勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴231年7月


第3節 先輩たち

雨は相変わらず降り続いていた。

 

 石の上に立っているだけで足の裏が冷えてくる。誰かがくしゃみをし、別の誰かが泣き声を上げた。高橋は腕で身体を隠しながら、遠くの兵士たちを見ていた。

 

「なあ、高橋……」

 

 川崎が震えながら話しかけてきた。

 

「何?」

 

「いつまでこうしてりゃいいんだよ」

 

「俺に聞くなよ」

 

「寒いんだって」

 

「俺だって寒いよ」

 

 水野は女子生徒の間を行き来していた。眼鏡を失った彼女には遠くがよく見えず、声のする方へ手探りするように歩いている。

 

「みんな、できるだけ固まって! 具合の悪い人はいない? 怪我した人は?」

 

「先生! ここどこなんですか!」

 

「わ、私にもわからないけど、とにかく落ち着いて!」

 

 泣いている女子生徒の肩を、水野が抱いた。

 

「先生も一緒だからね。大丈夫よ」

 

 自分でも何が大丈夫なのかわからない。それでも、水野はそう言い続けていた。

 

 高橋の近くでは井上翔太が周囲の兵士を観察していた。

 

「……やっぱり軍隊だな」

 

「何が?」と川崎。

 

「あの銃とか装備とか。どう見ても本物の軍隊だよ。日本の自衛隊じゃない。制服も銃も違うし、言葉も通じない」

 

「じゃあ外国か?」

 

「それにしては変なんだよなあ。俺、軍事関係の本は結構読んでるけど、あんな装備見たことないぞ」

 

「知らない国の軍隊なんじゃないの?」

 

 高橋がそう言うと、井上は「かもしれないけど」と首をひねった。

 

 その隣で山田直樹が突然顔を上げた。

 

「わかった! これ、異世界召喚だ!」

 

「また始まったよ」

 

 井上は呆れたように山田を見た。

 

「いや、考えてみろって! 体育館から一瞬で移動したんだぞ。しかも服まで消えてるんだぞ!」

 

「だからって異世界とは限らないだろ」

 

「じゃあ何なんだよ!」

 

「知らねえよ!」

 

 山田は構わず続けた。

 

「こういうときは絶対に何か能力をもらってるはずなんだよ。勇者とか賢者とか、そういうやつ!」

 

 川崎は疲れた顔で言った。

 

「お前、こんな状況でよくそんなこと考えられるな」

 

「だって異世界だぞ! 人生最大のイベントじゃん!」

 

 山田は一度大きく息を吸い、空へ向かって叫んだ。

 

「ステータス!」

 

 雨音だけが聞こえた。

 

「……ステータス!」

 

 何も起こらない。

 

「メニュー! オープン!」

 

 空には灰色の雲が広がっているだけだった。

 

「お前、いい加減にしろよ」と井上。

 

「おかしいなあ……」

 

「おかしいのはお前だろ!」

 

 高橋も思わず笑ってしまった。ほんの少しだけ、いつもの教室のような空気が戻った。

 

 そのとき、岩盤の外側で兵士たちが動き始めた。

 

 雨の向こうから数人の男女が近づいてくる。全員が軍服姿で、その後ろには幌をかけた荷車があった。

 

 先頭を歩く小柄な女性が、岩盤の縁で手を振った。

 

「皆さーん! 聞こえますかー!」

 

 日本語だった。

 

 生徒たちが一斉に顔を上げた。

 

「日本人だ!」「助けて!」「ここどこなんですか!」「服をください!」

 

「はいはい! 気持ちはわかりますけど、まず落ち着いてください!」

 

 女性は両手を上げた。

 

「私は高梨梓といいます! 帝国軍の伍長で、皆さんと同じ日本から来た者です!」

 

「日本人なんですか!?」

 

「そうですよ!」

 

「じゃあ、ここ日本なんですか!?」

 

「いいえ。残念ですけど、日本ではありません」

 

 ざわめきが広がった。高梨は困ったように笑う。

 

「詳しい話は後でします! まず皆さん、寒いでしょう? タオルと履物を配ります!」

 

 その言葉に、安堵の声が上がった。

 

「石井軍曹、お願いします!」

 

「おう!」

 

 体格のよい男が返事をした。軍服は使い込まれていたが、立ち姿には隙がない。その隣に、若い女性が一人いた。日本人とは顔立ちが違うのに、高梨と流暢な日本語で話している。

 

「リース、そっちの荷車を頼む」

 

「はい!」

 

 リースと呼ばれた女性は兵士たちと一緒に荷車を押した。そこには大きな布の束と、簡素なサンダルが積んである。

 

「いいか!」と石井が声を張る。「まずタオルを受け取って身体に巻け! その後で履物を配る。慌てなくても全員分あるからな!」

 

 高橋も大きなバスタオルを受け取った。厚手で少しごわごわしているが、身体を覆うには十分だった。急いで巻きつけると、ようやく人心地がついた。

 

「はあ……助かった」

 

 川崎が大きく息を吐く。

 

「こんなにタオルがありがたいと思ったの、初めてだわ」

 

 井上も頷いた。

 

「でもさ」と山田。「最初からタオルを用意してるってことは、俺たちが来るのを知ってたんじゃないか?」

 

 高橋は考え込んだ。確かに、兵士も日本人の先輩らしい人々も驚いていない。こうした事態に慣れているようだった。

 

「……何回もあるのかもしれないな」

 

 石井たちは受け取った人数を確認していた。生徒と教師を合わせた今回の召喚者は二百名。配るタオルや履物も、最初からその規模を見込んで運び込まれていた。

 

 水野が高梨のところへ近づいた。

 

「すみません! 私はこの子たちの教師です。水野香織といいます!」

 

「あら、先生もいらっしゃったんですね」

 

「はい。あの、いったい何が起きたんですか? ここはどこなんでしょうか!」

 

 高梨は彼女の顔を見て少し眉を寄せた。

 

「先生、まずタオルを巻いてください。身体が冷えますよ。それと、目が悪いんですか?」

 

「はい。眼鏡もなくなってしまって……」

 

「そうですか。眼鏡の件も後で相談しましょう。私も高校生のときにこちらへ来たんです。もう三年前になりますけどね。詳しい事情は建物の中で説明します」

 

 水野は驚いて高梨を見つめた。もっとも、眼鏡のない彼女には相手の表情までよく見えていなかった。

 

 タオルとサンダルが行き渡ると、生徒たちは数十人ずつに分けられ、岩盤から移動を始めた。

 

 雨に濡れた石段は滑りやすい。石井が「ゆっくりでいいぞ! 押すな!」と声を張り上げる。周囲には排水溝が巡らされ、その外側には砂利道と有刺鉄線が続いていた。

 

「なあ、高橋。あの有刺鉄線、かなり本格的だぞ」と井上。

 

「だから何だよ」

 

「外から入れないようにしてるのか、中から出られないようにしてるのか、気になるな」

 

「……嫌なこと言うなよ」

 

 建物に近づくと、機械が低く唸る音が聞こえた。

 

「発電機かな」

 

「わかるの?」

 

「たぶん」

 

「お前、さっきからたぶんばっかりだな」

 

「仕方ないだろ。初めて見るものばっかりなんだから!」

 

 その横をリースが通りかかった。

 

「皆さん、こちらですよ。足元に気をつけてください」

 

 山田が手を上げた。

 

「お姉さんも日本人なんですか?」

 

「いいえ。私はアメリカ人です。日本の高校へ交換留学していたときに、こちらへ来ました」

 

 

「へえ! アメリカ人も召喚されるんですか?」

 

「私は日本にいたからでしょうね。ほかの国から直接来た人がいるかは、私も知りません」

 

 リースは少し笑った。

 

「私は第十九期です。皆さんより一年前に来ました」

 

「十九期?」

 

「はい。皆さんは第二十期になります」

 

 川崎が呟いた。

 

「……二十期ってことは、二十回もやってるのか?」

 

「そういうことなんだろうな」

 

 高橋も答えた。

 

 ますます、わからないことが増えていく。

 

 人数を数えていた石井と呼ばれた軍人に高梨が聞く

 

「何人だった?」

 

「全部で二百名、今年も丸々一学年分の人数だな、教師が一名含まれてる」

 

 兵舎は大きな平屋建ての建物だった。灰色の板張りの外壁に金属製の屋根。細長い窓が並び、入口には兵士が立っている。

 

「はい、皆さん、中へどうぞ!」

 

 高梨が先頭に立つ。

 

 建物の中は思ったより暖かかった。広い板張りの床に太い柱が等間隔に並ぶ。天井には電灯があり、奥には寝台が何列も置かれている。

 

「……電気あるんだ」と井上。

 

「そりゃあるんじゃないの?」

 

「いや、もっと昔の世界かと思ってた」

 

「お前も山田みたいになってきたな」

 

「違うって。文明の程度が気になるんだよ」

 

 石井が木箱の前に立った。

 

「お前ら、まず服を受け取れ。着替えたら温かい飲み物もあるからな」

 

「服あるんですか!」

 

 川崎が嬉しそうに聞いた。

 

「当たり前だろ。いつまでもタオル一枚でいられても困る。サイズは多少合わないかもしれないが、後で調整するから我慢してくれ」

 

 木箱には下着と上下の衣服が詰められていた。高橋が受け取ったのは生成り色の下着、灰色のシャツ、茶色っぽいズボンだった。生地は少し硬いが、しっかりしている。

 

「これ、制服じゃないんですか?」と井上。

 

「違う。とりあえずの普段着だ。軍服はまだ支給しない」

 

「軍服?」

 

「その話は後だ。まず着替えろ」

 

 兵舎の中央には、布を張った簡易的な仕切りが設けられていた。男子と女子で場所を分けて着替えるためのものだ。

 

「うわ、このズボンでかい!」

 

 川崎が腰の紐を引っ張った。

 

「ちゃんと結べよ。ずり落ちるぞ」

 

 高橋が笑った。

 

 山田はシャツを着ながら不満げに言った。

 

「異世界に来て最初の服がこれって、地味だよな。勇者の服とかないのかよ」

 

「あるわけねえだろ!」

 

 井上が突っ込んだ。

 

 そのとき、仕切りの反対側から水野の声がした。

 

「えーっと……これ、どっちが前なのかな?」

 

「先生、そっちが後ろです!」

 

「あ、そうなの? ありがとう!」

 

「先生、ちゃんと見てくださいよ!」

 

「だって眼鏡がないからよく見えなくて……」

 

 男子たちの間から笑い声が漏れた。

 

「水野ちゃん、相変わらずだな」と川崎。

 

「ほんとだな」

 

 ところが、仕切りの端の方へ顔を向ける男子が現れた。

 

「なあ、あっち見えるんじゃね?」

 

「お前、やめとけって」

 

「ちょっとだけ……」

 

 その瞬間、鋭い声が飛んだ。

 

「ちょっと! 男子!」

 

 伊藤千尋だった。

 

「こっち見るな、男子!」

 

 兵舎中に響く声に、男子たちが一斉に顔を背けた。

 

「み、見てないって!」

 

「嘘つきなさい! 今こっち覗こうとしてたでしょ!」

 

「いや、声が聞こえたから……」

 

「声が聞こえたら覗いていいわけ!? 女子だけじゃなくて、水野先生も着替えてるんだからね!」

 

「わ、私なら大丈夫よ、伊藤さん!」

 

 仕切りの向こうから水野が言った。

 

「先生も大丈夫じゃありません! こういうときはちゃんと怒らないと駄目です!」

 

「そ、そうね……」

 

 水野の少し情けない返事に女子生徒たちが笑い、男子側でも川崎が吹き出した。

 

「委員長、強えなあ」

 

「いつもどおりだな」

 

「川崎君! 聞こえてるわよ!」

 

「すみません!」

 

 川崎が反射的に頭を下げると、今度は男子たちが大笑いした。

 

 見知らぬ世界の軍隊施設。家に帰れるかどうかさえわからない。それでもこうして笑っていると、ほんの少しだけ元の教室に戻ったような気がした。

 

 だが、その空気を壊すように怒鳴り声が響いた。

 

「おい! 何だよ、この服!」

 

 佐々木健だった。配られた衣服を手に、係の兵士へ文句を言っている。

 

「こんなダセえ服着られるかよ!」

 

 隣の中村も笑う。

 

「ほんとだよな。囚人服みてえ」

 

「もっとまともな服持ってこいよ!」

 

 兵士は困惑したように何か答えた。当然、言葉は通じない。

 

「何言ってんだよ! 日本語喋れよ!」

 

「健、やめなって」

 

 加藤真由が止めたが、佐々木は聞かなかった。

 

「勝手に裸にしやがって、こんなところへ連れてきて!」

 

 佐々木は兵士の肩を突いた。

 

「おい」

 

 低い声がした。

 

 振り向くと、石井が立っていた。

 

「何やってる?」

 

「は? 文句言っちゃいけねえのかよ」

 

「服が気に入らないのか?」

 

「そうだよ。こんなダセえ服着られるかって言ってんだ」

 

「そうか。なら着なくていい」

 

「……は?」

 

「着たくなければ着るな。無理に着せるつもりはない。だが、係の兵士に手を出すな」

 

 石井の声は大きくなかった。むしろ、先ほどより静かだった。

 

「この兵士はお前らのために服を運んでいる。言葉が通じない相手に怒鳴って、肩を突いて、それで何が解決する?」

 

「うるせえな。俺たちは勝手に連れてこられたんだぞ!」

 

「それは知っている。俺もそうだったからな。だからといって、何をしてもいいわけじゃない」

 

 石井が一歩近づくと、佐々木は反射的に後ずさった。

 

「ここは学校じゃない。軍の施設だ。質問にも答えてやる。だが、係の人間に暴力を振るうことは許さん」

 

「……何だよ、脅しかよ」

 

「警告だ」

 

 その一言が妙に重かった。

 

「次に手を出したら、騒ぎが収まるまで別室で待機してもらう。大勢の中で暴れられると危険だからな」

 

 石井は中村にも目を向けた。

 

「お前もだ。面白がって煽るな」

 

「……はい」

 

 中村は思わず返事をしていた。佐々木も舌打ちはしたが、それ以上言い返さなかった。

 

 石井は係の兵士に短く声をかけ、生徒たちへ向き直った。

 

「ほかにも服が合わない奴はいるか? サイズが違うなら交換する。遠慮せず言え」

 

 何人かが手を挙げると、石井はいつもの口調に戻った。

 

「よし、順番に対応するからな」

 

 高橋はその様子を見ていた。昨日、佐々木に二千円を奪われたときのことを思い出す。いつも周囲を威圧している佐々木が、あれほど簡単に黙ったことに少し驚いた。

 

「……すげえな、あの人」と川崎。

 

「ああ」

 

「佐々木が何も言い返せなかったぞ」

 

「いかにも軍人って感じだな」

 

 井上も真面目な顔で頷いていた。

 

 着替えが終わると、生徒たちは長椅子に腰を下ろした。高梨たちが温かい飲み物を配っている。高橋が受け取った木製のコップには、薄い茶色の飲み物が入っていた。香ばしい匂いがして、一口飲むと温かさが身体に染み渡った。

 

「……生き返るな」と川崎。

 

「ほんとにな」

 

 屋根があり、服があり、温かい飲み物がある。それだけで、さっきまでの恐怖が少し遠のいたようだった。

 

 水野もようやく着替えを終え、生徒たちのところへ戻ってきた。配られた服は少し大きく、袖を折り返している。眼鏡がないため、近くの千尋がさりげなく付き添っていた。

 

「先生、大丈夫?」と高橋。

 

「うん。ありがとう、高橋君。眼鏡がないとこんなに不便だとは思わなかったわ」

 

「先生、俺の顔見えます?」

 

 川崎が手を振った。

 

「声で川崎君ってわかるわよ」

 

「何だ、見えてないんだ」

 

「もう、からかわないの!」

 

 そんなとき、兵舎の奥から声が響いた。

 

「おーい! 新入りの一年生はこっちに集まってくれ!」

 

 軍服を着た若い男が二人歩いてきた。一人はがっしりした体格。もう一人は少し細身で、落ち着いた雰囲気だった。

 

 岡田修平が突然立ち上がる。

 

「……木田先輩?」

 

 高橋も目を見開いた。昨日、学校の廊下で岡田に声をかけていたサッカー部の先輩。そして、その隣にいるもう一人は、今朝の全校集会で亡くなったと聞かされた生徒会長――篠沢遊馬だった。

 

「木田先輩!」

 

 岡田が駆け寄ると、木田は不思議そうな顔をした。

 

「ん? 俺のこと知ってるのか?」

 

「知ってるも何も、昨日も部活で一緒だったじゃないですか! 岡田修平です!」

 

「……岡田?」

 

 木田はしばらく考えてから、申し訳なさそうに頭をかいた。

 

「ごめん、お前のこと知らないんだわ」

 

「はあ!? 昨日だって練習で、今日は走り込みやるぞって言ってたじゃないですか!」

 

「俺が? ……へえ。俺、日本でもちゃんとサッカー続けてるんだな」

 

「何言ってるんですか、先輩!」

 

 岡田は完全に混乱していた。

 

 高橋が尋ねる。

 

「木田先輩、ですよね?」

 

「そうだよ。木田哲夫。今は帝国軍の兵士やってる。こっちに来て一年になる」

 

「一年?」と岡田。

 

「俺は第十九期の召喚者。去年の七月にここへ来たんだ。高校一年生のときにな。だから、お前のことは知らないんだよ」

 

「でも昨日……」

 

「その話は後で説明する。ちょっとややこしいんだ」

 

 そのとき、女子生徒の方から声が上がった。

 

「……篠沢先輩?」

 

 伊藤千尋だった。彼女は椅子から立ち上がり、細身の青年を見つめた。

 

「篠沢遊馬先輩……ですよね?」

 

「そうだけど。君も俺のこと知ってるの?」

 

「もちろんです! 先輩、生徒会長じゃないですか!」

 

「……え?」

 

 篠沢は目を丸くした。

 

「俺、生徒会長だって?」

 

「はい。本当です!」

 

 篠沢は木田を見た。

 

「おい、木田。聞いたか? 俺、生徒会長になったらしいぞ」

 

「へえ、すげえじゃん」

 

「いや、俺もびっくりしてるんだけど」

 

 木田が笑った。

 

「遊馬さん、生徒会入るのが日本にいた時の目標だったっていってましたよね」

 

「そうだけど、まさか会長になるとは思わなかったよ」

 

 千尋はますます混乱した。

 

「先輩……何を言ってるんですか?」

 

「ごめん。俺が日本にいたのは高校一年生のときまでなんだ。二年前にこっちに来たから、二年生や三年生になって何をしていたのか知らないんだよ」

 

「そんな……」

 

 千尋は何かを思い出したように表情を変えた。

 

「……篠沢先輩。お話ししなければならないことがあります」

 

「どうしたの?」

 

「今朝の全校集会で……先輩が亡くなったと聞きました」

 

 篠沢の笑顔が消えた。

 

「……え?」

 

「昨日の夕方、交通事故に遭われたそうです。校長先生から正式にお話がありました」

 

 周囲が静まり返った。

 

「……俺が、死んだの?」

 

「はい」

 

「交通事故?」

 

「そう聞いています」

 

 篠沢はしばらく天井を見上げた。

 

「……そっか。参ったな」

 

 木田が肩に手を置く。

 

「大丈夫か?」

 

「ああ。俺はここにいるからな」

 

 篠沢は少し無理をして笑い、千尋に向き直った。

 

「教えてくれてありがとう。でも変な気分だな。俺が死んだって聞かされるのは」

 

「すみません……」

 

「いや、謝らなくていいよ。知らないままでいるよりはよかったと思う」

 

 篠沢は小さく息を吐いた。

 

「……そうか。日本の俺は死んだのか」

 

 高橋は、その言葉に引っかかった。

 

 日本の俺。

 

 まるで自分とは別の人間のことを話しているようだった。

 

 木田が椅子を引き寄せた。

 

「さて、どう説明したもんかな」

 

「最初から話した方がいいんじゃないか?」と篠沢。

 

「そうだな」

 

 二人の周囲に生徒たちが集まった。水野も千尋に付き添われて近くへ来る。

 

「先生も聞いていいかしら?」

 

「もちろんです」

 

「水野香織といいます。この子たちの数学の教師です」

 

「よろしくお願いします」

 

 篠沢は丁寧に頭を下げた。

 

 千尋が尋ねる。

 

「最初から説明してください。私たち、何が起きたのか本当にわからないんです」

 

「うん。まず、ここは日本じゃない。地球でもないんだ。帝国という国の、ベルノ伯爵領という地方なんだよ」

 

「……異世界?」と山田。

 

「そう呼んでもいいと思う」

 

「やっぱり!」

 

 山田が拳を握ると、井上が肩を叩いた。

 

「ちょっと静かにしてろ」

 

「はい……」

 

 篠沢は続けた。

 

「俺たちみたいに突然日本から現れる人間を、こっちでは召喚者と呼んでる。俺は十八期、木田は十九期。君たちは二十期になる」

 

「毎年あるんですか?」と水野。

 

「はい。ただ、どうして起きるのかはわかっていません」

 

「じゃあ、帰る方法は……」

 

 篠沢は首を振った。

 

「残念ながら、見つかっていません」

 

 帰れない。生徒たちの間に落胆が広がった。泣き出した女子生徒の肩を、水野がそっと抱く。

 

「でも」と千尋。「先輩は二年前からこちらにいるんですよね。それなのに日本では昨日まで普通に学校にいました。どうしてそんなことが?」

 

「それが今から話すことなんだ」

 

 木田が岡田を指差した。

 

「例えばそこの岡田。お前、昨日、俺とサッカーやったんだろ?」

 

「はい」

 

「でも俺は昨日ここにいた。砲兵の訓練をしてたんだ。一年前から、ずっとこっちにいる」

 

「……はい」

 

「つまり日本にも俺がいるんだよ。同じ顔、同じ名前、同じ記憶を持っていた人間がな」

 

「……コピー?」

 

 千尋の声に、篠沢が頷いた。

 

「俺たちは、そう考えてる。召喚された時点の人間が、記憶も身体も含めて複製されたんじゃないかって。最初は誰も気づかなかったけど、後から来る人たちの話を聞いて、少しずつわかってきた」

 

「そんなこと、できるんですか?」

 

「わからない。仕組みも原因も不明だよ。でも、起きていることを説明するにはそれが一番自然なんだ。ちなみに一度コピーされた人間はここにはこない」

 

 木田が肩をすくめた。

 

「こっちに来た奴が日本では普通に暮らしてる。逆に、こっちで戦死した奴が日本では生きてる。それを何年も聞かされれば、そう考えるしかないだろ」

 

「戦死……?」

 

 井上が反応した。

 

 木田は少し言いよどんだ。

 

「……まあ、ここは戦争してる国だからな」

 

 兵舎、軍服、銃、有刺鉄線。高橋の頭の中で、それらが少しずつつながり始めた。

 

「……じゃあ、俺も?」と高橋。

 

「たぶんね」と篠沢。

 

「今、日本にはもう一人の俺がいるんですか?」

 

「その可能性が非常に高い」

 

「……じゃあ、家族は? 俺がいなくなったこと、知らないんですか?」

 

 篠沢は少し表情を和らげた。

 

「たぶんね。日本の君は普通に生活しているはずだから」

 

 高橋は小さく息を吐いた。少なくとも両親や妹が、行方不明になった自分を探し回ってはいないのだろう。だが、日本にいる自分だけが家族と暮らし、こちらの自分は二度と帰れないかもしれない。

 

「……変な話だな」

 

 川崎も頷いた。

 

「ほんとにな」

 

 千尋が改めて篠沢へ尋ねた。

 

「では先輩が日本で亡くなったことも、こっちにいる先輩とは別の出来事なんですね?」

 

「そう。俺は今日も普通に仕事をしてた。そこへ二年前まで通っていた学校の後輩が現れて、俺が生徒会長になったって教えてくれた。死んだともね」

 

 篠沢は少し笑った。千尋は俯いた。

 

「教えてくれてありがとう。日本で起きたことを、俺はもう自分で知ることができないから」

 

 その言葉が、高橋の胸に残った。

 

 しばらくして水野が尋ねた。

 

「私たちは、これからどうなるんでしょうか?」

 

 木田と篠沢は顔を見合わせた。

 

「そこは責任者から説明してもらった方がいいと思います」

 

「日本人ですか?」

 

「いいえ、こちらの人です。でも親切な方ですよ」

 

 山田が勢いよく手を挙げた。

 

「質問! 魔法とかあるんですか!」

 

 木田は目を丸くし、そして大声で笑った。

 

「ははは! 何だよそれ!」

 

「火の魔法とか回復魔法とか! スキルとかレベルとか!」

 

「ないない。そんなもん見たことねえよ」

 

「ええっ!? ステータス画面も?」

 

「何だそりゃ」

 

 井上が横から口を挟んだ。

 

「こいつ、雨の中でずっとステータスって叫んでたんですよ」

 

「おい、言うなよ!」

 

 木田は腹を抱えて笑った。

 

「お前、面白いなあ!」

 

 篠沢も笑いながら答える。

 

「残念だけど、俺たちも普通に訓練して普通に働いてるだけだから」

 

 山田はがっくりと肩を落とした。

 

「……夢がないなあ」

 

 そこへ高梨が戻ってきた。

 

「皆さーん、そろそろ正式な説明を始めますね。責任者の方が来られますから、静かに聞いてください」

 

 兵舎の扉が開いた。

 

 最初に軍服姿の兵士二人が入り、その後ろから一人の女性が姿を現した。

 

 高橋は思わず目を奪われた。

 

 背が高い。百七十五センチほどはあるだろう。すらりとした細身の体型で、背筋が真っ直ぐに伸びている。歩き方にも無駄がない。艶やかな黒髪は腰のあたりまで伸び、よく整えられた軍服には肩章と徽章が並んでいた。

 

 そして、驚くほど整った顔立ち。高い鼻筋に形のよい眉、切れ長の目には鮮やかな赤い瞳が収まっている。穏やかな表情の奥には、近寄りがたい気品もあった。

 

 何より、その耳だった。人間の耳よりも明らかに長く、先端がすっと尖っている。

 

「……すごい美人だな」

 

 高橋が呟くと、川崎も頷いた。

 

「……うん」

 

 井上は別のところを見ていた。

 

「耳、尖ってるな」

 

 山田が完全に固まっている。

 

「……エルフ」

 

「何?」

 

「エルフだ……」

 

 次の瞬間、山田は椅子から立ち上がった。

 

「本物のエルフだあっ!」

 

 兵舎中に声が響いた。軍服姿の女性も、少し驚いたように足を止めた。

 

「おい、山田!」

 

 井上が慌てて腕を引く。

 

「座れって!」

 

「いや、無理だろ! 本物だぞ! 本物のエルフ! あの耳! あの顔! すげえ美人じゃん!」

 

「わかったから!」

 

「異世界に来てよかった……」

 

「お前、さっきまで魔法がないって落ち込んでただろ!」

 

「そんなのどうでもいい!」

 

「どうでもいいのかよ!」

 

 周囲から笑いが起こる。高橋も笑ったが、山田の気持ちも少しわかった。目の前の女性は、明らかに地球の人間とは違っていた。

 

 高梨が前へ出た。

 

「はい、皆さん静かにしてください!」

 

 女性は穏やかに生徒たちを見渡し、聞き慣れない言葉で話し始めた。高橋には一言も理解できなかったが、落ち着いた、よく通る声だった。

 

 高梨が一文ずつ日本語に訳していく。

 

「皆さん、初めまして。私はアウレリア・アル・エルディア。帝国軍大尉であり、今回の召喚者受け入れ責任者を務めています」

 

 アウレリアは小さく頭を下げた。

 

「まず、皆さんが突然見知らぬ場所に現れ、大きな不安を感じていることは理解しています。皆さんは自ら望んでここへ来たわけではありません。帝国もまた、この現象の原因を完全には解明できていません」

 

 生徒たちは静かに聞いていた。

 

「皆さんが日本と呼ぶ国へ戻る方法についても、現在のところわかっていません。この点について、皆さんにお約束できることはありません」

 

 小さなざわめきが起こった。帰れない。先ほど篠沢たちから聞いてはいたが、責任者に改めて言われると重かった。

 

「しかし、皆さんがこの世界に現れた以上、帝国には皆さんを保護する責任があると考えています。帝国は皆さんを奴隷や所有物として扱うことはありません。皆さんには、帝国法で認められた自由民としての身分が与えられます」

 

「自由民……?」

 

 千尋が小さく呟いた。

 

「自由民は法律に基づく権利と保護を受けます。住居、食事、衣服については当面帝国が用意します。また、皆さんが帝国の言葉を知らないことも承知しています。必要な教育を受けていただきます」

 

 水野が手を挙げた。

 

「あの、私はこの子たちの教師です。みんなまだ十五歳か十六歳なんです。日本ではまだ子供です。どうか、この子たちを守っていただけないでしょうか」

 

 高梨が通訳すると、アウレリアは静かに頷いた。

 

「先生のお気持ちは理解します。ただし、帝国において皆さんは成人として扱われます。自らの権利を持ち、自らの行動に責任を負う立場となります」

 

「成人……?」

 

 水野が驚く。

 

「帝国は皆さんを、保護を必要とする異邦人として受け入れます。しかし同時に、帝国の社会で生きる一人の自由民として扱います」

 

 水野は黙った。日本では保護される側だった高校一年生たちが、ここでは成人とされる。簡単に受け入れられる話ではなかった。

 

「もちろん、何も知らない皆さんに今すぐすべての責任を負わせるつもりはありません。まずは言葉を学び、制度を理解していただきます」

 

「……ありがとうございます」

 

 水野は小さく頭を下げた。

 

 今度は千尋が手を挙げた。

 

「私たちは、これからずっとここで暮らすことになるんでしょうか?」

 

「現在のところ、日本への帰還方法は存在しないものとして考えていただく必要があります。ただし皆さんの今後の生活については、帝国法に基づき可能な限り配慮します」

 

 千尋は静かに座った。

 

 アウレリアは最後に、生徒たち全員を見渡した。

 

「帝国は現在、長い戦争の中にあります。帝国に暮らす者には権利とともに義務もあります。その詳細については、これから順番に説明いたします」

 

 戦争。

 

 高橋はその言葉に反応した。井上も真顔になり、山田もようやくエルフの美しさに興奮している場合ではなくなったようだった。

 

「皆さんにとって、この世界は見知らぬ土地でしょう。言葉も習慣も法律も違います。しかし帝国は皆さんを迎え入れます。衣食住を保障し、教育を行い、帝国の社会で生きていくための支援をいたします」

 

 アウレリアは静かに一礼した。

 

「帝国を代表し、皆さんを歓迎いたします」

 

 高梨が最後の言葉を訳した。

 

 誰も拍手しなかった。歓迎すると言われても、どう反応すればいいのかわからなかった。

 

「……なあ、高橋」

 

「何?」

 

「俺たち、これからどうなるんだろうな」

 

 川崎の問いに、高橋は答えられなかった。

 

「……わかんないよ」

 

 窓の外では、まだ雨が降り続いていた。

 

 昨日までは夏休みのことしか考えていなかった。全校集会が終われば家に帰り、ゲームでもして過ごすつもりだった。

 

 そんな何でもない予定が、今では遠い昔のことのように思えた。

 

 高橋亘一の、帝国での最初の一日。

 

 それは、まだ始まったばかりだった。

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