罪を犯したからよ」
「それは分かってるけど……」
麻衣は少し迷った。
「何したの?」
ニミスはしばらく麻衣を見ていたが、やがて何でもないことのように答えた。
「二人殺したの」
「……え?」
麻衣は思わず顔を上げた。
「二人?」
「そう」
「誰を?」
「恋人と、その相手の女」
麻衣はしばらく黙っていた。
「……浮気?」
「そういうことね」
「それで殺しちゃったの?」
「猟銃で頭をふっとばしたわ。どうなるかは分かってたけど、あのときは自分も死ぬつもりだったから」
あまりにも平然とした口調だったので、麻衣は思わず手を止めた。
「……ニミスって、怖い人だったの?」
ニミスは少し考え、それから苦笑した。
「そうね。少なくとも、あの頃はまともじゃなかったと思うわ」
「……今と全然違うじゃん」
「二十年近くもあれば、人間だって少しは変わるわよ」
ニミスは何でもないことのように答え、封筒を一枚折って糊をつけた。
「若い頃の話よ。もうずいぶん昔のことだわ」
「いや、でも……二人って」
「そうね。二人も殺したんだから、ここにいるのは当然でしょう」
麻衣はニミスの顔を見た。
いつもの穏やかな表情だった。
この人が本当に人を殺したのだろうか。
毎日一緒に働き、仕事を教えてくれて、時には冗談も言う。
そんなニミスが、二人の人間を銃で撃ち殺したという。
どうにも想像できなかった。
「ニミスって、貴族だったんじゃないの?」
以前、そんな話を聞いたことがあった。
「そうよ。地方貴族の家に生まれたわ」
「貴族でも奴隷になるの?」
「当たり前でしょう」
ニミスは少し不思議そうな顔をした。
「貴族でも平民でも、刑法は同じよ。立場は違っても、法の下では平等なの」
麻衣は難しい言葉を頭の中で整理した。
「……つまり、偉い人でも犯罪したら捕まるってこと?」
「そういうこと」
「へえ……」
麻衣は感心した。
この世界の貴族は、何でも好き勝手にできるものだと思っていた。
ベルノでも貴族の話は何度も聞いたが、麻衣にとっては軍の偉い人という印象しかなかった。
ニミスはそんな麻衣を見て、少し笑った。
「それに、大学を卒業していたって、愚かなことをしないとは限らないのよ」
「……なるほど」
麻衣は頷いた。
「それは何となく分かる」
「あなたも愚かなことをしたものね」
「うっ……」
言い返せなかった。
佐々木たちについて軍から逃亡し、捕まって死刑を宣告された。
あのとき、もう少し考えていればよかった。
今でもそう思うことがあった。
「私も、何であんなことしたんだろう」
「それは自分で考えるしかないわね」
ニミスはそう言って、また仕事へ戻った。
麻衣もしばらく考えていたが、結局答えは出なかった。
昼食のあと、二人は再び封筒作りを始めた。
午後になると、作業場の窓から海がよく見えた。
遠くには船らしい影も見える。
麻衣は窓の外を眺めながら、ふと思いついて尋ねた。
「ねえ、ニミス。ここって何でこんなに妊婦が多いの?」
ニミスは麻衣を見た。
「今さら?」
「いや、そうなんだけどさ」
麻衣は少し笑った。
「だって、普通の刑務所じゃないでしょ。畑もあるし、馬も牛もいるし、赤ちゃんを産む人もたくさんいるし」
「ここは普通の刑務所じゃないもの」
「うん。それは分かる」
ニミスはしばらく考えてから言った。
「私たちは、ここを人間生産牧場って呼んでるのよ」
「……人間?」
麻衣は聞き返した。
初めて聞く表現だった。
ニミスはもう一度、ゆっくり言い直した。
「人間を生産する牧場」
「ええっ、何それ!」
麻衣は思わず顔をしかめた。
「牛とか馬みたいじゃん」
「そうね」
ニミスはあっさり頷いた。
「ここでは家畜も育てているけれど、人間も増やしているのよ」
麻衣は何とも言えない顔になった。
確かに、自分もここで子供を産んだ。
今も二人目を妊娠している。
ニミスに至っては、次が六人目だという。
しかし、人間を生産していると言われると、何となく嫌だった。
「何でそんなことするの?」
「戦争よ」
「戦争?」
「帝国は、もう何百年も戦争を続けているでしょう。毎年たくさんの人が死んでいるの。兵士だけじゃないわ。町や村が攻撃されれば、そこに住んでいる人たちも死ぬ」
麻衣は頷いた。
ベルノにいた頃、魔族との戦争については何度も説明を受けていた。
けれども、戦争が何百年も続いているという話は、今でも現実味がなかった。
ニミスは続けた。
「死ぬ人が多ければ、人口を維持するのが難しくなる。だから帝国は、子供を増やすための制度をいくつも作っているのよ」
「それが、ここ?」
「そういうこと」
ニミスは自分の腹に手を当てた。
「私たちが産んだ子供は、国家育成院で育てられるでしょう。あの子たちは奴隷じゃない。最初から自由民として扱われるのよ」
「それは知ってる」
麻衣は頷いた。
「でも、お父さんは?」
麻衣が尋ねると、ニミスは手元の封筒を一枚折りながら答えた。
「帝国が条件に合った自由民の男性を選んでいるわ。学業の成績が優秀だったり、軍で功績を挙げた兵士だったり。そういう人たちね」
「へえ……じゃあ、頭のいい人とか、強い兵隊さんとか?」
「そういうこと。私たちは馬と一緒よ。優秀な種をもらって、子供を産む動物なの」
麻衣は思わず顔をしかめた。
「……うわ、嫌な言い方」
「でも、間違ってはいないでしょう?」
ニミスは平然としていた。
「馬だって、優秀な親を選んで交配させるでしょう。速く走れる馬、丈夫な馬、力の強い馬。ここでやっていることも、考え方は同じよ」
「……人間なのに?」
「人間だからよ。帝国が欲しいのは、優秀な兵士や技術者、官僚になれる人間なんだから」
麻衣は手に持っていた紙を置いた。
「じゃあ、ただ子供を増やしたいだけじゃないんだ」
「もちろん人口を増やすことも目的よ。でも、それだけではないわね」
ニミスは少し考え、それから何かを思い出したように続けた。
「そういえば、以前新聞で読んだことがあるわ。国家育成院の出身者が士官学校を首席で卒業したって」
「えっ、士官学校?」
「ええ。確か『三十年に一度の天才現る』なんて大きな見出しがついていたわ」
「すごいじゃん!」
麻衣は素直に驚いた。
「育成院の子供って、士官学校にも入れるんだ?」
「当たり前でしょう。国家育成院で育った子供は自由民なんだから。成績がよければ士官学校にも大学にも進めるし、将来は高級官僚にだってなれるわ」
「へえ……」
麻衣は少し考えた。
自分の産んだ子供も、今は国家育成院で暮らしている。
あの子も勉強ができれば、士官学校や大学へ行けるのだろうか。
「じゃあ、私の子供も頭よくなるかな?」
ニミスは笑った。
「それは分からないわ。親が優秀だからといって、子供まで必ず優秀になるわけじゃないもの。育て方だって大切でしょう」
「そりゃそうか」
「でも、帝国はそういう優秀な人材が生まれる可能性を少しでも高くしたいのよ。あの新聞の記事だって、制度の成果として扱われていたわ」
麻衣はしばらく黙っていた。
「……何か、すごいこと考える国だね」
「そうね」
ニミスは封筒を一枚重ねた。
「ただし、そのために私たちの意思は必要ないの。誰の子供を産むかも、いつ産むかも、私たちには決められない」
麻衣は自分の腹に手を当てた。
来月には二人目の子供が生まれる。
その父親が誰なのか、麻衣は知らなかった。
「……じゃあ、私の子供のお父さんも、どこかにいるんだ」
「そうでしょうね」
「会ったこともないけど」
「それも制度の一部よ」
ニミスはそう言って、また次の封筒を折り始めた。
麻衣も手元の紙を取ったが、しばらく考え込んでしまった。
自分は奴隷で、一生この施設から出られない。
けれども、自分が産んだ子供は自由民として育ち、士官学校へ進むこともできる。
もしかしたら、いつか帝国軍の将校になるのかもしれない。
「……変な国だね」
麻衣が呟くと、ニミスは少し笑った。
「そう思う?」
「うん。だって、子供は自由なのに、お母さんは奴隷なんでしょ?」
「そうよ。子供には親の罪を負わせない。それが帝国の法律だから」
「……なるほど」
麻衣は頷いた。
理屈は分かる。
けれども、それが正しいことなのかどうかは、やっぱりよく分からなかった。
麻衣には、すでに一人の子供がいた。
帝国歴232年の秋に出産した、最初の子供だった。
出産のときのことは、今でもよく覚えている。
陣痛が始まると医務室へ運ばれ、医師や看護職員の指示に従って出産した。
何時間もかかった。
とにかく痛くて、苦しくて、何度も泣いた。
それでも、ようやく子供が生まれたときには、少しだけ安心した。
生まれたばかりの赤ん坊は、職員が麻衣のところへ連れてきてくれた。
小さかった。
目を閉じ、時々口を動かしていた。
麻衣は、その顔をしばらく眺めていた。
けれども、赤ん坊と会えたのは、その一度きりだった。
その後、子供は国家育成院へ移された。
麻衣自身は産後の回復を待ち、決められた期間、母乳を搾乳するよう指示された。
赤ん坊はもうそばにいない。
それでも母乳は出る。
麻衣は毎日、職員の指示に従って搾乳を続けた。
初めの頃は、そのことが不思議で仕方なかった。
子供はいないのに、自分の身体だけが子供を産んだことを覚えている。
そんな気がした。
「ねえ、ニミス」
麻衣が言った。
「私の最初の子供、今どうしてるかな」
ニミスは手を止めた。
「国家育成院にいるでしょうね」
「それは分かるけど」
「元気にしているか、ってこと?」
「うん」
麻衣は頷いた。
「もうすぐ三歳になるんだよね」
「そうね」
「歩いてるかな」
「もう歩いているでしょう」
「喋るかな」
「簡単な言葉なら喋るでしょうね」
麻衣は少し笑った。
「何か、想像できないや」
自分が見たのは、生まれたばかりの赤ん坊だった。
それが今では歩き、言葉を覚え、誰かと遊んでいるかもしれない。
けれども、麻衣にはその姿を見ることができなかった。
「会ってみたい?」
ニミスが尋ねた。
麻衣は少し考えた。
「……うん」
それから、苦笑した。
「でも、会えないんでしょ?」
「そうね」
「じゃあ、仕方ないか」
麻衣は封筒を一枚折った。
しばらくして、また口を開いた。
「ニミスは? 五人も産んでるんでしょ?」
「そうよ」
「会いたいと思わない?」
ニミスは少し考えた。
「最初の頃はね」
「今は?」
「今でも、どうしているのか気になることはあるわ。でも、あの子たちは自由民として育っているのよ。私とは違う人生を送っているんだから、それでいいと思ってる」
麻衣は黙っていた。
ニミスは五人の子供を産み、今は六人目を妊娠している。
それでも、母親として子供を育てたことは一度もない。
麻衣は自分の腹に手を当てた。
来月には、また子供が生まれる。
そして、その子供とも別れることになる。
今度は、何となくそのことが分かっていた。
しばらくして、麻衣は別のことを思い出した。
「ねえ、ニミス。前から聞きたかったことがあるんだけど」
「何?」
「私がここへ来たばかりの頃、同じ部屋にいた女の人、覚えてる?」
「どの人?」
「年配の人で、ずっと具合が悪かった人。夜中に倒れて、お医者さんが来たの」
ニミスは手を止めた。
「……ああ」
どうやら思い当たったらしい。
麻衣は続けた。
「注射をしたあと、死んじゃったんだよね」
「そうね」
「私、ずっと不思議だったの」
麻衣は顔を上げた。
「何で、あのとき誰も驚かなかったの? お医者さんも職員も、普通にしてたし……」
ニミスはしばらく黙っていた。
それから、静かに答えた。
「あの人は処分されたのよ」
「……処分?」
麻衣は聞き返した。
聞いたことのある言葉だったが、人間に使う意味がすぐには理解できなかった。
ニミスは言葉を選びながら説明した。
「あの人は長くここで働いていたけれど、病気になって、もう仕事ができなくなっていたの。治療を続けても回復する見込みがないと判断されたのよ」
「……それで?」
「処分することになったの」
麻衣はしばらくニミスを見つめた。
「処分って……殺したってこと?」
「そうよ」
あまりにもあっさりとした答えだった。
麻衣は言葉を失った。
あの夜の光景が、急にはっきりと思い出された。
寝台の上で苦しんでいた女性。
医師が用意した注射器。
静かになった呼吸。
書類に何かを書き込んでいた男性職員。
そして、担架に乗せられて運び出された身体。
あれは治療ではなかったのだ。
「あの人、病気だっただけじゃん……」
「そうね」
「何で殺すの?」
ニミスは少し困ったような顔をした。
「ここは、そういう施設なのよ」
「……何それ」
「働けなくなっても、すぐに処分されるわけではないわ。治療を受けることもできるし、仕事を変えてもらうこともできる。でも、もう回復せず、働くこともできないと判断されれば、最後はそうなるの」
麻衣は自分の手元にある封筒を見た。
ついさっきまで、仕事が退屈だと文句を言っていた。
だが、ここでは働くことができなくなれば、命を失うことさえある。
「……じゃあ、私も?」
思わず尋ねた。
ニミスは麻衣を見た。
「今すぐそんなことにはならないわよ」
「でも、年を取ったら?」
「そのときの身体の状態によるでしょうね」
ニミスは落ち着いた口調で答えた。
「妊娠や出産ができなくなっても、働けるうちは仕事があるわ。農場にも、工場にも、年配の女性はたくさんいるでしょう?」
麻衣は頷いた。
確かに、最初の日に年齢で分けられた女性たちも、その後は畑や工場で働いている姿を見かけていた。
「でも、もう何もできなくなったら……」
ニミスは最後まで言わなかった。
言わなくても、麻衣には分かった。
「……怖いね」
小さく呟いた。
「そうね」
ニミスも頷いた。
「だから、病気には気をつけなさい」
「気をつけてても病気になることあるじゃん」
「もちろんよ。でも、今から心配しても仕方ないでしょう」
麻衣は黙っていた。
以前なら、言葉が分からなかった。
あの女性が処分されたときも、医師が何をしているのか理解できなかったし、職員の説明も聞き取れなかった。
今は違う。
ニミスの言葉が分かる。
制度の意味も理解できる。
けれども、分かったからといって、何かが変わるわけではなかった。
むしろ、知らなかった方がよかったような気さえした。
午後の作業が進み、封筒の束が少しずつ増えていった。
麻衣は黙って紙を折っていたが、やがて別のことが気になり始めた。
「ねえ、ニミス」
「今度は何?」
「私と一緒に捕まった人たちのことなんだけど」
ニミスは手を動かしたまま頷いた。
麻衣は少し考え、言葉を選んだ。
「男の人が二人と、女の子がもう一人いたの。四人で軍から逃げたんだ」
「そうだったわね」
「男の二人は銃を持ってたの。私と真由は持ってなかったけど」
ニミスは頷いた。
「軍からの脱走ね。それで国家奴隷になったんでしょう?」
「うん」
麻衣は封筒を置いた。
「佐々木健と中村拓也っていうんだけど、あの二人、どうなったかなって」
帝都アウグステンの拘置所で、一人ずつ別れた。
最初の日に佐々木。
次の日に中村。
三日目には真由が連れていかれ、最後に麻衣が一人で西方行きの列車に乗せられた。
それ以来、誰とも会っていない。
消息も知らなかった。
「男の国家奴隷は、去勢されるんでしょう?」
ニミスが尋ねた。
「うん。高梨さんからそう聞いた」
「それなら、どこかの施設で働いているんじゃない?」
「……そうかな」
「少なくとも、男性の国家奴隷には労働力としての仕事があるもの」
麻衣は少し考えた。
佐々木は何をしているのだろう。
中村は元気にしているのだろうか。
二人とも乱暴なところがあったし、命令されることが大嫌いだった。
ここでの生活のように、毎朝決められた時間に起こされ、職員の指示に従って働くなど、我慢できるのだろうか。
「健なんか、絶対文句ばっかり言ってそう」
麻衣が言った。
ニミスは少し笑った。
「馬も去勢されるとおとなしくなるから。案外うまくやってるかもしれないよ」
「……ええっ?」
麻衣は思わずニミスを見た。
「馬と一緒?」
「似たようなものじゃない?」
ニミスは平然と答えた。
麻衣は少し考えてから、吹き出した。
「ひどい!」
「そう?」
「健が聞いたら絶対怒るよ!」
「なら、元気にしている証拠ね」
ニミスが笑ったので、麻衣も声を上げて笑った。
近くの作業員が何事かという顔で二人を見たが、すぐに自分の仕事へ戻った。
麻衣はしばらく笑っていた。
久しぶりに佐々木のことを思い出した。
いつも威張っていて、すぐに喧嘩腰になっていた。
中村はその隣で適当なことを言い、真由が二人に言い返す。
麻衣はいつも、その横で笑っていた。
あの頃は、毎日がそんな感じだった。
「……真由はどうしてるかな」
今度は少し静かな声になった。
「マユ?」
「うん。私と一緒にいた女の子」
ニミスは少し考えた。
「別の女性施設にいるんでしょうね」
「ここみたいなところ?」
「そういう施設もあるでしょうし、工場や農場もあるわ。どこに送られたかまでは分からないわね」
「……そっか」
麻衣は少し寂しくなった。
真由は、いつも自分よりはっきりものを言う子だった。
分からないことがあればすぐに質問し、納得できなければ文句も言った。
きっと、どこへ行っても何とかやっているだろう。
そう思いたかった。
けれども、何の知らせもない。
元気にしているかどうかさえ分からなかった。
「会ってみたい?」
ニミスが尋ねた。
麻衣は頷いた。
「うん。会いたい」
それから、少し笑った。
「会ったら、絶対に怒られると思うけど」
「どうして?」
「何でも人任せにしてたから。今の私を見たら、少しはしっかりしたって言ってくれるかな」
ニミスは麻衣の顔を見た。
「あなたは随分しっかりしたと思うわよ」
「本当?」
「最初に来た頃と比べればね」
「最初はひどかった?」
「何を言っているのか分からないし、仕事は遅いし、朝は起きないし」
「うわ、全部覚えてる!」
麻衣が笑った。
「それでも、今は仕事も覚えたし、言葉も話せるでしょう」
「まあね」
「だから、少しは成長したんじゃない?」
麻衣は嬉しくなった。
「じゃあ、真由に会っても大丈夫かな」
「どうでしょうね」
「そこは大丈夫って言ってよ!」
二人は顔を見合わせて笑った。
夕方が近づくと、作業場の窓から差し込む光が少し赤くなった。
麻衣は最後の封筒を束ね、机の端へ置いた。
「終わった!」
思わず声が出た。
ニミスが完成した束を確認する。
「数は?」
「ちゃんとあるよ」
「本当に?」
「疑ってるでしょ」
「あなたのことだからね」
麻衣は少しむっとした顔をして、束を数え直した。
間違いはなかった。
「ほら!」
ニミスは笑った。
「よくできました」
「だから先生みたいなんだって」
そのとき、男性職員が作業場へ入ってきた。
ニミスはすぐに表情を改め、完成した封筒を所定の場所へ運んだ。
麻衣も自分の束を抱えて後に続いた。
職員は番号を確認し、数量を記録する。
「HF8501」
「はい」
麻衣は返事をした。
「XA1076」
「はい」
ニミスも答える。
職員は書類に印をつけると、二人へ退出を指示した。
それで今日の仕事は終わりだった。
建物の外へ出ると、海からの風が心地よかった。
麻衣は大きく息を吸った。
少し塩の匂いがする。
遠くの牧草地では馬たちが草を食べており、厩舎の方からは餌を運ぶ作業員たちの声が聞こえてきた。
「明日は厩舎に行きたいな」
麻衣が言った。
「無理でしょう。出産が終わるまでは軽作業よ」
「馬に会いたいだけだよ」
「仕事が終わってからなら、少しは見に行けるでしょう」
「そうしようかな」
麻衣は嬉しそうに笑った。
二人は宿舎へ向かって歩き始めた。
途中、農場から戻ってきた女性たちの集団とすれ違った。
顔見知りも何人かいた。
互いに声をかけ、簡単な挨拶を交わす。
麻衣も自然に返事をした。
もう、言葉が分からなくて困ることはほとんどない。
施設の中であれば、どの建物が何をする場所なのかも分かっている。
職員の顔も覚えた。
誰が厳しく、誰が親切なのかも知っている。
初めてここへ来た頃には、何も分からなかった。
食事の時間さえ理解できず、周囲の女性たちの後をついて歩くことしかできなかった。
今では、ここが自分の暮らす場所になっていた。
麻衣は歩きながら、ふと首輪に触れた。
HF8501。
数字と文字の並びは、四年前から変わっていない。
額の逆三角形も、そのままだった。
麻衣は国家奴隷だった。
これからも、ずっと国家奴隷なのだろう。
けれども、毎日は続いていく。
仕事をして、食事をして、眠る。
ときには笑い、ときには昔のことを思い出す。
来月には二人目の子供が生まれる。
その子供もまた、国家育成院へ送られるのだろう。
そして麻衣は、身体が回復すれば再び仕事へ戻る。
「マイ、どうしたの?」
隣を歩くニミスが尋ねた。
麻衣は顔を上げた。
「何でもない」
「また日本のこと?」
「ちょっとね」
ニミスは頷いた。
「そう」
それ以上は尋ねなかった。
麻衣は少し考えてから、笑った。
「ねえ、明日も封筒?」
「そうよ」
「えーっ、もう飽きた」
「あと一か月くらいは続くでしょうね」
「うわ、最悪」
ニミスが笑った。
「文句を言っても仕事は減らないわよ」
「分かってるって」
二人は並んで歩いていった。
遠くには、海が見えていた。
日本とは違う海だということは分かっている。
それでも、海を見ていると、時々日本のことを思い出す。
麻衣は少しだけ足を止め、遠くの水平線を眺めた。
それから、ニミスの後を追った。
明日も朝になれば放送が鳴る。
点呼があり、朝食を食べ、封筒を折る。
そんな毎日が、これからも続いていくのだった。